ボイス世界観の再考

先日見に行った「ヨーゼフ・ボイス展」が契機になり、改めてボイスの世界観を考えてみたいと思います。ボイスに関することは過去何回かNOTE(ブログ)にアップしていますので、今回は再考とさせていただきました。20世紀の美術史を振り返って見ると、芸術の価値転換を図った芸術家を何人か思い浮かべることが出来ます。たとえば芸術を成立させる制度を変えたM・デュシャン、消費社会におけるポップな芸術を推進したA・ウォーホル等々ですが、ボイスの芸術変革は彼らとは次元が異なるように思えます。ボイス研究家の山本和弘氏の文章で次のような箇所があります。「ボイスが用いる素材は~略~徹底的に私たちの日常の生活の中にありふれたものである。~略~これらの有用性は、当然のことながら日常の生活において消費され、打ち捨てられて終わる機能ではなく、それらの機能性の究極の目的である本来的な道具性、つまり、より良く生きることにかかわることの顕在化が全てのボイスの作品で図られている。」この文章を読み解く上で自分の頭を過ぎったのは、現在読んでいるハイデガーの「存在と時間」です。存在そのものを思索した哲学書とボイスの関連は、そう易々とできるものではありませんが、ボイスの行為の意図に何か存在的なものが潜んでいるようにも思えます。突き詰めていけるような思考を自分は持ち合わせていないのが残念です。

横須賀の「ヨーゼフ・ボイス展」

横須賀にあるカスヤの森現代美術館で「ヨーゼフ・ボイス展」が開催されていました。ボイスの作品は見てすぐ分かるものではありません。展示されていたモノは、自己表現するにあたってボイスが発想し、制作またはパフォーマンスの行為をした残像や遺物のようなモノで、在りし日のボイスの足跡を伝えています。社会全体に向かって発信された造形としての思想は、価値を問うモノだったり、環境保護を提案するモノだったりしています。ボイス自身が語っている次の言葉がボイスの作品を解く手がかりになります。「発展過程としての彫刻 ひとはみなアーティスト わたしが彫刻を仕上げて、固定した状態にしないのはそのためだ。ほとんどの作品は化学反応、醗酵、色の変化、腐敗、乾燥といった過程の中にある。」(K・ティスドールによる聞き取り)自分が展示の中で印象的だったのはボイスの足を石膏取りした作品です。造形作家若江漢字氏が滞独中にボイスと共作したこの作品を巡って一冊の書籍にしているので、自分は既読しています。もちろんオリジナルを見るのは初めてで、仏陀の足形のようで楽しい作品でした。鉄製シャベルを撮影したポスターが気に入ったので、一部いただいてきました。これを額装しようかなぁと思っています。

前衛芸術家を惜しむ

職場に置いてあった各新聞が伝えていた「赤瀬川原平さん死去」というニュースに残念な思いを隠せません。たしか赤瀬川さんは自分の母校の先輩にあたる人です。東京町田市にあるご自宅の「ニラハウス」は近所に親戚が住んでいるため、何度か建物の外見を拝見していました。屋根にニラが生えている家は建築家藤森照信氏の設計によるもので、その奇抜さは近所でも有名です。テレビの美術解説で赤瀬川さんをお見受けして、その分かり易く楽しい話にワクワクしたことも数多くあります。著書「老人力」も読み、何年か前のNOTE(ブログ)に書いています。「超芸術トマソン」や「路上観察学会」や千円札を印刷した作品が通貨模造取締法違反に問われたりしたことは、美術雑誌等で知っていました。享年77歳は日本人の平均寿命からしても、まだ早いと思いますし、ユニークで面白い意見や感想を今後も発信して欲しかったと悔やまれてなりません。ご冥福をお祈りいたします。

週末 10体の尖塔完成

新作「発掘~群塔~」の最初の陶彫成形となった10体の塔が、彫り込み加飾まで終わって今日完成しました。10体は全て先が尖った塔で上下2体にそれぞれ分かれています。これは窯入れの大きさを考慮したもので、途中ボルトナットで接合できるようにしました。ということで合計すると今まで20体の陶彫部品が乾燥を待っていることになります。制作工程は次の段階に入ります。この10体の尖塔は全て床置きになりますが、次の段階の成形は屏風に接合される部品です。群塔になった集合体同士が血管のような網状になったモノで結ばれる状態を作っていきます。いよいよ板材を用意しなければならない時期になりました。群塔になった集合体をどう散らせていくのか、全体構成の中で考えていきます。作品は立体になることを念頭に幅や高さをイメージしながら恰も集落を形成するかのような心象風景に近づけていこうと思っています。楽しいと思える瞬間は、この当初のイメージをどう具現化するかをあれこれ考える時です。雛型を作ろうかどうしようか悩むのも楽しいひと時です。来週末は予定があって制作時間が思うようにとれないので、暫くは頭の中で考えを巡らすつもりです。今日の工房は涼しい空気に包まれていましたが、2人の大学院生の真摯な課題制作があって、終始空間が緊張していました。喜ばしい関係が出来ていて本当に充実した一日が過ごせています。溌溂とした彼女たちに感謝です。

