三連休 板材二層目に突入

今日は天皇誕生日の振替休日で、三連休の最終日になります。今日も朝から工房に篭りました。新作の屏風になる板材は一層目が出来上がり、今日から二層目に突入します。一層目は全体に格子模様を刳り貫いていますが、二層目はどこを刳り貫こうか考えながら、作業をすることにしました。私がイメージしているのは、岩壁に空洞が不規則に開いた古代遺跡です。嘗て見たトルコのカッパドキアの奇岩群に、キリスト教徒が住みつき、ちょっとした集団住居になっていた風景がありました。既に記憶が消えかかっているので、頭の中でその住居を象徴化していくしかイメージは捉えられません。でも、滞在当時は暗い穴倉を訪ね歩いたことを微かに思い出すことが出来ます。新作では、壁沿いに荒廃した住居があって、そこに有機物となった陶彫が絡みついた状態を作ろうとしていて、通常ならおどろおどろしさを感じさせるところですが、古代出土品を思わせる素材の雰囲気と、造形芸術への志向が救いになって、彫刻作品としての佇まいを辛うじて留められるのではないかと思っているのです。とにかく二層目はデザインが決め手です。漸く面白味のある制作工程まで辿り着いた感じがしています。先のことを言えば、一層目と二層目を接着し、そこに砂マチエールを施します。さらに油絵の具を滲み込ませる工程がありますが、過去の作品はブラウン系の色彩を使いましたが、今回はグレートーンにしようかと思っています。下地の色彩はやや明るめのイメージを持っていて、陶彫部品が際立つようにしようと決めています。過去の作品は陶彫の素地と砂マチエールを馴染ませようとしてきましたが、今回はその逆をいきます。今日から板材二層目に突入して、徐々に先のイメージが明確化してきました。この三連休は木材加工ばかりに追われてしまいましたが、イメージの具体的な把握という大きな収穫もありました。三連休とも朝から夕方まで集中して作業に取り組んでいて、身体が悲鳴を上げる一歩手前までやってきていました。ウィークディの仕事も来年度人事に関わる仕事が始まっていて、なかなか厳しいなぁと思っています。私は花粉症で、今ひとつ体調がすぐれない日もありますが、今年は新型コロナウイルスが今後どうなっていくのか、社会情勢にも目を凝らさなければならないなぁと思っているところです。手洗いとうがいは欠かせなくなりました。

三連休 板材一層目の完了

三連休の中日で天皇誕生日です。朝から工房に行って、ずっと取り組んでいる板材の刳り貫き作業をやっていました。今日は美大の受験準備をしている高校生が来て、鉛筆デッサンをやっていました。彼女は週1回必ずやってきて、真面目に基礎トレーニングを積んでいます。受験生の頃は私もそうでしたが、デッサンにも紆余曲折があって、上達にストップがかかる時があります。今日の彼女の顔色を窺っていると、なかなか苦労している様子が見えました。夏からデッサンを始めて半年が過ぎ、ちょっとした曲がり角に差し掛かっているのかもしれません。逆に私の制作は好調でした。新作は厚板を2枚重ね合わせたものを6点用意し、それを屏風に仕立てます。一層目の板材は全体的に格子模様を刳り貫き、またその中に陶彫部品が接合されるので、その部分も刳り貫いているのです。二層目は一層目のように全体の格子模様を刳り貫くことはしません。ところどころ刳り貫いたデザインにしようとしています。陶彫部品は二層目の板材にボルトナットで接合していきます。そんな構造になりますが、今日は一層目の格子模様を全て刳り貫きました。6点全部が完了してホッとしました。すぐ二層目の板材に重ねて様子を見ました。イメージ通りになって嬉しいと感じたのと同時に、当初鑿で高低差をつけようとしていましたが、刳り貫いたままの状態がなかなか良いので、このままでいくことにしました。6点の板材刳り貫き作業で、木っ端や木屑が大量に出ました。小分けにしてゴミ袋に入れました。明朝木っ端や木屑を地域のゴミ収集場所に持っていきますが、私はこの時ばかりは迷惑な住民と思われるでしょう。夕方、受験生を車で送ってきました。明日から二層目に取り掛かります。

三連休 制作&母の税務処理

三連休になりました。天皇誕生日が日曜日にある関係で、月曜日が振替休日になり、この時期に三連休が設定されているのです。三連休初日は、このところずっと関わっている板材の刳り貫き作業を工房でやっていて、何とかこの三連休で1層目の刳り貫き作業から2層目の作業に入りたいと願っています。板材は6枚を使って屏風にする予定で、今日は最後の6枚目の刳り貫き作業をやりました。先週の日曜日に窯に入れて焼成した陶彫部品が無事に出来上がり、これで屏風に接合する陶彫部品はほぼ出揃いました。陶彫部品が出揃うということは、部品それぞれの正確な大きさが測れるため、刳り貫きは細かいところまでやれるのです。工房では朝から木屑にまみれて作業をやっていました。今日の作業は早めに切り上げることにしていました。夕方、自宅に税理士を呼んでいたためです。毎年恒例になった母の税務処理をしてもらっていて、お世話になっている税理士とはもう10年以上の付き合いになります。母は不動産を所有していて、それを利用して介護施設に入っています。税務署への申告は、私一人では出来ないため、税理士にお願いしているのです。私たち夫婦も母に送られてくる書類の何が必要なのか、長くやっている間に仕分けが出来るようになりました。少し前に比べれば、税理士との書類のやり取りも簡略化されてきたのではないかと思っています。とりわけ家内がそちらの道に長けてきました。税理士も随分助かると言っていました。税理士が帰った後、自宅リフォームの業者がやってきました。先日システム・キッチンをショールームに行って決めてきましたが、その書類上の確認が必要で、何度目かになる打合せを行ないました。打合せは夜遅くまで行なっていましたが、これは自宅を私たち夫婦の老後の快適な住まいにするための、どちらかというと前向きなものであって、言うなれば1年後に退職を控えた私の心の準備でもあるのです。公務員は退職がありますが、彫刻家にはそんなものはありません。創作活動は退職後が勝負と思っていて、何事にも捉われない時間の確保によって、さらに充実した作品に全てを結集していきたいと考えているのです。その時に日常生活も創作とコラボレーションしたものにしようと願っています。生活環境が創作へ与える影響が大きいと常日頃から感じているためで、自分の生涯をかけた目的でもあるのです。

鑑賞者としての学び

私の職場で発行している広報誌に禅画に関する文章を寄稿しました。このところ鞄に携帯している書籍として「あそぶ神仏」(辻惟雄著 ちくま学芸文庫)に親しんでいて、禅画を扱った章に登場した白隠と仙厓の世界観に、私自身もいろいろ考えさせられることがありました。鑑賞者として作品を見るには、それなりの学びがないと作品を堪能できないと私は実感しています。白隠と仙厓の世界観を利用して、そんなことを広報誌に書きましたが、鑑賞する側の学習準備は、禅画に限らず抽象絵画にしろ、現代のアート全般にも言えることです。ルネサンス以降の写実絵画は、いわゆる写真に近く、対象を絵画理論に基づいた正確さで描いています。それは絵画の良し悪しを分かり易い判断で決められると私は考えます。うまいか、へたかという判断基準は、見方や感じ方について洞察をする必要もないからです。ただ、うまいか、へたかの価値づけはうわべだけをなぞるだけで、表面に現れたもので芸術の何たるかを考えることにはなりません。自分が不可解に思える芸術に接した時が、自らの見方や感じ方を問い直す契機になると私は考えています。作者の思いや社会背景や時代を先取る前衛的な思考などを考慮して、初めて作品の価値が分かるものです。白隠と仙厓の禅画は、若い頃私が感じたことと、現在私が感じていることの間に大きな隔たりがあります。展覧会を見に行くことは、非日常の世界に接することで己の心を開放し、それによって癒されると同時に、自分の固定観念に対する新しい感覚の開拓を求められることにも繋がっています。私にとって展覧会場は休息の場であり、学習の場でもあるのです。鑑賞者としての学びは、創作活動への応用でもあります。私が実技と鑑賞を両輪と考えている要因は、そんなところにあるのです。

