週末 3個目の陶彫成形

今日も相変わらず暑い工房でしたが、昨日準備したタタラを使って、3個目の陶彫成形に励みました。暑さに慣れてきたとは言え、額から汗が滴り落ち、シャツはびっしょりになりました。どこまで作業を続けるか考えた挙句、昼過ぎに近隣のスポーツ施設に行って水泳をすることで作業を終えようと思いました。彫り込み加飾は別日に設定することにして、今日は成形が終われば作業終了としたのでした。新作は彫り込み加飾に特徴があって、角張った箇所がないように作っています。ところどころに穿つ穴も大きくならず、彫り込んだ文様の中に同化するようにしています。先月の個展で発表した「発掘~曲景~」が新作のヒントになりました。その時の彫り込み加飾を全体に広げてみようと思ったのでした。新作は屏風と床置きの双方の空間を使う大きな作品です。その全てに同じようなパターンの彫り込み加飾を施す予定でいます。屏風に使用する厚板も同じようなパターンを彫っていきます。集合住宅のように見えるか、またはそんな住居が廃墟になったように見えるか、ともかく都市化された情景を、私は陶彫と木彫で表現しようとしているのです。今日作った3個目の陶彫成形は床置きの一部になります。これは4個でひとつのステーションを形成します。そのステーションを2ブロック作る予定です。まだまだ先が長いのですが、コツコツ作るのが私の得意とする方法なので、焦らず休まず頑張っていこうと思っています。今月中には4個で構成するステーションが出来るかなぁと期待しています。同時に厚板を6枚購入して、屏風の下書きを進めたいとも思っています。あれもこれも欲張ると気持ちが上滑りして心を込めた作品が出来ません。じっくりやっていく姿勢は崩さずにいこうと思っています。ただし、この時期のイメージ先行は、新作導入としては良い傾向です。暑さ対策で自分の創作欲求を抑えながら、ゴールを見極めていきたいと思っているのです。

週末 陶彫制作&地域会合

週末になりました。TV報道で気温が体温並みに上昇すると知って、工房に行こうかどうしようか躊躇していました。今日は職場のある地域で、昼ごろに公会堂を使って会合を持つため、工房での制作は午前中の早い時間帯にやることにしました。朝8時に工房に行ったら、窓から風が入ってきて、いつものように蒸し暑く感じることはありませんでした。陶土の塊を掌で叩いて、座布団大のタタラを5枚作りました。明日はこれを使って陶彫成形に入ります。新作の大きな陶彫部品の3個目に取り掛かるつもりです。地域に出かける直前まで作業をしていたら、いつものように汗だくになって自宅に戻りました。シャワーを浴びて着替えをしました。休日でも地域会合が予定されていて、職務的な立場として私は出勤していきます。予め分かっている会合なら、陶彫制作を調整していくのですが、長く集中することは出来ないため、それなりの制作工程を組んでいきます。成形をするための準備であれば、午前中だけで終わらせることが出来ると判断しました。実は明日も地域会合があるのですが、明日は夕方から予定されているので、長く成形に携わることが出来ると思っています。陶彫制作にはさまざまな工程があり、どれも長い時間を必要とするものではありません。陶土の乾燥具合によって、一日置いた方が良い場合があります。それを計算して休日出勤に合わせていくのです。それは出勤だけではなく、工房の気温上昇との兼ね合いもあります。危険な温度に達するようであれば、それを考慮して制作工程に組み込みます。陶彫制作は一気呵成に出来ない辛さはありますが、仕事や環境要因によって工程を分けていくことが可能なのです。今日は地域会合から帰ってきたら、日頃の疲れが出ていたため、休息を取ることにしました。自分の性分だろうと思いますが、夏季休暇を取得してもゆっくり休むことはせず、鑑賞と制作に明け暮れる生活が続いています。のんびり過ごすことが苦手なのかもしれません。その分、一日のうちで休憩を取る時間を設けています。まだお盆の時期なので、仕事に追われることがありません。明日も創作活動に精を出してしまいそうですが、休憩時間は取りたいと考えています。

上野の「三国志」展

東京上野の国立博物館で中国の歴史を扱った「三国志」展が開催されています。中国史に疎い私でも日本の漫画や人形劇になった三国志は知っていましたが、リアルな部分はよくわからず、この際きちんと調べてみようと先日、この企画展に行ってみました。三国志に登場する魏・蜀・呉の三国争覇の時代は、184年の黄巾の乱から280年の西晋王朝による統一までの僅か百年ほどの群雄割拠の時代だったことを知り、この時に有名な「孫子兵法」などが作られ、武器の開発も活発だったこともあって、現代からすれば魅力的でダイナミックな時代だったと言えそうです。図録には「三国志には多彩な人物が登場し、さまざまな局面に対応しながら時代を生き抜くさまが活写されている。人間味あふれる三国志の物語は、根源的に若年層の嗜好に応え得る要素を含んでいるのである。」とありました。その多彩な人物を挙げれば「蜀の地で皇帝の座につくことを宣言した劉備は、そのなかで自身は前漢の中山靖王劉勝に連なる家柄であるとした。天下を治めるべきは漢の劉氏であって、魏の曹氏や呉の孫氏には天下を治める道理がないことを表明したのである。」それでも「蜀は魏に滅ぼされ、魏と呉は西晋によって平定された。」という確かな歴史が物語っています。前日した兵法で言えば「孫権の父である孫堅は、戦国時代の孫武を祖とすると史書は記す。『孫子兵法』の作者である。曹操もその注釈をしたことで知られる『孫子兵法』は武将たちの必携の書であった。」(引用は全て市元塁著)三国志は「語り多く物少なし」と言われる時代だそうですが、それでも展示されていたものは貴重で重要な文化財ではないかと思いました。私は三国志に入る前の時代である後漢の墓に副葬品として埋葬された土製彩色による穀倉楼の構造が面白く、こんな高層楼閣が立つほど豊かな土地もあったんだなぁと思いました。邸宅のミニチュアもあって楽しめました。横浜の中華街に「関帝廟」がありますが、関帝とは神格化された関羽のことで、劉備に仕えた英雄として「一万人の兵に匹敵する」と言われたようです。本展にはほぼ等身大と思われる関羽像が出品されていましたが、武将らしく力の漲った像でした。これを契機に中国の歴史を紐解くのも面白いと思いましたが、歴史の厚みやスケールの大きさに圧倒されて、自分の残り僅かな人生を考えると、下手に中国史は齧らない方が良いと思いました。何と言っても三国志の時代は、我が国で言えば弥生時代から古墳時代前期に当たります。四大文明から取り残された島国の人間からすれば、途方もない世界観を持っているわけです。今回の「三国志」展は、その一端を垣間見た程度なのかもしれません。

夏季休暇⑤ 5日間の休暇を振り返る

今日はどこかへ出かけることはしないで、今年の夏季休暇を振り返る一日にしました。7月末に2日間の夏季休暇を取りました。ここでは新潟県魚沼市を訪れて、江戸時代の彫工石川雲蝶のダイナミックな木彫に触れました。「越後のミケランジェロ」と呼ばれた木彫家の作品は、現在も寺院で大切に保管されていました。翌日は「大地の芸術祭」常設作品である清津峡渓谷トンネルに行き、自然の景観を生かした現代アートを堪能して来ました。8月に入って3日間の夏季休暇を取りました。初日は兵庫県姫路に出かけ、世界文化遺産である姫路城を見て歩きました。夕方は大阪にあるあべのハルカス美術館で開催されている「ギュスターヴ・モロー展」に出かけました。翌日は徳島県鳴門市にある大塚国際美術館に行き、陶板による名作の数々を見て回りました。「越後のミケランジェロ」ならぬ本物のミケランジェロの「天地創造」の陶による再現があって、システィーナ礼拝堂を模した環境展示と相俟って、圧倒的な迫力を感じました。昨晩遅くに横浜の自宅に帰ってきましたが、今回の夏季休暇は美術と建築を徹底的に味わい尽くすものだったなぁと振り返っています。陶による名作の数々は、たとえオリジナルでなくても精巧に出来たものであれば、芸術家の息吹を感じさせることを体験してきました。西洋美術史に刻印された作品は、いずれも芸術家が命を削って表現したものばかりで、人間が生きて刻んできた魂を、静かで力強く感じさせるものがありました。一堂に名作を見渡して感じたことは、私たち人間の内面に宿る豊かさだったように思います。石川雲蝶然り、ギュスターヴ・モロー然り、建築で言えば姫路城を作った名もない職人集団然り、清津峡渓谷トンネルにアートを設置した芸術家然りで、それぞれが命懸けで取り組んだモノだったことが後世になって伝わってきています。作者はいなくなっても生きた証として後世に残っていくものが、こうした芸術なのでしょうか。しかも後世の人の心を揺さぶる感動は、何処から湧いてくるのでしょうか。そんなことを考えされられた夏季休暇だったと思いながら、午後になって久しぶりに工房に行きました。私も精魂込めて陶彫制作をやっていますが、手前味噌ながら今まで見てきた名作に負けていないぞと思いました。微力を積み上げていけば、きっと人を惹きつけられるモノができると信じることにしました。今回の夏季休暇では創作意欲だけは人一倍もらえた気がしています。

