「茶室」について

「藤森照信建築」( 藤森照信著 増田彰久写真 TOTO出版)を読み始めて、というより写真を眺め始めて、その斬新な茶室について興味が出ました。書籍に取り上げられている藤森流の茶室は「一夜亭」、「矩庵」、「高過庵」、「茶室 徹」、「薪軒」、「炭軒」、「松軒」の全部で7つあって、どれも空間造形として刺激を受けるほど面白いなぁと感じました。「小さいこと、豊かであること、火があること、この三つからして茶室は、人類の建築の一つの結晶体といっていい。~略~こうした茶の世界を確立した人物を千利休(1522~1591)という。ミケランジェロが47歳の時に、日本で生まれている。利休は、茶の世界のミニマル化に挑み、面積においては畳二枚(1.8m四方)まで推しすすめ、茶の美の中核となる茶碗においては、ロクロによって作る色付の茶碗を捨て、手びねりの黒一色の”黒楽茶碗”に到達している。」次に「一夜亭」を解説した文章から拾います。「独立系の茶室は、客を招く座敷の回りに広がる庭の一画に庭木に少し隠れながら、点描のようにチョコッと置かれることが多い。草庵ふう茶室の原型は、京の市街地の町家などの裏庭の一画に設けられた”市中の山居”たる庵と考えられているが、独立系の茶室はその伝統を引く。」次に「高過庵」。「茶室は、衣服に近いというか身体の延長に展開する小空間であり、住宅の私性をさらにつきつめた極私的建築にほかならない。茶室は、本来、自分のために自分で作るものなのである。自分のための茶室を作ろうと思い立ち、作ったのが、この高過庵である。~略~思わぬ光景があった。田畑で働く村の人々の光景が、まるでブリューゲルの絵のように見えるのだ。ブリューゲルの野外光景の絵は、人間よりは高く神よりは低い視点で描かれていることに思い当った。」ここに登場する「高過庵」は高い柱の上に建つ茶室で、ちょっとシュルレアリスム的な空間造形にも見えます。これはたしかテレビ番組の中で紹介されていたと記憶しています。最後に「松庵」。「茶は、日本に入ってきた当初から”文”との結び付きが強かった。喫茶の習慣は禅宗寺院にまず入り、さらには、利休をはじめ茶人は鴨長明などの中世の歌人、文人が世捨て人として生きた庵に、茶室の基本を見出した。いつも茶と文は切れない関係を保ってきた。」茶室は、茶会をするだけではなく、そこで書籍と向き合い、じっくり読書をする小空間として考えるならば、この隠れ家的な趣は清楚な贅沢と言えるでしょう。この余裕に羨ましさを感じるのは私だけではないはずです。

「藤森照信建築」を読み始める

先日まで読んでいた「建築とは何か 藤森照信の言葉」(藤森照信他著者多数 エクスナレッジ)に続いて、「藤森照信建築」( 藤森照信著 増田彰久写真 TOTO出版)を読み始めました。この書籍は分厚く持ち歩きが困難なため、職場の私の部屋に置いています。ほとんどの頁が大判の写真のため、目で楽しみつつそれぞれのユニークな建築に纏わる文章を読んでいきたいと思います。書籍の冒頭に「人類の建築をめざして」という文章がありました。その中で注目した箇所を引用いたします。「最初に注目したのは生命現象だった。アール・ヌーヴォーの動植物の層である。そうした生命現象の層の下にはアール・デコに代表されるような鉱物の層があった。鉱物の層の下には数学の層が隠れていた。鉱物の結晶の形を決めるのは数学。」この例えの面白さに感覚を擽られました。「20世紀建築を考えるとき、くれぐれも忘れないでほしいが、20世紀建築の本質はどの国どの地域のものでもない。むろん、ヨーロッパのものでもない。生れた場所が、20世紀刊の地図にはヨーロッパと書かれていただけ。本当に、インターナショナルなのである。」その後の文章に著者が建築をやるようになった動機が書かれていました。「生まれ育った田舎の、諏訪大社上社の筆頭神官守矢家の史料を収蔵展示する小さな博物館を建てたいというのである。~略~私は、守矢家のすぐ隣に生まれ、先代当主に名前を付けてもらい、現当主とは幼なじみ。子供の時から先代が、鹿の頭や、生きたカエルを矢で刺して、神様に献ずるのを見てきたし、出雲から進入した勢力を、天竜川の河口で迎え撃ち、敗れた時の戦のようすや、敗れて神の座を出雲勢にゆずり、筆頭神官となり、稲作を教えられたことなどを親から聞いて育った。」著者はそんな契機から建築家への道を歩み始めたようです。「モダニズム建築には、構造体を表現として見せる、という鉄則がある。ル・コルビュジエの打放しコンクリートやミースの鉄骨はその好例なのだが、この鉄則を犯すことになる。鉄やコンクリートをムキ出せば精神的犯罪、隠せば建築的犯罪。結局、腹をくくり、構造体を自然素材で包んで隠し、建築的犯罪を犯すことにした。やるからには完全犯罪に仕立てないといけない。バレたり、なんかヘンダナと感じさせても失敗。」というわけで「神長官守矢史料館」が完成しました。私はまだ実際の建物を見ていませんが、懐かしい感じのする素材感に溢れた建築かなぁと写真を見て思っています。無国籍の民家と原廣司氏に評された建築ですが、ユニークなのに風景に溶け込んだ建築だろうと思います。

「建築とは何か 藤森照信の言葉」読後感

「建築とは何か 藤森照信の言葉」(藤森照信他著者多数 エクスナレッジ)を読み終えました。建築史家であり、自らもユニークな建築を作っている造形家でもある著者は、私がずっと注目してきた人であり、その言葉を刻みつけたい著述家でもあります。最後に藤本壮介氏、布野修司氏2人の建築関係者からの質問があり、そのうち藤本氏の五原則の問いかけが私にとって面白かったので引用いたします。その五原則とは、柱・土・洞・火・屋根の5つになります。まず柱。「日本の独立柱は、構造材という実用性を超えた特別な意味が付与される場合がある。例えば、家全体の中心位置の柱を大黒柱と呼んで神聖視したり、一番格式の高い部屋の正面の飾り柱を床柱と名づけ、一番高価な柱材を立てる。」次に土。「土盛りや土塊には、柱のような人間の意志や力は感じられず、いつしか盛り上り、自づと土の粒が集って塊を成し、いづれ大地に還るような印象がある。」次に洞。「大地に穴を掘って住めばいい。洞窟である。洞窟は、土盛りや土塊と同じように、目地がなく、床、壁、天井がぐるりとつながる。土盛りや土塊の反像といえばいいか。~略~こうした洞窟状態について、自分の中に閉じこもった、と説明される。自閉とも引きこもりとも言う。デカルトこそがモダニズムの哲学的基盤を築いたと30年前の原広司は語った。同じデカルトは、洞窟状態をいたく批判している。ということは、モダニズムの対極は洞窟、ということになる。」次に火。「茶道には千家の『茶の湯』ともう一つ別に『煎茶』の流れがあって、作法も茶室も相当ちがうことは知っていたが、炉の有無が重要なポイントとは思いもよらなかった。~略~でも、茶室から炉と火を抜いたらどうだろう。エネルギー源が消え、ただ狭いだけの空間になってしまうのではないか。極限的に狭くしながらしかしその中心には火がある、この緊張が、この凝縮が茶室の本当の魅力なのだ。破壊寸前の空間。」最後に屋根。「世界大戦は屋根と外壁とのあいだで闘われた。屋根面を見せない外壁勢力は、文明史の相当早い段階、例えば新石器時代には地中海東側の”肥沃な三日月地帯”を支配していたらしい。そして支配はメソポタミア、エジプト、ギリシャ、ローマとつづく。~略~20世紀初頭の闘いで屋根は箱に負けた。たしかに屋根は負けたのだが、でも最後に負けたということは、白い箱に最後まで抵抗するだけの強い表現力を持っていたのが屋根だった証となる。」読後感としてのまとめにはなりませんが、一応著作としてはここまでにして、次に藤森照信建築写真集が手元にあり、それを眺めながら、もう少し藤森ワールドに拘っていきたいと思っています。

