三連休 最終日は美術館へ

ともかく寒い一日でした。午前中の工房もすっかり冷え込んでいて、3時間作業しただけで自宅に戻ってきました。あれもこれもと考えていたのですが、成形を1点やって、窯入れをして工房を後にしました。体調は良くなってきているので、ここでまた体調を崩したくないと考えたのでした。午後は家内と自家用車で美術館に行きました。向かった先は東京の郊外にある多摩センター。そこにある多摩美術大学美術館で開催中の彫刻家若林奮の展覧会です。若林先生は既に亡くなられて10年が経っています。自分が大学で彫刻を学んでいた頃は、同大の教壇に立っていましたが、自分は直接教えを受けたことがありません。今にして思えば残念なことをしたと後悔しています。その後、若林先生は多摩美大に移られ、故人になった今も多摩美大に「若林奮研究会」があって生前の作品のデータ保存を進めているようです。今回は「仕事場の人」というテーマで、仕事場が移動した年代を追ってドローイングと彫刻で全貌を示していました。詳しい感想は機会を改めたいと思いますが、やはり若林先生の作品は魅力的で自分のツボに嵌ってしまうと感じた一日でした。

三連休 今日は制作三昧

三連休の中日です。朝から工房に行きました。最近はめっきり寒くなってきたので大型ストーブを点けています。水場もお湯が出るようにしています。大きなタタラを準備したり、土練りを土錬機を使って行ったり、乾燥した成形に仕上げをして化粧掛けをしたり、通常の制作サイクルで一日を過ごしました。最近体調が芳しくないので、朝から夕方までの長時間の制作に慎重になっていましたが、集中力も戻り、何とかやれそうな具合になりました。焼成は明日からやりますが、三連休のため週2回の焼成が時間的に難しくなり、今回は1回のみとしました。工房は電力の関係で窯を焚いている時は、照明等の電気が使えないのです。休庁期間が間近に迫り、その期間中は制作に没頭したいので、今回1回で窯入れは終了し、後の窯入れは当分先送りしようと思っています。その分遅れている成形を頑張ろうと思います。「発掘~層塔~」は常にイメージが先行し、手が追いつかない状態です。これは大変好ましい状態ですが、イライラも焦りも出てきます。おまけに体調も悪いとくればなおさらですが、ここは焦らずじっくり構えていこうと決めました。明日は身体の負担を軽減するため、午後は美術館に行ってきます。

12月の三連休をどう過ごすか?

今日から三連休ですが、この連休は制作一辺倒とはいかず、初日である今日は職場関係の仕事が数時間入っていました。職場に出かける前と職場から帰った後に、工房での制作を充てていて、自分の体調を考慮しながら陶彫部品の彫り込み加飾を行いました。「発掘~層塔~」の焼成が既に始まっていて、数多い陶彫部品のうち初めの2点の焼成が終わりました。この三連休でどこまでやるか、体調のこともあるので、明日は思い切り制作に充てて、明後日は制作半日、美術館散策半日という予定を立てることにしました。美術館で鑑賞するのも創作活動のひとつですが、制作と比べると身体の負担はかかりません。そんなわけで制作サイクルはますます遅れています。年末年始の休庁期間にますます期待をしています。例年ですが、年末年始をゆっくり過ごしたことは記憶になく、いつも制作に追われている現状があります。家内に掃除片付けを任せきりにして申し訳なく思っていますが、定年になれば自宅の整理を隅々までやるつもりです。明日は制作三昧の予定なので、頑張りたいと思っています。

体調不良の日々

最近は胃腸が重いと感じることがあって、近隣のスポーツ施設に行くことを控えていたり、夜の工房に行くこともしていません。自宅でゆっくり身体を休めていると体調が戻ってきます。原因は制作かなぁと思っています。ウィークディの公務は大きな変化がないため、身体を酷使しているのは制作以外に考えられません。たまに出かける水泳も身体には厳しいのかもしれません。創作活動は来年に向けて陶彫制作が切迫している上、体調管理のためにやっている水泳は施設に行ってしまうと我を忘れて過激に泳ぎ込んでしまうのです。これは自分の性格によりますが、やるとなればとことん突き詰めてしまうのが仇になっています。家内はそろそろ年齢のことも考えた方がいいのではないかと言っています。二足の草鞋生活を始めた30代初めの頃と同じ生活を20数年続けてきているので、それも一理あるかなぁと思います。もう2.3年もすれば二足の草鞋生活が定年とともに終わります。そうなれば過労で体調が悪くなることもなくなるのではないかと思います。ただし、生活の張り合いもなくなってしまう不安はありますが…。