「浮世絵春画と性器崇拝」について

「あそぶ神仏」(辻惟雄著 ちくま学芸文庫)のⅢ「浮世絵春画と性器崇拝」についてのまとめを行います。私が浮世絵春画に出会ったのは20代の頃、ヨーロッパに住んでいた時代でした。ウィーンの芸術書を扱う書店に、ドイツ語版の浮世絵春画の画集がありました。そんな書籍を日本で見たことがなく、芸術書としての扱いに驚くと同時に妙に納得してしまった自分がいました。さっそく購入して下宿先で見ていましたが、それを見たからといって刺激を与えられることもなく、性器の誇張がパロディのようでいて、いかにも日本人らしいなぁと感じました。性器崇拝に関して文中から拾います。「道祖神は元来、境にあって異界から共同体を護る僻邪神であり、豊穣多産の神であって、男根、女陰をかたどるものであった。それが現在の双体道祖神のほとんどのように、手を取り合う男女といった微温的なものに変わったのは、性行為の露出が人倫にもとるとする近世の儒学者の非難をかわすための方便と見られる。しかしその底にある性器崇拝の思想は根強く伝えられ、決して根絶やしにはなってない。」縄文時代から日本人は大らかで、性に対しても開放的だったのではないかと思う節があります。春画にしても陰気な感じがせず、私はそこに様式美を感じ取ってしまいました。「春画における性器誇張の由来は、まず『古今著聞集』にあるような『絵そらごと』としての視覚効果の追求に求められる。だが民俗学的観点に立つならば、そこには同時に、縄文以来のphallicism(男根崇拝)の伝統を引く呪術性ー僻邪、多産、和合の神としての性器崇拝の観念が多分に重なり合っているように思われる。江戸時代後期になると、都市の春画と地方農村の道祖神との間に興味深い影響関係があらわれる。春画の図様が道祖神に取り入れられ、春信の『口すい』が接吻道祖神といわれるものに転用される。一方、春画の性器誇張が一段と高じるのが18世紀後半になってからである。」

仙厓の生涯と絵画について

「あそぶ神仏」(辻惟雄著 ちくま学芸文庫)のⅡ「近世禅僧の絵画」のうち、白隠に次いで仙厓のまとめを行います。私にとって白隠に比べると仙厓は未知の禅僧で、どこかの展覧会で童心をそそる「指月布袋図」を見たことがあるくらいです。仙厓の生涯を紐解くと、白隠と同じように長寿を全うしていて、しかも晩年になるにしたがって、画風は円熟期を迎えています。仙厓は、寛延3年(1750)今日の岐阜県武儀郡武芸川町高野に生まれていて、貧農出身であったことが分かっています。文中には「11歳に当たる宝暦10年、近くの清泰寺の住職空印円虚に望まれて徒弟となり清泰寺で得度したと伝える。」とありました。天明7年、仙厓に大きな転機が訪れ、博多の聖福寺に赴くことになったのでした。「75歳の盤谷(住職の盤谷紹適)は仙厓の人物と学識に引かれて自らの後継者と決め、翌寛政元年(1789)仙厓は40歳で清福寺第123世住職を襲った。以後88歳で亡くなるまでの約半世紀が『博多の仙厓』の時代である。~略~藩の武士や地元の文人、儒者、商人から近所の長屋の酒吞み、児童にいたるあらゆる階層の人たちの求めに応じて気軽に書き与えた彼の軽妙飄逸な書画が、その明るい気質と機知に富んだ言動と相まって『博多の仙厓さん』の名声はうなぎ上りに高まり、殺到する書画の注文が彼を悩ますようになった。」仙厓の絵画を見てみると、白隠に比べて温和な画風で、文中にこんな箇所もありました。「彼は、箱崎浜、袖の湊、大宰府、玄海島など、博多近郊の風景をこよなく愛し、これらの真景図を多く残している。~略~総じて彼の絵画は、同時代の人に文人画と呼ばれている例があるように、白隠画に比べ南画的要素がはるかに強い。」これが仙厓の仙厓たる特徴だろうと思うところですが、玄人まがいの技巧を身につけた書画は、その後一転していきます。彼の代表作「寒山拾得・豊干図屏風」にはこんな文章がありました。「仙厓の全作品の中にあってむしろ異例なほどその描写が稚拙で粗っぽいことに意外な感じを受けるだろう。これまであげたような彼の5、60歳代の諸作品は、彼の筆技がその器用さにも助けられて熟達の度を増し、専門画家の域に達しつつあることすらうかがわせるのだが、この屏風の画風はそうした方向にむしろ逆行する。」これはどういうことでしょうか。「たしかなことは書画とも相まって彼が目指す境地ー技巧の衣装をすて彼の人格が直接滲み出るような『無法の法』に近づいていったということである。」成程、そういう境地に達したことだったのか、これを知って私は改めて仙厓の魅力を感じ取った次第です。

白隠の生涯と絵画について

「あそぶ神仏」(辻惟雄著 ちくま学芸文庫)のⅡ「近世禅僧の絵画」のうち、白隠についてのまとめを行います。私が白隠を知ったのはいつごろだったのか、そんなに昔のことではないように思っています。白隠の達磨像を見て、今風の漫画のように描かれていて、しかも伸び伸びとした自由闊達な運筆に、不思議な迫力とともにかなり奇異な感じを持ったことで印象に残っているのです。文中に「彼の画や書の力作には、隣に並んだ一流の画家や書家の技巧を吹きとばしてしまうような恐るべき破壊力が秘められている。『白隠の絵には私とても美を感じません。エタイの知れぬ力丈を感じます』とは、白隠の蒐集家として有名な故山本発次郎氏の言葉である。」とありました。まさにその通りで、白隠の作品は一見して記憶に刻まれてしまう特異な作風があると思っています。白隠の生涯を紐解くと、貞享2年(1685)12月25日に駿河国原(沼津市原)に生まれています。「11歳のとき、母に伴われ日蓮宗の僧が地獄の苦しみをつぶさに語る説法を聞いて大きな衝撃を受け、母と風呂に入ったとき薪の火を見て焦熱地獄を思い出し泣き叫んだという、異常に感受性の鋭敏な子であったらしい。以来、地獄に対し恐怖心抜けやらず、それから逃れるには出家以外にないと思いつめ、両親に願い出て15歳のとき出家し、時の松蔭寺の住職単嶺のもとで禅を学び慧鶴と名づけられた。」その後、正受老人の薫陶を受けて「白隠が得た教訓は、一度や二度の悟りの体験で自己満足せず徹底を求め不断の修行をつみ、禅定力、いいかえれば信念の精神力を不動のものにすることの必要性であった。」白隠は84歳で生涯を閉じていますが、弟子によって年譜が2つに分けられています。「白隠のくわしい年譜をつくったその後継者の東嶺はこれまでの白隠の42年間を『因行格』すなわち彼が自己の向上を求めて修行を重ねた時期とし、以後の42年を『果行格』すなわち彼が利他行ーそれまでの修行の結果として得たものを人に伝えひろめることーのために全力を投入した時期としている。」とありました。「隻手の声」は一般人が悟りを開く公案として有名になりました。白隠の絵画として有名なものは達磨を描いた祖師像ですが、戯画も多くあって、なかなか愉快な世界を形成しています。「白隠の禅画の中で数の上では最も大きな割合を占め、かつ親しまれているのが、市井の風俗や擬人化された動物などを画題とした戯画である。ただの戯画でなく、画にかこつけて禅の思想を民衆に対しておもしろおかしく説いた寓意戯画であり、布袋のような禅機図上の人物もこれに加わって画題を賑わす。」とあり、老いてますます盛んになるエネルギッシュな画風は最晩年まで続きます。「龍沢寺の自画像は恐らく白隠の絶筆に近い作品であろう。最晩年の特徴であるプロポーションのくずれがここにも目立ち、手は異常に大きい。指には爪が長くのびていて、維摩像のそれを思わせる。もはやこの世の人とは思えない風体なのだが、ひきつけられるのはその前方に注がれた『雲一点もない青空のような空虚の瞳』(草森紳一)である。」

