週末 創作活動の動機を問う

今日は朝から工房に篭り、制作三昧の一日を過ごしました。昨日作っておいたタタラを使って、屏風に接合する陶彫部品2点を成形しました。昼ごろに近隣のスポーツ施設に行って水泳をしてきましたが、それ以外はずっと陶土と格闘していました。自分にとっては幸福な時間と言えます。集中力が高まっている間は何も考えませんが、暫し休憩をした時には昨晩観た映画「シュヴァルの理想宮」を思い出していました。不器用で頑固一徹な郵便配達員が生まれてきた娘のために、たった一人で宮殿を立てる実話でしたが、愛娘の喜ぶ顔が見たいという動機で、とんでもないことを始めたのでした。やがて娘を失い、最後まで理解を示してくれた妻をも失いますが、彼はそれでも宮殿作りを止めようとしませんでした。33年間、彼の後半生は宮殿作りに費やした人生だったのです。彼にとって宮殿作りとは何だったのか、彼の死後、理想宮はフランスの文化財に指定されましたが、そんな名誉が欲しくて彼が作り続けていたとは思えず、映画では童心のように只管作っていた印象が残りました。制作動機が娘に捧げるためであれば、とっくに制作を放棄していたはずです。それでは何故、どんな理由で人は創作活動を続けていくのでしょうか。自己満足のため?それも考えられるでしょう。自己表現が作品としてカタチを成す以上、必ず見てくれる人がいるという想定があり、自分のことを人が理解し、共感してくれることを期待するものと私は思っています。私の場合は一番身近な批評家は家内です。工房に出入りしているスタッフたちも協力者であり、私を常に観察している人たちです。一年1回個展を企画していただいているギャラリーせいほうの田中さんや個展に訪れてくれる人たちにも私は支えられています。それが動機なのかと問えば、本当にそうなのか、自分には分かりません。分かっていることは制作している時間に幸福を感じることです。地獄の苦しみを味わおうが、有頂天になろうが、陶土と格闘している自分は何かを得たいと足掻いています。その途中経過が不安定で不満足であっても、それが愛おしく感じられるのが創作活動の実感です。どんな理由で人は創作活動を続けていくのか、動機となるものは分かりませんが、魂の在り処が分からないのと同じで、不可思議な魔物に惹かれていくとしか答えようがないと思っています。

週末 陶彫加飾&映画鑑賞

やっと週末になりました。今週末は2日間とも丸々陶彫制作に充てられます。今日は朝から若いスタッフが基礎デッサンを描きに工房に来ていました。彼女はまだ高校生ですが、毎週工房にやってきて美大受験用のデッサンをやっています。コツコツと取り組む姿勢がいいなぁと思っていて、私も頑張らなければと背中を押されるような思いに駆られます。受験生と共に私も地道な努力こそ大事と思える時間を過ごしました。私の今日の作業は、屏風に接合する陶彫部品の彫り込み加飾を2点やることでした。それが終われば、乾燥している別の陶彫部品にヤスリをかけ、さらに化粧掛けを施す予定でしたが、彫り込み加飾に結構時間がかかってしまい、今日は夕方までやっていても彫り込み加飾だけで精一杯な状態でした。明日の新たな成形のためにタタラを数枚準備して今日の作業を終わりました。夕方スタッフを車で送った後、久しぶりに横浜の下町にあるミニシアターに出かけました。家内が邦楽器の演奏があるために、今晩は私一人で出かけました。観た映画は「シュヴァルの理想宮」というフランス映画でした。19世紀末に郵便配達員が愛娘のために33年間を費やして、たった一人で宮殿を築き上げた物語ですが、実在の題材を取り扱っているため、歴史的建造物に指定されている実物の理想宮を撮影に使っていました。建築や土木などを学んだことがない郵便配達員が、配達をしている途中で拾った石を貯めこんで、たった一人で打ち込んだ巨大で奇妙な宮殿。シュヴァルは昼間は郵便配達の仕事に従事していて、夜になるとモルタルをこね、石を組み合わせる作業に没頭するのです。まさに私と同じ二足の草鞋生活。しかも宮殿作りは創作行為です。この映画を知った時から、私は自分と同じ境遇かもしれないと勝手に想像して、何としてもこれを観たかったので、今日はその願いが叶いました。おかげで映像の世界に食い入るように心が吸い取られていくのを感じました。詳しい感想は後日に回します。今日は午前中は自ら陶土と対話した実際の創作活動、午後は映画の中で創作活動をした気分になれた満足感で、本当に充実していました。実際の創作活動は明日も継続です。

「日本美術に流れるアニミズム」について

先日から「あそぶ神仏」(辻惟雄著 ちくま学芸文庫)を読んでいます。本書の1「日本美術に流れるアニミズム」についてのまとめを行います。本章では、縄文時代の土器から江戸時代の絵師伊藤若冲と葛飾北斎に至るまでのアニミズムの際立つ特徴的な作品を取り上げ、日本美術の独自性を浮き彫りにしていました。あらゆるものに神仏が宿ると祖父母に教えられてきた私は、我が家での身近な風習を思い出し、実家の裏山に鎮座する稲荷の祠を蔑ろにすると罰が当たると信じていたのでした。地元の神社の周囲にある巨木にも何かが棲息していると子供心に思っていたことが、アニミズムへの憧憬とも感じられて、本書に書かれた内容に共感を覚えました。「古い巨きな樹に、人々は神が宿ると信じ、神木として崇めてきた。仏教が入って来てからそうした聖なる樹に仏が化現するようになる。神と仏との融合である。山中で修行する修験僧は、樹木に仏の姿が化現するのをまのあたりにすることができた。かれらはその姿を生きたままの樹木に彫り付けた。いわゆる立木仏である。」また、実家で使い古した食器にも不思議な謂れがありました。「『つくも神』は人間や他のものの霊が器物にとりついたのではなく、古くなった器物がそのまま精霊に化したものである。それは日本人のアニミスティックな心性の端的なあかしにほかならない。15、6世紀の絵巻にいきいきと描かれたこれら器物の妖怪のイメージは、中世人のアニミスティックな心を映し出す鏡といえるのである。」解説はさらに伊藤若冲や葛飾北斎に及んで、私はこんな文章に注目しました。「日本の美術に見る動物たちが、可愛らしく擬人化されているのは、日本人が自分たちとかれら動物たちとの間にはっきりした境界を設けないことに関係する。日本美術におけるアニミズムは、自然に対するおそれだけでなく、このような自然への親しみをこめたユーモラスな遊びの表現と結びついている点に大きな特色があるといえよう。~略~日本のアニミズムは、道教や俗信仰を通じて中国のアニミズムの影響を絶えず受けながら、縄文以来一万年をうわまわる年月を生き延びてきた根強い文化伝統として現在にもまだ生きている。」そういうことならば現代美術にも脈々と流れるアニミズムがあるはずで、コトバで説明できない空気感かもしれず、私たちの生育歴から齎されるモノとも考えられます。最近のゆるきゃらにしても、おたく系のアニメ動画にしても、私は日本人としての独自性が発揮された表現と言えるのではないかと思っています。そこにちょっぴり不気味な要素が漂うと、まさにモノノケとの境界を設けない私たちの専売特許で、そこが外国人にウケるところかもしれないと思ったりしています。