週末 制作&ボイス鑑賞

今日は朝のうちに陶彫の成形や彫り込み加飾を行い、午後2時に工房を出て、車で一路横須賀に向かいました。現代美術の巨匠ヨーゼフ・ボイスの展覧会が明日までと知って、急遽カスヤの森現代美術館へと行ったのでした。工房には中国籍のアーティストが来ていたので一緒に行こうと誘って、車の中でヨーゼフ・ボイスに関する簡単な説明をしました。簡単と言っても対象がボイスなので簡単明瞭と言うわけにもいかず、ともかく彼女にボイスの世界を見せることにしました。結果、この世界観に自分は興味があると答えてくれたので、彼女にボイスに関する書籍も貸すことにしました。自分もボイスの世界に浸りつつ、ボイスがかつて行った行為を振り返る機会を持ちました。カスヤの森現代美術館には常設展示として、故宮脇愛子氏の平面作品や保田春彦先生の彫刻の雛型があって、それらも含めてじっくり見ることが出来ました。そのあと横須賀美術館に回り、「おいしいアート」展を見てきました。ボイス展と「おいしいアート」展の詳しい感想は後日改めます。

「存在と時間 Ⅲ」を読み始める

「存在と時間 Ⅲ 」(マルティン・ハイデガー著 原佑・渡邊二郎訳 中央公論新社)を読み始めました。「Ⅲ」に収録されている内容を見ると、「時間性と日常性」とか「時間性と歴史性」という章が眼に飛び込んできて、時間を巡る概念が歴史に進展していく状況が見て取れます。時間とは何か、または時間性とは何かという問いに対し、存在論的にどんな分析が待っているのか、とても楽しみにしています。事物が到来する、事物が既在するという時計的で公共的な時間の流れを、存在論の中でどう考えるか、ここにきて漸く自分の興味が現文章の解釈を踏まえつつ、先々の見通しにまで到達していることに嬉しさを感じます。ハイデガーの書いたほんの些細な一文が自分を捉え、その印象が深く刻まれることに我ながら驚いています。とりわけ「死」や「本質」や「良心」といった箇所に自分は関心が強いことに気づき、自己発見にも繋がっています。本書は全編を通して難解な論文であることに変わりなく、読む方もそれなりに覚悟が要りますが、現存在に対する考え方に面白みを感じていることも確かです。また通勤時間帯にじっくり読んでいこうと思っています。

強大な力に対抗する「よすが」

「詩を書くということ-日常と宇宙と-」(谷川俊太郎著 PHP研究所)を読み終えました。あっという間に読んでしまいました。文中の印象的な箇所を選んで書き出しました。「詩作品を中心にして考えると、やや衰え気味なんだけど、詩情というふうに考えると、あらゆるところに詩が浸透しつつある時代だと思えるんですね。だから、散文的なきつい現実と、それをどういうふうに対抗させるかみたいなことを、みんな本能的にやっているようなところがあるんです。~略~時代がどんなふうに殺伐としようが、どういう時代になろうが、詩情を求める人間の魂の傾向っていうのは、僕はなくならないと思うんです。~略~非常に過酷な現実に対しての詩情の力ってものが、非常に微少な力だけれども、暴力、財力、権力という強大な力に対抗する、ひとつの『よすが』になると考えているんですけどね。」私が詩に興味を覚えた高校時代は、語彙が組み合わされ、そこに不思議なイメージが表出することに純粋に感動を覚えていました。社会人になって組織に取り込まれて息苦しくなっていた頃は、現実逃避として詩を枕辺に置いていて、週末は夜もすがらイメージと戯れました。現在へ続いている造形のイメージはそんな詩魂が背景にあるのかもしれません。現実に正面から向かい合えるようになった現在でも周囲からの圧迫に対し、心のよりどころを見つけていて、それが週末にやっている彫刻制作なのです。強大な力に対抗する「よすが」は、自分にとって生きる支えになっていると言っても過言ではありません。

「詩を書くということ」

「存在と時間 Ⅱ」を読み終えたところで、難解な哲学書から少々離れて休憩を取りたくなりました。サクっと読めて興味関心のある書籍はないものかと書店を探すうちに「詩を書くということ-日常と宇宙と-」(谷川俊太郎著 PHP研究所)を見つけました。これはNHK番組収録によるインタビューをまとめたもので、大変わかりやすいため、これなら哲学書から開放されて、頭をリセットできると思いました。「詩というのは、散文と違って、意味だけを伝えるものではなくて、音の響きとかイメージとか、いろんなもので言葉ってものを伝えていくわけです。だから、無意味であるものを詩に書くことで、逆にその意味以前の世界の触感、手触り…存在そのもののリアリティみたいな、なんか言葉にどうしてもできないものを感じさせる、っていうのが、詩の役目のひとつとしてあるんじゃないかっていうふうに思っています。」というのが詩人谷川俊太郎氏が語るところですが、自分が高校時代から興味を持った詩が、どんなもので、どんな役目があるのかが、この台詞によって確認できました。自分は現代詩が好きで、いろいろ詩集を紐解くうちに自分でも詩作を試みましたが、気に入らないものばかりです。それでも詩のイメージに触発されて、たとえばその世界を造形してみようとか、色彩に置き換えてみようとしたことは今まで結構あります。今はRECORDにして発露し、併せてコトバにしています。そのコトバを詩と称していないところに自分は気恥ずかしさがあって、コトバを介しない造形美術に身を置く所以と思っています。