建築家等からの意見・感想③

「建築とは何か 藤森照信の言葉」(藤森照信他著者多数 エクスナレッジ)の第2部では、藤森照信氏の著作や建築を巡って、著者が他の建築家からの質問に答える形式を取っています。今回は3人の建築家が登場します。まず西沢立衛氏の「インターナショナル・スタイルでいうと、どの地域、どの文化であっても成り立つある普遍的なスタイルの確立という方向性を感じますが、その場合、敷地条件のちがいや建物毎のプログラムのちがい、もしくは気候風土・文化のちがいなど、そういったプロジェクトごとのさまざまな個性差というものはどのように考慮され、建築に統合されていくのでしょうか。」という質問です。それに対して「原理的に差はないのに、現実の建物の姿形が変ってくるのはなぜだろう。おそらく、普遍的なスタイルという数式に代入する数値の差にちがいない。建物という数式の各項はあまりに多く、数も大小さまざまだから、統合されて出された答は多様に見えるが、少し距離を置いて眺め、統合を支配している数式に着目すれば、同じ式であることが透けて見えてくる。」という著者からの回答・解釈がありました。次に林昌二氏。「建築の歴史について、それは人類の歴史と同じく、始点の原始時代と終点の現代には多様性がなく地上のどこも同じ単純さ単調さを見せ、中間(だけ)が多様に膨らんでいる、それは紙に包んで捻ったアメ玉みたいだ、と卓見を述べられ、これをしゃぶらずに死ぬのは惜しい、とされました。」との感想にも「これから後にアメ玉をしゃぶる人に残されているのは何だろう。まず第一は勇気をふるって漸近線に投ずることだ。21世紀はまだ何十年も残されているから、原点0に一致しなくとも、間近にまざまざと見ることはできるかもしれない。」と著者はユーモアをもって、しかも真摯に返されていました。最後に原広司氏。「単純に言えば、建築的な意味において、現代をどのような課題を担う時代であると考えるか、がその質問の要旨です。」それに対して「現代は、建築的な意味において、時代的課題を喪った時代だと思う。20世紀建築の原点0を求める道は、21世紀にも進むだろうが、時代を引っ張り、いやおうなしに他を巻きこむような強制力はもはやない。」と著者は言い切っており、また「人類の長い長い建築の歴史は20世紀で完結したかもしれない、という疑いを『人類と建築の歴史』を書いた時に否定できなかった。先に述べた原点0を求める漸近線状態に入っているのかもしれない。未来が漸近線的完成過程とするなら、その状態に身をまかすのも一つだと思う。」と意見を述べています。今回はここまでにします。

新聞掲載のフロイトの言葉より

昨日の朝日新聞にあった「折々のことば」(鷲田清一著)に興味関心のある記事が掲載されていました。全文書き出します。「百パーセントのアルコールがないように、百パーセントの真理というものはありませんね。ジークムント・フロイト」という言葉に対し、「オーストリアの作家、ツヴァイクは、友人でもある精神分析家がふと口にしたこの言葉が忘れられない。《無意識》という暗部にメスを入れたフロイトにとって、不快だ、危険だという理由でそれに蓋をすることはありえなかった。人は認知も制御もしえないものを内蔵するからこそ、つねに覚醒を心がけねばならないのか。作家の回想録『昨日の世界 Ⅱ』(原田義人訳)から。」ジークムント・フロイトはユダヤ系オーストリア人で、19世紀から20世紀にかけて生き、精神医療の世界で偉業を成し遂げた人として記録されています。ウィーンでヒステリー治療を行なった開業医であり、その治療法は精神分析と名づけられました。精神分析は無意識に関する科学とされ、私も著書「夢判断」を読みました。そうした動きはシュルレアリスム運動の理論的基礎とも位置づけられて、私も彼の理論を齧ってみたくなったのでした。因みに私の興味は彼の「宗教論」に注がれました。この書籍の面白さは、それが真実かどうかはともかく印象には残りました。彼にとって真理とは常に覚醒を伴って更新されるものだったと私は理解しています。フロイトの言葉を記憶したシュテファン・ツヴァイクもフロイトと同時代に生きた作家でした。私は20代でウィーンに滞在するまでツヴァイクの名を知らず、ウィーンで彼の業績を知ったのでした。原語で読めるほどドイツ語の知識がなかった私は、日本から「マリー・アントワネット」(上下巻)と「ジョゼフ・フーシェ ある政治的人間の肖像」の和訳版を送ってもらい、夢中で読んだ記憶があります。2冊ともウィーンで読む伝記は、格別な趣向を伴い、時代錯誤に陥りそうな街角を、私は何度も彷徨い歩きました。ウィーンの旧市街に見られる路地が入り組んだ街角は、精神分析という学問を生んだ風土が良く分かるなぁと思いました。それは理屈ではなく、何となく立ち込める空気感のようなものでした。新聞掲載のフロイトの言葉によって私には個人的にさまざまな記憶が甦ってきましたが、実はこのコロナ渦の不安定な時代に一石を投じた記事だったのかも知れず、私の深読みが記事とは異なる方向にいってしまったように感じました。失礼をいたしました。

週末 新作土台作りの再開

週末ですが、職場では今日まで休庁期間になっています。私は明日と明後日を年休にしているため、私の仕事始めは6日からになります。明後日までは引き続き工房に通い、創作活動に邁進するつもりです。昨年の母の死去、さらに新型コロナウイルス感染症の影響もあって、今年は正月気分はなく元旦から少しずつ創作活動を行なっていました。今日から本格的になり、昨年暮れにやっていた新作の土台作りを再開しました。厚板材を鋭角な二等辺三角形に切断する作業は、今日一日がかりで行いました。この二等辺三角形を円状に並べて、そこに陶彫部品を配置する予定であり、今日は20点全ての二等辺三角形の切断を終わらせました。朝から夕方まで電動ノコギリを使った作業を行ったせいで、おが屑や埃が工房内に舞い上がり、私の作業台の周囲は煙っていました。今日からいつもの美大受験生がデッサンをやりに工房にきていました。彼女の場所と私の作業台はかなり離れていましたが、それでも多少の影響があったようで、昼ごろから窓を全開にして埃の対応をしていました。幸い今日は暖かい一日だったので助かりました。それにしても6時間近く継続して電動工具を使い続けたことで、私は些か疲れました。制作工程上どこかでこの作業をしなければならず、いつ行うのか自分なりに思案していました。今日は朝から切断作業を行うと自分に言い聞かせて、受験生にも了解をもらっていました。夕方、受験生を送って自宅に帰りつくと、家内が私の様子を見て「疲れが顔に出ている」と言っていました。コロナ渦防御のマスクが今日は防塵にも役立っていました。明日は今日ほどの作業はありませんが、それでもひとつひとつの二等辺三角形に穴を刳り貫いたり、箱型の厚みを作る作業が待っています。彫刻制作に身体を酷使するのは昔からのことで慣れていますが、年齢とともに無理が利かなくなっていることも認めざるを得ません。おまけに私の場合は、木材と陶土の双方を使い分けるために身体への負担は増します。明日、明後日も頑張ろうと思います。

新年最初の週末来たる

2021年になって最初の週末がやってきました。職場は昨年29日から休庁期間に入っているので、今日が週末の感じはありませんが、長年の習慣で週末になると創作活動が待っていると思ってしまうのです。今日はまだ正月気分が抜けない1月2日です。それでも朝から工房に行きました。今日は昨日に続いて陶彫制作を行ないました。昨年から続けてきた土台作りのための厚板切断は、明日からやっていこうと思っていて、1年の計は元旦にありという諺があるならば、やはり私の勝負どころは陶彫制作にあると言うべきです。今日は小さめの陶彫成形を行ないました。今まで大きめな陶彫部品を作ってきましたが、土台の穴に合わせた陶彫部品のさまざまなサイズも必要になるので、今後は小さめの陶彫部品だったり、変形された陶彫部品も作っていこうと思います。現在の陶土は「発掘シリーズ」が始まった20年位前から使っていますが、土そのものは10代後半から塑造をするために慣れ親しんできた素材です。私は具象表現から抽象表現に彫刻が変わっても素材を変えるつもりはありません。私は錆鉄の質感が好きですが、実際に鉄を錆させるよりも陶土によって錆鉄の質感を手に入れることに頭を使ってきました。鉄は錆びて無くなっていくものですが、陶彫は古代の出土品を見ても分かる通り、風雨に晒されても未来に素材を繋げていけるものです。土は鉄より強度は落ちますが、保存はそのままの状態で長く保てます。そんな自分なりの陶土を、土と土の割合を決めて混合して作り出しました。まだこの陶土を使って創り出したい世界がいっぱいあります。そうしたイメージが溢れ出てくる以上、自分はただ只管作っていくだけです。今年も創作に対する決意表明をしますが、自分にとってそれは大袈裟なものではなく、日常的に焦らず休まずやってきた行為です。4月から時間が出来るので、あれこれ思索しながら、さらにじっくり腰を落ち着けてやっていきたいと思います。