「あそぶ神仏」を読み始める

「呪術としてのデザインー芸術民俗学の旅」(中嶋斉著 彩流社)を鞄に携帯して通勤途中に読んでいる最中ですが、私は昔から複数の書籍をあちらこちらと読み散らかしてしまう読書癖があります。興味の対象が目移りしてしまい、結果として書棚に書籍をため込んでいく傾向があるのです。今も自宅の書棚に未読の書籍がいっぱいあります。昨今では、デジタル書籍やネット映像が主流を占めて、そもそも読書から離れていく世代が目立っていると思われます。それでも私は若い頃から紙媒体による書籍が大好きで、頁を括っていく手触りに安らぎを感じてしまうのです。書籍の装丁も好きな要素の一つですが、書籍は知識や表現された世界を鞄に携帯できることが素晴らしいと思っています。私がつい購入してしまう書籍は、専門書から軽妙洒脱なエッセイまでさまざまです。専門分野では芸術はもとより哲学系のものが多いなぁと感じます。よく読んでいるのは、ちょっぴり専門知識の入った評論やエッセイで、それにより自分の興味関心の在処が分かります。私には私なりの傾向があって、また年代によって興味の対象が変わってきています。今日から読み始めた「あそぶ神仏」(辻惟雄著 ちくま学芸文庫)は、江戸時代の宗教美術に視点をおいた書籍で、著者の辻惟雄氏は「奇想の系譜」で知られた我が国屈指の美術史家です。当然私も「奇想の系譜」を読んで、日本美術に対する面白さを開眼させていただいた一人です。若い頃は見向きもしなかった日本美術でしたが、この年齢になって足元に展開する摩訶不思議な美術が、私は大好きになったのでした。「あそぶ神仏」の冒頭に日本独特のアニミズムについての論考がありました。「アニミズムとは、動物、植物、あるいは石や水のような無機物にも、人間にあるのと同じ霊が存在するという思想である。~略~日本人のものの考え方、感じ方、あらわし方のなかに、アニミスティックな特徴が、さまざまなかたちで根強く続いていること、それが日本美術の表現をいきいきと活気づかせる上で無視できない役割を果たしていることを、私の専攻する日本美術史の視点から検証しようとするものである。」この文章によって本書「あそぶ神仏」の面白みが伝わります。読書中の「呪術としてのデザインー芸術民俗学の旅」と論考がクロスする箇所があろうかと思います。そうであるならば多角的な論考を併せて考察でき、私の薄っぺらな知識に多少なりとも奥行きを与えてもらえるのではないかと思っております。

第1・第2ステーション焼成完了

今晩の窯出しで新作の床置きになる第1ステーション4点、第2ステーション10点、合計14点の焼成が終わりました。ステーションの陶彫部品に関しては罅割れが少なく、まずまずの出来上がりだったなぁと思っています。第1・第2ステーションはそれぞれ設計通りの造形のため、組み合わせに新鮮な驚きはありません。それでも手間暇かけて作った分、それなりの迫力は感じます。自作の世界観を集合彫刻によって提示したいという意図は、今までも鑑賞者に伝わっていると自負していますが、組み合わせの妙が効果を上げて、寧ろ意図しない面白みが出ることを期待している私は、第1・第2ステーションの存在よりは、ステーション同士や屏風を繋ぐ根の陶彫部品に賭けていくしかないかなぁと思っているところです。昨年も根の陶彫部品を多めに作っておいて組み合わせによる面白みを狙いました。結局余分に作った陶彫部品は使わなかったのですが、それでも良いと考えています。現在は屏風に接合する陶彫部品を作っていますが、ステーション同士を繋ぐ陶彫部品も作らなければならず、意図しない意外性は今後の制作にかかっていると自覚しています。それは予め頭にある設計ではなく、その場凌ぎで思いついた感覚さえも取り入れていく余裕が齎すものではないかと思います。思いつきはさまざまな時や場面で訪れるもので、イメージの遊戯性とも言えるものです。そればかりでは作品は成立しないので、骨格を持ったイメージがまず存在して、その上で退屈なイメージを弄って壊していくような感覚です。構築と破壊の絶妙なバランスが頭の中でぐるぐる巡って、ギリギリに決着するのが最終作品になるのです。こんな発想が出来るようになった自分に多少の進歩を感じますが、それだけに着実性が失われていく危険も同時に感じます。ピカソのように破壊が常に隣り合わせなのは羨ましい限りですが、まだ自分はどうやらイメージの堂々巡りに陥ってしまっているようです。構築よりも破壊は数百倍も困難を極めます。自作の組み合わせによる新鮮な驚きは、鑑賞者ではなく、まず作者である自分が感じたいものなのです。

「三保の羽車」について

「呪術としてのデザインー芸術民俗学の旅」(中嶋斉著 彩流社)の第2章の2「三保の羽車」についてのまとめを行います。静岡県にある三保の松原を有する海岸線は昔からの景勝地で、2013年に富士山世界文化遺産に登録されています。私は幼い頃に両親に連れられて、三保の松原を見に行った記憶があります。羽衣伝説で天女が羽衣を脱ぎ掛けた松は、柵に囲まれていて羽車磯田祠が立っていました。子どもの頃抱いていた漠然としたロマンが、本書によって伝説から伝承に至る文章で説明されていて興味が湧きました。「出雲の神は縁結びの神である。両性具有の蛇神は男と女、あの世とこの世を結ぶ神である。そして古来の呪術的信仰を、いち早く密教的観音信仰に結びつけた神であった。それは補陀落即ち印度の南の海に浮かぶ聖山の信仰を通してである。熊野からその地をさして船出する補陀落渡海は余りにも有名だが、五来重は、『修験道入門』(角川書店)で日本人のもつこの海上他界の観念にふれて、古来死霊や祖霊の集まる山上を霊場としてそこに修験道が発生したが、それに対して海の彼方にも祖霊が集まる世界(常世)があって、そこから人間界の救済に訪れる精霊を祀る海の修験道があったと書いている。その神霊や祖霊が海上を照らしながら寄りくる御崎の一つが美保の浦である。~略~いまこの美保の関を清水の三保に移して考えるならば、三保の浜辺でこの竜燈を焚くのは大山修験に代わる秋葉修験たちである。」こうしたことに興味が湧くのは、これが私たち日本人の土着から発生したものだからでしょうか。「近年三保の海辺で薪能が催されて、その地に因む『羽衣』が演じられる由だが、日本の芸能の多くは、伝統的に『松ばやし』の芸能であった。松に宿る精霊を松の木と共に迎え、その蘇生をはやし立てることが芸能の本義であった。今日の薪能は光の演出に重点をおいている。しかし本来薪は焼木で、松明は焼木の明かりであって、薪能は焼火の能である。松に宿る精霊の明かり(=出現)の芸能であろう。」最後にこんな一文がありました。「松ばやしの中に生まれた芸能にうたわれる『羽衣』は御崎の小島の松原に休らう弁財天にまつわる物語であったが、時と所に従って物語の筋も内容も変容を重ねていくように、神も仏も精霊もまたさまざまに変容をとげて、漁夫と契りを結ぶ比丘陀はいつしか竜宮に住む乙姫となり、またほのかな紅を白い裸体ににじませ、音曲の女神として江の島に祀られる。」ここから浦島太郎伝説を読み取ることが出来ました。

「『花の時』を巡る」について

「呪術としてのデザインー芸術民俗学の旅」(中嶋斉著 彩流社)の第2章の1「『花の時』を巡る」についてのまとめを行います。第2章から舞台は日本に移ります。しかも古代から受け継がれる祭りをテーマにしています。副題には「熊野に見るホトの祭り」とあって神話も含めた太古の遺物が登場してきます。初めの文章に「元来、椿は山茶花をさしていたらしい。それは春の始まりをことふれて歩く比丘尼の採物であった。大和や豊後に残る海石榴市の名は、彼女らが椿の枝をたずさえて魂ふりをしたことに由来すると折口信夫は推論する。」とありました。題名にある花の時と由縁のある霊場を訪ねるうち、こんな文章が目に留まりました。「『《日本書紀》にイザナミノミコトが火神を産んだとき、産道が焼けて死んだとある。また一書に、火神を産むとき、熱のためになやんで吐いたが、その吐いたものが金山彦となったとある。こうしてみると、このイザナミの出産の様子は、たたら炉から溶けた金属をとりだすときの光景と似ている。たたら炉の炎の色を見る穴をホド穴という。また鍛冶屋でも炭をくべてカネを焼くところをホド(火処)という。火神を産むときにイザナミがホト(女陰)を焼いて死んだと《古事記》の伝えるのは、これらと関連があるにちがいない』と谷川健一は『青銅の神の足跡』(集英社)で書いている。ホトは陰所であり、火処である。そこはクナドでカマドである。関西では火の神を荒神としいて祀り、そこをおクドさんと呼ぶ。家事では食物を煮たきする所であり、鍛冶では刀剣をきたえつくり出す所である。熊野は中央政権からはなれた陰所であり、難所で距てられた来名戸であったが、そこには山の陰所に住んで砂どりし、また、たたらを踏む鍛冶師の集団があったのだろう。スサノオがオロチを退治したが、オロチは鍛冶師の隠語であるというから、それを退治するのはその集団を支配することであった。」比丘尼に関した文章にも注目しました。「熊野比丘尼はミサキの神をいただいて歩く熊野信仰の尖兵であった。~略~彼女らは小さな神の祠を拝しながら、王子の死に自分たちの飢えに死なせた子供らのことを思い浮かべたり、死後の地獄の世界を思い合わせたであろうし、巨巌を仰いでは世の子らを慈しむ慈母観音を想像していたかも知れない。そして今日の不運や不安が明日の幸せにとって代わられることを祈り歌いながら、またそれを土地の人びとに説いて聞かせたにちがいない。その時花の窟は仏の姿となり、また旅立つ物の無事を祈る道祖の神となり、あるいは山に住むものにとっては来名戸の神として火処の守神となって、世を継いで祀られてきたのであろう。」