イサム・ノグチの幼少期について

「石を聴く」(ヘイデン・ヘレーラ著 北代美和子訳 みすず書房)は「イサム・ノグチの芸術と生涯」を扱った評伝で、第2章と第3章のまとめを行います。第2章「ディア・ベイビー」はイサム誕生のことが書かれていました。「イサム・ノグチは1904年11月17日、ロサンジェルス群立病院で生まれた。これは慈善病院で、レオニーにはそれ以上の余裕がなかった。~略~『ロサンジェルス・ヘラルド』紙が『ヨネ・ノグチの赤ちゃん、病院の誇り、作家の白人妻、夫に息子を贈る』の見出しで記事を掲載した。~略~ノグチは自分の誕生についてこう考えをめぐらせている。『ぼくは偶発的な事故であり、不慮の出来事であり、迷惑だったのではないかと疑っている』」。両親の事情を知るにつけ、イサムの誕生は喜ばれてはいないことを本人も知っていたのでした。次にレオニーが日本行きを決めた理由が当時の社会動向にあったことが書かれていました。「レオニーが日本行きを決意したきっかけは、日本人移民に対するカルフォルニアの考え方が変わったことだろう。日露戦争中、アメリカ人は親日的だった。しかし戦後、日本が中国大陸でとった拡張主義はアメリカ側から非難を浴びており、とくにカルフォルニアにおいてはそれが顕著だった。~略~息子に荒々しい誇りを抱き、人種差別の棘から守ろうとする母親にとって、こういった変化はたしかに落胆を誘った。」第3章「東京」にイサムが2歳の時に母子は船で日本に渡ったことが書かれていました。出迎えた野口米次郎がイサムという名を付けたようですが、日本での母子の立場も微妙で、とりわけ文化の違いに戸惑っている様子が伺えました。こんな文章が目に留まりました。「レオニーとヨネ(米次郎)はイサムの文化的混乱を悪化させたかもしれない。『あなたは日本のベイビー?』とレオニーが尋ねると、イサムは父親のほうを向き、イエスと言った。ヨネがアメリカ人のままでいたいかと尋ねると、母親のほうを向き、イエスと言った。」イサムの創作への契機はどんなところにあったのか、イサムは自伝にこんなことを書いています。「『最初のうれしい思い出は、新設の実験的な幼稚園にいくことだった。園には動物園があり、園児たちは手を使ってものをつくることを教えられた。ぼくの最初の彫刻はそこでつくられた。粘土を波の形にし、青い釉薬を使った。』イサムの波の彫刻は『幼稚園でかなり話題になり、母はそのことを決して忘れず、ぼくがいつの日かアーティストになることを期待しつづけた。』」この幼稚園は今も現存する森村学園です。世界的彫刻家の初めの一歩はこんなところにあったのかと思いました。

週末 久しぶりの窯入れ

昨日、窯のメンテナンスを終えて、今日は窯入れの準備を行いました。今月の週末はずっと工房で板材刳り抜き作業を行っていたので、久しぶりの窯入れは新鮮でした。新作の屏風にはそれぞれ陶彫部品が接合される予定になっています。その陶彫部品は全て焼成が終わっているわけではありません。屏風は厚板6枚で構成しますが、5枚目と6枚目に接合する陶彫部品がこれから焼成をしていくのです。陶彫部品は乾燥すると、やや縮んできて、最後に焼成するとさらに縮んでいきます。今月は板材刳り抜きを始めている最中ですが、5枚目と6枚目に接合する陶彫部品の正確な大きさが焼成前は掴めないため、今日は板材刳り抜き作業を中断せざるを得なかったのでした。そこで乾燥した陶彫部品6点を今日窯入れすることになったわけです。窯入れの準備として、私は陶土表面の指跡を消すためにヤスリをかけていきます。その後に化粧土をかけて窯に入れます。窯内を3段に区切って、それぞれの段に2点ずつ陶彫部品を置きました。陶芸による器と違い、不規則なカタチをした陶彫部品はどうしても隙間が出来てしまいます。それでも組み合わせを工夫して、何とか6点の陶彫部品を窯内に収めました。6点の仕上げと化粧掛けとなると、ほとんど一日がかりで、今日はついに板材に取り組むことが出来ませんでした。今日は朝から若いアーティストが工房にやってきていて、染めの作品に挑んでいました。彼女は茨城県の展覧会に間に合わせるため、このところずっと工房に通ってきているのです。私は一人で制作しているよりも、勢いのあるアーティストが近くで制作してくれている方が張り合いがあって仕事が進みます。休憩時間に楽しい話も出来ました。私はテキスタイルは平面ではなく空間造形だと思っている節があります。布は空間を漂う素材です。そこに意図する何かが染められて、しかも染めが重層になっているのならば尚更空間的なものがそこにあるはずだと思っているのです。彼女も私の主張に納得しているようでした。寧ろ彼女の作品が極めて空間的なのかもしれません。私の作る彫刻は、実際の凹凸があって唯物的ですが、重層的な染めには、形而上的な距離感を感じるのは私だけでしょうか。染めには記憶もあると彼女は言っていました。そうなれば空間だけでなく時間もそこにあるはずです。話は尽きなくなるので、そこで打ち切りましたが、そんな会話が楽しめるのはとてもいいなぁと感じているところです。来週末も制作を頑張りたいと思っています。

週末 窯のメンテナンス&自宅リフォーム職人下見

週末になりました。今月の週末は朝から工房で木材加工に取り組んでばかりいて、単調な作業が続いています。今日も例外ではなく新作の屏風になる厚板材に格子模様を刳り貫く作業を行っていました。朝10時になると窯の世話をしていただいている業者がやってきました。工房にある窯は定期的にメンテナンスをしていただいていて、先週業者が見に来られた時に、窯の周囲の鉄板に錆が出ているのが気になると言っていました。今日はその錆を削りとって耐熱用の塗料を施すメンテナンスをやっていただきました。私は陶彫作家としては焼成の数が多く、それだけ窯を使用しているので窯の管理は欠かせません。ただし、私は焼成に釉薬を使わないので、釉薬が流れたり、飛び散ることがなく、窯の内部はいい状態に保てているのではないかと思っています。1時間くらいの修理で窯が生まれ変わったようになりました。日常では有り得ないほどの高温になる窯は、常に危険な要素を孕んでいます。自分の安心のためにもメンテナンスをやっていただいているのです。業者が窯の修理をしている間も、私は板材の刳り抜きをやっていました。漸く昼過ぎに5枚目の刳り抜き作業が終わりました。午後は自宅に戻って、このところ何回も続いている自宅のリフォームのための打合せを行ないました。2時ごろに建築業者が職人を連れて自宅にやって来ました。大幅に変更する和室の状態と入れ替えをするシステム・キッチンの具合を職人さんは念入りに下見をしていきました。今まで机上の打合せだったのですが、漸く工事が始まるのかなぁという意識になりました。実際の工事は3月中旬になりますが、この下見にも1時間半くらいの時間がかかりました。夕方、再び工房に戻って、板材の刳り抜き作業の続きをやっていました。板材の1層目は残り1枚で終わりますが、来週末から2層目に取り組めそうです。明日は久しぶりに窯入れを考えています。ちょうどメンテナンスを終えて良好な状態になった窯で焼成できることが楽しみになっています。

禅画について学ぶ

「あそぶ神仏」(辻惟雄著 ちくま学芸文庫)のⅡ「近世禅僧の絵画ー白隠・仙厓」の中で、禅画とは何かを取り上げた箇所についてまとめを行います。「禅という、彼ら(欧米人)にとってはなはだ異質で難解な、それゆえ興味をそそる思想の図解として、禅僧の遺墨が期待されているむきがある。」という文章に示されているように、日本に興味関心が高い欧米人は、禅を知ろうとしてさまざまなアプローチをしている人がいます。私自身も禅のことをよく分かっていないのに、20代の頃ヨーロッパで暮らしていた時に、禅のことを彼らに問われて苦慮したことが思い出されます。私は禅について無知なことばかりで焦りを感じたと言った方がよいかもしれません。最近になって禅画の代表とされる白隠や仙厓のことを知り、禅画について、またそれが生まれる契機となった禅体験についても多少学ぶ機会を持ちました。「白隠の書画は、彼の禅体験と個性の結びつきから生まれた。他に類のないものであるし、仙厓の戯画もまた、南画や俳画と重なる要素を持つとはいえ、それらと一線を画すその独特な性格は、疑いなく彼の禅体験をくぐって生まれたと見られるからである。」ここで禅画の母胎となった道釈人物画についての説明がありました。「道釈人物画とは、仏教絵画に道教的な主題を合わせた呼称で、釈迦や観音、普賢、文珠、不動、羅漢、維摩といった仏像、達磨にはじまる禅宗祖師像、老子、蝦蟇鉄拐など、そして『禅機図』がこれに含まれる。」これはいわば絵のモチィーフです。さらに先を読んでいくと、私でも知っている禅僧が登場してきました。まずは雪舟の「慧可断臂図」で「禅と絵画との接点を彼なりに真摯に追求した気魄のこもる作品である。」とありました。次に一休で「一休の書は知られるようにきわめて個性的であるが、その画もまた稚拙なままに奔放な彼の個性をよく反映している。」そして沢庵。「春屋門下の傑僧沢庵宗彭もまた味わいある禅機図や山水画を手がけていた。」さらに先日NOTE(ブログ)で紹介した風外慧薫。「関東にあって文字どおり野の乞食僧としての生活に終始した曹洞宗の風外慧薫の画が注目される。~略~彼の画風もまた中世禅道の余技画の継承の、最後の余映として位置づけられるのだが、そこにはまた、同時代の上方の禅僧画の持たない素朴な野性や純真なユーモアが含まれていることも見逃してはなるまい。」禅画に関しては白隠や仙厓にまだ触れておらず、さらに知識をつけていきたいと思っています。

