「中空の彫刻」読後感

「中空の彫刻」(廣田治子著 三元社)を読み終えました。私にとっては大変面白く、また初めて知ることも多い内容が盛り込まれていた書籍で、興味関心の坩堝といっても過言ではありませんでした。ゴーギャンは後期印象派から象徴主義に至った画家として近代美術史に名を残しています。私の理解はそこまでで自分の知識の乏しさを恥じましたが、私が現在夢中で取り組んでいる陶彫は、ゴーギャンがその先駆けとして当時の時代背景もあって実験的に陶彫制作を行っていたことが私には衝撃的でした。ゴーギャンに関しては彼の著作「ノア・ノア」や「オヴィリ」を私は読んでいます。とりわけ私は「オヴィリ」(岡谷公二訳 みすず書房)を熱心に読んだ記憶があります。また映画「ゴーギャン タヒチ 楽園の旅」も見ました。学生時代、私は木版画に取り組んでいた頃にゴーギャンの木版画を知り、プリミティヴな魅力に惹かれ、ドイツ表現派の先駆者という位置づけをしていましたが、本書によって彫刻の分野でもその革新性が謳われていて、”オブジェ=彫刻”へ向かう20世紀の立体造形の扉を開いたことが書かれていて、ピカソを初めとする次世代への影響があったことに驚きを隠せませんでした。著者のあとがきにこんな文章がありました。「私は、ゴーギャンの畢生の大作《オヴィリ》をロマン主義の作品に関連付け、その一方でアフリカやオセアニアの神像との共通性も見いだし、さらにこれを20世紀彫刻の先駆けとするのである。このように、この驚くべき大胆な作品が伝統の中から生み出され、時代を大きく先取りする革新性を秘めているということ、これは全篇を通じたテーマであった。また、ゴーギャンの特異な作品群が、実は同時代の芸術家たちと問題意識を共有していたということは驚くべきことのようではあるが、私はアカデミックな彫刻家オーベからアヴィランドのアトリエの陶芸家たち、カリエスからロダンまで、さまざまな芸術家および作品との関わりの中から、ゴーギャンの同時代性をあぶりだそうとした。」本書は博士論文としてパリ第一大学に受理されたものに大幅に加筆されたもので、私にとっては気骨のある論考で常に自分の感性に刺激を与え続けてくれた貴重な書籍だったと言えます。と同時に自分が作っている陶彫という世界に一石を投じてくれた重要なものでもありました。

「結語」について

「中空の彫刻」(廣田治子著 三元社)の「第二部 ゴーギャンの立体作品」の中の「結語」の「1 木彫と陶器」「2 親密な環境における彫刻」「3 ゴーギャンからピカソへ」の三単元を合わせたまとめを行います。これで「中空の彫刻」の内容は全て完結したことになります。まず「1 木彫と陶器」の中からこんな文章を引用いたします。「大理石彫刻に始まった彫刻制作において、ゴーギャンは主として木彫と陶器を交互に扱いながら、これらの民衆的で実用的な素材によって驚くべき創造物を生み出した。~略~絵画支配のパラダイムを打破して新しいモダンな彫刻への道を切り開くことが可能となったのである。」ゴーギャンにとって彫刻は絵画制作の補助的な存在ではなく、同じ比重を持って取り組んだことが示されています。次に「2 親密な環境における彫刻」から次の文章を引用いたします。「焼き物による彫刻の実践が、中空を取り巻く表面の上での表現へ、人物の断片的アプローチへ、そしてこれらの断片の装飾的構成へとゴーギャンを導いたのは必然であった。モティーフは外面に配されるので、観者は作品の周囲を回り、作品の意味づけそのものに参加することを促される。親密な環境における観者とのこうした新しい関係においては、20世紀の近代彫刻への道の一つである”オブジェ=彫刻”の出現が指摘されうるであろう。」ここで本書はブランクーシを登場させています。ブランクーシは1点の作品とともに幾つかの作品を並べたアトリエ内部の写真を撮り、観者と親密な関係を築くためにその環境を提示したようです。最後に「3 ゴーギャンからピカソへ」ではこんな文章がありました。「『あらゆることを敢行する権利』にしたがって生み出されたゴーギャンの大胆な立体作品は、青年ピカソに大きな衝撃と勇気を与えたことであろう。その後キュビスムの文脈において、内部空間を見せる開かれたフォルムを実現するとき、ゴーギャンの『中空の彫刻』はその概念において、すでにピカソに先行していたと言えるのである。さまざまな芸術分野の垣根を取り払い(多分野性)、素材の枠を広げ(多素材性)、多様な芸術を創造したゴーギャンは、確かに稀有な革新の芸術家であった。彼はまた、19世紀末まで絵画支配のパラダイムのもと、下位におかれていた彫刻が20世紀に隆盛を誇ることになるのに貢献した主要な芸術家ではなかったか。そのために、彼の『中空の彫刻』は画期的な表現を生み出したことを私たちは見てきたのである。」

週末 創作へのモチベーション

昨日までは梱包用木箱作りと陶彫部品の梱包に励んでいましたが、今日は来年に向けた新作の陶彫制作を行うことにしました。今月の個展が迫っているので、その準備として梱包をやっていたのですが、そればかりやっていると創作へのモチベーションが下がってしまうので、時折新作へのアプローチを入れているのです。加えていつものように美大受験生が工房に顔を出したので、作業台を一つ彼女に与える必要があり、梱包作業は一時停止しなければならない状況もありました。私は7点目になる新作の陶彫成形に彫り込み加飾を施していました。新作を作っていると自分の気持ちが高揚します。単純作業である梱包は気楽な作業ですが、やはり精神的に困難さを抱えていたとしても、創作的な仕事は楽しいと感じています。陶土の乾燥具合を確かめて、鉄ベラで丹念に彫り込んでいく作業は、極めて工芸的な制作ですが、それによって立体に個性と方向性が生まれるのです。作品が古代出土品のようだと批評家に評される所以がここにあります。新作も架空都市を想起させる要素はあって、そこを造形している自分は時間を忘れるほど大いに楽しんでいるのです。今日は夕方になって雷が鳴り、雨が降ってきましたが、都心のようなゲリラ豪雨とはならず、あっという間に雨雲は過ぎていきました。雨が降るまでは気温が上昇していて、工房内は大変な暑さに見舞われていました。大型扇風機を出して回しましたが、エアコンのない工房では、暑さを耐え凌ぐしか方法がありません。工房には小さな冷蔵庫もあって、そこで飲み物を冷やしていますが、時折美大受験生に声をかけて水分補給を促しました。梅雨が明けたわけではないのに、この暑さはどうなっているのでしょうか。今日もシャツが汗でびっしょりになりました。

週末 木箱に収納開始

週末になりました。週末になると今週の創作活動のことを書いていて、個展に向けた進捗状況を述べさせていただいています。陶彫部品を梱包する木箱が15個完成し、今週からその木箱に陶彫部品を2・3点ずつ収納しています。以前の木箱はベニア板だけの簡易なものでしたが、耐久性を考えて垂木を補強材として用いることにしています。この作り方は業者に教わったもので手間はかかりますが、運搬や保管を考えると良いのではないかと思いました。今日は15個の木箱全部に陶彫部品を入れましたが、木箱が足りないことが分かりました。正確にはあと4個必要です。木材は既に購入してあるので、来週初めに追加の木箱を作って梱包は全て終える予定です。陶彫部品を包むエアキャップも充分あると思っています。いよいよ今年の個展準備も先が見えてきました。今日は運搬業者が搬入の荷を見に工房に来ました。毎年のことで業者も搬入を手伝ってくれるスタッフも旧知の仲です。もう過去15年間もメンバーを変えずに搬入・搬出をやっていることに、ちょっとした驚きがあります。お互い歳を取るわけだなぁと業者と話しました。今回は16回目、毎回新鮮な気持ちで頑張っていきたいと思っています。今日は久しぶりに太陽が顔を出し、工房内の気温が上昇しました。梱包に励んでいた私は、多少疲労を感じて、早めに工房を引き上げました。余裕が生まれたことで、気持ちが緩んだのかもしれません。シャツが汗でびっしょりになり、午前と午後でシャツを替えました。ここ数日は汗まみれになっているのです。20年も前にはシャツを一日で6枚も替えた記憶があり、汗っかきな私は水分補強を欠かせません。汗をかく分、熱中症になることは避けられていますが、疲労はかなり溜まってきていて、若い頃のように精神性だけで保つのは危険だろうと思っています。明日は美大受験生がやってくるので、作業台の木材を片付けて工房を後にしました。