2021年の初めに…

2021年になりました。今年もよろしくお願いいたします。昨年母が亡くなり、喪に服していることと、世界的に流行している新型コロナウイルス感染症の影響で、今年は正月を迎えた気分がしません。初詣には行かなくても、今朝になって我が家で昔からやってきた氏神への奉納を行うことにしました。母が住んでいた実家の裏山に小さな稲荷の祠があって、小さく刻んだ餅と油揚げを供物として毎年捧げているのです。祠は自宅と実家の間にある雑木林の中に鎮座しています。何代か前の私の先祖が、廃棄してあった稲荷を拾ってきて祠を作ったことで相原の家は栄えたのだと、亡き祖母が言っていました。当時、我が家は半農半商だったようで、商いとして祖父は大工の棟梁をやっていました。父は造園業に転じ、羽振りがよい時期もありました。私は公務員になりましたが、二足の草鞋生活として彫刻家の道を歩み始めました。作品の売れない彫刻家として稲荷の効能はさっぱりありませんが、私は現在もなお健康で、心身ともに負担を強いる創作活動が続けられるのが、ひょっとしたら氏神の効能なのかもしれません。初詣の代わりに祖父母や両親が眠る墓参りに、家内と出かけました。近隣にある菩提寺には何人かの縁者が訪れていました。お盆の時期にしか墓を訪れない私は、これから元旦に墓を訪れてもいいのではないかと思いました。今日は自宅でゆっくり過ごしていましたが、午後3時ごろになると工房に行ってみようと思い立ち、結局今日も工房で陶土に触れてしまいました。明日は陶彫成形をやろうと決めました。明後日からは新作の土台作りに励みます。今年の3月末で私は公務員管理職を退職し、毎日工房に出かけていく日々が続くだろうと思っています。私にとって今年は大きく生活が変わる年でもあります。時間が自由になると創作活動はどうなっていくのか、今まで40年近くも時間が制限されている中で創作活動をやっていました。陶彫制作もRECORD制作も読書も今までは時間を区切って夢中でやってきました。そこからいきなり解放されるのは、創作的な内容に多少なりとも影響があると私は見ています。この生活が始まる前、私はヨーロッパにいて自分なりの表現を探していました。異文化の渦中にあり、しかも国立美術アカデミーの学生という身分で、私には若い仲間たちが周囲にいたものの、孤独の中でかなり足掻いていたのでした。そんなことが再びやってくるとは思えないのですが、自分が進めてきた造形理論をもう一度見直す良い機会かもしれません。4月からの新生活を前向きに捉えていきたいと考えることにしました。

2020年HP&NOTE総括

2020年の大晦日を迎えました。今年は新型コロナウイルス感染症に翻弄された1年になりました。戦争のない平和な国・時代に育った私には初めての経験で、日々感染者が増えて命が脅かされる事態に不安を覚えたこともありました。東京オリンピック・パラリンピックが延期され、職場が2ヶ月間休業になりました。管理職として休業中の職員のモチベーションを心配しましたが、仕事が回り始めた時は安堵しました。休業中に私でも何か出来ることがあったのではないかと自問自答する時もありました。横浜市からの情報が不足したり、連絡系統が分断される怖さを知りました。そんな私も来年の3月末で退職し、12年間続いた管理職にピリオドを打ちます。残り3ヶ月は職場が万全に運営されるように頑張っていこうと思います。二足の草鞋生活は40年近くにも及びましたが、いよいよ創作活動一本になります。創作活動に明け暮れるのは滞欧生活以来のことです。コロナ渦がなければ、再びヨーロッパに渡り、そこから再出発することも考えていましたが、それは儚い夢となってしまいました。昔と違うのは毎年個展が開催できていることと、創作活動の本拠地である工房があるところです。さて、来年7月に発表を予定している創作活動は、現在陶彫部品が16点完成、8点の乾燥待ち、土台は20点中6点が準備できていて、全体の3分の1程度が終わっています。まずは例年通りの進行状況かなぁと思っています。今年の鑑賞はコロナ渦の中で美術館や映画館に行くことがままならず、外部からの刺激を取り入れることが少なかったと振り返っています。一日1点制作のRECORDは何とか追いついていて、このまま頑張っていきたいと思います。私事になりますが、4月に母を亡くし、現在は遺産相続の手続きが続いております。同時に築30年になる自宅の内装リフォームが完成し、自宅の使い勝手が良くなりました。何しろこんなコロナ渦の中で、今年も病気も事故もなく創作活動に邁進出来たことが何よりも幸運だったと思っています。最後にホームページについて触れておきます。このホームページは私の創作活動の面から情報発信をしているもので、画像は陶彫作品とRECORD作品に限られています。カメラマンと相談しながら画像の構成をしていますが、今後はさらに充実させたいと考えています。NOTE(ブログ)は日々の記録ですが、日記というより展覧会や書籍等から得た知識、作品の進行具合など思いつくまま書いています。拙い文章を読んでくださっている方々に感謝申し上げます。来年もよろしくお願いいたします。皆さまにとって来年が良い年でありますようにお祈りしています。

建築家等からの意見・感想②

「建築とは何か 藤森照信の言葉」(藤森照信他著者多数 エクスナレッジ)の第2部には、著者藤森照信氏の著作や建築を巡って、他の建築家や歴史工学家による意見や感想が掲載されていました。今回も前回同様に5氏を取り上げます。まず「保存しますか、建て直しますか」という隈研吾氏の問いかけに対し、「私は長く、建築史家として保存側でやってきた。今後もやっていくつもりだが、たとえば《歌舞伎座》(1924、改修1950)を建て替えたいが設計をお願いしますと言われたら、私の中の建築家は迷うだろう。迷うが、やはり、時間的蓄積は優良株みたいなもんで日がたてばたつほど価値は増すので手放さない方がいい、と依頼をことわるだろう。」次に重村力氏の発問です。「歴史学が一般に建築のもっともよい肥やしとなることは分かるけれど、それを超える創作の麹室のようなもの、それは非常に微妙で会得しがたいものだと思うのだけど、一体何があなたの『師のアトリエ』だったのでしょう?」これに対して著者は、「(建築は)目玉の土俵勝負である。建築が勝つか、建築探偵の目が勝つか。」と述べた後「自慢になるが、これまで私はそういう目玉の勝負を、古今東西の名作愚作に胸を借りるぶつかり稽古を何千番か繰り返してきた。訪れて、見て、聞いて、読んで、考えて、書いて、のサイクルを何千回も繰り返せば、誰だって何とかなるようになる。」3人目は内藤廣氏で、建築という言葉とアーキテクチュアという言葉は同義かどうかを尋ねていました。「建築とアーキテクチャーがちがうか同じかについて考えたことはありませんが、いづれにせよ、元をたどると発生源は同じはずです。私の今の関心は、領分や国や文化によってちがってしまったさまざまがまだ分化する以前までたどりつきたい、そこまで遡ってから作ってみたい。」4人目は歴史工学家中谷礼仁氏の発問で、著者が有する肩書きと宇宙遺産に関することです。「建築史家が一番気に入っているが、建築家的仕事や建築探偵的フィールドまで含めて新語をと言われても、急には思いつかないが、仮に”目力士”という仕事があったらやってみたい。”手力士”もいい。」宇宙遺産では「私が作るサンプルはすでにきめてある。土をただ積み上げただけの『土塔』です。表面には草を生やします。」という回答が返ってきていました。面白いなぁ。最後にサステイナブル・デザインを含めた質問を難波和彦氏がしていました。因みにサステイナブル・デザイン(Design for Sustainability)とは何か。それは未来の世代の暮らしについて考え、人類や地球環境が持つ能力を維持し、向上させることを言います。その基準問題以上に著者が考えているのは、そもそも建築家とは何をする人かという基本的なことでした。「私は、建築家の最後の生命線は表現にあると考えている。別の言い方をすれば、建築家は表現しか能がない。政治、経済、社会、技術、思想、世相、流行、などなどの諸条件、諸領域の中から建築は生まれてくるわけだが、そうした諸条件、諸領域のどれにも建築家は専門的ではない。他の助けを借りなければ何も実現しない。なのに、なぜ建築家が存在するかと言うと、それらをまとめて一つの形を与える人だからだ。形を与えるのが、建築家のただ一つの能なのである。」

20’~21’休庁期間について

2020年12月29日から2021年1月3日までの6日間は休庁期間になっています。私の職種はこの期間はきっちり休むことが出来て、コロナ渦の中でそれだけでも幸福と言えます。同じ公務員でも市や区の福祉健康センターや医療関係は新型コロナウイルス感染症対策のため、勤務を余儀なくされる現状です。年末年始の人出を控えるニュースが連日流れていて、私たちが住む神奈川県も感染者は高止まりをしています。今年の年末年始は例年と異なり、浮かれた気分にはなれません。それでも近隣のスーパーマーケットはかなりの密状態になっているので、日常生活に心配事が尽きず、いつクラスターは発生してもおかしくないと思っています。私は自宅から1分程度で行ける工房を行き来しているだけなので、買い物さえ気をつければ感染が避けられるかなぁと思っていますが、どうでしょうか。さて、休庁期間は創作活動にとっては有効な時間です。亡母のことで喪に服しているので、元旦は初詣にも行かないため、私は人混みに出ることもなく、創作活動に邁進できるだろうと思っています。この長い休暇中に制作すべきことは新作の土台です。厚板材を鋭角な二等辺三角形に切断し、それを20点配置して円形に構成するのですが、その1点1点に箱型にした厚みを作り、しかも表面に複数個の穴があいていて、そこから陶彫部品が顔を出すように作ろうとしています。ひとつの二等辺三角形から大小2個か3個の陶彫部品が顔を出します。四角い構築物がニョキニョキ生えている状態を作るのです。今日3点の土台の切断と接着を終えました。残り17点。しかも全部に砂マチエールを施し、油絵の具を滲み込ませなければ土台の完成にはならないので、これからどのくらい時間がかかるのか、制作工程を考えるだけで頭を抱えてしまいます。ということで今回の休庁期間は土台の制作に本腰を入れます。もちろん陶彫制作もやっていきますが、土台がある程度進んだところで、陶彫制作に戻ります。とりあえず土台の箱型を10点作ることを、休庁期間の制作目標に掲げていきたいと思います。このところ毎日美大受験生が工房に来ています。冬休みになってもコロナ渦でどこへも出かけられない彼女は、デッサンに精を出しているのです。

