「マグマを宿した彫刻家」雑感

昨晩、NHK番組「日曜美術館」で取上げられた故辻晋堂の陶彫について書いてみようと思います。表題にある「マグマを宿した彫刻家」とは、大学時代に辻晋堂に師事した彫刻家外尾悦郎氏が言っていた台詞でした。眼に見えないけれど内面に秘めた師匠のマグマのような強さを感じ取り、外尾氏がスペインに行ってサグラダファミリア贖罪教会の制作に携わった場面で、周囲から理解されない状況に陥った時に、師匠の創作にかける姿勢を思い出していたそうです。40年以上に及ぶ外尾氏の制作活動は、師匠からの心の支えがあればこそ達した境地なのかもしれません。そうした国際的な力量を勝ち得た彫刻家を輩出した辻晋堂とはどんな人物だったのか、私には興味が尽きません。私も学生時代に東京銀座のギャラリーせいほうで個展をやっていた辻晋堂のことは知っていました。その頃、出品していた小さな陶彫作品は彼の晩年の作品と呼べるもので、本人曰く「粘土細工」という言い方に妙な感じが残りました。それでも当時の代表作「捨得」と「寒山」を見ると、飄々とした軽妙洒脱な作りが何とも不思議な雰囲気を漂わせていました。元々巧みな彫刻家なのだろうなぁと私は思いつつ、10年くらい前に鎌倉の美術館で見た大ぶりな陶彫作品には驚きました。「東山にて」という平面性の強い陶彫作品は壁体彫刻とでも呼べばいいのか、まるで古代人の住居を連想させるもので、陶彫の魅力を全面に押し出していました。私が学生の頃は、粘土を焼成するとこんな感じになるのかとの単純な印象しか持てませんでしたが、鎌倉の美術館での展覧会は、私が既に陶彫を始めていたので、忽ち辻ワールドに取り込まれてしまい、土でなければならないイメージ世界に思いを馳せてしまいました。私は地中海沿岸の発掘された都市を出土品のような土で表現したかったため、そこで自分なりの陶彫を展開していく方向性を掴んだと言っても過言ではありません。

週末 成形&故人陶彫家を偲ぶ

今日は朝から工房に篭り、昨日準備しておいたタタラを使って、19点目になる陶彫成形を行っていました。久しぶりに美大受験生が2人工房にやってきました。2人のうち1人は修学旅行に行ったようで長崎のカステラをお土産にいただきました。コロナ渦の影響で、本来なら台湾に修学旅行に行くはずが、九州になったと言っていました。若いスタッフが工房に来ると背中を押される感覚があって、私の制作も進みます。午後になって乾燥した陶彫部品を仕上げて化粧掛けを施そうとしましたが、窯に入れるための組み合わせがうまくいかず、今回の焼成は見送ることにしました。その分彫り込み加飾を多少でも先に進めることにしました。このところ週末は陶彫一辺倒ですが、夜になってNHK番組「日曜美術館」(再放送)を見ていたら、故人陶彫家を取上げていて、私の興味関心を一気に持っていかれました。その人の名は辻晋堂で、私のNOTE(ブログ)にも複数登場しています。「辻晋堂の彫刻」(2008年11月12日付)、「鎌倉の『辻晋堂展』」(2011年2月2日付)、「『辻晋堂展』で陶彫を考える」(2011年2月3日付)、「壁体彫刻の魅力」(2011年2月9日付)とアーカイブを数えると4回取上げています。今晩の「日曜美術館」ではサグラダ・ファミリア贖罪教会の主任彫刻家である外尾悦郎氏が出演し、大学時代の師辻晋堂について語っている場面がありました。外尾氏が学生時代、大事にしていた一本の鑿が師の心に触れたらしく、いつも見守ってくれていたという台詞は私の心も打ちました。スペインに行く前に師から「日本美術家連盟」に入るように勧められて推薦をしてくれたことも言っていました。あぁ、私と同じだと思いました。私も師池田宗弘先生の推薦を受けて「日本美術家連盟」に入ったのでした。「何かの役に立つと思うよ。」と池田先生が言ってくれましたが、私もそこで彫刻家としての自覚が芽生えました。私が辻晋堂という陶彫家を知ったのは、40年以上も前に東京銀座のギャラリーせいほうで池田先生の個展の手伝いをしていた時でした。その後、同ギャラリーの「辻晋堂展」にお邪魔しましたが、とうとう作家には会えませんでした。そんな思い出が甦ってきて、別稿でもう一度「辻晋堂の陶彫」について書いてみようかと思っています。辻ワールドに接すると、私はつい惹きこまれてしまうのです。

週末 制作サイクルについて

週末になりました。ウィークディの仕事から解放される週末ですが、工房での陶彫制作が毎回続いています。新作を作っていると言えども、制作工程は大きく変わるものではなく、土曜日が土練り、タタラを作って翌日の成形に備え、余った時間は既に成形された陶彫部品に彫り込み加飾を加えています。日曜日は土曜日に準備したタタラで新しい陶彫の成形を行います。余った時間は乾燥した陶彫部品があれば、そこから何点かを選び出し、ヤスリで仕上げ、化粧掛けを施して窯に入れます。これを制作サイクルと私は呼んでいて、毎週末になるとこれを繰り返しているわけです。窯入れは乾燥待ちがあるので、毎週出来るものではありませんが、焼成以外の制作工程ならサイクルを回していくことは可能です。今日は朝から工房に籠って、土練りとタタラ作り、午後は彫り込み加飾を行いました。変りばえのしない制作工程ですが、こうした地道な積み上げが大きな成果を生むことを私はよく知っているので、自分の気持ちをコントロールしながら制作に励んでいました。制作サイクルは陶彫の場合と木彫の場合はそれぞれ異なり、木彫が始まれば木彫としての制作サイクルを回し始めます。ただし、木彫は焼成がないため作品が乾燥するまで待つという時間的配慮が必要ありません。制作の進め方は木彫のほうが単純ですが、何時間も鑿を振るうために体力は消耗します。今月はまだ木彫に手を出さず、陶彫一本に絞って制作をやっていきます。明日は成形に入ります。

横浜の「吉村芳生」展

先日、横浜そごう美術館で開催中の「吉村芳生」展に行ってきました。「超絶技巧を超えて」という副題がつけられていた通り、鉛筆で描かれた写実画には目を見張るような驚きがありました。日常のありふれた情景を撮影し、それを明暗の調子に分解し、緻密に写し取った絵画に、通常の具象絵画とはまるで違う世界観を私は感じ取りました。大変な労働の蓄積を見取り、どうしてこのような発想になったのか、この画家についてもっと知りたいと思いました。図録に本人の心境を吐露した文が出ていました。「僕は(中略)白い紙の上にエンピツや絵具で目の前の風景、静物・人物、又はイメージである情景を描写することに限界を感じていた。それは、自分の三次元空間のデッサン力のなさ、イメージの貧困などから来たものなのかもしれないが、終いには絵を描くことが苦痛になっていた。~略~先生からは、図面を整えることをいわれ、自分の描きたい意図が上手く伝わらない。どうすればいいのだろう、と模索していた時にみた、アメリカの現代美術展に大きなショックを受けた。写真をそっくりそのまま写した作品がある、大きなキャンバスを一色で塗りつぶした作品がある。」こうした出会いが現在の行為を生み、芸術性を高めていったと私は思いましたが、新聞紙に自画像を描き込んだ「365日の自画像」を見ていると、所謂スーパーリアリズムとも一線を画する仕事ではないかと感じました。図録の解説を引用いたします。「『機械文明が人間から奪ってしまった感覚を再び自らの手に取り戻す作業』と幾度も語っているとおり、あくまで主眼にあったのは、写す”行為”そのものだった。だからこそ、新聞・金網そして写真も、『ほんものをそのまま映す』と言いつつ、どれも近づいてみるとその手作業の痕跡やムラが見て取れるような描き方がされている。~略~吉村がきわめて私的なレベルにおいて重要視した、描く”行為”そのものに対する執着は、彼にとってのじつに純粋なコンセプトとして結実していく。自己と向き合い、日々を写し取る”行為”を延々と続けていくこと。それこそが、彼が目指した自分にしかできない芸術だったからだ。」(高田紫帆著)

