「超越論的哲学の論理学の基礎づけ」第92節~第93節について

「形式論理学と超越論的論理学」(エトムント・フッサール著 立松弘孝訳 みすず書房)の小節のまとめを行います。第二篇「形式論理学から超越論的論理学」の第5章「超越論的哲学としての、論理学の主観的基礎づけ」に今日から入ります。これも前章と同様題名が長いので表示を多少省略をさせていただきました。今回は第92節から第93節までを読み解いていこうと思いますが、第5章はこの2節だけで終わりになります。まず従来の歴史的論理学はリアルな世界に関係しているという箇所を引用いたします。「真の存在一般、述定の真理と理論一般および〈予め一般に存在する事柄として前提されているこのことへ、経験と理論的認識とによって肉薄していく可能性〉は、伝統的な形式論理学においては、一度も検討されたことのない自明なことであった。この伝統的論理学こそが論理学だーすなわち予めの所与と考えられるリアルな世界にとっての形式的命題論と形式的存在論だーと言えるかもしれない。」次に論理学を実証科学の一つと見なす論考のこんな部分に気が留まりました。「可能な絶対的明証性が成立していることは、論理学者にとってはアプリオリに確かなことであり、しかもこれらの明証性は認識能力をもつすべての人にとって一様に成立すると考えられている。この点は万人に平等である。それ自身の絶対的真理の中で絶対に存在している事物は、実際ありのままに観取され洞察されているか、あるいはそうでないのかのどちらかである。」次にデカルト以降の不十分な経験批判に関する論考が続き、「デカルトは超越論的なテーマを論考するために、素朴なアプリオリな相続財である因果性のアプリオリを利用し、存在論的な各明証性と論理学的なそれらを素材に前提して操作している。そのため彼は彼が発見した自我の、すなわち認識の順序では世界の存在に先立つ自我の本来の超越論的意味を誤認している。」とありました。超越論的現象学の普遍的な問題として、こんなことが論じられていました。「私の純粋意識の主観としての私のエゴへのデカルト的還元によって新しい種類の認識の可能性がーすなわちもっぱら私の純粋意識のさまざまな可能性によって、それ自体に存在する事物が、そのような意味をもって私にとって存在する事物としての、それ自体に存在する事物の超越論的可能性がー問題になったということと、さらにこの問題を含む可能性が、人々がすでに認識によって所有している実在物から、まだ所有していない別の実在物について推論するという、まったく別の可能性と混同されることとに起因している。」今回はここまでにします。

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