「存在と時間 Ⅱ」読後感

「存在と時間Ⅱ 」(マルティン・ハイデガー著 原佑・渡邊二郎訳 中央公論新社)を読み終えました。第二篇はまだ「Ⅲ」に続きますが、ここでひとまずまとめておきたいと思います。「Ⅱ」の最後は良心に関する存在論としての分析になりました。これは気遣いの呼び声としての良心というもので、呼び声という語彙解釈をまず文中から選び出しました。「呼び声は、じつのところ、われわれ自身によって計画されたり、準備されたり、自発的に遂行されたりするものでは、全然ないのである。『それ』が呼ぶのである、期待に反して、それどころか意志に反してすら呼ぶのである。他方、呼び声は、疑いもなく、私とともに世界の内で存在しているなんらかの他者からやってくるのでもない。呼び声は、私のなかからやってくるのだが、しかもそれでいて私のうえへと襲ってくるのである。」良心はまず呼び声によってもたらされるということです。次に良心に関して気を留めた箇所を3つ選びました。「『公共的良心』これこそは世人の声でなくて何であろうか。『世界良心』という怪しげなものを現存在が捏造しうるにいたるのも、ただ、良心が、その根拠と本質において、そのつど私のものであるがゆえになのである。」「良心は、世界内存在の不気味さのうちから発する気遣いの呼び声であって、この呼び声は、現存在を最も固有な責めあるものでありうることへと呼びさます。呼びかけに応ずる了解として結果したのは、良心をもとうと意志することであった。」「『厳密に事実に依拠する』と自称する分別くさい良心解釈は、良心が沈黙しつつ語るということを利用して、良心は総じて確認できないし事物的に存在してもいないのだと、言いふらす。ひとは、ただ騒々しい空談しか聞かずまた了解しないからこそ、呼び声を『確認する』ことができないのだが、このことが良心のせいにされて、良心は『物言わぬ』から、明らかに事物的に存在してはいないのだという言い抜けがなされるのである。」これをもってまとめとするには余りにも短絡過ぎますが、一応これで「Ⅱ」を閉じたいと思います。

「存在と時間 Ⅱ」における死について

「存在と時間Ⅱ 」(マルティン・ハイデガー著 原佑・渡邊二郎訳 中央公論新社)第二篇は時間性を論じています。時間となれば、やはり終焉という概念が入ってくることになり、存在論として死をどう扱うのかに論考が移っていきます。既読したショーペンハウワーにもニーチェにも死生観の捉えがありました。自分はこのテーマになると俄然読解力が増して、頭脳が明晰になります。まだ自分では意識できない死の認識ですが、いつ訪れてもおかしくないもので、必ずやってくる死に対し、自分の最大の関心の対象であることに間違いありません。本文の中から死という語彙が登場する箇所を引用します。「これまでの論証は、まだ存在していないということと『先んじて』ということとを、純正の実論的意味にとらえていたであろうか。『終わり』とか『全体性』とかは、現存在に現象的に適合して語られていたであろうか。『死』という表現は、生物的な意義をもっていたのであろうか、それとも実存的・存在論的な意義をもっていたのであろうか、いや、そもそもそれは、十分に確実に限界づけられた意義をもっていたのであろうか。」ここから死に対する存在論的考察は始まります。さらに印象に残った箇所を引用します。「死人とはちがって『遺族』からもぎとられた『故人』は、葬式とか埋葬とか墓参とかの仕方で、『配慮的な気遣い』の対象なのである。しかもそのことの理由は、これはこれで、故人が、その存在様式において、環境世界的に道具的に存在していて、たんに配慮的に気遣われうる道具というものよりも『なおより以上』のものだからである。」

週末 順調な滑り出し

今日は工房に若いアーティストが3人やってきて、私を含めて4人でそれぞれの課題に向けた制作に没頭しました。まるで学校のような按配です。3人は女性なので、トイレの備品等に私は気を配っています。作業台に可愛い菓子箱も置きました。作業に集中し始めると、彼女らのお喋りはなくなり、たちまち空間は緊張してきます。私は新作の陶彫による塔の先端部分を成形し、グラフィックを専攻する一人は大きなパネルに波形や波頭を隙間なく描き続け、染織を専攻する一人は巨大な板染めを行っていました。普段油絵を描いている一人はアクリルガッシュによる裸体に手をいれていました。それぞれが近々発表や展示を控えていて、みんな表情から余裕が消えています。私も新作が早くも佳境に入り、来年5月の図録撮影日を意識するようになりました。これも若い人たちのおかげと言っても過言ではありません。若い人たちの制作に対する真摯な姿勢が、私に良い意味で影響を及ぼしています。今日も朝から午後5時までたっぷり制作しました。今までは4時に切り上げていたのですが、彼女らの要望で1時間延長したのでした。このペースでいくと制作目標通りに仕上がり、順調な滑り出しになりそうです。また来週末頑張ろうと思います。

週末 爽やかな工房にて

創作活動には絶好の気候で、工房内は暑くも寒くもなく、爽やかな雰囲気が立ち込めています。そのおかげか千客万来で、今日は私を含めて4人で作業に没頭しました。最近工房に頻繁に来るツートップは東京芸大と多摩美大の大学院生2人で、来月のグループ展搬入や卒業制作に向けて、それぞれが予断を許さない状態らしく長時間の作業をこなしています。その影響もあって自分も負けまいと作業していて、この社会的促進は良い効果を齎しています。2人とも負けん気が強く弱音を吐きません。自分も似たところがありますが、作業を終わらないわけにはいかず、今日は夕方4時までにしようと声をかけたら、もう1時間の延長を2人から言われました。5時に工房を出て、2人を誘って外食しながら今日の作業を労いました。2人はいずれも美貌の女子たちで、この子たちのどこに創作に賭ける強烈なパワーが潜んでいるのかよくわかりません。もう一人は私の職場で働く人で、初めて油絵に挑んでいる人です。2時間程度の制作ですが、興味を持続させるのに適当な時間ではないかと思っています。今日の工房には本当にいい時間が流れていました。自分は今月のノルマである陶彫部品の塔10本のうち6本が完成しました。あと4本です。混合した陶土が無くなったので、土錬機を回し、土練りをしました。明日は残りの成形を行う予定です。明日も千客万来になるようです。

