陶彫部品の総数計算

今日も工房に籠もりながら、次々と脳裏に去来することを挙げてみました。まず、「発掘~群塔~」はあとどのくらい陶彫部品を作ったらいいのか、題名をまだ決めかねている新作はどうなのか、小品として毎回個展に出している「陶紋」はどんな作品にして、どのくらい作るのかをそろそろ考えていかなくてはならないと思っています。差し詰め今日の段階で成形が終わっているのは「発掘~群塔~」が47点です。さらに概算で30点くらい必要かなぁと見積もってみました。題名のない新作は40点必要です。「陶紋」は6点と考えています。こう考えると昨年より陶彫部品の点数が多いと考えるべきで、最終ゴールを来年5月の図録撮影日に設定するとなると焦りがつのります。この休庁期間は自分としては精一杯やっていて、ペース配分を考えないと体調を崩すこともあります。休庁期間は4日間が終わりました。途中段階としてはまずまずではないかと思っています。毎年晦日に陶土と格闘していますが、今年は若い世代の子たちが工房に出入りしていることで雰囲気を和やかにしています。熱い一杯のお茶と彼らと交わす何気ない会話がいいのです。明日は大晦日、朝から夕方まで制作です。頑張ろうと思います。

年賀状の印刷

NOTE(ブログ)は日記としての役割があるので、制作工程だけではなく日常生活の面でも、その日にやったことは書き留めておくようにしています。自分にしか役立たない日記を公開しているわけですが、他に記録する手段がないのでご容赦願います。年賀状の宛名印刷なんてどうでもよいことですが、敢えてアップしたいと思います。年賀状はご無沙汰している人に挨拶を送ることができる有効な儀礼だと考えています。最近一般的になった家族写真の入った年賀状を作ったことは一度もありません。顔写真がどうしても好きになれないのです。このホームページにも自分のポートレイトは掲載していません。年賀状の画像はRECORDから取ります。今年は11月分の中から羊の絵をトレースして印刷しました。昨年は自宅のプリンターで印刷しましたが、今年は業者にお願いしました。宛名印刷は自分の気分として例年元旦にやっていて、そのせいか年賀状が届くのはずっと後になってしまいます。今年は業者に画像印刷を依頼したので、多少早く宛名印刷ができました。印刷枚数は250枚。次第に知り合いが増えてきて250枚でも足りなくなっています。昼は工房に行っているせいか、夜の自宅ではぐったりしていて、年末の慌しさに一日があっという間に過ぎていきます。

連日制作のペース配分

休庁期間に入って2日が過ぎました。工房は朝9時から夕方4時まで、時間を決めて制作をやっています。余力を残して作業を終わります。継続させるために自分の中でペースを作っているのです。現在は美術系の大学院生2人が、自分と同じペースでそれぞれの制作に挑んでいます。大作に向かう心構えは長距離ランナーに似て、途中で息切れしないように常にマイペースでやっていくのが得策と思っています。自分はこうした作業が得意です。逆に一気呵成に作り上げることが苦手です。ペースが定まると元気になってきます。昨日のNOTE(ブログ)に書きましたが、陶彫部品がひとつずつ終わっていく度に、ちょい休憩という褒美を与えて、また作業を再開しています。こんなペース配分で緩やかにやっていきたいと思いますが、全体が出来上がってくると、ずっとこのペースではやっていけません。全体構成を眺めることによって不足な箇所や不満な箇所が気にかかり、追加制作ややり直しを考えます。そうなると制作工程は一気に緊張を孕んできます。次第に常軌を逸してくるのです。内面を突き詰めていく過程ではペース配分など無意味になります。例年そんな時がやってきて作品は完成に近づくのです。今は時期的にまだそこまでいきません。ペース配分を考えながら休庁期間を過ごしたいと思います。

休庁期間の過ごし方

今日は自宅にテレビ・パソコンのケーブル追加工事が入る関係で朝のうちにNOTE(ブログ)のアップをいたします。今日から9日間の休庁期間に入ります。長丁場の制作は、日々の時間帯を決めて、多少ゆとりをもって切り上げるのが有効です。そこで一日の作業時間を朝9時から夕方4時までとします。集中できる時間はせいぜい6時間か7時間くらいで、そのうち精神が研ぎ澄まされる時間は2時間くらいかなぁと見積もっています。一日ごとに小さな目標を決めておいて、ひとつずつクリアしていき、そのつど達成感を得るのが自己高揚にも繋がると考えています。ひたすら努力に努力を重ねていく意識は、自分にとっては得策ではありません。自分に褒美を与えながら気分をコントロールしていくのが、強靱な精神力を持たない自分にはちょうどいいのです。今日は午前に成形、午後に彫り込み加飾を行う予定でいます。休庁期間の初日である今日の作業具合を基準にして今後も続けることになるでしょう。今回の休庁期間には中国籍のアーティストが工房にやって来ています。彼女も大学院修了制作に向けて、自分と歩調を合わせて制作をやっていく予定です。大作に挑むには、それなりの覚悟とそれを具現化していくペース配分が必要で、彼女はそうした心構えをここで学ぼうとしているのです。思えば昨年は芸大大学院受験のために別の子が工房に来ていました。若いアーティストが来てくれるのは社会的促進が図れて自分には好都合です。今日から頑張りたいと思います。