夏季休暇④ 大塚国際美術館へ

今日は新大阪駅前から出る日帰りバスツアーに参加しました。横浜の自宅からネットで申し込んでいたのでしたが、徳島県鳴門市にある陶板名画を集めた大塚国際美術館を堪能するツアーで、一度行って見たいと思っていたのでした。この美術館を知った契機は、大晦日の紅白歌合戦で米津玄師が中継で歌っていたことで知りました。私ばかりではなく、こうした影響もあったと思われるのが美術館の混雑ぶりで、バスを仕立てて大勢の観光客が訪れていました。展示されている作品の内容は驚くものばかりで、目を見張りました。ただし、これは全て陶板による複製作品でオリジナルではありません。それでも古代壁画から世界26カ国に及ぶ190余りの美術館が所蔵する西洋名画1000余点を原寸大で再現した超絶技巧に感銘を受けました。大塚グループ内の大塚オーミ陶業株式会社の特殊技術を駆使して臨んだ世界最高峰の陶によるテクニックが施され、それだけでも多くの鑑賞者を魅了してやまないだろうと思われます。美術館に入ると最初の部屋にあったのは、巨大なシスティーナ礼拝堂天井画と壁画で、ミケランジェロによる「天地創造」でした。これは環境そのものを展示する臨場感溢れる再現で、その空間と表現に圧倒されました。とりわけ古代遺跡や教会等の壁画が部屋ごとに作られて、どれも空間展示が成されていました。古代から中世になると系統展示に変わり、ボッティチェッリの「ヴィーナスの誕生」やダ・ヴィンチの「最後の晩餐」(修復前と修復後の対面による展示)や「モナ・リザ」、レンブランドの「夜警」やフェルメールの「真珠の耳飾りの少女」を初めとする美術史に残る名作の数々が展示されていました。印象派ではルノアールやゴッホ等、近代ではクリムトやムンク等、現代ではピカソの「ゲルニカ」もありました。昨日見に行った「モロー展」にあった「一角獣」の陶板もあり、オリジナルとの区別がつかない驚きも実際に経験しました。テーマ展示も企画されていて、時代を超えたテーマが贅沢な作品と共に並んでいました。勿論全て陶板なので、触ることも撮影することも可能でした。大塚国際美術館については資料書籍を購入してきたので、改めて別稿を起こします。午前11時に入館し、午後4時まで通算5時間を同館で過ごしましたが、教科書に載っている名画を矢継ぎ早に見せられて、感覚が変になりかけたところで、非現実から現実世界の大阪にバスで戻って来ました。帰り際は台風10号の接近で鳴門海峡は荒れていました。雨風が強くなり始めた頃で、台風に追われるように新大阪から新横浜に新幹線で帰ってきました。自宅に帰ったのは午前零時少し前でしたが、関東は台風の影響が少ないなぁと思いました。

夏季休暇③ 姫路城&大阪の美術館へ

5日間の夏季休暇のうち、先月末に2日間の夏季休暇を取得し、残った3日間を今日から取得します。今日は朝早く東海道新幹線に乗って姫路にやってきました。私は20数年前に職場の旅行で姫路城を見に来たことがあります。まだ修復前だったのですが、それでも美しい景観だったのを覚えています。家内はまだ姫路城を見たことがないと言うので、私たちは白鷺城と称され、威風堂々とした威厳のある姫路城を久しぶりに訪れたのでした。台風10号の接近にも関わらず、今日は入道雲がぽっかり浮かんだ夏空で、汗が滴り落ちる炎暑の中、螺旋式縄張りの城郭を歩き回りました。天守閣に辿り着くまでには迷路のような道があり、また城内は幾つもの急勾配な階段があって、私たちが高齢になって足に自信がなくなったら登れるものではないと思いました。この木造の階段しかないという状況は、姫路城が建て替えることがなく現在まで残されていて、他の大きな城のように近代的な鉄筋が入っていたり、エレベーターが設置されていないことが保存状態を示す証拠になっているのです。内部には鉄砲狭間や石落としが各所に作られていて、美しい景観だけではなく、要塞としての機能も充分備えていることにも驚きました。永祿四年以降さまざまな時代の武将たちが入れ替わり住みついた名城を、今日は隅々まで歩いて堪能しましたが、建築的にはもう少し書いてみたいこともあり、別稿を起こそうかと思っています。夕方になり、新幹線でホテルのある新大阪までやってきました。大阪の天王寺にあるあべのハルカス美術館で「ギュスターヴ・モロー展」を開催していることをネットで知り、早速行ってみました。「ギュスターヴ・モロー展」は東京汐留のミュージアムで開催されていたのを見落として残念と思っていたので、これはラッキーでした。フランスの象徴主義の第一人者であったモローは、聖書や神話をテーマに多くの絵画を残した画家です。私はモローの人間性にも興味があって、その独特な世界観と相俟って魅力を感じてしまう一人です。展覧会の詳しい感想は後日改めたいと思います。展覧会場を出た後、地下鉄御堂筋線でなんばまでやってきました。道頓堀は大変な賑わいで、レストランを探すのに苦労しましたが、法善寺横丁から少し路地を入ったところで古い串揚げの店を見つけて夕食にしました。今日は真昼間に姫路城を歩き回った疲れが出て、ホテルではぐったりしてしまいました。

夏の三連休の成果

山の日を含む三連休が今日で終わりました。3日間とも工房に通い、陶彫制作に精を出しました。新作の床置きの大きな陶彫部品2個を作りました。酷暑のせいで工房に長く留まることができず、午前2時間、午後2時間という作業時間でしたが、集中はしました。室内温度が高いためか陶土の乾燥が早く、水に濡らした雑巾で表面を覆いながら、彫り込み加飾を行ないました。一旦彫り込みをしたところを、暫くして再度手を入れようとすると、既に硬くなり始めていて難儀をしました。この時期は、毎年汗が額から噴出し、シャツもびっしょりになってしまいます。汗が出たほうが動き易くなるようで、自分が結構気温に対して丈夫なのを認識しています。若い頃は毎日こんなに汗をかいて大丈夫なのだろうかと思っていましたが、病気になることもなく、蒸し暑い作業場で元気に過ごしていました。そんな経験があるおかげか、真夏は作品がどんどん進むという観念に、自分は今も支配されていて、加齢にも関わらず、私は工房で制作に打ち込んでしまうのです。厳しい環境で魂を籠めた創作活動をするというのは、若い頃の精神論でしかないと思っているのも確かです。ただし、こうした状況が実のところ私は好きなのではないかと思っている次第です。酷暑の中で陶土と格闘した感覚を作業終了時に持てるのは、まだ自分が体力的にもいけると信じているのだろうと思っています。夕方になって自宅の食卓で作っているRECORDは、さすがに疲労が隠せず、遅々として進まないことがあります。目標としてはRECORDもどんどん進めたいと考えていたので、これは誤算でした。一度陶彫制作を休んで、朝から晩までRECORDをやっていたならば、下書きだけの山積みになった中途半端なRECORDは全て解消するかなぁと思っています。ともかく夏の三連休は、陶彫制作に関してそれなりの成果があったと評価しています。明日から3日間は夏季休暇を取ります。職場の休庁期間が残り3日間あるので、夏季休暇を取ろうと決めていました。夏季休暇は前半2日間で、新潟県に石川雲蝶の欄間を初めとする凄まじい彫刻の数々を見に行きました。後半3日間は関西方面に出かけます。美術や建築が私の興味の対象なので、世界遺産の姫路城や四国にある大塚国際美術館を見てこようと思っているのです。