新聞の情報チェック

日本新聞協会が15日より1週間を新聞週間としています。私は自分の職場で数社の新聞に目を通しています。管理職になってから自らの業種に関わる記事は常に注目しています。文化欄にも目を通します。幸い職場に自分用の部屋を頂いていて、そこに数社の新聞が毎朝置かれます。朝の打ち合わせの後、ざっと目を通し、必要な箇所は複写して自分のノートに貼っています。このスクラップによって自分の業種の現在の課題を考えることが出来、今後の経営の参考にしています。もうひとつは文化欄で、美術、演劇、映画、音楽、文学と興味関心のある記事をチェックしています。美術展や最近行った映画や演劇は新聞の情報によるものです。新聞の情報には解説がついていますが、それを案内役とする場合と自分の感覚で確かめたいために敢えて読まない場合があります。美術展の場合は街に貼られたポスターやインターネットで知って、展覧会を見た後、新聞の批評を読み、自分の捉えと批評との相違を楽しむこともあります。自宅では朝日新聞を取っています。最近になって朝日新聞の記事を巡って厳しい批評がさまざまなところから寄せられています。そのため信頼回復のための記事が掲載されて紙面を大きく割いていましたが、新聞社としての奢りだったのか、また記事を起こす上で何か掛け違いがあったのかわかりません。ただし、それはどの職場でも陥る可能性があると思っています。祖父の代から朝日新聞に親しんできた自分は、この件で他社に変えようとは思っていません。これからの反省を踏まえた再生が重要になってくると思っています。日々掲載される情報をチェックし、文化欄の評論を楽しみにしています。

10月RECORD「縺れ絡まり滞る魂魄」

今月のRECORDのテーマを「縺れ絡まり滞る魂魄」としました。当初は彷徨う霊魂がイメージとして浮かびましたが、私は取り巻く周囲に配慮的な気遣いをしながら、ハイデガー曰く「現存在は等根源的に真理と非真理の内にある」を無言で唱えながら生きているのだと気づきました。この周囲の雑多な状況をどんな表現にしようかと思い始めたら、魑魅魍魎が跋扈する社会的現実より、やはり当初のイメージで戯画化する方がRECORDに相応しいと決めました。シンボライズすることで感情の襞に入り込める表現もあります。魂魄とは霊魂のことで死後の世界にあるものですが、現世の状況を投じて、縺れたり絡まったり停滞したりする人間関係の機微を表現できれば幸いです。今月もテーマを決めてから半ばを過ぎてしまいました。広報が遅れたことをご容赦願って、引き続き頑張っていきたいと思います。

「わが父、ジャコメッティ」雑感

先日、KAAT(神奈川芸術劇場)に表題の芝居を観に行ってきました。橫浜では三連休の間に5回公演し、その後京都やスイスに巡回するようです。職場にある新聞の記事で本公演を見つけ、自分の好きな彫刻家ジャコメッティがタイトルにあったこと、実際の親子が共演し、父が画家で息子が演出家という環境を最大限に生かした作品であることが観に行こうと決めた要因です。結果としては、発想段階からして面白く、かつて芝居小屋で観たアングラ演劇のような要素と、日常を切り取る演劇とは何かを提示する要素があって、思わぬ表現効果に心底楽しめました。舞台は画家である父のアトリエにあった道具をそのまま使っていると解説がありました。芝居が始まる前から舞台に父や家族が登場してお喋りをしていました。息子が登場して芝居を始めることを観客に伝えましたが、既にお喋りの中で導入がされていて、気難しい父の面倒を見る息子の図式が示されていました。息子は演劇とリアルな現実を交互に交え、役者と解説の両方を担っていました。父は役者としては素人なので、呆けた設定にして、ジャコメッティが乗り移ったかのようになり、息子が演じる矢内原伊作をモデルに油絵を描いていました。事実ジャコメッティ風な油絵を舞台上で描く行為があり、現実に画家である父のリアルな行為として自分には写りました。その時の親子の交流はスムーズで、逆に現実に戻るとギクシャクする情景が描かれました。演劇か現実か、寧ろ父がジャコメッティになりきってしまう仮象の方が親子とも心豊かに過ごせるのは何を意味しているのか、交差する心理の綾取りに引き込まれました。一緒に観た家内は現実生活の介護を芝居中に見取り、胸に込み上げるものがあったようです。リアルな現実をどこまで演劇に持ち込めるのか、突き詰めれば演劇とは何か、演劇に接することで現実生活を豊かにするものは何なのか、さまざまな思索がこの芝居によってもたらされたように思います。

「存在と時間」第二篇を読み始める

「存在と時間Ⅱ 」(マルティン・ハイデガー著 原佑・渡邊二郎訳 中央公論新社)は、第一篇から始まり、途中から第二篇になりました。ここからは「存在と時間」の存在に時間を加えた論考が中心になるようです。文中で言えば「現存在の実存性の根源的な存在論的根拠は時間性なのである。」とあるように現存在における気遣い同様、時間性を持ち込むことで現存在は実存論的に了解されるとハイデガーは言っています。続く引用で「時間性が現存在の根源的な存在意味をなし、しかもこの存在者にはおのれの存在においてこの存在自身へとかかわりゆくことが問題なのだとすれば、気遣いは『時間』を用いざるをえず、したがって『時間』を計算に入れざるをえない。」としています。頁を捲っていくと時間概念から生じるのかどうか、先を読んでみなければわかりませんが、「死」という言葉が再三現れてきます。現存在の終焉を意味するのでしょうか。「死」を存在論的に分析すると、どういう考え方に収まっていくのか興味のあるところです。最近では難解さにも大分慣れてきて、読むペースが少しずつ早くなった気がします。でも論理を楽しむというところまではいかず、やはり難論を紐解くと言った方が相応しい接し方です。もっと集中すれば徹底的に解明できるのでしょうが、二足の草鞋生活に加えて余剰の読書時間では心許なくて上っ面を滑ってしまう時もあります。それでも難論に喰らいついて頑張っていこうと思います。

