週末 梱包作業に追われる②

昨日に続いて今日も朝から工房に篭り、梱包用木箱作りを行ないました。7箱作ったところで木材が足りなくなりました。昨日建材店に行って木材の追加注文をしてきたので、今日の午後3時過ぎにベニア板材を取りに行ってきました。木箱作りはすっかり慣れてきました。とりあえず20箱を作ろうと思っています。今日は建材店に行くまでに多少時間が空いたので、最新作品の彫り込み加飾をやっていました。2点目の陶彫部品は高さ50cmあって、これが一段目になります。さらに上に陶彫部品を積み上げていく予定です。最新作品は直方体に矩形模様を彫り込んだものを数多く作っていく計画でいます。今日は朝のうち雨が降っていましたが、午後になって曇りに変わりました。工房には毎週来ている美大受験生がデッサンを描きに来ていました。昼過ぎに染めのアーティストが工房に顔を出しました。工房に置いてあった染め粉や道具を取りに来たようで、作業台の下やロフトにあった道具を車に運んでいました。静岡で仕事があるとのことで、自分の技能で仕事が出来るのは幸せなことではないでしょうか。昨日来た文学系の子もそうですが、最近の工房スタッフは若返りが見られています。10代の子たちがやって来るようになるとは、俄かに信じ難いなぁと思います。これから自己表現活動を行なう子たちは、まさにスタートラインに立ったばかりで、真摯に自己発展を求める道と横道に逸れる迷いが生じて、決して安定した状態ではないはずです。ただし、工房という空間環境が迷いを遮断するものではないかと察していますが、どうでしょうか。私は創作活動にしても、今のような梱包作業にしても、コツコツ地道にやることで物事を達成してきました。彼女たちも同じかもしれません。私はまた来週末も梱包作業に追われているはずです。

週末 梱包作業に追われる①

週末になりました。朝から工房に篭って梱包用の木箱作りに精を出しました。昨年から木割を補強材として取り入れた木箱作りをやっていて、昨年の作り方を思い出しながら数点の木箱を作りました。工房の床に置いてある陶彫部品の数をざっと見積もると、20箱くらいは必要かなぁと思いました。ベニヤ板も木割も足りないことが分かって、今日は建材店に行ってそれらを補充してこなければなりませんでした。梱包用の木箱作りは創作活動ではありませんが、自分にとって退屈な仕事ではありません。祖父が大工、その先代も大工をやっていたおかげなのか、私はこうした仕事が苦にならず、寧ろ楽しんで出来ることを幸いに感じています。梅雨の鬱陶しい季節ですが、工房にいる間中、梱包作業に追われていました。今日は工房に若いスタッフが顔を出していました。毎週来ている美大を受験する高校生ではなく、同じ高校生でも文学をやっていきたいと考えている子で、彼女は詩や随想を書き溜めています。高校時代は私も詩人に憧れていた時期がありました。私の実家には文学的な環境が整っていなかったために、文学全集などは一冊もなく、詩に触れたのは高校の教科書を通してでしたが、授業の中で扱った詩の世界に惹かれてしまったのでした。私はコトバを操ることを途中で諦めて、美術の専門家になるべく人生の舵を切ったのでしたが、彫刻家になっても詩的な世界観がなければ創作活動は出来ないと今でも思っています。一緒に昼食をした時に、彼女のノートを見せてもらって、その初々しい感性に溢れたコトバに接しました。現在はネット社会であり、疑似体験が容易に出来ることが利点でもあり、また難しい点でもあることが分かりましたが、いずれにしても自分が感じたことを、コトバを通して表出できることは素晴らしいと思いました。この世界を継続して欲しいと願ってやみません。夕方、彼女を車で送りながら建材店に材料の買出しに行ってきました。ベニヤ板材の切断数が多いことと店が閉まる間近だったことで、ベニア板材の引き取りは明日になってしまいましたが、梱包作業は明日も継続する予定です。

イサム・ノグチ 社会的彫刻と壁画運動

「石を聴く」(ヘイデン・ヘレーラ著 北代美和子訳 みすず書房)は「イサム・ノグチの芸術と生涯」を扱った評伝で、今回は第16章「社会的目的をもつアート」と第17章「メキシコ」のまとめを行います。1933年に連邦政府によるアートプロジェクトの最初のひとつである芸術計画公共事業(PWAP)は始動したけれども、ノグチの作品は認められず、名簿から外される辛い仕打ちを受けました。そんな中で社会的な意味をもつ話題作「死」が作られました。「ノグチが『ニューヨーク・タイムズ』に語ったところによれば『人間に対する人間の非人間性』に対する抗議だった《死》の輝く身体は、炎の熱を避けようとするかのように脚を曲げ、死の苦しみに身をよじっている。ドラマにさらに切迫性をあたえるために、ノグチは像を本物のロープで金属の絞首台から吊るし、それによって鑑賞者をもこの犯罪の加担者とする。」また舞踏家マーサ・グレアムの舞台装置を手がけ、新たな空間を創出しています。「グレアムと仕事をすることでノグチは空間を彫刻し、装置をダンサーの動きの一部にできた。『マーサの場合、魔法のようなその小道具の使い方は驚異的だった。マーサは小道具を自分自身の身体の延長として使った』。『彫刻だったのはロープではない。ロープが創造した空間、それが彫刻だ』」。次の章ではメキシコに旅立ったノグチが、プロパガンダ的な壁画運動に参加したことが書かれていました。「ノグチは1935年最後の2ヵ月間に壁画レリーフの仕事をし、1936年はじめに完成させた。8ヶ月間のメキシコ滞在は最近のニューヨークでの怒りと欲求不満を鎮めてくれた。」また壁画運動の旗手ディエゴ・リベラの妻フリーダ・カーロとの情事もあったようです。「カーロは当時28歳、その美しさの絶頂にあり、ふたりはすぐに情事を始めた。官能的な唇とつながった二本の眉の下の突き刺すような視線、カーロはありきたりの美女よりもはるかに強くノグチを魅了した。」メキシコでは刺激的な日々を過ごしていたようです。

イサム・ノグチ 肖像から空間へ

「石を聴く」(ヘイデン・ヘレーラ著 北代美和子訳 みすず書房)は「イサム・ノグチの芸術と生涯」を扱った評伝で、今回は第14章「孤独な旅人、社交界の花形」と第15章「空間の彫刻に向かって」のまとめを行います。日本からアメリカに戻ったノグチは、世界的な恐慌を迎えて景気が悪くなる中で、前から取り組んできて家計を助ける唯一の手段である肖像彫刻をやっていました。注文は減っていたけれども、社交界との交流があって、ノグチは何とか著名人の肖像を作り続けていたのでした。そうした中で半抽象的なフォルムへ転回する試みが見られ、美術関係者からこんなコメントが寄せられていました。「リーヴィは、日米の血を引くことが『ノグチの作品を特徴づけるある種の両義的態度』に貢献しているのかと問いかけた。『ノグチはつねに抽象と具象、事実と意味の関連づけのあいだでうまく平衡をとろうとする一方で、はっきりいえば東洋的目的と西洋的目的の厳格な解釈を遂行する』」。次の章はノグチの求める世界がさらにモニュメンタルになっていく過程を描いていて、私には興味があるところです。「写実にあらずして人間的に意味のある彫刻、抽象的であると同時に社会的意義のある彫刻…アイデアは絶望の中で、夜、星を探しているときに生まれてきた」というノグチの言葉の通り、早くもこの時代に巨大なアースワークを模索していて、こんな文章もありました。「このモニュメントを『西部大草原のまんなか』あるいはオクラホマのどこかに建設したらどうかと提案した。『だが、ぼくはちょっと時代の先をいきすぎていた』たしかにそのとおりだった。40年後、アースワークは彫刻の分野における新たな展開としてもっともエキサイティングなものとなる。」そんな一方でノグチには母レオニーの死去という運命が降りかかります。「12月17日、ニューヨークに到着し、母親が肺炎を発症し、12月12日に人手不足で患者過剰のベルヴュー病院に入院したことを知った。2週間後、レオニーは59歳で息を引きとる。母を失うことはノグチにとって胸を張り裂かれる出来事だった。ひとつには母親の愛情をよりどころにしていたこともあって、自分が母をないがしろにしてきた、ある意味で捨て去ったのだと感じたにちがいない。」先日まで読んでいた母の伝記とは違うニュアンスが読み取れて、私には興味深く感じました。

