「諸原理の明証性批判から経験の明証性批判へ」第87節~第91節について

「形式論理学と超越論的論理学」(エトムント・フッサール著 立松弘孝訳 みすず書房)の小節のまとめを行います。第二篇「形式論理学から超越論的論理学」の第4章「論理学の諸原理の明証性批判から経験の明証性批判への回帰」ですが、題名が長いので表示を多少省略をさせていただきました。今回は第87節から第91節までを読み解いていこうと思います。ここまでで第4章「論理学の諸原理の明証性批判から経験の明証性批判への回帰」は終わりになります。「論理学者は彼自身の論理学の諸原理を根源的かつ明証的に獲得する際には、何らかの判断(範疇的形成物)を範例として念頭に置いている。彼はそれらの範例を自由に選択する意識の中で《何らかの諸判断》一般という意識を形成する。そして真理と誤謬についての各洞察は純粋に一般的に構想されていなければならず、それら洞察の典型的な本質類型は変更の中でも保持されるのである。」次に判断としての意味と判断内容としての意味を論じている節がありました。「《意味》には調和と不調和(背反)があり、しかもここで意味とか意味の全体とかが表現している事柄の場合に問題になるのは、実際適切に行われた判断、つまり整合性の意味での判断ではなくーやはり判断と真理の論理学である。互いに背反する諸判断が今はこうして一つの意味の統一性の中で調和しあっている。」また「すなわち判断指示という意味での判断の適切な遂行を可能にするために、統語法の素材ないしは核が果たす機能は、いったいどのように理解されるのであろう?この場合の解明は志向的な成立の中に含まれている。判断そのものはどれもそれぞれの志向的成立を、換言すれば、本質的な動議づけの諸基盤を有しているのであり、仮にもしそのような基盤がないとすれば判断は、何よりもまず確実性という根本様態で存在することができなくなるであろうし、さらに変様されて存在することもできなくなるであろう。」とありました。真理論理学の諸原理の適用として「明白にすべきは、〈論理学の諸原理が無条件に妥当するのは、意味的に共属関係にある核をもつすべての判断、すなわち統一的な有意味性の諸条件を充足している判断に対してだけだ〉ということである。」とありました。新たな諸問題に対して「論理学の諸前提とその《真理》の概念との批判を通して、おそらくわれわれは、経験とその諸対象ー《諸実在》ーへの還元ということには何の影響も与えずに、あの真理概念をこれまでとは違う、さらに広い意味で理解するようになるであろう。」今回はここまでにします。

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