夜の工房で成形作業

1週間に2回の焼成を行っている現状では、水曜日に窯の出し入れをしています。水曜日だけは窯の稼働を一旦止めているので、工房の照明等が使えるのです。昨日は工房で創作活動をしている若いアーティストが、自らの課題に向き合ったりしていました。私も仕事帰りに工房に立ち寄れるのは水曜日だけなので、昨日も夜になって工房に行きました。その時間帯は若いアーティストが帰った後で、工房では私だけの時間を過ごしました。現在は新作の屏風に接合する陶彫部品を作っている最中で、どちらかと言えば小さめの陶彫部品になりますが、サイズに関わらず手間が結構かかります。ウィークディの夜に成形作業をするのは、小さめの陶彫部品の方がやり易いかなぁと考えています。おまけに照明の下は集中力が増すため、手間もたいして苦にならないのです。気候的にもやや寒い状態は作業が捗り、この時期に制作工程を可能な限り先に進めたいと思っています。夜の工房は深閑とした雰囲気で、自宅に帰って気が緩んでいたとしても、一旦工房に足を踏み入れると俄かに緊張してきます。創作活動を司る魔物が棲んでいるような気配さえ感じます。こうした空間を持てる幸運を私は常に噛みしめていて、昔から望んでいたことが実現できている喜びに浸っています。この環境をフルに使わないと罰が当たると自覚しているので、時間が許す限りウィークディも工房に通いたいと思っています。

「”黒い聖母”と巡礼」について

「呪術としてのデザインー芸術民俗学の旅」(中嶋斉著 彩流社)の第1章の2「”黒い聖母”と巡礼」についてのまとめを行います。私は20代の頃、ヨーロッパ滞在中に黒い顔をした聖母像を何度か見たことがあります。その頃はキリスト教に拘りを持っていなかったので、黒人のような聖母に何の疑問も持たず見過ごしていました。「スペインや地中海世界には古くから地母神信仰が厚く、それがマリア像にうつされているといわれ、その後サンチャゴ巡礼の道で時にふれて拝する教会に保存されているのも、そうした土俗的な親しみにみちた、日本の子育観音像といった様子であった。~略~ヨーロッパという元来農耕を主とする生活の中にキリスト教が定着するためには、そうした先行の土俗信仰や、それにまつわる祝祭にも寛容でなければならない。そのためにはそれらを巧みに教会暦の中にとりこみ、組みかえ、その意義もまた変えていく努力が払われなければならなかった。私たちが教会堂で『黒い聖母』に出あうのも、やはりそうした信仰の混ざりあう歴史の重層性を物語っており、その興味をつのらせるのである。」黒い聖母について柳宗玄がその著書「黒い聖母」(福武書店)で語っている部分が掲載されていました。「それらは大地と結びつけられる古代の母神(地母神)の流れに聖母が位置することを示すものである。とくにローマ治下のガリア人のマーテル神(豊穣の母神)がキリスト教時代に聖母と混同されたのではないかといわれる。しかもこれらの母神は時代と共に黒ずんでいたので、それが『黒い聖母』のもとをなした可能性が指摘されている。」本章は井泉信仰についても述べられています。「水の信仰がキリスト教に流れこんでいったとき、旧約の『詩篇』には、神の恵みをたたえ、『いのちの泉はあなたにあり、私たちは、あなたの光のうちに光を見る』といった表現が見られ、新約の『黙示録』では、『お使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と子羊との御座から出て、都の通りの中央を流れていた』といったように、生命の泉を水に求めている。」最後に我が国に触れた箇所もありました。「たしかに信仰対象の創造は、それぞれの風土が秘める歴史につながっていて、たとえばマリアの信仰がはるばる海を渡って日本に伝わってきたとき、隠れキリシタンたちは観音菩薩の姿の中にマリアを匿して崇拝していた。いうまでもなく観音もマリアも水の神であって、通称マリア灯籠(織部灯籠)にも見られる両者の結びつきなどは極めて自然な着想である。」

Exhibitionに2019年個展をアップ

2019年7月の個展の画像を、私のホームページのExhibitionにアップしました。会場風景の画像は毎年懇意にしているカメラマンに撮影していただいて、それをホームページに使っているのです。画像で見ると「発掘~双景~」はどっしりとした印象で、大地に根付いた造形に見えます。逆に「発掘~曲景~」はテーブル彫刻という効果もあって、フワっとした印象です。ギャラリーせいほうは白い壁が美しく、また空間が広いので作品が映えます。図録撮影のために野外工房や室内工房で組立てた「発掘~双景~」や「発掘~曲景~」と、ギャラリーで見る作品がまるで別作品のように違って見えるのが不思議です。彫刻は置かれる場所によって作品が変わると言っても過言ではありません。そういう意味でギャラリーせいほうは絶好の空間を有する画廊なのです。今まで14回も個展が開催できたことを、私は幸せに思っています。画廊主の田中さんの企画許可もさることながら、まず自分自身が健康でないと継続は難しいからです。加えて意欲の継続も問題です。どこで意欲が絶えるのか、自分では今のところ分かりません。私は個展開催中も休まず新作に取り組んでいて、個展が一区切りにはなっていないのです。個展が終わって、さてどうしようかという発想が私にはありません。6月の図録撮影が終わると、すぐに次の作品に取り掛かるのです。習慣になっていると言えばその通りですが、横浜市公務員管理職との二足の草鞋生活も、自分の創作活動の中に組み込まれていて、この調子でいけば来年も大丈夫かなぁと思っています。私のホームページに入るのは左上にある本サイトをクリックしてください。ホームページの扉にExhibitionが出てきますので、そこをクリックすれば2019年個展の画像を見ることが出来ます。画像は動画でもご覧いただけます。ご高覧くだされば幸いです。

上野の「ゴッホ展」

昨日、東京上野の上野の森美術館で開催されている「ゴッホ展」に行ってきました。日曜日の午後で、しかも人気のある画家だったためか会場内は大変混雑していて、私は鑑賞者の間隙を縫ってゴッホを始めとするハーグ派や印象派の代表的な画家の作品を堪能してきました。フィンセント・ファン・ゴッホは、私にとって旧知の作品が多く感動も少ないのではないかと思い込んでいましたが、改めて今回来日していた「糸杉」はその激しい筆致に込められた思いに、新たな感動が呼び覚まされました。ゴッホは弟宛ての手紙の中で「輪郭や比率などはエジプトのオベリスクのように美しい。」と糸杉の印象を述べていて、画面全体がうねるような強烈な筆致で覆われていました。ここまで辿りつくまでのゴッホの絵画遍歴を図録から拾ってみたいと思います。ゴッホは初期の重要な時期にハーグ派と称される農民画家たちに影響を受けました。「漁民や農民の生活やその情景を描く現実に即したハーグ派の主題は、自由な筆致で描かれた。その筆致はしばしば、細部の描写というよりも鑑賞者の想像を促すようなものであったため、彼らの絵はスケッチのように見られることもある。ハーグ派の画家たちが目指したのは、緻密で逸話的な絵画を描くことではなく、その場面全体がもつ印象や雰囲気をとらえることだった。」その頃のゴッホの骨太なデッサンに高校生だった私は感銘を受けた記憶があります。そこから目が眩む色彩を放つ印象派へ転換をするゴッホに訪れた機会は、弟テオが関わりを持っていたようです。「画商として、また印象派の熱心な支持者として、テオが重要な役割を果たしてくれたおかげで、ファン・ゴッホは印象派の作品を容易に見ることができたうえ、画家たちに直接会うこともできた。~略~印象派の作品を見たり、また彼らと会話したりするなかでファン・ゴッホが学んだのは、色の使い方であった。それは無作為ではない、色彩理論に基づくものであった。」今回の展覧会はハーグ派と印象派の2つのグループに部屋が分かれていました。いずれもゴッホの作品は特徴をよく表していて、ゴッホの絵画遍歴が伝わりました。「技法や色彩は劇的に変化したものの、ファン・ゴッホが好んだ主題はオランダにいた頃からほとんど変わらなかった。風景や農民といった主題は、彼にとって故郷と自分を結びつけるものであり続けたのだ。生涯を通じて、ファン・ゴッホはハーグ派と印象派を中心とする多くの画家たちから影響を受けた。」(引用は全てベンノ・テンペル著)