8月RECORDは「遊戯の風景」

三連休の中日です。「山の日」が日曜日と重なったため、明日は振り替え休日になります。今日も朝から蒸し暑い工房に篭って陶彫制作を行なっていました。若いスタッフも工房に来ていました。昨日決めた制作目標通り、大きな陶彫部品の2個目となる彫り込み加飾をやっていました。夕方3時には作業を終えて、スタッフを車で送りました。自宅に帰って、早めの時間帯からRECORDをやっています。過去の作品の彩色や仕上げを以前のイメージを思い出しながら進めていますが、今日の分のRECORDをまずやってから、山積みされた過去の作品に取り組んでいるのです。8月のRECORDは「遊戯の風景」というテーマでやっています。何か遊んでいるような戯れているようなモノの情景を描きたいと思っていたので、こんなテーマにしました。6月のRECORDをやっていた時に、絵の具をRECORD用紙に滲み込ませてから、そこから導き出されるイメージをカタチにしていました。それまでは下書きをしてから絵の具を塗っていましたが、何もない白紙の上に絵の具を垂らしていく行為が楽しくて、今月も絵の具を優先にすることにしたのでした。私はついカタチに本腰が入ってしまう傾向があって、色彩は付加要素の扱いになっていました。でも絵画においてはカタチと色彩の比重は同じはずで、色彩の可能性を広げていくことは自分にとって必要ではないかと思い始めているのです。高校生の頃にデザインの勉強を始めましたが、自分の色彩感覚に絶望していました。その頃の平面構成の課題は最悪でした。工業デザインから思い切って彫刻に専攻を変えたのは、色彩コンプレックスがあったせいだと自分では思っていましたが、RECORDを作り始めて、漸く色彩の面白さに気づいたのでした。色彩に関してはカンディンスキーの理論も頭を過ぎりました。そんな色彩の冒険をやってみたくて、今月はテーマを「遊戯の風景」にしたのです。日々コツコツと頑張って作っていこうと思っています。

夏の三連休の具体的目標

職場は今日から始まる三連休を含めて休庁期間にしてあり、全職員が年休を取得し易い環境を作っています。私もこの休庁期間に夏季休暇の残りの3日間を取ろうと決めています。仕事にはオンとオフが必要ですが、創作活動は公務員の仕事がオフの時にオンに切り替えるのです。公務員と彫刻家の二足の草鞋生活は、そのいずれも仕事と考えればずっとオン状態が続くわけですが、仕事の質が違うので何とかやっていけるのです。さて、今日から始まる三連休ですが、具体的な目標を設定することにしました。新作の陶彫制作では屏風と床を使って陶彫部品を配置していくのですが、床に配置する陶彫部品に大きめな作品を数点作ろうと決めていて、やや手間のかかるそれら部品をこの三連休で作ることにしました。連続して休める機会がないと、中心をなす作品群は作れないのです。当初は屏風の全体構成も考えていました。どっちつかずになるよりは、それは別の機会にやるとして、今回の三連休は陶彫制作だけに集中しようと決めました。いつもなら朝9時から始めて夕方の4時までの7時間を作業に当てています。梅雨明けした後の気温の上昇を考えると、7時間の作業には無理があると判断しました。午前2時間、午後2時間が適当なのかなぁと思っています。工房は空調がないので、蒸し風呂のような暑さに見舞われ、熱中症を心配する事態になりかねません。昼食は近くのファミリーレストランに駆け込み、涼を取りながら休憩することにしました。若いスタッフが来ているので、昼食時の話し相手にはちょうどいいのです。工房に長く留まれない分、早めに帰宅し、自宅でRECORDの過去の作品の仕上げを行なうことにしました。RECORDも日々制作していて、下書きが数週間分も山積みされている状態です。この三連休で何とかなるものではありませんが、少しでも解消できればと思っています。

映画「天気の子」雑感

昨日のNOTE(ブログ)に続いて再び映画の感想を述べさせていただきます。岩波ホールで観た「田園の守り人たち」とはまるで異なる映画を、横浜の鴨居にあるエンターティメント系の映画館に観に行きました。どちらもレイトショーでしたが、「天気の子」はそれでもかなり観客が入っていました。新海誠監督によるアニメ映画と言えば「君の名は。」で、あの大ヒットの後でどんな作品をやろうとしたのか、注目していた人は多いのではないかと思っています。観終った印象としては「君の名は。」とは違う世界観を描いていたこと、前作とは異なる冒険を忍ばせていて、現代の風潮を切り取って描いていたこと、など上映中にも関わらず、さまざまな考えが私の頭を駆け巡りました。少年と少女の出会いがあるのは前作と同じですが、「天気の子」はお互い貧乏であり、都会の片隅で保護者不在のまま暮らしていて、生活スタイルが社会的にも不安な要素満載であることが挙げられます。これは少なくとも現在の貧困家庭の状況を描いているように感じました。少女が天気を操るという荒唐無稽な能力は、新海ワールドの最骨頂である細密な風景描写によって、その美しさ故の説得力を持ち、都会の雑踏から空に広がる積乱雲の彼方へ、私たちを連れて行ってくれるのです。この描写なくして、この世界観は生まれなかったと私は思いました。そぼ降る雨の表現には目を見張るものがあり、また雨に煙る都会の高層ビルのシルエットが美しいと感じたのは私だけではないでしょう。その都会を上空から俯瞰する画像に一条の光が射す場面は、この映画の見所のひとつです。人の心理は天気によって左右されることをよく物語っている場面ではないかと思いました。最近ではゲリラ豪雨によって甚大な被害が齎されることがニュースになっています。環境問題が国際レベルで話題になる時勢です。人が日常生活を送る上で自然環境に与える影響は、今となっては測り知れないものがありますが、私の含めて日常の快適な暮らしぶりを、だからと言って改めることをしていません。こんな時代を生きる私たちは、今後どうなってしまうのか、天候が狂っていると分かっていながら、受け入れていくしかないのかぁと感じるこの頃ですが、新海監督が図録の中でこんなことを述べています。「そこから思いついたのが、主人公である少年が『天気なんて、狂ったままでいいんだ!』と叫ぶ話だったんです。そのセリフが、企画書の最初の柱になりました。やりたかったのは、少年が自分自身で狂った世界を選び取る話。別の言い方をすれば、調和を取り戻す物語はやめようと思ったんです。」人の創作する物語は最後に調和が成され、平和を謳歌して終わるのが定番ですが、現実はそんなことはなく、大きな課題を抱えたまま時代が移り変わっていくものです。現代を生きるストレス社会の中では、物語の中だけでもハッピーエンドにして現実逃避をしたい観客も多いのはないかと察しますが、観終った後、すっきりした感覚がないなぁと思っていたら、近くの観客が「誰も幸せにならないんだよね」と呟いていたのが印象的でした。

映画「田園の守り人たち」雑感

東京神保町にある岩波ホールを、私は今に至るまで幾度訪れたことでしょう。最近は横浜のミニシアターに通うことが多くなりましたが、岩波ホールで上映された映画は鮮やかに記憶に留めています。フランス映画「田園の守り人たち」は岩波ホールのネットで知り、最終上映時間に合わせて横浜からやってきたのでした。私はミレーの絵画のような美しい田園風景を味わいたかったのですが、これは戦闘シーンが少なくても歴然とした戦争映画で、第一次世界大戦下のフランスの田園に生きた人々の暮らしぶりと、戦争に駆り出された男たちや銃後で生活を支えた女たちのリアルな日常を描いていました。図録に物語そのものの描写があったので引用いたします。「戦場に向かう若者、農園には母が残され、妻が残され、年老いた男が残される。女たちは種を蒔き、畑を耕し、乳を搾り、家畜に餌をやる。いつ戦場から恐れている知らせがくるかもしれない不安はみじんも見せず、男たちの帰還を心待ちにしながらも感情を押し殺し、女たちはただひたすら農作業を続ける。彼女たちが感情を露わにするのは、まるで悪魔の訪れのようにやってくる突然の訃報に慟哭する時だけだ。だが、日常は続く。」(斉藤綾子著)この映画で柱となっているのは田園の守り人たる母親で、彼女の息子や娘を見る物憂げな眼差しに私は惹かれていきました。そこに絡んでくるのは雇われた若い女で、最終的に田園から離れられない母とは別の生き方を彼女はしていくことになります。図録よりその個所を引用すると、「オルタンス(母)が男は決めたしきたりや約束を守ろうとする過去に生きる女とすれば、ソランジュ(娘)が現在、そしてフランシーヌ(雇われ人)は自立を欲する未来の女性を鮮やかに描き出す。」とありました。農業器具にも時代の移り変わりを感じさせる場面があり、また人の生き方にも現代に通じるものが伺える映画でした。