桃山茶陶の開花について

東京国立博物館平成館で開催中の「桃山ー天下人の100年」展は、絵画に限らず、私にとって興味が尽きないものばかりが並び、日本の伝統文化の重厚感に圧倒されてしまう展示内容でした。安土桃山時代は日本陶磁史上最も隆盛した「茶の湯」があり、「侘び」という認識が確立された時代でもあります。その中で堺の商人から天下人の茶頭にのぼりつめた千利休やその後継とされる古田織部が登場し、日本独特な「桃山茶陶」が出来上がったようです。図録によると千利休は「生来の進取の気性に加え、政治的能力にも恵まれ、織田信長、そして信長没後は羽柴(豊臣)秀吉の茶頭をつとめた。」とありました。利休の鑑識眼は、当時としては革新的で現代にも通用する美学があると私は思っていて、その具現化のために陶工長次郎に焼かせた楽茶碗は、無駄を削ぎ落した造形の極みと私は感じています。「従前の茶碗にとらわれず、手づくねと箆削りによって手になじむ形が追求され、聚楽土そのものの自然な焼き上がりを見せる赤茶碗と、黒一色の黒茶碗が生まれたのである。」次の時代を担った古田織部は、図録によると「一般に『ヘウケモノ』を好んだ人物として、『変形』『豪快』な茶陶のイメージと結びつけられることが多い」とされています。展示されていた「織部松皮菱手鉢」は当時としては前衛そのものであったように思います。解説によると「深い緑釉と、鉄絵による網干や唐草らしき複雑な文様表現が際立っている。いかにも華やかで斬新であり、力強い慶長の気風を映すような桃山茶陶の傑作である。~略~究極まで技巧を尽くしたその作風は、織部焼、ひいては和物茶陶の到達点とも見える。」とあり、自由闊達な造形表現が従来大陸から伝えられた形式を覆していく時代だったのだろうと考えられます。桃山茶陶の最後を飾る芸術家は本阿弥光悦だろうと私は思っています。マルチなアーティストとして俵屋宗達とコラボした「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」がありますが、光悦は作陶やさまざまな工芸にも優れた作品を残しています。図録によると「美を享受する立場。鑑賞体験をもとに新たな造形を創造する。仕事ではなく作ること、それ自体を楽しめる時代、個人芸術家の時代が訪れたのである。」とありました。いよいよ美の認識が現代に近づいてきたという感覚をもったのは私だけではないはずです。

複数の「洛中洛外図屏風」を比べる

東京国立博物館平成館で開催中の「桃山ー天下人の100年」展は、その出展作品の内容や展示の視点から見ると、大変大がかりであり、また興味が尽きないものばかりで、日本の伝統文化の重厚感に圧倒されてしまいます。昨日のNOTE(ブログ)では主に時代背景を書きましたが、今日は私にとって最も関心の高い「洛中洛外図屏風」について述べていきます。本展には「洛中洛外図屏風」が複数展示されていて、その魅力を余すところなく発揮していると感じました。古いものは「歴博甲本」と名付けられていて、図録には「本作は近年土佐派作とする可能性も提示されており、洛中洛外図の祖型の成立を考えるうえできわめて重要な作品」とありました。室町時代の制作です。次に「上杉家本」と名付けられているのは、同じく室町時代の若き狩野永徳によるもので、図録には「京都のランドマークが金の雲間からのぞき、墨書きされた場所の名称は235か所にのぼる。僧俗貴賤の階級も問わず、2500人近くの老若男女が描き込まれている。」とありました。私はこの作品の緻密さに魅せられてしまい、暫し鑑賞に時間を使いました。次は江戸時代の作品で、図録によれば「現存する『洛中洛外図』のなかで最大のもの」とあり、大画面全体にわたる鮮やかな色彩に眼が奪われました。次は「勝興寺本」が続き、徳川家康により造営された二条城が姿を現します。「二条城を左隻の中心に大きく配することが『洛中洛外図屏風』の定型となった。」と図録にあり、これも狩野派の画家によるものと考えられています。江戸時代に岩佐又兵衛によって描かれた「舟木家本」にも私は眼が奪われ、とりわけ画中の庶民の姿を追ってしまいました。「この屏風で画家が描きたかったのは、庶民の姿、それも後に二大悪所と呼ばれる歓楽街、遊里や歌舞伎の場に集まる人びとであり、画面に散見される風紀を乱すような人びとのさまざまな姿、浮世を楽しむ姿である。」と図録にあり、まさに当時の風俗が俯瞰される視点で描かれていたことが、楽しくもあり、また驚きでもありました。空中を飛行するものがなかった時代に、こんな鳥瞰図が描かれたこと自体に感動があり、また位置関係を隠すために金の雲で覆って、あたかも金色の都市を象徴するような工芸品にまとめ上げていることが凄いなぁと思っています。本展は「茶の湯」にも重要な作品が展示されており、さらに別稿を起こそうと思います。

上野の「桃山ー天下人の100年」展

先日、東京上野にある東京国立博物館平成館で開催中の「桃山ー天下人の100年」展に行ってきました。コロナ禍の中の展覧会で、ネット予約で入場したため大変な混雑はなく、全体をゆっくり見て回れました。展示されていた作品はどれも迫力を纏っていて、その伝統に立脚した表現力に我を忘れることが暫しありました。本稿だけで感想が収まりきれるものではなく、まず手始めに桃山とはどんな時代だったのか、これを図録から拾ってみたいと思います。展覧会の作品を古い順に見ていくと、室町時代末の天文年間から江戸時代初期の寛永年間までのおよそ100年の間に制作されています。作品はどれも織田信長や豊臣秀吉、徳川家康など日本史に名を残す戦国武将が群雄割拠した時代に制作されました。図録の文章を引用します。「この時代には、戦国時代の政治・経済の展開と歩調を合わせるように、中央集権的で力強くエネルギーに満ち、庶民階層まで視野に入れた世俗的で広がりのある文化が生まれた。この文化は、豪華絢爛な美術作品が爛漫と咲き誇る桃の花を連想させ、『桃山時代』と呼ばれた。~略~街には奇を好んだ無頼の『傾奇者』が溢れ、それを写した『かぶき踊り』も誕生している。美術の分野では新しい様式による作品が陸続と作り出され、この時代の様式を『桃山様式』と呼んでいる。~略~日本の中世絵画は、水墨画を中心に展開していった。その中心となったのは狩野派であり、室町時代後期に活躍した狩野元信、安土桃山時代の狩野永徳、江戸時代初期の狩野探幽は、いずれも各時代の様式を作っていった画家である。」(田沢裕賀著)この「桃山時代」は、日本文化史の中で独特な時代と呼んでもいいのでしょうか。当時流行した「傾奇者」(かぶきもの)とは奇を衒う前衛の美意識ではないかと私は思っていて、現代にも通じる要素をあらゆるところに感じています。現代こそ「傾奇者」で成り立っていると考えられるからです。さらに本展の展示に面白みを加えていたのは、狩野永徳の「唐獅子図屏風」と長谷川等伯の「松林図屏風」が隣り合わせにしたことで、表現の幅が象徴から具象、動と静、力強い筆致と濃淡で抑えた空気感を比較検討できたことでした。こればかりではなく、「洛中洛外図屏風」もいろいろなバージョンが複数展示されていて、その違いに興趣をそそられました。また別稿を起こします。

11月RECORDは「黄」

今年のRECORDは色彩をテーマにしてやってきています。今年は残すところあと2ヶ月で、漸く色彩のテーマを終えることが出来ます。11月に「黄」を選んだのは、まさに工房の周囲の木々が紅葉していて、窓から見る黄色の風景が美しいと感じたことがきっかけです。自然の中で黄色をイメージするのは、紅葉の木々だったり、果物だったりしますが、芸術の世界でも黄色を作品の中心に据えた画家がいます。代表としてはフィンセント・ファン・ゴッホでしょうか。その中でも「ひまわり」は有名で、花弁にさまざまな黄色が使われています。ファン・ゴッホの秋の農村の風景を描いたものも有名で、黄色を重ねていく筆致に溢れ出す表現が見て取れます。ワシリー・カンディンスキーも黄色に注目した抽象画家で、黄色が画面の中で効果的に使われていました。彫刻家若林奮も硫黄を造形の一部に使っていて、その独自な世界が印象的です。黄色はバリエーションも豊富で、私が使用しているアクリルガッシュにもさまざまな黄色がありますが、黄色は三原色のために混色して作り出すことが出来ません。黄色のイメージとしては太陽などが明るく輝いている情景が目に浮かび、生命に対してポジティヴな印象です。私自身は今までのRECORDに黄色を使うことは滅多になく、実を言うとあまり得意な色彩ではないのですが、今月は黄色を研究してみようと思っています。黄色は隣り合う色彩によって効果が変わるようで、その配色の組み合わせも考えながら、今月のRECORDを作っていきます。