自己研鑽としての読書

私は常に書籍を鞄に携帯しています。通勤途中で読むものは、比較的容易な内容のものにして、どこを開いても気軽に入っていける書籍がいいと思っています。書籍を選ぶ際に、私は癒しの時間として気軽に読める書籍と、自己研鑽として扱う書籍の2種類のものがあると思っています。現在、イサム・ノグチ関連の書籍を読んでいますが、これは国際的彫刻家が自己表現を広げていく上で、どんな空間解釈を獲得するに至ったのか、私にとっては自己研鑽に匹敵する要素もありますが、伝記の中に頻繁に出てくるエピソードには癒される面もあり、2種類の両方が存在している書籍ではないかと思っています。もうひとつは職場に置いていて、時間を決めて読んでいる論理学に関する書籍で、これには癒しの効果はありません。自分の思考を深化させるものと私は認識して、この重厚な哲学的論考に挑んでいるのです。まさに自己研鑽としての読書です。これはさらさら読めるものではなく、単元ごと、または頁ごとに行きつ戻りつしながら、論考の意図するものを把握しようとしています。こうした書籍を読破すると、私の中で部分的に印象に残るところがあり、時よりその論考が頭をもたげてくるのです。今まで読んだもので、それは人間関係の心理的な綾であったり、死生観であったり、モノの存在に纏わる基本的な考え方であったりしています。そもそも事実学ではないところが、芸術を生涯の友にしている自分にとっては必要と考えていて、自己表現を深めるべきものだろうと思っています。

「序論」について

「形式論理学と超越論的論理学」(エトムント・フッサール著 立松弘孝訳 みすず書房)を先日から読み始めています。本書は本論に入る前に「序論」があります。ここでは本書を執筆するに至った動機が述べられていますが、これについて到底私は簡単にまとめることが出来ず、その都度気になった文章を拾い上げることにしました。まず、学問とは何かについてです。「新しい意味での学問はプラトンによる論理学の基礎づけによって初めて成立するのであり、そしてその論理学とは、《真の》知識と《真の》学問の本質的な諸要求を究明し、そうすることによって学問の諸規範を明示する場であった。」諸科学の隆盛が論理学との相互関係を逆転させてしまっていることを憂いたフッサールは、こんなことも書いています。「論理学は、学問の純粋な本質的諸規範をそれらすべての本質形態について考察することによって、諸学を原理的に指導し、諸学が自ら真の方法を形成して、その進路のすべての段階で自らその責務を果たしうるようにすべきであるのに、今や論理学は論理学自身の学の理想と問題提起においても、事実学に、とりわけ人々が驚嘆する自然科学に導かれることに甘んじている。」また本書の目的として「真の学問の理念を学問の規範である論理学へ歴史的に回帰させることによって喚起させる一つの道」と述べています。論理学自身はどうかと言えば「この論理学の課題自身も、学問一般の真の意味を明らかにして、それを明確に理論的に開明することでなければならない。」としています。これについては「形式論理学本来の意味の志向的開明」であるとして「この開明は歴史的な経験が概観的にわれわれに提供してくれる理論的な形成物〔=概念や判断〕から、すなわち形式論理学の伝統的な客観的内容を組成している事物から出発して、それらの形成物を〈意味形成物として成立させた論理学者たちの生き生きとした志向〉の中へ引き戻すのである。」本書は第一篇「形式論理学の基本的概念の三層構造」と第二篇の「主観的ー論理学的な事柄」で成り立っています。加えて第二篇では「主観の側にかかわる意味の諸問題はすべて、自然な人間の主観性の諸問題すなわち心理学的な諸問題ではなく、超越論的な主観性の諸問題、しかも(私が導入した)超越論的現象学の意味での諸問題だ」と述べられています。うーん、頭を論理学とは何たるものかに切り替えていかないと、これは容易に読破できないかなぁと思いつつ、本書を閉じました。今日はここまでです。

イサム・ノグチ 中国と日本への旅

「石を聴く」(ヘイデン・ヘレーラ著 北代美和子訳 みすず書房)は「イサム・ノグチの芸術と生涯」を扱った評伝で、今回は第12章「自然に理由を見つけるために」と第13章「大地との固い抱擁」のまとめを行います。本書は2ヶ月読書を控えていて、久しぶりに戻ってきたのでした。というのはイサム・ノグチの母の伝記「レオニー・ギルモア」(エドワード・マークス著 羽田美也子 田村七重 中地幸訳 彩流社)を先に読んでいたためです。芸術家が誕生する契機とはどんなものか、母の生涯を通して私はその背景を探りたかったのでした。そこを踏まえてノグチの東洋への旅をまとめてみたいと思います。第12章の舞台は中国です。奨学金を得て、ノグチはまず中国の北京に滞在しています。「北京で過ごした日々、ノグチはできるかぎりすべての中国美術をむさぼるように吸収した。15世紀の寺院『天壇』に魅了された。ノグチによれば、そのフォルムは宇宙と地球の関係観念を表現した宇宙論を意味する。広大な寺院群のなかでノグチにもっとも強い印象をあたえたのは、円と正方形を組み合わせた段状の木造建築だった。」後年、ノグチの制作した公共的な彫刻作品に、円と正方形が象徴的な意味をもって登場してくるのは、この時期の影響かもしれません。次の第13章では日本への旅が綴られています。父野口米次郎との確執で微妙な関係だったにも関わらず、ノグチは京都を訪れています。「ノグチは京都で暮らした4、5ヶ月を『大いなる内省と沈黙の時期』と呼ぶ。『なにか原始の素材でアイデンティティを求めながら』『大地との固い抱擁』を楽しんだ時期だった。」この時期は陶芸に親しんでいたようです。「子ども時代に母から手ほどきをうけた仏教庭園の再発見は、彫刻のとりくみについて新たな考え方を促した。ひとつの彫刻が自己規定されたオブジェである必要はなかった。それは空間や庭園でもあるうるし、大地もまたアートの素材たりえた。」ここには重要な空間解釈があって、共感と共に私の心を打ちます。「日本に対するノグチの感情は曖昧なままにとどまった。わが目で見た外国人排斥と軍国主義はノグチにとって嫌悪の的ではあったが、それでも日本文化に対する情熱は消えなかった。」