「意味論としての命題論と真理の論理学」第53節~第54節について

「形式論理学と超越論的論理学」(エトムント・フッサール著 立松弘孝訳 みすず書房)の小節のまとめを行います。本書の本論は初めに第一篇「客観的な形式論理学の諸構造と範囲」があって、その第5章「意味論としての命題論と真理の論理学」の中の第53節から第54節までのまとめを行います。この第54節で第一篇が終わります。今年の末までに第一篇を終わらせたいと私は思っていたので、何とか今日読み切ることが出来てちょっと満足しています。今回は最初に「ユークリッド多様体」のことが出てきます。「すなわち《ユークリッド多様体》が意味していたのは、~略~何よりもまず真の諸命題の可能な諸体系としての可能な演繹的諸学のための一形式であった、ユークリッドの空間幾何学によって例示すれば、今度はこの同じ範疇的形式の他の可能な演繹的諸学の開かれた無限性と並ぶ一つの可能性としての、可能な諸真理の前提への関係をすべて切り離す還元は、その形式を(依然として《ユークリッド多様体》の形式を)、純粋に諸意味としての可能な諸命題(諸判断)の体系の形式として提出しており、しかも一つの判明性の明証の中で、ただたんに個別ではなく体系全体として判明に遂行されるー純粋に判断としてのー諸命題の体系の形式として、簡単に言えば、純粋な整合性(《無矛盾性》)のそれ自身で完結した一つの体系を形成する諸命題である。」長い文章で、私自身これが何を主訴しているのか、途中から分からなくなりました。次に形式論理学と形式的存在論の相関関係に問題提起がなされています。「無矛盾性の分析論もやはり判断一般と、それゆえさらに或るもの一般とも関係しているので、それゆえ形式論理学は形式的存在論と見なされうるのか、という疑問と、そしてなぜこのことが、いずれにせよ単なる無矛盾性の分析論だとされないのか、という疑問である。」これに対して次節ではこんなことが述べられていました。「学問論としての使命に敵う、形式的分析論の深い意味は、基体となる各対象性がその中で真実存在しうるはずの可能な範疇的諸形式についての学問だ、ということである。範疇的に形成された対象性とは命題論の概念ではなく、存在論の概念である。」さらに第54節の中でこんな一文もありました。「さらに付記したいのは、〈形式的存在論も、学問論の理念から出発せずに最初から直接、課題として提起されうる〉ということである。」論考を読んで、私はその都度ラインを引いていますが、私の浅はかな理解で的外れな部分も少なからずあろうと思います。論理が分かり難い箇所も多々あり、フッサールが短期間に本論を書き上げたことも、こうした難解極まりない論理に影響があるのではないかと疑ってしまいます。自分の薄学を棚に上げて失礼なことを申しました。

週末 土練り&土台の穴あけ

今週末は休庁期間に続いていくため、制作目標を立てて計画的に作業を進めていく必要性を感じますが、今週末までは週末毎にやっている流れに従って作業を進めてしまいました。まだ先行きの見通しをもたずに今まで通りのサイクルで作業をしたのです。ただし、本来なら土曜日に土練りをしてタタラを準備するところを、日曜日である今日その仕事をやったのは、私は年休を取って明日を休みにしているからです。明日は陶彫成形を行なう予定です。陶土を使う作業は午前中にして、午後からは土台の制作に取り組みました。今日は土台の穴あけを行いました。穴あけには電動工具を使います。土台は鋭利な角をもつ二等辺三角形に厚板材を切断して使っていますが、その一つひとつに下駄を履かせたような高さを作ります。穴の空いた箇所から陶彫部品がニョキっと顔を出すような効果を狙います。以前NOTE(ブログ)に書きましたが、「構築~起源~」で表現した方法です。加工した土台には全てに砂マチエールを施して、最終的には油絵の具を沁み込ませていきます。これは私の得意とする表現方法で、陶彫部品との融合を目指しているのです。鋭利な角をもつ二等辺三角形がいくつあれば円形に構成できるのか、既に計算済みですが、問題は来年5月までに間に合うかどうかです。それを考えると、休庁期間に出来るだけ土台を作っておいた方が良さそうな気がしています。今日ひとつ作ってみて、かなり時間がかかることが判明しました。休庁期間の制作目標に反映したいと思います。今日は美大受験生が来ていました。彼女は平面構成が得意なことが分かり、次回からはデッサンを中心にやっていくつもりです。私も高校時代は美大の工業デザイン科に入りたくて平面構成をやっていましたが、平面構成は苦手でした。その分デッサンを頑張っていたので、彼女とは真逆な資質を持っていたのでした。私はデザイン科を諦めて彫刻科に進みましたが、今となってはそれで良かったと思っています。夕方、受験生を車で自宅近くまで送りました。

2020年最後の週末に…

2020年最後の週末になりました。2日間の週末の後、すぐに休庁期間に入ります。この長期の休暇をどう過ごすのか、制作目標をきちんと決めようと思いますが、新作の全体像を見ながら長期休暇でどこまで進めるかを、改めて考えていきたいと思います。とりあえず今日は陶彫成形された部品に、それぞれ彫り込み加飾を施すところから始めることにしました。同時に先日から開始した土台となる厚板材の加工も行ないました。陶彫制作と木材加工の作業割合も一応決めておこうと思います。今日のところは午前中は彫り込み加飾、午後は木材加工と作業を二つに分けました。私の作る集合彫刻は幾つも制作工程があるため、手を替え、品を替えて、別々の作業に取り組まなければならず、飽きがこない分、身体には負担を強います。それを10日近く続けることが出来るのかどうか、ちょっとした挑戦になります。毎年この時期はそんなことをやっているのも事実です。新型コロナウイルス感染症の影響があろうがなかろうが、私は街中に出ていくことはありません。工房が私の棲家になって、寒さの中で素材と闘うのが例年の習慣です。ただし、今年は長期の休暇を利用して鑑賞のために美術館や映画館に行くことは控えようと思っています。コロナ渦が大変な状況になっていて、首都圏はダウンしてしまうのではないかと思うほどです。昨日は職場でリモートによるランチミーティングを行ないました。会議室に集まれない状況になれば、ICTを使った打合せも今後必要になるのかなぁと思います。制作は明日も継続です。今年の冬季休業は例年以上に頑張りたいと思っています。

「意味論としての命題論と真理の論理学」第49節~第52節について

形式論理学と超越論的論理学」(エトムント・フッサール著 立松弘孝訳 みすず書房)の小節のまとめを行います。本書の本論は初めに第一篇「客観的な形式論理学の諸構造と範囲」があって、その第5章「意味論としての命題論と真理の論理学」の中の第49節から第52節までのまとめを行います。まず、「判断作用の中で判断された事柄は判断された対象性、すなわち判断して推定された範疇的な対象性である。」という箇所にラインを引きました。次にコギトやドグサという聞き慣れない言葉が出てきたので調べてみました。コギトとは自己意識のことで、ドグサとは臆見や思い込みという意味があるそうです。「コギトが意味しうるのは《私は知覚する》《私は思い出す》《私は期待する》などである(これらのことは、たとえ叙述的に規定する思惟の領域には入らなくても、もちろんドグサの領域には含まれる)。しかしコギトはさらに私の好き・嫌いや希望か忌避かのような《評価する》心情の働きや、あるいは意志の働きなども表しうる。」という論考にコギトやドグサが使われています。次に多様体論が登場してきます。「多様体論は強制する理由をまったくもたず、多様体論自身の理論の諸形式にとって可能な真理についての諸疑問と、これと相関的に、何らかの個々の各多様体(多様体についてのそれら自身の形式的な諸理念のもとにある)についての可能な現実性(可能な真の存在)についての諸疑問を、一般に多様体論自身のテーマに引き込むための強制的な理由は何もない。」最後に純粋学についての論考です。「(1)論理学がまず認識するのは、純粋に意味と見なされる諸判断(これらには純粋に対象的な意味としてのすべての対象性も含まれる)は、それ自身完結した形式の法則性をもち、そして《判明性》の段階では、整合性、非整合性、無矛盾性の法則性をもっているが、しかしこれらの法則性だけでは、例えば諸判断に対応する各対象性の可能な存在についても、これらの判断自身の可能な真理についても、まだ何も言えない。(2)もし論理学が上記のことと結びついて次のことを認識すれば、すなわち明証的に無矛盾性のいろいろな合法則性が間接的に、論理学的な各種の合法則性の価値を、可能な真理の最初の最も一般的な諸法則の価値をもつとすれば、特に論理学的な意図に合わせて、可能な存在と可能な真理をこれら双方の可能性の本質的な諸法則が問われるべきであり、そして次に諸意味(純粋な諸判断)がそのような諸可能性と関係づけて考察されねばならず、したがってこれらは一緒に前提して考えられねばならない」今回はここまでにします。