21’図録の完成

5月30日に個展用の図録を作るための撮影を行い、今日新しい図録1000部が自宅に届きました。図録は16冊目になりますが、毎回同じサイズ、頁数で作っています。図録は前頁カラー版で正方形の冊子になります。個展会場では無料で配布しています。図録は私とカメラマンの協働による作品で、私が作っている彫刻をあらゆる視点で撮影して、その空気感をうまく取り込んでいると自負しています。とりわけ今回の図録は作品全体を撮影したものにカメラマンの力量を感じる出来栄えになりました。何より亡父の残してくれた植木畑の樹木が、作品の背景を飾り、それら環境を取り囲んだ画像が大変良いと思っています。天候の状況もあったと思いますが、光と影が織りなす美しさがよく出ています。立体作品の良さは存在を示す光と影にあると私は思っていますが、私にそう思わせてくれたのはカメラマンの力です。私自身は日頃からカメラマンの視野を気にしているわけではなく、彫刻は塊(マッス)として捉えて作品を作っています。ひと昔前の体質しか持ち合わせない私は、何かにつけて写真を撮る若い世代と異なり、デジタル画像に疎く、インスタ映えというコトバさえ私には定着していないのです。それでもカメラマンの撮影した私の作品に対し、画像が映える要素はよく承知しています。図録の最後にこのNOTE(ブログ)のコトバを毎年掲載しています。今回は校長職を退職して二足の草鞋生活にピリオドを打ったこと、自由人になった自分は一日のルーティンを決めて創作活動を始めたこと、また新作の題名に纏わることを載せました。現在読んでいるゴーギャンの彫刻に関する書籍で、陶彫の原形が登場していたので、新作の題名に纏わるところで引用をさせていただきました。

「《逸楽の家》」について

「中空の彫刻」(廣田治子著 三元社)の「第二部 ゴーギャンの立体作品」の中の「第6章 タヒチからマルケーサスへ(1895~1903年)」の「3 《逸楽の家》」をまとめます。「1901年9月16日、ゴーギャンはマルケーサス諸島のヒヴァ・オア島の南岸に位置するアトゥオナに到着する。11日後、ゴーギャンは司教から二区間の土地を譲り受け、『逸楽の家』と名付けた終の棲家を建て始めた。この家は、彼が建築と装飾を一つの全体として構想する『総合芸術』の試みであった点できわめて興味深い。」ゴーギャンはそれまで培った芸術的世界観を、自らが生活をする建造物の中で達成しようとしたようです。私もその構想に共感を覚えます。今も私はさまざまな芸術家が暮らした家を見るのが好きで、美術館に所蔵されている作品とは違った趣向があって興味が湧くのです。「『逸楽の家』の住居装飾の全体構想において、愛と誘惑のテーマは、文明と偽善に対する痛烈な批判と結びついて完成されるのである。『逸楽の家』は、闘争の人生を送ったゴーギャンの最後の安住の場所であった。そこには人間の運命と愛、そして芸術というゴーギャンが生涯考察し続けたテーマに関するゴーギャンの思想の究極的な表現があった。」1903年5月8日、ゴーギャンは踝の怪我が悪化し、モルヒネの大量服用がもとで心臓発作を起こしたようであり、息を引き取りました。ゴーギャンの芸術を理解継承した人はヴィクトル・セガレンでした。「ゴーギャンの死の三ヵ月後にマルケーサス諸島ヒヴァ・オア島を訪れ、『逸楽の家』に入り、いまだ生き生きとした思い出に浸る現地の人々、とりわけティオカやキー・ドンから芸術家の話を聞いたヴィクトル・セガレンこそ、反文明、民族の伝統の尊重の立場からポリネシアの過去を蘇らせようとしたゴーギャンの精神の真の継承者であった。」またこんな文章もありました。「西洋の政治と宗教が衰退に追いやったタヒチのかつての黄金時代を再創造することにおいて、ゴーギャンはセガレンの偉大な先導者であった。セガレンはゴーギャンが民族の信仰の最後の擁護者であることに賛同していた。彼は『逸楽の家』に入り、《逸楽の家》の木彫パネルを目の前にして、ゴーギャン自身が生み出した万神殿の輝きを感じたに相違ない。~略~芸術家としての選民思想と闘争の精神は、『野蛮人』として生きる理想と密接に結びついて芸術家ゴーギャンを形成していた。西洋文明の非西洋文明に対する侵略には怒りを露わにしながら、セガレン自身はゴーギャンのように『野蛮人』の生活を送ることなど考えもしなかったであろうが、にもかかわらず、彼はゴーギャンが打ち立てた新しい民族学的芸術理論の後継者であり、ゴーギャンなくしては作家セガレンは生まれなかったということは確かであると思われる。」

「文化的総合」について

「中空の彫刻」(廣田治子著 三元社)の「第二部 ゴーギャンの立体作品」の中の「第6章 タヒチからマルケーサスへ(1895~1903年)」の「2 文化的総合」をまとめます。ここではゴーギャンの第二次タヒチ滞在中の作品で、浮彫りによる木彫作品「戦争と平和」に関する内容が詳しく書かれていました。初めて注文として請け負って制作された作品である「戦争と平和」は、葡萄農園主であったギュスタヴ・ファイエの所有となり、彼のコレクションの中で主賓客の位置を与えられたようです。「注文によって制作されたゴーギャンの唯一の作品である《戦争と平和》はまた、ところどころ金の賦彩のある豊かな色彩によっても、タヒチ時代の作品を通じて例外的である。全体的に茶色の色調でまとめられ、木々の葉には深い緑が、木に付いた実や幾人かの人物の髪の毛などには赤が用いられ、ブルターニュでシャマイヤールとともに用いていた色調を彷彿とさせる。」人物のポーズも洋の東西を問わず、たとえばローマ芸術の傑作の最良の部分を利用しています。またプリミティヴな容貌の背景に繁茂する豊かな自然を表すことによってオセアニアの性格を与えているようです。「東洋や西洋の古来の美術に依拠し、素朴な力強い彫りでいにしえの神秘の世界を喚起したゴーギャンの木彫は、こうしてファイエの手によって、西洋の伝統的芸術品の流れの上に、正当な位置を与えられたのであった。~略~第二次タヒチ滞在中の装飾彫刻は、西洋古典古代の浮彫彫刻、西洋近代絵画や彫刻、東洋の仏教彫刻などさまざまな文化的源泉を、時には一つの作品の中に混在させながら総合し、オセアニアのプリミティヴな野蛮さの中にまとめ上げたものであった。」

「状況-思考の神秘的内部を表すこと」について

「中空の彫刻」(廣田治子著 三元社)の「第二部 ゴーギャンの立体作品」の中の「第6章 タヒチからマルケーサスへ(1895~1903年)」の「1 状況」をまとめます。ここで私は副題をつけることにしました。本書は章の冒頭に「状況」という導入部分があります。その中で私は「思考の神秘的内部」という語句に注目をしました。フランスに一時的に帰国していたゴーギャンが、再度タヒチに渡航し、生涯を閉じることになるマルケーサス諸島のヒヴァ・オア島に至るまでの作品の変遷を本章では描いていますが、「状況」で論考された部分はゴーギャンの芸術的世界観を語る上で必要なことと考えられます。「絵画も含めて第二次タヒチ滞在中の作品は、第一次滞在中のものとは全く異なる様相を呈することになる。ゴーギャンはもはや土地と民族を知るための追究をする必要はなかった。以後彼が生み出そうとするものは、まさに彼の『思考の神秘的内部』を喚起する自らの芸術的世界なのであった。」これはゴーギャンの絵画にとって最後の黄金期とも言える時期で、美術史に残る作品を次々に生み出していったのでした。また、彼は植民地側の権力者や宣教師との間で激しい闘いをしていて、彼にとってはタヒチもマルケーサス諸島も南国の楽園とはいかない現実世界があったようです。「彼が最初に本国に対する植民地を、あるいは自分がそうである白人男性に対する植民地の女性たちを『他者』として捉えたのは1889年の万国博覧会の時に遡る。それはひいては、西欧の近代文明のもたらした頽廃の中で、活路を植民地に求めた帝国主義の成果を享受することにつながっていた。しかし自ら西欧ブルジョワ世界のアウトサイダーとなった彼にとって植民地の人々の他者性は、文明人としての自己と決別し、本源的自己を模索しながら野蛮人として再生するために、大切なよりどころであったことを忘れてはならない。まさしく自らの芸術にプリミティヴな価値を与えるために、白人男性芸術家ゴーギャンは、この他者性を自己のものとし、そうすることによって、ブルジョワ芸術を揺るがそうとしたのであった。したがって彼は、他者である植民地の人々に自己を同化するのである。彼が反植民地闘争に熱心に関わった理由はここにある。」