週末 屏風接合陶彫の困難

今日は朝から夕方まで工房に篭りました。若いスタッフもやってきて基礎的なデッサンに勤しんでいました。工房内は寒くなってきてストーブを出しましたが、家庭用のストーブは周辺を温めるだけで、工房全体は暖かくなりません。若いスタッフはストーブの近くで作業していて、私はそこからかなり離れた場所で、陶彫制作をしています。そろそろ手が悴む季節になったなぁと思います。現在取り組んでいる陶彫部品は、屏風に接合する比較的小さめのものですが、なかなか成形が難しいところがあって、神経を使います。何回かやり直すと陶土に僅かな皹が入り、土の新鮮さが失われます。陶土は最初の一回で成形を決めなければならないと痛感するところですが、上手くいかない箇所はどうしてもやり直しをしてしまうのです。最終的に叩き板で調子を見ながら表面を叩き、金属ヘラで摩って皺を補いますが、焼成中に割れが生じるのはこんなところが原因かもしれません。成形で誤魔化すことが出来ない箇所は、罅割れを覚悟して、イメージ通りのカタチを優先していきます。陶芸とは異なり、かなり無理なカタチを造形しているために、陶彫は技法に慣れることがありません。何度やっても陶土を上手くコントロールできない自分に嫌気がさしています。午前中は成形に神経を尖らせていたので、昼頃に近隣のスポーツ施設に行ってクールダウンのために水泳をしてきました。午後は成形を継続していたら、いくら休憩を取っても困難さは変わることがないなぁと実感しました。今日は夕方4時には作業を終えました。若いスタッフを車で送りながら、週末はいつも疲れているなぁと溜息をつきました。世の中の雑念を一切忘れられる創作活動は、幸せであると同時に何か別世界の苦しさに襲われて、自分の無力を思い知るのです。己の人間性を推し量るとすれば、ウィークディの仕事は役職上、私は職員の仕事を監督しているために、ともすれば自分の力を過信してしまうような誤解を生みます。そこへいくと創作活動は自分の力の及ばないところがいっぱいあって、自分がちっぽけな存在であることを自覚させられるのです。そんなバランスで私は生きているのかもしれません。

週末 用事の合間の陶彫制作

職場絡みの用事が週末に予定されることが多く、終日陶彫制作を行うことが出来ないことがあります。今日は昼から午後3時くらいまで職場の用事で横浜駅周辺に出かけたので、制作工程のノルマをどう達成しようか考えていました。早朝から工房に籠って、午前中は3時間くらい制作していました。用事が済んだ後、再び工房に行って制作を続行しました。今日は少ない時間の中で何をするべきか、予め決めておいて集中して作業をする気構えでいました。こんなことが日常茶飯にあるので、工房ではのんびり作業することがありません。その結果工房では、ウィークディの勤務より慌ただしい時間を過ごしています。不思議と時間が設定されている方が集中力が増すことがあって、時間がたくさんあればいいというものではないなぁと思いました。私の陶彫制作は工程において、まずタタラを立ち上げるため、タタラがやや硬くなったところで作業をします。成形や彫り込み加飾が終わると、陶土を乾燥させるために相当な時間を使います。最後は窯に入れて焼成を行います。こんなふうに陶彫は作業を休んで暫し待つ時間があるため、職場の用事を組み込むことが出来て、さらに上手に調整を行えば何とかノルマを果たすことも可能なのです。そもそも私が二足の草鞋生活を送ることが出来るのは、陶彫という特異な素材があればこそと思っています。午前と午後に分けた実際の作業はかなり充実しましたが、今日が土曜日であるため、ウィークディの仕事の疲れが残っていて、夜にノルマを達成した後、疲労で身体が動かなくなりました。若い頃は怠け者だったはずの自分が、歳を重ねるごとに勤勉になり、再任用管理職でいる今が一番多忙を極めているなんて、若い頃は誰が想像できたでしょうか。陶彫制作は明日も継続です。休日をゆっくり過ごす発想が近頃の自分にはなくなっています。

「円塔の見える風景」について

「呪術としてのデザインー芸術民俗学の旅」(中嶋斉著 彩流社)の第1章の5「円塔の見える風景」についてまとめを行います。第1章では著者がケルトについて旅する行程が続いていますが、ここへきて漸くアイルランドに残存する教会や円塔の遺跡が登場しました。私はイギリスを初めとするブリテン諸島に行ったことがなく、欧州の大陸とはやや異なる文化圏に興味を感じています。以前「ブレンダンとケルズの秘密」というアニメ映画を観たことがあります。中世のアイルランドが舞台でしたが、「ケルズの書」を描くために主人公が幻想的な冒険をする物語でした。本書にも「ケルズの書」が登場する箇所があって、私は注目しました。「修道士たちはこのように各地に遍歴を重ねて修道院を建て、また自らの信仰の表現としてすぐれた宗教芸術を生みだしていった。七世紀には福音書写本『ダロウの書』につづいて『リンディスファーン福音書』が作られ、そしてまた八世紀にはアイオナの修道院で手掛けられた後ケルズ修道院で完成されたという豪華な彩飾福音書写本『ケルズの書』が残されたのである。それらが後世、例えばW・ブレイクの芸術やケルト復興を唱えたW・モリスらのラファエル前派に新鮮な魅力としてうけつがれていくが、今日でもその印象はひとしおである。」流麗で不思議な形象をもつ書籍の実物を見たいと願うのは私だけではないと思います。「いうまでもなくヨーロッパはケルトの故郷であり、大まかにとらえれば西欧の文化はローマとケルトの衝突・追跡・破壊・帰郷の歴史を中核として組み立てられているといえるであろうし、アイルランドの修道院や教会の廃墟はそうした歴史を物語る叙事詩である。そして聖地の一角にする屹立する円塔は、それを弾誦する吟遊詩人に見える。この島の風景が訪れる者に一種の哀愁を誘うとすれば、荒涼とした山野や生活の貧しさからくるのではなくて、むしろ深い傷痕をとどめながらも、ケルトの誇りを語りつぐ円塔の姿が映す孤高の精神に触発されるからかも知れない。」

干支によるRECORD

今月のRECORDに年賀状のデザインに使う図柄をアレンジして描くことにしました。テーマとした「円環の風景」の円環の一部にネズミが遊んでいる情景を入れてみました。来年の干支はネズミです。ネズミの描写はあまり得意ではないのですが、今月の1日から今日までの5日間、ネズミの姿態を頑張って描いてみました。以前の蛇年に、これは得意だった蛇の図柄を楽しく描いていたら、家内に拒否反応を起こされて、泣く泣く干支とは関係のないRECORDの図柄を採用したことを思い出します。干支は元々中国伝来の年・月・日・時間や方位、角度、事柄の順序を表すもので、日本では十支でなく、十二支で成り立っています。十二支と動物が結びつけられたのはいつ頃なのか不明ですが、中国の秦代の墓から出土した竹簡には動物が配当されていたそうなので、結構古いのかもしれません。日本の年賀状に登場する動物は、日本独特なものであって、アジアの漢字文化圏の国々ではそれぞれ動物が微妙に異なっています。龍のような架空の動物が入っているのが面白いなぁと私は感じますが、その由来も調べてみると楽しいかもしれません。いまどきアナログな年賀状は衰退の一歩を辿っているのでしょうか。私は頭の片隅で面倒と思いながら、年賀状を出し続けている一人です。年賀状は御無沙汰している人に挨拶が出来る有効なアイテムだと思っています。1年1回くらいはあの人からこんな年賀状が届いたという感慨があってもいいのではないかと思っています。ただし、年内早めに年賀状を出す気分にはなれず、例年元旦には届きませんので、そこはご容赦ください。