「意味論としての命題論と真理の論理学」第47節~第48節について

形式論理学と超越論的論理学」(エトムント・フッサール著 立松弘孝訳 みすず書房)の小節のまとめを行います。本書の本論は初めに第一篇「客観的な形式論理学の諸構造と範囲」があって、今日から第5章「意味論としての命題論と真理の論理学」に入ります。今日はその第47節から第48節までのまとめを行います。まず、命題論的見方の派生についての論考で気になった箇所を引用いたします。「論理学にとって判断の領野は純粋にそれだけが分離して、何よりもまず独自の主題的分野にならねばならなかった。~略~諸学における述定判断の優位についてわれわれがあらかじめ行なった考察によって、おそらくよく理解されたのは、形式論理学は命題論的論理学として構成されていたこと、したがって述定判断がこの論理学の主題的な主要概念であったことであろう。」次に各意味についての見方について論考された箇所を引用いたします。「意味の解明は明証的でありうるが、しかしそうである必要はなく、間違うこともありうる。そこで意味と呼ばれている諸対象が、実は単純な諸対象とは別のものだとすれば、このことは次のことを述べていることになる。すなわち〈互いに関連し合い、そしてそのような作用として同定しながら、すでに措定されていた諸対象への回帰する判断作用と、次いで特に、認識する判断作用は同一の形式的領域と他の形式的領域にとっては異なる道を進み、そして異なる同定を行い、それぞれが異なる区別と、取り消しによる異なる排除とを行うこと〉を述べている。」今回はここまでにしますが、哲学的な論考を読み解く難しさを痛感しながら、私は自分の拙い知識の中で主訴となる部分を探しつつ、とつおいつ本書を読み進めています。哲学的な論考は最初から最後まで、どの文章をとっても多くの意味が込められていて、私では小節のまとめなど到底及ばぬところで、気になった文章の引用だけで精一杯な状態になっています。こんなことで果たしてどのくらいことが印象に残るのか、甚だ疑問に思いながら、自分の理解可能範疇にある書籍ばかりでは、頭脳を揺さぶることができないのではないかと思って困難に挑んでいるところです。

建築家等からの意見・感想①

「建築とは何か 藤森照信の言葉」(藤森照信他著者多数 エクスナレッジ)の第2部には、著者藤森照信氏の著作や建築を巡って、他の建築家や風俗史家による意見や感想が掲載されていました。今回は5氏を取り上げます。まず建築家安藤忠雄氏の質問で「ご自身の建築は歴史の〈外〉にあると思われますか、それとも〈内〉にあると思われますか?」という問いかけに、「当然、現代建築史の〈内〉に自分はいて、少し向きのちがった設計をしている、との自覚をずっと持ってきた。でも、それはそう思いこんでるだけのことかもしれないと、《高過庵》(2004)を作ってから疑いはじめている。」と藤森氏は答えています。次に建築家石山修武氏の感想です。「安藤忠雄と双璧の、彼は眼玉の思索家である。双方共に日本独特な知識人の欠点、病理から自由であった。完全にではないけれど、少なく共自由であるかの如く振る舞ってみせた。共に自分の眼で視たものだけを頼りに思考した。それが最大の歴史的価値だろう。」3人目は建築家伊藤豊雄氏の感想です。「藤森さんの建築は近代主義建築の最も根源的な問題を衝いています。それは氏の建築がいかにも趣味的に見えながら、近代主義建築の芸術論と社会主義的改革を一致させようと試みた矛盾に対する批評たり得ているからです。」4人目は風俗史家井上章一氏の感想です。「歴史家としての藤森さんは、彼ら西洋建築の導入者を高く評価してこられました。在来の規範を解体する、その下地を作った建築家たちを、うたいあげてこられた。そして、今は、ばらばらにされた在来工法の断片を、建築家として、自由に組み立てておられます。」最後に国際日本学部で教壇に立つ森川嘉一郎氏が次のような問いかけをしています。「『和風』や『日本様式』の趣味は、今後どうような力学で決定され、どのようなスタイルになっていくのでしょうか。」それに対して「日光東照宮で作るか桂離宮で作るか、の問題は日本の建築界にはありました。でも、日光で売るか桂で売るかの問題は、建築家たちは考えてこなかった。建築家をのぞいた意味でのデザイナーのテーマだった。」と藤森氏は答えています。今回はここまでにします。

「21世紀建築」について

「建築とは何か 藤森照信の言葉」(藤森照信他著者多数 エクスナレッジ)の「魅惑の原始住居」と「21世紀建築」についてのまとめを行ないます。「原始的な住宅は大きく二つに分けられて、一つは縄文住居みたいな大屋根のワンルーム、ロングハウスといいます。もう一つは分棟する。なぜ分棟するかは分からないんですが、例えばアフリカの原住民や暑い乾燥地帯の人たち、それとノルウェーやフィンランドの古い家も一つの敷地の中に小さいのがいっぱいある。だから、気候がきついところは分棟とも言えるんです。」ひと頃前の幾何的な近代建築から現代に至る建築史の中で、最近は自然や風土を建築に取り入れている例が増えてきたことを私も感じます。「21世紀の建築の大きなテーマが、歴史と自然であることはまちがいないんですよ。20世紀建築は、その二つを否定したわけではないけれど、思考の外に置いた。だから、新しい問題として考えないといけない。自然というものを考えていくと、どこかの時点で人間の原始性や社会の原始性が出てくるはずなんです。~略~自然状態の人間、自然状態の社会は、20世紀建築が見落としてきた。建築の外部である自然と歴史の問題は、これからちゃんと考えていかないといけない。」現代という時代を考えると、建築は100年以上遅れていると著者は捉えているようです。それは現代も建築の重要な素材である鉄とガラスとコンクリートは18世紀後半の産業革命で出てきており、他の分野から見れば話にならないほど建築は遅れているということになるわけです。21世紀の建築は個人の時代とも著者は言っています。「最終的に建築家は客観的に論理的に理詰めで建築を作ることはできないし、建築の技術、表現は建築家に託すしかないわけです。」さらに個性が強調される現代の建築。私たちのアートの世界でも、縄文を初め古代世界に自然との関わりや人間の生命感を求めていったように、建築も自然や歴史を考えながら人間の住処を考えていく動きに私も興味が湧きます。そうした中で日本が古来からやってきた数奇屋を見直す動きもあるようです。「数奇屋というのは時代を超えてしまったんです。様式の盛衰にのらなかった。1920年代の初期モダニズムも日本の数奇屋と同じようになるかもしれない。」今日はここまでにします。

師匠との関係について

長野県に住む彫刻家池田宗弘先生から雑誌「秘伝」が送られてきました。「秘伝」は武道に関する雑誌でしたが、私は武道に縁がなく、その精神性は分かったつもりでも理解できるところまでいっていません。池田先生は、大学時代に私に彫刻を教えてくれた師匠で、私の結婚式の仲人もやっていただきました。今でも池田先生に彫刻に関する指導助言を仰ぐことがあり、長きにわたって師弟関係が続いている稀な存在ではないかと思っています。ギャラリーせいほうから話があったのも池田先生の力添えがあったおかげと思っております。その池田先生は小野派一刀流を長年研鑽する武術家で、雑誌「秘伝」の巻頭インタビューに彫刻の写真とともに掲載されていました。「武術極意に通じる立体視という視点」というタイトルで、古流武術の極意と彫刻の造形論が交差する記事になっていました。その中で池田先生が師匠として仰いでいた彫刻家清水多嘉示は、ブールデルに師事した、日本では近代彫刻界屈指の人でした。「その師匠は素晴らしい作家で、素晴らしい作品を見せてくださったけれど、”まだ師匠がやっていないことがあるはずだ”と考える。次に自分には何ができるかを考え、さらに師匠のやっていないことを考えるわけ。私の師匠の清水先生は、まず粘土による量体(いくつかのサブユニットで構成された構造体)や組み立てということを伝えてくださった。それを忘れないようにしながら、粘土による量体のような、物がつまっているものじゃなくて、”抜けた空間があるもの”でも表現はできるんじゃないかと考えた。それが私がこの真鍮の仕事に辿り着いたきっかけなんです。」記事の中で、私はこの箇所に注目しました。大学時代、池田先生は自ら表現を私に押しつけることはありませんでした。立体としての構造の話はよくされていたので、清水流の造形論が生きて私に届いていたことになります。私も池田先生とは違う造形感覚を育てることになり、抜けた空間がある軽妙洒脱な池田流から、陶彫によって地を這っていく自らの世界観を培ったのでした。私のところでも若い彫刻家が育っていて、彼は木彫による鋭くて豊潤な造形感覚を鍛えております。特定の師匠をもたない作家も多くいる中で、私は少々時代遅れな稀な例かもしれませんが、自分に指導助言を与えてくれる存在を大切にしていきたいと考えています。