イサム・ノグチの両親について

先日から「石を聴く」(ヘイデン・ヘレーラ著 北代美和子訳 みすず書房)を読み始めています。本書は「イサム・ノグチの芸術と生涯」を扱った評伝で、最初の章は両親について書かれていました。日米混血として誕生したイサム・ノグチ。その両親の事情は微妙な関係だったようです。結果論になりますが、イサム・ノグチが世界的な芸術家になったおかげで、両親も脚光を浴びたと言えます。父である野口米次郎は、アメリカでそこそこの活躍はあったようですが、日本では知られた詩人ではありませんでした。母のレオニー・ギルモアはノグチを育て上げた功績だけで、自身の文学は認められませんでした。文中からまず母についての文章を拾います。「レオニー・ギルモアは、並はずれて因襲にとらわれない独立独歩の女性だった。~略~写真では眼鏡をかけ、繊細で女教師風、いかにもアイルランド人らしいが、それが好もしい魅力になっている。」米次郎がアメリカで詩集を出すため翻訳を引き受けたのが、2人の馴れ初めでした。「米次郎のぎこちない英語にもかかわらず、詩の愛好家レオニーは詩の創造に関わるのがうれしかった。米次郎の詩はラプソディ風で陳腐になりがちだったが、レオニーがそのロマンティシズムに惹かれていたのは明らかだ。」次に米次郎についての文章を拾います。「長期にわたって外の世界から孤立していた日本は西欧に追いつくことを希求し、米次郎が慶應義塾に入学したとき、カリキュラムは西欧文化に重きをおいていた。米次郎は英語を学び、当時の多くの学生同様、渡米を夢見た。」アメリカにわたった米次郎は現地の小学校に通い、掃除、皿洗い、給仕などをやっていたようです。また文学者とも付き合い、その中で同性愛者だった詩人ストッダードとの愛情関係も取り上げられていました。米次郎はレオニーとはビジネスライクより一歩進んで親しい関係になったものの、彼にはエセル・アームズという恋人がいたようです。レオニーは米次郎の子を妊娠しましたが、エセルとの関係解消とはならず、レオニーは相当苦しんだことが伺えます。こうした事情を踏まえると、イサム・ノグチは焦がれて生まれた子ではなかったことが分かりました。帰国後の米次郎について、こんなことが書かれていました。「(米次郎は)日本語で書き、出版するのは不可能だと思い知る。日本人は、ヨネ・ノグチはその作品においてもあまりに西欧化されたとみなした。『どうみても異人らしく、眼玉の色の青い所など、なかなか日本人とは思われない』と有名な詩人の荻原朔太郎は書いた。何年もあと、米次郎はひとつの詩のなかで認めた。『僕は日本語にも英語にも自信が無い/云はば僕は二重国籍者だ』。同じようにイサム・ノグチは言うだろう。自分はどこにも所属しない、自分は世界の市民なのだ、と。」

銅鐸について

先日、東京上野にある東京国立博物館平成館で開催中の「出雲と大和」展に行ってきました。前にNOTE(ブログ)に書いた記事では、出雲と大和の相違を図録を利用して述べただけで、展示品については触れていなかったので、今回は銅鐸について述べていきます。さまざまな展示品の中で、私は形状から言って銅鐸に一番惹かれます。その鐸身に施された市松文様や重弧文や絵画的な線描にとりわけ興味が湧きます。私は銅鐸を純粋に美術作品として見て、自作に繋がる要素を見取っていると言えます。銅鐸がアートとして美しいと感じるのは私だけではないはずです。銅鐸は、弥生時代に中国大陸から伝来した鐘(鈴)で、鐸には青銅製の楽器という意味があるそうです。鐸身の内側に舌(ぜつ)を垂らして、それを揺らして音を鳴らしていたようで、梵鐘のように外から叩いた形跡はないのが分かっています。しかも時代と共に大型化して、楽器から祭器に変化したと推察されています。つまり聞くモノから見せるモノに変わったということでしょうか。銅鐸は西日本で多く出土しているため、日本の古代文化は西南が盛んだったことが判ります。図録に「近畿地方や北部九州と複雑に絡み合い、独特な青銅器祭祀を展開した出雲。この地域では弥生時代中期末から後期初頭において、他地域に先駆けていち早く銅鐸が埋納され、それ以降完全な形をした銅鐸は姿を消す。これは銅鐸が単なる農耕祭祀のシンボルではないことを示唆している。」(井上洋一著)とありました。まだまだ謎の多い銅鐸ですが、もちろん芸術的価値観など存在しない時代の産物で、古代の人々がどんな場面で使用したものなのか、またまとめて埋納したのは何故か、さまざまな学者の論考があるのも、私にとっては古代に対する魅力のひとつになっています。

「建国記念の日」は創作活動邁進

今日は「建国記念の日」で、職場としては勤務を要しない日でした。今日は国民の祝日ではあるのですが、昔から私は「建国記念の日」がしっくりせず、毎年この日を迎えています。建国記念日はどこの国にもあり、独立記念日だったり、国家が創建された日だったりしますが、わが国は建国した日が定かではありません。言うなれば日本書記が伝えるところの初代天皇である神武天皇の即位日になっていますが、神武天皇が果たして実在していたのかどうか、はっきりした証拠がありません。それでも明治5年(1872)に日本書記の記述を信じて「紀元節」が制定されましたが、第二次大戦後に天皇を崇拝する国家神道を、当時の米軍が排除する動きがあったため、結局紆余曲折を経て昭和41年(1966)に「建国記念の日」として制定し直しました。これは建国がはっきりしないため、建国されたという事実そのものを記念する意味があるようです。「建国記念日」ではなく「建国記念の日」としたのはそんな事情があってのことだとネットで知りました。私はそんな謎めいた歴史を有する日本という国が大好きです。先日、東京上野で見た東京国立博物館平成館の「出雲と大和」展は、そんな日本の謎に挑んだ企画展でした。私は古代が好きで、自らの創作活動も「発掘シリーズ」を突き詰めています。そこで「建国記念の日」である今日は創作活動に邁進することにしたのです。作業内容は相変わらずの板材刳り貫き作業でしたが、屏風6枚のうち4枚目が完了しました。まだ1層目なので、2層目のことを考えるとまだ半分くらいの工程かなぁと思いますが、刳り貫き作業は漸く慣れてきて、手際がよくなりました。5枚目に取り掛かったところで、5枚目と6枚目はそこに接合する陶彫部品の焼成が終わっていないために、正確な大きさが割り出せず、陶彫部品の面積を刳り貫くことは出来ませんでした。次の日曜日に窯入れをしようと計画しています。今日は充実した「建国記念の日」を過ごすことが出来ました。

「石を聴く」を読み始める

「石を聴く」(ヘイデン・ヘレーラ著 北代美和子訳 みすず書房)を読み始めました。副題が「イサム・ノグチの芸術と生涯」とあって、本書は度々このNOTE(ブログ)に登場する日系アメリカ人彫刻家イサム・ノグチの評伝です。イサム・ノグチの評伝と言えば、何冊か自宅の書棚にも置いてあります。既読のものは「イサム・ノグチ」(ドウス昌代著 講談社)、「評伝イサム・ノグチ」(ドーレ・アシュトン著 笹谷純雄訳 白水社)、「夢みる少年ーイサム・ノグチー」(柴橋伴夫著 共同文化社)、「素顔のイサム・ノグチ 日米54人の証明」(四国新聞社)があって、その他にも庭園に関する評論集や作者自身が著したエッセイもあります。作品写真集やイサムの母に関する評伝もあり、和訳されたものはほとんど私は手に入れているのかもしれません。作家別の関連著作で言ったら、ジャコメッティよりイサム・ノグチの方が多く書棚に有していると思います。生い立ちは既読の書籍で十分知っているにも関わらず、また別のものを読み始めることはどういう意味をもつのか、これは著者の捉え方によってイサム・ノグチの世界観に別の視点が加わることを、私は期待しているのです。私の中でイサム・ノグチほど魅力を発信した芸術家はいないと思っているからで、その足跡を辿り、私自身の彫刻を考える上で己の指標になると信じているのです。香川県高松にあるイサム・ノグチ庭園美術館に私は2回訪れていて、普段の生活と創作活動が密接な繋がりがあることを確認してきました。自分の生き方や考え方、生活の周辺に至るまで全てが創作活動に集約されていく人生を自分も送りたいと考えていて、その理想的な人生の在り方がまだ出来ていないことに苛立ちを覚えることもあります。前に知人が言っていた65歳から75歳までの10年が理想的な環境の下で創作活動に邁進できるようになるでしょうか。いずれにしても自分次第ですが、「石を聴く」を読みながら自分の伸びしろを信じ、創作活動をもう一度見直し、自分にとって最良の道を選びたいと考えているところです。