TV放映「ヒロシマの画家」に感銘

先日、NHKのBS番組で放映された「ヒロシマの画家」に感銘を受けました。番組は、広島生まれの画家四國五郎の生涯を描いた内容で、第二次世界大戦の原爆投下後の広島市街の惨状を、画家の活動を通じて雄弁に語っていました。この時まで私は画家四國五郎を知りませんでした。番組に登場するガタロさんは、清掃員をしながら原爆ドームを描いている画家として、嘗てTV放映があったので、こんな人もいるのかと知りましたが、故人になった四國五郎とガタロさんは師弟関係にあったようです。第二次世界大戦が終わる頃、四國五郎はシベリアに拘留されていたため、原爆の広島投下に出会っていません。日本に引き揚げてきた時に故郷の惨状を知り、とりわけ彼にとって実弟の死が衝撃だったようで、その面影をいつまでも大切にしていたのでした。画家は原爆投下を直接知らなかったため、ヒロシマを語り継ぐのには葛藤があったと紹介されていましたが、それでも大戦前の広島の在りし日の風景を絵画化し、大戦後のヒロシマを象徴として描いて見せました。番組内で私の心を揺さぶった1点の絵画があります。死んだ母が横たわる背後で呆然としている子どもを描いた絵画です。広島の美術館に収納されている絵画で、アメリカの研究者が訪れていました。アメリカでは著名な人たちが画家四國五郎の絵画に込められた思いを研究対象にしていて、核兵器が齎す人類への圧迫と警鐘を、アメリカの大学の講義等で扱っていることが分かりました。広島や長崎に原爆が投下されて早74年、核の脅威を私たちは永遠に忘れてはならないと痛感いたします。

雲蝶作「道元禅師猛虎調伏」について

新潟県魚沼市には名匠石川雲蝶の残した数多くの木彫や絵画があって、僅か2日間の旅行とは言え、私は大変な刺激をもらいました。石川雲蝶は、自分とは異なる表現方法をもつ彫刻家ですが、その常軌を逸した作品群は、私に弛まぬ創作意欲と震える魂の在処を齎せてくれました。その中でも西福寺開山堂の天井を彩る「道元禅師猛虎調伏」は圧巻でした。西福寺開山堂の解説にはこんな一文がありました。「本堂の左手に連立された開山堂は、江戸時代末期1857年(安政四年)に二十三世・蟠谷大龍大和尚によって建立された。開山堂の向拝ならびに堂内には、幕末の名匠と謳われる石川雲蝶作の彫刻・絵画・漆喰鏝絵の数々が施されていて、その作品群が日光東照宮にも劣らない素晴らしいものであることから、いつからか『越後日光開山堂』と呼ばれるようになった。」開山堂の内装全体に広がる浮き彫りは、その一つひとつの具象表現に鬼気迫る力があります。ついそこに見入ってしまい、複数の物語がそこに彫りこまれているのに気づきます。それぞれの場面をじっくり見ていくと、欄間には遠近法を取り入れた彫刻があったり、また若い女性が幽霊となって登場している場面もあって、その表現の多様性に驚かされます。天井全体のテーマは「道元禅師猛虎調伏」で道元禅師の行為が描かれていました。解説書からその箇所を拾います。「この物語は『道元禅師が天童山への行脚の途中、山中で虎に襲われるまさにその時、手にした拄杖を投げつけ座禅に入られた。すると拄杖がみるみると龍に姿を変え、禅師の御身を守った。』という場面である。」そのドラマチックな場面を、ハリウッドのスペクタクル映画でも観ているように錯覚し、迫ってくる圧倒的なパワーを感受しつつ、仏の教えに導かれてしまうのでした。他の多くの仏教美術に見られるような静かに冥想する雰囲気はなく、アクティヴな捉えとしての宗教感がそこにあったように思いました。全ての量感が絶え間なく動いて、祈る者や鑑賞する者の周りをぐるぐる回っているように感じられました。鑿の彫り跡をよく見ていくと、迷いのない立体表現にため息が出ました。また、透かし彫りの上に岩絵の具で彩色されていて、その生々しさも手伝って、一層劇画風に見えたのかもしれませんが、旺盛な創作意欲が私にも何らか力を与えてくれるようにも思えました。私も陶彫制作を頑張るぞと改めて決意し、西福寺開山堂を出ました。こんな芸術的な意欲を高める作品との遭遇があったことを幸運に思います。「越後のミケランジェロ」は本家イタリアのミケランジェロより、私にとってさらに身近な存在でした。彫工石川雲蝶は、酒や博打に明け暮れた破天荒な生き方もしましたが、豪快な仕事も残してくれたのが幸いでした。

彫工石川雲蝶の人物像

先日、夏季休暇を取って訪れた新潟県魚沼市。そこで目にした「越後のミケランジェロ」と称される江戸時代の彫工石川雲蝶の傑作の数々に、私は心を奪われました。とりわけ永林寺と西福寺開山堂に残されている木彫の超絶技巧とその迫力には、ただただ感服するばかりでした。石川雲蝶とはどんな人物だったのか、酒と博打に関するエピソードが残されている一方、職人気質の塊だった仕事ぶりに私も気持ちが奮い立ちました。永林寺で購入した書籍に次の文章がありました。「爾来、十三年間永林寺に留まった安兵衛(雲蝶)は、酒と博打にその大半を費やしたが、一たび筆を採り、ノミと刀を手にすると寝食を忘れて仕事に打ち込んだ。江戸で一度、越後三条でも一度結婚していたが、魚沼ではついぞ妻子の話を口にした事がない。弁成和尚も、ことさら身の上のことは触れなかった。また、安兵衛は弟子を育てることに執着がない。二人の男が、安兵衛のもとに弟子入りらしい真似事をした時期もあるにはあったが、安兵衛はただの一度も情を示したことはなかった。世事世情の絡みや仕来りに、安兵衛は殆んど冷淡と思える身勝手さを通し続けた。春風に流れる雲のように、江戸から越後へ漂い、自からの運命さえも意識することなく、狂気に動かされて彫り続けた作品が、根小屋の永林寺にこの男の生涯を今も物語っている。」(鹿毛直歩著)これは幸福な人生だったのか、彫工として由緒ある寺での仕事を与えられ、現在も市の指定文化財として大切に保存されている作品群を見ていると、羨ましさを感じるのは私だけでしょうか。永林寺では雲蝶の彫った天女が有名ですが、空を舞う姿(飛天)で表されていて、妖麗な素肌を顕して楽器を奏でていました。また天女の背中が見られるのも妙に生々しい印象がありました。天女に近い表現として迦陵頻伽が彫られていて、これは上半身には翼があり、下半身は鳥の姿でした。迦陵頻伽は極楽浄土を表す想像上の生物とされ、雲蝶が単なる彫工の達人でなく、仏教美術を熟知していたことが分かります。雲蝶の作品については西福寺開山堂に残された木彫を中心に、改めて稿を起こそうと思います。

週末 酷暑の工房

毎年この時期、空調のない工房は大変な暑さの中での作業を強いられます。大学生の頃から私は彫刻科のアトリエにおいて、厳しい環境の中で制作をしてきました。素材によっては野外だったり、工場のような広い空間だったりして、これは仕方がないようなところもあって、数十年の間に過酷な条件に身体が慣れてきたと言ってもよいと思います。身体が丈夫な者が彫刻家として生き残れるのかなぁと思ってしまうのですが、確かに周囲を見渡しても師匠や先輩諸氏は屈強な人が多いかもしれません。私は自分ではそんなに頑丈な人間ではないと思っていますが、30代から40代にかけて借りていた作業場でも、現在と似たような環境であったことを鑑みると、病気もせずにやってこられたことは、丈夫な自分に産んでくれた親のおかげなのだろうと思うようになりました。慣れのせいか酷暑の中での作業は結構進みます。額に汗して陶土と格闘していると、再びやってきた例年の感じに妙な安心が得られるのです。ただし、作業が一段落した後の疲労度が昔と違います。これは加齢のせいなのか、昔のように根性論で語れないものがあって、ちょっぴり寂しくなります。とくに工房から自宅に帰ってから疲労が顕著に出てしまいます。胃腸の具合が悪くなったりすると、少し前まではそうではなかったなぁと思っています。体力維持のために昼ごろは近隣のスポーツ施設に行って水泳をしてきました。水泳をすると身体がどのくらい疲れているのかが分かります。自分の意識と体調はやや異なるのが不思議なところです。今日はそれほど疲れた感じはなかったのですが、水泳の後で工房に篭って、精一杯彫り込み加飾やタタラを掌で叩いて数点準備したのが身体に応えたみたいです。工房には最近若いスタッフが来ています。今日は女子が2人いました。若返りがあって今は10代の子たちがいますが、私は彼女たちの熱中症を心配していました。私は数十年こんな環境で制作をしていますが、彼女たちは普段は空調の効いたところで制作していると思われるからで、工房の暑さは相当身体に応えているのではないかと察しています。夕方それぞれの家の近くまで車で送っていきました。