週末 木箱の作り方を思い出す

梱包用木箱は東京銀座での個展が始まった当初から、陶彫部品を収めるために作っていますが、昨年から美術品運送業者の指導を受けて、木割を合板の補強として使った木箱を製作しています。昨年作った木箱の余り材料があったので、作り方を思い出しながら、今日から実際に木箱を作り始めました。今回個展に展示する陶彫部品も数が多く、幾つくらい木箱が必要なのか見当がつきませんが、搬入までの残りの週末は全て木箱作りと収納に費やします。昨年は電動タッカーを購入して作業効率を上げたことも思い出しました。昨年の木箱は全てロフトに上げているため、それらを一時保管していた場所が空いているので、今年もそこに収納が終わった木箱を積んでいこうと思っています。幸い今年の陶彫部品は昨年に比べるとやや小さめなので、規格の木箱からはみ出る心配はなさそうです。まず余り材料で5つくらいの木箱は用意できそうですが、今年も合板や木割材を補充しなければならず、それは来週末に建材店に行こうと思っています。今月中に何とか目途が立つでしょうか。合板をどのくらい使ったのか、木割材がどのくらい必要なのか、昨年の記録が残っていたので助かりました。今日も午前中は梱包用木箱作りに充てて、午後からは最新作品の彫り込み加飾を行ないました。最新作品2点目の陶彫部品は大き目の作品なので、なかなか手間がかかります。半日しか制作できないので、思うように進みませんが、梱包だけで一日を過ごすよりは、多少なりとも創作活動に関われた方が精神的な充実が図れて満足できます。今日も先週に続き、美大受験を考える高校生がデッサンを描きに工房に来ていました。描写の調子を上げつつある彼女は、デザイン系の構成をやりたいと言っていました。このデッサンが完成すれば、平面構成をやらせようかと思っています。工房に出入りしている先輩大学生の受験の時の平面構成があるので、それを参考に平塗りを教えていこうと思っています。私は高校時代に色彩が駄目で工業デザイン進学を諦めた過去があり、平面構成に関しては複雑な心境ですが、工房に出入りしている子たちは皆んな色感があり、私よりも優れたデザイン適性を持っていると思っています。そんなことを考えながら彼女のデッサンを見ていました。

週末 柱の梱包&最新作の加飾

週末になりました。個展の搬入まで数えるくらいしか週末がない中で、出展作品の梱包を最優先していますが、つい作りかけの最新作品が気になってしまい、今日も梱包の後で、創作的な仕事を入れてしまいました。梱包は「発掘~突景~」の3本柱を1本ずつ包みました。ビニールシートにエアキャップを貼って、作品が傷まないように配慮しているのです。次の梱包は数多くある陶彫部品になるので、いよいよ木箱を用意しなければなりません。明日からの梱包は陶彫部品になります。午後からは最新作品に取り組みました。現在作っている最新作品は50センチの高さがある直方体で、幅は30センチあります。先週末に成形が終わっているので、彫り込み加飾の下書きをやっていました。この時期は梅雨とはいえ、陽が照ってくると夏本番の暑さになります。雨が降ると一転して涼しくなるため、どうも体調が思わしくなく、今日も工房で6時間ほど作業をしていましたが、身体に妙なダルさがあって、気持ちよく作業は進みませんでした。最新作品はイメージが見えているようで、曖昧なところが多く、彫り込み加飾の下書きも陶板の表面に鉄針であたりをつけてみたものの、気に入らないので全てやり直しました。彫り込み加飾は工芸的な作業ですが、実は手間も時間もかかります。彫り込み加飾は明日も継続になりました。1点ずつ陶彫部品を丁寧に作って、それを集めてひとつの世界を創出させる計画は、始めたばかりのこの段階ではまだ先が遠くて、全体図はぼんやりとした霧に覆われています。1点ずつ近視眼的に部品を作っていく作業は、精神的には楽な反面、最終的にはどんなものになるのかハッキリと見えず、多少の不安を抱えています。創作の面白さはまだこれから起こってくるもので、今は我慢を重ねていく制作工程にあります。一気呵成に出来ない集合彫刻の生真面目な歩みこそ、自分らしさが出ると私は思っていて、焦らず休まずをモットーにして頑張っていこうと思っています。

「形式論理学と超越論的論理学」を読み始める

私は久しぶりに難解な思考に網羅された専門書を読もうとしているのですが、今までもなかなかそれに手が出せず、若い頃のように途中放棄をしたくないため、これから読んでいく書籍には慎重にならざるを得ません。自分の頭脳を一定時間それに費やさないと解読が出来ないので、今の職場の立場で休憩時間が取れる時に、自分を追い込んでいくのが得策と考えることにしました。自宅でゆっくりしている時は絶対に頭に入ってこない領域のひとつだからです。職場での休憩時間は45分なので、それ以上その日は読まないこととして日々取り組んでまいります。「形式論理学と超越論的論理学」の著者であるエトムント・フッサールは現代に至る現象学の体系を創始したオーストリアの学者として知られた存在です。フッサールは最初数学者として出発しましたが、現象学を提唱にするに至って20世紀哲学の流れを作ったという情報もあります。嘗て私が読んだ「存在と時間」を著したマルティン・ハイデガーは、フッサールの弟子でした。フッサールとハイデガーは論理の齟齬から袂を分かつことになりますが、双方とも自分が興味のある論理を展開したため、今回の読書に繋がりました。本書は現象学を紐解くために傍らに置いた方がよい書籍とされているので、フッサールの思考を考える上で重要なものだろうと思います。私が本書にどのくらい食らいついていけるのか、NOTE(ブログ)では小さなまとめを掲載したいと思っています。今までも専門書のまとめを掲載してきましたが、これは読者への語り口というより、私が自らのために行っているメモと思っています。読者には迷惑なことですが、ご容赦ください。

「レオニー・ギルモア」読後感

「レオニー・ギルモア」(エドワード・マークス著 羽田美也子 田村七重 中地幸訳 彩流社)を読み終えました。世界的に有名になった彫刻家イサム・ノグチの母であり、詩人野口米次郎の妻であったレオニー・ギルモアとはどんな人物だったのか、イサム・ノグチの伝記から読み取れるレオニー・ギルモアは、常に脇役であり、運命に翻弄されるままの女性という印象を私は持っていましたが、どうもそれだけでは語れないところがあるように思えました。運命を受け入れても自立した人生観を持ち、自発的行動力が伴っていることに、私は驚きました。また、イサム・ノグチの彫刻作品に対し、息子に信頼を寄せつつ、的確な批評をしていることも特筆できます。「訳者後書き」にこんな文章がありました。「実際、レオニーの受けてきた教育を知り、彼女が人生の節目、節目に自ら決断し、行動し、人生を自らの手で作りあげてきたことを知るにつれ、わたしたちはレオニー・ギルモアが、単に献身的で犠牲的な女性であったという考えは全面的に改めなくてはならないことに気がつく。~略~また、母としてのレオニーが、イサムを芸術家にするために、いかに強い目的意識をもってあたったかを知るにつれ、彼女の意志の強さに驚かざるを得ないのである。レオニーと野口米次郎との関係はある意味、悲劇的な結末を迎えたといえるが、案外そこに悲壮感がないことも興味深い。シングルマザーとして子どもを育てるレオニーの生活は、経済的には切迫していたものの、彼女はいつも前向きで、希望と活力に溢れている。」(羽田美也子・田村七重・中地幸 著)イサム・ノグチの芸術家としての出発に欠かせない母の存在、レオニー・ギルモアを知れば知るほど、彼女の生き様を通して芸術家の母としての揺るがない意志力に、私には頷けるものがあると感じました。