習いと慣れについて

家内が胡弓や三味線演奏で「○○さんは一所懸命なので漸く技巧が身について上手くなってきた」とか「私もやっと余裕が生まれてきた」と言っています。演奏や歌唱はそのつど技巧を習い、練習を繰り返して、漸く人前で演奏できるようになるものだと思っています。聴くに堪えないと言うのは練習が不完全であることを意味し、また逆に演奏に余裕があるのは場数というか、精神的な慣れによるもので、そこに強弱や抑揚という楽想が生まれます。聴く快さはそこから現れてきます。美術の世界でも同じではないかと思うことがあります。創作行為が楽器演奏と異なるところは、慣れが必ずしも感動を生むモノではなく、寧ろ拙い技法でも表現したい思いが強烈に伝わるような精神性を感じると、鑑賞者の心を捉えるところです。それを承知の上で、絵の具や素材を思うように扱える技量を作品から感じられると、その表現の深さに眼が奪われます。習うより慣れろというのは、ただ慣れるだけではなく、主張する内容がそれに見合っていることで、完全燃焼する作品世界が生まれることを言うのではないかと思います。「技量は内容を語る」という台詞は自分が学生の頃に先輩が言っていたコトバです。今になって思い出したツボに落ちるコトバのひとつだと認識しています。

聖夜に思うこと

今日はクリスマス(聖夜)です。イエス・キリストが生まれた日で、キリスト教徒にとっては重要な日です。30年以上も前にヨーロッパで過ごした聖夜は今もなお自分の印象に残っていて、かつてNOTE(ブログ)にも書きましたが、オーストリアやルーマニアで迎えた聖夜は忘れられない思い出です。自分がキリスト教徒でなくても、十字架という宗教的象徴に向き合い、一途に祈りを捧げる人々の姿に感動を覚えました。イエスの誕生を祝う礼拝の荘厳さは、異教徒であってもその真摯な姿勢に襟を正すこともありました。そんな印象から一転して、日本のクリスマスの光景は宗教性とは関係なくショービジネスのようになっています。これも日本の文化なのかもしれません。5年間に及ぶヨーロッパ生活から帰国した時に、日本のクリスマスの光景を見て唖然とした自分でしたが、今は肯定的に考えていて、イルミネーションが輝く夢のような世界を演出するのも案外いいものだなぁと思うようになりました。日本人が快く感じる文化、お互いのコミュニケーションがとれる場面があれば、どんなものでも良しとしている自分がいるのです。震災の影響なのか、人間関係の絆を探るためなのか、人が集い、夢に思いを託す瞬間があってもいいと自分は思っています。ヨーロッパと違い、日本人にとってクリスマスは単なる年間行事の一部です。同じ意味でも聖夜は日本語表記で、クリスマスは外国語のカタカナ表記ですが、宗教に裏づけされたヨーロッパでは聖夜と呼ぶに相応しく、夢を演出する日本ではクリスマスと呼びたい気持ちになります。コトバに微妙なニュアンスの違いがあるように思えます。

通勤の心理状態について

前のNOTE(ブログ)に起床の辛さを書きましたが、勤務時間があるからこそ、決まった時間に起床しなければならず、通勤しなければならないわけです。習慣となった起床と通勤、これは嫌だなぁと思いながら、でも仕方なくやっている一日の重要な行為です。社会人という自覚と責任感がこの行為に自分を掻き立てる所以です。仕事をしている以上こうしなくてはいけないと自分に言い聞かせているのです。起床はともかく、実は通勤は自分にとって大して苦しいものではありません。困難な仕事上の課題を抱えているときは別として、普段は自宅の近くのバス停からバスに乗って、私鉄に乗り換え、また駅前からバスに乗って職場に着く行為を、自分は何も考えずにやっています。その間に読書もします。乗り換え時は、自分の前を歩く人の足元をボンヤリ眺めながら、人混みに押されて移動しています。こうした行為は、定型に嵌まっているので疑問は生じません。現存在である自分は環境的道具性によって通勤時も存在しているなんて考えるのは哲学書の中だけであって、通常は歩くことに気を取られ、寧ろ頭の中は全てリセットされている状態ではないかと思います。その状態はいいなぁと日頃から感じている自分がいます。もちろん天候や寒暖によって通勤が辛いときもありますが、日々働く場所があるというのは幸せと思えているこの頃です。

休日の有効な活用

先日から体調が芳しくなく創作活動が停滞しています。昨日は完全に制作を休止し、今日はまずRECORDから始めてみました。何とか食欲が出てきたので、今日は自宅でのRECORD制作の後、工房に出かけ、2日前に中途半端なまま放り出していた陶彫の彫り込み加飾をやりました。今日は天皇誕生日で休日のため、与えられた自由時間を有効に使おうと決めていました。当初は成形も彫り込み加飾もどんどんやる予定でいましたが、体調を崩して予定を変更しました。今日は27日から始まる休庁期間に備えて、その足慣らしとして多少緩めの制作にしました。今日のところは制作と休息をバランスよく取って、これから予定している過密な制作工程に照準を合わせていこうと思っているのです。休庁期間は9日間あります。元旦に休憩を挟んで、残り8日間に陶彫部品を果たしてどのくらい作れるのか、屏風全体を考えると残りいくつの陶彫部品が必要なのか、また休庁期間後には順次窯入れをする予定でいるので、仕上げや化粧掛けのことも考慮しなければなりません。併用する木彫は来年早々に始めます。何しろ自分の作品は次から次へと制作工程の段階がやってきて、先を考えると焦りを覚えますが、これは例年多少無理をして乗り越えてきたハードルでもあります。やってやれないことはないと自分に言い聞かせながら制作を続けている次第です。