7月RECORDは「揺らぐ楼閣」

RECORDは一日1点ずつ制作していく小さな平面作品で、2007年から制作を開始しています。一日1点というのはなかなか厳しいノルマで、その日がどんな状況であれ、必ず制作をしていくのです。毎年テーマを決めてやっていますが、今年は年間テーマを設定していません。ただし、月間テーマを決めていて、その時の時事問題やら季節やら内面的なものでも何かしら心に引っ掛かるものを選んでいます。今月は「揺らぐ楼閣」にしました。楼閣とは高層化された建造物を指していますが、砂上の楼閣と言うコトバがある通り、崩れやすい砂の上に建てられた建物は、外見は立派だが、長く維持できないもので、例えば実現不可能なことにも使われます。私は最近、自分が頑張ってきたキャリア形成が、自分で考えているほど万全ではないのではないかと思うようになりました。自分が数十年やってきたことは砂上の楼閣ではなかったか、創作活動はそれを自分に知らしめる最大のもので、自分のちっぽけな存在を顕在化して見せるものなのです。社会的地位が組織の力量によって護られてきたことは、決して自己判断力等がもつ生身の実力ではないとさえ思うようになって、私は組織力の上に胡坐をかいてきたのではないかと疑心暗鬼になることも暫しあります。そう考えると今まで培ってきた自己肯定感が揺らぎそうですが、自分の立ち位置をもう一度振り返って、確実な一歩を踏み出すことが、改めて自己を知る契機になると考えています。「揺らぐ楼閣」はそんな私の心情を表現してみたいと思って、今月から始めているのです。日々制作している作品なので、大それた事を考えても小さくまとまってしまうこともありますが、それでも今月は「揺らぐ楼閣」をテーマにやっていきます。

週末 5点目の陶彫成形と加飾

今日が日曜日である意識が、仕事を退職をした私は既に薄れていますが、美大生と美大受験生が朝から工房にやってきていたので、今日が休日であることが分かります。この子たちはウィークディには学校に通い、週末には工房に通ってきているので、2人にとってものんびりした休みがないのだろうと思っています。雨が今日も降っていて鬱陶しい天候でしたが、それぞれの課題に真剣に取り組んでいる彼女たちを見ていると、こちらも負けてはいられない気分になります。忽ち工房には緊張感が張り詰めて、清々しい空気が漂います。私は来年に向けた5点目の陶彫成形と彫り込み加飾を終わらせました。今日作った陶彫部品は8点で構成されるもので、前に作った陶彫部品の倍の量でひとつのマッス(塊)にしていきます。曲面のある有機的な形態に、三角形を基本とした彫り込み加飾を施しています。曲面に三角形の文様を加えるというややアンバランスな世界を狙っていて、これが来年に向けてのちょっとした冒険になっています。ただ作品全体は崩壊している様子を表現しようとしていて、少しずつ全体を覆う空気感が見えてきました。陶彫部品のマッス(塊)が複数点在する庭園のような広場は何層にも重なっていて、崩れかけた敷石風の文様の下から新たな文様が垣間見えるような謎めいた空間を作ろうと意気込み始めました。「発掘~盤景~」の制作が佳境を迎えていた時に、苦し紛れに湧いてきた新作イメージを再度確認して、構築されたものと周囲が侵食されるように失われていくもの、その落差をどうしていくのか、当分イメージの具体化の変遷を経ていく必要がありそうです。それを紙面に落とし込んでしまうと、そこで動いていたイメージが停滞し、またさらにエスキースを書いてしまうと、完成形がほぼ出来上がってしまう恐れがあり、私はあくまでも頭の中で繰り返しイメージを辿り直す方法を採っています。今日も5点目の陶彫部品を目の前にして、これをどこにどう置くべきかを考える中で、イメージが茫洋と見えてきたのです。このイメージ更新と振り返りが楽しくて、日々工房に通ってきているようなものです。今日も夕方になって生真面目な女子たちを車で家まで送り届けました。

週末 梅雨前線の活発化

週末になりました。昨晩から関東地方は豪雨に見舞われていて、夜中に警戒警報が鳴りました。土砂災害に纏わる避難勧告が出されていましたが、私が住んでいる地域は周囲に河川が少ないため、大きな被害にはならなかったようです。梅雨前線の活発化の齎す影響ですが、最近はそうしたことも珍しくありません。夕方のテレビ報道で静岡県の熱海に土砂災害があり、土石流が民家を襲っている場面が映し出されていました。今日も一日中雨が降り続いていました。先月のRECORDのテーマにしていた「流転の因」を見るようですが、なかなか情景をリアルに捉えきれないテーマではありました。今日は2人の学生が工房に来ていました。ひとりはいつもやって来ている美大受験生で、もうひとりは美大でグラフィックデザインを専攻する学生です。美大生は大学で出されている課題をやりに工房に来ていました。扱う素材によっては自宅の自分の部屋で制作することが難しいものがあります。そうしたことで彼女は工房を利用しているのです。この2人は明日もやってくる予定です。私はこの1週間は梱包用木箱の製作と来年に向けた新作の陶彫制作に費やしていました。私は毎日工房に来ているので、一日のルーティンが決まっていて、週末になってもそれに従って行動しています。唯一ウィークディと違うのは、週末になると若い学生が工房に顔を出すことです。彼女たちがそれぞれ作業台を使うので、週末に限って私は陶彫制作だけをやっています。これは作業台の関係でこうしているのですが、実は他にも影響があります。工房に他人がいて制作時間を共有しているということは、ある程度自分を縛ることになり、制作のペースアップに繋がっていきます。前にもNOTE(ブログ)に書いた社会的促進と言うもので、お互いが好影響を及ぼしている結果となり、歓迎すべきことです。雨が降り続く中、工房では張り詰めた空気が漂っていました。雨は明日には上がるのでしょうか。夕方になって彼女たちを車でそれぞれの家まで送っていきました。

個展案内状の宛名印刷

今月の19日から始まる私の16回目の個展。今年も東京銀座のギャラリーせいほうで開催します。先日、案内状が1500部出来上がってきたので、ギャラリーには1000部持参しました。私からは私の友人や知人に案内状を郵送する予定ですが、その宛名印刷を今日から始めました。月曜日には郵送が完了するつもりですが、案内状が届かない方々のために、このホームページでも広報していきます。昨年は新型コロナウイルスが猛威をふるっていたため、個展には誰も来てくれないだろうと思っていて、虚しさの中で案内状を出した記憶があります。今年もコロナ渦は変わっていませんが、ワクチン接種も進んでいることから、昨年よりは個展会場に足を運んでいただける方がいらっしゃるのではないかと淡い期待を込めています。何しろ個展期間は東京オリンピック・パラリンピックの開会式に当たっているため、カレンダーの休日が移動して、連休になっていることがあり、連休中もギャラリーは営業をしているからです。私は昨年までとは違い、校長職を退職しているので、ほとんど毎日ギャラリーにいることが出来ます。案内状の開催時間のことで今年変えた部分があり、最終日を30分早く切り上げ、搬出時間を確保したことです。掲載している地図も店舗等が変わっていることがあり、今年の状況にいたしました。裏面の案内状の画像には毎年気を使っていて、インパクトのある画像を選んでいます。今年は「発掘~盤景~」の上部から撮影したものを採用しました。案内状の画像は重要で、まさに今年の作品の顔になります。円形土台に陶彫部品が点在する「発掘~盤景~」は、ほぼ1年間をかけて制作した私の代表作です。直径は4メートル以上あるため、ギャラリーの床いっぱいに広がる作品になります。そのうち図録も出来上がってきます。いよいよ個展が近づいてきたという実感が湧いてきました。