週末 成形ではなく加飾優先

朝から工房に篭りました。週末となれば、新作の陶彫成形を1点追加するところですが、今週末は成形をやめて、今までの成形分の彫り込み加飾をやっていました。昨日は東京と横浜で開催中の展覧会を巡っていたので、タタラ等成形の準備が出来なかったこともありますが、彫り込み加飾が遅れ気味で、これを何とかしなければならないと考えていました。制作途中の陶彫部品は水を打ってビニールで覆っておきます。それでも時間が経てば陶彫部品の乾燥が進んでしまいます。彫り込み加飾も長く放置することが出来ず、陶土が柔らかいうちに作ることがベストです。彫り込み加飾は作業台に陶彫部品を置いて、鉄ベラで陶土を削って、木ベラで表面を成らしていきます。これはレリーフを作っているのですが、手の混んだ文様にしようと思えば、かなりの時間を使います。まさに工芸的な作業です。今日は一日のほとんどをこの作業に費やしました。彫り込み加飾は、陶土表面の高さの調整をしたり、膨らみや凹みを作ったりしていて、決して退屈なものではなく、むしろ時間を忘れるほど楽しい作業です。労働の蓄積が残っていくので、緻密になればそれなりの効果はあるのですが、立体全体を見渡して作っていくので、いつまでも近視眼的になっているわけにもいかず、やはり彫刻の一部という意識はあります。今日の夕方は乾燥した陶彫部品にヤスリをかけ、化粧掛けを施しました。工房を出る前に窯に3点の作品を入れました。新作の窯入れはこれで3回目になります。今日は新しい成形をやらなかったことが気がかりですが、今月は三連休があるので何とかなるでしょう。また来週末も頑張りたいと思います。

週末 加飾&展覧会巡り

週末になりました。朝7時に工房に出かけ、10時までの3時間、新作の彫り込み加飾をやっていました。早朝制作を遂行したのは、今日は東京と横浜の博物館や美術館へ行く予定があったためでした。いつもならNOTE(ブログ)のタイトルを「美術館巡り」と書くところを「展覧会巡り」としたのは、博物館1館と美術館2館を回ろうとしていたので、表記を変えさせていただきました。東京上野にある東京国立博物館平成館で開催している「桃山ー天下人の100年」展はネットで予約を入れていました。家内と私の2人分を予めプリントアウトして持参しました。例年なら混雑を承知で出かけていく大掛かりな企画展は、今回ばかりはゆっくり見られる状態でした。本展は、安土桃山時代を中心に据えた文化の隆盛を代表作品で網羅した重厚な展示で、作品の質量とも圧倒的な迫力を感じました。狩野永徳と長谷川等伯の代表作品の一騎打ちやら、各種屏風の比較展示など、私にとって旧知の作品が居並ぶ中で、私は今まで注目してこなかった各戦国武将が纏った鎧兜のデザインに目が奪われました。「桃山ー天下人の100年」展の詳しい感想は後日にしますが、本展では立派な図録が用意されていて、これを読むのに時間がかかりそうです。もう一度時代背景を図録で学びながら、鑑賞を深めていきたいと思います。次に向かったのは新橋で、ここにあるパナソニック汐留美術館で開催している「分離派建築会100年展」は、以前から見たいと思っていたのでした。私は20代の頃にウィーンに暮らしていて、そこでは分離派と呼ばれる芸術家集団の足跡がありました。日本にも分離派を名乗る建築家グループがあるとは知らなかったので、どんな活動をしていたのか興味津々でした。西洋建築を日本が取り入れようとしていた大正から昭和の時代に、斬新なデザインを求めていた若手建築家グループがあり、建築に彫刻的な芸術性を持ち込んだ彼らの活動を、私はもっと知りたくなりました。この展覧会の詳しい感想も後日にいたします。次に向かったのは地元の横浜で、そごう美術館で開催されている「吉村芳生展」でした。展覧会のタイトルに「超絶技巧を超えて」とあった通り、鉛筆画としてはまさに超絶技巧の賜で、度肝を抜かれるような世界が広がっていました。これも感想は後日に回します。今日は3箇所の展覧会を回りましたが、いずれも迫力満点なものばかりで、足も眼も些か疲れました。「3館を回るのは、二足の草鞋生活の間だけだよね。」と家内に念を押され、創作活動一本になれば、もう少し緩やかに作品を見て回るつもりだと答えました。今日見た作品群はどれも咀嚼にどのくらい時間がかかるのか、腰を落ち着けてじっくり考察していこうと思います。充実というより、さらに凝縮した時間を過ごしたように感じています。

版画による「若林奮」展

故人である若林奮氏は、展覧会の説明によると、鉄を中心に、銅や鉛、硫黄、木などの素材を使って、地形や植物、気象、大気の状態などへの深い自然観と、空間や時間への強い意識にもとづく思索的な作品を制作したことで知られるアーティストでした。私が人体塑造をやっていた学生時代は、共通彫塑研究室にいらして、時折校内ですれ違うこともありました。神経質そうな面持ちの方で、近づき難い雰囲気があり、到底話しかけることはできませんでした。一度講評会にお邪魔したことがありましたが、難解な説明を理解することが出来なかった記憶があります。それでも魅力的な世界観を私は感覚で捉えていて、その作品を理解しようと努めてきました。版画による「若林奮」展は、町田市立国際版画美術館で開催していて、彼が町田市出身の作家であることで、今回の展覧会が実現したようです。白黒による版画を見ていて「鑑賞者のことを考えていないなぁ。」と家内がぽつりと言ったことが印象的でした。人に媚びていないと言った方がいいのでしょうか。作品はどれも若林ワールドそのもので、強烈な個性を感じました。題名にあった「鮭の尾鰭」とは何を指しているのでしょうか。博物館で見た旧石器時代の岩盤や骨片につけられた刻線に触発されたイメージというのが「鮭の尾鰭」シリーズになったそうです。そうした説明があってそれを手掛かりにイメージの謎解きをしていくのが若林ワールドなのだと私は思っています。「BLACK COTTON」という石版画のシリーズは圧倒的な表現力で迫ってくる版画でした。作家の生家が綿屋であり、綿の塊が焼けて黒くなった状態をイメージしているのかもしれず、これも謎の多い世界でした。そこにどっしりした存在感があるのは、作家がこの世界を彫刻にする予定だったのかもしれず、鉄を使ってCOTTONを作ってみたら面白いだろうなぁと私は感じました。作品を見る人がどう見るかは関係なく、作家が感じた通り素直に表現した作品というのが「若林奮」展の印象でした。

町田の「西洋の木版画」展

先日、東京都町田市にある町田市立国際版画美術館で開催中の「西洋の木版画」展に行ってきました。私は学生時代に彫刻を専攻しながら、興味関心をもって試してきた技法が木版画でした。ドイツ表現派のざっくりとした力強く象徴的な世界が念頭にあって、私もモノクロ版画に拘ってきました。本展で改めて古い時代からの西洋の木版画に接して、版のもつ魅力をもう一度確認しました。西洋で木版画が作られるようになったのは、紙が漉かれるようになった13世紀後半から1世紀を経て、14世紀後半に漸く始まったようです。最初の題材はキリストやマリアの聖像で巡礼者向けに販売されていました。15世紀末にA・デューラーの登場にとって飛躍的に木版技術と表現が進みましたが、16世紀には細密な表現が可能な銅版画に中心が移り、木版画は民衆的な刷り物にわずかな命脈を保つばかりになったようです。18世紀にイギリスで木口木版画の技法が確立されて、銅版画のように細かな線描が可能で、しかも活字印刷と同時に刷ることができたため、専門の職人が活躍しました。また木版画が美術表現として見直されるのは1880年代末のことで、その契機になったのは日本の浮世絵版画でした。印象派の画家たちの間で、浮世絵の斬新な画面構成が流行したのはあまりにも有名で、少なからず日本が西洋近代絵画に影響を与えたのは事実です。本展で私が注目したのは近代から現代に至るアーティストによる版画表現です。私にとってお馴染みのドイツ表現派のキルヒナーや後期印象派のゴーギャン、抽象絵画のカンディンスキー、抽象彫刻のアルプなどの版画作品を見ていると、私は20代から休止している版画表現をもう一度やってみたい衝動に駆られます。とりわけ本展出品者の中で唯一の知り合いである故日和崎尊夫氏の木口木版画「KALPA」シリーズを見ていると、木版画をやっていた当時を思い出し、まだ自己表現が熟さないうちに技法を投げ出してしまった自分を恥じました。来年3月で公務員の仕事を退職する私は、彫刻の他に版画をやろうと決めています。実は木版画ではなく、その時は銅版画を試したいと思っているのです。