12月RECORDは「円環の風景」

「~の風景」と題名をつけるのは今月が最後ですが、はたして風景という付加した題名にどのくらいの意味があったのか、自分で考えておきながら疑問が残ります。今までも風景を想定したRECORDを作ってきたので、今年が特別なことではないなぁと感じていたのです。ともかく風景シリーズとしては最後になるもので、「円環の風景」という題名で今年を締め括ることにしました。円環と言うモチーフは、私の作品の中では頻繁に出てくるカタチです。しかも正確な円形ではなくて、どこか歪んだ表現にしています。正確な円形は完成されていて、隙を与えてくれないし、そこに造形を施すことを拒んでいるように私には感じられるのです。円環は中心にぽっかり空いた空間があるだけで、輪廻転生を思わせるカタチを連想するためイメージを広げられます。未来永劫生まれ変わりを繋いでいくイメージは、自分には幸福を齎すものとしての認識があり、おそらくこれが私の作品の中に頻繁に出てくる要因ではないかと思っているところです。私はイメージ上で、終息したり終焉を迎えるのが好きではありません。留まるところを知らず、永遠に繋がっていくカタチを創造していきたいのです。リアルな人生では加齢による身体の劣化や精神の衰えがありますが、イメージではそこから自由になり、若返りの脱皮が出来たらいいなぁと願っていて、不老不死願望を円環に結びつけようとしているのかもしれません。RECORDは一日1点ずつ制作していくノルマがあります。時に下書きだけが先行して、残された仕上げに喘ぐことが少なからずありました。そうしないように普段から一日1点の完成を心掛けていきたいと思っています。

「地に伏す心のうた」について

「呪術としてのデザインー芸術民俗学の旅」(中嶋斉著 彩流社)の第1章の4「地に伏す心のうた」についてのまとめを行います。この章の舞台はロシアです。私はまだロシアに足を踏み入れたことがありません。もう40年も前にルーマニア国境からウクライナの風景を眺めたことがありました。有刺鉄線の向こうは旧ソビエト連邦で、真冬であったために雪に閉ざされた極寒の地という印象でした。ここではロシアのイコンについて書かれた箇所に注目しました。「聖者や聖人あるいは宗教的秘蹟が、全体をおおう金色の板の上に、黒を基調として朱・緑・黄などを配色し、明確な太い輪郭で描かれているが、これらの幾何学的な造形表現と、それらにともなう大胆な色彩感覚が、魂の内部ー描いた人と見る者の内部ーに神秘的な輝きを与えるのである。それは人物なり事物が、平板な二次元の中に要約することによってかえって一種の奥行きをもち始め、対象をこえてイメージの世界に見るものを誘いこむからであろうか。~略~イコンの中のイエスの表情は、悲しみの故か他の聖者らと同様下前方に視線をなげかけていて、たとえ正面あるいは天上を見上げるときも、いかにも不安げである。昇天したキリストはその後でさえむしろ地に埋もれたやさしい母の胎内に帰っていくことを望んでいるのではないか、ロシアの人びとがきびしい自然の中の生活をたえぬいて、やがて死をむかえるときに、天上でなくどこか地の底に花の冠をつけてやさしく微笑んで迎えてくれるものの存在を期待する、そんな心情がこれらのイコンの中に読みとれるのだが、そうした気持ちは、聖堂におかれていた棺の中に収まった老婆のための飾りつけにもゆきとどいていたように思う。」イコンは東欧の教会にも多くあって、描かれたイエスの表情とともに芸術性に富む絵画として私は見てきました。絵画と我流に解釈していたとしても、イコンは信仰の対象であり、人々はそこに深い慈愛を感じていたのではないでしょうか。「政治は人間の生活の苦しみを軽減する。しかし魂の救済者ではありえない、私は体制としての宗教の犯した罪までを容認しようと思わないが、私たちは平和な暮らしの中で人間をこえたものの力を知ることを忘れている。そしてまた遠ざけてきている。しかし信仰や宗教を失った世界では芸術もただ快い娯楽に堕していくように思われる。」

2019’12月の制作目標

今月をどう過ごすのか、年末年始の休庁期間を職場で設定している閉庁日として考えると、最大11日間ありますが、実際はそんなに休めるわけではありません。当然元旦は恒例として、私は制作を休んでいます。この10日余りの休みに創作活動の過度な期待をかけてしまうと、通常の勤務より身体への負担が重くなり、健康を害しかねないと思っています。そうでなくても創作活動に明け暮れた週末は、疲労で心身ともに沈没していることが多く、週初めの職場でぐったりしていることもあるのです。創作活動は、ましてや彫刻制作は大変な労力を使う作業なんだなぁとつくづく思います。今月で言えば週末が4回やってきます。そのうち休日出勤が1日あり、最後の週末は閉庁日の中に組み込まれてしまうので、今年に限って言えば終日作業が可能な日は9日間です。今月の制作目標として、まずは陶彫部品をひとつでも多く作ることを心掛けていきます。乾燥が進んだ陶彫部品は仕上げや化粧掛けを施して、着実に窯入れをしていかなければなりません。現在焼成が終わっている部品は9点、窯に入っているのが2点あります。閉庁日は毎日制作をするので、その期間の窯入れはしません。閉庁日が始まる今月の27日までに何回焼成ができるのか、また乾燥が進むのか、なかなか見通しは立てられませんが、可能な限り焼成をやっていきたいと考えています。屏風の木彫はいつごろから始めるのか、これも今月中の課題です。木彫した厚板に砂マチエールを施す作業もありますが、これは年越しになってしまいそうです。砂マチエールと硬化剤の注文もしなければならないなぁと思っているところです。工房ロフトの片付けもやらなけれなならない仕事です。そう考えると今月は例年より大変な1ヶ月になるような気がしています。

週末 12月になって…

今日から12月です。多忙な師走で公務員管理職としての仕事が慌しくなる上に、創作活動も最初の佳境を迎える1ヶ月になりそうです。新作は図録撮影が終わった6月から始めていますが、夏の休庁期間よりも今月にある休庁期間のほうが制作に気持ちが入るのです。それは制作工程により作品完成を描ける見通しが立つのが先月くらいからで、今月はいよいよ自分を追い込んでいくだろうと思うからです。屏風に接合される陶彫部品がある程度決まってきたところで、屏風の木彫を始めていきます。今月の制作目標は改めて考えますが、冬の休庁期間でどのくらい新作を進められるのか、期待と不安が入り混じります。これは毎年のことですが、常に新しい作品であるために進め方が毎回違っています。今月も週末は精一杯制作に勤しむことに変わりなく、日頃の頑張りに拍車をかけたいと思っています。今日は職場の地域行事に午前中の時間を取られましたが、午後は工房に篭って窯入れの準備をしていました。先週と同じように週2回の焼成を行います。水曜日に窯出しと窯入れを行なうので、そこで一旦電気を復旧し、作業ができるようにしようと思っています。実技だけではなく、今月は鑑賞にも時間を取りたいと考えています。この季節は街がクリスマスの装飾で美しくなっています。とりわけ横浜の中心地はイルミネーションが競うように流麗さを極めていますが、なかなかそこに出かける時間がなくて、職場と工房を行き来している生活が定番になっています。多少余裕をもって街の散策もしたいなぁと思っていますが、果たして出来るでしょうか。RECORDは少しずつ下書きが増えてきて、仕上げを後回しにする悪い癖が始まってしまいました。ここで何とかしないと自分の首を絞めることになるので、巻き返したいと思っています。読書は相変わらずですが、そろそろ難解な書籍に挑もうかなぁと思っているところです。