16回目の個展開催の7月

7月になりました。昨年のNOTE(ブログ)を見ていると「15回目の個展開催の7月」というタイトルが7月1日にありました。昨年に倣って今年はタイトルを16回目に変えました。昨年、私はまだ校長職にあって、しかも新型コロナウイルスの猛威もあり、学校運営も個展も厳しい状況の中でやっていました。昨年の個展は人が来てくれない中で決行した個展でしたが、今年はどうでしょうか。延期になった東京オリンピック・パラリンピックは私の個展開催中に開会式を迎えます。コロナ渦は相変わらずですが、私を含めた大勢の人々の気持ちに慣れが生じて、人流は昔に戻っています。ただ、外国人観光客が少ない分、銀座は落ち着いた街になっているようにも思えます。さて、今月は私にとって創作活動のターニングポイントで、個展によって過去を振りかえり、未来を模索する1ヶ月になるのです。私にとって年末年始より、この7月が気持ちを改める時でもあります。しかも二足の草鞋生活ではなくなった初めての個展期間になるので、私は毎日ギャラリーに行くことが可能です。個展が終わっても、自ら感じた課題を翌日から創作活動に生かすことも出来ます。もう既に私には週末という意識がなくなっているので、きっと夏季休暇という意識もなくなっていくでしょう。夏は季節の変化だけで夏を感じるのであって、今までのような特別なものではないのです。そんな7月をどう過ごしていくのか、私なりに考えながらやっていこうと思っています。とりあえず今月は来年に向けた新作に弾みをつけます。制作は既に始まっていますが、イメージの具現化をさらに推し進めます。RECORDにも力を入れます。下書きが山積みされている現状を何とか挽回しようと思っています。読書も継続しますが、私は学生時代から夏に読書を貪る癖があり、それは大いにやっていこうと思います。今月の中旬に私はコロナワクチンの2回目の接種を終えるので、美術館や映画館にも出かけていこうと思っています。7月が充実できるように頑張っていきます。

飛躍の6月を振り返る

今日で6月が終わります。今月は7月個展のために図録を作成し、案内状も自宅に届きました。個展に出品する作品の梱包を始めていて、現在は陶彫部品を収納する木箱の製作に追われています。木材を調達しながら木箱を作っているので、意外に時間がかかっています。それと同時に来年発表をする作品に取り掛かりました。飛躍の6月とタイトルに書いたのは、新作に向けた意気込みがあって、充実した1ヶ月が過ごせたからです。新作はここからスタートして来年の図録用の撮影日まで続くのです。来年の新作のイメージは随分前から湧きあがってきていて、全体枠に定まらない石庭空間のようなものが漠然と見えています。個展には毎年大きな作品と中くらいの作品を出品していますが、来年に向けた作品はどちらも同じコンセプトで作る予定で、大中統一した作品になる予定です。今月も毎日工房に通いました。校長職にあった時のようなしっかりした制作計画を立てることはなく、毎朝とりあえず工房に行って作業を始めているような生活になっています。週末毎の制作から毎日の制作へ変わるということは、こんなところにも現れています。加えて公務員を退職してから自分のことだけを考えていられる生活に幸福を感じています。鑑賞も今月は充実していました。「モンドリアン展」(SOMPO美術館)、「イサム・ノグチ 発見の道」展(東京都美術館)、「柳原義達展」、「川瀬巴水展」(両方とも平塚市美術館)、「国宝 鳥獣戯画のすべて」展(東京国立博物館)と訪れた場所を列挙すると、ネットで予約を必要とする展覧会が多く、これからの美術館等の入場のあり方を示していると言えそうです。今月は映画館に行くことは控えてしまいました。コロナ渦で感染者数が日々発表される状況では、映画館や劇場に行くことに消極的になってしまいます。今月は新型コロナウイルス・ワクチン接種を東京大手町の大規模接種センターでやってきました。2回目は来月中旬に予定しています。接種をしたからと言って新型コロナウイルスが治癒するわけではないので、感染予防はやっていかざるを得ません。気温が上昇してマスクが辛い生活になっていますが、この処置は来月も続きそうです。日々制作するRECORDは、どうしても悪癖から抜け出せず、今だに下書きが先行してしまい反省するところです。読書はゴーギャンの彫刻に纏わる書籍が面白くて、よくNOTE(ブログ)に取り上げています。もうすぐ読み終わりそうで、来月はこれに代わる書籍を考えます。

「 《オヴィリ》1・2」について

「中空の彫刻」(廣田治子著 三元社)の「第二部 ゴーギャンの立体作品」の中の「第5章 タヒチ滞在(1891~1893年)とパリ帰還(1893~1895年)」の「3 《オヴィリ》1」と「4《オヴィリ》2」をまとめます。ここで漸くゴーギャンの彫刻の代表作である「オヴィリ」が登場します。「炻器による彫像《オヴィリ》は、ゴーギャンが自らの墓に置いてほしいと望んだ彼の畢生の大作であるとともに、この芸術家独自の陶製彫刻として究極の作品である。また、19世紀末の象徴主義と20世紀前半を席巻したプリミティヴィスムの特質を併せもち、曖昧で多義的な謎めいた意味を喚起しながら、オセアニアやアフリカ彫刻のように呪術的な眼差しをもっているのである。」さらに作品の詳しい説明が書かれた部分を引用します。「背面の裂け目は、日本の焼き物において珍重される偶然の効果による割れ目を模したものかもしれない。けれどもゴーギャンは、それを彫刻の一要素に変換する。開口部を開きながら、彼は意図的に中空の内部を見せ、それが陶器であることを示すのである。おそらくここに多=分野性を旨とするゴーギャンの陶製彫刻の最大の特質があるのである。『中空の彫刻』は、陶芸であることに基づく必然的結果であったが、ヴォリュームをもたない身体表現の実現によって、彫刻は中空の空間を覆う表面の上で展開するものとなり、三次元性のイリュージョンに頼らない自律的彫刻が生み出されたのである。」作品の彫刻史上の位置として書かれた箇所を引用します。「《オヴィリ》は、オセアニアとボロブドゥールの要素を採り入れた人体表現の創造という点で、西洋彫刻史において初めて、ギリシャ彫刻の伝統の桎梏から解き放たれた人体彫刻なのである。~略~かくして《オヴィリ》においてゴーギャンは、ロマン主義の浮彫の手法を採り入れた立像形式を用いて、プリミティヴな彫刻に倣った正面によって自律性を獲得しつつ、斬新な空間の観念を提示したモダンな彫刻を実現したのである。」文中にあったボロブドゥールの遺跡はインドネシアにあり、私は過去に一度訪れています。仏教思想の巨大な遺跡で、その周囲にあった浮彫は今も記憶にあります。「オヴィリ」の図版を見ていると、ボロブドゥールの遺跡から受けた啓示があるのかなぁと思います。ゴーギャンはボロブドゥールの遺跡を書籍で知ったはずですが、自らの表現に採り入れたのだろうと思います。私もエーゲ海沿岸の古代都市からイメージを膨らませましたが、自己表現を求めるためには洋の東西を問わず、自らの思索や感覚に従って素直に採り入れていくことは、私も身をもって体験しています。

「状況-木彫」について

「中空の彫刻」(廣田治子著 三元社)の「第二部 ゴーギャンの立体作品」の中の「第5章 タヒチ滞在(1891~1893年)とパリ帰還(1893~1895年)」の「1 状況」と「2 木彫」をまとめます。いよいよタヒチに出かけるゴーギャンに対し、画家ルドンは引き留めようとしたようです。「彼の地で私は私自身のために、原始的で野蛮な状態の中でそれ〔芸術〕を育てたいのです。そのために私は静けさを必要とします。他人に対しての栄光などどうでもいいことです。〔…〕タヒチの私の小屋で、約束しますが私は死などを考えず、逆に永遠の生に思いを馳せるでしょう。生の中の死ではなく、死の中の生を。」とゴーギャンは返答しました。「ゴーギャンは自らの原始的『自我』を見いだすために内面の奥深く分け入ったのであったが、今や彼は人類の起源の追究を始めるのである。そのためには自らが野蛮人として再生する必要があった。」しかしながら西欧の植民地であったタヒチは、ゴーギャンの理想とはかけ離れた環境だったようです。「タヒチはもはやゴーギャンが求めていた地上の楽園ではなかった。オセアニアのフランス植民地の首都であったパペーテでは、当地の伝統的な住居や風習を見いだすことはほとんど不可能であった。~略~期待はずれの状況に直面してゴーギャンは、昔日のタヒチを再発見し、種族の先祖の神秘を感得しようと努めた。彼の冒険譚と経験は『ノア・ノア』に語られているが、そこでは悲惨な現実は省略され、美化されながら、文明人である彼自身と野生的なタヒチの民族の対比が強調されている。」またモデルに選んだ女性に関してこんな文章もありました。「(ゴーギャンは)13才のテハマナと出会い、ついにポリネシアの種族に典型的な性格を把握し、幸福を得るのである。彼女との生活はゴーギャンに、民衆の迷信じみた信仰を理解し肌で感じることを可能にした。」木彫偶像に関しては「ゴーギャンの作品の最大の特質は、古代の神々を人格化し、彼らに姿を与えることにあった。タヒチでは神々が形象化されなかったので、彼は自らそれらを創造しなければならなかったからである。」とありました。結局、タヒチは彼に何を齎せたのか、こんな文章でまとめられています。「人類の起源に遡及し、そこから生命の源泉を汲み取り、人間の推論の最初の形態であるさまざまな宗教の中に共通の根源を見いだすこと、それこそがこの南の島での彼の関心事であった。~略~また形態論的に見れば、これらの木彫は中空の壺彫刻と同様、表面上で展開する彫刻であり、鑑者は周囲を回って作品を見ることを促されるのである。これらは二次元の視覚によって捉えられ、表現された三次元のオブジェである。~略~木の素材がもつ物理的潜在力は、とりわけこの熱帯の地にあっては宗教と結びついたアニミスム的な精神性をゴーギャンに理解させた。」