板橋の「深井隆ー物語の庭ー」展

昨日、東京板橋にある板橋区立美術館で開催中の「深井隆ー物語の庭ー」展に行ってきました。板橋区立美術館は過去に数回訪れたことのある美術館で、規模は大きくないけれど美しい空間をもつ美術館です。ただし、私の住む横浜からはかなり遠くて、嘗ては公共交通機関を使ったので電車を乗り継ぐのが大変でしたが、車で行くと割とすんなりと行ける美術館だったことが分かりました。彫刻家深井隆氏は私より5歳上の木彫家で、同じ世代と言ってもいいと私は勝手に思っています。経歴を見ると、藝大のアトリエで制作していた彼の方が恵まれた環境にあったように思いましたが、樟を使い、椅子や馬を象徴的に扱っている作品は、どこかの機会で拝見したことがありました。重厚感のある木彫の椅子に翼があったり、馬の上半身が彫られていて、これは何を意味するのか考えたこともあり、ただ、これは単体として彫刻を見せるのではなく、周囲の空間を意識して詩的なイメージを掻き立てるものではないかと察していました。何しろ空間の捉えが美しく、彩色した彫刻に自然な美を見て取れるのは、作家本人のイメージや考え方がしっかりしているためだろうと思いました。私がやっている陶彫もそうですが、自分の中で技術も含めて充分実材を咀嚼しておかないと、実材ばかりが目立ってしまい、何が作りたいのか分からなくなる傾向があるのです。作家のイメージが優先して見られるのは、長年にわたって樟という素材に、作家が正面から真摯に取り組んできた証と言ってもいいと感じました。質が高く、緊張した空間に私自身も活力をもらった展覧会でした。最後に図録にあった言葉を引用いたします。「『人間の存在とは何か、これを椅子、馬、柱といった形をかりて表現したい』という言葉からも明らかなように、深井が40年以上にわたる制作の中で作り続けたのは、人間の存在である。深井が人間の存在をテーマとしながら、作品の中に人間の形が認められないということは、ある特定の時代の人物ではなく普遍的な人間の姿を追求しているからであろう。」(弘中智子著)

年休取得して亡母の用事&美術館へ

今日は職場を休んで亡母の用事を済ませてきました。母は東京都大田区蒲田に生まれています。そのため戸籍謄本を取るのに大田区役所に行く必要があり、家内と蒲田駅前にある大田区役所に自家用車で行ってきたのでした。母は大正15年生まれで、18歳まで蒲田に暮らしていました。母が生まれた時の住所は荏原郡蒲田町大字で、実家は和菓子屋を営んでいたようです。母は川崎にある高等女学校を卒業し、横浜の父の元に嫁いできました。戦前の横浜市保土ヶ谷区(旭区)は、鬱蒼とした雑木林に田畑が広がり、車は滅多に見かけず、道の舗装もない片田舎でした。相原の家は所有している田圃からコメを収穫し、それを保存して自給自足の生活をやっていました。戦後になって私が生まれた頃の相原の実家にはまだ土間があり、そこに大きなコメ蔵がありました。台所は薪で火を起こしていて、台所の裏には五右衛門風呂もありました。今でこそ懐古趣味を擽りますが、当時の私はそんな実家の構造が嫌いでした。母も都会育ちだったので私と同じような気持ちになっていたでしょう。私や妹が学生になり、母は育児から解放されるとさまざまな稽古事に手を出し、青春を取り戻そうとしていたように見えました。大田区役所では古い記録を探すのに手間がかかっていたようでした。昼ごろに書類が整い、私たちは大田区から板橋区へ向かいました。東京都をほぼ横断するように首都高速を走りぬけ、板橋区立美術館に辿り着きました。多くの美術館の展示が始まっていない中で、板橋区立美術館が現代彫刻家の個展を開催していたので、久しぶりに美術館に足を運びました。「物語の庭 深井隆」展は5月10日に閉幕していたはずがコロナ渦の影響で会期を延長していたので、詩想に溢れた木彫の大作を見ることが出来たのでした。今まで外出自粛が続いていたため、美術館という空間に改めて新鮮さを感じ、彫刻という実材を伴う立体表現を実際に見ることは、何て素晴らしいことなのだろうと思いました。空間の中に点在する彫刻の凛々しさに私の気持ちもストンと落ちて、自分もこの世界の端くれにいることに誇りを持ちました。「物語の庭 深井隆」展の詳しい感想は後日改めますが、とても快い時間を過ごせました。

「第6章 帰国」について

「レオニー・ギルモア」(エドワード・マークス著 羽田美也子 田村七重 中地幸訳 彩流社)の「第6章 帰国」についてのまとめを行います。世界的彫刻家イサム・ノグチの母であるレオニー・ギルモアはどんな生涯を送ったのか、本書の頁を捲りながら彼女の人となりを考えていきたいと思います。「レオニーとアイレスは横浜港を1920年1月25日に中国郵船会社の南京号で出港し、2月11日にサンフランシスコに到着した。」東京や神奈川で過ごした日本に別れを告げ、母子はアメリカに帰りました。イサムは先にアメリカにいて、当時を振り返ってこんな文章を書いています。「この頃母はどうにかしてアメリカに戻ってきた。サンフランシスコに着き、間もなくニューヨークに到着した。母は多色刷りの版画や真珠、そのほか細々した物など、日本の物品を専門に輸入しようと考えていた。彼女はニューヨークのイースト10丁目にアパートを借り、私はそこに一緒に住んだ。~略~この頃私はまだイサム・ギルモアという名前で通っていて、完全にアメリカ人として順応していた。私には全く日本を醸し出すものはなかった。しかし自分が彫刻家であることを意識し始めると、私は心ならずも自分の名前を変えた。自分にはおそらく名乗る権利のない名前を名乗ったのだ。母は狼狽したが、反対はしなかった。そうしてむしろ私が母を離れ、日本を苦しみの中で選ぶのを黙認したのだった。」レオニーはイサムに芸術家としての人生を歩ませるために学校を探してきました。「イサムを芸術的運命へと引き戻すための最初のステップは、彼をアートスクールに入れることだった。1924年、レオニーはイサムが興味を持ちそうなアートスクールの噂を聞いた。前年12月に開校したばかりの、レオナルド・ダ・ヴィンチ・アートスクールである。~略~1924年にイサムは尊敬すべきオノリオ・ルオトロの下で学び始めたが、すぐにルオトロの推薦で、地域の芸術家グループの会員にもなっている。イサムの初期の肖像彫刻は主として友人のものであり、ラムリー博士は義父である故エメット・スコットの胸像を注文してくれた。ニューヨークに来て以来、イサムは父親の日本人の友人二人ー舞踏家の伊藤道郎と細菌学者の野口英世ー庇護の下にあったが、両者ともに、医学の道は捨てて、芸術家になれと励ましてくれた。」イサムは1927年に奨学金を得てパリに旅立っています。その後のイサム・ノグチの活躍はよく知られていますが、レオニーとイサムは手紙のやり取りをしていて相手を気遣う様子が伺い知れます。「イサムが12月17日(1933年)ニューヨークに戻ったときには、レオニーはすでに1週間近く入院していた。実は、かなり長い間レオニーの健康はすぐれなかった。心臓に問題があったのだが、動脈硬化がそれを悪化させていた。クリスマスが近づき、過ぎてしまっても、病状は回復しなかった。そして12月31日夕方6時30分に心臓発作を起こして、亡くなった。」レオニー逝去をもって第6章はここまでにいたします。

週末 作品の梱包開始

昨日、「発掘~聚景~」の屏風裏面の塗装が完了し、塗料は一日で乾いていました。そこで今日から作品の梱包を始めることにしました。屏風になっている厚板6点は、それぞれ別々に梱包することにしました。ビニールシートにエアキャップを貼って、砂マチエールを保護するように包みました。6点もあるので思ったより時間がかかり、午前中いっぱいかかりました。砂マチエールが厚板についているため重量はかなりあって、包んだ厚板を工房の端に運ぶのに一苦労でした。これで屏風は全て梱包されて工房の作業空間から姿を消しました。来週末は陶彫部品を収納するため木箱を作らなければならないなぁと思っています。午後は最新作品に取り組みました。一日中梱包をやっていると、創作意欲が失せるので同時並行して最新作品に取り組むことにしたのでした。陶彫部品の1点目は既に成形と彫り込み加飾が終わっていて乾燥を待っている状態です。今日から作り始めた2点目は高さが50cmくらいあって、少々手間がかかります。実はこれは一段目でさらに高くしていこうと思っています。午前と午後で梱包と制作を分けてやっていますが、なかなか手強い作業になって疲労が溜まります。一日工房で過ごしているとヘトヘトになります。今日も先週に続き、美大受験を考えている高校生がデッサンを描きに工房に顔を出しました。彼女は先週より調子が良さそうで、だいぶデッサン力が戻ってきたように思いました。夕方になって完成したデッサンに満足していました。高校はまだ通常通りになっていないようで、半日で帰る日が続いていると言っていました。梅雨になり、雨が降ったり止んだりしていました。昨日もNOTE(ブログ)に書きましたが、周囲の木々は潤っていて美しいと感じますが、身体を使う作業には鬱陶しい季節になって体調がおかしくなりそうです。また来週末もこの作業の継続です。