映画「異端の鳥」雑感

先日、川崎駅前にある映画館TOHOシネマズへ「異端の鳥」を観に行ってきました。本作を私は新聞で知りましたが、上映館が少ないため自宅近くの映画館を探して、しかも深夜の時間帯に行ってきたのでした。家内が同伴してくれましたが、「少年の心が迫害によって失われていく物語」と家内は評していて、この映画は好きになれないと言っていました。私は本作がモノクロ映像だったために、この映画が商業性を狙っていないことや、謂れのない虐待がどこからくるのかを真剣に考える契機になって、実に印象深い作品だったと思いました。図録によると「第二次大戦中、ナチスのホロコーストから逃れるために、たった一人で田舎に疎開した少年が差別と迫害に抗い、想像を絶する大自然と格闘しながら強く生き抜く姿と、異物である少年を徹底的に攻撃する”普通の人々”を赤裸々に描いた」とありました。題名を象徴するものとして、少年が身を寄せた鳥売りの男の行為が挙げられます。「戯れに、ペンキを塗った小鳥を空に放した。群れの鳥たちと合流しようとする小鳥だったが、色を塗られた鳥は群れの仲間たちにとってもはや”異質な存在”だった。小鳥は突かれ羽を捥がれ、無残な姿で地面に墜落する。」この場面を少年は自分に重ねていたのかもしれません。度重なる人間のもつ闇を体現し、自らも犯罪に染まっていく少年。でも決して弱いわけではなく、少年には逞しさが備わっていきました。司祭に少年が拾われた際には、宗教も客観性をもって描かれていました。監督インタビューでこんな語りがありました。「この物語は悪についての探求、反対に、善、共感、愛でもある。これらが存在しない場合、我々は必然的にその価値に目を向ける。『異端の鳥』で善と愛を垣間見るとき、これらの本質に感謝し、より多く求める。これは、人間が善を求めているという映画のポジティヴなメッセージである。~略~原作でも映画でも、少年は戦争を生き抜き、荒廃したヨーロッパをさまよい、両親を失った数十万人の子供たちの代表であり、ある種の象徴だ。そして、それは今世界中で軍事紛争が進行している場所どこでも同じである。」いじめや虐待や迫害は現代にも通じる負の部分で、今も黙して語らぬ人々がいることを実感しました。

文化の日に相応しい創作活動

今日は文化の日です。そもそも文化の日とは何ぞや、というのが私の疑問でしたが、調べてみると文化の日という名称は昭和の時代に始まっていることが分かりました。11月3日は、1946年(昭和21年)に日本国憲法が公布された日であり、日本国憲法が平和と文化を重視していることから、1948年(昭和23年)に公布・施行された祝日法で「文化の日」と定められたそうです。日本国憲法は、公布から半年後の1947年(昭和22年)5月3日に施行されたため、5月3日も憲法記念日として国民の祝日となっているのです。11月3日はそれ以前は明治天皇の誕生日だったこともあって、今と異なる名称がつけられていました。いずれにしても秋が深まったこの日を、文化的なことをやる一日として過ごすことに意義があると思い、私は創作活動に励むことにしました。と言っても私には陶彫制作しか選択肢がなく、18点目の陶彫成形に励んでいました。新しい陶彫成形が出来上がるたびに、まだ彫り込み加飾を後回しにしている陶彫部品が目立ち、彫り込み加飾をいつやろうか思案しています。彫り込み加飾は工芸的な作業で時間がかかるのです。今日の午後は乾燥している陶彫部品に仕上げと化粧掛けを施し、窯に入れました。今年の窯入れも先日から堰を切ったように始めていて、今も乾燥している作品を全て窯に入れてみたい欲求に駆られます。とりあえず大きな陶彫部品を3点仕上げて、窯入れの準備をしましたが、窯には2点しか入れられず、残りの1点は次回に回します。今日の作業中はずっと身体がだるく、最近疲労が溜まっているのかなぁと思いました。夕方リビングにあるマッサージ機に暫しかかっていました。このところ夜は映画館や美術館に出かけていて、鑑賞内容が消化しきれてないのかもしれません。ウィークディの仕事も神経を使うものが多く、心身とも余裕がなくなっているのでしょうか。やる気が空回りしている可能性があり、ちょっと立ち止まってみようと思います。昼間の仕事で言えば、あと5ヶ月は責任職にいるわけで、何年やっていても慣れないところがあると私は自覚しています。創作活動も自分の癖で全力投球をしてしまうため、これも慣れるものではありません。圧迫される壁を乗り越えていく日常、これが疲労の原因です。自重しないとまずいかなぁと思いつつ、焦らず休まずのペースでやっていく所存です。

11月の制作目標

今月の制作目標を考えてみました。今月は昨日の日曜日を含めると5回週末があります。加えて明日の文化の日(火)、23日の勤労感謝の日(月)が休日になっていて、創作活動が可能な日は多いのではないかと思っています。今月も先月に続いて週末は陶彫制作一本に絞っていこうかなぁと思っています。現在進めている新作にはかなりの数量の陶彫部品が必要なため、制作工程で乾燥に要する時間が必要な陶彫を先に進めていくのがベストだろうと考えます。制作サイクルで言えば、週末ごとに陶彫部品4点は最低でも作れますが、どうもそれだけでは間に合わなくなる可能性があり、ちょっと無理をしていかざるを得ません。先月からウィークディの夜も制作していますが、昼間の仕事との兼ね合いでこればかりはどうなることか分かりません。来年度人事を始めている今月は心身ともに疲れる時期だから休息も必要かもしれません。休息には鑑賞を充てていくことを考えています。美術館や映画館などに出かけて行く鑑賞行為は、制作と鑑賞が両輪としての創作活動と考えると、決して休息にならないと思いますが、一日をのんびり過ごすことがない私には、鑑賞するために東京などに足を運ぶこと自体が楽しみの一つであり、休息なのです。RECORDは下書きの山積みがなくなり、日々一日1点制作に流れを戻したことを契機に、このままこれを続けていこうと思っています。RECORDは一年1回の撮影があるため、この時期は比較的良好な流れになるのですが、夜の自宅での制作はその日の疲労度により左右されることが多く、また山積みが始まらないとは限りません。毎年この時期にRECORD制作の決意表明をしているにも関わらず、辛い結果になっているのですが、今回も懲りることなく一日1点制作の決意表明をしたいと思います。このNOTE(ブログ)も同じです。NOTE(ブログ)は自らの思考を深めるのに役立ち、また記録にもなっているので、これも継続したいと思っています。私の座右の銘は「焦らず休まず」であり、「継続は力なり」ですが、もう一度肝に銘じていきたいと思います。読書は現在も日系アメリカ人彫刻家のエッセイや現象学者が著した論理学に関する書籍に挑んでいます。これも創作活動に通じるものとして私は捉えていて、彫刻の在り方を考えていく上で必要と思っているのです。

週末 秋が深まる11月に…

今日から11月になりました。秋が深まり、朝晩は肌寒い日々が続いています。朝早くから工房に篭り、17点目の陶彫成形に挑んでいました。昼を少々回ったところで成形が終わり、彫り込み加飾は次回にすることにしました。以前作った陶彫部品で乾燥しているものがあり、窯入れのために仕上げを施しました。今日窯に入れてしまうと、電気の関係で明後日の文化の日に工房での制作が出来なくなるため、今日はそのままにして工房を後にしました。朝から陶土を扱っていると我を忘れます。土には人を素朴な状態にしてしまう不思議なパワーがあるのではないかと思います。日常の雑多な考え事は一切忘れ、もの作りの根源的な感情が沸き起こってくるのです。太古の昔から人は土を捏ねて、それを焼いて生活の道具にしてきました。私は道具ではなく、創作活動として土に寄り添ってきました。週末になると、私は原始的なパワーに取り憑かれて、非日常の世界に入っていくのだろうと思っています。夕方、家内を誘って東京町田市にある町田市立国際版画美術館に車で出かけました。そこで開催している「西洋の木版画」展と若林奮先生の版画展を見に行ったのでした。若林先生は私の学生時代、共通彫塑研究室におられましたが、本科にいた私は若林先生の指導は受けることができませんでした。それでも若林先生の世界観が知りたくて、先生の展覧会には足繁く通いました。「西洋の木版画」展では、同じく学生時代に交流していただいた木口木版画家の日和崎尊夫氏の作品が展示されていました。日和崎氏は大学の教壇に立っていられたわけではなく、ひょんなところで知り合って、何度か自宅兼工房にもお邪魔して、一緒に登山をした記憶があります。日和崎氏は50代で早世されてしまい、当時の懐かしさが込み上げてきましたが、作品を再確認してその素晴らしさに改めて敬意を表しました。「西洋の木版画」展と若林奮版画展の詳しい感想は後日改めます。昨日の映画といい、今日の展覧会といい、今週末は鑑賞が充実し、盛りだくさんの2日間でした。今月の制作目標は改めて稿を起こします。