週末 イメージの具現化へ

日曜日になり、いつものように美大受験生が工房にやってきました。彼女を見ていると、最近の予備校から出される課題が変わってきていると感じています。受験用の実技テクニックを教えるだけでなく、自分の本当にやりたいことやそれに伴う表現を求める課題が出されていて、受験生は混乱していました。私は大学に入ってから漸く自分を知り、自分のことを考え始めたのでしたが、今の受験生は大学で求められることを受験時代に求められていて、ちょいと時代が進んでいるのかなぁと思いました。確かに美大や芸大合格がゴールになってしまう学生がいて、大学で何をやっていいのか分からなくなる人もいます。美術系の学校に入るのは、そこで時間が与えられるだけのことであって、そこがスタートなのです。そこから本当の意味での自己研鑽が始まると言えます。私のように人体塑造を通して立体の何たるかを把握するために4年間費やした者が、その後の展開で自己表現に到達し、イメージを膨らませることが出来た事例もあります。私の自己表現は遅ればせながらの出発でしたが、回り道をして到達した世界観は堅牢で、数十年間も揺るぎないものになっています。今日は一日中、来年に向けた新作に関わっていました。まだ新作のイメージは漠然としていますが、構築物が点在する風景を思い描いていて、その構築物のひとつが具現化してきました。その構築物は4点を組み合わせて形成するもので、それらが点在する情景には、あたかも龍安寺の石庭のようなものが浮かんでいます。龍安寺の石庭は方形の壁に囲まれていますが、私のイメージでは周囲がぼやけてしまっていて、崩壊が進む状況はそんなところで表現できるかもしれません。ともかく今日はイメージの具現化に一歩進めることが出来ました。また明日から7月個展のための梱包用木箱作りを始めますが、今日は来年を見据えた新作に取り組んで、気分が高揚しました。

週末 梱包用木箱の製作開始

週末は個展準備の状況を書いていきます。今週から梱包用木箱を作り始めていました。「せいさく」という漢字には「制作」と「製作」の2種類があります。創作的な行為は「制作」、工作的な行為は「製作」を使いますが、梱包用木箱は「製作」で、来年に向けた陶彫の取り組みは「制作」になります。今週は製作をやっていることが多く、梱包用木箱は順調に出来ています。ベニア板を垂木で補強する木箱製作のやり方を思い出し、その都度材木を調達しています。陶彫部品は多少修整もあって、まだ木箱に収納していませんが、来月初めには収納が終わる予定です。やはり梱包用木箱の製作はモチベーションが下がり、今ひとつ意欲がもてずにいるので、一日のうちに木箱製作と陶彫制作を組み合わせることをやっていて、日々の工房での過ごし方に変化を与えています。昼ごろに近隣のスポーツ施設に水泳をやりに出かけるので、この水泳を境にして製作から制作に切り替えています。木箱製作は作業台を複数使うので、美大受験生がいないウィークディにやっているのも条件としてあります。週末は受験生がやってくるので、私はひとつの作業台で制作可能な陶彫の取り組みだけをやっているのです。陶彫をやっていると気分は上がります。来年に向けた新作のイメージが少しずつ固まってきていて、これには俄然意欲が湧いてきています。毎日こんな生活を送っていると、3月末までやっていた校長職がもう信じられないと思うときがあります。3月までは週末だけで今と同じレベルで製作や制作をやっていたわけで、使う時間の密度が違っていたとしか思えません。人間はどんな環境に置かれても、何とかそこで頑張れるものなのでしょうか。二束の草鞋生活を送りながら、東京銀座のギャラリーせいほうで過去15回も個展を開催しました。そんな自分がよく毎年健康を害さずに意思を保っていたものだなぁと自画自賛をしても構わないのではないかと思っています。今はだいぶ緩くなってきましたが、それでも毎日私は決まった時間に工房に出かけています。

「木彫浮彫」について

「中空の彫刻」(廣田治子著 三元社)の「第二部 ゴーギャンの立体作品」の中の「第4章 陶製彫刻と木彫浮彫(1889年と1890年)」の「6 木彫浮彫」をまとめます。この章では2点の作品が登場します。ひとつが「愛せよ、さらば幸いならん」、もうひとつが「神秘的なれ」です。まず、「愛せよ、さらば幸いならん」の論考から引用します。「1891年、二人の批評家が同様の文脈においてゴーギャンのパネルを捉えることになる。象徴主義者アルベール・オーリエは、『情欲の全て、肉体と思考の闘いの全て、性的快楽の苦しみの全てがのたうち回り、いわば歯ぎしりをしている』と書き、ロジェ・マルクスはそこに『男性的で荒々しい切り溝によって表された顔の上の力強い苦痛』をみており、その鑿の跡は、『原始の人〔=芸術家〕のもののように不器用さを示しているが、確かに雄弁である』と述べている。~略~『これらすべての根本は浅浮彫の彫刻芸術であり、素材の性質におけるフォルムと色彩である』とゴーギャンは言った。意味を担っている技法は真に革新的であり、それはすでにロダンの技法に比較されている。ロザリンド・クラウスによれば、『観者に対して彫刻の物語的意味〔の解明〕へのあらゆる可能性を拒否するために彼〔ゴーギャン〕が用いる手順は、ロダンが《地獄の門》で行っているそれに近い』」。もうひとつの作品「神秘的なれ」は似て非なる作品のようです。「1年後に制作された《神秘的なれ》は、作者自身が言うように、《愛せよ、さらば幸いならん》の対作品であり、縦と横は逆であるが大きさはほぼ同じである。人物と周囲の空間の表面処理や色彩において共通した特質を持っている。~略~《愛せよ》の複雑な構図とは対照的に、《神秘的なれ》のそれは中央に背中から捉えられた裸婦が一人、それを挟んで右上に、正面向きの目をもつエジプトの絵のような横顔が、左下にはル・プールデュの女性の民族衣装のような被り物を着けた人物がいるのみの単純な構成である。裸婦を囲む波の様式化された装飾的表現に関しては、日本の彩色木彫との関連が早くから指摘されている。」次にゴーギャンの生涯のエポックに繋がる文章がありましたので引用いたします。「絵画に比して木彫においては、タヒチ渡航を半年後に控え、プリミティフな世界がブルターニュから異国の世界へと、より遠く、しかしより身近に捉えられている。女性はもはやブルターニュの女性ではなく、体の引き締まった異国の女性であり、謎めいた右上の顔の方を向いている。この頃すでにタヒチへの旅行の準備をしていたゴーギャンは、書物によってオセアニアの文化に触れていたことであろう。」

21’個展図録の色稿と案内状印刷

来月の個展に関する図録の色稿が出来上がってきました。今度の個展で16回目になりますが、図録に関しては1回目から同じ大きさ、同じ頁数で作っています。案内状(DM)は1500部印刷されて手元に届きました。自分としては精一杯立派な図録や案内状を作ろうと毎年考えていて、今年も自分の考えが反映した図録や案内状が出来上がってきました。図録や案内状はカメラマンとの協働制作で、さまざまな視点から撮影をしていただいております。ただし、制作に無我夢中になっている私は作品全体の空気感が見えていないところがあって、そこをカメラマンが補ってくれていると思っています。今回は室内の床に置いた作品全体を、ロフトから狙って撮影した画像が大変面白く感じられました。鉄骨の梁も画像を構成する一部になっていて、そこに抽象絵画性を見取りました。これはカメラマンが捉えた視点です。陶彫小品の野外撮影も、光と影が織り成す画像を、周囲の木々の緑とともに演出していただきました。撮影を他者が行うことで得られる効果は絶大で、私には考えも及ばない構図が手に入ります。以前NOTE(ブログ)にも書きましたが、アナログとデジタルの両輪があってこそ、立体作品は光を放つ存在感を示してくれます。彫刻をやっている私がアナログの世界を、カメラマンがデジタルの世界を表現しているのです。ましてや私の作品は集合彫刻なので、撮影会や個展などの機会がないと作品がきちんとしたカタチで見せられない特徴があり、作品を他者に説明するためにも立派な図録や案内状が必要なのです。昨晩、カメラマン2人が我が家にやってきて、図録の色稿を確認しました。図録の印刷はもう少し後になりますが、案内状はとりあえず1000部持参して、今日は東京銀座のギャラリーせいほうに行ってきました。いよいよ今年も個展が始まる時期になったと感じました。今年で16回目を数える個展ですが、マンネリに陥ることはなく、毎回新しい発見がそこにあるのです。