週末 宿泊研修から帰って工房へ

昨日から私の職種である市公務員管理職は、市外のホテルで宿泊しながら研修を積んでいました。昨日は「Society5.0」と題して、ICTがこれからの世代にどのように関わってくるのか、私たちはそれにどう対処すべきか、横浜国大教授による講演を聞きました。その後、小グループに分かれて現状の課題を話し合うワークショップを行いました。夜は懇親を深める会が催され、毎年のことながら今回も密度の濃い研修だったなぁと感じております。ホテルで朝食を済ませた後、自宅に戻ってきました。ちょうど気温が高くなっていた昼頃に工房に出かけました。先週末にタタラを準備していましたが、高温のため少し硬くなっていて、それでも何とか成形することが出来ました。彫り込み加飾をするために水を含ませた布を巻いてビニールをかけました。明日には表面が軟らかくなっていることを期待しています。陶彫成形には夏の温度を考える必要がありそうです。空調のない工房の暑さは半端なものではありません。2時間程度作業をしたらシャツは汗でびっしょりになりました。もう少し作業を続けたいと思っていたのですが、身体がまだ暑さに慣れていないため、早めに作業を切り上げました。夕方は職場のある地域に出かけて、祭礼の挨拶をしてきました。明日の作業をどのくらい続けられるか、明日は若いスタッフたちが来るので相談しながらやっていきたいと思います。

8月の制作目標

今月、職場では休庁期間を設定し、夏季休暇を取り易い状況を作っています。私も例外ではなく、今月は旅行も創作活動も共に邁進させていきたいと願っています。まず陶彫制作ですが、全体の計画として屏風の形式を採用します。そこに半立体の陶彫部品を接合していきますが、屏風の前にも陶彫部品が迫り出してきて、作品は床置きになっていきます。今回のイメージは屏風と床を使い、蒲鉾状の陶彫部品が長く連結していくものです。先月発表した「発掘~双景~」で指摘された動的な生命体をさらに発展させて、廃墟に陶彫が蛇のように蔓延る世界です。あまり情緒に流れすぎないように基本となる造形をきちんと踏まえた構築物を作ろうとしています。今月は屏風になる厚板を準備して、全体構想をまとめます。これはまとまった時間がないと捉えが難しいので、休庁期間をこれに当てます。石川雲蝶の複雑に絡まった天井浮き彫りとは表現が異なりますが、あのパワーに少しでも近づけたいと憧れているのです。陶彫部品は全体の要になるものを作ってみようと思っています。やや小さめのテーブル彫刻も準備します。これは今月はまだ手を出しません。陶紋もまだこれからです。RECORDは、自ら決めた通り今月も一日1点ずつ作っていきますが、過去の下書きの仕上げを併行して続けます。何とか下書きの山積みを解消したいと願っていて、これは夜の食卓で頑張るしかありません。鑑賞は美術館や博物館に積極的に足を運ぼうと思っています。観たい映画もあるので、これは大いに楽しもうと思います。夏季休暇での旅行は、ありきたりですが関西に行く予定です。家内の希望は姫路城、私は相変わらず関西方面の美術館です。往復の東海道新幹線の乗車券を手に入れました。読書は何を読もうか思案中で、書棚に未読の書籍が並んでいます。難解な哲学書もありますが、気分としては緩い書籍に手がいきそうです。今月も暑さに負けないように適度に頑張っていこうと思っています。

長梅雨だった7月を振り返る

今日は8月1日ですが、昨日まで旅行に出ていた関係で、7月の振り返りが出来ていません。今日振り返りを行い、8月の制作目標を明日立てることにしました。今年は長梅雨で夏を待ち焦がれていました。7月の終盤にやっと梅雨明けした途端に、昨年のような蒸し暑い夏がやってきました。体調を悪くした人も多いのではないかと察するところです。7月は恒例になった東京銀座のギャラリーせいほうでの個展がありました。個展は自分にとって1年間のターニングポイントになっていて、ここから来年に向けた創作活動が始まっていくのです。1年間の成果の集大成とも言えます。個展が終わるとちょっと気持ちが解放されて、展覧会に足を運んだり、夏季休暇を取って旅行しようという余裕が生まれます。7月の美術展では「ウィーン・モダン」展(国立新美術館)、「加守田章二の陶芸」展(菊池寛美記念 智美術館)、「メスキータ展」(東京駅ステーションギャラリー)、その他では新潟県魚沼市を旅行し、永林寺や西福寺開山堂、穴地十二大明神、龍谷寺で見た石川雲蝶の木彫りの数々、越後妻有「大地の芸術祭」で常設展示されている清津峡渓谷トンネルを鑑賞してきました。映画では「クリムト」(シネマジャック&ベティ)を観ました。個展があって多忙だった割には、鑑賞は充実していたように思います。とりわけ越後のミケランジェロと呼ばれる石川雲蝶の造形美には圧倒されました。鑿一本で彫り出した超絶技巧は、一見に値すると思っています。幕末の地方に凄い彫刻家がいたこと、彼が生涯をかけた作品を寺院が大切に扱っていることが誇らしく思えました。RECORDは食卓に山積みされた過去の下書きの仕上げ作業に、7月は熱中していました。まだまだ追いつきませんが、今月で遅れを取り戻す予定です。公務員管理職の仕事が軽減している今、RECORDを頑張ろうと思っています。読書は西欧関係を論じた書籍を読み終えました。まとめを次々にNOTE(ブログ)にアップしていきます。私にとって強烈な7月が終わりました。モチベーションはそのままで8月を過ごしたいと願っています。

夏季休暇② 「大地の芸術祭」の里を訪ねて

昨日から新潟県に来ています。昨日は石川雲蝶の巨大な欄間を幾つか見て度肝を抜かされ、また十日町に立ち寄って博物館に所蔵された縄文土器を見てきました。今日は現代アートに触れる旅をしようと決めていました。ここで3年に一度開催される越後妻有トリエンナーレに関しては2009年8月5日のNOTE(ブログ)に掲載があります。私は10年前にここに来ていて、「大地の芸術祭」の里をいろいろな展示作品を見ながら堪能していたのでした。今はトリエンナーレ期間でもなく、常設展示があるだけでしたが、トンネルに水を張った場面がポスターになっている箇所が知りたくて、この作品を目標に車を走らせました。その前に10年前にはなかった森の学校「キョロロ」に立ち寄りました。錆鉄の構築物が現代彫刻のようでいて、外観はかなり気に入りました。夏休みなので子供向けに昆虫の展示がありました。目標にしていた例のトンネルは清津峡渓谷にありました。制作者は中国人建築家のマ・ヤンソン氏。全長750mのトンネルは渓谷に沿って掘られ、途中に三か所の見晴所が設けられていました。見晴所から見る渓谷の美は素晴らしく、最後にあったパノラマステーションに「大地の芸術祭」のポスターになった水を張った見晴所がありました。水深は浅くて歩くことが可能で、トンネルの先端に行くと渓谷を背景に自分のシルエットが映し出され、所謂インスタ映えのする画像が撮影できます。水が鏡面になっているため、幻想的な世界が現れてきます。風景がアートによってさらに楽しめるものになっているのを大変心地よく感じました。トンネルには鏡面仕立てのトイレがありました。私はここを使わせてもらいましたが、不思議な感覚になりました。「大地の芸術祭」が行われている越後妻有は、まるで箱庭のような田園の美しい風景が広がっていて、ここに野外作品を展示すれば、風景との対話は面白いものになるだろうなぁと思った次第です。夕方、越後湯沢から上越新幹線に乗って東京まで帰ってきました。夏季休暇の2日間は充実していました。あっという間に過ぎてしまい、次の夏季休暇3日間に期待をしているところです。