週末 若い人たちに背中を押されて…

昨日と違い、今日は身体が動き易く工房での制作は進みました。珍しく今日は2人の若いスタッフが来ていました。一人は大学及び大学院でテキスタイルを専攻し、染めの技法を駆使して自己表現に挑んでいる若いアーティストです。彼女は茨城県で個展を開催するらしく大きな布にロウケツ染めをやっていました。染めは描写とは異なり、染め粉を流したり、色彩を留めたりして自分のイメージに合わせてコントロールをするものです。彼女の方法は、ロウケツ染めと言っても通常の文様がしっかり浮かび上がるものではなく、微妙な色彩の綾が織り成す効果を求めて、手探りで重層的な表現を極めているように思えました。何点か作っておいて、ギャラリーの空間を見ながら作品を選んで展示方法を考えた方が良いのではないかと私はアドバイスをしましたが、最終的には彼女のセンスで決定するのです。どんな空間が創出できるのか楽しみでもあります。もう一人は高校生で、美大を目指して鉛筆による静物写生を描いています。この子はこれから長い道のりがあるなぁと思いつつ、地道な努力を続ける子なので、今後どんな飛躍があるのか楽しみでもあります。創作活動は決して華々しいものではありません。コツコツとした制作姿勢から何かきっかけを掴んで自己表現を確立するものです。また自己表現が確立しても、そこに安住できるものではなく、常に流動していくものではないかと思うのです。大きく言えば破壊と創造の繰り返しです。そんな若い人たちに背中を押されて、私も相変わらずの板材刳り貫き作業を頑張っていました。今月の週末は刳り貫き作業一辺倒で、創作行為というよりは職人的な作業ばかりです。彫刻は目の前に実材があるので、一気呵成には作れず、簡単に方向転換も出来ないのですが、自分にとって新しい表現を常に意識していきたいと思っています。

週末 自宅リフォームに向けて

やっと週末がやってきました。創作活動で工房に朝から籠っていて、新作の板材刳り貫き作業をやっていました。刳り貫き作業は3枚目に入りましたが、いつものように土曜日はウィークディの疲れがあって遅々として進まない作業状況でした。窯の面倒を見てくれている業者が訪ねてきたり、自宅リフォームの業者もやってきました。身体が若干辛かったので、打合せにはちょうどよい時間でした。自宅のリフォームは貯蓄した財をかなり投げ出すほど、私にとって一世一代の決心で、今までも打合せは何回も行なっています。昨日は勤務終了後に大手電機メーカーのショールームを訪ねて、そこで打合せを持ちました。システム・キッチンの実物見本を見て、オプションを盛り込んだり、図面を確認したりして、ほぼ2時間を費やしました。家内は大学で空間演出デザインを学んでいるくらいのインテリア好きで、ショールームの担当者と綿密な打合せを行なっていました。30年前に自宅を新築した頃は、最新のシステム・キッチンを入れたはずが、時代と共に新商品が登場していて、さらに利便性を追及したものになっているのを感じました。私たち夫婦の大学同期生にも、こうしたインテリア系のショールームで働いている人がいます。自宅のリフォームは美術の分野と関連していて、創作活動に似た気持ちになるようです。私たちが求める室内の色調は単純明快で、白壁にダークブラウンの家具や扉があるというだけのものです。他の色調はそこに入ってきません。システム・キッチンの色調も全て同じです。部屋ごとに壁の色合いを変えることはしていません。無味乾燥とも言える雰囲気が実は心理的にもしっくりくるのです。3月から施工が始まりますが、断捨離をしながら荷物の移動や整理をしなければならず、その時期は大変な状況になるだろうなぁと思っています。何はさておき、週末は今月の制作目標に向けて、厚板に切り込みを入れていく作業を頑張るのみです。明日も刳り貫き作業をやっていきます。

2月RECORDは「灰」

今年のRECORDは色彩を月毎のテーマにしています。今月は「灰」にしました。先月は「白」でやりましたが、今もずっと無彩色が続いています。灰色というイメージは、私にとって決して明るいものではありません。20代の頃、ヨーロッパの古都ウィーンで暮らしていて、大学に在籍している身分でありながら、私は一日のほとんどを散歩に費やしていました。旧市街は灰色の壁が幾重にも重なっていて、その崩れ落ちて煉瓦が覗いていた壁がよく目に映っていました。そこに情緒を感じ取れたのはずっと後になってからで、当時は不安定な心情に苛まれていました。灰色は微妙な心理を反映する複雑な色彩と私は勝手ながら思っています。そのバリエーションは限りなくあって、他の色彩を引き立てる役割もあるかもしれないと思うところです。灰色の古壁に民族風な絨毯が掛かっていて、その色彩のコントラストにハッとしたことも思い出されます。今月のRECORDは灰色だけで表現するというよりは、他の色彩を利用して灰色を際立たせていきたいと思っています。色彩を中心に据えたテーマは、私には新しい試みで、先月もそもそも「白」とは何かを考えながらRECORDを作っていました。色彩の持つ心理的作用や思考をさらに深めたいと思うようになりました。嘗て工業デザインを学びたいと思っていた高校生の頃に、バウハウスの教壇に立っていたヨハネス・イッテンの色彩論を購入しました。今も自宅の書棚に眠っていますが、色彩の三要素や色相、明度、彩度などという基礎的なことは今も知識にあります。今後はさらに一歩進んだ色彩論に触れていきたいと考えるようになりました。

「野に生きた僧」について

「あそぶ神仏」(辻惟雄著 ちくま学芸文庫)のⅡ「野に生きた僧」についてのまとめを行います。本章で取り上げられている風外慧薫について、私は恥ずかしながら全く無知だったため、本書の図版で初めて作品を知った次第です。風外慧薫の紹介では「地方にはほこりにまみれ垢じみた僧衣をまとう遊行僧の姿があった。かれらは師を求め道を求めて各地を放浪し、時には洞窟に雨露を凌いで修行を続けるかたわら、民衆と親しく交わって人生の教師となり、仏の道を説いて敬愛を集めた。風外慧薫はそうした近世における『野の聖』の草分けの一人に当たる異色の存在である。」とありました。活動した年代からすると風外慧薫は室町時代の人だったと思われますが、そうした遊行僧の姿は脈々と近代まで続いていたのではないかと思われます。私の実家にも流れ着いた僧が書き残した書があって、素人の目にも見事なものではないかと思うからです。明治だったか大正だったか、農家を営んでいた若い頃の祖母の元に乞食のような僧がやってきたそうで、粟や稗ではなく貴重な米の食事を与えたところ、部屋を所望されて暫し閉じ籠り、書を数点書き上げたそうです。そのうち1点が自宅にあり、もう1点は実家にあります。他は行方不明になっていますが、公式な鑑定はせずに私のお気に入りとして自宅に飾ってあるのです。風外慧薫に話を戻します。「風外慧薫は戦国時代の終わり頃に当たる永禄11年(1568)、上野国(群馬県)の山中、碓氷峠の近くに生まれた。幼くして母を失い、その乳房を恋い慕って吸うのを人が見て、仏縁が深いと、近くの曹洞宗の長源寺という寺に預けられ、成人後はこの上野・下野一帯の曹洞宗の寺を転々と放浪して修行を積んだ。」というのが現在分かっている出生です。「風外はその生涯に数多くの書画を残した。真鶴の滝門寺に伝わる『大字十二行書十二幅』のような大作もあるが、托鉢の折の布施の返礼として書かれたものが大多数である。~略~白隠、仙厓のいわゆる禅画と、室町水墨画の禅機図とをつなぐものとして、風外慧薫の作品を位置づけることができる。」また布袋図を評してこんな文章がありました。「いかめしい達磨にくらべ、袋をかついでちょこまかと画中を歩き、あるいは、天空の月に指さしまじめくさった顔で悟りの境地を示す布袋の姿には、愛嬌とともに哀愁がこもっている。」とあり、風外慧薫はどんな人だったのか興味が湧くところです。「風外慧薫は、忘れられた存在である。深い宗教体験と学識を持ちながら、白隠のようにそれを多く語らず、名利をかたくなに断って野の乞食として生涯を終えた。」