週末 10月を振り返って…

週末になりました。今週はウィークディの夜に工房に通っていたおかげで、彫り込み加飾が進みました。いつものように今日の作業としては土練りを行い、大きなタタラを複数枚準備しました。それらを使って明日は成形を行います。制作の後、夜になって家内と映画を観に川崎市まで出かけました。チェコ・スロヴァキア・ウクライナ合作による「異端の鳥」が新聞記事で紹介され、是非観たいと思っていたのでした。この作品は、どの映画館でも上映しているものではなく、上映館が限られていたので、川崎駅前にあるTOHOシネマズに行きました。先日観に行った「鬼滅の刃 無限列車編」とは違い、「異端の鳥」は観客も少なく、しかも一日1回の上映なので、夕食後の遅い時間帯に関わらず、車で出かけました。評価が分かれる映画という新聞記事に納得できる内容で、詳しい感想は後日に改めたいと思います。今日は10月最後の日なので、今月の創作活動の振り返りをしてみたいと思います。4回の週末を全て陶彫制作に充てていたため、現在16点の陶彫部品が立ち上がっています。そのうち大小5点の焼成が終わっています。ということで窯入れは今月から開始しました。栃木県益子から陶土が800キロ届き、陶土の補充も出来ました。陶彫制作においては順序良く進んでいて、今月は充実していたと言ってよいと思います。一日1点ずつ制作しているRECORDは、18日(日)にカメラマンが来て撮影を行いました。それに間に合わせるために下書きの山積みを解消しました。RECORDは先月あたりから夢中で制作に励んでいたので、何とか日々の流れに追いつき、通常の制作サイクルに戻しました。RECORDも充実していたと言えるでしょう。鑑賞は自分にとって身近な彫刻関係の展覧会に足を運びました。「脇谷徹ー素描ということ」展(武蔵野美術大学美術館)では刺激をもらいました。彫刻を始めた頃に記憶が戻り、彫塑に悩んでいた時代から自分はどのくらい成長があったのか、私は今も自分自身のキャリアを感じることができず、自分を戒める展覧会だったと感じました。コロナ渦の中で自粛していた映画は、今月になって久しぶりに行きました。「鬼滅の刃 無限列車編」(TOHOシネマズ鴨居)で話題沸騰中のアニメ劇場版を観てきました。今日観に行った「異端の鳥」(TOHOシネマズ川崎)は、その真逆にある映画で、一般受けはしないけれども、私のとって印象に残る映画となりました。やはり映画は面白いと再認識しました。読書は日系アメリカ人彫刻家のエッセイと論理学に関する書籍を読んでいて、来月も引き続き読んでいきます。芸術の秋はまだまだ続きます。来月は今月以上に充実させたいと願っています。

帰宅後の工房通いについて

創作活動を行う上で、公務員との二足の草鞋生活で厳しい面は、何といっても時間確保です。週末だけではイメージ通りの作品が生まれず、作業の時間をどこで確保するのか、常に考えてきました。30年もこんな生活をしていれば慣れそうなものですが、温度や湿度に左右される気候であったり、その時の気分であったり、昼間の仕事の疲労の度合いであったりして、ウィークディの夜に工房に通うのを躊躇してしまうのです。おまけに夜はRECORDの制作やNOTE(ブログ)の作成があるので、仕事から帰ってから、工房に行こうかやめようか、日々迷っています。私の二足の草鞋生活も来年3月末までで、その後は創作活動における作業の方向転換があります。それまでは出来る限り何とかウィークディの夜に工房に通っていこうと思っています。今週はよく工房に行っていました。今日も工房から帰ってきたところです。工房にいる時間はせいぜい1時間程度ですが、それでも作業は確実に進みます。蛍光灯に照らされた陶彫部品は、彫り込み加飾をするのにちょうど良い状態で、しっかり集中できます。工芸的な作業は夜の方が向いているのではないかと思うところです。現在、昼間の仕事は来年度人事を見据えた面接や書類等で悩ましい状況が続いていますが、陶彫制作に向き合っていると、たとえ1時間でも全てが忘れられ、創造の神が別世界に自分を運んでくれます。作業をすれば心地よい瞬間が訪れるのですが、工房に行くまでの心の葛藤が何とも微妙です。季節の変わり目で心身とも休息を必要としているのかなぁとか、いやこの季節だからこそ快適に制作ができるのではないかとか、自宅に帰りつく前についつい考えてしまうのです。帰宅後の工房通いは来年3月までなので、これも楽しみのひとつと考えればいいのだと自分に言い聞かせています。

「演繹的諸体系の理論と多様体論」第33~第36節について

「形式論理学と超越論的論理学」(エトムント・フッサール著 立松弘孝訳 みすず書房)の小節のまとめを行います。本書の本論は初めに第一篇「客観的な形式論理学の諸構造と範囲」があって、その中の第3章として「演繹的諸体系の理論と多様体論」があり、今日はその第33節から第36節までのまとめを行います。「演繹的諸体系の理論と多様体論」はこの第36節をもって終了になります。相変わらず難解な文脈を繰り返し読んで、これが主訴になりそうだと思える箇所に私はラインをつけています。それだけを書き出しても意味が通らないと思いますが、自分なりの重要箇所をチェックしたいので、そうさせていただきました。まず形式数学におけるゲームについて書かれた箇所に注目しました。「人がゲームの各シンボルを、実際の思惟の諸対象や各個物や各集合や各多様体を示す記号と見なし、そしてゲームの諸規則に、それらの多様体にとっての法則の諸形式という意味を与える場合に初めて、実際の多様体論になるのである。」続いて「すなわち普遍的な多様体論は独自の自由な仕方で公理の諸形式や、総じて一般に、前提されて妥当する諸命題の諸形式によって、そのつどの多様体の形式を定義し、そのうえさらに判断の形式論の中に体系的に登場する諸命題の基本的諸形式と、それらの形式に内包されている論理学的な諸範疇の、それらすべてを自由に処理し、しかもそのことが何を意味するかを最終的に自覚していなければならない。」とありました。最後に問題提起があった箇所を書き出します。「一般にどの学問も〈偶然に寄せ集められた諸真理の多様体でなく、むしろ互いに結合され、しかも必ず統一された同一分野に関係する諸真理の多様体〉である。一つの学問の無限に継続する諸命題の全体が〈論理的ー定言的な諸概念によって、有限数の純粋な公理形式に基づいてアプリオリに構築されるのはいつであろう?一つの理論形式を確定する一群の公理形式が確定していて、分野の形式が一つの《数学的》もしくは一つの《確定》多様体であるのはいつであろう?〉もしこの条件が満たされていれば、その形式は一つの《演繹的》すなわち《理論的に説明する》学問の体系形式である。」今回はここまでにします。

「Ⅳ 日本について」のまとめ

「イサム・ノグチ エッセイ」(イサム・ノグチ著 北代美和子訳 みすず書房)の「Ⅳ 日本について」のまとめを行います。日系アメリカ人の彫刻家であるノグチは日本との関係も深く、海外の視点で日本を論じていることが多々あります。「たとえばぼくらアメリカ人の活力と想像力、ぼくらの効率性とやる気に対する羨望。このすべてを日本人は身につけたがっていた。強くなり、よく食べ、この活力をもちたがっていた。ぼくはそれとなく言ってみた。モダンであるとはぼくらをコピーすることではなく、強さと発想とを自分自身のルーツに求め、自分自身であることを意味するのだと。」またノグチ自身についてもこんなことを語っています。「ぼくの発展の特徴はなにかと尋ねられるとすれば、それは子ども時代以来ほとんど忘れかけていた身近な自然の再発見だと思う。自然をこんな形で知ることはだれの子ども時代にもあるだろう。それでも大人として自然をふたたび知るため、自分の手を自然の泥のなかで疲れさせるためには、人は陶芸家あるいは彫刻家でなければならず、それも日本においてでなければならない。」ノグチの代表的な作品に《あかり》があります。その出会いを語った箇所がありました。「岐阜のランタンが生き残ったのはなぜか。少なくともひとつには、今日ほとんどのランタンに付与されている装飾的使用がある。しかしそのほかにも伝統と気質という理由があり、それゆえに岐阜提灯(ランタン)は尊重されているのである。このことはその品質と関係がある。すなわち薄い紙、竹ひごのほっそりした螺旋が他にならぶものなき光と優美さとに貢献する。岐阜提灯は儚いものーたとえば桜の花、たとえば生ーに対する日本人独特の嗜好に訴えかける。」これを現代彫刻として捉え、作品化したのはノグチが初めてであったわけですが、ヴェネチア・ビエンナーレでは欧米からこれをプロダクト・デザインとして解釈されてしまい、ノグチにとって不本意な結果になってしまったこともありました。しかし、ノグチは日本の伝統について斬新な発想を持ち込んだことは事実です。