「ロダンとの関係に関する仮説」について

「中空の彫刻」(廣田治子著 三元社)の「第二部 ゴーギャンの立体作品」の中の「第4章 陶製彫刻と木彫浮彫(1889年と1890年)」の「5 ロダンとの関係に関する仮説」をまとめます。ゴーギャンが生きた19世紀後半で最も存在感を示していた彫刻家と言えばオーギュスト・ロダンです。この生粋の彫刻家ロダンとゴーギャンの間にはどんな関係性が見受けられたのか、少ない資料の中で著者は果敢に調査を試みています。「ロダンはゴーギャンの絵画《峡谷》と1889年の亜鉛版画を所蔵しており、彼を画家として高く評価していたことは明らかである。しかしその炻器に関してはロダンは、木彫と同様、『珍奇なもの』という評価を下したに相違ない。」こんな状況でも2人が会っている可能性がありました。「ゴーギャンとロダンが1887~88年の冬に会っていた可能性もある。裕福なオーストリア人画家ジョン・ピーター・ラッセルがロダンの友人であったことは知られている。ロダンはラッセルの妻の肖像彫刻を制作し、銀で鋳造したのであった。ラッセルはまた、コルモンのアトリエで知り合ったファン・ゴッホやトゥールーズ=ロートレックの友人でもあった。ラッセルの娘ジャンヌの話としてグルンフェルドが伝えるところによれば、ロダンはモンマントル墓地の近く、ラッセルの冬営地ヴィラ・デ・ザールでゴーギャンに出会っていたという。またある夜、ラッセルはモンマントルのキャバレーにロダン、ファン・ゴッホ、ゴーギャン、トゥールーズ=ロートレックを招いたと伝えられている。」当時は象徴主義の台頭もあり、そうした中で芸術家同士が新しい潮流に共感していた場面もあったのでした。「ロダンとゴーギャンは、ともに1880年代末にますます盛んになっていた象徴主義の傾向に与していた。こうして両者はともに1890~91年、カフェ・ヴォルテールで象徴主義者たちの議論に参加していたのである。しかし彼らにおける象徴主義概念は同じではなかった。ロダンを捉えていた生と死の観念は、ゴーギャンにおいてはその後エヴァやヴィーナス像の中に、自らのプリミティヴィスム思想を加味したヴィジョンを投影し、死と再生の問題へと変貌していくのである。」

「ライゾマティクス_マルティプレックス」展の図録より

4月13日に見に行った東京都現代美術館の「ライゾマティクス_マルティプレックス」展の図録が郵送で自宅に届きました。随分時間が経っていたので、私は同展会場で図録を注文したことを忘れていましたが、届いた図録はライゾマティクスという電脳集団が関わったさまざまなイベントや取り組みが、多くの画像によって紹介されていて見応えのある図録になっていました。美術館という器の中で、ライゾマティクスがアートとして取り組んだ表現活動は、メディアを通した一つの可能性を提起していて、情報機器の扱いが苦手な私としても興味関心を持たざるを得ない分野と言えます。「誰が顧客(コレクター)か、画像の鑑賞者かも定まらない未知の市場、従来のアート市場の価値体系の危機、暗号化にかかる膨大な電力消費へのエコロジカルな批判ーすべてが不確定なままに膨大な情報と欲望が動いている。メディアアートの歴史家であるティナ・ライアンは、『NFT(※ノン・ファンジブル・トークン…非代替性仮想通貨のこと)の構造そのものが、コンピュータやインターネットを使って美的なモノの定義を拡大してきた何世代にもわたるアーティストたちの遺産を無効にしてしまった』と言う。さらにライアンは、NFTは分散したり、インタラクティブだったり、偶発的だったり、刹那的だったりするデジタルプロジェクトの厄介な現実より、安定した単一の芸術作品という理想を優遇しており、非物質的なものに価値を見いだしてきた現代芸術の歴史と真逆な方向にドライブする、と批判する。『永遠に単一の資産』たらんとするデジタルアートの転身、その固定した姿を、ライゾマ(※ライゾマティクスの略称)は分散、偶発、刹那的な仮想空間の現実論のなかに描く。まさに今生成しつつある現実に目をむけよ、とライゾマは言う。半歩先の未来から警鐘を鳴らす。そして彼らは独自のOpenSeaプラットホームのあり方をすでに考えている。」(長谷川祐子著)私は唯一無二の物質を信じ、彫刻と言う西洋古来の概念に囚われて表現活動を行う者です。図録の解説によれば、さまざまな消費的で社会的なシーンに関わってきたライゾマティクスも、「永遠に単一の資産」たらんとするデジタルアートの転身を考え、それ故に展覧会場での立方体や球体を使ったオブジェ的な要素を登場させたのが理解できます。私はそこにホッと胸を撫で下ろした感覚を持ちました。あの時、展覧会場で体験した肌感覚はとても気持ちの良いものだったと思い返しています。

「炻器におけるいくつかの彫刻的表現」について

「中空の彫刻」(廣田治子著 三元社)の「第二部 ゴーギャンの立体作品」の中の「第4章 陶製彫刻と木彫浮彫(1889年と1890年)」の「4 炻器におけるいくつかの彫刻的表現」をまとめます。ここではゴーギャンと同様に陶器と彫刻の結合を推し進めたジャン・カリエスとの関係が語られています。「ゴーギャンが目指していた陶器と彫刻の結合という芸術概念は、カリエスにとって真の啓示であっただろう。こうしてカリエスは、『彫刻によって装飾された作品、頭部の付いた小樽、渋面の付いた手桶、浮彫で怪物が表された焼き物、あるいはそれ自体で怪物の頭部を形成している焼き物』を生み出すことになるのである。」そうした創作的陶器にはイメージの源泉となる自らの成育歴や宗教感などがあったようでした。「カリエスとゴーギャンの間には、まさしく己自身の階級意識の違いによる人間の社会に対する眼差しの違いがあったが、両者に共通して怪物的なるもの、人間と動物の間で揺れ動く存在に対する関心があったことは注目すべきである。魂の醜さが引き起こす肉体のメタモルフォーズというゴチック的な想念のもとに、カテドラルの樋嘴の怪物たちは二人の芸術家を等しく惹きつけていた。」西欧の街を歩いていると、教会の樋嘴に怪物たちの像が彫られていて、当時の私は不思議な興味に駆られて、その資料を集めたりしていました。魔除けのようなものなのかと思っていましたが、そのバリエーションが楽しくて、可愛い悪魔たちに見守られているように感じました。それを炻器という技法で作った二人の芸術家。日本でも馴染みのある炻器が、西洋でも新しい表現に使われていたことが私にはちょっと驚きでした。「二人の象徴主義の芸術家、すなわち人相学的色彩を帯びたレアリスムから出発したカリエスと、ロマン主義的感性をよりどころとしたゴーギャンはともに、それぞれのプリミティヴィスムの追求と人間の条件についての考察に応える素材であった炻器を用いて新しい彫刻のフォルムを創造した。」確かに炻器は素朴な風合いが出て、面白味のある素材だと私も思います。