夏季休暇① 越後のミケランジェロを訪ねて

5日間ある夏季休暇の2日を取得して、上越新幹線で新潟県魚沼市に家内とやってきました。目的は彫り物師石川雲蝶が残した木彫りの数々や水墨画を見て回ること。石川雲蝶の名を知ったのはテレビ番組だったように記憶していますが、西福寺開山堂の天井一面に施された彫刻「道元禅師猛虎調伏の図」をテレビ画面で見て、ただならぬ気配を感じていました。自分なりに石川雲蝶を調べていくうちに、ひとたび鑿を握れば「彫りの鬼」と化したという雲蝶が、越後のミケランジェロと称される由縁もわかった気がして、どうしても実物が見たくなったのでした。新幹線の越後湯沢駅からレンタカーを借りて、関越道を走り、堀ノ内ICで降りました。そこから数分で曹洞宗の名刹である永林寺に到着、さっそく天女が彫られた欄間が私たちを迎えてくれました。1855年から13年という歳月をかけて、永林寺に保存される作品を数々を制作した雲蝶でしたが、その時の逸話も有名で、博打好きな雲蝶が弁成和尚と賭けをしたようで「雲蝶が勝ったら金銭を支払い、弁成和尚が勝ったら永林寺の本堂一杯に力作を手間暇惜しまず制作する」というものでした。この勝負は和尚が勝って、後世に残る作品の数々が生まれたのでした。次に向ったのはこれも曹洞宗の名刹である西福寺で、ここの開山堂には「越後日光」と呼ばれている天井彫刻「道元禅師猛虎調伏の図」がありました。これには私は心底圧倒されて、暫し形容する言葉を失いました。この作品を保存するために開山堂の外観をさらに木造建築が覆っていたのでした。西福寺を最初に見た時は二重構造の何とも不思議な寺の作りだなぁと思っていて、その理由が分かりました。西福寺には雲蝶による襖絵「孔雀遊戯の図」が残されていました。木彫だけでなく、絵画にも力量をもっていた石川雲蝶。さらに次の場所へ私たちは出向いたのでしたが、穴地十二大明神を見つけることが出来ずに、住所のある周囲を車でぐるぐる回っていました。え?あの小さな神社がそうなの?と近づくと勝手に扉を開けて中に入るよう指示がありました。確かにそこにも雲蝶の浮き彫りがありました。ひょっとして未完成と思わしき作品があって、それはそれで興味が湧きました。最後に向ったのは龍谷寺で、ここの観音堂はインドグプタ王朝様式が取り入れられた独特な雰囲気の寺院でした。そこには獏や麒麟などが緻密に彫られた完成度の高い雲蝶の欄間がありました。これら石川雲蝶の数々の作品に関する考察や感想は別稿を起こそうと思っています。宿泊場所である越後湯沢に帰る途中に十日町市博物館に立ち寄りました。10年前に一度来たことのある博物館で、縄文土器のコレクションが有名なのです。もう一度縄文土器が見たくなってやってきたのですが、もう間もなくしたら新館が完成するらしく、そのせいか展示会場はやや狭くなっていました。それでも目指す土器を見つけて嬉しくなりました。

彫刻家飯田善國によるピカソ評

7月27日付の朝日新聞「折々のことば」欄に、彫刻家飯田善國によるピカソ評が掲載されていて、目に留まりました。「十歳で どんな大人より上手に 描けた 子供の ように描けるまで一生 かかった 飯田善國」とありました。まずこのコトバに惹かれてしまいました。鷲田清一氏の解説が続きます。「ピカソが生涯をつうじて追い求めたのは文明の〈外〉に出ること、すなわち『名を与えられる以前の事物の記憶』であり、『憧れながら文明人がもう二度と手に入れることのできない』荒々しい野生的な生命力だったと、彫刻家・詩人は言う。ピカソは安住と眠りと怠惰を嫌ったが、それは『同じ所にじっとしていられない』から。思えばこれこそ子供の真骨頂。『ピカソ』から。」とありましたが、ピカソについての詩人飯田善國のコトバは言い得て妙なところがあって、私の心を捉えてしまいました。ピカソはあらゆるものから子供のように解放されたいと願っていたのでしょう。ピカソは芸術家に成るべくして成ったと思っています。「安住と眠りと怠惰を嫌った」ピカソが生涯を通じて創作活動に励んだことはよく知られています。生きて呼吸をするように創作活動をしたのでしょうか。ピカソは目に見えたもの全てに創作を入れたくなって、食卓に並んだ魚さえも作品にしています。彫刻家で詩人だった飯田善國は、ご自身の立体造形ではステンレスを使ったモビールがありますが、それよりも私は詩人西脇順三郎のコトバに帯状のラインで結んだ平面作品に興味を覚えたことを思い出しました。彼の評論も秀逸で、「見えない彫刻」(飯田善國著 小沢書店)は学生時代の私の愛読書でした。ピカソを筆頭に現代美術の潮流をその書籍より学び、その中でも飯田善國が実際に滞在したウィーンの美術家の話は貪るように読んでいて、私もその後ウィーンに滞在することになったのでした。既に故人になってしまった飯田善國には生前一度もお会いしたことがありませんでした。因みに「見えない彫刻」には画家オスカー・ココシュカへの会見記があって、今も私の脳裏に刻まれています。時代が移って私ならフンデルトワッサー会見記が書けそうですが、そんな依頼があるはずもなく、昔のNOTE(ブログ)に書いた記憶があるくらいです。

週末 土練りから始めよう

朝から工房に篭りました。私は陶土を単身では使わず、計量器にそれぞれの陶土を乗せ、割合を決めて混合しています。前作の混合陶土はかなり余っていたのですが、時間を置いたため、やや硬くなってしまったので、もう一度余った陶土も含めて練り直しをすることにしました。新しく混ぜ合わせる陶土と残った陶土は2回目の土練りで土錬機に一緒に入れることにしました。土錬機に陶土を通すのは通常では最低3回行い、その間多少水分を補給しながら、混合状態の様子をみていきます。これは成形をやり易くするために、細心の注意を払っていく工程のひとつです。今回は気温が高い中で陶土を保管したため、乾燥しないように気を使ったつもりでしたが、結局3回ではなく4回目の土練りをして良好な状態に陶土を戻しました。新作の陶彫部品も基本的には今まで通り、タタラと紐作りを併行して成形する方法をとります。土錬機から出てきた陶土を最後に手で菊練りをして、小分けにしてビニール袋に包むか、タタラに引き伸ばしてそのまま成形するか、その日の作業時間を見ながら判断します。今日は土練りの時間を長く取ったため、タタラにしたのは2つだけ、成形をするには少し時間を置いた方がよいと判断しました。いよいよ横浜も梅雨明けした模様で、空調のない工房は大変な暑さに見舞われました。額から汗が流れ、シャツは汗でびっしょりになりました。こうした蒸し暑い中で、今まで20年以上も制作を続けてきました。工房がなかった時代も、借りた施設で私は暑さや寒さと戦ってきました。最近は熱中症を心配して水分補給はこまめにやっています。工事用扇風機もロフトから下ろしてきました。今日の工房には若い世代のスタッフが2人来ていました。工房スタッフも若返り、10代の女子がやってきています。美術系の大学はまだ夏休みに入っておらず、課題提出日が迫っているようで、彼女たちは炎暑の中で真剣に課題制作に取り組んでいました。夕方4時に私たち全員が体力の限界になり、私は車で彼女たちをそれぞれの家の前まで送っていきました。工房に来るときは電車を使ってきても、帰りは身も心もボロボロになっていて、汗と絵の具だらけになった彼女たちを電車で帰すわけにはいかず、車で送っているのです。

週末 新しい作品へ向けて

個展終了から早くも1週間が経ちました。間を開けずに新作を作り始めるのが私の流儀です。ちょっと休みたい気分になりますが、休息を入れるのは新作を作り始めてからと決めているのです。実際、新作の陶彫部品のひとつが出来ています。私の場合、制作に苦しんでいる最中に次作のイメージが天から降ってきます。自分を追い詰めているにもかかわらず、これは現実逃避なのかなぁとも思っているのですが、次作のぼんやりとしたカタチが見えてきます。それは根の陶彫部品の連結したものが縦横無尽に網のように走っているイメージでした。床から壁に立ち上がり、血管のようにところどころが太くなっている動的な世界でした。先週までギャラリーに展示してあった「発掘~双景~」に植物的または動物的な生命を感じ取っていただいた鑑賞者も多く、その感想に勇気づけられて、生命体の発展形とも言える次作が朧気なものから次第にカタチを現してきたのでした。壁なら角度のある屏風にしようと思っています。まだ雑駁なイメージですが、制作を進めていくうちに具体的なイメージが次第に決まっていくのです。私にはそういう思索と技法とが行ったり来たりする傾向があります。今日は工房で考える時間が多く、なかなか制作に手が出せない状態でしたが、明日から迷いなく進めていける気がしています。既に作ってあるひとつの陶彫部品は、どこかに組み込んでいこうと思っています。夕方は職場のある地域で祭礼があり、来賓として出席して来ました。昨日から台風が心配されていましたが、何とか盛大な祭礼が出来て喜ばしく思っています。実際は明日から新作を開始します。