三連休 美術館&劇場へ

三連休最終日は、台風19号が迫る中、東京国立新美術館とKAAT(神奈川芸術劇場)に出かけました。彫刻家池田宗弘先生から自由美術展の招待状をいただいたので、朝一番に美術館に飛び込みました。池田先生の作品は野外に展示されていました。真鍮直付けによる「ネコ 椅子の上で」と題された作品で、椅子の上にいる猫は振向き、背もたれの上にいるカタツムリをじっと見つめる情景を作ったものです。池田先生の得意とする猫の表現で、猫も椅子もカタツムリも全て真鍮です。今でも思い出すのは、自分が彫刻を学ぼうとした時、池田先生の猫の群像が眼の前にありました。皿に置かれた骨だけになった魚を狙う痩せこけた猫たち。情景の緊張感も然ることながら、骨格だけになった飢えた猫の群像表現、それは量感がなく腹に穴が開いている凄まじい猫たちでした。ただし、その穴だらけな猫たちに限りなく大きな空間を感じ、ジャコメッティにも似た乾いた空虚を見て取りました。この人に教えを請おうと決めた瞬間でした。あれから30年以上も経って、今も池田先生にお世話になっています。その後、池田先生はキリスト教彫刻の第一人者になり、日常風景から聖書の物語へテーマが移りましたが、今回の出品作品は言わば原点回帰のようなものでした。昔に比べると肉付けが安定し、その分空虚な危うさが消えたように思えました。彫刻らしい彫刻がいいのか、欠損した不安定に存在を問うのがいいのか、果たしてどうなのか自分にはわかりません。午後はジャコメッティをテーマにした演劇を観にKAAT(神奈川芸術劇場)へ行きました。「わが父、ジャコメッティ」という比較的小さな空間で演じられた芝居で、現実と演劇の敷居を行ったり来たりする実験的な試みがありました。これは面白い試みで、演出上で呆けたことにした父親の面倒を見る息子が図式としてありましたが、一緒に芝居を観ていた家内の胸を打つものがあったようです。家内は看護住宅にいる私の母と接することが多いので、演劇内容を重ねてしまったのでした。この芝居はまだまだ要素が詰まっているので、詳しい感想は後日にしたいと思います。

三連休 厳しかった制作目標

昨日の疲れが出ていましたが、今日は美術を学ぶ高校生や職場関係で油絵を描きたい人が来ていたため、工房を休むわけにはいかず、昨日心の中で決めていた制作目標に向かって頑張っていました。制作目標とは、昨日成形した陶彫全ての彫り込み加飾を終わらせるというものでした。昨日はどんどん作業が進んだのに、今日は遅々として進まず、結局は目標の達成は出来ませんでした。残した仕事はウィークディの夜にやるしかありません。やはり人間がやることなので、上手くいくことがあれば、そうでもない時もあると思い知らされました。調子がいい時に立てた目標は、後になってみれば厳しいもので、実現不可能な場合もあります。彫り込み加飾は、荒っぽい成形に比べれば、細かく神経を使う仕事で時間がかかることを熟知しているのに、こんなことくらいあっという間に出来ると思ってしまったことがいけなかったのでした。でも、昨日同様に集中する時間帯が今日もありました。それは周囲の状況が眼の前から消え失せ、素材と語り合う時間です。陶土にヘラで彫り込み、また動勢を与え、素材と自分が一体化して、あれこれ考えることもなくなる時間、または自分の意思の充実を確認できる時間、そんな至福な時間帯があったことで今日は満足しました。明日は東京の美術館と横浜の劇場に出かけます。

三連休 制作&鑑賞計画

今日から三連休です。3日間のうち2日間を制作、1日は鑑賞にしたいと考えています。鑑賞は彫刻家池田宗弘先生から自由美術展の招待状が送られてきたので、最終日の13日に国立新美術館に行こうと決めています。その日は午後KAAT(神奈川芸術劇場)で「わが父、ジャコメッティ」という芝居を観る予定で、もうチケットを取り寄せています。ということで今日と明日は制作です。今日は午前中に職場に行き、用事を済ませてから工房に行きました。職場に行っていた3時間を取り戻すために無我夢中で成形や彫り込み加飾に取り組みました。気持ちを入れ込むというのは凄いことだなぁと思いましたが、今日はまさに疲れ知らずの一日でした。彫り込み加飾1点、成形4点を5時間で作り上げました。これがどう凄いのかは作者にしかわからないことですが、自分なりに満足しました。勢いで夜は近隣のスポーツ施設へ水泳に出かけてしまいました。やり過ぎかなぁと思いつつ、明日は燃え尽き症候群ミニ版にならないようにしたいと思います。夜はとても起きていられず、激しい睡魔に襲われました。もっと書きたいことがあるのですが、今晩はこのへんで止めておきます。

