「超越論的現象学と志向的心理学」第96節~第97節について

「形式論理学と超越論的論理学」(エトムント・フッサール著 立松弘孝訳 みすず書房)の小節のまとめを行います。第二篇「形式論理学から超越論的論理学」の第6章「超越論的現象学と志向的心理学。超越論的心理学主義の問題」に入っていますが、題名が長いので表示を多少省略をさせていただきました。今回は第96節から第97節までを読み解いていきます。ここでは間主観性とかエゴ(単独者)という語彙が出てきます。「私の心が私の超越的エゴの自己客観化であることが私にとって確実であり、超越論的な解説によってすでに理解されているとすれば、他者の心も一つのエゴを、しかも私のとは別の超越論的エゴを指示している。しかし他者がそのエゴを把握するためには、彼自身の経験の中に予め与えられている世界から《現象学的還元》によって最終的に構成する生活へ立ち帰って問うことによってである。」次に超越論的独我論の仮象という小節の中でこんな論考に気を留めました。「ここで言う超越論的仮象とは、一貫した超越論的哲学に着手しようとするすべての試みを最初から惑わせ、多くの場合その試みを鈍らせてしまうような仮象のことであり、超越論的哲学は必然的に超越論的独我論に陥らざるをえないであろう、と思わせる仮象のことである。~略~この謎が解消されるのは〈私にとってつねに現存し、つねに私の経験から意味を獲得し、そしてその意味を検証している世界の意識事実の中に伏在している構成についての問題設定〉が解きほぐされ、そしてさらに体系的な順序に従って次々に明示される場合である。」次に哲学者にとっての論理学の諸研究について考察した箇所がありました。「哲学する人は、われわれが正当な理由があってたびたび強調してきた事柄を、最初から明確に自覚しなければならない。すなわちそれは、彼にとって存在し、しかもこれかあれかであり、これとして彼にとって存在と妥当性をもちうるはずの事物はすべて、彼にとってはその存在物独自の特殊性に対応する志向的な能作の形態で、独自の《意味付与》から生じた形態で彼に意識されているはずである。」今回はここまでにします。

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