G・クリムトからE・シーレまで

国立新美術館で開催中の「ウィーン・モダン」展には、「クリムト、シーレ 世紀末への道」という副題がつけられています。オーストリアの首都であるウィーンの都市としての変遷を展覧会前半で取り上げていて、後半は専ら世紀末から20世紀初頭に興ったウィーン分離派やウィーン工房の作品が中心になっていました。図録には「1897年、グスタフ・クリムトに率いられた若い画家たちのグループは『時代にはその芸術を、芸術には自由を』という理念の下に、オーストリア造形芸術家協会を結成した。いわゆるウィーン分離派である。」とありました。クリムトの分離派以降の作品はよく知られていますが、私が注目したのは素描を含む初期作品で、古典的な寓意画を描いていたクリムトは「アレゴリー:新連作」あたりからクリムトらしさが出てきたように感じました。時を同じくして登場したウィーン工房は、図録によると「1903年、工芸美術学校出身の芸術家たちを主要メンバーとして、ウィーン工房が設立された。彼らは[アーツ・アンド・クラフツ運動に代表される]英国のやり方を手本にしながら、趣味が良く上品な日用品の生産を目指した。創設されるや否や、ウィーン工房はユニークで印象的なウィーン・スタイルを発展させ、国際的なセンセーションを巻き起こしたのだった。」とありました。機能性と美観を兼ね備えた日用品やポスター等に、私は改めて感銘を受けました。展覧会場に多くの日用品が並ぶ光景は、日常生活の中に新しい美意識が入り込んだ事例が示されていました。さて、次に控えていたのはエゴン・シーレの絵画やデッサンでした。ウィーンを総括する中でシーレを見ると、明らかにシーレの特異な世界観は、現代に近いものとして認識出来ました。次世代の、つまり表現主義的な作風の上に彷徨う悲劇性は、今日まで続いている芸術家のテーマとも言えます。度々彼のテーマとなっている死とエロスも、芸術家本人の自己告発を視覚化する試みであって、それは現代に通じるものだろうと感じました。シーレは28歳で夭折した画家でしたが、短い人生の中で強烈で斬新な足跡を残したためにオーストリア美術史に刻まれる芸術家になったのでした。

六本木の「ウィーン・モダン」展

今年は日本とオーストリア交流150周年にあたる記念すべき年で、とりわけクリムトを初めとする大掛かりな美術展が開かれています。私は先月、東京都美術館で開催されていた「クリムト展」に行ったばかりだったのですが、先日は六本木の国立新美術館で開催されていた「ウィーン・モダン」展にも足を運びました。「ウィーン・モダン」展は18世紀の啓蒙主義時代からビーダーマイアーの時代への変遷をたどる総括的な歴史を垣間見せる展示がありました。そうした時代を経て、ウィーンの外壁が取り壊され、そこに大通り(リンク)が完備され、近代都市へ生まれ変わるウィーンの姿が映し出されていました。「クリムト、シーレ 世紀末への道」と本展の副題にありましたが、ウィーンはいきなり近代化が行われたわけではなく、時代的必然があって、皇帝文化から市民文化へ社会が進んでいく過程で新しい価値観が芽生えていったように思います。それでも図録にある通り「都市の開発は50年以上におよび、第一次世界大戦が勃発する直前になっても完成していなかった。~略~建築家が目指したのは、歴史的な形式だったのである。~略~歴史主義建築の仰々しい発展性とその限界とを、一度に、これほどわかりやすく白日の下にさらけ出してみせた場所は、ほかにはないだろう。そればかりかリンク通りは、オットー・ヴァーグナーやアドルフ・ロースに代表される機能主義的な新しい建築の基礎をつくりだし、歴史主義の束縛からの開放をもたらすことにもなった。」とあるのはどういうことなのでしょうか。懐古趣味的な建築に対するアンチテーゼとして、新しい美観が登場したということでしょうか。若い頃に5年間をウィーンに暮らした自分には、疑似古典主義の建造物とシャープな近代的建造物が共存するウィーンの街は、それだけ刺激的で楽しい場所でした。時代が変わっても建築や美術工芸や音楽は、新旧どちらにしてもあらゆるものが西欧的な捉えであって、東洋からきた自分にはそれら全てが異国情緒に思えたものでした。美術作品については稿を改めます。

恩師からの手紙より抄

個展を見に来られた人の中で、文筆業をやっていらっしゃる方がいます。彼は書籍を何冊か出版されていますが、私にとっては恩師とも思える人です。時間が合えば貴重なお話を伺えるのですが、今回は私がいない時間に来廊されたようで、芳名帳に名前がありました。数日後にお手紙をいただいて感謝に耐えません。ご高齢にも関わらず横浜から東京銀座まで足を運んでいただいて恐縮しておりますが、先生の思考の冴えは相変わらずで、心より驚嘆いたしております。昨年はゴーギャンの大作「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」に託けて、私の作品を論じてくれました。今年は図録に掲載した「重層空間」の考え方を私の作品に投影して、お言葉を頂きました。「貴君の提示された『重層』という意識は、結果でしょうか、それとも過程でしょうか。後者の方に思え、その視点でみると、今回の作品はしっかりと大地に根を張った大樹のイメージが浮かんできます。『発掘』はその原点を求めて努力する真摯な姿勢の瞬時の自己認識でしょうか。人間とは…、何処から…、と言った宿命的な命題に迫る重い活動。ゴーギャンがタヒチに求めたノアノアの精神にも通じるような取り組みと受けとめました。これに気づくと、作品を形作る硬質な物体が、親しみ易い柔軟性を帯びてきました。静的なものの中に動的な暖かさが開花するようでした。つまり、重層柔構造の世界がみごとに構築されていると思いました。老妄虚言にて御容赦。」凄いお言葉を頂いて、暫し呆然としましたが、多大な励ましと感じて、力が湧いてきました。とりわけ私は「作品を形作る硬質な物体が、親しみ易い柔軟性を帯びてきました。静的なものの中に動的な暖かさが開花するようでした。」というくだりが大好きで、この一文を他にも使わせていただこうと思っています。

東京駅の「メスキータ展」

サミュエル・イェスルン・デ・メスキータは20世紀初頭に活躍したオランダの画家・版画家・デザイナーで、ユダヤ人だったためにナチスドイツの強制収容所で家族諸共処刑されています。彼がオランダの美術学校で教壇に立っていた折、在籍していた生徒に騙し絵で有名になったM・C・エッシャーがいました。メスキータとの師弟関係はずっと続き、メスキータが処刑された時に、残された遺作をいち早く保管したのは他ならぬエッシャーだったようです。日本で初めてとなる「メスキータ展」は東京駅ステーションギャラリーで開催されました。私は初めてメスキータの作品群に触れて、木版画のモノクロが齎す力強い印象に圧倒されました。会場は多くの鑑賞者で混みあっていて、遅ればせながらメスキータの作品が確実に日本人の心を捉えていた様子を見ることができました。数ある作品群の中で、私は人物を彫った木版画に興味を持ちました。量感に線彫りでハッチングをつけた人物像は、彫塑的であり、その輪郭の単純化にプリミティヴな力を感じました。さらに私が学生時代から大好きだった表現主義を髣髴とさせる雰囲気を持っていて、こんな芸術家が埋もれていたことに改めてショックを感じました。図録から文章を拾います。「浮世絵のメスキータへの影響は、輪郭線による簡潔な表現に最もよく表れていると思われるが、多くの作品では陰影がなく、この点も浮世絵の表現と共通するものがある。言うまでもなく、日本美術では西欧美術と異なり、伝統的に影を描くということをほとんどしてこなかった。メスキータの木版画の装飾的な性格は、アール・デコからモダン・デザインへと到る、20世紀前半の装飾美術をめぐる状況と無縁ではない。メスキータの作品の装飾性とは、決して飾り立てる性質のものではなく、むしろ細部を単純化して幾何学的形態に還元する過程で生み出される装飾性であり、それは20世紀のデザインの潮流に準じたものでもある。」(冨田章著)ここで弟子であるエッシャーの語った言葉を引用いたします。「彼の作品はひと握りの人々にしか評価されず、広く理解されないところがある。メスキータは常に我が道を行き、頑固で率直だった。他の人々からの影響はあまり受けなかったが、自分では強い影響を若い人たち、とくに学生たちに与えていた。学生たちが猿真似をしたときーそれはよく起きたことなのだがーメスキータはしばしば不機嫌になった。とはいえ彼の影響を受けた学生たちの大半は、遅かれ早かれ、その影響から抜け出した。というわけで彼はひとつの流派を作らなかったし、そのことによって、メスキータの孤独で強烈なパーソナリテイはさらに魅力的なものになっていく。」