「存在と時間」第一篇の読後感

「存在と時間 」(マルティン・ハイデガー著 原佑・渡邊二郎訳 中央公論新社)は、おそらく出版編集上の都合で「Ⅰ」「Ⅱ」「Ⅲ」という3冊になっていると察しますが、内容は序論と全体を通して第1部しかありません。第1部に続く第2部がないので、以前のNOTE(ブログ)に既述した通り、これは未完の大作なのではないかと推察する所以です。第1部は第一篇と第二篇に分かれていて、第一篇は「現存在の予備的な基礎的分析」になっています。今日この第一篇を読み終えました。簡単に言えば「存在と時間」の「存在」にあたる考察が第一篇に書かれていました。第一篇の最後に真理概念の存在論的分析があって、ここまでで漸く現存在に関わるあらゆる分析を一応終えたことになります。一応としたのは今後も既論に対し、さらに深い洞察を伴った肉付けがされる場合があるからです。注目した箇所を引用します。「公共性の居心地のよさのうちへと頽落しつつ逃避することは、居心地のわるさ、言いかえれば、不気味さに直面してそこから逃避すること~以下略~」というのは、私たちは周囲に気遣い、好奇心や噂話に左右されがちで、日常的に自己喪失していると言えます。それは現存在が不安に直面した世界内存在の赤裸々な存在からの逃避だと言うのです。「現存在の存在は、『世界内部的に出会われる存在者』のもとでの存在として、おのれに先んじて『世界』の内ですでに存在している、ということを意味する。」これは存在の了解的企投、被投的現事実性、非本来的頽落からなる現存在の存在は気遣いという構造にあり、現存在は等根源的に真理と非真理との内で存在している、というこんな意味です。この解説に本文中に頻出している語彙を、難解であることは百も承知で使わせていただきました。まとめにはなりませんが、「存在」を多方面から漏れなく論じ上げた粘り強い分析に驚嘆を隠せません。

彫刻家としての羨望と共感

「保田龍門・保田春彦 往復書簡1958ー1965」(武蔵野美術大学出版局)を職場の休憩時間に読んでいて、自分の学生時代に教壇に立っていられた保田春彦先生になかなか近づけなかった理由が自分なりに分かってきました。御父上である龍門氏は明治以降の近代彫刻史に荻原守衛や中原悌二郎とともに登場し、当時の東京美校(現東京芸大)で教壇に立っていた石井鶴三氏と知己であり(春彦先生は石井鶴三門下生)、さらにフランスからザッキンが来日した折に、お世話をする立場であったことが本書に描かれています。まさに自分にとっては雲上の人。彫刻家を目指す学生にとって、父が同業者でしかも自分が習った師匠と意見を交わし、また留学先の師匠とも父が交流するとなれば、その環境たるや自分の想像が及びません。春彦先生には父を乗り超えたいという意志もあるのでしょうが、やはり彫刻界とは縁遠い自分が、その端くれで根も葉もない世界に対して意志一つでやっていくには、あまりにも環境が違いすぎることを、当時の自分は感覚として分かっていたのではないかと述懐しています。まさに彫刻界のサラブレッドである保田先生と草競馬にもならない自分。ただ、日本彫刻界を俯瞰できる親子に羨望はありますが、本書を読んでいると共感する部分もあります。海外での慎ましい生活を自分も送っていたこと、また自分には彫刻に無知であってもそれを盲目的に許してくれた親がいたことが、自分に彫刻家としての道を歩かせてくれているのだと改めて思い返しています。自分が本書に惹き付けられる理由は、たとえ生育歴の違いはあっても、彫刻という大きな世界に没頭する姿勢に違いはないこと、保田先生と自分は同じ人間であって意志一つで芸術を極め続けることが出来ること、そこに血縁関係など微塵も存在しないことを自分は認識しつつ、気持ちをしっかり持ちながら本書を読んでいるところです。

ミニシアターに行く理由

先月は3本の映画をミニシアターで観てきました。学生時代に幾度か足を運んでいたものの、最近は映画館から遠のいていました。公務員と彫刻家の二足の草鞋生活がずっと続き、美術館へは行っても映画館には行く気が起こらないという多忙感が影響しているものだと思います。劇場や音楽会にも最近は行っていません。叔父のコンサートや従兄弟のライヴには行っているのに、時間のやり繰りが上手くいかなくて、自ら進んでいくということはありませんでした。学生時代はアングラ演劇から商業演劇に至るまで演劇ばかり観ていました。ここにきてミニシアターに多少無理をして出かけましたが、映画を単なる娯楽としてではなく、個々の心理表現やその国その土地における特異性を描くことで、造形美術にない表現があることを改めて認識しました。採算の取れない映画の中には真に優れたものもあって、深く心に刻まれることも例外ではありません。時間が出来れば映画や演劇に出かけられるのでしょうか。その気があれば今だって行けるはずと思って、先日から映画を見始めています。観れば何か得るものがあって満足感を覚えます。今後もいろいろな場面で情報を得て、じっくり味わえる映画を観ていきたいと思っています。

「存在と時間 Ⅱ」に再び挑む

「アーレントとハイデガー」(エルジビェータ・エティンガー著 大島かおり訳 みすず書房)を読み終えた翌日から「存在と時間 Ⅱ」(マルティン・ハイデガー著 原佑・渡邊二郎訳 中央公論新社)に再び挑んでいます。「存在と時間 Ⅱ」を読んでいると著者本人の私生活と、思索を深めた学問は別と考えた方がよさそうだという考えが私には浮かびます。原稿下書きやメモに立ち向かう著者の心境は、すっかり形而上的な思索にはまっているのではないかと察するからです。ただ、精神バランスを崩すと、その程度にも拠りますが、常軌を逸した集中力が生まれ、結果として素晴らしい作品が誕生するということもあります。蓮っ葉な考えですが、とくに恋愛に溺れているときは自分の経験で言えば大いにあると思っています。ハイデガーがどうだったのかはよくわかりませんが、「存在と時間 Ⅱ」を再び読みはじめてみて、相変わらず理論の難解さが続き、それを読み解く力が試されているような気がします。何故こんな難しい言い回しをしなければならないのか、ドイツ語の厳密さをそのまま受け取れば納得もいきますが、やはり恋愛で常軌を逸していたのかなぁと思ってしまいます。単なる想像に過ぎませんが…。

