「諸原理の明証性批判から経験の明証性批判へ」第82節~第84節について

「形式論理学と超越論的論理学」(エトムント・フッサール著 立松弘孝訳 みすず書房)の小節のまとめを行います。第二篇「形式論理学から超越論的論理学」の第4章「論理学の諸原理の明証性批判から経験の明証性批判への回帰」に今日から入ります。これも第3章同様に題名が長いので、題名表示を多少省略をさせていただきました。今回は第82節から第84節までを読み解いていこうと思います。最初に還元という語彙が出てきます。まず冒頭に「われわれが最初になすべきことは判断から判断の基体への回帰、諸真理からそれらの関連対象への回帰でなければならない。」という問いかけがありました。「現実の判断も可能な判断もそれらはどれも、われわれがその統語の仕方を調べてみると、究極の核へ立ち帰ること、したがって〈どの判断も最後には、もはや何の統語の仕方も含まぬ複数の要素的な核からなる、一つの統語論的な構造であり、場合によっては非常に間接的な構造でもありうること〉を、アプリオリに洞察しなければならない。」また「還元とは、われわれが純粋に思念と追跡して、究極的な或るものの思念内容に到達すること、すなわち何よりもまず、思念された判断の対象について、思念された絶対的な論題の対象へ到達することであり、そしてさらに、さまざまな段階の判断が構築される基盤となる究極の諸判断の場合には、意味の範疇的な根本的諸変化へ、すなわち絶対的な或るものへ、意味としての絶対的な諸特性、諸関係などへ回帰することである。」とありました。次に諸真理の類似した還元についてです。「判断が究極的な意味をもつ究極的な判断へ還元されるのに対応して、真理も高次の段階の真理から最低段階の真理へ、すなわち諸事象とそれらの各領野に直接関係する真理へ還元される。換言すれば、そこでは各基体が指導的な役割を果たしているのであるから、それぞれの対象領野に含まれている個々の対象と関係する真理へ還元されるーちなみに個々の諸対象とは、それら自身の内に判断の統語を少しも含まず、しかもそれら自身の経験可能な現存在についてはあらゆる判断作用に先だって存在するものである。」次に明証性の階層についての論考です。「種々の判断とそれらの判断意味の階層には種々の明証性の階層が随伴しており、本来最初の各真理と明証性は、個物のそれらでなければならない。〈明証性の、しかも実際に最も根源的な明証性、すなわちその各基体と各事態を根源的にまったく直接把握する明証性という形式で、主観的に形成される各判断〉はアプリオリに個物判断でなければならない。」今回はここまでにします。

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