ホドラーにおける「オイリュトミー」

スイスの象徴主義を代表する画家フェルディナンド・ホドラー。現在国立西洋美術館で展覧会が開催されています。自分はホドラーのまとまった作品を見るのは初めてでした。ホドラーはスイス本国では高い評価を受けている芸術家で、公共的な壁画も残してします。ホドラーの人物画や風景画には彫塑的な捉えがあって、自分の好みに合います。そういう意味でも自分はもっと前からホドラーを知っているべきだったと思っています。ホドラーの代表作の中で自分は「オイリュトミー」という作品に注目しました。宗教的な主題と関係がありそうと思っていた自分は、解説を読んで実はキリスト教的図像との関係を避けていた作品であることを知りました。「白い布をまとった5人の老人の側面観の姿。彼らは落葉と小石に覆われた霧がかった道を歩んでいる。それは誰にも共通する終着地へと向かう不可避の道行き、つまり、死への道である。」とホドラー本人が語っている「オイリュトミー」は、ギリシャ語で調和のあるリズムという意味だそうです。会場には「オイリュトミー」の女性版と思われる「感情」と題された作品が並べられていました。死へと向かう路傍で、人は振り返ることもなく前を向いて歩いています。軍隊の行進ではありません。各人の思索を彫り込んだ深い皺が描かれています。ゆっくりと一歩ずつ進む行程に、模索か悟りかの境地を感じるのは私だけでしょうか。その他公共の壁画に見られる人物群像にも死へ向かう道が隠されているようにも思えてきます。全体的にはがっしりした構成に象徴的な人物像、スケールのある世界観を持ち、内面的にも深遠な表現に到達していて、今展はホドラーの作品を網羅した充実した展示内容になっていると思いました。

週末 魔力通じず体調不良

昨日のNOTE(ブログ)に勇ましいことを書きましたが、今日は創作への魔力通じず、ついにダウンしてしまいました。朝は工房で彫り込み加飾をやっていましたが、通常ならヤル気が漲るところで力が入らず、これはどうしたものだろうと思っていました。やはり寒さと疲労がピークに達したのかと思い、このまま作業を続行すると身体に異変を生じることになると判断し、午後の制作は打ち切ることにしました。工房を閉め、自宅に帰って床についたところ4時間以上もぐっすり寝てしまい、夜起きたときはフラフラでした。熱もあったようです。やはり創作活動には身を削るようなものがあり、病気になって初めてその辛苦がわかりました。おまけに公務での気遣いも影響しているのかもしれません。何気なくやっていることでも、職場の責任者となれば無意識な気配りや気遣いがあってもおかしくはないかなぁと振り返っています。公務に関しては次年度の人事等の本庁への提出や資料作りは終わっているし、このあたりなら一日くらい休んでも差し支えはないと思っています。制作は工程の見直しを余儀なくされていますが、健康な身体あっての創作活動なので、ここはじっくり静養することにしました。

週末 疲労を忘れる魔力

昨夜は管理職の集まりがあって帰宅が遅くなりました。気候のせいもあるのでしょうが、このところ疲労を感じることが結構あります。肩や腕に痛みがあります。近隣のスポーツ施設に行って水泳をしてくると、肩や腕の痛みはなくなりますが、もうひとつ創作活動でも痛みは忘れます。朝から工房に篭って、新作の成形を4点、彫り込み加飾を1点やっていたら体調が戻りました。何もしていないと身体全体に疲労感がありますが、創作活動には魔力があって、陶土を練りだすと忽ち気力が漲り、身体がよく動くようになります。精神が肉体疲労に勝ってしまうと考えられますが、精神力とは一体何でしょうか。気持ちは持ちようだとは言うけれど、これほど顕著な例はありません。週末はまるで違う自分になっていて、テキパキとした行動に我ながら驚くときがあります。今日も朝から夕方まで集中して作業をやっていました。工房に来ていた中国籍の若いアーティストを駅まで送り届けて、夜は水泳をしてきました。さらに自宅でRECORDの彩色を行い、今はこのNOTE(ブログ)を書いています。明日も続行です。

「罪と罰」再読を始める動機

自宅の書棚には学生時代に放り投げてしまった書籍が数多くあり、この年齢になって漸く再読を始めている次第です。O・シュペングラー、A・ブルトン等の書籍に混じってロシア文学も書棚にあります。旧ソ連で20世紀初頭に興った構成主義に、若い頃自分は注目していました。表現主義とともにロシア構成主義に傾倒していたので、どうやら自分は北方民族文化に憧れる傾向があるのかもしれないと思っています。当時オペラ歌手の叔父がムソルグスキー作曲「ボリス・ゴドノフ」に出演したこともあって、ロシア文学を囓ってみようという意欲も持っていました。そこで読み始めた「罪と罰」でしたが、分厚い書籍の前で辟易して途中で止めてしまいました。貧困に喘ぐ学生が罪を犯して自己を問うという雑駁な導入部だけの記憶しかありません。これから「罪と罰」(ドストエフスキー著 工藤清一郎訳 新潮社)の再読を始めます。動機としては自宅に眠っている名作の再チャレンジで、名作の名作たる所以を知りたいと願うところです。先月まで奮闘していた哲学書ほど難解な語彙に悩むことはないと思いますが、偉大な文学を紐解くことで読破には時間がかかりそうです。年末の通勤の友にしていきたいと思います。