週末 3点目の陶彫成形

日曜日は毎回美大受験生が2人工房へやってきます。彼女たちのうちの一人は予備校の夜間コースに通っていて、そこで出された課題を工房に持ち込んでくるのです。昼間は高校に通い、夜は予備校、そして週末は工房にやってくるというハードなスケジュールで頑張っていて、自分が思うようにいかない内面的な部分を抱えながら日々を送っているのです。美術系の専門家を目指す第一関門は、己を知るところから始まって、それはずっと続いていくものです。私も何十年も美術に関わってきて、今でも己を疑い、己と闘っていると言っても過言ではありません。私の場合は受験というゴールは既にありませんが、創作活動のことを人から聞かれると、大学の卒業制作がずっと毎年リニューアルして延々と継続している感じかなぁと答えています。今日は来年に向けた新作の陶彫部品の3点目になる成形を作っていました。集合彫刻と言えども、そのひとつひとつの部品には全力で取り組んでいます。成形は彫刻的な作業で、構造を把握しながら立体を作っていきます。私にとって楽しい作業ではありますが、夢中になればなるほど骨が折れます。こんな立体をこういう部分で位置づけていこうと考えながら、微妙な膨らみを調整していくのです。ただし、陶土が無垢ではないため、大きく塊を削ったり、付け加えたりすることができません。裏側の厚みを常に考えながら、立体として納得できるカタチを追求していくのです。それと同時に表面に施す彫り込み加飾のことも考えていきます。長年付き合っている陶彫であるため、焼成した後の効果も想定に入っています。最終的なカタチが見えている中で、現行の制作を進めることは、イメージとの確認がやり易い結果となり、気持ちとしては楽になります。今日は夕方まで陶彫成形を頑張っていました。受験生2人を車で送りがてら工房を後にしました。

週末 梱包用木箱を考える

週末になりました。週末は自分の作品のことについて触れたいと思います。7月個展準備に関する進捗状況ですが、陶彫部品以外の梱包は全て終わりました。「構築~視座~」はテーブル部分と柱を分解し、それぞれエアキャップのついた工事用シートで覆いました。「発掘~盤景~」の円形土台も全て同じようにエアキャップのついた工事用シートで覆っています。残るのは「発掘~盤景~」の陶彫部品ですが、これは毎年木箱を作っています。どのくらいの木箱を用意したら陶彫部品が全て収まるのか、計算をしながら進めていきたいと思います。毎年この時期に作っている木箱ですが、ベニア板だけでは陶彫の重量に耐えられず、ベニア板に垂木で補強したものを作っています。どんな作り方をしていたか、毎年1回しかやっていないため、作り方を忘れていることが多く、昨年作ったものを見ながら、寸法や設計を割り出しています。幸い昨年作った分のベニア板や垂木が多少余っていたので、まず1個試しに作ってみることにしました。これは来週1週間かけてやっていこうと考えました。7月個展準備に関することはこんなものですが、こればかりやっているとモチベーションが下がるため、来年の新作にも取り組むことにしました。現在、来年の新作に向けて新しい陶彫部品2点が乾燥を待っている状態です。この2点は上下に組み合わせるもので、曲面を使った有機的な形態をしています。今日の午後は3点目となる陶彫部品に取り組むために、土錬機を回し、畳大のタタラを数枚用意しました。明日は陶彫成形を行う予定です。今日は家内がワクチン接種をするために東京大手町の自衛隊接種センターまで出かけるので、最寄の駅まで送りました。私は火曜日に接種済みで、今のところ何も問題はなく、至って健康です。

上野の「国宝 鳥獣戯画のすべて」展

緊急事態宣言が東京に出された時は、上野の東京国立博物館で開催中だった「国宝 鳥獣戯画のすべて」展が中止になり、私は同展を諦めかけていました。今月になって同展が延長されることになり、しかもコンビニに走ってやっとの思いで予約券を手に入れたのでした。展覧会をこんな思いで心待ちにすることは今までなかったことでした。同展はやはり多くの鑑賞者が訪れていましたが、混雑して見られないことはなく、遊歩道に乗って鑑賞する工夫も一興でした。鳥獣戯画の一部分は前にも見たことがあり、修復が終わった甲巻を味わった記憶があります。今回は有名な甲巻に加えて趣の異なる乙巻、丙巻、丁巻が展示され、全長44メートルに達する絵巻物全てが見られる貴重な機会と言えました。新たな発見は断簡と模本で、抜けた画面を掛軸に仕立て直したものが断簡、断簡となる前の順序や失われた画面を確認できるものが模本で、私にとって初めて見るものばかりでした。同展には立派な図録が用意されていて、図録による解説も大変参考になりました。まず甲巻でこんな文章がありました。「全体的な傾向としては、前半は動物を観念的に描いているような印象を受けるのに対し、後半は実際の観察にもとづく描写という感じを受けます。」次に乙巻は前半を日本動物編、後半を異国動物・霊獣編と分けていて「『異国動物・霊獣編』は日本にいない動物なので、絵師は何らかの手本や粉本を参考にして描いたはずです。知らない動物の形態を間違って描かないよう、先行図様に忠実に、なぞるかのように引いた結果が、こうした線の違いに表われていると考えられます。」とありました。丙巻では表裏にあった人物戯画と動物戯画の話に私は注目しました。「近年行われた解体修理の際、もともと紙の表裏に描かれていたものを、紙を薄く剝いでつなぎ合わせたのが現在の形だということが明らかになりました。」丁巻は人物中心で「甲巻、丙巻動物戯画で動物たちの行動は人間が行う儀式や遊戯の『見立て』でしたが、丁巻ではそれを再び人間の姿に戻すという二重のパロディを描くことで、きわめて諧謔的な画面を作っているわけです。」とありました。(解説は全て土屋貴裕著)私は自身の好みで言えば人物より動物の戯画化が面白くて、とりわけ軽妙洒脱な蛙の表現に惹かれてしまいます。日本人は平安時代より可愛いキャラクターが好きで、今も隆盛を極めるご当地キャラクターの原点がここにあったのではないかと思いました。京都の高山寺に伝わる鳥獣戯画ですが、明恵上人坐像や明恵上人が可愛がっていた子犬の木像もあり、しかも明恵上人が著した夢の記録もあって、高山寺ゆかりのものに不思議な現代性を感じてしまったのは私だけでしょうか。

牟礼の地に思いを馳せて…

東京都美術館で開催されている「イサム・ノグチ 発見の道」展。この表現の多様性に富む芸術家が歩いた「発見の道」を辿る本展は、彼の最終的な到達点はどこにあるのか、私は薄々到達点を感じながら展覧会場を見て回っていました。その到達点は香川県牟礼にあるイサムノグチ庭園美術館にあることが分かっていたからです。私は過去に二度、イサムノグチ庭園美術館を訪れ、石壁サークルに足を踏み入れています。その時の何ともいえない解放感と空間に対する高揚感は決して忘れられるものではなく、自分の創作活動が暗礁に乗り上げてしまった時に、度々石壁サークルを思い出しています。本展企画に関わったと思われる学芸員の文章が図録にありました。「四季それぞれの味わいのなか、天候によって環境の印象は大きく変わる。雨の日は空間全体の静寂がより一層深まるようで、その風情は格別である。石の彫刻も、光の変化にあわせ、驚くほどの変貌をみせる。地面には象牙色の粒子の揃った砂利が撒かれており、天気の良い日はその穏やかな反射する光が心地よい。~略~瀬戸内の気候は穏やかで、夏の野外での制作こそ難儀だったが、千変万化する自然の要素は制作に無限のニュアンスを付け加えてくれるようで、自然と同化する感覚を与えてくれる環境は桃源郷に等しいものに思えた。彫刻の本質とは、空間の認識であると考えていたノグチにとって、自然と照応しあいながら調和する可能性を秘めた環境こそ、長年求めていたものであった。牟礼は『約束の地』のような場所だったのである。~略~自然との対話の要諦は、自分に向かう意識ではなく、世界へと眼を向けつつ、己が消えていくことにある。ノグチは強烈な自我の持ち主であり、そのことへの自負もあった。だがときにそれが創造への足枷になることも理解していた。牟礼の空間を自然との対話に相応しいー自らが消えてしまうことのできるー自立した器にすることが何よりも重要だったのだ。素晴らしい条件は揃っている。しかし自然が自然のままであるうちは何も始まらない。ノグチにとって環境を整えることは制作と同義である。自然と交わり、新しい命を育むための母胎というべき作品=アトリエをノグチはつくりあげた。」(中原淳行著)そこで作り上げた石彫の数々は素材を生かした表現を探り、石材の割れ肌をそのままにした作品が並んでいます。しかも石壁サークルに存在する全ての作品がひとつの宇宙を形成していて、お互いが響き合う関係は、不思議な境地に私を導いてくれます。牟礼の地に思いを馳せる時、私には創造行為の活力が沸いてくるのを感じるのです。