HPのLandscapeに陶紋をアップ

ホームページのLandscape(風景)に昨年発表した陶紋をアップしました。Landscapeは野外撮影した作品を見せる頁です。アップしてあるのは「球体都市」8点と「陶紋」2点ですが、今回新たに1点を加えました。野外撮影は今後増やしたい意向があります。Landscapeはカメラマンの企画力に任せていて、不思議な空間をいかに創出するかに存在意義があります。それはもはや自分の作品ではなく、カメラマンの作品と呼ぶに相応しい仕上がりになっています。自分はこうした仕事に対して大変嬉しく感じているだけでなく、カメラマンから創造的な刺激をいただいているのです。自分の作品世界を解釈し、その作品が置かれる場所を探し出し、効果を引き出す行為は、それだけでも創作活動と言えます。近い将来自分もギャラリーから飛び出して、野外に設置する作品を作りたいと思っているので、Landscapeはその前提になると考えています。ホームページへは左上にある本サイトをクリックしていただければ入れます。ご高覧いただけたら幸いです。

週末 台風近づく工房にて

朝から工房で制作三昧です。陶彫の成形や彫り込み加飾をひたすら作り続けています。台風18号が近づいているので、工房の周辺はしだいに雨が強まっています。工房内は寒くなってきていて半袖から長袖シャツに替えて作業を行いました。陶土の乾燥がやや遅くなったように思います。気温や湿度が関係しているので、そうした気候の移り変わりで陶土の放置時間を変えていかなければなりません。つくづく陶土は生きているんだと思っていて、その世話を焼くのも陶彫作家の仕事です。今日は3体の成形をやって、1体の彫り込み加飾をやりました。まずまずの進み具合かなぁと思っています。台風が近づいていることもあって、今日来ていた中国籍のアーティストを早めに駅まで送りました。自分ももう一息のところで作業を止めることにしました。最近報じられている御嶽山の噴火で自然災害の凄さを知り、台風も甚大な被害を齎すものなので、今日は早めに工房を閉めることにしたのでした。出来れば台風一過のウィークディの夜に残りの作業をしたいと考えています。

週末 共有する制作時間

10月最初の週末です。私は「発掘~群塔~」の陶彫による10体の塔の上部に挑みます。まず、陶土を土錬機にかけて土練りするところから始めました。それからまず初めの1体を作ってみました。先月作っておいた下部と組み合わせて、塔全体の様子を見ました。これでいけそうだと判断し、明日から量産に励みます。もちろん1体ずつ作って、それぞれに彫り込み加飾を施していきますが、次第に細くなる先端部分に気遣う必要がありそうです。今日は2人の若いアーティストが工房に来ていました。2人とも大学院生で東京芸大と多摩美大と学校も表現技法も異なりますが、目指すところは同じで、個々の創造世界を築こうとしているのです。2人とも将来に対する漠然とした不安を抱えながら、ひたすら制作に没頭していました。自分にも同じような時期がありました。20代前半は不安なあまり精神的におかしくなった時もありました。自分が二足の草鞋生活を始めるに至った決断も、今になってみればこれでよかったと思えるのですが、若い2人にはまだまだ迷いがあって、心の安定は当分やってこないのかもしれません。ただ、工房があることで制作に対する環境の保障があるところが昔の自分とは違います。今日も自分を含めた3人で制作時間を共有し、集中力を発揮しました。これは珠玉の時間と言えます。この時間が訪れるからこそ大袈裟に言えば生きているという実感があると言っても過言ではありません。自分は先月終わりに感じた緊張した制作状態が今月も続いていることを嬉しく思いました。「発掘~群塔~」も旧作に負けず劣らず手間のかかる作品であることは間違いありません。明日も続行です。

竹橋の「菱田春草」展

36歳の若さで夭折した日本画家菱田春草が生誕140年を迎え、竹橋にある東京国立近代美術館で「菱田春草」展が開催されているので、展覧会初日に見に行ってきました。菱田春草は黒猫の絵で知られた画家ですが、自分は「落葉」を描いた空気遠近法による屏風が好きで、これをじっくり見たいと思って出かけたのでした。図録執筆を担当された鶴見香織氏によると「『色彩研究』に替わる新たな課題として『距離』を掲げ、自宅周辺に広がる雑木林をモチーフにこれを追求し始めた。『距離』とはすなわち三次元的な空間表現である。」とあって、横山大観らと始めた朦朧体による筆致から推し進めて、空間や距離を表現していこうとする春草の世界観が伝わってきます。「春草は『不熟』の天才であった。それゆえに『智的の焦慮』をもち、徹底して改革者であり続けようとしたこの時代に数少ない画家の一人であった。」とあるように春草は実験的な日本画に挑んだ人でした。岡倉天心の一文が掲載されていたので引用して締めくくりたいと思います。「畢竟彼の絵は此の意味に於て実験室に於ける試験なので、世間では唯無闇に変な絵を描くと思ったかも知れないが、其の動機を見れば根底のあることである。殊更に奇を好んだのでも何でもない、彼は仏画抔も写して大分古画の研究も積み近頃漸く自分の境涯に入った処だったのに惜しいことをした。境涯に入った丈けだから勿論未だ成熟はしていない。が今日成熟する人は心細い、大体の問題が未だ成熟してはならぬ様に出来て居るからである。」