「父が消えた」読後感

「父が消えた」(尾辻克彦著 河出書房新社)を読み終えました。著者の尾辻克彦(赤瀬川原平)という人は、視るということ、視点を微妙に変えることに相当長けた人だと思いました。文章描写が赤瀬川流の劇画描写に似ています。もちろん同一人物だから当たり前ですが、ちょっとした気配や人間の心理を、平易なコトバにして何でもないようにして書いた世界に自分はつい引き込まれてしまいます。「赤瀬川原平の芸術原論展」で見た劇画原稿「お座敷」は、四畳半くらいの部屋に古風な女性がいて、そこに兵士が現れて、いろいろ絡むうちに、その縁の下に不思議な生物が棲息していて、その妙な取り合わせが不思議な物語を紡ぐものでした。その情景にあった昭和の古色蒼然とした写実に、荒唐無稽な生命体が蠢く物語を、その感覚のまま文章に代えただけなのが、作家尾辻克彦の著作なのです。自分自身が鄙びた過去に連れ戻されるような錯覚の中で、突如シュールな発想に転換されるところが、湿っぽい日本の下町風情を纏いつつ、実はこれは価値転換を図った芸術なのではないかと自分は考えています。ここで描かれる下町風情に哀しみが滲みます。何とも言いようのない空虚も感じます。文体はゆるキャラですが、こうした着眼点はカミソリのような切れをもつ才覚を示すものではないかと思うのです。ともかく読書を楽しみながら、ちょっと異次元な自分になれる不思議な書籍だと思いました。

12月RECORD「甲冑が浮遊する場所」

今月のRECORDのテーマは「甲冑が浮遊する場所」にしました。甲冑は戦国時代に武士が身に纏った武具ですが、あまりそうした具象性に拘らず、鈍い光沢を放つ装飾を削ぎ落とした鎧のようなイメージが浮かんでいます。今年のRECORDは文章で表したテーマを掲げてやってきました。年間を通じて魑魅魍魎が跋扈するイメージが多く、爽やかな絵柄はついに現れなかった記憶があります。職場で重責を担う立場になったためか、内面に向かう思考が続いたためか、原因は自分にもわかりませんが、今年は寧ろプラス思考で過ごしたのではないかと自分では思っています。重責とは言いながら今は自分の主張が通る心地よさがあります。内面を見つめていたのは自己を振り返って足元を固めたい意向があったためで、多くの哲学書に親しみました。「甲冑が浮遊する場所」はふと湧いたコトバです。身を守る甲冑がフワリと浮くイメージは現在の自分の象徴なのかもしれません。肩肘を張らずに自然体で仕事が出来れば最高です。今年の締め括りとして、このテーマで頑張っていこうと思います。

亡命作家による「悪童日記」

先日、橫浜にあるミニシアターに家内と行ってきました。上映されていたのは、ハンガリーの亡命作家アゴタ・クリストフによる「悪童日記」で、以前から観たいと思っていた映画でした。アゴタ・クリストフはハンガリー動乱の時に亡命し、スイスを経てフランスに渡りました。敵国であったフランスに身を寄せて、フランス語による小説を書き始め、この「悪童日記」によって一躍有名になったようです。「僕らは書き記す。この眼に映る、真実だけを。」というキャッチフレーズが物語るように、双子の少年たちが戦争中の壮絶な日常を書き綴った日記が物語の中心になっています。双子の兄弟はハンガリーの片田舎で暮らす祖母宅に預けられます。そこでは過酷な労働が待っていますが、双子は逞しく生きるため自分たちを鍛え上げていきます。盗人や殺人さえも真実と思えば実行する、そこに中途半端な情念はありません。双子がまだ年端もいかない子どもと思えるのは、優しくしてくれれば友人と思う近視眼的な周囲によって描かれています。一方大人たちは社会的な視野で、時に裏切る行為もあるわけですが、双子には通用しない理屈もあって、それは両親と言えども同じ尺度で考えているのです。親の屍を平然と乗り越えていく彼らの強さは一体何でしょうか。そうした意味で双子は純粋とも思える生き様を晒していくのです。亡命作家であるアゴタ・クリストフはここで何を言いたかったのか、戦争に翻弄された人々から見て取る人生観とは何か、見終わった後、静かな感動が込み上げてきたのは自分だけではないと思います。