11月最後の週末

今日で11月が終わります。週末なので、いつもの通り朝から工房に籠って制作三昧でした。若いスタッフも工房に来ていました。私は若い人に背中を押されるように屏風に接合する陶彫部品の制作に拍車をかけていました。今日は11月の最終日なので、今月を振り返ってみたいと思います。陶彫制作で大きかった一歩は焼成が始まったことです。NOTE(ブログ)のアーカイブを見ると毎年この時期から窯入れを始めています。焼成されて窯から出てきた作品を見ると、毎年恒例ではありますが、今回も私は感動を覚えるのです。最終的には集合彫刻として陶彫部品を組み合わせていくのが私流ですが、ひとつひとつの部品に愛着が出るのは最後に焼成があるためと言っても過言ではありません。下書きされた屏風の上に焼成された陶彫部品を置いて、全体構成を確かめるのも今後の仕事です。焼成された部品が増えていくとイメージの明確化が図れます。今月は漸く見え始めた全体設計図に意欲を掻き立てられた1ヶ月だったとも言えます。実は今月も先月のようにさまざまな用事が立て込んで週末を丸々制作に使えることが出来ず、工夫を余儀なくされました。当初考えていた制作工程は遅れ気味です。どこかで挽回しなければならず、それは年末年始の休庁期間かなぁと思っていますが、果たして出来るでしょうか。今月の美術鑑賞は「ルノワールとパリに恋した12人の画家たち」展(横浜美術館)、「ゴッホ展」(上野の森美術館)、その他では先輩の銅版画展とその娘さんの漆工芸展に出かけました。映画鑑賞では「ジョーカー」(TOHOシネマズららぽーと横浜)を観てきました。RECORDは最近やや停滞気味で、ちょっと気合を入れ直さなければならないかなぁと思っています。読書は芸術民俗学の書籍を読み始めました。大好きな分野なので興味津々です。

「心の旅人ケルト」について

「呪術としてのデザインー芸術民俗学の旅」(中嶋斉著 彩流社)の第1章の3「心の旅人ケルト」についてまとめを行います。冒頭にウィーンに関する文章があって、20代の頃に5年間をウィーンで過ごした自分には、思いがけない知識が飛び込んできて、ちょっと得をした気分になりました。「ウィーンの名がケルト語のウィンドボナに由来するように、ここには古代ケルトの集落があったが、大聖堂にきざまれた痕跡は、むしろヨーロッパのキリスト教化のために渡来した後世のケルト系修道士たちの残したものという。」ウィーンの象徴であるザンクト・ステファン大聖堂に関する文章をさらに続けます。「ケルトの十字架にも見受けられる連結結び目文様とか、具象的ではありながら抽象に向かう不可解な動植物や人間のイメージが随所に配されている。~略~灯りとてない洞穴の中で修道に専念しながら、彼らの見た、目に見えない霊の存在を、目に見える形に翻訳しようと努めたとき、彼らは神そのものの姿ではなくて、むしろ神の住居の装飾によって神の存在を描こうとしたのであろう。そして彼らが幻のうちにとらえた聖なる神の住居は、彼ら自らが遠く旅立ってきた故里の風景であり、同時にアルプスの麓に住んでドナウの流れを往来した祖先への追憶とが交錯しながら不思議なイメージを結んだのではなかっただろうか。」その後ドイツに話題が移りますが、やはり自分が渡欧して間もない頃に見た南ドイツの風情が語られていて、これにも私は興味を覚えました。「レヒ川を更に南下してオーストリア国境にはフッセンの町があり、そこは観光客でにぎわうノイシュヴァンシュタイン城が断崖に立っている。バイエルン国王ルードヴィッヒ二世の城である。そこから車で30分程北東に向かうと、アンマーガウの谷間にリンダーホフ宮殿が現われるが、これも狂王ルードヴィッヒの離宮で、ヴィスコンティの映画『ルードヴィッヒー神々の黄昏』の舞台である。~略~ヴィーナス・グロットは人工の鍾乳洞である。彼がタンホイザーのヴィーナスブルグ(ホーゼルベルグ)の情景を再現するために作らせたもので、洞窟の中央前面に大きな池を作り、貝がらで飾りつけた舟が浮かんでいる。この洞窟の岩屋に玉座をしつらえ、すべての側近を遠ざけてただ一人でワグナーの楽劇を演じさせ、鑑賞に耽ったという。壮烈である。ヴィーナスに捧げたこの聖堂の中で、彼は必死に愛の充足と力の再生を祈ったにちがいない。しかしもう神々は存在しなかった。ただここはいかなる装飾にもましてキッチュの世界がある。深い死のイメージが沈殿する。」渡欧してすぐにこの風景に接した私は、過度な装飾に腰が引けて、自分が留学先として選んだヨーロッパでやっていけるかどうか、自問自答したことを今も覚えています。

夜の工房で成形作業

1週間に2回の焼成を行っている現状では、水曜日に窯の出し入れをしています。水曜日だけは窯の稼働を一旦止めているので、工房の照明等が使えるのです。昨日は工房で創作活動をしている若いアーティストが、自らの課題に向き合ったりしていました。私も仕事帰りに工房に立ち寄れるのは水曜日だけなので、昨日も夜になって工房に行きました。その時間帯は若いアーティストが帰った後で、工房では私だけの時間を過ごしました。現在は新作の屏風に接合する陶彫部品を作っている最中で、どちらかと言えば小さめの陶彫部品になりますが、サイズに関わらず手間が結構かかります。ウィークディの夜に成形作業をするのは、小さめの陶彫部品の方がやり易いかなぁと考えています。おまけに照明の下は集中力が増すため、手間もたいして苦にならないのです。気候的にもやや寒い状態は作業が捗り、この時期に制作工程を可能な限り先に進めたいと思っています。夜の工房は深閑とした雰囲気で、自宅に帰って気が緩んでいたとしても、一旦工房に足を踏み入れると俄かに緊張してきます。創作活動を司る魔物が棲んでいるような気配さえ感じます。こうした空間を持てる幸運を私は常に噛みしめていて、昔から望んでいたことが実現できている喜びに浸っています。この環境をフルに使わないと罰が当たると自覚しているので、時間が許す限りウィークディも工房に通いたいと思っています。

「”黒い聖母”と巡礼」について

「呪術としてのデザインー芸術民俗学の旅」(中嶋斉著 彩流社)の第1章の2「”黒い聖母”と巡礼」についてのまとめを行います。私は20代の頃、ヨーロッパ滞在中に黒い顔をした聖母像を何度か見たことがあります。その頃はキリスト教に拘りを持っていなかったので、黒人のような聖母に何の疑問も持たず見過ごしていました。「スペインや地中海世界には古くから地母神信仰が厚く、それがマリア像にうつされているといわれ、その後サンチャゴ巡礼の道で時にふれて拝する教会に保存されているのも、そうした土俗的な親しみにみちた、日本の子育観音像といった様子であった。~略~ヨーロッパという元来農耕を主とする生活の中にキリスト教が定着するためには、そうした先行の土俗信仰や、それにまつわる祝祭にも寛容でなければならない。そのためにはそれらを巧みに教会暦の中にとりこみ、組みかえ、その意義もまた変えていく努力が払われなければならなかった。私たちが教会堂で『黒い聖母』に出あうのも、やはりそうした信仰の混ざりあう歴史の重層性を物語っており、その興味をつのらせるのである。」黒い聖母について柳宗玄がその著書「黒い聖母」(福武書店)で語っている部分が掲載されていました。「それらは大地と結びつけられる古代の母神(地母神)の流れに聖母が位置することを示すものである。とくにローマ治下のガリア人のマーテル神(豊穣の母神)がキリスト教時代に聖母と混同されたのではないかといわれる。しかもこれらの母神は時代と共に黒ずんでいたので、それが『黒い聖母』のもとをなした可能性が指摘されている。」本章は井泉信仰についても述べられています。「水の信仰がキリスト教に流れこんでいったとき、旧約の『詩篇』には、神の恵みをたたえ、『いのちの泉はあなたにあり、私たちは、あなたの光のうちに光を見る』といった表現が見られ、新約の『黙示録』では、『お使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と子羊との御座から出て、都の通りの中央を流れていた』といったように、生命の泉を水に求めている。」最後に我が国に触れた箇所もありました。「たしかに信仰対象の創造は、それぞれの風土が秘める歴史につながっていて、たとえばマリアの信仰がはるばる海を渡って日本に伝わってきたとき、隠れキリシタンたちは観音菩薩の姿の中にマリアを匿して崇拝していた。いうまでもなく観音もマリアも水の神であって、通称マリア灯籠(織部灯籠)にも見られる両者の結びつきなどは極めて自然な着想である。」