週末 屏風裏面塗装&最新作続行

週末になりました。関東は梅雨に入り、今日は時折どしゃ降りの雨が降りました。湿気を孕んだ気候は、人には不快を与えるものですが、陶彫には絶好の季節で、とりわけ乾燥がゆっくり進むので、その段階で罅割れることが少ないのです。陶彫にとって湿気は歓迎すべきことなのです。作業する身にとっては気温がそれほど高くなくても湿気によって汗が滴り、シャツに滲みを作っていました。今年も個展が例年のように開催されることになって、出展作品の修整や梱包に弾みがつきそうです。7月19日(日)が搬入日になったため、そこまでの週末の作業を計算してみました。私は横浜市公務員との二足の草鞋生活のため、毎年のように時間はないのですが、今年も例外ではなく余裕は全くありません。工房で午前中は、「発掘~聚景~」の屏風裏面の塗装をやっていました。裏面の塗装は6点全て完了し、塗料の乾燥を待って明日から梱包を始めます。「発掘~突景~」の番号印を貼る作業もやりました。出展作品の準備として今日はここまでかなぁと思い、午後には最新作品の2点目になる陶彫部品を作るための準備をしました。背の高い直方体を作るために数枚のタタラを作りました。小分けにして菊練りした陶土を掌で叩いて、座布団大に引き伸ばします。紐作りの補強用に陶土を残しておいて、水を打ちビニールをかけて準備終了となります。毎回やっている作業ですが、結構パワーを使います。夕方は雨が降ったり止んだりしていて、ふと目をやると工房の周囲にある木々の緑が潤っていて、とても美しいと感じました。とくに紫陽花の色彩は微妙なニュアンスがあって、暫し見惚れてしまいました。自分の作品は幾星霜にも耐えてきた建造物を表現した「発掘シリーズ」ですが、周囲にある花々の可憐な美しさは、自分の求める美とは真逆にある価値を有していて、心を和ませてくれるもののひとつです。工房に来る度に色濃くなる木々の緑に、常に変化する自然の素晴らしさを感じずにはいられません。うっとうしい梅雨ですが、周囲の自然環境だけは心にゆとりを持って眺めていたいものです。

個展開催の決定

東京都は、今まで出していた「東京アラート」を解除して、さらに休業要請などの緩和の段階を「ステップ3」に進める方針を固めたようです。「ステップ3」では、適切な感染拡大防止対策をとった上で、すべての施設の休業要請を解除するとしています。既に美術館は開館が可能な状態になっていましたが、公募団体などは中止措置を出していて、完全に元に戻ったことにはなっていません。一部には企画展を再開しているところもあり、私としては早く名作を鑑賞したい気分でいます。画廊は美術館再開と歩調を合わせるところもあり、東京銀座のギャラりーせいほうも既に開廊しています。今日、私はギャラリーせいほうの田中さんと個展開催のやり取りを電話でしました。結果は開催決定の運びとなり、ひとまず安心しました。ただ、来廊者がどのくらいいるのか見当がつかず、公共交通機関を使って東京銀座に行くことを躊躇する横浜在住の人もいると思います。マスク着用で来廊するように案内状に明記しますが、私たちは今後もコロナ渦と付き合っていかなければならないことを思えば、出来る限りの防備をして活動を再開するしか方法はないと思っています。何にせよ今年も搬入日を目指して作品の修整と梱包をやっていくしかないので、週末は相変わらず仕事に追われることになりそうです。

2020個展用図録の打合せ

今晩、懇意にしているカメラマン2人が自宅にやってきました。先日撮影した写真が出来たので、その数多くの写真の中から、私が図録に必要な写真を選ぶために資料を持参したのでした。図録は毎年同じ頁数、同じサイズで作っているので、外枠は決まっています。その中でどんな写真を使うのか、そのセンスが問われる瞬間がやってきました。私の写真選びは全く感覚的なもので、全体のまとまりとしてもあまり画像同士を関連させず、といってバラバラにすることもなく、微妙なところで決めています。あまり時間はかけません。迷いが生じるとよく分からなくなってしまうからです。今回の撮影の印象は周囲の草刈りを業者に暫し待ってもらったことで、例年より草が多いため色濃く緑が映えていることと、その日が曇り空だった関係で中間色が綺麗に出ていたことがあります。陶彫作品は生物的な有機体が露骨に出てきて、我ながら面白いなぁと感じました。屏風に接合した陶彫部品によってはキリストの磔刑像のようなものがあり、それは画像を見た時の発見にもなりました。床置きのステーションを形作る陶彫作品群も陰影がついて、何か生命が吹き込まれて動き出しそうな気配を感じて、これも面白いと感じました。これは例年のことですが、野外工房での撮影と室内工房での撮影のコントラストが今回も興趣をそそって、これも我ながら楽しいなぁと思いました。私は只管アナログな世界を求める者で、その他のことは考えられないのですが、カメラマンの視点によってデジタルな画像になると、これを本当に自分が作ったのかと信じられない面持ちになります。他者の感覚に委ねる面白さは格別なもので、図録はまさにカメラマンとの協働作業なのです。私一人ではこんな世界観をつくり出すことが出来ません。図録の写真選びも人に任せたいくらいです。まぁ、隣にいる家内から踏み込んだ助言があることも確かですが、多くの人の手を借りて、私の作品がカタチを成していくのだと改めて思っています。

大地から突き出た造形

陶彫部品を組み合わせて集合彫刻にしていく私の作品は、30代の半ばから始まりました。20代のうちは単体で彫刻を作っていました。習作期はほとんど人体塑造ばかりで、それによって立体構造の捉えを学んでいたのでした。それは粘土でカタチを作り、石膏取りをして保存する方法が一般的でした。そのうち陶土を焼成することで保存ができ、さらに焼成した陶彫が自分のイメージした世界を表現できるという発見が、私をして陶彫に駆り立てた要因です。当時のイメージは20代後半に旅したエーゲ海沿岸に広がるギリシャ・ローマの遺跡を見たことで、発掘された建造物に触発されたものです。大地に広がるパノラマのような造形にするには、単体で彫刻していたのでは無理があり、そこで陶彫部品を組み合わせて集合彫刻にしていく方法を思いついたのでした。発掘された建造物は荒涼とした大地にあったり、山肌を切り崩して存在していて、その見事な景観は乾いた風と共に私に強く印象づけました。その頃の写真を見ると、私も家内も真っ黒に日焼けしていて、やせ細っていました。私たちはウィーンからバスを乗り繋いでトルコやギリシャに辿り着いたのでした。遺跡を見ると土木技術の素晴らしさや、崩壊した街の構造そのものに古代文化の高さが窺い知れるのですが、私はその遺跡群が大地から突き出た造形のように思えて、大地を座標にして上と下に広がっている世界を思い描くことになりました。自然界では気候変動により土地が隆起することがありますが、古代都市もそんなふうに思えたのでした。これから作っていく最新作は、まさにイメージの原点に返って大地から突き出た造形をやろうとしています。