「Ⅲ 劇場とダンスについて」のまとめ

「イサム・ノグチ エッセイ」(イサム・ノグチ著 北代美和子訳 みすず書房)の「Ⅲ 劇場とダンスについて」のまとめを行います。ノグチの幅広い表現分野の中で、ノグチの空間解釈を具現化した極めて重要な方法が舞台美術でした。舞踏家マーサ・グレアムの舞台装置は、画期的で特筆に値するものでした。舞踏だけでなく演劇にもそうしたノグチの考え方が表れていました。「真空は存在しえないという単純な理由から真空が回答ではないのは明白である。劇のニュアンスすべてを明確にするほどに、論理としてはきわめて透明ななにかがそこになければならない。ある意味で、このなにかは裸の舞台よりもなおいっそう大きな空隙を創出することによって、無そのものよりもなおいっそう無でなければならない。それは空間を期待という一種の魔法で満たさなければならないのである。」舞台に対する空間解釈は無から始まるとノグチは主張していて、続くマーサ・グレアムとのコラボレーションに関するインタビューでも同じことが述べられていました。「思うに、ぼくらは感情がチャージされた空間をもつダンス・シアターを見つけなければならなかった。その空間とはもちろん彫刻だ。空間の彫刻だ。マーサはその彫刻的空間のなかを動きまわる。マーサの関心が絵画よりも空間にあったと言うのは正しい。絵画とは実体の模倣だ。彫刻は実体そのものだ。ぼくは彫刻を空間に広がり、それを満たすものと考えている。」ノグチにとって舞台美術は空間彫刻として存在していたと考えていたようで、所謂舞台背景として絵画的に描かれた舞台装置ではなかったのでした。私も学生時代、それはまだノグチの考え方を知る前だったのですが、舞台装置として彫刻が観客に提示できたらいいなぁと考えていた時期がありました。当時はアンダーグランド劇が盛り上がりを見せていた頃で、前衛劇に魅せられていた私は、演じられる心理的なドラマに象徴的な形態を加えたら、さらに深淵な表現世界が出現するのではないかと夢想していました。「Ⅲ 劇場とダンスについて」はまさにその具体が示されていて、私は感じ入ってしまいました。

映画「鬼滅の刃 無限列車編」雑感

現在、人気沸騰中のアニメ映画の劇場版を、横浜市都筑区鴨居にあるTOHOシネマズへ行って観てきました。レイトショーだったにも関わらず、座席の確保が難しい状況で、この盛り上がりはいったい何なのか、自分でも不思議に思えました。観終わった後、家内が「この映画の熱量が凄いね」と感想を漏らしていて、確かに息も切らさぬ面白いストーリー展開があると私も感じました。コロナ渦の中で、クラスターが起こるのではないかという心配もありましたが、映画館側も細心な注意を払っているらしく、ともかく映画の内容に集中できました。「鬼滅の刃」が面白いというのは工房に出入りしている若いスタッフから随分前に聞いていました。私はテレビのケーブルヴィジョンで放映されていたアニメを観て、その世界観を理解していました。まずこの背景を知らなければ、映画を観ても謎の多い物語に終始してしまうだろうと思います。「鬼滅の刃」は、大正時代に家族を鬼に殺され、唯一生き残った妹も鬼にされた少年が、妹を人間に戻すべく鬼を退治する剣士になっていく物語です。主人公の人間的な成長もあって、随所に教育的な台詞も散りばめられていたり、元々人間だった鬼が死滅していく度に、主人公が優しい心遣いをしていくところが単なる残酷な鬼退治の物語と違うところだと思っています。今回、家内や私が面白いと思ったところが、映画に登場する無意識領域にある核という存在で、それを登場人物によって再現していた場面には頷かされました。私はこうした心理学的な箇所が大好きで、映画に不思議な輪郭を与えていると思っています。この映画には炎柱を担うもう一人の主人公がいて、私は炎の表現に注目していました。図録によると慶応4年の「鳥羽伏見の戦い」の錦絵を参考にしているようで、炎の描き分けが美しく、また色彩のバリエーションも見事でした。3Dと作画を織り交ぜて作った緻密な画面は、その統合作業に大変な苦労があったのかなぁと思い、スタッフたちの並々ならぬ努力が結集した映画であることは疑う余地がありません。日本が世界に誇るサブカルチャーであるアニメは、国内に質量ともに優れた作品が多く、「鬼滅の刃 無限列車編」も宮崎駿監督や新海誠監督の作品に並ぶ日本の代表作品と言えるのではないかと思った次第です。

週末 新作の窯入れ始まる

例年なら11月を目安に窯入れを開始していますが、今年はやや早く10月後半から始めることにしました。幾度となくNOTE(ブログ)に書いてきましたが、陶を素材にした造形で一番重要で、細やかな神経を使い、また何度経験しても難しく、また抜群に面白い工程が最後の焼成になります。制作工程での焼成に至るまでの過程は、土練りをして大きなタタラを作り、それを暫し固めたところで成形を行い、そこに彫り込み加飾を施し、数週間にわたって乾燥させます。さらに表面をヤスリがけし、指跡を削り取り、化粧掛けを施して、漸く窯入れに辿り着くのです。窯に入れて焼成が始まりますが、そこで失敗すると今までの制作工程が全て水泡と化し、私は心底落ち込みます。しかしながら若い頃に比べて今は打たれ強くなっているせいか、立ち直りも早くやってきてくれます。つまり窯入れは私にとって最重要な最終工程で、このために今までの作業があったと言っても過言ではありません。また窯入れは人の手が及ばない神聖な行為とも言え、窯の中の高温変化によって陶土が石化するわけですが、そこには炎神が棲んでいるようにも思えて、窯に蓋をすると手を合わせたい思いに駆られます。年の初めに窯に正月飾りを置くのも、その年の安全を炎神に祈願するものと私は思っています。確かに陶土は窯の中で別の質感になって戻ってくるので、炎神に鍛えられ、陶土は鎧を纏って火炎の旅から堂々帰還してくるように、私はイメージしています。これがあるからこそ陶彫はやめられないと思う瞬間でもあるのです。ただし、私の場合は公務員との二足の草鞋生活のために窯にずっと付き添うことができず、処理の簡単な電気窯を入れています。本来焼成の醍醐味は薪を炊く登り窯にあることは充分承知しています。窯内の場所によって陶の焼き具合が変わり、釉薬との関係で不思議な風景が陶土に現れるのです。それに比べて電気窯は均一に焼けるため、面白味に欠けるところがありますが、それでも窯内の変化に私は喜びを見出しているのです。今日は窯入れ前に小さな陶彫成形を2点行ないました。15点目と16点目の陶彫成形です。彫り込み加飾は次回に回します。今日もいつものように美大受験生が来ていました。夕方、彼女を家の近くまで車で送ってきました。