恒例になった起床の辛さ

真冬になると朝早く起きるのが辛くなります。例年のことですが、起床する6時はまだ夜明け前で、カーテンを開けると外の景色はまだ暗いのです。仕事上の立場が変わっても、早朝に出勤することに変わりありません。春眠暁を覚えずにいられるのは定年にならなければ無理かもしれません。いや、定年になれば自分は創作に燃えて、もっと早く活動することになるかもしれず、意欲が漲って、おちおち寝てもいられないように思えます。と言うのは週末の制作は自分の身体に負担を強いているからです。週末はこんなふうにして燃え尽きてしまうので、勤務が始まる月曜日は身体中の筋肉が痛みます。朝になると仕事に行くのが億劫で腰が引けているのですが、思うにこのくらいでいる方が健康を保てるのかもしれません。仕事は組織があるので、最終責任は自分がとるにせよ、有能なスタッフのおかげで自分一人で課題を背負い込むことはありません。起床の辛さを乗り越えて職場に来てしまえば何とかなっていくものです。判断さえ間違わなければ普通に仕事は流れていきます。週末は自己との闘いなので、恒例になった起床の辛さなどモノともせず、気張って工房に出かけます。さて、二足の草鞋生活を一日の始まりである起床から捉えると、どっちがいいのでしょうか。定年まで残り1年少々、組織として何事も頼っていられるのも時間の問題ですが、たった一人の創作活動は終わりなき業と言えます。制作オンリーになっても春眠を貪れるような健康的な生活設計でありたいと思っています。

週末 制作&美大生グループ展

今日は朝から工房に篭りました。制作時間を3時間と見積もって集中した時間を過ごしました。今日も昨日に引き続き、用事が立て込む週末になりました。制作の途中に家内と衆議院選挙に出かけました。今回の選挙には積極的な考えもなく、投票に意味を感じないまま出かけました。投票率が下がることを懸念するマスコミ報道がある中、現時点で自分が考える人に一票を投じましたが、どうもしっくりいかない気持ちでいます。そのまま制作に戻って、彫り込み加飾を続けました。午後1時くらいに作業を終わりにして、工房に出入りしている美大生がグループ展を開催しているので、東京の下北沢まで見に行きました。その子は昼間は国家公務員として働いていて、美大の夜間部に通っているのです。年齢の差はあっても自分と同じ二束の草鞋生活で、創作活動に勤しむ頑張り屋です。現在美大の3年生ですが、同年代の油絵2人日本画2人の4人によるグループ展は、いずれもこれから伸びていく可能性を秘めた展示内容でした。その子は油絵を専攻していて、変形カンバス3点連作を出品していました。自然や人体の一部を切り取った画面構成で、表現力の稚拙さはあるものの、対象に面と向かって立ち向かう姿勢は評価できます。小手先だけでなく器用でもなく何かを掴み取りたいという思いは伝わってきました。今後に期待できる人材だと思いました。

週末 2つの搬入

朝から家内や若手2人の助っ人に手伝ってもらって、自宅の物置から工房に厚板材を運びました。来年発表予定の作品の一部になる厚板材で、かなり前から物置に仕舞い込んでいたのです。厚板材は4つあり、ひとつずつ4人で持ち運びました。現在作っている「発掘~群塔~」とは違う作品になる予定で、陶彫部品はこれから作ります。これはまだまったく始まっていない新作なのです。今日は工房で新作の陶彫部品になる石膏型を作る準備をしました。タタラにした陶土を石膏型へ嵌め込み、さらに紐状にした陶土で補強する方法をとるつもりです。新作の部品はこれから40体ほど作らねばならず、「発掘~群塔~」に並んで大変な作業になりそうです。昼ごろになって栃木県益子町から陶土600キロが届きました。例年お願いしている明智鉱業に連絡して送っていただいたのです。新作用の厚板材と陶土、この2つの搬入で今日は慌しい一日となりました。今日の作業が進まなかったのは、2つの搬入が重なったため仕方がないと思っています。この遅れはこれからの制作工程に集中して取り戻していきたいと考えています。今日は妙な疲れが残ったので、夜は近隣のスポーツ施設に行って水泳をしてきました。明日は頑張ります。

デ・キリコによる「吟遊詩人」

キュビズムやシュルレアリスムを初めとする新しい価値観を持つ造形作品を経験している現代なら、ジョルジョ・デ・キリコの作品はごくありふれた作品に見えますが、当時では大変な変革をもたらす絵画であったことでしょう。デ・キリコはイタリア人の両親のもとギリシャで生まれました。一時ミュンヘンに移り住んだ時に、北方系のロマン主義やニーチェの哲学に触れ、神秘的な作品を手がけます。さらにパリで詩人アポリネール等の支持を受けて「形而上絵画」を推し進めていきます。デ・キリコは古典にも傾倒していきますが、再び「形而上絵画」に戻ってきます。汐留ミュージアムで開催されていた「ジョルジョ・デ・キリコ展」ではデ・キリコの写実と幻想を行き来した作品が網羅されて、見応えのある展覧会になっていました。自分はマネキンと製図用具を描いた要素で構成された「吟遊詩人」に眼が留まり、架空な都市に佇む無機質な人体像に、静寂や孤独を見て取りました。「吟遊詩人」は最もデ・キリコらしい雰囲気をもった作品ですが、徹底した古典画法を学んだ画家であるからこそ、画面隅々に至る表現に真実があるように思えて、不思議な説得力をもっているように感じました。この頃の絵画に自分は音を感じません。光も人工的で、全てが演出された劇を見ているように思えます。そうした作為は自分の好みに合います。都市空間の残像は自分も追い求めている世界だからです。