虎ノ門の「加守田章二の陶芸」展

昨日で終了してしまった展覧会の感想をここで記すのは、かなり気が引けますが、陶芸家加守田章二はあちらこちらで展覧会をやっているので、作品を目にする機会の多い陶芸家ではないかと思います。そんなことを踏まえて、敢えて感想を述べさせていただきます。展覧会場は東京虎ノ門にある菊池寛美記念 智美術館で、陶芸を専門に扱っている美術館らしく、小さな陶器には見やすい展示台があって、じっくり鑑賞することが出来ました。加守田章二は49歳で亡くなった夭折の陶芸家です。私は栃木県益子でその作品に触れ、衝撃を受けました。それは曲線彫文が施された壺や皿で、還元や炭化焼成で焼き締められていました。加守田は、窯の中の酸素を少なくして高温焼成し、冷却時も還元状態にして土を締める方法によって、陶土そのものの表情を提示する、野性味に溢れた作品を作っています。そこに曲線彫文があるだけで、単なる器だけでなく、加守田ワールドはいろいろな世界が想起されるオブジェになっていました。図録にこんな一文がありました。「『曲線彫文』の文様を生み出すにあたり、加守田が何に想を得たのかについては諸説あり、遠野で目にした鳥居の木目に想を得ているという昌子夫人の証言の他、遠野に吹く風が砂上につくる風紋や仏教美術からの影響なども指摘される。」さらに加守田本人のメモが図録に掲載されていて、私はこれも記憶に留めることにしました。「私は陶器が大好きです しかし私の仕事は陶器の本道から完全にはずれています 私の仕事は陶器を作るのではなく 陶器を利用しているのです 私の作品は外見は陶器の形をしていますが中身は別のものです これが私の仕事の方向であり 又私の陶芸個人作家観です」陶芸家加守田章二の作品は、器というより陶彫に近いものを私は感じ取っています。展覧会のタイトルに「野蛮と洗練」とありましたが、縄文土器の風情を保ちながら、モダンで近未来的な造形を感じるのは私だけではないと思います。若くして亡くなったことが惜しまれる陶芸家でした。

週末 個展終了して美術館巡りへ

昨日、ギャラリーせいほうでの私の個展が終了しました。反省はいろいろありますが、ともあれホッとしたことは事実です。個展開催中は自分が会場にいなくても気がかりでなりませんでした。やはり終わってみると一抹の寂しさはあるものの、今後の創作活動に向けて歩き出さなければならないと感じています。既に陶彫部品はひとつ出来ていて、全体のイメージは固まっています。早速新作を作り始めるところを、今日はちょっと立ち止まって、東京の美術館巡りを行いました。家内は演奏活動があるため、今日は私一人で東京を回りました。朝9時に自宅を出て、最初に向ったのは東京六本木にある国立新美術館でした。同館で開催中の「ウィーン・モダン」展を見てきました。副題は「クリムト、シーレ世紀末への道」となっていました。今年は日本とオーストリア国交150周年に当たる年で、この企画展の他に東京都美術館で「クリムト展」もありました。ウィーンは嘗て自分が暮らした街でもあるので、思い入れも人一倍強く、また懐かしくもありました。自分が学んだウィーン美術アカデミーの新校舎や記念ホールの設計計画がO・ヴァーグナーによって立ち上がっていたことが分かり、それが実現していたら、あの旧態依然とした校舎ではなく、鉄鋼を使ったモダンな環境に生まれ変わっていたのに、ちょっと残念だったなぁと思ったりしていました。詳しい感想は後日改めます。次に向ったのは虎ノ門にある菊池寛美記念 智美術館で開催されていた「加守田章二の陶芸」展でした。展覧会のタイトルは「野蛮と洗練」とあって、まさに加守田章二の世界は、灰釉による造形に曲線彫文がつけられた野蛮と洗練が融合したものでした。私は栃木県益子でその作品に初めて接し、感銘を受けた記憶があります。陶芸家加守田章二は49歳の若さで夭折した作家ということも益子で知りました。この展覧会の詳しい感想も後日に回します。最後に訪れたのが東京駅にあるステーションギャラリーで、ここは旧駅舎の赤レンガが剥き出しになった風情のある美術館です。ここで開催されていたのは「メスキータ展」で、私にとって画家メスキータは初めて知った芸術家でした。オランダ生まれのメスキータの弟子には騙し絵のエッシャーがいました。ユダヤ系オランダ人のメスキータの一家がドイツナチスによって強制収容所に送られ、そこで殺害されるという衝撃の事実がありました。当時、多くの作品はエッシャーによって保護された経緯があり、今私たちがメスキータの作品が見られるのは弟子のエッシャーのおかげとも言えます。この展覧会も詳しい感想を後日に回します。今日は3つの展覧会を巡りました。自宅に帰ってから、家内と参議院選挙の投票所に出かけました。今日は新作を考える上で、重要な示唆をいただいた展覧会を見て来ました。個展の後だったので、身体の疲労が取れていなくて辛い面もありましたが、心は充実していました。

週末 個展最終日&搬出

14回目の個展の最終日を迎えました。朝11時にギャラリーせいほうにいると、懐かしい人たちが訪ねてきて、とてもいい時間を持つことができました。毎年のことではありますが、個展というのは旧交を温める絶好の機会だなぁとつくづく思います。何年も私の個展に来ていただいている方が、私の作品の経過観察をしていただいていて、自分でも気づかない創作の変化を指摘してくれました。同じテーマ、同じ素材でシリーズとして作っていると、確かに時間と共に作品が変貌していくのかもしれません。それでも私の作品には大きな変化はありません。ひとつの手法をじっくり煮詰めていくのが大好きという理由が私にはあります。作品が小手先にならないのは、陶彫という難解な技法によって満足できない結果にいつも悩まされているためです。なかなか巧緻になれない己の不器用さもあるでしょう。それがわかっているからこそ手法を変えられないとも言えます。意外に自分は頑固だなぁと思うところですが、幸い自分は20歳の頃に夢見たことに対して軸足を変えずに実現している自負はあります。夢を諦める言い訳が私には存在しません。今回の個展によって齎されたものは継続による指針です。もう来年の個展に向けて新作を作り始めているところです。来年の海の日からの個展開催は、ちょうどオリンピック・パラリンピックが開会を迎える時期に当たると、ギャラリーの田中さんに言われました。オリパライヤーの銀座には人が溢れているのでしょうか。来年は15回目の個展開催、公務員管理職としては再任用満了を迎える年でもあります。自分の足元をしっかり見据えて頑張っていきたいと思っています。夕方の搬出作業は、図録撮影や搬入の時のメンバーがギャラリーに集まってきてくれました。手際よく木箱に陶彫部品を収めて、僅か1時間程度で搬出作業は終了しました。ギャラリーの床に掃除機をかけて照明を落としました。飛ぶ鳥跡を濁さず。作品を積んだトラックは一路横浜の相原工房に向いました。手伝ってくれたスタッフの面々にレストランで夕食を驕り、無事に14回個展を閉じることが出来ました。

令和元年度の大鍋コミュニケーション

4月から新しい職場に転勤してきて、最初の大鍋コミュニケーションを行いました。仕事がひと段落して、来週7月22日から8月27日までは職員が夏季休暇を取りやすい環境を職場では作っています。職場の閉庁日を8月8日から15日までのお盆の時期に設定していますが、仕事に支障が出なければ、来週から休むことも可能です。職員はそれぞれ専門分野の研修会等があって、実質的には休める雰囲気ではありませんが、私としては下半期の多忙時期に備えて、充分身体を休めて欲しいと願っています。大鍋コミュニケーションは、私が前の職場で幾度もやっていた重要な職場経営ツールで、鍋を囲んで仲良くなるには絶好の方法なのです。ほとんどの職員は普段は専門職なので他者との協働は少なく、もちろん協働するイベントはありますが、基本は一人で行う職種です。それら職員を繋ぐもの、お互いが休憩を取り易くするもの、それがコミュニケーションです。意思疎通ができていれば、お互いの仕事をカバーしあうことができるし、心地よい職場空間をも獲得できると私は思っています。職場環境を整える方法は管理職によってそれぞれ違います。お互いが夏季休暇を取りやすい環境とは、制度的な環境もありますが、人と人との関係性も無視できないものがあると私は考えています。そこで私が考えたのが大鍋コミュニケーションなのです。昨晩は食材を購入するため近隣のスーパーマーケットに出かけました。職場のために手間暇かける、自分の得意とするところを職場で生かす、そんな思いで朝から鍋を作っていました。幸い職員はよく食べてくれて、私としては幸せに包まれました。自己満足なのかもしれませんが、それでも私は大鍋コミュニケーションを続けていきます。