週末 久しぶりに東京の美術館に…

大学の先輩で銅版画をやっている人が、東京銀座で個展をやっています。その人の娘さんが漆工芸をやっていて、彼女も東京銀座の別の画廊で個展をやっています。親子とも同じ時期に個展を開催しているので、週末を利用して見てきました。大学の先輩はエッチング技法を使い、木々の伸びていく細密な枝の描写や木肌の表情、また植物が縦横に絡まる世界をモノクロで表現している人です。今回の新作は植物的な世界に加え、年輪とも取れる円環が配置され、濃密で充実した世界が現出していました。エッチングの深みと拡張する可能性を、私はこの先輩から教わったと思っています。その人の娘さんは大学を出た後、岡山県に行き、そこで漆工芸をやっていて、今回が東京での初めての個展になるようです。乾漆技法で作られた身近な動物の数々は、まさに写実性に富んだ超絶技巧とも言える立体で、部分的に漆が塗られていました。岡山県ではワイン農家を手伝いながら漆工芸をやっているそうで、彼女の今後の活躍に期待したいところです。今日は私は朝から東京に来ていて、美術の鑑賞に勤しんでいました。東京上野にある上野の森美術館にも足を運びました。ここで「ゴッホ展」を開催しているので、先輩の個展に行くついでに見てきましたが、日本人はゴッホが大好きなようで大変混雑していました。フィンセント・ファン・ゴッホはオランダ生まれで後期印象派を代表する画家です。37年の短い生涯にエピソードも多く映画化もされています。私は美術の知識がなかった中学校1年生の時に、ゴッホの存在を知りました。美術の授業で校舎内外の風景を水彩で描く課題があって、私は中学校の正門近くにあった樹木を絵の具を何度も塗り重ねて描いていました。そこに美術科の女性教師が巡回してきて、「ゴッホのようね。」と言われました。この時初めてゴッホという画家を知ったのでした。当時はネットもなく、中学校入学祝に母が買ってくれた百科事典やら学校の図書館でゴッホのことを調べました。ゴッホは私にとって最もポピュラーな画家になったのでした。「ゴッホ展」についての詳しい感想は後日に改めます。東京から自宅に帰って、夕方工房に行きました。彫り込み加飾を2時間ほどやって、昨日窯入れしておいた作品を確認し、窯のスイッチを入れました。これは水曜日に窯から出す予定です。

週末 自宅外壁工事&陶彫制作

台風19号の影響で雨樋が壊れ、また雨漏りがあったために先月中旬ごろに施工業者と打ち合わせを行いました。先週から自宅は足場の鉄骨で覆われています。今日はベランダの修繕塗装をするために自宅に入らせてほしいと施工業者から申し出があったために、私は工房へは行かず自宅で待機していましたが、雨のために施工業者は来ませんでした。今日は結局工房に行くことになりましたが、私にとって自宅でじっとしているより、工房に行って少しでも新作を先に進める方が良いのです。自宅は台風の被害に遭ったものの、築30年の間に一度もメンテナンスをしていなかったので、被害で損壊したものとは別に、全体の外壁を塗りなおす工事をすることにしました。被害損壊はひょっとして災害保険で賄えるとして、外壁工事は持ち出しになるため、私がまだ現職のうちに行った方が良いのではないかと判断したのでした。外壁が終わったら次の段階として断捨離を含めて内装をリフォームする予定ですが、果たしてどうなるのでしょうか。今日は寒々とした一日で、終日雨が降っていました。工房には染織で表現活動をしている若いアーティストがやってきていました。彼女のドローイングは細密で独特な雰囲気があって私は刺激されます。私も彫り込み加飾1点と仕上げと化粧掛け4点を一気に行い、4点のうち2点を窯に入れました。実際の焼成は明日の夕方から始めますが、来週も2回の焼成を行います。明日は東京の美術展に久しぶりに行ってみようと思っているので、新たな成形はやめました。順調に回っていた制作サイクルがちょっと緩みますが、鑑賞も大切なことなので、明日は先輩画家の個展やら美術館に出かけることにしました。

「マン島のクロス」について

「呪術としてのデザインー芸術民俗学の旅」(中嶋斉著 彩流社)の第1章の1「マン島のクロス」についてのまとめを行います。職場の私の部屋に本書を暫く置いていたのですが、「モディリアーニ」を読み終えた後、鞄に携帯するようになりました。職場にあってもなかなか読める機会が少なく、通勤中の方が読書に向いていると思ったのです。本書で最初に取り上げられていたのがアイルランドやスコットランドに残るケルト文化に関するもので、実は最近になって私は大変な関心を寄せています。ケルト高十字架や石碑(クロス)の図版を見て、私はこの地を訪ねたい欲求に駆られました。マン島は英国とアイルランドの間にある島で、ヴァイキングの遺跡の宝庫だそうですが、素朴なケルト文化も残っています。「現在この丘(ティンワルド)には新しいケルト高十字架が立っている。頭部の十字を円環でつなぐ車輪十字のそれである。しかしマン島には高十字架よりも、聖地や墓所にたてられていた特異なクロスが残っていて、素朴な時代の信仰のあとを刻んでいる。」クロスに刻まれた文様で私が興味を持ったのは組紐文様です。「ここで最も注目をひく特徴は、組紐文様の多様さであり、また綿密で精巧なことであろう。人物や動物の描写よりも、三つ編みに仕上げ、また長く輪をつなぎあわせて、それらの文様が石碑の表面を覆いつくすのである。」ケルト文化がキリスト教と同化し、ケルト系修道士が広めた宗教組織の中で、マン島のそれは純朴さを残したものであったことが最後に語られていました。「見上げるようなアイルランドの高十字架が、体系と組織をもった宗教のシンボルであるのに比して、マン島のクロスはしみじみとした人性のそれのように見える。キリスト教が華々しい西欧文化の先導者としてヒューマニズムに踏みこんでいくとき、アニミズムは常に決断を躊躇しながら、その深い情念の故に、宗教よりも限りなく芸術に近づいていく、マン島のクロスは、そうした心の象徴であるように思えるのである。」

ウィークディ夜の窯の出し入れ

昨晩、仕事帰りに工房に立ち寄りました。工房にある窯に陶彫部品を入れたのが日曜日の夕方だったので、水曜日には温度が下降し、窯の出し入れが出来ると判断しました。水曜日の夜に次の窯入れをすると、土曜日には窯出しが出来ます。1週間のうちに2回の焼成を行うことが可能で、そうなれば週末は焼成をしていない期間になり、陶彫制作を行うことが出来るのです。これは工房の電気の関係で、窯を稼働している時は照明等のブレーカーを落として、電気が窯だけに流れるようにしておく必要があるためで、これはウィークディには陶彫制作をしないことを前提にしています。私がウィークディの昼間は公務員として仕事をしているために、こうした処置は理に適っていると思っています。焼成準備をするために週末は窯2回分の仕上げと化粧掛けをしなければならず、新しい陶彫制作と合わせて焼成準備のために時間を使わなければなりません。陶彫制作だけやっている今までもかなり厳しい制作内容になっているにも関わらず、これからの週末は窯入れも考えて、さらに時間的には切迫した厳しい作業になると思っています。ただし、窯入れするには完全に乾燥した陶彫部品を選んでいくので、週2回の焼成は長くは続きません。焼成が途切れた時がウィークディの夜間制作が可能な時なのです。今まで幾度となく言ってきたように陶彫の醍醐味は焼成にあります。窯を開けた時、目に飛び込んでくる作品は焼き締められて石化したモノで、炎神に洗礼を受けた勇姿がそこにあります。私が窯に入れる前に作っていたモノとは別のモノが存在しているといっても過言ではありません。昨晩もそんな印象を持ちました。自作に感動するのは他の鑑賞者ではなく、まずは窯出しをする作者自身なのです。