「突景」印のデザイン

少し前のNOTE(ブログ)に、「聚景」印のデザインというタイトルで新しい印を彫ったことを書きました。今回は「突景」印のデザインです。「発掘~聚景~」はやや大きめ、「発掘~突景~」は小さめの石材を選んで、印面をデザインして彫り上げました。「発掘~聚景~」は屏風と床置きがあり、陶彫部品がかなり多いため、写真撮影前までに印に番号を書き込んで貼り付けました。それを確認しながらスタッフたちが組み立ててくれたのでした。「発掘~突景~」の部品は、陶彫部品と木彫柱を合わせても6個しかないため、印は必要ないかもしれません。それでも私は新作には必ず新しい印を付けることを決めているので、「突景」印をを彫ることにしたのでした。陶彫部品に貼り付ける印はほとんど陽刻にしています。印には陰刻もありますが、私の好みで陽刻にしているのです。印を彫る作業は、私にとって好きな作業なのかもしれず、多忙な時に面倒と思っても嬉々として楽しみながらやっています。印刀も数本用意していますが、気に入ったものばかり使ってしまい、そろそろ印刀を研がなければならないなぁと思っています。印刻は本作品における必要に迫られた余興なのかもしれず、また表面に出ない創作活動と思っています。印をよく見てくれるのは作品の組み立てに関わるスタッフだけです。「突景」印のデザインも今まで通り構成は自由にやっていて、氏名が読み取れるギリギリまで抽象化しています。古代の絵文字のようなイメージで作っています。このところ印は結構増えてきて、工房の印を収める箱には数多くの印があります。今まで陽の目を見ない印ですが、印を集めて展示するのも面白いかもしれません。

アニメ「メトロポリス」雑感

昨晩、何気なく見ていたテレビからアニメ「メトロポリス」が流れてきて、思わず見入ってしまいました。手塚治虫原作、大友克洋脚本、りんたろう監督によるSF映画で、私は映画の存在は知っていたものの、これは初めて観ました。「メトロポリス」と言えばフリッツ・ラング監督によって1927年に公開されたドイツ映画が有名ですが、アニメ作品はその映画とも異なるストーリーでした。私が滞欧中に観たドイツ映画「メトロポリス」のゴシック調の摩天楼やら資本主義と共産主義の対立構造が、SF映画黎明期にしては革新的なものではないかと思ったものでした。とりわけアンドロイドの美しい女性が登場する場面は忘れられません。アニメ「メトロポリス」は、人間とロボットの共生社会の歪が描かれていて、現代社会の抱える問題にもなり得ると思いました。このアニメ全般にある背景の丁寧な描写や色彩が美しく、近代的なメカニックや地下街の混沌とした情景描写は制作者たちの気概を感じさせてくれました。この映画にも人間離れした可憐な女子が登場していました。これは手塚治虫へのリスペクトでしょうか。背景の素晴らしさに比べ、ややストーリーが分かりづらい部分もあり、声優の人選がどうかなぁと思う節もありました。ロボットによって恩恵を受ける人間がいる一方で、働き口を奪われた人もいて、これは私たちのリアルな世界でも訪れる可能性が大きいのではないかと思います。人間の自己中心主義が独占欲や傲慢さを生み、それ故にロボットが犠牲になっていく社会は、ロボットをアニミズムの対象として見ることに限らず、人間同士の中でも起こり得る人権の問題を孕んでいて、ちょっとした恐ろしさを感じました。アニメ「メトロポリス」は名作的要素がありながら、今一つ大衆浸透力に欠けるのは何でしょうか。映画をご覧になれば、分かり難く素っ気ない台詞等で誰でもが抱くであろう疑問があるのも確かだと思いました。

週末 新作修整&最新作陶彫成形

新作の修整と最新作の陶彫成形は、同時に進めていきます。新作の修整や梱包作業は創作活動ではないため、それだけではどうも気分が上がらないのです。今日は朝から工房に篭りました。久しぶりに美大受験を考えている高校生がデッサンを描きに工房に来ました。デッサンはスポーツや音楽の練習などと同じで、日々の鍛錬が実を結びます。コロナ渦の影響で時間が空いてしまったため、なかなか形態把握や描写の感覚が戻らず、彼女は苦労していました。私は一人で黙々と制作しているよりも、誰かがいてくれた方が張り合いがあって気分が乗ります。それでも普段の疲労が取れず、一日を工房で過ごすのに辛い時間帯がありました。今年の個展に発表予定の屏風がありますが、作品厚板の裏側の塗装が出来ていないため、今日は6点のうち2点の裏側を仕上げました。作品の裏側は見えない部分ですが、そこもきちんと仕上げておくのが私の流儀です。作品の裏側は見えないため撮影には必要がなかったので、先日の撮影日にはやっていませんでした。塗装は梱包前に仕上げておこうと思っているのです。塗装がある程度進んだところで、最新作の陶彫部品の成形と彫り込み加飾を行ないました。陶彫で直方体を作り、大小の矩形を彫り込みましたが、彫った面は微妙な曲面にして変化を求めました。新しいイメージによる作品としては第1号ですが、次はもう少しハイレベルでしかも困難を伴う陶彫部品を作ろうと思っています。集合彫刻のそれぞれの部品は自分の調子を見極めながらやっていくのです。そのうち新作陶彫部品の梱包のために木箱を用意しなければなりません。また今回も昨年から繋がった材木問屋の戸を叩かねばなりません。来週末も新作の修整や梱包作業と創作活動を同時並行でやっていきます。

週末 相続手続き&最新作陶彫第一歩

6月最初の週末を迎えました。今夏の個展で発表するであろう新作は全て出来上がり、先週末に写真撮影をしたところですが、新作は修整が多く、梱包を含めて今月の週末にやっていくつもりです。発表するであろうとしたのは、コロナ渦の影響で不確定なことが多く、ギャラリーがまだ個展開催を決めかねているのです。いずれにしても個展が予定通り行なわれても準備万端としたいところであり、今月の週末は全て個展に向けた準備に充てようと思っています。今日はそうしたこととは別に、ずっと税務管理をしてくれていた旧知の税理士を午前中に呼んでいました。母が亡くなり、母が所有していた財産に対する相続が発生することになったため、税理士に来ていただいたのでした。私は父が亡くなる少し前に、両親を連れて公正人役場に行っており、そこで父と母双方に公正証書を取得するように働きかけていました。祖父母が亡くなった時に、財産を巡って父の兄弟間で紛争になり、祖父母から口約束だけだった財産相続が、結局父の精神的負担になったことを私はずっと覚えていました。私の代ではそうしたくないと思っていたため、遺言として法的に根拠を持つ公正証書が必要だったのでした。これがあるため相続の手続きはすんなりいきそうで、この後どのくらい相続税が発生するのかを税理士に割り出していただこうと思っています。母の死後、次にやらなければならないことはこれです。骨の折れることですが、これも私の退職前に済ませたいことのひとつです。午後は工房に行って、個展展示用の作品の修整を行なっていましたが、同時に来年発表予定の最新作の第一歩を踏み出しました。既に出来上がった作品の修整だけでは、創作的気分が上がらず、最新作のことを考えていきたいのです。暫くは個展準備と最新作の創作活動、この両方を進めていこうと思っています。それにしても今日は疲れました。家内も疲れていました。夕方、気分転換を兼ねて梱包材を買いに家内と外に出ました。今までなら夕飯を外食で済ませていましたが、コロナ渦の影響で外食はずっと控えています。仕方がないと思いつつ、私は創作活動によって日頃のストレスが抑えられていることに幸せを感じています。