上野の「イサム・ノグチ 発見の道」展

先々週、家内と東京上野にある東京都美術館で開催中の「イサム・ノグチ 発見の道」展に行って来ました。私は彫刻家イサム・ノグチに関する書籍はほとんど読み漁り、日本にある作品もよく見ています。言わば旧知の作品ばかりが展示されているのかなぁと思っていたら、海外からも作品が来日していて、大変見応えのある展覧会になっていました。本展で目を見張ったのは展示の演出で、入口に数多くの「あかり」を集中して吊るしてあったのには驚きました。立体の配置にも気が配られていて、照明の効果も抜群でした。空間造形にはそうした張り詰めた空気感が重要で、広い室内のところどころに置かれた立体同士が心地よい緊張感を醸し出していました。何度見てもノグチ・ワールドには学ぶべき要素があると感じました。センスの良い図録を手に入れ、隅々まで読んで、展覧会の感動を新たにしました。「22歳のイサムが出会ったときのブランクーシはすでに晩年で、癇癪もちの頑固なオヤジになっていた。イサムは『窓の外を見るな』『もっと集中しろ』と怒鳴られながら、ときどきアフリカ音楽のレコードを聴かされたり、チベットの聖人ミラレバの話をされたりした。イサムはこの厭世的で、ちょっぴり聖者めいたおやじが好きで、1949年にも会っている。しかしながらイサムの彫刻はブランクーシとはまったく異なっていた。ブランクーシは外から内に向かったのだが、イサムは内から外に向かったのだ。外発を好まず、できるかぎり石の内発力を見いだそうとした。そのことはイサムに『空間』を近寄せた。」(松岡正剛著)また世界的建築家が寄せた文章にこんな内容がありました。「『見切りをつけるのが難しい』。しばしば耳にしたイサムさんの言葉だ。『石はいじりすぎると死んでしまう…素材も自然も殺さぬように…』。そう言いながら、牟礼のアトリエで、クイーンズの庭園で、ご自身の作品を愛しむように撫でられていた。イサムさんの作品にはいわゆる作家の刻印がなされていないことが少なくないという。依頼を受けたものではない場合は、作品を手放さずに手元に置いて、気になれば手を加え、またしばらくして気が付いたら手を加え、といつまでも創作の手を止めないからだ。」(安藤忠雄著)そうした完成かどうかの境界を逸した作品が牟礼の庭園美術館に数多く置かれています。ひとつの石にも粗肌のまま残された部分と手の入った部分があって、そこには未完の美が宿っていると私は感受しました。石材を石の素材あるがままの状態にして置くこと、それはもはや西洋の彫刻概念ではなく、日本の庭園に近づいているように思えます。本展を眺めていると気持ちが香川県牟礼に飛んでいきそうになりました。

東京の自衛隊大規模接種センターへ…

新型コロナウイルス感染症のワクチン接種が始まり、私は65歳になっていたので、既に接種券や予診票が横浜市から送られてきていました。すぐに地元の横浜市のワクチン接種に関するネットにアクセスして、何度か予約を取ろうと試みましたが、なかなか上手くいかず、これはどうしたものだろうと思っていました。私よりも高齢の方々が優先されるのかなぁと思いつつ、横浜市で接種することは諦めて、テレビで知った東京都千代田区大手町にある自衛隊東京大規模接種センターにネットからアクセスして、予約を試みたところ、すぐに日程が決定しました。ホッと胸を撫で下ろし、家内にも予約を勧めました。家内は土曜日にワクチン接種に大手町まで出かけます。近隣の人たちにそれを話したところ、東京の大手町まで出かけることに躊躇する人が多かったのが実情です。私も家内も東京の美術館や博物館に出かけることが多く、おまけに私は銀座のギャラリーで毎年個展をやっている関係で東京が至って身近なのです。東京駅丸の内口から無料の送迎バスが出ていることを知り、これは案外楽かもしれないと思いました。今日の予約は昼12時からだったので、余裕を持って自宅を出ました。11時半に現地に到着しましたが、手続きや問診があって、30分程度早く動いて良かったと思いました。受付から流れるように案内され、建物の10階にある接種場所までスムーズに移動しました。テレビで見ていると、注射器の針が深く入っていくことに嫌な思いを持ちましたが、実際は不思議と痛くはなく、あっという間に終わりました。次の受付で2回目の接種日時を決めて、待機場所に案内されました。15分はそこで様子を見ることになるのですが、自分の待機時間が1分刻みに記録されていて、その時刻になるとアナウンスがあり、即座に建物から外に出されました。周囲を見渡すと自衛隊大規模接種センターは皇居の近くにあり、私がよく出かける国立近代美術館の傍にあることが判明しました。案内の人たちは親切で分かり易く、会場内で迷うことはありませんでした。帰路も送迎バスで東京駅まで送られてきました。横浜から東京までという距離を何とも思わなければ、大変効率的でストレスの少ない会場だったと思いました。

平塚の「川瀬巴水展」

先日閉幕した展覧会を取り上げるのは、自分の本意ではありませんが、展覧会の詳しい感想を述べたくてアップすることにしました。画家川瀬巴水のまとまった仕事を見たのは、私にとって初めてではないかと思います。川瀬巴水は1883年(明治16年)から1957年(昭和32年)まで活躍した大正・昭和期の浮世絵師、版画家です。ネットによると「川瀬巴水は、衰退した日本の浮世絵版画を復興すべく吉田博らとともに新しい浮世絵版画である新版画を確立した人物として知られる。近代風景版画の第一人者であり、日本各地を旅行し旅先で写生した絵を原画とした版画作品を数多く発表、日本的な美しい風景を叙情豊かに表現し『旅情詩人』『旅の版画家』『昭和の広重』などと呼ばれる。アメリカの鑑定家ロバート・ミューラーの紹介によって欧米で広く知られ、国内よりもむしろ海外での評価が高く、浮世絵師の葛飾北斎・歌川広重等と並び称される程の人気がある。」とありました。浮世絵の版画技法を最近まで持続し、美しい風景を数多く描いた画家として私も川瀬巴水を記憶していましたが、私はどちらかというと雑誌に掲載された挿絵としての世界をよく知っていて、オリジナルの版画を見たことはありませんでした。今回の展覧会で数多くの風景版画を拝見し、その全体構成や表現の豊かさを知りました。その整いすぎた画面に巧みな技法を見取りましたが、私個人としては印象に強く残ることはありませんでした。確かに情緒豊かな風景描写は海外で人気があったのは頷けました。展覧会の閉幕前だったせいか、訪れる鑑賞者が大変多く、また理解し易い画風なために熱心に画面に見入っている人もいました。同じ美術館で開催されていた彫刻家柳原義達の精神性に圧倒されていたためか、川瀬巴水の完成度の高さに今ひとつピンとこないものを感じてしまいました。それでも日本が世界に誇る浮世絵技法を余すところなく伝承してきた川瀬巴水の世界は、多くの人に感動を与えるものであったと思っています。

週末 新作の陶彫彫り込み加飾

今日は朝から美大受験生2人が工房に来ていました。私が週末であるのを意識できるところは彼女たちが来ているかどうかだなぁと思っています。工房での作業は週末だからといって私には特別でなくなっているため、人の出入りがケジメになっています。今日は昨日の梱包作業とは打って変わり、来年に向けた新作の取り組みをやることにしました。創作活動は気分の高揚があり、一日が短く感じられます。新作はまず陶彫部品第1号を作るところから始めていて、現在はかなり大きめな陶彫成形に挑んでいます。陶彫は最終工程に焼成があるため、立体を無垢で作ることが出来ず、立体の内側は刳り貫いた空間を内包しているのです。つまりがらんどうです。そうするためにタタラを立ち上げ、内外から紐作りで補強をして立体の景観を保たせていると言えます。陶芸と違い、陶彫は無理を強いる立体であるために、乾燥の段階や焼成で罅割れが生じることもあります。古来、轆轤でひく器はつくづく割れ難い形態をしていて、理に叶った制作方法を採っています。それに比べて陶彫は土偶や埴輪に見られるように罅割れが頻繁に生じています。私の陶彫もその難しい条件を満たして成り立つ表現だろうと思っています。土偶や埴輪には表面に文様を彫り込んだものがあり、その加飾が作品の表現をいっそう高めているように感じます。私の陶彫も同じです。彫り込み加飾には立体としての構造作為はありませんが、立体の持つ方向性を決定する重要な役割があります。陶土表面を削ったり、部分的に彫り込んで、文様を浮き彫りにする作業で、これがあるために私はやや厚めにした陶土で成形をしているのです。成形が彫刻的作業であるならば、彫り込み加飾は工芸的作業です。今日は新作の彫り込み加飾にほとんど一日を費やしました。新作の文様は三角形を基調とするものに決め、彫り込みをした箇所のところどころに三角形の穴を開けました。この効果は立体に軽みを齎せ、イメージの源泉である崩れかけたカタチを表現として採り入れることになると考えました。夕方、受験生2人を家の近くまで車で送って工房を後にしました。