「モディリアーニ 夢を守りつづけたボヘミアン」読後感

「モディリアーニ 夢を守りつづけたボヘミアン」(ジューン・ローズ著 宮下規久朗・橋本啓子訳 西村書店)を読み終えました。ボヘミアンとしての芸術家の代名詞ともなっているモディリアーニ。確かに物語として脚色するのに事欠かないエピソードがあって、斬新な絵画だけではなく、モディリアーニその人にも注目される要素が満載です。私は前から縦長の首の彫刻に惹かれてきましたが、健康が芳しくない中で石彫を諦めざるを得なかったモディリアーニの生涯が本書によって分かったように思います。「モディリアーニは生涯を通じて懸命に目的をもって制作したが、脆弱で、成功せず、評価もされなかった。彼は女性を愛し、女性に愛された。酒を飲み、麻薬に手をつけた。しかし、それは彼の人間を決定するわけではない。また、彼の作品、特に、官能的なヌードは別にして、曖昧な背景をもつ室内の単身像にほぼ作品が限定されて以降の作品が、一貫して高い密度を保っていたことも、それでは説明できない。彼は作品の中で、時代の潮流に背を向け、流れるような独創的な線描を用いて、過去のさまざまな芸術の中から自分の様式を発見した。」著者であるジューン・ローズが綴ったこの文章にモディリアーニの芸術が凝縮されているように思います。翻訳の担当者があとがきで述べている文章で「モディリアーニ 夢を守りつづけたボヘミアン」を締め括りたいと思います。「英雄でもならず者でもない、矛盾に満ちた一人の繊細で純粋な男の生きざまと、それをいろどる人間模様のあやが、当時のパリの時代相の中できわめてリアルに塑形されているのである。悲劇の天才芸術家というより、俗なる『ボヘミアン』としての人間モディリアーニの伝記の決定版といっても過言ではないだろう。」(宮下規久朗著)

「モディリアーニ」第10章のまとめ

「モディリアーニ 夢を守りつづけたボヘミアン」(ジューン・ローズ著 宮下規久朗・橋本啓子訳 西村書店)の第10章「モディリアーニ神話とその後」のまとめを行います。享年35歳で世を去った天才画家、妊娠中の妻も飛び降り自殺をしたことで、モディリアーニはその衝撃性ゆえにさまざまな伝説が生まれ、物語化、映画化をされてきました。「モディリアーニは自由放縦に生き、亡くなるとすぐに友人や同時代の人々はその喪失を実感し始めた。向こうみずで美しく、傲慢不遜で貧しい彼はその短い生涯のうちに時代の理想と成果を集約していた。~略~『セックスに耽溺し、酒浸りで、不道徳で、危険な魅力にきらめいている存在として画家たちのことを表現するのがはやった』頃には、この街の作家やレストランの主人たちはモディリアーニの神話と魔力を風化させないでおく必要性を感じた。彼らはモディリアーニについての誤った風説によって豊かになり、モンパルナスはヨーロッパの中心的な観光地に発展していった。」私は40年前の20代の時にパリを訪れていました。モンパルナスという地名や「エコール・ド・パリ」という名で集まった画家たちの足跡を辿っていました。その頃は既に観光地になった場所で、土産用の絵を売る人たちが野外に出店していて、とりわけ興味を引くものがありませんでしたが、時代を遡れば前衛芸術家と称された彼らが、そこで必死に足掻いて生きていたことに、私は敬意を払ったことを思い出しました。モディリアーニについての誤った風説が罷り通っていたにしても、モンパルナスは観光客を引きつける魅惑的な土地になったことは確かでした。モディリアーニと妻ジャンヌの葬儀に触れた箇所に注目しました。「兄のエマヌエーレはリヴォルノから『彼を花で包んでください』と電報を打った。そしてモディリアーニの柩は彼の愛したみずみずしい花でいっぱいにされた。~略~ジャンヌはモディリアーニの葬式の前日に自殺し、友人たちは合同葬儀を望んだが、ジャンヌの父親はこの提案に恐れをなした。彼女の葬式はモディリアーニの葬式の翌日、注目を避けるために朝の8時にとり行われ、ジャンヌの友人たちにはこないでくれと頼まれた。『十分なスキャンダルだったのです』」モディリアーニと妻ジャンヌが同じ墓地に眠るようになるのには、それから10年という歳月が必要だったのでした。

「モディリアーニ」第9章のまとめ

「モディリアーニ 夢を守りつづけたボヘミアン」(ジューン・ローズ著 宮下規久朗・橋本啓子訳 西村書店)の第9章「戦後のパリ、最後の制作活動」のまとめを行います。夭折で逸話の多い画家モディリアーニは、いよいよ短い生涯の終盤に差し掛かってきました。この章の内容によってさまざまな憶測が飛び交い、やがて伝説が生まれたのだろうと察します。酒や麻薬に溺れた天才は、1920年1月24日35歳でこの世を去りました。その時、妻ジャンヌは妊娠9ヶ月で幼い女の子がいました。「彼はほんの少ししか食べず、酒が飲みたいといった。ズボロフスキーやほかの者が、医者に行くように懇願しても、『説教はごめんだ』というありさまだった。モディリアーニは何が何でも自分の病気を無視しようとし、ジャンヌですら彼にたてつくことはできなかった。~略~三日間の間、モンパルナスはモディリアーニの重病の話で持ちきりになった。元気で快活だった頃の彼を知る若い女の子たちは、彼が不治の病を患っていることが信じられなかった。~略~二日後の1月24日土曜日、午後8時50分、モディリアーニは結核性髄膜炎のため死亡した。彼は長い間その病気におかされていたが、医者はその兆候を見逃したのだった。残された数々の逸話には多くの矛盾する点があるとはいえ、この点に関してはどの逸話も一致している。」モディリアーニの事件はここで終わらず、さらに衝撃的なことがありました。「疲れ果て、悲しみと心細さで半ば気が狂っていたジャンヌは、ついに昔の彼女の部屋で横たわっていた。彼女が家を出てから2年半しか経過していなかったが、その期間は人の一生であるほど長く感じられた。彼女が何を考えていたか定かでないが、周囲の人間たちがことばの端々にモディリアーニへの非難の意をほのめかすことには決して耐えられなかったはずである。~略~夜明けに兄がうとうとし始めると、ジャンヌは午前4時に6階の窓を開けて、そこから飛びおりた。彼女の父と兄は、そのばらばらになった小さな遺体を彼女の母に見せまいとして、遺体を馬車でグランド・ショミエールのモディリアーニのアトリエに運んだ。」モディリアーニが亡くなった2日後のことでした。こうしたことがあってモディリアーニの生涯が伝説化されたものと考えられます。最終章はモディリアーニ没後のさまざまなことを扱っています。

週末 屏風に接合する陶彫制作開始

私が作る屏風と言っても、従来の日本画のそれとは異なり、角度のついた厚板材に陶彫部品が接合されたもので、言うなればレリーフを折り曲げて展示する立体作品です。私の陶彫表現のデビュー作が「発掘~鳥瞰~」で、屏風になったレリーフでした。その後も再三屏風に仕立てた立体作品を作ってきました。新作も幾度目かの屏風作品で、その厚板に接合する陶彫部品をどうするか、漸く考えがまとまってきました。床を這う根の陶彫部品が、床から立ち上がって壁を伝わっていく様子を、床と壁で連続して表現したいと考えていて、屏風に接合する陶彫部品を今日から作り始めました。実は新作の最初の陶彫試作品が、屏風に接合する陶彫部品だったのですが、これはイメージが固まる前の実験だったわけで、意図して作り始めるのは今日が最初なのです。試作品とは作り方を変えていて、根の陶彫部品を応用して自由にカタチを変形出来るようにしました。壁にボルトナットで接合するために蒲鉾型の陶彫部品の脇に穴を開け、そこからボルトを締められるようにもしました。屏風には矩形の窓を開けるため縦横に線を引いていますが、接合する陶彫部品によって、その窓を取捨選択して陶彫部品と適合させたり、対峙させたりするために、もう一度総合的なデザインをしなければなりません。窓を開けるための厚板への彫り込みは、さらに少し先になりそうです。これから先は屏風に接合する陶彫制作に専念する必要がありそうで、今月の制作目標としては、まず屏風をどうデザインしていくのかを決めていくことになります。今日も秋晴れの一日で、創作活動をやるのに適した気温になりました。工房には若いスタッフが一人やってきて、自分の課題に向き合っていました。誰か工房にいてくれる方が、私も張り合いがあって頑張れるなぁと思いました。それはお互いがそう思っているのかもしれません。最近は週末に集中し過ぎる傾向があって、作業終了後に私は大変な目にあってしまいますが、今日は昼ごろに近隣のスポーツ施設で水泳をして、創作の緊張感をクールダウンしてきました。来週末は私的な用事があって、陶彫制作に十分な時間が取れません。何とかウィークディの夜に工房に行かれないものか、公務員管理職としての仕事を視野に入れながら思案しているところです。