2月制作目標は木材加工

今月はもう既に1回分の週末が過ぎてしまいましたが、改めて今月の制作目標を考えてみました。2月は建国記念日や天皇誕生日の振替休日があって、11回の休日があります。そのうち2回は過ぎたので、残り9回を創作活動に充てていきたいと思っています。やるべきことは新作屏風を構成する厚板に格子模様の窓を刳り貫く木材加工です。厚板は2枚を張り合わせる2層構造になり、1層目は陶彫部品が接合される部分とその周囲全体に広がっている格子模様を全て刳り貫くのです。2層目は1層目を張り合わせた時に、部分的に格子模様を刳り貫いて、貫通した部分と貫通しない部分を作っていこうと考えています。そこが今回の一番の見せ場ともいうべきところで、廃墟化した都市を鳥瞰した世界を作ろうとしているのです。陶彫部品も格子模様を施してあって、架空都市の中に異様な生物が横たわっているように見えるかもしれません。当初は格子窓に絡めるような陶彫部品を考えましたが、格子を小さく設定したために、途中からイメージを変えました。今月の制作目標としては木材加工を1層目も2層目も完了させることですが、果たして出来るかどうか、ちょっと厳しいところです。というのは乾燥をしている陶彫部品もあって、1回は窯入れをしたいと思っているのですが、どこの週末を使おうか思案中です。厚板に接合する陶彫部品は焼成が終わっていないと、大きさが割り出せず、陶彫部品が接合される部分の刳り貫きが滞ってしまうのです。そんなことも念頭に置きながら、今月は只管木材加工をやっていくしかないと思っています。

東京上野の「出雲と大和」展

先日、東京上野にある東京国立博物館平成館で開催中の「出雲と大和」展に行ってきました。本展は日本書紀成立1300年という節目で、日本の古代を出雲大社に鎮座する神である「幽」と、ヤマト政権において天皇を頂く「顕」を対比して展示された、かなり大掛かりな展覧会で、島根県と奈良県、どちらも私は足を運んだことがあり、旧知の展示品ながら、こうして並列して眺めてみると新鮮な感覚が芽生えたのが不思議でした。何しろ展示品から日本の古代文化を探ることは、自分のルーツを確かめられるような気がして、こんなに楽しい企画はないと思ったほどでした。日本書紀や古事記とは何か、図録の最初の文章を執筆した佐藤信氏の文章より拾ってみます。「『日本書紀』は、律令国家が自らの歴史的なアイデンティティーを主張した史書であった。」とありました。続いて「和銅5年(712)に、大和に本拠をもつ豪族出身の太安万侶が撰録した史書が『古事記』である。~略~『日本書紀』は、養老4年に舎人親王を編纂代表として撰進された国史である。」とありました。古代の出雲についてもこんなふうに書かれていました。「古代出雲は、多くの古代文献や遺跡に恵まれている。『古事記』『日本書紀』が出雲神話を多く取り込んでいるほか、和銅6年(713)に編纂を命ずる詔が出された風土記として今日に伝わる五風土記のなかで、ほぼ完存する風土記として貴重な『出雲国風土記』があることは、大きな特徴となっている。『出雲国風土記』には、風土、物産、古老の伝承や地名起源説話など、地域の社会像も豊かに描かれており、地域の古代史像を具体的に物語ってくれる史料として注目される。」ここで「国譲り神話」に関する興味深い文章を見つけました。「『古事記』『日本書紀』にみられる出雲の立場は、『国譲り神話』に象徴的に示される。出雲の大国主神は、皇祖神の天つ神に葦原中国の支配権を譲るかわりに、自らを出雲の高い神殿に祭ってもらうことになった。」これは出雲大社に存在したと言われる特異な高さを誇る神殿のことを言っているのではないかと思います。本展にその遺構である心御柱と宇豆柱が来ていて、そこから割り出された高さ48メートルにも及ぶ神殿の模型もありました。私は2年前の夏に島根県立古代出雲歴史博物館でこの模型を見ていて、度肝を抜かれたのを思い出しました。この「出雲と大和」展は興味関心が尽きません。このNOTE(ブログ)ではまだ展示品に触れていませんので、稿を改めようと思います。

東京上野の「人・神・自然」展

先日、東京上野にある東京国立博物館東洋館で開催中の「人・神・自然」展に行ってきました。副題が「ザ・アール・サーニ・コレクションの名品が語る古代世界」とあってカタール国の王族のコレクションより厳選された工芸品が展示されていました。何より私が惹かれたのは人や動物がもつ表情の数々で、仮面が大好きな私としては必見の展覧会でした。コレクションが世界各地にわたっているため、その地域性と言うより、古代文化を概観できて、そこに共通するものを見出すことも出来ました。図録の冒頭の文章を拾います。「分立した小さな共同体から成る古代世界。そこで暮らす人々は、生命を育むと共に、脅威をもたらす存在でもあった広大な自然界に取り囲まれ、同時に創造主との好ましい関係をもとうと試みながら、自らの本質とアイデンティティを見極めようとしました。」これが人と神と自然の関係を考える上での最初の導入部分です。また、神に関しては地域性が現れてきます。「古代世界では、一神教と多神教の双方の信条が存在していました。最も有名な唯一神の例はユダヤの神ヤハウェであり、信者たちに『あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない』と述べたことがよく知られています。~略~古代エジプトや西アジアの伝統では、人間と、動物や鳥類を取り合わせた姿で神々を表すことで、その存在が信じられていた超自然の力と属性を表現しました。~略~古代ギリシャとローマの人々は、さらに一歩進んで神々を人間の姿で描写しました。~略~突然の飢餓や不安定な衛生状態、また、絶え間ない戦争と常に向き合わざるを得なかった古代においては、神の恩寵を勝ち取ることが不可欠と考えられました。」(ジャスパー・ガウント著)古代生活にあっては超自然なるものに畏怖を覚え、その原動力が美的産物を残したのであろうと察します。展示された作品群はどれも極めて美しく、現代では忘れがちな生命力に溢れたものがそこにありました。最後にアインシュタインの言葉の引用がありました。全文を書き出します。「私たちが経験できる最も美しく、深遠な感情は、不可思議なことを感じ取る感性である。それは真の科学を生む源になるものである。こうした感性を知らない人、もはや驚嘆することも、深い畏敬の念を抱くこともできない人は、死んでいるも同然である。私たちにとって不可解なことであっても、それは実際に存在するものであり、最高の叡智と眩いばかりの美となって現れるものであり、私たちの愚鈍な能力ではそれらの最も原初的な形でしか理解できないことを認識することーこの自覚、この感性こそが真の敬虔さの中心となるものである。」

週末 刳り貫き作業のその先へ

今日は朝から夕方4時まで工房に篭りました。いつも来ている高校生が美大受験用の基礎デッサンをやっていました。私は昨日に続き、新作の屏風になる厚板の刳り貫き作業をやっていました。屏風は6枚の厚板で構成するように計画していて、そのうち2枚は刳り貫き作業が終わっています。厚板全体にわたって小さな格子窓を刳り貫いていて、そこに陶彫部品を接合していくわけですが、厚板は刳り貫いた板とは別に、もう1枚用意してあって、それらを2層目として下に敷いていこうと思っているのです。2枚の厚板を重ねた厚みが屏風1枚の厚みになります。陶彫部品を接合するのは2層目になる厚板です。2層目の厚板は1層目とは異なり、ところどころ刳り貫いて変化をもたせるつもりです。つまり貫通している格子窓もあれば、貫通していない格子窓があって、そこにデザイン性を盛り込んでいきたいと考えているのです。作業としては2層目よりは1層目の全面刳り貫きが大変で、今日の午後に3枚目に取り掛かりました。何とか早めに6枚を終わらせて、2層目に取り掛かっていきたいと考えています。屏風は2層で1枚になり、それが6枚出来たところで全面に砂マチエールを施し、油絵の具を染み込ませようと思っています。先を考えると気が遠くなりますが、今月は只管作業をするのみで、木屑まみれになって7時間やり続けました。今月はこの作業一辺倒になるかもしれません。いつ頃から2層目に取り掛かれるのか、改めて考えて制作目標を立てますが、なかなか厳しい作業だなぁと思っています。ただ、これが今回新作としての独創性でもあるし、他に類を見ない傾向でもあるのです。