6月RECORDは「橙」

今年のRECORDのテーマは色彩です。「白」、「灰」、「藍」、「紅」、「緑」に続いて今月は「橙」にしました。これは橙色と言う意味で、橙の果実を指すものではありません。果実を指すのであれば、橙が橙色に色づくのは冬なので、今の季節には橙は相応しくないのです。因みに果実の橙はミカン科の常緑木で、面白い特徴があることを知りました。橙は正月飾りに使われる縁起物ですが、その理由が分かりました。橙は実が何年も木についていて落ちることがないのです。冬に橙色になり、暖かくなると青くなります。それを繰り返すため、橙は「回青橙」と言われ、長寿に見立てて縁起物の扱いをされるようになったのです。そのまま食べても苦みや酸っぱみがあって美味しいとは言えませんが、色彩の微妙な感じは美しいと思っています。色彩をテーマにするようになって、私は日本の伝統色を調べるようになりました。その名称が面白くてイメージが膨らみます。工房に出入りしている若いスタッフの中に日本の伝統色に興味を持って、そこからコトバを紡いでいる子もいます。確かに季節感や情緒を感じさせる名称が、いかにも詩的な興趣をそそるのかもしれません。橙色もそうですが、微妙な色彩ニュアンスがあって、1ヶ月のテーマとしてはイメージが限定されて難しいかなぁとも思っています。ただ、単純な12色の色相環ではなく、日本の伝統色を意識しているのには絵画世界を創りやすい心情が働いているとも言えます。色彩には心理的なものを表現できる強みがあり、それをRECORDで獲得できないかぁと思っているのです。現在は仕上がっていないRECORDが山積していて、悩ましい状態が続いていますが、少しずつ挽回を図りたいと思っています。

イメージの更新

新作のイメージはどういう場面で湧いてくるのでしょうか。私の場合は現行の作品制作が佳境を迎えているか、また課題に突き当たって困難を極めている時に、ふと湧きおこることが多いと感じています。現行の制作に落ち込んでいる時に、天上から新たなイメージが降りてきた経験もあります。現実逃避なのかとその時は思いましたが、そう感じてしまうほど藁にも縋りたい気分だったのでしょう。新たなイメージが湧きおこった時に、紙に描き留めておく作家も多いと思いますが、私は敢えて記録に残しません。記録より記憶を大事にしていて、数多いイメージの中から取捨選択があるまで心に留めておくのです。イメージは繰り返し登場してきます。一度で忘れるイメージもあります。その中でほぼ決まってきたイメージはさらに更新をしていきます。創作活動においてイメージを心に描いている時が一番幸福な時かもしれず、また作品が完成した時に当初のイメージを確認する時にも幸福を感じます。作品完成の確認は先日の図録用写真撮影の一コマでした。それはじっくり見て考えるものではなく、瞬時に感じてしまうものなのです。現在は新たなイメージが更新されて、さらに具体的な形態が浮かび上がっています。最初のイメージは箱の中に収まる世界を陶彫による集合体で表現しようと思っていました。イメージが更新されるにつれて次第に箱という枠が外れてきましたが、それでも矩形を留めています。箱は床置きにしようと思っていて、地を這うイメージはそのまま継続されています。最新作は床に広がる世界です。まだコトバで説明できない朦朧としたところもありますが、とりあえず来週末に最新作になる陶彫部品を1点作ってみようと思っています。厳密な全体設計図はなく、手を動かしながら具現化を辿っていく方法を私はとっています。

「第5章 神奈川時代」について

「レオニー・ギルモア」(エドワード・マークス著 羽田美也子 田村七重 中地幸訳 彩流社)の「第5章 神奈川時代」についてのまとめを行います。世界的彫刻家イサム・ノグチの母であるレオニー・ギルモアはどんな生涯を送ったのか、本書の頁を捲りながら彼女の人となりを考えていきたいと思います。「レオニーとイサムは四年半東京に住んだ。大森には一年足らずしかいなかったが、1911年秋には、今度は更に南に下り、横浜も越えて、海辺の町茅ヶ崎へと引っ越した。~略~茅ヶ崎は、東京から南西へと伸びた神奈川県にあり、レオニーはここで残りの日本での生活を送った。」とある通り、茅ヶ崎では子爵の別邸を借りていましたが、そのうち自分たちの家を建てることになります。その間中、友人のキャサリン・バネルへ宛てた手紙で当時の生活を知ることが出来ました。イサムの妹アイレスが1912年1月27日に誕生していますが、相手が誰なのか定かになっていません。イサムがインタビューに答えた記事があります。抜粋して紹介します。「私は二重のバックグランドを持っているわけです。とりわけ六歳かそれ以前ー多分、五歳か、六歳ごろから10歳まで、茅ヶ崎の田舎に住んでいた間にね。~略~そこには外国人の子供は一人もいなくて、僕の友達はすべて日本人の子供でした。~略~沢山の友達を持ったことはありません。何の思い出もありませんよ。実際、それはこっち(アメリカ)に来てからも同様です。素晴らしい友情を育むことはありませんでした。僕は孤独な人間だったのです。~略~母はすごく物静かな人でした。ちょっと引っ込んだ感じの人でした。全然自分を前に出すところがなくて。だから彼女の人生はとても孤独でした。友達もあまりいませんでした。それが僕に影響しているんだと思います。~略~結局、どんな社会にも属せない人間は、社会と接触しない人生に価値を見出すことができるというわけです。例えば、芸術家になり孤独になるということです。芸術家の生活というのは本当に孤独なものです。孤独な時にのみ、本当に創り出すことができるのです。もし孤独でなかったら、社交的でいい感じの人でしょうが、決して駆り立てられないでしょう。結局、芸術というのは、絶望から駆り立てられるのです。人間は自然にしていれば怠惰なものです。駆り立てられない限り、何もしないのです。」イサムは母より一足早く日本を離れて渡米します。イサムはレオニーが考えていた学校には入れず、アメリカの公立学校に入れられたことを後になってレオニーが知ることになります。レオニーとアイレスもいよいよ渡米する日が近づいていました。今回はここまでにします。

横浜開港記念日について

今日は横浜開港記念日です。私たちの職種は例年開港を祝って休日となるところを、通常勤務が始まったばかりのこともあって、今日は勤務を要する日になりました。横浜市の公務員である私は、横浜開港記念日について知っていなければならないものであるにも関わらず、その由縁をきちんと把握していないために、私自身が恥ずかしい気もしています。今日は横浜開港記念日について調べたものを書いてみたいと思います。横浜市から出ている情報によると、開港記念日が制定するまでに紆余曲折があったようです。「最初に調印された日米修好通商条約では、1859年7月4日に開港することになっていましたが、結局アメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、フランスの5カ国すべてに対して 旧暦6月2日に開港されることになりました。もともと神奈川が開港の候補地とされていましたが、 東海道沿いで外国人とのトラブルが予想されたため、 当時、辺鄙(へんぴ)で取り締まりやすい横浜の地が選ばれました。 横浜は水深も十分あり、港として優れていたため、開港後は急速に発展しました。当年の開港当日は特に祝賀行事も行われませんでしたが、1周年にあたる万延元年の6月2日に、山車や手踊りで街中あげて開港を祝ったのが、開港記念日の始まりです。」これによると現在の神奈川区は東海道沿いで多国籍間で問題があったため、そこより田舎の現在西区・中区があるあたりが選ばれて開港になったようです。今年は開港161周年に当たります。それでは横浜開港祭はいつごろ始まったのでしょうか。「横浜開港祭は、1981年に『国際デープレ横浜どんたく』として開催されたのが始まりで、翌1982年に『’82国際デー第1回横浜どんたく』として正式に始まりました。1984年の第3回より『横浜どんたく』となり、1993年の第12回より『横浜どんたく開港祭』、1995年より『横浜開港祭』となり、2020年度第39回を迎えるに至りました。横浜開港祭は、例年、港に感謝し、市民と共に横浜の開港記念日である6月2日を祝い、賑わいのある様々な催しを実施し、まちづくりと観光の活性化を図るために開催される”市民祭”です。」毎年パレードがあって私は楽しみにしていましたが、今年は新型コロナウイルス感染症のために中止になっています。来年は盛大に行なわれることを期待しています。