週末 陶彫続行の濃密な時間

漸く週末になりました。新作の陶彫部品の制作に明け暮れる貴重な週末です。今日は秋晴れの気持ちの良い一日で、工房には若いスタッフが2人来ていて、それぞれの課題に向き合っていました。私は4点目の彫り込み加飾と、乾燥した陶彫部品のヤスリ掛けと化粧掛け、さらに明日の成形に備えてタタラを数枚準備していました。陶彫制作には段階を追った制作工程があるため、複数の部品を同時に作っていかざるを得ないのです。以前から私はこれを制作サイクルと呼んでいました。次から次へ陶彫部品を替えながら進む作業は、ホッとする暇が与えられず、濃密な時間を過ごすことになります。キャリアを積んでもフロー状態になれることは素晴らしいことだと常々思っていますが、作業が終わった後で、疲労で動けなくなるのは困ったものです。表現が定まらなかった若い時代と比べれば、失敗は最小限になり、無駄な動きもなくなりました。と言っても慣れが生じるほど技術を把握できていないので、無我夢中で取り組んでいる姿勢を今だに保っています。自分が今までに獲得した技術の範囲で作っていれば、もう少し余裕が生まれるのでしょうが、イメージ先行の新作は常に技術的な挑戦が伴い、不安や焦燥はまだ私の中に燻っている状態です。私はどのくらい成長できたのか、作品はどのくらい展開して、深遠な思索を湛えているのか、自分ではまるで分かっていないため、相変わらず自分の無力さを思い知るばかりです。ウィークディの仕事では曲がりなりにも職場のトップとして、人に指示をする立場にありながら、週末になって工房にやってくると、私はたった一人の人間として己の力の無さを曝け出しているのです。そのギャップが私自身であり、社会的に認められた優位な立場と、人間的な弱さに喘いでいる陰の自分の双方が、私という個人を形成しているのだろうと思っています。工房での作業は明日も継続です。

光岡ビュートの修理・点検

今日は私の自家用車について書きます。私は大学生の頃に運転免許を取得し、亡父の造園業を手伝っていました。私が最初に運転した車が2トントラックで、植木や庭石の運搬をやっていました。実家にトラックがあったのは彫刻をやっている私にとって何かと重宝して便利でした。併せて乗用車もあったので、父にお願いして時折運転していました。乗用車をトラックのように雑に扱うと父に怒られました。当時はオートマチック仕様はなく、ギアチェンジをいかに巧みにに出来るか、運転の楽しみのひとつになっていました。社会人になって自分で車を購入した時は、オートマチック車が主流になっていました。最初の車は軽ワゴンでしたが、そのうち自分の趣味が反映した車に替えていきました。私は目的のないドライブがあまり好きではなく、メカニックにも興味がないことが徐々に分かってきました。車は自分の造形感覚を満たすモノという概念があって、機能よりデザイン重視になっていきました。それは昔を考えてみると、私は大学時代に彫刻科の教壇に立っていた篠田守男先生が乗っていたポルシェを遠くで眺めていて、稀有な車の美しさに憧れを持ったのに端を発していると思っています。私はクラシックなデザインが好きです。そこでクライスラー社のPTクルーザーを購入しましたが、外車は一度故障すると部品の取り寄せに時間がかかるため、次の車は国産車にしようと決めました。次に買い替えたのが光岡自動車のビュートです。これは他社の車をベースカーにしているため、点検等は日産でやってもらうことが可能です。今回は修理を含んだ点検のため、光岡自動車の横浜ショールームに車を預けることにしました。光岡自動車は風変わりな会社だなぁと思っています。工場は富山県にしかなく、車体は手作りのために納車に時間がかかります。それでも私はビュートが気に入っていて、現在は2台目です。最初のビュートの外装はブリティッシュグリーンでした。今のビュートはワインレッドです。どちらも色彩がいいなぁと思っています。光岡自動車は飛び切りな贅沢を売っている会社だろうとショールームを見ていて感じました。

「モディリアーニ」第8章のまとめ

「モディリアーニ 夢を守りつづけたボヘミアン」(ジューン・ローズ著 宮下規久朗・橋本啓子訳 西村書店)の第8章「南フランスで迎えた終戦」のまとめを行います。本章ではモディリアーニの妻となるジャンヌ・エビュテルヌとの出会いがあります。モディリアーニと知り合った頃の彼女はまだ十代で、国立美術工芸学校に在学していました。「モディリアーニに会うやいなや『彼女は俺(モディリアーニ)の虜になった』と誰もが認めている。ジャンヌがモディリアーニに心を引かれたのは、彼の容貌に魅せられたのと同時に、彼の才能、とりわけその画風と、彼の女性関係に興味を覚えたからであった。」ジャンヌは良家出身で無垢な面と野心家の面があったようです。ジャンヌはモディリアーニの子供を身籠り、やがて女子を出産します。「生まれた子供は女の子で、母親の名前をとってジャンヌ・エビュテルヌと名づけられた。しかし、モディリアーニは娘をジャンヌのイタリア語名であるジョヴァンナという名で呼んだ。彼は興奮し、喜んではしゃぎまくり、情熱的で忘れっぽい父親となった。赤ん坊が生まれた後、彼は興奮のあまり、市役所に行って出生届を出すのを忘れてしまったのだ。」こんな一文もありました。「モディリアーニの赤ん坊の成長に対する喜びと驚きは、彼がほかのことにも強い関心を見せていることから、突飛にも思えるが、赤ん坊に対する彼の気持ちは本物であった。」彼の画商ズボロフスキーは画家オステルリンドの家に彼を連れて行きました。「『モディリアーニは…イタリアの貴公子のごとく美しい男だったが、疲れ切って汚れていた…あたかもジェノヴァの港で引き上げられたように。彼の影のように彼に寄り添うズボロフスキーは、その親密な友情から、彼をニースの危険な生活から守ろうとしているようであった』オステルリンドとその妻ラシェルは、モディリアーニを精一杯あたたかくもてなした。」オステルリンド宅の近くに77歳の巨匠ルノワールが住んでいて、モディリアーニを紹介することになりましたが、話がお互いの作品のことになると会話に緊迫した雰囲気が流れたようです。「作風からいっても両者の違いは明らかだった。肉体そのものの美しさに魅せられていたルノワールは、素朴でありながら様式化された優美な裸婦を描くモディリアーニに反抗した。モディリアーニは明らかに、この年長の画家の挑発的な反抗心に気づいていた。」

