「諸原理の明証性批判から経験の明証性批判へ」第85節~第86節について

「形式論理学と超越論的論理学」(エトムント・フッサール著 立松弘孝訳 みすず書房)の小節のまとめを行います。第二篇「形式論理学から超越論的論理学」の第4章「論理学の諸原理の明証性批判から経験の明証性批判への回帰」に入っていますが、題名が長いので表示を多少省略をさせていただきました。今回は第85節から第86節までを読み解いていこうと思います。ここでまた判断論の掘り下げた論考が登場します。「判断の意味の成立を開示することは、もっと正確に言えば〈明示された意味の中に含まれており、しかも本質的にその意味に属している意味の諸契機を開明すること〉と同じである。《構成》または《成立》の既製の産物としての判断については、その構成ないし成立を問いうるし、問わねばならない。このような産物としての判断は、それ自身の意味内包として一種の歴史性を内蔵する意味だ、ということ、それら諸判断の内部では段階的に、意味は根源的な意味と、それに属するノエマ的な志向性とを回帰的に指示していること、したがってわれわれはどの意味形成物についても、その形成物にとって本質的な意味の歴史を問いうること、これらのことこそまさに、このような産物の本質特性である。」次に経験の明証性が登場します。「形式的な分析論はその分野と理論については、可能な諸判断と諸真理の諸形式だけを扱うのであるから、そこでは明証性と経験については何も表面に出ないとしても、やはり志向的な各能作の根本的な方法に向けられる主観的な《認識批判的》な諸研究においては、形式的分析論も、明証または確証の範疇的な各媒体を探究し、それらに基づいて根源的な諸判断の能作を解明しなければならない。われわれが見るとおり、それらの研究を通してあらゆる真理と、あらゆる判断の明証性が、経験という根元的な基盤へ回帰的に関係づけられるのである。」私自身の頭脳の巡りが悪いせいか、明証性に対して、また判断に対しても、小節ごとの相違が分からなくなっています。部分的に言わんとすることは分かっても、これはどこかで論じられてきた気がするし、微細なところまで論理が入ってしまうと、その襞に私の思考では食らいつくことができません。難解なのはこうした論考の用いられ方かなぁと思っています。

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