「理想化する諸前提と構成的批判」第75節~第77節について

「形式論理学と超越論的論理学」(エトムント・フッサール著 立松弘孝訳 みすず書房)の小節のまとめを行います。第二篇「形式論理学から超越論的論理学」の第3章「論理学が用いる理想化する諸前提と、それら諸前提についての構成的批判」は題名が長いので、題名表示を多少省略をさせていただきました。今回は第75節から第77節までを読み解いていこうと思います。第75節に登場するのは分析的な矛盾律です。「純粋に客観的にみれば、単純な分析的矛盾律はイデア的な数学的《実在》と共実在についての、したがって複数の判断の判明な同時的可能性についての定理である。しかし主観的な側面には、明証性のアプリオリな構造と、その構造にさらに付随する主観的な諸能作のアプリオリな構造とがあり、そしてその構造が開明されることによって、それら能作の客観的な意味に対応する主観の側の本質的な実状が開明されるのである。」第76節に登場するのが真理論理学に関する考察です。冒頭に「われわれがこれまでに論述したのは《単純な》普遍学という、かなり狭義の分析論についてであったが、この分析論は、われわれがすでに知っているように、新しい諸教科を増やすのではなく、特殊な論理学的機能を獲得するだけであるが、しかしやがて真理の諸概念をテーマにして、それらの概念に関する諸定理を拡充すれば、無限に稔り豊かな学問である。」という一文がありました。「論理的な諸教科が、形式の本質的な諸概念を各範例からの本質一般化によって創るのと同じように、形式的真理論も真の存在と述定の真理の諸範例から創るのである。」さらに「われわれの研究が適切な出発点にしているのは真理の概念と、この概念を公理論的に解明する《論理学の諸原理》とである。われわれがここで想起するのは、〔判断される事象の〕真の存在と判断の正当性としての真理のこの両概念であり、しかも双方をさらに自己能与(すなわち広狭両義の経験)と合致とに遡って関係づける、これら両概念の起源についての分析である。」第77節では矛盾律と排中律が登場します。「矛盾律と排中律のこの二重の原理が端的に述べているのは〈どの判断も真か偽のどちらか一方だ〉ということである。真と偽が根源的にその意味と正当性を汲み取るのは明証性からではあるが、しかしどの判断も明証性というような主観的な語を含んでいない。同一の判断が時に応じて真であったり偽であったりすることもなく、その判断はいつも確実に真もしくは偽である。」今回はここまでにします。

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