千葉の「赤瀬川原平の芸術原論展」

回顧展のはずが遺作展になった「赤瀬川原平の芸術原論展」ですが、展覧会の主旨がどうであれ自分は千葉市立美術館まで見に行く予定を立てていました。テレビで見た赤瀬川原平氏は飄々として屈託がなく自然体で物事を分かり易く語っていました。文章にも不思議な平易さや滑稽さがあって読んでいる心地よさを感じました。「老人力」は通勤電車の中で思わず吹き出しそうになり、巧みなユーモアに感動しました。芥川賞受賞作の「父が消えた」は昨日から読み始めました。さて、「赤瀬川原平の芸術原論展」はそんな一人の芸術家の多様な表現媒体に捧げた人生を回顧する展示があって、これはもうじっくり見ていたら全て見きれないのではないかと思えるほど質量ともに圧巻な展覧会でした。自分の知らない初期の前衛的芸術活動では、同時期に試みていた芸術家集団がその後、様々な活動拠点のもとに創造的な展開をしています。現在も活躍している諸氏をメディア等で見ているだけに感慨深いものがありました。反芸術という旗印は、自分が美術の道に目覚めた頃に叫ばれていたもので、知識としてしか入っていない自分は遅きに失した感が残ります。20年以上も遅く生まれた自分は次世代の綺麗ごとの文化に埋没しているように思えます。千円札裁判も同様でリアルタイムでは知りません。赤瀬川氏の劇画の時代になると漸く自分は雑誌「ガロ」で泥臭い写実さとともに氏の活動を認識するようになります。ずっと後になってテレビ出演した赤瀬川氏のゆったりした語りを聞くまでは、自分は氏を怖く鋭く尖った人と思っていました。あるいは若い頃はそうだったのかもしれませんが、世相が暗く立ちこめる風刺の効いた社会的表現と、ご本人のゆるキャラが結びつかないと思っていたのです。氏は巨匠らしくなく、敢えて言えば多匠か凄匠かなぁと考えつつ展覧会を後にしました。

「父が消えた」を読み始める

「父が消えた」(尾辻克彦著 河出書房新社)を購入したのは、千葉市立美術館のギャラリーショップでした。「赤瀬川原平の芸術原論展」を開催していて、それを見たときに、前衛芸術家赤瀬川原平氏が尾辻克彦という別名で出版した同書が芥川賞に輝いたことを思い出しました。版画家池田満寿夫氏が芥川賞を取ったときは、すぐその書籍を買って読んだ記憶があります。今回も同じ動機でした。造形作家による小説、これはきっと面白いに違いない、なぜなら作者の感覚が反映されているからと思っているのです。文庫本になった同書を買ってみて気づいたのは、これは短編が5つ収まったもので、「父が消えた」はそのひとつでした。赤瀬川氏は自分の出身学校の先輩にあたる人なので、そのあたりのことも小説の中に出てくるかもしれないと期待しながら頁を捲っていきたいと思います。以前、同著者による「老人力」を読んで、その着眼点と面白さにワクワクしました。この飄々として乾いた感覚はどこからくるものだろうと思ったこともありました。通勤の友としては最高に楽しめるものではないかと思います。

「詩的思考のめざめ」読後感

「詩的思考のめざめ」(阿部公彦著 東京大学出版会)を読み終えました。これは自分にとってこの上なく楽しい書籍でした。これを読んだからといって自分のコトバが流暢に出てくるものではありませんが、自分にとって詩とは何かというモヤモヤした問いに、本書は分かり易く、胸にストンと落ちるような答えを用意してくれていました。最後にある文を引用します。「何より強調したかったのは、私たちの日常が、私たちのふつう考えている以上に詩的なものとつながっているということでした。遠いありがたい『詩』の世界に一生懸命入っていかなくても、ふだんの日常の中に詩のタネは隠されている。~略~それはもはや入門ではなく、詩との遭遇です。門を叩かなくてもいい。詩は門の外にあるのです。~略~とくに詩を読み始めてすぐの頃は、詩にあらわれた匂いのようなものがすごく気になる。作品と書き手との相性もはっきり出る。中には問答無用におもしろいと思える詩もあるでしょうが、周囲の人がおもしろがって読むわりに自分にはどうしても楽しめない、いや、気分が悪くなるものだってある。」なるほど、詩はそんなに身近であったか、確かにそうかもしれないという思いに辿り着きました。でも自分が自らのコトバを捻り出すのはやはり難しいと思わざるを得ません。造形美術と同じで、詩も簡単に生まれるものではなく四苦八苦しながら創作していく行為と改めて知った次第です。

橫浜の「トーベ・ヤンソン展」

既に橫浜では終わっている展覧会を取り挙げて恐縮ですが、先日立ち寄ったデパートで開催していたムーミンの原作者トーベ・ヤンソンの画歴を展望する展覧会は、大変面白く楽しいものでした。日本人はキャラクター好きな国民です。ドラえもんやピカチューや妖怪ウォッチ、ハローキティやご当地ゆるキャラ等数え上げればキリがありません。外国のキャラは圧倒的にディズニーですが、そんな中でムーミンは北欧出身のちょっと風変わりなキャラと言えます。作者のトーベ・ヤンソンは画家です。ムーミンの原作者として世界的に知られるようになりましたが、本人は画家でありたいと願い、絵画による個展も開催しています。今回の展覧会で画業が紹介されていて、ヤンソンの画風は物語性のある色彩豊かな具象を示して、画家としても才能を感じさせるものでした。第二次大戦中に政治風刺雑誌「ガルム」に寄せたヤンソンの挿絵に自分は興味を持ちました。ファシズムに対する批判をイラストにしたところで、やがてムーミンの原型ムーミントロールが生まれます。愛らしいキャラとして親しまれているムーミンですが、その誕生には戦争の影があったり、北欧の神秘性が宿っていたりして、日本のキャラとは異なる精神風土によって育まれたキャラであることが分かりました。そうした背景を知ることでムーミンの世界観が変わって見えてきます。異文化理解を促された意味でも今回の展覧会を見た意義は大きかったと思いました。