「意志と表象としての世界」第一巻の読後感

「意志と表象としての世界」(A・ショーペンハウワー著 西尾幹二訳 中央公論社)第一巻を読み終えました。「根拠の原理に従う表象 すなわち経験と科学との客観」という副題がついていますが、これをまとめる能力は自分には到底なく、頻度の高い語句を中心に、気に留まった箇所を引用することでまとめに代えさせていただきます。「人間が人生の全体を多面的に展望するのは理性のおかげで、人間が動物よりもまさっている点だが、このような理性によってなされる展望は、人生航路という名前の幾何学的な、色彩のない、抽象的な、縮小された見取図になぞられることもできる。人間が動物に対してもつ関係は、さながら海図、羅針儀、四分儀をたよりに航路と洋上におけるそのつどの位置を知っている船長と、ただ波と空だけを見ている無知な乗組員との関係のようなものだといえるであろう。」理性があってこそ人間が人間たる所以で、刹那に生きる動物との違いが分かりやすく述べられている箇所を引用しました。最後にショーペンハウワーがストア派の学説に言及している箇所を引用します。「わたしがストア派の倫理学の精髄をとらえたところによれば、そのそもそもの根源は次のような思想にあるようだ。すなわち、理性は人間の大きな特権であって、理性は計画的な行動とそこから生じる結果によって間接的に、人生と人生の重荷とをはなはだしく軽くしてくれるものであるが、この理性は単なる認識によって、すなわち直接的に、人生を満たしているあらゆる種類の苦悩と苦痛とを、完全にあるいは完全に近く、一気に人間から取りはらってしまう力をももっているのではないかという思想である。~略~欠乏ならびに苦痛は、ものを持たないということから直接に、かつ必然的に生じるのではなくて、ものを持ちたいという気持がありながら、しかも持っていないという状態からはじめて生じるのであって、したがってこの持ちたいという気持こそ、持っていない状態を欠乏と感じさせるのであり、これこそ、苦痛を生み出させる唯一の必然的な条件なのである。そう人は悟ったのであった。」引用は以上です。「私」における「表象」とは何か、そこを支える根拠の原理を探り、まず「表象としての世界」をさまざまな視点で捉えた第一巻でした。

「発掘~増殖~」焼成終了

「発掘~増殖~」は床を這っていく有機的なカタチを陶彫で表現したモノで、どのくらいの大きさにするか決めかねていましたが、来年ギャラリーで発表する作品は、ギャラリーの広さを考えて、ある程度の大きさに限定しました。「発掘~増殖~」は「発掘~層塔~」に先駆けて焼成を行い、先日無事に全ての成形作品の焼成が終了しました。大きな失敗がなくて本当に良かったと思っています。来年発表する作品で、とりあえず「発掘~増殖~」は何とか出来上がりました。細かな修整や番号のついた印を貼っていくのはこれからですが、まずは一安心です。「発掘~増殖~」はいくらでも大きくなる作品です。床いっぱいに陶彫を這わせることも可能です。当初のイメージでいけば、床にウネウネと這わせていく予定でした。今回は限定したので、ややこじんまりとした印象になりましたが、意図するところは伝わるのではないかと思います。