週末 休日出勤&新作土台作り

今日は日曜日ですが、ウィークディの仕事の延長線上の仕事が入っていました。私の立場ではこれはよくあることで、今年度はコロナ禍の影響で休日出勤する機会は減っていました。今日は職場ではなく、横浜の関内にあるビルの一角に出向きました。午前中はこの仕事をやり遂げて、午後になって創作活動を始めましたが、陶彫制作をやるには中途半端な時間になって、先週から新作の土台になる厚板材に、陶彫部品を配置するデザインを進めることにしています。そろそろ厚板材に陶彫部品が収まる穴をあけていく作業に移ります。穴には完全に刳り貫いてしまう穴と、穴を貫通せずにレリーフ状にするものがあります。完全に刳り貫いた穴に入る陶彫部品は床から直接立ち上がる造形になり、レリーフ状になった穴に入る陶彫部品は、比較的高さが低い陶彫部品になります。切断した厚板材はどれも鋭角な二等辺三角形になっていて、それをぐるりと配置して円形にしていきます。二等辺三角形は厚板材のまま床に置くのではなく、それぞれの二等辺三角形に板材を加工して箱型の厚みを作ることに決めました。ちょうど下駄を履かせるような塩梅になります。床から10センチくらい高くすることにして、それに伴う板材が必要になり、近隣の木材店に出かけました。今日は板材の購入で終わってしまいましたが、次の週末から二等辺三角形の箱型の土台作りを実際に始めます。まず最初のモデルを作っていきます。次の週末から職場は冬季休業に入り、また休庁期間にも突入するので、箱型の土台作りに集中できるかなぁと考えています。実は陶彫部品も足りているわけではないので、箱型の土台作りと併行して陶彫制作もやっていかなければなりません。いよいよ多忙になる新作作りですが、今年はコロナ渦の影響で街に出るよりは工房に篭っている方が安全かもしれず、また4月に母が亡くなったことで正月もなく、新作の制作に手間暇かかっても問題になりません。寧ろちょうど良い機会を与えられたと解釈しています。寒さにだけは気をつけて頑張りたいと思います。

週末 冬ざれた工房の風景

週末になりました。今週末は丸2日間の時間が取れず、明日の午前中は横浜の中心街に出かけていき、某団体が主催する表彰式への出席が予定されているため、今まで続けてきた陶彫の制作サイクルを見直すことにしました。それでも今日のところは陶彫の彫り込み加飾を行ないました。前にもNOTE(ブログ)に書きましたが、彫り込み加飾は結構時間がかかります。コツコツとした地味な作業ですが、陶彫部品の雰囲気を決定するものなので、雑に扱うことは出来ません。今日は腰を落ち着けて、これをやってしまおうと思い、じっくり取り組みました。あまり身体を動かさない工芸的な作業なので、工房内の寒さが身に沁みました。工房の壁には断熱材がないため、工房内の空気は外気と変わらず、コロナ渦の影響で朝のうちは多少なり窓を開けているため、厚手の作業着を纏っていました。今日は美大受験生が来ていました。彼女の座っている作業台の傍に大型ストーブを置いています。私が彫り込み加飾をやっている作業台と離れているため、私が時々ストーブのところへ行って手を温めていました。毎年のことながら冬ざれた工房の風景がやってきたなぁと感じます。そろそろ温かい湯茶の準備をしようと思っています。工房は春夏秋冬を肌で感じることが出来て、また周囲の木々が季節によって変化していくので楽しい反面、夏と冬は作業が気温に左右される厳しさがあります。昨年の灯油貯蓄分がなくなり、近くのガソリンスタンドまで灯油を買いに出かけました。栃木県益子や茨城県笠間にいる陶芸家の友人たちや長野県にいる彫刻家の師匠に比べたら、横浜はまだ気候が身体に優しいのではないかと察していて、これで根をあげてはいけないと自分を戒めています。横浜ではまず陶土が凍ることはないからです。夕方、美大受験生を車で自宅近くまで送ってきました。

「諸対象についての見方と諸判断についての見方」第45節~第46節について

形式論理学と超越論的論理学」(エトムント・フッサール著 立松弘孝訳 みすず書房)の小節のまとめを行います。本書の本論は初めに第一篇「客観的な形式論理学の諸構造と範囲」があって、第4章「諸対象についての見方と諸判断についての見方」があり、今日はその第45節から第46節までのまとめを行います。この第46節で第4章「諸対象についての見方と諸判断についての見方」が終わりになります。第45節では命題論理学は用いる意味での判断という単元名があり、それを言い表している文章を拾ってみました。「どの学問的な認識にとっても必要な批判的な見方、すなわち学問的な判断ならどれもが甘受せざるをえない批判的な見方を無事経由することによって、学者は絶えざる変動の中で対象性そのものをー判断作用の中でまさに彼にとって存在するもの、もしくは認識者としての彼が目標にする現実としてーそして他方では推定された対象性そのもの、すなわち推定された結論、推定された規定、推定された多数や総数そのものなどとして対立させてきた。~略~命題論理学が用いる意味での判断は推定された事態そのもの、しかもそれぞれが完結した事態である。判断以外の範疇的に推定された諸事項はすべて《判断》に含まれる諸部分として機能している。」第46節の批判の成果としての真理と誤謬について冒頭の論考に次のようにありました。「批判の最終成果はー理想的に言えばー《真理》もしくは《誤謬》である。ここで言う真理とは正当で、批判的に確認された判断のことであり、したがってこの判断に対応する範疇的な対象性《それ自身》との合致によって検証されている。」第46節のまとめになるかどうか分かりませんが、最後の文章に私は注目したので引用しておきます。「理想的な意味での認識とは〈それぞれの対象性自身が、あらゆる範疇的諸形態について、現に獲得された真実の存在を表わす名称〉であり、その真実の存在は範疇的な諸形態の中でまさにそれ自身の真実の存在を示し、真実そのものとして根源的にそれ自身を構成するのであり、しかも自らそうした範囲内で、まさに《その範囲内で》認識的にも真実存在するものである。」次は第5章に進みます。

「諸対象についての見方と諸判断についての見方」第43節~第44節について

「形式論理学と超越論的論理学」(エトムント・フッサール著 立松弘孝訳 みすず書房)の小節のまとめを行います。本書の本論は初めに第一篇「客観的な形式論理学の諸構造と範囲」があって、第4章「諸対象についての見方と諸判断についての見方」があり、今日はその第43節から第44節までのまとめを行います。第43節では形式的な学問論としての分析論は形式的存在論であるという論考がありました。まとめとなる文章を引用いたします。「形式的な学問論としての分析論は諸学自身と同様、存在を目標にしており、しかもこの分析論のアプリオリな一般性によって存在論的である。この分析論は形式的存在論である。そのアプリオリな諸真理が述べているのは、諸対象一般にとって形式的な一般性で妥当する事柄、すなわち諸対象は一般にどの諸形式で存在しているのか、あるいは存在しうるのか、ということである-もちろん判断に即応または依拠して。」次の第44節では形式的存在論としての分析論から形式的命題論としての分析論への転換について論考されていますが、2つの段落に分かれている中で、私は学者の見方について興味関心をもちました。「ここでは憶測された事柄と実際の事柄との区別によって(広い意味での)単なる諸判断の領野と諸対象の領野との区別も用意されている。」とあり、その中で学者の認識努力を伝えていました。「学者はすでにずっと以前から〈明証性にはただたんに明確性の程度差があるだけでなく、人を欺く明証もありうること〉を教えられている。それゆえ彼にとっては憶測された明証と正当な明証との区別もある。学者の判断は最も完全な正当な明証によって確認された判断でなければならず、そのような判断のみが、学問の現有成果全体の中へ理論として受け容れられるべきである。このことが学者独自の判断の仕方を生じさせるのであり、それは言わばジグザグの判断作用である。」今日はここまでにします。