12‘RECORD1月分アップ

RECORDとは文字通りイメージを記録していく媒体で、日々ポストカード大の小作品を作り上げています。ずっと二足の草鞋生活を送り、ウィークディは公務員として働いているので、RECORDの制作時間は帰宅後の夜になります。毎晩スムーズに作れればいいのですが、時に遅々として進まない日があると、そこで完全に中断してしまいたくなります。そういう時は翌日に中断分と併せてやっています。完全に中断することもなく継続出来ているのは、臨機応変に精神バランスを考えているためで、日々ムラがあるのは承知の上で制作しているわけです。RECORDのオリジナル作品を同一空間に一挙に発表したい欲求に駆られますが、今のところ扱ってくれる画廊等の予定がないので、ホームページのみで発表しています。今回は2012年の1月分をホームページにアップしました。アップが遅れている理由は、カメラマンにまとめて撮影してもらうことと、私が月ごとに捻り出すコトバが遅れていることにあります。追々アップしていく予定ですので、暫しお待ちください。なお、ホームページへは左上にある本サイトをクリックすれば入れます。ご高覧いただければ幸いです。

10月は創作の季節

10月になりました。季節が移り変わり、創作活動には最も相応しい時を迎えます。職場は来年度人事の第一歩が始まっていく時期にあたり、公務の上では頭を悩ますこともありますが、週末は可能な限り「発掘~群塔~」の制作にあてたいと考えています。今月の制作目標としては、先月終わった陶彫部品10体の上部を作り上げることです。どのくらい手間がかかるのかやってみないとわかりません。ただ下部より簡単に出来るのではないかと期待しています。RECORDはいつものようにテーマを決めて日々作っていきます。時に面白くなったり、緩慢になったりを繰り返しながら小作品が蓄積されていきますが、毎日継続していくことが大切と考えています。読書は哲学に勤しむ1ヶ月になり、通勤時間帯に思索を深めます。鑑賞は興味関心のあるものは何でも吸収したいと考えています。まさに創作の季節到来となって、今月も先月に増して充実させていきたいと思います。

鑑賞・制作とも充実した1ヶ月

今日で9月が終わりますが、夏季休暇明けの校務が始まっている中で、今月は鑑賞・制作とも充実した1ヶ月だったと思います。まず展覧会は「種村季弘の眼」展(板橋区立美術館)「発掘された日本列島」展(江戸東京博物館)「二科展」(東京国立新美術館)「菱田春草展」(国立近代美術館)「だまし絵Ⅱ」展(Bunkamura)の5つ、そのほか知人の個展やグループ展に行ってきました。映画では「大いなる沈黙へ」(新宿シネマカリテ)「リアリティのダンス」「ホドロフスキーのDUNE」(渋谷アップリング)の3作品を観てきました。鑑賞ではここ数年の中で一番充実した1ヶ月だったと思っています。制作では毎週末に工房に篭って「発掘~群塔~」の第一歩になる陶彫部品の土台を10体作りました。制作目標通りに作業が進められたのも今月が充実していたことを示すものです。「発掘~群塔~」は陶土を使って今月から制作を開始しています。準備は5月から始まっていますが、実際のカタチになっているのは今月からです。制作サイクルを確立しながら今後も進めていきたいと思います。RECORDは象徴的な図柄ばかりで、先月のアンコール遺跡をテーマにした具象的傾向とは打って変わった作風になりました。読書は相変わらず大著「存在と時間」に挑んでいますが、先日NOTE(ブログ)にアップした通り、著者ハイデガーの人間性に着目した書籍を読みました。来月もこの調子でいこうと思っています。

「アーレントとハイデガー」読後感

「アーレントとハイデガー」(エルジビェータ・エティンガー著 大島かおり訳 みすず書房)を読み終えました。本書は20世紀を代表する哲学者M・ハイデガーと彼に師事したH・アーレントに関する1920年代からアーレントが没する1975年まで2人の関係を描いた小冊子ですが、出版後の反響はかなりあったようです。2人の間で交わされた往復書簡が未公開だったことや、哲学者同士の関係を低俗なメロドラマにしてしまった批判など様々な論争がありました。訳者あとがきにある「思想家の秘められた私的な行為や人間関係はそもそもその人の思想とどこまで関係づけて見られるべきものなのか、偉大な思想家にもひそんでいるだろう人間的弱さや傲慢さや醜さは、その人の思想そのものの評価とは切り離して考慮されるのが妥当なのか」という問いかけが本書を締め括る訳者からの言葉になっています。文中からそうした内容を拾ってみます。「ハイデガーは情事をはじめたとき、アーレントへの最初の手紙から明らかに見てとれるように、先見の明をもって彼女の教師としての自分の立場と成熟した歳の重みを利用し、少なくともある程度は、彼女のうぶな心と、彼の知性や男らしさが彼女にとってもつ圧倒的な魅力を、計算に入れていた。」「どう見てもハイデガーは、少なくとも因襲的な意味では攻撃的な男ではなかった。しかし自分の家庭と履歴を危険にさらすことも辞さずにハンナを追い求めた彼の姿勢は、力ずくの自己中心的な性質と、無慈悲にも狡猾になれる能力とを示している。」そのうちナチスが台頭し、アーレントは米国に亡命します。ハイデガーはナチ党に入り、悪名高い学長演説を行っていきます。「ハイデガーは妻の協力のもとに、ナチ・ドイツでの彼の十二年間記録を弁護し正当化すること、というよりむしろ人生のその時期を再解釈し、書き変え、再創作することに没頭した。」「ハイデガーは自分の過去を改変したかっただけでなく、賞賛と崇敬も欲しかった。」ユダヤ人であり、米国在住の著名な学者となっていたハンナ・アーレントは、それでも民族やイデオロギーを超えてハイデガーを擁護していました。そこに理解が及ばない研究者がいても不思議ではありません。最後にアーレントの心境を描いた一文があります。「彼に『誠実でありつづけるとともに不実でもあった』、そしてそのどちらも『愛ゆえ』であった、そういうアーレントを、彼は知らないままだったのである。」