週末 不安を払拭するために…

今日は朝から工房に篭って制作に明け暮れました。新作「発掘~群塔~」の屏風に接合する小さな塔の制作が現在11本終わっていて、今日は新たに4本の成形を行いました。昨日から今日にかけて急ピッチで成形や彫り込み加飾をやっています。この集中力は意欲に裏づけされたものですが、来年5月までに完成できるのかどうかという不安に背中を押されていることも確かです。不安はギャラリーせいほうで個展の企画が始まった9年前よりずっと持ち続けているもので、自分の意地をかけて不安克服のため走り続けているとも言えます。不安とは何か、ハイデガーの存在論では現存在が情状性の中で出会うものですが、そうした不安の定義が明らかになったところで、不安自体は払拭できるものではなく、これは不安と面と向かって闘い続けることしかないと思っています。この不安は個人的なもので、創作活動をやめたり、作品の完成基準を下げれば解決できるものです。そうはしたくないという欲求が不安を生じさせ、つまり自業自得なわけですが、その不安を払拭するための努力を続けることが、自分に与える課題にしています。自分はこうした不安を、積極的で前向きな不安として捉えていて、生きがいを試す手段として乗り越えるべきハードルと考えているのです。

週末 制作&ミニシアター

やっと週末になり、朝から制作に没頭しました。新作の彫り込み加飾を3点行いました。手間暇のかかる彫り込み加飾を集中力をもって行っていたところ、頻繁に使用していた小さな掻き出しベラが壊れました。重宝していた道具だったので残念です。そこでペースダウンして、今日は夕方の3時半に作業は終わりました。明日は別の道具で何とか代用していくつもりです。夕方から家内と横浜市中区にあるミニシアターに出かけました。最近、渋谷や新宿のミニシアターに行って、社会性の強い映画を観ていましたが、今日も例外ではなくシネマ・ジャック&ベティでドイツ・ハンガリー合作による「悪童日記」を観て来ました。シネマ・ジャック&ベティは昔の横浜東映名画座が生まれ変わって、名作や実験作品を上映しています。東京のミニシアターより自宅に近いので気軽に出かけられるのです。「悪童日記」は期待通り面白い作品でした。第二次大戦中という時代背景があって、ある意味で無垢な双子の少年たちが、社会に翻弄されながら逞しく過ごした生きざまを描いたものです。ある意味で…と敢えて断わる必要がある映画なのです。その理由や感想は機会を改めます。明日は制作三昧になる予定で、朝から頑張っていきたいと思います。

「普賢菩薩騎象像」の象徴性

先日見に行った「日本国宝展」に出品されていた名作の数々を取り挙げていくと際限がなくなるので、この「普賢菩薩騎象像」で同展に関する感想は終わりにしたいと思います。「普賢菩薩騎象像」は檜材による寄木造りで作られたもので、象の上に蓮華座を乗せ、その上に菩薩が鎮座する姿に自分は静寂を見て取りました。平安時代に作られた菩薩像なので、定朝様式の穏やかな雰囲気が漂っていました。自分は象の造形に面白みを感じました。動物の象徴性は、現存としての具象性や幻想としての仮象性があっても、その形態解釈に彫刻家の手腕を感じることができ、とりわけ想像で創り上げる寓話的動物に自分は創作意欲を掻き立てられることがあります。「普賢菩薩騎象像」はまさにそんな象徴性をもった木彫ではないかと思います。もちろん「普賢菩薩騎象像」だけではなく、「広目天立像」や「多聞天立像」の下部にある邪鬼にも同じような象徴性を読み取っています。

2点の「地獄草紙」

日記として美術館を巡ったことをその日に記録していますが、それぞれの展覧会の詳しい感想は後日改めるようにしています。このところ多くの展覧会を見てきて感想が溜まっています。感想を後日にする意図は、名作の数々を自分なりに解釈して、その代表作を脳裏に刻むために行っているのです。「日本国宝展」は先々週の金曜日の夜に出かけた展覧会です。財善童子立像を一度NOTE(ブログ)にアップしていますが、今回は絵巻を取上げます。会場では地獄で受ける壮絶な苦しみを描いた2点の「地獄草紙」に眼が奪われました。2点はそれぞれ奈良と東京の国立博物館が所蔵しているもので、いずれも亡者や獄卒が動きを伴って描かれる情景に毒々しい色彩、当時は凄まじい迫力を感じたものと思われます。現在は色彩も薄れ、支持体の痛みも激しい箇所が見受けられますが、それでも苦しみ喘ぐ群衆に眼が留まります。自分は動勢のある作品が好きで、様式や形式を重んじる作品よりも面白みを感じます。作者の筆致が活き活きとしていると、内容はともあれ時代の情景をイメージしつつ、心より楽しめるのです。図録によると天道、人道、修羅道、畜生道、餓鬼道と並ぶ六道のひとつが地獄道で、六道の中でも最も苦しみの多いところとされており、多くの経典がその凄惨な様相を描いているとあります。壮絶故に印象に残る絵巻で、常軌を逸しているところに魅力があると思いました