週末 益子から陶土が届いた日

週末になりました。今日はいつも通り朝から工房に籠って制作三昧の一日でした。陶土を掌で叩いて座布団大のタタラを数枚作り、明日の陶彫成形に備えました。それから彫り込み加飾を行いました。一日の制作時間としては、この彫り込み加飾にほとんど費やし、制作サイクルとしては順調に進んでいました。唯一問題なのは倉庫に貯蔵していた陶土がなくなってきたことで、例年この時期に栃木県益子から陶土を運搬してもらっています。先日、益子にある明智鉱業に電話をして、注文用のファックスを送りました。私は複数の種類の陶土を、割合を決めて土錬機で混ぜ合わせ、自分なりの陶土を作っています。それら複数の陶土を全部含めると毎年購入する陶土の全重量は800キロになります。20キロずつビニールで梱包されている陶土を40個、運送業者が運んでくるのです。時間としては午前中を指定していて、今日は11時頃に工房にやってきました。倉庫側のガレージを開けて、業者と私が陶土を工房内に運び入れました。これで1年間は陶土が事足りる状態になり、私は新作の制作に拍車をかけられるのです。陶で彫刻を作ろうと思っていた時代、ちょうど滞欧生活から日本に帰ってきた頃に、茨城県笠間に住んでいた陶芸家の友人と連れ立って、栃木県益子にある明智鉱業に行きました。当時はさまざまな産地の陶土を買ってきては、手で混ぜ合わせ、テストピースを作っていました。今では使わない釉薬も試していました。気に入った風合の陶土が出来ても陶彫部品の大きさに耐えられず罅割れが生じたり、また割合を変えてみると、イメージ通りでなかったりして、実験を何度も繰り返していました。当時の作品は立体ではなく、レリーフ状にしたものが多く、立体として立ち上げることへの不安がありました。それでも陶を素材に作品化できる喜びが私にはありました。そんな試行錯誤の中で「発掘~鳥瞰~」が生まれました。「発掘~鳥瞰~」は、まだ完全な立体ではなく、部品は全てレリーフですが、屏風に仕立てることでイメージ通りの作品ができたことが今でも思い出されます。あれから20年以上が経っても、明智鉱業から陶土を運搬してもらっているのです。夕方まで作業していて、今日のノルマを果たした私は工房を後にしました。夜になり、家内と最近話題になっているアニメ映画に話題が及び、レイトショーならまだ座席が取れるのではないかと思いたち、車で鴨居にあるTOHOシネマズに出かけました。ネット予約の方法もあったのですが、コロナ渦の中の映画館の状況が知りたくて、ともかく出かけてみたのでした。果たして映画館はそれなりの混雑がありましたが、思っていたほどの状況ではなく、その社会現象にもなっているアニメ映画を観てきました。詳しい感想は後日に回しますが、帰りは深夜になりました。車でなければ帰ってこれない時間帯なのに、これだけの人が入っている映画を私は今まで知りませんでした。

「演繹的諸体系の理論と多様体論」第30~第32節について

「形式論理学と超越論的論理学」(エトムント・フッサール著 立松弘孝訳 みすず書房)の小節のまとめを行います。本書の本論は初めに第一篇「客観的な形式論理学の諸構造と範囲」があって、その中の第3章として「演繹的諸体系の理論と多様体論」があり、今日はその第30節から第32節までのまとめを行います。前回から登場している多様体論に関しての節ですが、じっくり読み込んで、ここが著者の主訴と思える箇所に線を引き、それを書き出しています。しかしながら前後の脈絡がないため、文章として見ると難解を極めてしまっているのですが、それをご容赦願って今回も引用をさせていただきます。「私には数学をつねに内面的に導いているように思えたこの概念(確定多様体の概念)の隠れた起源は次のようなことである。ユークリッドの理想が実現されたと考えれば、諸公理の非還元的〔あるいは既約的〕な有限の体系から純粋に三段論法的な演繹によって(したがって論理的には下位段階の諸原理によって)空間幾何学の無限な体系全体が推論されて、空間のアプリオリな本質が理論的に完全に開示されるであろう。」数学者たちの研究から見えてきたことを、著者はこのように論じています。さらに多様体の本来の意味からこんなことも導き出しています。「もともと多様体とは無限な対象領野の形式理念のことであり、この領野にとっては一つの理論的説明の統一が、あるいは同じことだが一個の法則論的な学の統一があるのである。《理論的に説明可能な領野》(演繹的な学問の領野)という形式理念と《確定的な公理体系》とは同値である。」多様体論の最高の理念として「〈可能な理論形式のすべてと可能な多様体形式のすべてを、数学的な特殊例として派生し、さらにそれらを包摂するような、一つの最高の理論を求めて努力すべし〉という普遍的な課題の理念が生じることになる。」と結んでいます。

「演繹的諸体系の理論と多様体論」第28~第29節について

「形式論理学と超越論的論理学」(エトムント・フッサール著 立松弘孝訳 みすず書房)の小節のまとめを行います。本書の本論は初めに第一篇「客観的な形式論理学の諸構造と範囲」があって、その中の第3章として「演繹的諸体系の理論と多様体論」があり、今日はその第28節から第29節までのまとめを行います。今日から第3章になり、論理的な思考でよく使われる演繹という語彙が登場しました。演繹とは普遍的前提から導き出される個別的で特殊な結論を得る論理的推論のことで、演繹法に加えて帰納法もワンセットで使用することが多いように思います。相変わらず難解な文章を繰り返し読みながら、気になった箇所を引用いたします。「今回ここで主題になるのは、可能な演繹的理論の統一すなわち《厳密な意味での理論》の統一を形成する判断の諸体系全体である。対象全体を表す概念(しかもつねに形式的な一般性で理解される概念)としてここで登場するのは、数学が明解な意味規定をしないまま《多様体》という名称で注目しているものである。」多様体論に関しては次の文章を引用しました。「多様体論の最も一般的な理念は、可能な諸理論(および諸分野)の主要な諸類型を明確に形成して、それら相互の法則的な諸関係を究明する学科だ、ということである。」この学科に関することも次に述べられていました。「ここで問題になる学科の新たな上位概念はそれゆえ一つの演繹的理論の形式あるいは一つの《演繹的体系》の形式であろう。~略~上位概念を細分して、そのような諸理論の可能な諸形式を明白に体系的に整理して提示するが、しかしこの種の多様な理論形式をもそれらより高次の形式一般性の個別形式として理論的に認識し、これら自身をーしかも最高にまさに理論形式一般の、つまり演繹的体系一般の最高の理念をー一つの体系的な理論の中で、その特殊な確定した諸形式で細分することである。」次の章ではユークリッド幾何学が登場します。「法則論的に説明する理論学、例えばーユークリッド自身が直観される世界空間の理論だと理解していたーユークリッドの幾何学が理論形式に還元されることであった。」今回はここまでにします。

図録による「小井土滿展ー鉄水墨」について

東京銀座のギャラリーせいほうでの私の個展の最中に、彫刻家小井土滿氏がひょっこり顔を出し、暫し話をする機会が持てました。小井土氏は長い間武蔵野美術大学工芸工業デザイン学科の教授をされていて、数年前に同大学を退官しました。ギャラリーせいほうでも個展をされていたので、一度お会いしたいと思っていたので、丁度良い機会だったと思いました。鉄を溶接し、また鍛金をして、水墨画のようなタッチを表した小井土氏の空間造形は、空間を切る爽快さと軽さを併せもっています。私は残念なことに退官記念展を見ていなかったので、先日「脇谷徹ー素描ということ」展を見に行った時に、美術館受付で「小井土滿展ー鉄水墨」の図録を購入しました。改めて小井土ワールドに触れると、鉄水墨が生き物のように見えて、不思議な生命力を感じました。図録に作家の寄せた文章が掲載されていました。「湧いたイメージを鉄鍛造で制作すると、具体化にリアリティーが出て来る。心の具象化とも言える。それは自分の中に存在を超えたものが顕在化し、作品を見る人もそれぞれを追体験しながらこんな世界もあると実感することが出来る自分だけの楽しみや面白さがあると思う。私自身も経験したことのなかった世界に連れて行って欲しいものである。鉄鍛造で作られた作品と自分との距離の間に出来る、実空間と違うが感じ取ったものは何なのかゆっくりと味わいたい。水墨画の余白に面白さを感じる幽玄な世界の表現に繋がりうる空間である。受けるイメージの深い印象によりさらなる展開が広がり、未体験の感性を伴っている。目を瞑ってもそのやり取りを感じるのは喜びであり、作品と一体感が出て来て言葉にならない見る人の楽しみでもある。」水墨という発想は、小井土氏のご尊父が日本画家だったことがあり、家庭環境として水墨画が身近な存在であったことが挙げられます。またネパールへ仏像鋳造の研究に赴いたことも鉄水墨の発想の源になっただろうことは想像に難くありません。米彫刻家アレクサンダー・カルダーの床置きの彫刻である「スタビル」を彷彿とさせる鉄水墨ですが、そこは西欧の感覚とは異なり、小井土ワールドには東洋の神秘とも言える情緒と風のような爽快さがあって、日本人としての現代彫刻を示す独自な表現と私は捉えています。