Exhibitionに2019年個展をアップ

2019年7月の個展の画像を、私のホームページのExhibitionにアップしました。会場風景の画像は毎年懇意にしているカメラマンに撮影していただいて、それをホームページに使っているのです。画像で見ると「発掘~双景~」はどっしりとした印象で、大地に根付いた造形に見えます。逆に「発掘~曲景~」はテーブル彫刻という効果もあって、フワっとした印象です。ギャラリーせいほうは白い壁が美しく、また空間が広いので作品が映えます。図録撮影のために野外工房や室内工房で組立てた「発掘~双景~」や「発掘~曲景~」と、ギャラリーで見る作品がまるで別作品のように違って見えるのが不思議です。彫刻は置かれる場所によって作品が変わると言っても過言ではありません。そういう意味でギャラリーせいほうは絶好の空間を有する画廊なのです。今まで14回も個展が開催できたことを、私は幸せに思っています。画廊主の田中さんの企画許可もさることながら、まず自分自身が健康でないと継続は難しいからです。加えて意欲の継続も問題です。どこで意欲が絶えるのか、自分では今のところ分かりません。私は個展開催中も休まず新作に取り組んでいて、個展が一区切りにはなっていないのです。個展が終わって、さてどうしようかという発想が私にはありません。6月の図録撮影が終わると、すぐに次の作品に取り掛かるのです。習慣になっていると言えばその通りですが、横浜市公務員管理職との二足の草鞋生活も、自分の創作活動の中に組み込まれていて、この調子でいけば来年も大丈夫かなぁと思っています。私のホームページに入るのは左上にある本サイトをクリックしてください。ホームページの扉にExhibitionが出てきますので、そこをクリックすれば2019年個展の画像を見ることが出来ます。画像は動画でもご覧いただけます。ご高覧くだされば幸いです。

上野の「ゴッホ展」

昨日、東京上野の上野の森美術館で開催されている「ゴッホ展」に行ってきました。日曜日の午後で、しかも人気のある画家だったためか会場内は大変混雑していて、私は鑑賞者の間隙を縫ってゴッホを始めとするハーグ派や印象派の代表的な画家の作品を堪能してきました。フィンセント・ファン・ゴッホは、私にとって旧知の作品が多く感動も少ないのではないかと思い込んでいましたが、改めて今回来日していた「糸杉」はその激しい筆致に込められた思いに、新たな感動が呼び覚まされました。ゴッホは弟宛ての手紙の中で「輪郭や比率などはエジプトのオベリスクのように美しい。」と糸杉の印象を述べていて、画面全体がうねるような強烈な筆致で覆われていました。ここまで辿りつくまでのゴッホの絵画遍歴を図録から拾ってみたいと思います。ゴッホは初期の重要な時期にハーグ派と称される農民画家たちに影響を受けました。「漁民や農民の生活やその情景を描く現実に即したハーグ派の主題は、自由な筆致で描かれた。その筆致はしばしば、細部の描写というよりも鑑賞者の想像を促すようなものであったため、彼らの絵はスケッチのように見られることもある。ハーグ派の画家たちが目指したのは、緻密で逸話的な絵画を描くことではなく、その場面全体がもつ印象や雰囲気をとらえることだった。」その頃のゴッホの骨太なデッサンに高校生だった私は感銘を受けた記憶があります。そこから目が眩む色彩を放つ印象派へ転換をするゴッホに訪れた機会は、弟テオが関わりを持っていたようです。「画商として、また印象派の熱心な支持者として、テオが重要な役割を果たしてくれたおかげで、ファン・ゴッホは印象派の作品を容易に見ることができたうえ、画家たちに直接会うこともできた。~略~印象派の作品を見たり、また彼らと会話したりするなかでファン・ゴッホが学んだのは、色の使い方であった。それは無作為ではない、色彩理論に基づくものであった。」今回の展覧会はハーグ派と印象派の2つのグループに部屋が分かれていました。いずれもゴッホの作品は特徴をよく表していて、ゴッホの絵画遍歴が伝わりました。「技法や色彩は劇的に変化したものの、ファン・ゴッホが好んだ主題はオランダにいた頃からほとんど変わらなかった。風景や農民といった主題は、彼にとって故郷と自分を結びつけるものであり続けたのだ。生涯を通じて、ファン・ゴッホはハーグ派と印象派を中心とする多くの画家たちから影響を受けた。」(引用は全てベンノ・テンペル著)

週末 久しぶりに東京の美術館に…

大学の先輩で銅版画をやっている人が、東京銀座で個展をやっています。その人の娘さんが漆工芸をやっていて、彼女も東京銀座の別の画廊で個展をやっています。親子とも同じ時期に個展を開催しているので、週末を利用して見てきました。大学の先輩はエッチング技法を使い、木々の伸びていく細密な枝の描写や木肌の表情、また植物が縦横に絡まる世界をモノクロで表現している人です。今回の新作は植物的な世界に加え、年輪とも取れる円環が配置され、濃密で充実した世界が現出していました。エッチングの深みと拡張する可能性を、私はこの先輩から教わったと思っています。その人の娘さんは大学を出た後、岡山県に行き、そこで漆工芸をやっていて、今回が東京での初めての個展になるようです。乾漆技法で作られた身近な動物の数々は、まさに写実性に富んだ超絶技巧とも言える立体で、部分的に漆が塗られていました。岡山県ではワイン農家を手伝いながら漆工芸をやっているそうで、彼女の今後の活躍に期待したいところです。今日は私は朝から東京に来ていて、美術の鑑賞に勤しんでいました。東京上野にある上野の森美術館にも足を運びました。ここで「ゴッホ展」を開催しているので、先輩の個展に行くついでに見てきましたが、日本人はゴッホが大好きなようで大変混雑していました。フィンセント・ファン・ゴッホはオランダ生まれで後期印象派を代表する画家です。37年の短い生涯にエピソードも多く映画化もされています。私は美術の知識がなかった中学校1年生の時に、ゴッホの存在を知りました。美術の授業で校舎内外の風景を水彩で描く課題があって、私は中学校の正門近くにあった樹木を絵の具を何度も塗り重ねて描いていました。そこに美術科の女性教師が巡回してきて、「ゴッホのようね。」と言われました。この時初めてゴッホという画家を知ったのでした。当時はネットもなく、中学校入学祝に母が買ってくれた百科事典やら学校の図書館でゴッホのことを調べました。ゴッホは私にとって最もポピュラーな画家になったのでした。「ゴッホ展」についての詳しい感想は後日に改めます。東京から自宅に帰って、夕方工房に行きました。彫り込み加飾を2時間ほどやって、昨日窯入れしておいた作品を確認し、窯のスイッチを入れました。これは水曜日に窯から出す予定です。

週末 自宅外壁工事&陶彫制作

台風19号の影響で雨樋が壊れ、また雨漏りがあったために先月中旬ごろに施工業者と打ち合わせを行いました。先週から自宅は足場の鉄骨で覆われています。今日はベランダの修繕塗装をするために自宅に入らせてほしいと施工業者から申し出があったために、私は工房へは行かず自宅で待機していましたが、雨のために施工業者は来ませんでした。今日は結局工房に行くことになりましたが、私にとって自宅でじっとしているより、工房に行って少しでも新作を先に進める方が良いのです。自宅は台風の被害に遭ったものの、築30年の間に一度もメンテナンスをしていなかったので、被害で損壊したものとは別に、全体の外壁を塗りなおす工事をすることにしました。被害損壊はひょっとして災害保険で賄えるとして、外壁工事は持ち出しになるため、私がまだ現職のうちに行った方が良いのではないかと判断したのでした。外壁が終わったら次の段階として断捨離を含めて内装をリフォームする予定ですが、果たしてどうなるのでしょうか。今日は寒々とした一日で、終日雨が降っていました。工房には染織で表現活動をしている若いアーティストがやってきていました。彼女のドローイングは細密で独特な雰囲気があって私は刺激されます。私も彫り込み加飾1点と仕上げと化粧掛け4点を一気に行い、4点のうち2点を窯に入れました。実際の焼成は明日の夕方から始めますが、来週も2回の焼成を行います。明日は東京の美術展に久しぶりに行ってみようと思っているので、新たな成形はやめました。順調に回っていた制作サイクルがちょっと緩みますが、鑑賞も大切なことなので、明日は先輩画家の個展やら美術館に出かけることにしました。