アフリカ芸術との出会い

横浜美術館で開催中の「ルノアールとパリに恋した12人の画家たち」展の図録の中で、20世紀初頭のパリに集った芸術家たちが、アフリカ芸術に感銘を受けて、自らの表現の中にプリミティヴな生命を宿した造形を取り入れたことが書かれていました。私も近代西洋美術史の中で、当時の画家や彫刻家を通してアフリカ芸術に触れ、その生命力の強さに惹かれてしまったのでした。私は日本にあるアフリカ系の雑貨店に時々立ち寄り、気に入った仮面等を購入して自宅の壁に掛けて楽しんでいます。そのうち工房にも仮面コーナーを作ろうと思っています。素朴で呪術的な造形が前衛芸術を牽引することになった動機は何か、図録から紐解いてみたいと思います。「19世紀半ば以降のヨーロッパでは、アフリカの植民地化が進むにつれて、同地に関する調査研究も進展した。~略~まずは民族誌的な資料として受容されたアフリカの器物であるが、やがて前衛芸術家たちがその美的価値を見出し、芸術としての側面を発見していく。~略~ピカソが《アヴィニヨンの娘たち》の制作に先立つ数か月前、すなわち1907年6月頃に、トロカデロ民族誌博物館でアフリカやオセアニア美術から啓示を受けたことはよく知られる。」(片多祐子著)そうしたことの動機となるコトバがフランスの美術評論家によって語られています。「われわれは公的なサロンの出品作にはうんざりしている。何か違うものを求めているのだが、それが何であるか確信は持てない。~略~この種の刺激を求めてわれわれはニグロ彫刻を、その迫真性、独創性、生命力といった質ゆえに称賛するようになった。」(アンドレ・ワルノー)画商ギヨームは非西洋の持つ力に共鳴して芸術家たちの橋渡しをやっていたのでした。「ポール・ギヨームの1910年代の活動を振り返ると、そこには、同時代の美術を擁護した姿だけでなく、ハイアートとしての絵画とサブカルチャーとしての〈ニグロ芸術〉の混淆を標榜し、時代を先駆けた文化の発信者としての姿も立ちあらわれる。彼にとっての〈ニグロ〉は、アフリカやオセアニアのオブジェという存在を超えて、『時代の精神』であり『新たな美学』であり、一つの思想であった。~略~モダンアートと〈ニグロ芸術〉は、相互に補完し合いながら、アンドレ・ブルトンが『最も早く近代の啓示を受けた者のひとり』として賞賛した、ポール・ギヨームの先見の明を物語っている。」(片多祐子著)

横浜の「ルノアールとパリに恋した12人の画家たち」展

先日、開館延長の金曜日に横浜美術館の「ルノアールとパリに恋した12人の画家たち」展に行ってきました。ルノアールを含む13人の画家はA・シスレー、C・モネ、A・ルノアール、P・セザンヌ、H・ルソー、H・マティス、P・ピカソ、A・モディリアーニ、K・ドンゲン、A・ドラン、M・ローランサン、M・ユトリロ、C・スーティンで、錚々たるメンバーの作品が出品されていました。これはパリのオランジュリー美術館所蔵の作品で、この時代の西洋絵画が好きな鑑賞者にとっては嬉しい内容ではないかと感じました。13人に共通しているのは全て画商ポール・ギヨームによる収集品で、時代を読む先見の明があった人の業績を讃える展覧会にもなっていました。図録から引用すると「ルノワールからスーティンまで、このコレクションは印象派から表現主義に至るまでの具象美術の系譜を際立たせている。~略~パリの前衛を好んだ創設者ギヨームの趣味に根ざすものである。一方で、ルノワールからピカソまでの貴重な傑作品によって特徴付けられる世界でもユニークなこの作品群には、どちらかというと古典的な部分を強調したいと願ったドメニカ(ギヨームの妻)の趣味とが、混ざり合ってもいるのである。」(S・ジラルドー著)とありました。コレクションの中でも今回はルノワールに主軸があるように思えて、改めてルノワールに対しての認識を新たにしました。「戦争がもたらした混乱や社会不安に対して人々は安定や秩序を求め、美術においても戦前のキュビズムやフォーヴィズムなどの前衛芸術の『行き過ぎ』に対する反動として、創作の源泉を古典に求め、人間性を回復しようとする動きが現れたのである。このような状況を背景に、女性の肉体美をおおらかに描くルノワールの後期作品に注目が集まるようになっていた。」(沼田英子著)今回の企画展に関するものはこれだけではなく、ギヨームの前衛美術に対する出発点が非西洋にあったことに私は注目しました。「ギヨームは、早くからアフリカ彫刻の芸術性に注目し、西洋と非西洋の美意識の融合のもとに前衛美術を牽引しようとしたのだが、彼のコレクションはそうした芸術観により構築され、この展覧会(1922年)はそれを端的に示したものだったと考えられよう。」(沼田英子著)私はアフリカ彫刻がこの時期の画家たちに影響した形跡に興味関心を持っていて、これに関しては別稿を起こそうと思います。

代休 成形&加飾&焼成

今日は休日出勤日の代休で、貴重な一日になりました。朝8時から昨日準備したタタラを使って、4点目の根の陶彫部品の成形を行ないました。4点目の成形は約3時間かかりました。その次に前に作っておいた3点目の陶彫部品に彫り込み加飾を施しました。これも3時間はかかりましたが、これで今日の作業を終わるわけにはいかず、夕方には乾燥している陶彫部品をヤスリで滑らかにした後、化粧掛けを行い、窯に入れました。新作では2回目の窯入れになりました。この作業には2時間かかりました。合計すると今日は8時間ずっと作業をしたことになりましたが、制作工程の成形、彫り込み加飾、焼成とそれぞれの段階をひとつずつやっていて、なかなかバリエーションに富んだ作業だったなぁと思い返しています。その都度、集中もしていました。昨日もそうでしたが、凌ぎ易い気候のせいか、このところ集中力が増しています。あっという間に時間が過ぎていくので、気持ちが緩むことがありません。寧ろ作業が終了した後で、心身ともに疲労して動けなくなるのです。彫刻はつくづく精神の産物だなぁと思えることは、集中力が緩んだ時に、私の場合は胃腸の具合が悪くなるのです。自分では意識をしていないにも関わらず、陶土に対面している時は前後左右が分からなくなる不思議な緊張状態になってしまうために、身体の調整ができないのです。心理学で言うところのフロー状態とは、これかもしれないと思っているのですが、果たしてどうでしょうか。夜になって家内と母のいる介護施設を訪ねることにしました。腰の骨折で入院していた母は、手術が無事終わり、退院をして元の介護施設に戻っていたのでした。母の穏やかな顔を見たら、私にも元気が甦ってきました。明日からまたウィークディの仕事が始まります。次の週末も頑張ろうと思います。

週末 いつものように陶彫制作

昨日が休日出勤日だったため、私の職場は今日と明日を勤務を要しない日にしています。明日は土曜日の代休になります。先月から今月にかけて週末に雑多な用事が入っていましたが、漸く丸2日陶彫制作に充てられる週末を迎えることが出来ました。そこで「いつものように陶彫制作」というタイトルを敢えてつけさせていただきました。しかもこのところめっきり涼しくなってきて、創作活動には絶好の季節になり、心行くまで制作に没頭できました。今日は基礎デッサンを学ぶ若いスタッフもやってきていました。先日出かけた美術大学の芸祭に刺激をもらい、スタッフも私も新たな気持ちで今日の制作を頑張っていました。私は根の陶彫部品の彫り込み加飾を継続してやっていました。床置きの第1ステーションは4点の陶彫部品で構成しますが、その4点からそれぞれ這い出してくる根の陶彫部品を作っているのです。3点目まで成形が終わっていて、彫り込み加飾をやっていましたが、4点目になる成形を行うため、午後から土練りとタタラ作りを始めました。朝から夕方まで陶土に触れている一日は久しぶりで、集中力が増していくのが自覚できました。自分を忘れるほど夢中になれるものがあるのは幸せなことだなぁと実感しました。休憩として近隣のスポーツ施設に水泳に出かけました。集中した気持ちをちょっとクールダウンして、また工房に戻ってきました。再び集中するのに時間がかからず、あっという間に陶彫制作に埋没しました。夕方、スタッフを車で送るときはかなり疲れていましたが、心は満足していました。明日も継続です。