週末 2月になって…

やっと週末になりました。今日から2月です。中国の武漢から発生した新型ウイルスによる肺炎が、毎日マスコミで取り上げられていて、また恒例となったインフルエンザも猛威を振るう季節になりました。私も基礎体力を心配する年齢になったのか、足がもたつく時があります。私は長く創作活動に携わっていきたいので、何か自分でも出来そうな健康維持、体力維持の方法を考えていこうと思っています。創作活動に関する今月の制作目標は機会を改めるとして、今日のことについて触れていきます。今日の午前中は工房で屏風の厚板の刳り貫き作業をやっていました。やはり土曜日は昨日までのウィークディの疲れが残っていて、作業を行う身体の動きが緩慢でした。休息を兼ねて、午後から家内を誘って東京の博物館に展覧会を見に行くことにしました。東京上野にある東京国立博物館平成館で開催中の「出雲と大和」展、同博物館東洋館で開催中の「人・神・自然」展は、あちらこちらで見かけるポスターの面白さで目を留めていました。「人・神・自然」展のポスターは、地中海からアジア・アフリカ・中南米の古代文化に由来する工芸品の仮面を画面にぐるりと配置して、それだけで私の関心は高まりました。「出雲と大和」展のポスターは、出雲を象徴する銅鐸、大和を象徴する画文帯神獣鏡を左右に配置して、神の世と人の世を比べてみるような働きかけが感じられて興味が湧きました。「出雲と大和」展にしろ「人・神・自然」展にしろ、双方とも古代文化を焦点化していて、私にとってはまさに自己表現に反映できる要素が満載でした。のんびり疲れを癒されに行った展覧会でしたが、内容は思索的で、自分の創作活動に何かを与えてくれる刺戟が詰まったものでした。展覧会を見て、疲れた身体に鞭を打たれた按配になり、明日からの創作活動に闘志が出ました。これで良かったのかどうか…ともあれ今日は充実した時間を過ごせました。今日は前述した新型ウイルスやインフルエンザのこともあって、人が多く集まる東京上野にはマスクを着用して出かけました。最近マスクが売り切れているそうですが、家内が早めに購入していたので、当面マスクは常備してあります。「出雲と大和」展と「人・神・自然」展に関しては後日改めて詳しい感想を書こうと思います。

2020年の1月を振り返って…

1月はあっという間に過ぎた感じがします。昨年暮れから続いていた休庁期間(閉庁日)があったため、陶彫制作はかなり頑張れたように思っています。新作は屏風と床を繋ぐ陶彫部品を残すのみとなり、今月の週末は朝から夕方まで制作三昧でした。床置きの陶彫部品が焼成まで完了し、屏風に接合する陶彫部品も乾燥を待って窯入れするだけになっていて、このところ調子がいいのかなぁと思っている次第です。このままいけば良かったと思えたところを、屏風の厚板の刳り貫き作業に手強さを感じています。そう易々と完成できないのが創作活動で、今回も苦労苦心が精神性という魂を呼び込むかもしれません。毎回のことなので気構えは出来ていますが、先行きの心配は尽きません。今月の鑑賞は美術館に行けず、敢えて挙げれば美大の卒業制作展に行ったくらいでした。映画鑑賞は「ゴッホとヘレーネの森」、「台湾、街かどの人形劇」(2本ともシネマジャック&ベティ)に行きました。両方ともドキュメンタリーで見応えのある映画でした。RECORDは下書きがやや溜まってきています。このNOTE(ブログ)にしろRECORDにしろ、また夜の工房通いも考えていましたが、仕事から帰ってくると、夜の時間帯は睡魔に勝てず日々の制作が滞ります。加齢のせいか気力が湧かない日もあって、これはどうしたものだろうと思う時もあります。創作は精神の産物なので心の持ちようで変わるはずです。読書は芸術民俗学の書籍を読み終えて、次はどれにしようか思案しています。自宅に関してはリニューアルが始まる予定で、ここで気分転換が図れるかもしれないと期待しています。来月も頑張りたいと思います。

「呪術としてのデザイン」読後感

「呪術としてのデザインー芸術民俗学の旅」(中嶋斉著 彩流社)を読み終えました。あとがきに代わるものとして「旅の終わりにー沈黙のデザイン」という最終章がありました。そこには日本独特の宗教観やら、そこから導き出されるデザインが論じられていて、本書は最後まで私自身のツボにハマる話題に事欠きませんでした。私も若い頃に東欧で遭遇した祭りに不思議な親しみを感じていて、旧家に育った自分に馴染み深かった昔の匂いのようなものを重ねていたところがありました。その頃は本書にある時間軸や空間軸を縦横に走る論考はなく、今から思えば己の予感に頼った感覚でしかなかったなぁと振り返っているところです。「日本の宗教の特色は、底に流れるシャマニズムであるといわれている。一口にいえば巫覡の術であって、それを最もよく反映しているのは修験道である。~略~日本人が古来からうけついだ自然崇拝と外来の仏教や道教とが結びついて成り立ったもので、山野に臥して苦行の末に霊界に参入し、体得した霊力によって神霊祖霊を操ることが可能になるという信仰である。」岡倉天心は東京美術学校(現東京藝術大学)を創立した人物ですが、著書「茶の本」の中で茶を巡る哲理を説いていて、つまり創作に纏わることにも考えが及んでいます。「天心には19世紀末のヨーロッパに出会った明治期の人びとの喪失した神を芸術に探し求めた姿が読みとれるのであるが、同時にすぐれたデザインの思想をきくことができる。つまり虚の世界にあってこそ心の自由が許されて宇宙の気を感じることができるのであって、逆にいえば、あるべきデザインとは虚なる時空間の創造であるということである。」また、こんなことも述べられていました。「祭りの本義は明かりが消え、闇につつまれた世界が再び明けそめる幽玄の時空にかくされていたように、デザインもまた形なりその組み合わせがなされる以前に発想の不思議があって、それは個性的でありながら普遍性をもったデザインであり、自然の循環の理と共にあったのである。」以上で本書を閉じることにします。

20’RECORDの印

石材に自分の氏名印を彫ることは、創作活動を始めた頃から継続してやってきています。私の立体作品は陶彫部品を組み合わせる集合彫刻なので、部品ひとつひとつの隠れた場所に印を貼っています。具体的には和紙に捺印し番号を付けたものを接着しているのです。そうすることで年代別、作品別の区別がつくようにしていて、数多い陶彫部品が混乱することを避けています。長い間に自作の印がかなり増えてきたなぁと思っています。大きい印面であれば、氏名そのものをデザイン化して彫ることも可能ですが、小さい場合はイニシャルだったり、さらに抽象化したシンボル・マークだったりしています。一日1点ずつ制作しているRECORDも1点ずつ印を押して日付をスタンプしています。もう文具店で見かけないアナログな数字スタンプを10年以上も使っているのです。RECORDの印は毎年彫っていて、2020年の新作を漸く彫り終えました。印材も小さなサイズのものを使用するため、近隣の画材店で扱っていないことも多く、印材を求めて東京の大手画材店に出かけていき、まとめ買いをしてきました。以前にNOTE(ブログ)にも書きましたが、印は伝統的な篆刻もあれば、ほとんど抽象絵画のようなデザイン化されたものまで、私は幅広く作っていて、書道家が作られているような拘りが自分にはありません。印に小宇宙を感じ、それを楽しんでいるのは私だけではないと思っています。便宜上作っている印ですが、ひとつの作品として成り立つこともあるかなぁと思っています。