「素人っぽさ」について

「建築とは何か 藤森照信の言葉」(藤森照信他著者多数 エクスナレッジ)の「白井晟一の素人性と縄文的なるもの」のまとめを行います。本書はこの単元から著者がインタビューに答える形式になり、会話の気楽さがあって楽しい内容になっていました。「(白井晟一の作った)《歓帰荘》が縄文的だという証拠はいくつかあって、よっぽどやりたかったにちがいないんだけれど、一種の竪穴式住居なんです。一階でやるとたんなる湿気の多い部屋になってしまうので、わざわざ二階に上げて、二階の入口の踏込をさらに少し高くして、そこから沈んで入る。天井をものすごく低くおさえていますし、この暖炉の異様な大きさとかね。茅葺ですし。~略~素人性というのは結局何かと言うとね、建築なら造形とかディテールとかプランとか、それをたどっていっても誰か建築家の流れに入らない、プロの人たちはそれを素人だと思う。白井さんもそうです。~略~素人そのものの魅力というのは結局どういうことかと言うと、最初からプロという人は絶対にいない。みんな子供からはじまる。それが、建築学科に入ってから、プランニングと全体の造形、事務所ではディテールというような、教育で『正統な建築』を教えられる。子供のとき図画工作をやって粘土で遊んだりいろいろ作ったでしょ。ああいうのはみんな素人なんです。だから実は『素人っぽさ』ってのは最初は誰の中にもあって、それを克服すべくトレーニングされるんだけれど、大人になってからあらためてその『素人っぽさ』を見たときに、建築家であれ、誰でも懐かしさを感じる。」私は世間で認められている建築家の中にも素人っぽさを持ち込んだ人がいたことが、ちょっと驚きでしたが、アートの世界ではそれは普通のことで、美術の専門教育に弊害があると言っている人もいるくらいで、素人っぽさが受けているアーティストは大勢います。文中に以前映画で観た「シュヴァルの理想宮」のことが出てきて、建築の素人っぽさとはそういうことかと納得してしまいました。「素人か玄人かと言えば、本当にいろいろ考えさせられたのは『フンデルトワッサー問題』です。ウィーンに行くと、名だたる建築の名作には目もくれず、フンデルトワッサーの建築を見てる人のほうが多い。彼は自分で建物全体を作ったことはなくて、全部既存の建築にベタベタやって、たいしたことをしているわけじゃないにもかかわらず、みんなが引かれるという…。俺もフンデルトワッサーで行こうかなと思ったぐらいですもん(笑)。」

「日本のモダニズム住宅」について

「建築とは何か 藤森照信の言葉」(藤森照信他著者多数 エクスナレッジ)の「日本のモダニズム住宅」と「丹下自邸の謎」についてのまとめを行います。日本のモダンデザインの住宅導入には独特な現象があると著者は言います。西洋のような保守と革新の対立構造がなかったことと、日本の伝統である数寄屋が意外にもモダニズムと結びついているためと著者は洞察しています。「欧米のよう歴史主義の保守陣営とモダニズムの革新陣営の対立があり、苦闘(一番の苦闘は、ナチスとバウハウスの対立)の果てについにモダニズムが勝ったわけではなく、(日本としては)ほぼスムーズに、あたかも世代の自然更新のようにして歴史主義からモダニズムへと移行していることだ。社会的、思想的、政治的な試練を経なかった日本のモダニズムはきわめて感覚的な存在かもしれない。」さらに日本の数奇屋は世界の建築史の中で奇妙な存在と著者は言っています。数奇屋をネットで調べてみると「虚飾を嫌い、内面を磨いて客をもてなすという茶人たちの精神性を反映し、質素ながらも洗練された意匠となっている。」とありました。茶の湯から発想された数奇屋作りに、私は日本人独特の芸術観を感じ、そうした意匠に誇りさえ持っています。本書の中で数奇屋を近代と結びつけたのは、私にも意外でしたが、モダニズムが日本古来の簡素の美にあったかもしれず、ちょっと楽しい気分になりました。次に建築家丹下健三の自宅についての話が続きます。「丹下の《丹下自宅》への扱いは冷淡としか言いようがない。発表しないのである。53年に完成したにもかかわらず、雑誌に出したのは2年後の55年で、丹下によると『川添登に言われたからしかたなく出した』が、発表されるやいなや、戦後の木造モダニズムの代表作となった。」名を成した建築家は自宅を思うがままのデザインで建てていることが多く、以前見に行った前川國男邸もそうでした。丹下健三は日本を代表する話題性のある大型建造物をいくつも作っているのに、自宅を作るような建築家になりたかったわけではないと言っていて、他案をそのまま自宅に応用したのでした。建築家の考え方も人それぞれだなぁと思いました。

「諸対象についての見方と諸判断についての見方」第41節~第42節について

「形式論理学と超越論的論理学」(エトムント・フッサール著 立松弘孝訳 みすず書房)の小節のまとめを行います。本書の本論は初めに第一篇「客観的な形式論理学の諸構造と範囲」があって、第4章「諸対象についての見方と諸判断についての見方」があり、今日はその第41節から第42節までのまとめを行います。まず、命題論的な見方と存在論的な見方の違いについて書かれた小節ですが、「命題論的論理学と形式的存在論との間には何の違いもない」また「形式的存在論に規定される判断の領野をわれわれは決して逸脱しないのであるから、やはり諸対象ではなく、諸判断こそが形式的対象論のテーマではないか」という文章に注目しました。次の小節で「われわれが判断する場合、この判断作用自身の中で対象への関係はどのように作られるのか」という投げかけがあり、「判断しているときわれわれが目標にするのは判断ではなく、そのつど《話題になる諸対象》(基体となる諸対象)とその時々の術語、すなわち対象を規定する諸契機や諸関係であり、因果的な判断の場合なら、原因になる各諸事態と結果として対応する事象などである。」とありました。小節は段落ごとにaからgまで分かれていて、その全てを取り上げることは紙面の都合でできませんが、気になった箇所だけ引用させていただきます。「判断者は対象に向かっており、しかもまさに彼がそうしているからこそ、彼が対象をもつのは、何らかの範疇的な(またはわれわれの言う統語法的な)諸形式、したがって存在論的な諸形式においてに他ならない。」さらに対象性を規定する《概念》の構成として「〔自然についての理念の場合なら、その一方は〕自然の真の存在の理念としての、あるいは同じことだが、自然を完全に規定する概念」の理念としての《端的に在るがままの自然》である。」とありました。また規定されて成立する範疇的な形成物に関して「〈範疇的な形成物はただたんに判断作用をしている間だけ判断者にとっての対象性であるのではない。なぜならそれら対象性自身の存在意味には超越性が含まれているからだ〉ということである。」という論考に気を留めました。本書は語彙が難解な上、段落ごとのまとめをせず、文章を飛ばしているので、私だけが意味を了解しているメモ的な文面になってしまっています。NOTE(ブログ)を読んだだけでは意味が通じないことは承知しています。本当に申し訳ありません。

週末 陶彫成形&土台の具体案

今月の週末から新作の全体構成を作り上げることにしたため、厚板材を加工した土台に具体的な下書きを始めました。今日の午前中は昨日用意したタタラを使って陶彫成形を行ないました。朝からいつも来ている美大受験生がいて、私は彼女に背中を押されながら、陶土と格闘していました。冬場は掌がカサカサになり、ハンドクリームが必要です。午後から三角形に切断した厚板材を作業台に置き、その上に陶彫部品を配置しました。陶彫部品の最大なものは3段に積み上げたものになり、高さは120センチを超えます。やや小さなものでも80センチほどで、その2点の陶彫部品を置くだけで、三角形に切断した厚板材はかなり量感を感じさせて、それで充分ではないかと思いました。つまり陶彫部品を目立たせるためには、厚板材の土台はあまり造形を必要としないのではないかと思ったのでした。厚板材には穴を空けて、陶彫部品は穴を通し直接床から立ち上げる方法を取ります。以前作った「構築~起源~」と同じです。「構築~起源~」はすべて木彫された柱を立ち上げましたが、今回は柱を陶彫部品に換えたのです。それでも長方形の土台から円形の土台にチェンジしているため、雰囲気がかなり変わるのではないかと思います。土台の構成は鋭角な三角形を並べていく方法を取りますが、定点を何とか隠したいと思いました。究極の定点があると造形が完結してしまい、自由な発想が望めないからです。そこで先端を切断して円形を環状にすることにしました。環状の作品は以前作った「発掘~環景~」と同じです。結局、過去の作品の応用版が、これからの新作になることで、何だか堂々巡りの展開に、ちょっと呆れてしまいました。私の発想には限界があるのでしょうか。いやいやきっと新しい何かがあるはずで、架空都市の俯瞰したイメージを思い描きながら、これから頑張っていこうと思っています。土台のデザインが決まったところで、木材加工が結構時間がかかりそうなことが分かってきました。新作もなかなか大変な仕事量になりそうです。私は今までも高いハードルを何とか乗り越えてきました。全力で走り抜けることが常習になっているため、今後も焦らず、休まず、気が抜けない時間を過ごしていこうと思っています。