休日出勤日に思うこと

毎週末を創作活動に充てている私は、自分の中に一定のリズムが出来ていますが、それでも休日にいろいろな用事があるため、休日出勤に関しては抵抗がありません。寧ろ代休を月曜日に設定しているので、勤務管理のない雑多な用事よりは歓迎出来るところです。休日出勤で有難いのは、他の職場や方面別事務所から連絡がないため、溜まった仕事を片付けられる利点があるところです。整理が苦手な私にとって有効な時間と言えます。来年度人事を考えていると、迷宮に入り込んでしまうので、逆に時間があるのは辛いかなぁとも思いました。創作活動もいくらでも時間があれば良いというものではなく、作品に主張を語らせる思索や表現方法があって、それに向かって集中して制作できれば、自分のイメージ通りの世界が作れると思っています。密度のある時間を過ごすために、自分なりの手枷足枷を課す場合もあります。少なくても私はそうした条件があった方が集中力が増すのです。どうしたら創作の世界に自分を持っていけるのか、私の場合は普段からのトレーニングでしか考えられません。二足の草鞋生活は、社会的に必要とされる昼間の仕事と、社会的ニーズのない創作活動を巧みに組み合わせることで成り立っています。普通に考えれば創作活動を蔑ろにしてしまうところですが、私は物事の優先順位をつける時に思い切った発想をするようにしています。昼間の仕事に押され、また必要とされる昼間の仕事を言い訳にして創作を怠ることがないように、生涯に後悔を残さないために、大きな視野で捉えた結果として創作活動を第一に考えているのです。昼間の仕事は嫌でもやらなければならないものであるならば、自分が生涯を賭けてやりたい創作活動を最優先にすることで、二足の草鞋生活のバランスが取れるのです。余裕のある休日出勤日に思うこと、それは現在の仕事と週末の創作活動の兼ね合いをどうとっていくか、暫し立ち止まって考えることが出来たことです。

勤務終了後に地元の美術館へ

一昨日、地元にある横浜美術館で会議を行っていました。神奈川県全土から関係者を集めて開催した大きな会議でしたが、そこでウィークディにも関わらず、美術館の企画展に多くの鑑賞者が来ていたことを知り、私も企画展が見たくなっていました。会議中に抜け出して見に行くことは、主催者側の人間としてさすがに不可能でしたが、日を改めて行こうと決めていました。多くの美術館は金曜日に夜間延長があって、仕事帰りに立ち寄ることが出来ます。横浜美術館も例外ではなく、夜8時まで開館していて有難いなぁと思っています。週末に陶彫制作をしている私にとって、勤務時間終了後に人気の展覧会に立ち寄ることが出来るのは、本当に良い機会を与えてもらっていると感じています。今晩、勤務時間終了後に横浜美術館で開催中の「ルノワールとパリに恋した12人の画家たち」展に行ってきました。やはり夜間は鑑賞者もまばらで、ゆっくりと鑑賞することが出来ました。同展は印象派が中心ですが、現在通勤中に読んでいる「モディリアーニ 夢を守りつづけたボヘミアン」(ジューン・ローズ著 宮下規久朗・橋本啓子訳 西村書店)に登場する画家たちの作品が、オランジュリー美術館からやってきていたので、興味を持って見ることができました。モディリアーニも数点の油絵が来日していましたが、本展の目玉は何と言ってもルノワールだったと思いました。詳しい感想は後日改めます。日本人は本当に印象派が好きなようで、現代アートに比べるとさまざまな年齢の人が訪れていました。仕事の後で、瀟洒な未来都市であるみなとみらい地区にある横浜美術館に来るのは、何と贅沢なことか、美術館を出るとイルミネーションが輝いていて、観覧車も美しく彩られていて、夜の散策には絶好の場所だなぁと思いました。これで明日は週末の制作に突入できれば最高なのですが、明日は私の職場では休日出勤日に設定していて、通常通りの仕事が待っているのです。やれやれ。週末の制作はちょっとお預けで、もう一日仕事に頑張ろうと思います。

窯出しの夜に思うこと

月曜日の夕方に新作第1号となる大きめの陶彫部品を窯に入れました。毎年やっている制作工程最後の作業ですが、同じ作業にも関わらず毎回緊張をしてしまいます。3日間陶彫部品を窯に入れ放しにして、今晩窯出しをしました。焼成中は毎朝出勤前に工房に行って、窯の温度を確認していました。私が所有しているのは電気窯で、温度が自動調整されているため、焼成中はずっと窯を見ていなくても大丈夫なのです。二足の草鞋生活を送っている私は、薪窯やガス窯のように温度調節が常に必要な窯は持てません。茨木県笠間に住む友人が窯内のゼーゲルコーンを見ながら一晩中温度調節をしている様子を見て、羨ましいなぁと思ったことがありました。また、酸化と還元を使い分ける手法にも私は憧れを持っています。私は自作では釉掛けをしません。昔、釉薬のテストピースを作る実験をしたことがあったので、ほんの僅かな釉薬が工房に置いてありますが、20年間まったく使っていません。釉掛けをしないのは陶芸として魅力が半減していますが、私はあくまでも彫刻の素材として陶土を選んでいるので、釉薬や焼成方法には拘りがないのです。私が作る陶彫が陶芸ではないもうひとつの特徴は、窯入れする時の窯内体積を考えずに作品を作ってしまうことです。窯内にはぎっしりと作品を詰めることが経済的にも有効ですが、陶彫は扱いにくい形態をしているので、たった1体で焼成をすることも多々あります。贅沢な窯内空間の使い方をしているなぁと思っていますが、こればかりは効率を考えるより、カタチ優先の陶彫では仕方がないことです。今年も漸く焼成が始まりました。陶彫の醍醐味でもある焼成は、人の手が及ばない工程ですが、それだけに不思議な魅力に惹かれてしまう自分がいるのです。

11月RECORDは「拡散の風景」

一日1点ずつポストカード大の平面作品を作っていくRECORD。文字通り日々のRECORD(記録)で、その日のさまざまなことが記録されていきますが、時間がない中で制作をしているため、その効率を考えて5日間で絵柄が展開するようにしています。そうであるため通常の日記とは違い、内容がその日の気分に左右されることがありません。只管日常から離れてイメージに遊ぶのです。今月のテーマを「拡散の風景」にしました。現在のICT社会では、ネットによって個人情報が拡散していく恐れが常につき纏います。そんな悲惨な状況を描きたいと思ったのが最初の動機ですが、「拡散の風景」には私の個人的な別の動機もあります。私が20年以上も前に辿り着いた彫刻表現は、エーゲ海沿岸に残存する遺跡を礎に、古代出土品のような陶彫を組み合わせて表現するものでした。言わば集合彫刻だったわけで、都市構造は単体では表現できないと思ったのでした。それ以来、私はずっと集合彫刻をやってきました。陶彫部品をボルトナットで連結して、それによって大きな塊を構築してきました。現在の新作も集合彫刻です。最近、私は相反する要素もまた空間を解釈したり、演出する方法としてあるのではないかと思い始めていて、それなら集合の相反する要素として拡散も考えてみようと思っているのです。拡散彫刻、これは陶彫部品をバラバラにして空間に配置するもので、旧作では「構築~瓦礫~」と「構築~楼閣~」がそれに当たります。これをもっと大きなスケールでやってみたいと思っているのです。そのためのアイデアを今月のRECORDでやってみようとしています。明快なイメージはRECORD制作を容易にしてくれます。このところ調子の良いRECORDを楽しみながら継続していきたいと思っています。

