「存在と時間 Ⅱ」における死について
2014年 10月 20日 月曜日
「存在と時間Ⅱ 」(マルティン・ハイデガー著 原佑・渡邊二郎訳 中央公論新社)第二篇は時間性を論じています。時間となれば、やはり終焉という概念が入ってくることになり、存在論として死をどう扱うのかに論考が移っていきます。既読したショーペンハウワーにもニーチェにも死生観の捉えがありました。自分はこのテーマになると俄然読解力が増して、頭脳が明晰になります。まだ自分では意識できない死の認識ですが、いつ訪れてもおかしくないもので、必ずやってくる死に対し、自分の最大の関心の対象であることに間違いありません。本文の中から死という語彙が登場する箇所を引用します。「これまでの論証は、まだ存在していないということと『先んじて』ということとを、純正の実論的意味にとらえていたであろうか。『終わり』とか『全体性』とかは、現存在に現象的に適合して語られていたであろうか。『死』という表現は、生物的な意義をもっていたのであろうか、それとも実存的・存在論的な意義をもっていたのであろうか、いや、そもそもそれは、十分に確実に限界づけられた意義をもっていたのであろうか。」ここから死に対する存在論的考察は始まります。さらに印象に残った箇所を引用します。「死人とはちがって『遺族』からもぎとられた『故人』は、葬式とか埋葬とか墓参とかの仕方で、『配慮的な気遣い』の対象なのである。しかもそのことの理由は、これはこれで、故人が、その存在様式において、環境世界的に道具的に存在していて、たんに配慮的に気遣われうる道具というものよりも『なおより以上』のものだからである。」