週末 シュトレン郵送&陶彫制作

先日、友人のパティシエが営む菓子店から大量のシュトレンをいただいてきました。西欧に滞在経験のある人なら、味が懐かしいと思うシュトレンですが、最近は日本のベーカリーでもシュトレンを売り出しています。私が滞欧していた当時に、彼の地に関わりのあった先輩諸氏や親戚に、今日はシュトレンを送ることにしました。まずは長野県に居を構える師匠池田宗弘先生。池田先生は私がウィーンにいた頃にはスペインに滞在されていました。次に山形県にいられる画家サイトユフジさん。サイトさんは私と同じウィーンに住んでいて、ウィーン幻想絵画から想を発した細密画を描かれている先輩です。親戚では声楽家の叔父もウィーン滞在経験があるため、シュトレンを送らせていただきました。考古学者の叔父は中国史が専門ですが、海外留学を応援してくれた人なので、この人にも毎年シュトレンを送っているのです。今日は午前中に家内と郵便局に行って用事を済ませてきました。午後は工房に行きました。土曜日の定番は、陶土を掌で叩いて座布団大のタタラを数枚用意することで、明日の陶彫成形に備えるのです。毎回同じスケジュールで作業をしていますが、陶彫制作をしていると気持ちが落ち着きます。創作活動に対する意欲も精神安定剤になっていると思っていますが、陶土に触れていると何か良い物質が土から出ていて、私に快いものを齎せているように感じます。幼児に粘土を渡すと夢中になって造形してしまう感覚と同じではないかと思っているのですが、これにはどんな心理効果があるのでしょうか。次に乾燥した陶彫部品2点にヤスリをかけ、さらに化粧掛けを施して窯に入れました。窯のスイッチを入れるのは明日の夕方ですが、先週これをやれなかったために、今日まで持ち越しになったのです。これによって制作工程を大きく外れることはないのですが、週末によっては疲労があって、制作ノルマ通りに進まないこともあります。加齢とは思いたくないのですが、一昔前のような無理がきかなくなっていることは確かです。気力はあるのですが、身体が動かなくなるのです。明日は陶彫成形と土台を考えてみるつもりです。

難解な書籍を読み取る力

読書が好きな私が初めて手に負えない難解な書籍と出会ったのは、中学生の頃に読んだカフカの「変身」でした。それまで創元推理文庫やハヤカワ・ミステリーを読み漁っていた自分は、カフカの不思議な世界観に居心地の悪さを感じながら、意味を読み解こうと夢中で読んでいたのでした。推理小説やミステリーとは異なる世界観になかなか慣れることができず、途中で放棄したくなったこともありました。その頃、宿題になっていた読書感想文に「変身」を題材にした自分では大変な労作を仕上げたのですが、教師には私自身による感想とは信じてもらえず、悔しい思いをしました。教師曰く、これは親の力?いやいや造園業を営んでいた実家に、まともな書籍などありませんでした。私が書店に立ち寄った際に、タイトルに惹かれて「変身」を購入したのでした。その時から難解と思われる書籍を度々手にするようになりました。中学生の私が、日本文学で愛読していたのは宮沢賢治で、宮沢文学も背景には宗教性のあるやや難解な部分が含まれていることを後になって知りました。哲学書を読み始めたのは大学生の頃でしたが、恥ずかしながら途中で放棄したものが多く、今も自宅の書棚に何冊か残っています。因みに亡き叔父がカント哲学者でしたが、カントには未だに手が出せません。社会人になった今も全部が咀嚼が出来ないけれど、ちょっと私が面白そうだと感じている哲学者はニーチェとショーペンハウアーで、論考の一部が今も頭に残っています。ショーペンハウアーの厭世観的思想による死生観は、私の感性に触れました。そこで父や母が亡くなった時はその死生観を思い出しながら両親を見送ったことが思い出されます。彫刻を作り続ける私にとって存在の創造物である彫刻においては、存在そのものの意味を知る必要性を感じ、ハイデガーの「存在と時間」を読みました。またハイデガーの存在論の源となるフッサールの現象学にも触れることになりました。現在、苦読しているフッサールの「形式論理学と超越論的論理学」はこんな流れで読んでいるのです。私自身、もっと難解な書籍を読み取る力をつけたいと望んでいて、それは自我に対する挑戦に他ならないと思っています。美術や建築に関する書籍は、私の思考を羽ばたかせてくれます。哲学や現象学は、私の思考を深く掘り下げ、私の心の底に知識の溜まり場とも言うべき貯蔵庫を与えてくれます。そうした教養の風景を散策している自分は、浮世から離れてしまうことを承知の上で、楽しく遊んでいる錯覚にも陥るのです。

日常生活が変わる時

私は30歳で地方公務員になってから30年以上が過ぎ、毎日職場に通う生活を送っています。それまで海外で自由に生きてきた自分には、当初窮屈な生活に辟易していましたが、その規則性に徐々に慣れてきて、社会人として真っ当な生き方をしている自分に満足もしています。12年前に管理職になり、組織運営をやっている自分が時折信じられなくなる時もあります。自分にそんな資質があったとは思いもよらず、組織に頼られている自分は本当の姿だろうかと疑うこともあります。職場では日々いろいろなことが起こり、それに対応している自分がいるのも確かで、当然のことながら自分のことより職場を第一に考えて、私は仕事をしています。それが週末にやっている創作活動と大きく異なるところです。二足の草鞋生活と私は称しているのは、公務員としての仕事と彫刻家としての仕事の両立を図る上で、便宜上使用している名称ですが、これも来年3月末で終わりになります。いよいよ日常生活が変わる時がやってきますが、今のところ実感はまるでありません。近隣に住む人生の先輩に65歳から75歳までの10年間は、やりたいことが人を憚らず思い切りやれて素晴らしい10年間だよと言われたことがありました。本当にそんな10年間が過ごせるのだろうか、私は二足の草鞋生活が変わることに不安を覚えることも多々あるので、近い将来に大きな夢を描くことが出来ません。若い頃は待ち遠しかった定年退職。退職すれば好きな彫刻にずっと関わっていられると思っていたことが、いざ数ヵ月後に退職となれば、二足の草鞋生活を基盤にしてスケジュールを組み、その上で創作活動を行い、東京銀座で個展まで企画していただいている現状を変えていかざるを得ないことに、何とも複雑な心境になるのです。ウィークディの昼間に創作活動をやっているのは、今までは年末年始の休庁期間か、夏のお盆の時期しかありません。それがずっと創作活動が出来る時間が続くことに躊躇もあります。発想の転換は創作活動だけでなく、自分の人生そのものにも必要だと思うことにしました。素晴らしい日常生活が送れるように考えていこうと思います。

「諸対象についての見方と諸判断についての見方」第37節~第40節について

「形式論理学と超越論的論理学」(エトムント・フッサール著 立松弘孝訳 みすず書房)の小節のまとめを行います。本書の本論は初めに第一篇「客観的な形式論理学の諸構造と範囲」があって、今回から第4章として「諸対象についての見方と諸判断についての見方」が始まり、今日はその第37節から第40節までのまとめを行います。ここでは形式的命題論と形式的存在論の相関関係についての考察が述べられていました。気を留めた箇所を引用いたします。「諸命題自身の中に伏在する各種の対象性への意味関係によって、同時に普遍的な形式的存在論になり、そしてこの存在論が最高段階では多様体論という名称を規定するのである。」次に統語法的な形成物としての論考に移ります。「形式的存在論の分野は対象一般の《形式的領域》でなければならない。それゆえ形式的存在論は諸対象を必当然的な諸真理において、まさにこの形式的な一般性で規定しなければならない。~略~〔命題を〕形成する判断の統語法は、可能な真理の諸条件を示す諸法則にアプリオリに従っている。判断においてなされる形成、そしてその形成から、集合、基数、級数、量、多様体のような、かなり狭い意味と最も狭い意味の数学的諸概念も生じる形成、さらに最高段階の判断の形成物さえも含めて、これらの形成はもちろん《超越的》な諸対象についてではなく、判断自身の中で表象される諸対象について行われるのである。~略~この考察では集める、数える、順序づける、組み合わせるなどの諸作用はどれも判断の諸作用だとされ、そしてこれらの相関者は判断の形成物と見なされてきた。しかしこれらの作用は実はさまざまな諸段階で形式を作る諸作用で、そしてこれら諸作用の相関者は通常〈述定的〉と言われる諸判断自身の中では、判断の形式論が見落としてはならない諸形式によって、代表されているのではなかろうか?」最後に形式数学の論理学的意味について触れた箇所を引用いたします。「ただたんに計算にためにだけ作られた数学の場合のように、たんに計算上の慣習によってのみ意味をもつようなシンボルの遊戯になるようなものは認められない。論理学者としての彼は、形式数学がもともと論理学的分析論であること、それゆえ形式数学固有の論理学的な意味には、認識の志向によって基礎づけられた認識機能の範囲が、すなわち可能な各種応用の範囲が属していることを観取せざるをえない。」文中にあった彼というのは著者のことで、論理学者としての立場を第三者的に捉えていることになります。