映画「ジョーカー」雑感

昨日、横浜市都筑区鴨居にあるエンターティメント系の映画館にアメリカ映画「ジョーカー」を観に行きました。ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞という話題もありましたが、何よりも衝撃的だったのは、アメリカ本国から伝えられた映画館周辺で警察が待機したというニュースでした。映画に共感した観客が犯罪に走るのではないかという不安は、映画を観ていて成程と思いました。舞台はゴッサム・シティという架空都市で、そこでは街が腐臭を放ち、貧富の差は拡大し、困窮者が暴力に手を染めていました。世界にそんな街が存在することは想像に難くないと思いました。主人公の道化師アーサー・フレック(ジョーカー)は、緊張すると笑いの発作が出る脳損傷があり、それでもコメディアンになる夢を捨てきれず、ピエロ派遣会社で仕事をしながら、その機会を狙っていました。同居の母親は心臓と精神を病んでいて、その介護もアーサーがやっていました。そこに出生に関わるさまざまな悲劇がアーサーを襲い、自分が養子であること、母の交際相手に虐待されて脳に損傷を負ってしまったこと等、動揺を抑えられない彼は入院中の母を窒息死させてしまいました。道化師の扮装のまま地下鉄に乗った彼は、さらに高慢な3人のビジネスマンに対して銃を発砲したのでした。街では富裕層を責めるデモが、3人を殺したピエロを英雄視して、一触即発の事態になっていました。いよいよアーサーがジョーカーになる動機や環境が整い、混乱した街の中で究極の愉快犯とも言うべき悪役が誕生したのでした。この映画の魅力は主役を演じたホアキン・フェニックスで、法を遵守する心優しい男が度々馬鹿を見て、その累加の上に法外の存在になっていく過程を見事に演じていたのではないかと思いました。監督のトッド・フィリップスの言葉に「この映画には、何もかも剥き出しにすることを恐れず、役柄に肉体と魂を捧げられる俳優が必要でした。」とあります。まさに主人公の身辺に起こる事柄がリアルと感じてしまうのは、俳優が役柄に真摯に向き合う力だと思います。映画には、近い将来バッドマンになるブルース・ウェインが子役で登場し、大富豪で実業家だった父と母がデモ隊のひとりに、ブルースの目の前で殺されてしまう場面がありました。アメリカンコミックの原作を所々辿りながら、荒唐無稽な闇のヒーローがどのようにして登場したのか、まさに勧善懲悪では伝えられない現代の問題を掘り下げていく内容を盛り込んだ映画だったと振り返っています。

三連休 新作の窯入れ&映画鑑賞

三連休最終日です。今日は文化の日の振替休日で、今月の三連休は今回だけです。因みに勤労感謝の日は土曜日に当たってしまうので、今年は三連休になりません。今日はまず朝8時から工房に篭りました。根の陶彫部品の3点目の成形を行い、昨日作った1点目の陶彫部品に彫り込み加飾を施しました。なかなか厳しいスケジュールでしたが、その分朝から集中して作業をやっていました。午後になって、第1ステーションの1点目の陶彫部品に、ブロックサンダーをかけて表面を整えて化粧掛けを行ないました。これは窯入れの準備です。新作の窯入れは今回が最初になります。新作の焼成第一歩はいつもながら緊張します。毎年同じ工程で、同じ素材を使っているのに毎回カタチが異なるので、上手くいくかどうか心配になるのです。窯入れをすると、明日から毎朝出勤前に工房に立ち寄って、焼成温度を確認して仕事に行きます。窯出しは木曜日になります。焼成は週2回やっていますが、今回は新作初の陶彫部品なので、まず1回目の窯入れをやってみて、その焼成具合を見ようと思っています。陶彫にとって、焼成は最終工程で窯出しをして完成となります。焼成ができていないとけじめがつきません。最後は人の手の及ばないところで、作品の良し悪しが決まるのです。今日は窯入れをしたところで工房を後にしました。夕方は家内を誘って映画鑑賞に行きました。常連にしているミニシアターではなく、今日はエンターティメント系の映画館に足を運びました。観た映画はいろいろ話題になっているアメリカ映画「ジョーカー」でした。悪役が主人公の映画とあって、犯罪に共感する人が増えるのではないかと、本国アメリカでは警察が出動する事態があったようですが、内容を観た感じでは犯罪を正当化するものではなく、貧困や格差社会を背景にした架空都市の物語でした。それでも現代に通じるものがあるために、荒唐無稽な演出ではなく、リアルな心理を描き出しているなぁと思いました。映画に関しては詳しい感想を後日改めて載せたいと思います。三連休は陶彫制作と映画鑑賞もあって充実していました。幸先の良い11月が始まったなぁと思っています。

三連休 根の陶彫部品を作り始める

三連休の中日です。今日は文化の日で明日が振替休日になります。今日は朝から工房に篭りました。新作の陶彫作品は次の段階に入りました。新作は屏風と屏風前の床の部分に陶彫部品を連結して設置する集合彫刻になります。床に設置する第1・第2ステーションは、既に成形と彫り込み加飾が終わって乾燥を待っている最中ですが、今日から第1・第2ステーションと屏風に接合する陶彫部品を繋ぐ新たな陶彫部品を作るのです。それを私は「根の陶彫部品」と呼んでいて、蒲鉾型の陶彫部品を複数作って次々と繋いでいくのです。根が這っていくような状態になるので、こうした呼び方をしています。根の陶彫部品を作り始めたのは、2009年の個展で発表した「発掘~赤壁~」からで、赤い壁状の直方体の上に乗せた陶彫が最初ではないかと記憶しています。それを応用した小さな照明器具も作りました。その後に作った「発掘~増殖~」は根の陶彫部品だけで構成した作品でした。根の陶彫部品を利用した作品を調べてみると、2013年制作の「発掘~地殻~」「発掘~連築~」、2014年制作の「発掘~層塔~」「発掘~増殖~」、2015年制作の「発掘~群塔~」、2018年制作の「発掘~根景~」、2019年制作の「発掘~双景~」で、私の集合彫刻の特徴になっていると言ってもよいと思います。陶土を一定の厚さにして蒲鉾型にするのは工夫が必要で、陶彫は内部ががらんどうになっていないと焼成が巧くいきません。そこで塑造板に切込みを入れていて、ある程度成形が出来上がってきたら、切込みを抜いて底に穴を開けます。内側から手を入れて、蒲鉾型の曲面を調整しているのです。内側から陶土を手で押さえつけ、外側から叩き板で叩いて陶土の強度も図っています。そんなことを試行しながら根の陶彫部品を作っています。今日は2点の陶彫部品の成形を行ないました。夕方自宅に戻って、RECORD制作の後、夜になって再度工房に出かけ、明日のためにタタラを数枚準備しました。今日は朝から晩まで陶彫制作に没頭しました。本当の意味で文化の日を体験しているなぁと思いました。明日も継続です。

三連休初日は地域行事参加&陶彫制作

今日から文化の日を含む三連休が始まりました。この時期は学校に限らず地域でも文化祭が盛んに行なわれていて、私が勤務する職場の地域でも文化祭があります。私は開会のセレモニーに呼ばれていて、午前中はそこで挨拶をしてきました。今月も休みになると用事がいろいろあって、週末全てを創作活動に充てられないことが少々残念です。今日は午後になって工房にやってきました。新作は屏風と床置きの連結した集合彫刻になる予定で、三連休は連結する陶彫部品を作り始める計画でいます。屏風に接合する陶彫部品、床に置く陶彫部品、それと屏風と床を繋ぐ陶彫部品のうち、まだ手をつけていない箇所は、屏風と床を繋ぐ蒲鉾型の陶彫部品です。根が這い出していくようなイメージなので、根の陶彫部品と称していますが、これは私の陶彫作品の大きな特徴でもあります。先月、栃木県益子町から届いた陶土に今日から手をつけました。土錬機を回し、陶土を混ぜ合わせ、そのうち数枚のタタラを準備しました。タタラは掌で叩いて座布団大に引き伸ばします。それをビニールで覆って、明日から始める成形に使うのです。成形はタタラと紐作りの併用です。午後の制作が始まると、漸く週末の定番の風景とも言うべき創作活動が自分の中に戻ってきます。今日はウィークディの疲労が残っていたためか、なかなか集中できずにいましたが、気持ちは楽しくなって、創作活動に充てられる貴重な時間を過ごしていました。思えば学生時代は時間が沢山ありました。贅沢な時間を贅沢とも思えず過ごしてきましたが、その頃は自己表現が定まらず、また将来に対する不安に苛まされていたので、贅沢な時間とは認識できなかったように思えます。先日出かけた美大の芸祭でも若い学生たちは、皆んな不安を抱えて制作をしているのだろうと察しました。自己表現が定まり、技法を獲得した今でも私には迷いや不安があります。学生時代とどこが違っているのか、私はどれだけ成長したのか、分からなくなることもあります。社会人としての仕事に就き、多忙になったことは結構なことだと思いますが、それを言い訳に自己表現が上滑りしているのではないか、何も考えずに効率ばかりを気にしている時に、私は魂の抜け殻のような作品を作ってしまうのではないかと思いを巡らすことも多々あります。そんなことを気にしながら、夕方まで工房にいました。にわかファンになったラグビー・ワールドカップの決勝戦が始まるまでに工房から自宅に戻って来ました。

