「理想化する諸前提と構成的批判」第78節~第81節について

「形式論理学と超越論的論理学」(エトムント・フッサール著 立松弘孝訳 みすず書房)の小節のまとめを行います。第二篇「形式論理学から超越論的論理学」の第3章「論理学が用いる理想化する諸前提と、それら諸前提についての構成的批判」は題名が長いので、題名表示を多少省略をさせていただきました。今回は第78節から第81節までを読み解いていこうと思います。初めに真理自体と誤謬自体の諸前提に関わることが出てきました。「実証性の立場に立つ論理学者と論理学にとっては、科学者各自を彼の専門分野で暗黙に導いている基本的な確信が、すなわち真理自体と誤謬自体の確信が、いつもすでに伏在している。われわれにとっては多くの判断がその正当性を決定されぬままの状態にあり、およそ可能な諸判断の大部分が実際には決して決定されえないままであるが、しかしそれら判断自体は可能である。」次に真理の前提の明証性についての記述がありました。「実践生活を可能にする認識可能な諸真理の諸領域のほかに、諸科学の無限な認識の諸分野をも所有しているのである。それら諸科学の可能性は〈それらの各分野が真に存在しており、しかもそれら諸分野にとって理論的な各真理自体が、探究されて徐々に現実化されるさまざまな認識の道によって現実化される真理として成立しているのだ〉という、この確実性に完全に依拠しているのである。」また「要するにわれわれがこれまでに行なった明証性批判の諸断片からすでに明白になったのは、明証性とは何よりもまず、素朴に行使される《隠れた方法》であり、したがって〔対象〕自身を所有する様態での意識としての明証性の中で、われわれはいったい何を実際にそのもの自身として所有しているのか、しかもどのような諸地平と一緒にそれを所有しているのか、ということを知るためには、明証性の能作が究明されねばならない。」という論考もありました。最後の節では今後の諸問題が掲げられて、第3章「論理学が用いる理想化する諸前提と、それら諸前提についての構成的批判」を終えていました。次回から第4章に入ります。

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