「詩は恥ずかしい」に共感

「『詩とことば』という本の中で彼(荒川洋治)は『はずかしさ』について語っています。話はまず人が歌をうたうことを『はずかしい』と思わないことの不思議さから始まります。~略~曲があると、この恥ずかしさは減る。曲のせいにできるからです。制度のせいにすればいい。自分が過激なのではない。曲があるから仕方なくそうしているにすぎないのである。では、詩の場合はどうか。詩には曲がつかない。~略~歌だって恥ずかしいのに、曲がない詩はもっと恥ずかしい。何しろ『いつものその人とちがう。日常をはずれている。反俗的なものである。もっといえば過激である』のです。」現在読んでいる「詩的思考のめざめ」(阿部公彦著 東京大学出版会)にこんな一文がありました。まさにその通り、詩は恥ずかしいのです。それを高校時代から自分はずっと思っていました。でも自分は詩が好きで、無骨な男子が表立って詩を読んでいるという妙な世間体もあって、人に隠れて密かに詩を読んできました。だから詩を書くなんてことは羞恥の極みみたいなものです。でも詩が書きたい、書けるようになるといいなぁと憧れています。ホームページに造形作品を掲載するようになって、その端の方にコトバを添えています。詩と言わないのは恥ずかしさ故ですが、まさにそんな自分の心情を本書は言い当てていると思っています。

12’RECORD3月分アップ

ホームページに2012年の3月分のRECORDをアップしました。先日カメラマンが来て2014年10月分までのRECORDの撮影をしていきました。アップが遅れている理由は、RECORDに付随する自分のコトバのせいです。RECORDは月ごとのテーマを決めているので、題目が設定されているコトバを捻り出さなければならず、その風情を纏った情景をイメージすることから始めています。これは造形美術と同じで、エスキースの段階で何度も描き変えて構図を決定していく過程に似ています。サクッと書かれたコトバひとつが心を捉えてしまう詩も、同じように詩人の試行錯誤から生まれているのでしょうか。RECORDは一日1点の制作を自分に課していますが、コトバ同様に悩むところです。もう少し肩の凝らない表現でいこうかとも思いますが、全力投球が板についてしまっているので、性分として軽く扱えないのです。瀟洒なイラスト風な作品も試みましたが、今ひとつしっくりせず、生真面目な画風を貫いていくしかありません。私のホームページには左上にある本サイトをクリックすれば入れます。RECORD3月分をご高覧いただければ幸いです。

2014年の師走に…

2014年も12月を迎えました。12月は師走と呼ばれ、師が走るほど多忙を極める1ヶ月です。自分は週末の制作や鑑賞で体調を崩しがちになったり、また持ち堪えたりの繰り返しです。二足の草鞋生活の慌ただしさを抱えながら、この時期は例年辛い状況に追い込まれています。でも弱音を上げるわけにはいかず、意欲だけで乗り越えようと思っています。休日が多いのが作品制作には好都合で、この時期に制作を進めておかないと、来年夏の発表に間に合わなくなります。とくに年末年始の休庁期間は有り難く、ここでどのくらい作品を進めていけるかがポイントです。具体的に言うと「発掘~群塔~」の屏風部分の陶彫部品を全て作ること、これは苦しい目標ですが、そのくらいの気構えでいかなければなりません。さらに新作1点を考えています。これは「発掘~群塔~」のもうひとつの展開で作る作品です。さらに小品の「陶紋」数点。ただし、新作の追加1点と「陶紋」数点は後回しにして、12月は「発掘~群塔~」の屏風部分の陶彫部品に力を注ぎたいと考えます。今後の制作量を思うと目が眩みそうですが、頑張っていきたいと思います。

週末 制作&RECORD撮影

11月最後の週末です。今日は朝から工房に篭りました。なかなか制作工程通りにはいきませんが、何とか新作「発掘~群塔~」の陶彫部品制作に食らいついています。このところ週末ごとのプログラムが過激になって些か疲れ気味ですが、創作へ向かう意欲は一向に衰えないところが良いと自画自賛しています。ただし、気持ちに身体がついていかないといった按配です。今日は彫り込み加飾を3点行いました。成形に比べると手間がかかるので進みは悪くなりますが、加飾された作品は最終のカタチになるので、楽しい工程でもあるのです。今日は10時過ぎにカメラマン2人が工房にやってきました。貸し出した作品の野外撮影した画像を見せてもらいました。自分が凡そ考えなかった作品の視点、発想のユニークさに驚きました。これぞ他者との協働が生む成果なのです。まさにデジタルな世界は自分一人だけの世界ではありません。別の才能が別の角度から捉える造形、これこそ自分が願う世界です。カメラマンは今日RECORDの撮影を行っていきました。RECORDは毎日1点ずつ制作している小さな平面作品ですが、先月までの作品を1点ずつ撮影していました。塵も積もれば山となるようで、連続して3時間の撮影でした。自分は夕方4時ごろまで制作をしていましたが、いよいよ疲労が出て今日の作業は終了しました。11月はまずまず充実していたかなぁと振り返っています。予定している制作工程には追いつけていないのですが…。