仕事再開の6月に…

新型コロナウイルス感染症の影響で、6月になって漸く仕事が通常勤務になりました。ただし、感染症対策は怠りなくやっていかなければならず、完全に仕事が回復した状態ではありません。それでも職場で全員が顔を合わせるのは、本当に久しぶりでした。今月はさまざまなところで再開があり、待ち望んでいた美術館・博物館や劇場・映画館の再開を嬉しく思います。創作活動は緊急事態宣言が出されている時も関係なく続けていたので、これは世情に左右されるものではありません。昨日は図録用の写真撮影を行い、新作は何とか完成した状態にもっていきましたが、修整箇所が大変多く、今月は修整しながら陶彫部品や厚板材の梱包に入りたいと考えています。それと同時に来年発表する予定の最新作に取り掛かろうと思っています。私はひとつの作品が完成すると、すぐに次作に取り掛かります。そのタイミングで休憩は取りません。休憩は制作途中で取るのが私の流儀です。作品の世界はずっと継続していくもので、作品の完成前に次なるイメージが湧いて出てきます。それをすぐに具現化したい欲求が私にはあるのです。来週末には最新作の陶彫部品第1号を作ります。陶彫制作が順調な分、RECORDが厳しい事態になっています。私はどんな場所でも小さな平面作品であるRECORDを作ることができると自分を買い被っていました。ところが自宅のリフォーム工事があってダイニングの食卓が使えなくなると、忽ちRECORDの彩色が出来なくなってしまうことに唖然としました。RECORD制作も環境を整えることが必要なのかと思った次第です。今月も読書は継続していきます。読書がやや現実逃避になる傾向が私にはあり、きっとそうだからこそ生活のバランスをとっていられるのかもしれません。今月は先月できなかったところを補えればいいなぁと思っています。

週末 2020年図録用撮影日

毎年、この時期に個展の図録用に彫刻作品の写真撮影を行っています。数えればもう15回目になりますが、この日が新作のゴールになるため、私は朝から気持ちが休まることはありません。集合彫刻である私の作品は、今日漸く完成して初めて組み立てるのです。つまり完成作品の全貌が見られる最初なので、私にとってファーストインパクトがどうなのか、そこで一瞬にして作品の良し悪しを私自身が決定づけてしまうことになるのです。陶彫部品を構築することに慣れているとはいえ、作品が最初のイメージ通りになっているのか、造形的主張はブレずに出ているのか、成功か否かの判断を下すことにもなります。大抵はほぼ成功し、そこそこ満足できる結果になりますが、課題もまた見えてきます。だからこそ次へ繋がることにもなると言えます。今回も例外はなく全体的に上手くいったと思っています。陶彫の動きが一層生物的になり、地中海の遺跡から発想した当初のイメージは、10年以上も経過して別の要素が加わり、地下に蔓延る生命体のようになってきたと感じました。地を這うモノが廃墟と化した架空都市を覆っていくイメージは、「発掘~聚景~」の根幹を成すものです。逆にテーブル彫刻「発掘~突景~」は三角形を基本とする中空に浮かんだ物体をイメージしました。今日は朝から男性アーティストが2人、女性アーティストが1人、美術に関係した高校生3人、家内と私、それにカメラマン2人の合計10人で作業を行いました。今までの撮影日の中では最も多い人数が集まりました。まずは駆けつけてくれたスタッフの皆さんに感謝申し上げます。皆さんの協力なしでは私の作品は組立てられないのです。調子の良いことを言えば、この人たちが個展の搬入と搬出に関わっていただければ、個展の準備もスムーズにいくと思っています。またこの人たちが私の工房を利用していることもあって、それぞれが異なる素材を使って創作活動を展開しています。こうした関係は大切で、お互い励まし合っていきたいと願っています。

週末 母の四十九日法要&撮影準備

母は4月7日に他界し、4月13日に葬儀を行いました。享年94歳。大正、昭和、平成、令和を生きた人でした。今日は我が家の菩提寺である浄性院で四十九日法要を行いました。葬儀の時よりやや多い人数で法要を行い、母の遺骨は墓石の下に収められました。それまではリフォームした1階自宅のダイニングの大きな窓の近くに母の遺骨を置いていました。母はどうやら大往生で成仏したらしく、自宅のダイニングに遺骨があっても不自然な雰囲気はありませんでした。魂入れをした位牌は新しく購入した小さめの仏壇に納めました。人には必ず終焉がやってくるのを改めて認識し、その時までをどう生きるのかを私は何度も考えていました。それは社会人としての自分よりも、創作者としての自分の方が生涯を振り返った時に、生命の輝きを感じさせてくれるのではないかと思っているのです。私は公務員なので必ず退職がやってきます。組織を動かしていた自分はそこで終了します。仕事で繋がっていた仲間もほとんどが職場だけで終わりになり、私を含めてそれぞれが次のステップに進むのです。退職後は家計を支えることから解放され、単純に生きがいを感じさせてくれるもの、私にとっては創作活動ですが、そこに居場所を見つけて人生を謳歌していくことになります。母の四十九日法要で、自分なりの今後の人生をイメージしたところですが、そのイメージが今日は隣り合わせになっていて、明日は作品の図録用の写真撮影を行ないます。そのための準備が必要で、実際には法要の前後に工房に行って、陶彫部品のナンバリングをしていました。朝6時から9時まで接合用ボルトナットの塗装をしました。法要から帰った午後12時半くらいから夕方6時までは和紙に押印したものに番号を書きいれ、陶彫部品の見えない箇所に貼りつけました。家内にテーブル彫刻の組み立てを手伝ってもらいました。柱に補強具が必要なことが分かりました。何とか明日の撮影には漕ぎ着けられそうですが、まだ修整ができていないところがあります。それは撮影には問題なさそうなので、とりあえず今日の準備はこれで終わりにしました。

外出自粛の5月を振り返る

今日は5月の最終日ではありませんが、今月のことを振り返ってみたいと思います。5月末は週末で、明日の土曜日は母の四十九日法要があり、明後日は図録用の作品撮影日になっていて、そのことについてNOTE(ブログ)に書こうと思っているため、今日は2日早いのですが、外出自粛の5月を振り返る機会にしました。今月はゴールデンウィークがあり、さらに週末に加えて在宅勤務の際にも工房に足を運びました。制作時間は例年より確保されていたように思いましたが、最終的にはかなり慌ただしくなってしまったのが不思議でなりません。それでも何とか個展に出品する作品を揃えるところまできました。通常なら日々の仕事に追われ、しかも鑑賞に美術館や映画館に行っているわけですが、今回は外出自粛のためそれも出来ず、創作活動一本に絞って取り組んだはずなのに、余裕はまるでありませんでした。亡き母の用事として仏壇や位牌を選んだり、母の年金の手続きもしてきました。また自宅のリフォーム工事の最終チェックもあって、私的にもけじめがついた1ヶ月だったと思っています。そんなことが相まって妙に疲れた1ヶ月でしたが、職場が新型コロナウイルス感染防止のためにさまざまな対応を迫られたのも、ずっと後まで記憶されるのだろうと思っています。RECORDは厳しい状態が続いています。下書きの山積みが大きくなっていますが、図録用の撮影が終わったら、気を取り直して頑張ろうと思っています。読書はイサム・ノグチ関連の書籍を持ち歩いていますが、読書時間が不定期なため、なかなか進みませんでした。来月こそ今月の足りなかった部分を挽回していこうと思っています。