「金属素描」についての雑感

武蔵野美術大学美術館で開催している「脇谷徹ー素描ということ」展の図録に、作者が書いたこんな文章が掲載されています。「私が『素描』という呼称にこだわる理由には、『素描』の『素』という漢字の持つ意味が大いに関係しているようだ。『素』の持つ意味からも、『素描』とは『簡単に描く』あるいは『描くことの素』といった、『単純に描くこと』あるいは『描くことの根源』といった性格を帯びているように感じるのだ。色彩を排し、単色で描く。こう記してみれば『デッサン』と同義語ではあるが、私には単に言葉の意味にとどまらず、自分の目指す方向性、言い換えれば指針をも示しているように思えるのである。つまり『表現はできる限り平易に、そしてシンプルであること』という指針であり、原点への志向なのである。」ここでは素描についての作者の理念が語られていますが、私も学生時代に師匠である池田宗弘先生から、空間に粘土で素描をするように塑造をするのだと教えられました。私自身はそれが巧くいかず、彫刻に向いていないのではないかと悩んでいた時期がありました。それでも空間に対する憧れと素材のもつ力に逆らえない私が、偶然通りかかった共通彫塑研究室で、脇谷徹氏が作った「金属素描」に眼が奪われ、鉄の素材がもつ力強さと鉄片を粘土のように貼り合わせた造形に心底驚いたのでした。「金属素描」は、素描の意味を最初に問いかけた初期の秀作であろうと私は今でも思っています。私は今でも鉄屑で人体のようなものを作っている夢を時折見ますが、20歳そこそこで出会った「金属素描」の印象が今も残っているのではないかと思うのです。それでも私は素材に鉄を選ばず、陶に拘りました。陶によって空間に造形する私は、西欧の地中海の遺跡発掘現場から構築要素をいただき、古代の人の営みを情緒ともとれる造形に心を籠めてきました。それは大きく捉えれば自分が思いを託した自己素描とも言えるのでしょうか。「金属素描」を改めて鑑賞して、何をしても巧くいかなかった自分の苦い過去を振り返り、当時の私は何をしたかったのか、現在の私は造形の方向をどんなふうに見定めているのか、自分自身と対話したような感覚を持ちました。展覧会を見て良かったと思えたひと時でした。

武蔵美の「脇谷徹ー素描ということ」展

先日、東京都小平市にある武蔵野美術大学美術館で開催している「脇谷徹ー素描ということ」展に行ってきました。彫刻家脇谷徹氏は私が彫刻を学び始めた頃、共通彫塑研究室で助手をやっていた人でした。出品作品は彫刻50点、絵画や素描150点という大がかりなもので、長く武蔵野美術大学で教壇に立っていられた氏の退官記念展も兼ねていました。私は学生時代に氏の「金属素描」という作品をたまたま見て衝撃を受けたことを思い出し、この彫刻家がどんな歩みをしてきたのか興味を持ちました。立体や平面に限らず氏は素描に対して確固たる理念をもち、只管追求してきた姿勢が感じ取れて、私自身感動を覚えました。「金属素描」については稿を改めたいと思います。共通彫塑研究室には保田春彦先生や若林奮先生がいて、氏は彼らから影響を受けていたのだろうと推察されましたが、図録に信州の「無言館」館主である窪寺誠一郎氏がこんな文を寄せていました。「脇谷徹が師と仰いでいた彫刻家の一人に、やはりストイックな信仰的形態の確立により高い評価を得た故・保田春彦氏がいるが、脇谷のもつストイシズムは保田春彦のそれとはかなりちがう。保田が長いヨーロッパ遊学から摂取した『信仰的』な匂いをもつ造形に取り組んだのにくらべ、脇谷徹はどちらかといえば純日本的、アルチザン的な制作法をえらんだ。それは彫刻家の姿勢の違いというよりも、脇谷はてんから師春彦のもつような詩情、ノスタルジイをうけつけない体質があったのだろう。保田氏が晩年手がけた亡妻シルヴイアに捧げる古代都市の建物をモチイフにした作品とも、脇谷は一定距離を保ち、師よりも何倍も自らの内的心象風景のほうを大事にしているように思える。脇谷徹には、師から学んだ静謐にして正鵠な造形理念を追いかけつつも、そこに絶対断固とした『自己』の内省をこめ、過去、現在、未来の『自己』のあるべき姿を封じこめることに専念する態度がみられるのである。」(窪寺誠一郎著)この文章にあった師弟の彫刻家の世界観を比較したところが私には面白くて、展覧会の印象を辿りながら、脇谷徹氏が求めたこと、これからも求め続けていくことを噛みしめながら、私自身もまた師弟の2人とは違う自らの世界観を問うことをしていました。

週末 RECORD撮影日

毎年この時期に1年間分のRECORDを撮影しています。ホームページにアップするためですが、一日1点ずつ制作していく小さな平面作品であるRECORDは、その条件が厳しくて、その日に完成しないことも多く、それを挽回して今までも10月の撮影に間に合わせることをやってきていました。RECORDは職場から帰った夜に食卓で制作しています。下書きを描いて彩色し、ペン等で仕上げるのが通常ですが、デザインによってはその制作方法はさまざまです。小さな作品ですが、私の性格もあって気軽に作ることができず、つい完成度を求めてしまいます。タブローとはいかないまでも、軽いスケッチのような作品は1枚もありません。どこかで発想を変えようとしているのですが、イメージそのものが表現の追及を視野に入れているので、つい重くなってしまう傾向があります。今日はいつも来ている美大受験生たちが朝9時半に工房にやって来て、それぞれの課題を始めました。朝10時に懇意にしているカメラマン2人が工房にやってきて、撮影の準備を始めました。工房としては千客万来といったところでしょうか。私も含めて蜜にならずに、それぞれの場所に分かれて作業に入りました。カメラマンの方に眼をやると、昨年の10月からのRECORDを撮影していて、あの頃はこんなことを思っていたっけ、あの1ヶ月はこうだったという思いが去来します。今年の3月からは自宅のリフォーム工事に入っていて、いつも制作している食卓が使えず、職場の休憩時間や居間を使って下書きばかりをやっていました。それが徐々に山積みになっていき、過去の作品を1点ずつ仕上げていくのに大変なパワーを使いました。先月の夜は深夜までRECORDをやっていました。今日は私は14点目の陶彫成形をやっていましたが、10年以上も毎日作っているRECORDは、彫刻に匹敵する表現手段になっていると感じます。このNOTE(ブログ)もそうですが、私は日々積み重ねていく行為が好きなんだなぁと思っています。焦らず休まずというのが私の座右の銘で、私なりの人生の歩み方なのだろうと思います。

週末 土練り&美術館散策

週末になりました。週末になると私は職場の仕事を一時忘れ、創作活動に邁進します。心が解放される瞬間がやってくるのです。今日は武蔵野美術大学美術館で開催されている「脇谷徹ー素描ということ」展に行こうと前から決めていました。武蔵野美術大学美術館は東京都小平市にあるので、横浜から車を使っても2時間くらいはかかる遠距離にありますが、同展で私がどうしても見たい作品があったため、時間を割きました。私が彫刻を学んでいた40年以上前に、脇谷徹氏は共通彫塑研究室で助手を勤めておりました。私は本学で池田宗弘先生に懇意な指導を受けながら、保田春彦先生や若林奮先生がおられた共通彫塑研究室に興味津々で、度々外から研究室内を覗いていました。そこに脇谷徹氏の作った「金属素描」があり、鉄片を塑造したその造形に心が奪われたのでした。もう一度あの作品が見たいと思う一途な気持ちから車を小平市まで走らせました。今日は家内が付き添ってくれました。家内は空間演出デザイン(当時は芸能デザイン)を学んでいるため、こうした展覧会には独自の感想を持っていて、とくに全体を俯瞰した際に発する意見には鋭い洞察があったりして、私には最良の相棒とも言えます。「この人の素描を見ていると、形態の立体的追求が激しくあって、平面だと描画材料で真っ黒になってしまう。大学では油絵を学んだようだけど、これは彫刻に向いている。彫刻でないと進む方向が迷ってしまうのではないか。」と家内が言っていました。私も然り、数多くのデッサンが展示されていましたが、どれも平面的なものはなく、ハッチングの線は全て立体としての捉えがありました。「脇谷徹ー素描ということ」展の詳しい感想は後日に改めます。今日は美術館散策があったとしても自らの創作活動を止めるわけにもいかず、朝6時に工房に出かけ、土練りとタタラを数枚準備してきました。早朝制作は時々やっていますが、ウィークディには気分的な面で、これは出来ません。制作の後のスケジュールが美術館散策となれば、創作活動への意欲が湧きあがって早い起床も苦にならないのです。 土練り&美術館散策で今日は充実した一日を過ごしました。