「マン島のクロス」について

「呪術としてのデザインー芸術民俗学の旅」(中嶋斉著 彩流社)の第1章の1「マン島のクロス」についてのまとめを行います。職場の私の部屋に本書を暫く置いていたのですが、「モディリアーニ」を読み終えた後、鞄に携帯するようになりました。職場にあってもなかなか読める機会が少なく、通勤中の方が読書に向いていると思ったのです。本書で最初に取り上げられていたのがアイルランドやスコットランドに残るケルト文化に関するもので、実は最近になって私は大変な関心を寄せています。ケルト高十字架や石碑(クロス)の図版を見て、私はこの地を訪ねたい欲求に駆られました。マン島は英国とアイルランドの間にある島で、ヴァイキングの遺跡の宝庫だそうですが、素朴なケルト文化も残っています。「現在この丘(ティンワルド)には新しいケルト高十字架が立っている。頭部の十字を円環でつなぐ車輪十字のそれである。しかしマン島には高十字架よりも、聖地や墓所にたてられていた特異なクロスが残っていて、素朴な時代の信仰のあとを刻んでいる。」クロスに刻まれた文様で私が興味を持ったのは組紐文様です。「ここで最も注目をひく特徴は、組紐文様の多様さであり、また綿密で精巧なことであろう。人物や動物の描写よりも、三つ編みに仕上げ、また長く輪をつなぎあわせて、それらの文様が石碑の表面を覆いつくすのである。」ケルト文化がキリスト教と同化し、ケルト系修道士が広めた宗教組織の中で、マン島のそれは純朴さを残したものであったことが最後に語られていました。「見上げるようなアイルランドの高十字架が、体系と組織をもった宗教のシンボルであるのに比して、マン島のクロスはしみじみとした人性のそれのように見える。キリスト教が華々しい西欧文化の先導者としてヒューマニズムに踏みこんでいくとき、アニミズムは常に決断を躊躇しながら、その深い情念の故に、宗教よりも限りなく芸術に近づいていく、マン島のクロスは、そうした心の象徴であるように思えるのである。」

ウィークディ夜の窯の出し入れ

昨晩、仕事帰りに工房に立ち寄りました。工房にある窯に陶彫部品を入れたのが日曜日の夕方だったので、水曜日には温度が下降し、窯の出し入れが出来ると判断しました。水曜日の夜に次の窯入れをすると、土曜日には窯出しが出来ます。1週間のうちに2回の焼成を行うことが可能で、そうなれば週末は焼成をしていない期間になり、陶彫制作を行うことが出来るのです。これは工房の電気の関係で、窯を稼働している時は照明等のブレーカーを落として、電気が窯だけに流れるようにしておく必要があるためで、これはウィークディには陶彫制作をしないことを前提にしています。私がウィークディの昼間は公務員として仕事をしているために、こうした処置は理に適っていると思っています。焼成準備をするために週末は窯2回分の仕上げと化粧掛けをしなければならず、新しい陶彫制作と合わせて焼成準備のために時間を使わなければなりません。陶彫制作だけやっている今までもかなり厳しい制作内容になっているにも関わらず、これからの週末は窯入れも考えて、さらに時間的には切迫した厳しい作業になると思っています。ただし、窯入れするには完全に乾燥した陶彫部品を選んでいくので、週2回の焼成は長くは続きません。焼成が途切れた時がウィークディの夜間制作が可能な時なのです。今まで幾度となく言ってきたように陶彫の醍醐味は焼成にあります。窯を開けた時、目に飛び込んでくる作品は焼き締められて石化したモノで、炎神に洗礼を受けた勇姿がそこにあります。私が窯に入れる前に作っていたモノとは別のモノが存在しているといっても過言ではありません。昨晩もそんな印象を持ちました。自作に感動するのは他の鑑賞者ではなく、まずは窯出しをする作者自身なのです。

「モディリアーニ 夢を守りつづけたボヘミアン」読後感

「モディリアーニ 夢を守りつづけたボヘミアン」(ジューン・ローズ著 宮下規久朗・橋本啓子訳 西村書店)を読み終えました。ボヘミアンとしての芸術家の代名詞ともなっているモディリアーニ。確かに物語として脚色するのに事欠かないエピソードがあって、斬新な絵画だけではなく、モディリアーニその人にも注目される要素が満載です。私は前から縦長の首の彫刻に惹かれてきましたが、健康が芳しくない中で石彫を諦めざるを得なかったモディリアーニの生涯が本書によって分かったように思います。「モディリアーニは生涯を通じて懸命に目的をもって制作したが、脆弱で、成功せず、評価もされなかった。彼は女性を愛し、女性に愛された。酒を飲み、麻薬に手をつけた。しかし、それは彼の人間を決定するわけではない。また、彼の作品、特に、官能的なヌードは別にして、曖昧な背景をもつ室内の単身像にほぼ作品が限定されて以降の作品が、一貫して高い密度を保っていたことも、それでは説明できない。彼は作品の中で、時代の潮流に背を向け、流れるような独創的な線描を用いて、過去のさまざまな芸術の中から自分の様式を発見した。」著者であるジューン・ローズが綴ったこの文章にモディリアーニの芸術が凝縮されているように思います。翻訳の担当者があとがきで述べている文章で「モディリアーニ 夢を守りつづけたボヘミアン」を締め括りたいと思います。「英雄でもならず者でもない、矛盾に満ちた一人の繊細で純粋な男の生きざまと、それをいろどる人間模様のあやが、当時のパリの時代相の中できわめてリアルに塑形されているのである。悲劇の天才芸術家というより、俗なる『ボヘミアン』としての人間モディリアーニの伝記の決定版といっても過言ではないだろう。」(宮下規久朗著)

「モディリアーニ」第10章のまとめ

「モディリアーニ 夢を守りつづけたボヘミアン」(ジューン・ローズ著 宮下規久朗・橋本啓子訳 西村書店)の第10章「モディリアーニ神話とその後」のまとめを行います。享年35歳で世を去った天才画家、妊娠中の妻も飛び降り自殺をしたことで、モディリアーニはその衝撃性ゆえにさまざまな伝説が生まれ、物語化、映画化をされてきました。「モディリアーニは自由放縦に生き、亡くなるとすぐに友人や同時代の人々はその喪失を実感し始めた。向こうみずで美しく、傲慢不遜で貧しい彼はその短い生涯のうちに時代の理想と成果を集約していた。~略~『セックスに耽溺し、酒浸りで、不道徳で、危険な魅力にきらめいている存在として画家たちのことを表現するのがはやった』頃には、この街の作家やレストランの主人たちはモディリアーニの神話と魔力を風化させないでおく必要性を感じた。彼らはモディリアーニについての誤った風説によって豊かになり、モンパルナスはヨーロッパの中心的な観光地に発展していった。」私は40年前の20代の時にパリを訪れていました。モンパルナスという地名や「エコール・ド・パリ」という名で集まった画家たちの足跡を辿っていました。その頃は既に観光地になった場所で、土産用の絵を売る人たちが野外に出店していて、とりわけ興味を引くものがありませんでしたが、時代を遡れば前衛芸術家と称された彼らが、そこで必死に足掻いて生きていたことに、私は敬意を払ったことを思い出しました。モディリアーニについての誤った風説が罷り通っていたにしても、モンパルナスは観光客を引きつける魅惑的な土地になったことは確かでした。モディリアーニと妻ジャンヌの葬儀に触れた箇所に注目しました。「兄のエマヌエーレはリヴォルノから『彼を花で包んでください』と電報を打った。そしてモディリアーニの柩は彼の愛したみずみずしい花でいっぱいにされた。~略~ジャンヌはモディリアーニの葬式の前日に自殺し、友人たちは合同葬儀を望んだが、ジャンヌの父親はこの提案に恐れをなした。彼女の葬式はモディリアーニの葬式の翌日、注目を避けるために朝の8時にとり行われ、ジャンヌの友人たちにはこないでくれと頼まれた。『十分なスキャンダルだったのです』」モディリアーニと妻ジャンヌが同じ墓地に眠るようになるのには、それから10年という歳月が必要だったのでした。