「フォークロアの意匠」について

「呪術としてのデザインー芸術民俗学の旅」(中嶋斉著 彩流社)の第3章の4「フォークロアの意匠」についてのまとめを行います。本書も終盤に差し掛かり、洋の東西を問わず芸術民俗学としての事象が露見されるさまざまな場面を取り上げていて、論考が盛りだくさんになっています。祭祀空間として相撲から始まり、土俵から占星術に繋がるくだりは興味津々でした。さらにギリシャの時代にあった円形の闘技場も宗教に絡んだ意匠であり、こうした祭祀空間は洋の東西において存在し、また巡礼に関する象徴的な意味合いや、それに纏わる杖や水の解釈にも惹かれました。その中で私は蹲踞(つくばい)に関する箇所が目に留まりました。私の父が造園業を営んでいたおかげで、私は庭に蹲踞を据えた体験があるのです。「安土桃山時代にはキリスト教が伝来し、その影響が茶の作法に及んでいると思われる。~略~茶事はミサででもあろうから、織部灯篭をかくれキリシタンたちが拝んでいたであろうということも充分に察せられる。しかし蹲踞は滝の信仰のうつしである。その形式がととのうのは江戸中期だろうが、蹲踞が手水鉢を中心にして左右に湯桶石と手燈台を配した形になっているのは三山信仰を形象したもので、前石につくばって拝むのはこの御(霊)山である。」さらに水に関するこんな一文もありました。「水はかくて現世利益の効験あらたかな観音であり、死せるキリストを抱く聖母に重なる。大慈大悲のマリア観音を生む素地は水の信仰である。」また心の御柱についても触れた箇所がありました。「神と共に遊ぶことが芸能であって、相撲の横綱は仕切られた空間の中央に柱をたて神の座を定める儀礼の立役者であった。また茶の湯も一座建立して茶をすするが、茶を点てるというのは一椀の中に仏性を観ずることであって、それ故に茶は立つというのである。」巡礼に関する箇所で目に留まったのは「巡礼はある聖地への単一の聖地への巡礼型と、多くの霊場をめぐる円周型巡礼があるといわれ、熊野詣は一応前者に属し、西国三十三ヶ所めぐりや四国遍路は後者のものであろう。~略~むしろ長い苦行を重ね、さまざまな変身をとげながら、地霊の世界に降りついて、再び新しい生へと辿ることが巡礼である。」というところで、師匠の池田宗弘先生も辿ったスペインのサンティアゴ・デ・コンポステラに触れた部分もありました。私はキリスト教信者ではありませんが、イエスの磔刑図は身近な存在で、嘗て磔刑像を彫っている夢を見たことがありました。それを鑑みると次の文章が気になりました。「十字(架)は樹木に吊るされたキリスト像によってキリスト教そのものの象徴となってしまった感があるが、元来はきわめて土俗の信仰の表れであって、樹木のもつ永遠不滅の生命力や精神性の象徴として用いられていた。そのすっくと立つ巨木の垂直軸は天と地をつなぎ、根は深く冥界に達して生命のよみがえりを約束する。そして幹からは樹液に養われた枝が四方に延びて大地をおおい、星の世界に及んでいる。この樹木を側面から抽象すれば十字(架)となり、上(下)から俯(仰)看すれば円環または車輪のイメージを作る。」第3章の4「フォークロアの意匠」についてのまとめを行なうつもりで、多義に亘る論考に接して私の考えも二転三転してしまいました。ついにまとまらなかったにも関わらず、この章は楽しすぎて自分の考えを散らかしたまま終わらせることになってしまいました。

映画「台湾、街かどの人形劇」雑感

昨日、横浜市中区にあるミニシアターに行って、映画「台湾、街かどの人形劇」を観てきました。台湾の布袋戯は街頭人形劇で、人形は手遣いによるものです。台湾にはその他に傀儡戯(糸繰り人形劇)や皮影戯(影絵人形劇)があるそうです。この映画の内容は伝統文化の継承やそれに伴う父子の葛藤を描いたドキュメンタリーで、時代と共に衰退の一途を辿る伝統芸能を映像による記録として後世に残す目的もあるように感じました。映画は布袋戯で人間国宝になった陳錫煌を追っていて、撮影当時88歳になった稀な技巧を持つ人形師に密着していました。彼の父は李天禄で、布袋戯をテレビで放映したり、フランス政府から勲章を受けた人物でした。台湾初の布袋戯博物館を設立した人間国宝としても存在感を示していたようです。その息子である陳錫煌は師弟関係にあった父に囚われ、決して平坦でない道を歩んできたことが独白から読み取れました。図録には「表情のない木偶(木彫りの人形)を操って、まるで本物の人間のように喜びや悲しみを繊細な動作で表現した。生(男性役)・旦(女性役)・浄(敵役もしくは豪傑)・丑(道化役)といった人形の種別を問わず、彼の手にかかると生命力が吹き込まれるのである。」とありました。実際の劇が映画の後半で流れましたが、その超絶技巧に思わず惹きこまれました。また国立伝統芸術センターで開催された布袋戯コンテストは、現代風の薄っぺらいアレンジを紹介していて、それを見た私は愕然としましたが、審査をしていた陳錫煌が「不真面目だ」と吐き捨てる場面もあり、伝統継承の難しさを実感しました。日本の人形浄瑠璃文楽は従来の型そのままに継承されていますが、庶民的な布袋戯は時代の求める新しさを取り入れていることが、文楽とは大いに異なります。現在は外国人の留学生も受け入れていますが、台湾では次第に社会のニーズに合わなくなっているのも事実です。嘗て庶民の芸能であった布袋戯は、芸術文化作品として国が保存に動き出しているようです。しっかりとした基礎を積んだ後継者が現れて、生き生きとした街頭人形劇が後世まで続くことを祈るばかりです。

週末 板材刳り貫き作業&映画鑑賞

今日も朝から工房に篭って、昨日に引き続いて板材刳り貫き作業を継続しました。昨日から取り組んでいた1点目を午前中に終え、午後から2点目に取り掛かりました。2点目は3分の1くらい刳り貫き作業が進んだところで、今日は作業終了となりました。屏風は6点あるので、来月の制作目標は刳り貫き作業完了にしたいと思っています。制作工程が遅れるのは承知の上で、これは仕方ないことと受け入れることにしました。作業は2日目に入ったので、慣れて手際もよくなってきました。昨日は作業を始めて焦りを感じたのでしたが、作業の進み具合が分かってくると、手間暇かかって大変なところはあるけれども、不安はなくなりました。朝から夕方まで木材に向き合う仕事は、私の性に合っているように思えます。今日は基礎デッサンを学ぶ高校生が工房に来ていました。彼女も私と同じ坦々と作業を進める性格で、毎週決まった時間に来てデッサンをしています。瞬時の冴えはないものの着実な積み重ねがあって、デッサンは徐々に上達してきました。地道で地味なところも私に似た教え子だなぁと思います。彼女だけではなく工房に出入りしているスタッフたちは、全員が努力家でひたむきに頑張っている人たちであることは確かです。夕方、高校生を家の近くまで車で送った後、私は常連になっている横浜市中区にあるミニシアターに映画「台湾、街かどの人形劇」を観に行きました。家内が演奏で時間がなかったため、今日は私一人で出かけました。映画「台湾、街かどの人形劇」は以前予告を見て、これは是非観てみようと思ったのでした。日本にもユネスコ無形文化遺産になった人形浄瑠璃文楽がありますが、台湾の布袋戯は庶民的な人形劇で、このような伝統芸能はどのように守られているのか、どんな人たちが継承しているのか、一度味わって見たいと思っていました。これは人間国宝・陳錫煌の10年を追った記録であるとともに、彼の父との葛藤を描いたドキュメンタリーでした。詳しい感想は後日に回しますが、彼の人形師としての芸を映像に残して次代に繋ぐ貴重なものでもあったと感じました。

週末 板材刳り貫き作業&自宅リフォーム注文

週末になりました。朝から工房に篭って新作の陶彫制作に明け暮れていました。今日から屏風になる厚板材の加工を始めました。まず鑿による彫りの前に、板材に格子窓を刳り貫く作業があります。これはなかなか手間がかかります。屏風は全部で6枚ありますが、今日は手始めに最初の1枚に取り掛かりました。一日中作業をしても今日で終わらず、刳り貫き作業は明日に持ち越しになりました。下書きをした段階で大変な作業になることは分かっていましたが、案の定今後の制作工程が心配になりました。明日も刳り貫き作業は継続ですが、あるいはウィークディの夜も作業をしないと間に合わなくなるかもしれません。電動工具を使用すると騒音が出るため、工房周辺の近所迷惑も考えて、出来るだけ夜の作業は避けたいと思っているのですが、ちょっと厳しい状況になっていきそうで、今後の工程を睨みながら頑張っていこうと思っています。新作を作る上で、今までも何回となく壁に当たりましたが、今年も手強いところに差し掛かっています。木材加工は陶彫制作の時と身体の筋肉の使うところが異なり、今日は辛い一日を過ごしましたが、これも徐々に慣れていくでしょう。夕方自宅に戻って休憩を取っていると、夜になって自宅リフォームの業者がやってきました。前回打合せをして、今回が2回目になりました。今年こそ断捨離をしながら自宅の改装工事をしようと思っているので、これも生涯一度のビッグイベントに違いありません。自宅をリフォームしたら、これが私たち夫婦の終の住まいになるのかもしれず、多少費用がかかってもやっていこうと決めているのです。昼間の作業でヘトヘトになっていたにも関わらず、業者との打合せが始まったら疲労はどこかへ飛んでいってしまいました。業者が用意した注文書に記入し捺印して、3月から始まる改装工事に向けて室内の片づけを行なう予定です。