「超越論的現象学と志向的心理学」第94節~第95節について

「形式論理学と超越論的論理学」(エトムント・フッサール著 立松弘孝訳 みすず書房)の小節のまとめを行います。第二篇「形式論理学から超越論的論理学」の第6章「超越論的現象学と志向的心理学。超越論的心理学主義の問題」に今日から入ります。これも前章と同様題名が長いので表示を多少省略をさせていただきました。今回は第94節から第95節までを読み解いていきます。存在する事物は全て主観性の中で構成されるという小節の論考で、気になった箇所を引用いたします。「経験とは、経験する私にとっては経験された存在が《現に存在しており》、しかもそれが現存する何かとして、その内実全体とまさに経験自身が、その志向性の中で遂行する能作によって思念し付加する存在様態を具備している。経験された事柄が《超越的》存在という意味をもつとすれば、この意味を構成しているのは経験であり、この経験は単独にせよ、あるいは、その経験に属して、その志向性を形成している動機づけの関連全体においてにせよ、それ自体に存在する対象にたんに一面的に、離れた視点などでのみ現出させる経験が不完全であれば、そのつどの意識の仕方としての経験自身が、訊問に応えて私に次のように言うことになる。すなわち、ここでは何か自身が、しかし実際に把握されていることよりも、さらに多くの別のことも経験されている。」次に各自の主観性から始める必然性として、この箇所を引用いたします。「想定しうるあらゆる事柄に先だって最初に存在するのが自我である。この《我あり》こそが、正当に理解してかく言う私にとっては私の世界にとっての志向的な根本基盤である。この場合に見落としてはならないのは、《客観的》世界、《われわれ全員にとっての世界》も、この意味で私にとって妥当する《私の》世界だ、ということである。しかし志向的な根本基盤は《我あり》である。」我ありという言葉はデカルトの有名なフレーズにあり、フッサールの論理がデカルトから派生していることを改めて認識しました。デカルトは信仰ではなく理性を用いて真理を探求する近代哲学の出発点を提唱した大哲学者でした。またフッサールの助手を勤めたハイデガーの著作「存在と時間」にも、こうした論考が影響を与えていることも分かりました。今回はここまでにします。

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