めっきり寒くなった11月に…

11月になりました。朝晩めっきり寒くなった11月に、陶彫制作に闘志を燃やすのは何も今年に限ったものではありません。NOTE(ブログ)のアーカイブを見ると、11月から窯入れを始めているようで、今年も例外なく窯入れをやっていこうと思っています。今月の陶彫制作は屏風と床置きのステーションを繋ぐ蒲鉾型の陶彫部品を作っていきます。今まで作ったものより多少小ぶりな造形になるので、1ヶ月で数多く作れるのではないかと期待していますが、果たしてどうでしょうか。屏風の木彫の最終デザインも決めていこうと考えていて、その壁のイメージを思い浮かべていくことも重要な仕事です。今朝は寝起きにふと壁のイメージが湧きましたが、まだ漠然としていてカタチが掴めません。私は紙上のエスキースをしないので、常に頭の中をイメージが去来しているのです。次第に霧が晴れてくるのを待っているような按配です。毎年のことですが、今月は昼間の仕事も多忙感がつき纏い、かなり厳しくなります。来年度の人事体制を考え始めるからです。私の場合は、いつもこの時期から公務員管理職としても、彫刻家としても神経も体力を使わざるをえないのです。ストレス解消としては美術館や映画館に行くことですが、今月はそれが出来るでしょうか。RECORD制作は今のところ調子が良く、自宅での集中力が増しています。この調子の良さは、疑似科学ではあるけれどバイオリズムの周期というものを信じたくもなります。慣れると緩慢になりそうでいて、そうでもないところで踏ん張っているRECORDが前よりも楽しみになっています。読書は相変わらずで、先月の継続になるかなぁと思っています。今月も頑張っていきたいと思います。

週末制作を全う出来なかった10月

今日で10月が終わります。月の最初のNOTE(ブログ)に書いた通り、今月は週末にいろいろな用事があり、なかなか制作時間が取れず、陶彫制作を全うすることができませんでした。今の職場の地域行事の参加や前職場の若手職員の結婚式参列、台風で壊れた自宅の雨樋修繕のための業者との打ち合わせ、母の介護施設への引っ越しの手伝いと、母の転倒による入院手続きとその付き添い、先週末に行った2つの美大の芸祭など、週末がやってくる度に制作時間を削ってきました。それでも第1、2ステーションの陶彫成形と彫り込み加飾の完了と、屏風を構成する6点の厚板に基本となるパターンの下書きを終えました。用事がなければ制作工程としては遅々として進まなかった状況ですが、これだけの用事がある中でよくぞここまでやったなぁという思いに駆られています。ただ、制作工程としては厳しくなっているのは確かです。来月に期待したいところです。RECORD制作は毎晩やっていて今月は及第点です。この調子で継続したいと思っています。最近賢くなったかもしれない飼い猫のトラ吉は、私が食卓でRECORDを制作している時は、ガラス扉越しにずっとこちらを見ていて、大人しく待っているようになりました。美術鑑賞は師匠の池田宗弘先生が所属している「自由美術展」(国立新美術館)、「スタシス・エイドリゲヴィチウス展」(武蔵野美術大学美術館)へ行きました。映画鑑賞では「トム オブ フィンランド」、「イーダ」(いずれもシネマジャック&ベティ)の2本を観てきました。多忙な10月だったにも関わらず、これも陶彫制作同様まずまず良かったのではないかと思っています。読書は「モディリアーニ」をまだ読んでいます。職場には民俗学の書籍を持ち込んできました。朝晩めっきり寒くなってきた10月末ですが、来月も元気に頑張っていきたいと思います。

「モディリアーニ」第7章のまとめ

「モディリアーニ 夢を守りつづけたボヘミアン」(ジューン・ローズ著 宮下規久朗・橋本啓子訳 西村書店)の第7章「モディリアーニの成功を夢見る男」のまとめを行います。「ポーランドの詩人レオポルド・ズボロフスキーはこの展覧会を訪れ、モディリアーニのずば抜けた才能に驚嘆した。ズボロフスキーは政府の給費留学生として文学を学ぶために戦前のパリにやってきたが、給費が途絶えたのでセーヌ河岸で本や版画を売って生活していた。~略~八年前にポール・アレクサンドルがモディリアーニを支援して以来、ズボロフスキーほど彼の作品に強い興味を抱いた人物はいなかった。~略~『彼のような画家がカフェテラスで作品を売らねばならないとは何とも惨めなことだ』~略~ズボロフスキーは契約の一部として彼に煙草を提供したほか、苦労してワインも手に入れてやった。今やグラス二杯か三杯のワインは彼の制作活動にとってなくてはならないものだったからだ。~略~ほんの少量の酒で彼が酔っ払えたというのは驚くべき事実だが、おそらくワインは彼の力を発揮させる触媒だったのであろう。彼の友人たちは皆、彼がどんなに酔いつぶれても手だけは正常で、ずば抜けた技術とセンスをもってスケッチすることができることを知っていた。」ここまでモディリアーニと彼の画商になったズボロフスキーの関わり合った部分だけをピックアップして書きましたが、モデルになった女性関係や戦時下の混乱した生活状態のことは省略させていただいています。最後にモディリアーニの人物画家としての特徴を書いた部分を引用いたします。「フィレンツェとヴェネツィアでの修行時代からモディリアーニは女性のフォルムを繰り返し熱心に学習し、パリにきてからも裸体画のクラスに通っていた。彼が描くほかの肖像と異なり、彼の裸婦は物憂げな雰囲気がなく、直接的で開放的、肉感的なフォルムを持ち、華やかな色彩が用いられている。顔の描き方は簡潔で、ほかの肖像のそれのような悲痛な面持ちは見られない。しかし、そうした肖像のモデルとなったのが皆、彼の芸術家仲間や作家の友人といった複雑な性格の持ち主であることを考えれば、心の奥底を暴き出すような苦痛の表情が描き出されたのも驚くにあたらない。かたや、裸婦のモデルとなったのはプロのモデルやメイド、ウェイトレス、乳絞り女といった肉体と性的魅力を誇示する若い健康的な女性たちであった。」

社会の鬱積からの解放

武蔵野美術大学美術館で開催中の「スタシス・エイドリゲヴィチウス展」を見て感じたことは、国家が社会主義体制にあった時代に、その鬱積から心を解放したいと願って、密かに作品を作っている芸術家の姿でした。そうした国家に対し、時の独裁者に迎合し、その猛々しい銅像を作る芸術家もいれば、スタシス・エイドリゲヴィチウスのような芸術家もいることが、造形美術の広範囲なあり方を示すものだろうと思っています。ナチスドイツの時代には国家の権威権力に対し、それとは無関係な新しい美意識を追求した美術作品が、退廃美術という烙印を押され、多くの作品が処分されました。美術史の観点からすれば、日常生活を図像として記録した古代の出土品を初め、宗教的な導きを図示化したものや社会的世相、たとえば戦争の意気掲揚を謳ったものまで、さまざまな表現が人類史と共に現れてきました。そうした社会的な動向とは無縁の、美意識だけを創作の中核に据えたのは、漸く20世紀になってからではないかと私は理解しています。現代はさらに美意識さえも変革し、人間が何処へ向かうのか、どうなってしまうのかを問いかける造形美術が登場してきたと考えています。現状を楽観視する作品もあれば、社会的な不安を訴える作品もあります。もう造形美術という範疇では語れない作品も存在しています。価値の多様化は現代そのものであるし、そんな中でもアートがコマーシャリズムに乗って大衆に根付いてきたことは確かです。翻って自分は何をすべきか、今風のアートを身に纏うべきか、先端アートに身を置いても、私はコンセプトを続けることができないのではないかと思ってしまいます。「スタシス・エイドリゲヴィチウス展」が私に齎せた影響は、まさに社会の鬱積からの解放ですが、国家というより、私の場合は極めて個人的な感情によるもので、公務員としての社会体制からの些細な解放とも言えるものかなぁと思っています。個人の事情を考えると、こうした考えはとても小さなものに思えますが、だからといって作品が纏う精神性が浅いわけではないと思っているところです。