「モディリアーニ」第9章のまとめ

「モディリアーニ 夢を守りつづけたボヘミアン」(ジューン・ローズ著 宮下規久朗・橋本啓子訳 西村書店)の第9章「戦後のパリ、最後の制作活動」のまとめを行います。夭折で逸話の多い画家モディリアーニは、いよいよ短い生涯の終盤に差し掛かってきました。この章の内容によってさまざまな憶測が飛び交い、やがて伝説が生まれたのだろうと察します。酒や麻薬に溺れた天才は、1920年1月24日35歳でこの世を去りました。その時、妻ジャンヌは妊娠9ヶ月で幼い女の子がいました。「彼はほんの少ししか食べず、酒が飲みたいといった。ズボロフスキーやほかの者が、医者に行くように懇願しても、『説教はごめんだ』というありさまだった。モディリアーニは何が何でも自分の病気を無視しようとし、ジャンヌですら彼にたてつくことはできなかった。~略~三日間の間、モンパルナスはモディリアーニの重病の話で持ちきりになった。元気で快活だった頃の彼を知る若い女の子たちは、彼が不治の病を患っていることが信じられなかった。~略~二日後の1月24日土曜日、午後8時50分、モディリアーニは結核性髄膜炎のため死亡した。彼は長い間その病気におかされていたが、医者はその兆候を見逃したのだった。残された数々の逸話には多くの矛盾する点があるとはいえ、この点に関してはどの逸話も一致している。」モディリアーニの事件はここで終わらず、さらに衝撃的なことがありました。「疲れ果て、悲しみと心細さで半ば気が狂っていたジャンヌは、ついに昔の彼女の部屋で横たわっていた。彼女が家を出てから2年半しか経過していなかったが、その期間は人の一生であるほど長く感じられた。彼女が何を考えていたか定かでないが、周囲の人間たちがことばの端々にモディリアーニへの非難の意をほのめかすことには決して耐えられなかったはずである。~略~夜明けに兄がうとうとし始めると、ジャンヌは午前4時に6階の窓を開けて、そこから飛びおりた。彼女の父と兄は、そのばらばらになった小さな遺体を彼女の母に見せまいとして、遺体を馬車でグランド・ショミエールのモディリアーニのアトリエに運んだ。」モディリアーニが亡くなった2日後のことでした。こうしたことがあってモディリアーニの生涯が伝説化されたものと考えられます。最終章はモディリアーニ没後のさまざまなことを扱っています。

週末 屏風に接合する陶彫制作開始

私が作る屏風と言っても、従来の日本画のそれとは異なり、角度のついた厚板材に陶彫部品が接合されたもので、言うなればレリーフを折り曲げて展示する立体作品です。私の陶彫表現のデビュー作が「発掘~鳥瞰~」で、屏風になったレリーフでした。その後も再三屏風に仕立てた立体作品を作ってきました。新作も幾度目かの屏風作品で、その厚板に接合する陶彫部品をどうするか、漸く考えがまとまってきました。床を這う根の陶彫部品が、床から立ち上がって壁を伝わっていく様子を、床と壁で連続して表現したいと考えていて、屏風に接合する陶彫部品を今日から作り始めました。実は新作の最初の陶彫試作品が、屏風に接合する陶彫部品だったのですが、これはイメージが固まる前の実験だったわけで、意図して作り始めるのは今日が最初なのです。試作品とは作り方を変えていて、根の陶彫部品を応用して自由にカタチを変形出来るようにしました。壁にボルトナットで接合するために蒲鉾型の陶彫部品の脇に穴を開け、そこからボルトを締められるようにもしました。屏風には矩形の窓を開けるため縦横に線を引いていますが、接合する陶彫部品によって、その窓を取捨選択して陶彫部品と適合させたり、対峙させたりするために、もう一度総合的なデザインをしなければなりません。窓を開けるための厚板への彫り込みは、さらに少し先になりそうです。これから先は屏風に接合する陶彫制作に専念する必要がありそうで、今月の制作目標としては、まず屏風をどうデザインしていくのかを決めていくことになります。今日も秋晴れの一日で、創作活動をやるのに適した気温になりました。工房には若いスタッフが一人やってきて、自分の課題に向き合っていました。誰か工房にいてくれる方が、私も張り合いがあって頑張れるなぁと思いました。それはお互いがそう思っているのかもしれません。最近は週末に集中し過ぎる傾向があって、作業終了後に私は大変な目にあってしまいますが、今日は昼ごろに近隣のスポーツ施設で水泳をして、創作の緊張感をクールダウンしてきました。来週末は私的な用事があって、陶彫制作に十分な時間が取れません。何とかウィークディの夜に工房に行かれないものか、公務員管理職としての仕事を視野に入れながら思案しているところです。

週末 陶彫続行の濃密な時間

漸く週末になりました。新作の陶彫部品の制作に明け暮れる貴重な週末です。今日は秋晴れの気持ちの良い一日で、工房には若いスタッフが2人来ていて、それぞれの課題に向き合っていました。私は4点目の彫り込み加飾と、乾燥した陶彫部品のヤスリ掛けと化粧掛け、さらに明日の成形に備えてタタラを数枚準備していました。陶彫制作には段階を追った制作工程があるため、複数の部品を同時に作っていかざるを得ないのです。以前から私はこれを制作サイクルと呼んでいました。次から次へ陶彫部品を替えながら進む作業は、ホッとする暇が与えられず、濃密な時間を過ごすことになります。キャリアを積んでもフロー状態になれることは素晴らしいことだと常々思っていますが、作業が終わった後で、疲労で動けなくなるのは困ったものです。表現が定まらなかった若い時代と比べれば、失敗は最小限になり、無駄な動きもなくなりました。と言っても慣れが生じるほど技術を把握できていないので、無我夢中で取り組んでいる姿勢を今だに保っています。自分が今までに獲得した技術の範囲で作っていれば、もう少し余裕が生まれるのでしょうが、イメージ先行の新作は常に技術的な挑戦が伴い、不安や焦燥はまだ私の中に燻っている状態です。私はどのくらい成長できたのか、作品はどのくらい展開して、深遠な思索を湛えているのか、自分ではまるで分かっていないため、相変わらず自分の無力さを思い知るばかりです。ウィークディの仕事では曲がりなりにも職場のトップとして、人に指示をする立場にありながら、週末になって工房にやってくると、私はたった一人の人間として己の力の無さを曝け出しているのです。そのギャップが私自身であり、社会的に認められた優位な立場と、人間的な弱さに喘いでいる陰の自分の双方が、私という個人を形成しているのだろうと思っています。工房での作業は明日も継続です。

光岡ビュートの修理・点検

今日は私の自家用車について書きます。私は大学生の頃に運転免許を取得し、亡父の造園業を手伝っていました。私が最初に運転した車が2トントラックで、植木や庭石の運搬をやっていました。実家にトラックがあったのは彫刻をやっている私にとって何かと重宝して便利でした。併せて乗用車もあったので、父にお願いして時折運転していました。乗用車をトラックのように雑に扱うと父に怒られました。当時はオートマチック仕様はなく、ギアチェンジをいかに巧みにに出来るか、運転の楽しみのひとつになっていました。社会人になって自分で車を購入した時は、オートマチック車が主流になっていました。最初の車は軽ワゴンでしたが、そのうち自分の趣味が反映した車に替えていきました。私は目的のないドライブがあまり好きではなく、メカニックにも興味がないことが徐々に分かってきました。車は自分の造形感覚を満たすモノという概念があって、機能よりデザイン重視になっていきました。それは昔を考えてみると、私は大学時代に彫刻科の教壇に立っていた篠田守男先生が乗っていたポルシェを遠くで眺めていて、稀有な車の美しさに憧れを持ったのに端を発していると思っています。私はクラシックなデザインが好きです。そこでクライスラー社のPTクルーザーを購入しましたが、外車は一度故障すると部品の取り寄せに時間がかかるため、次の車は国産車にしようと決めました。次に買い替えたのが光岡自動車のビュートです。これは他社の車をベースカーにしているため、点検等は日産でやってもらうことが可能です。今回は修理を含んだ点検のため、光岡自動車の横浜ショールームに車を預けることにしました。光岡自動車は風変わりな会社だなぁと思っています。工場は富山県にしかなく、車体は手作りのために納車に時間がかかります。それでも私はビュートが気に入っていて、現在は2台目です。最初のビュートの外装はブリティッシュグリーンでした。今のビュートはワインレッドです。どちらも色彩がいいなぁと思っています。光岡自動車は飛び切りな贅沢を売っている会社だろうとショールームを見ていて感じました。