情と知について

「意志と表象としての世界」(A・ショーペンハウワー著 西尾幹二訳 中央公論社)の中の、理性と概念に関するものを、数日前のNOTE(ブログ)にアップしましたが、今回はまず「根拠の原理」に言及している箇所を引用します。「時間とは徹頭徹尾、継起ということであって、それ以外なにものでもなく、空間とは徹頭徹尾、位置なのであって、それ以外なにものでもなく、物質とは徹頭徹尾、因果性であって、やはりそれ以外なにものでもないが、これほどに、根拠の原理が表象の一部門を支配する形態は、それが表象であるかぎり、つねにその部門の本質を厳密に言い当てて、あますところがないのである。だとすれば、概念、あるいは抽象的な表彰の部門の、本質そのものは、ひとえに関係であるといってよい。」次に自分を捉えた箇所は矛盾対立する「情」と「知」です。「情ということばが示す概念は、どこまでもネガティヴな内容のみをおびている。意識の中にありありと浮かんでいるものが概念ではないこと、理性の抽象的な認識ではないこと、~略~いろいろ相異なった要素や、たがいに敵対する要素までもが、情という概念のなかに安んじて並んでいるからである。例えば宗教的感情、肉欲の感情、道徳的な感情、触覚・苦痛・色彩感覚・音響感覚ならびに音の調和や不調和といった肉体的な感情、憎悪・嫌悪・自己満足・名誉・恥辱・正義・不正義の感情、真理の感情、美的な感情、力・弱さ・健康・友情・愛の感情等々。」「知は既述のとおり、抽象的な認識、すなわち理性認識のことであった。しかしながら理性は、いつも要するに、理性とは別口で受け入れたものを今一度『理性の』認識の前に引き据えることをなし得るのみだから、がんらいがわれわれの認識を拡大する力はなく、認識にもう一つ別の形式を与えるだけである。それはつまり、直覚的に、具体性をもって認識されたものを、抽象的に、かつ一般的にあらためて認識させるのが理性だという意味である。」引用文だけを羅列してみても前後の文脈がないので不明瞭あることは十分承知ですが、膨大な情報とその論拠とするものを端的にまとめ上げる力量は自分にはなく、パッチワーク的でやや統率を欠いたNOTE(ブログ)になってしまうことをご勘弁いただきたいと思います。

彫刻家の師匠からの便り

別にお歳暮の季節に拘っているわけではありませんが、雪深い信州の山奥に住む彫刻家の師匠に、毎年この時期に辛口の日本酒一升を贈っています。師匠は制作の合間に日本酒で身体を温めているようで、先日感謝の電話がありました。便りを書いても凍結した山を下りるのは難しいとのこと、ならば電話で失礼すると仰っていました。奥様を亡くされて、一人で住居兼工房である長野県麻績の「エルミタ」に籠るのは如何ばかりか、岩手県の山中に籠った先人の彫刻家高村光太郎のようで、まさに師匠池田宗弘の生活はどんなものか想像に難くありません。「君の工房では陶土は凍らないだろう?工房にストーブはあるのか?素材を扱っていると時間が経つのは早いよな。」と他愛のない会話を交わしましたが、70代とは思えない溌剌とした声が聞こえてきて安心しました。冬を迎える度に、池田先生はどうして麻績の山奥に工房を構えたのか、加齢で足腰も弱くなるだろうに、先生はそんなことを考えなかったのかと家内に言ったら、池田先生は夏の気候と作品の置き場を考えたのであって、「エルミタ」で何かあった時の覚悟は出来ているのではないかという答えが返ってきました。先生なら然も有りなんと思った次第です。

週末 「発掘~層塔~」窯入れ開始

円錐状になる大きな彫刻作品で、陶彫部品の数が最大数になる「発掘~層塔~」の窯入れが今日から始まりました。今日は朝から工房に篭って、成形を3点行い、午後は既に乾燥が充分出来ている数点の陶彫部品にヤスリをかけ、化粧土を施して、大小取り混ぜて窯に入れました。果たして「発掘~層塔~」はどのようになるのか、半分楽しみで半分不安な面があります。家内が昼ごろ工房に現れて、「えっ、間に合うの?」と言っていきましたが、自分が制作・焼成サイクルを作って、次から次へと休む間もなく制作に打ち込む理由が家内にもわかったようでした。誰が見ても厳しいのは承知です。今日も限界まで制作をして夕方に工房を後にしました。制作サイクルは丸2日間遅れています。制作可能な週末の日数を計算して、新作撮影のある5月初旬を目標にしています。休庁期間は入っていないので、ここで遅れた2日間を取り戻せるかなぁと考えています。今年は作り直す時間はありません。昨年は作り直しをしていました。部分的な失敗があったためで、今年もそのくらいはありうると思っています。その時はその時で何とかするとは思いますが、今はがむしゃらに先へ進むのみです。また来週末頑張ろうと思います。

週末 制作集中&黄金町ライブへ

今日は朝から工房に篭って制作に集中しました。遅れ気味の制作サイクルを端折って土練からタタラ成形までを一気にやったせいか、冬なのに額から汗が流れました。作品は精神の産物だとつくづく思うこの頃ですが、今日の午後4時までは周囲が見えなくなるほど制作に没頭し、身体中に疲労を感じたのは夕方遅くなってからでした。視界に陶土しか入らない時間帯が数時間ありました。明日もこの調子で頑張りたいと思います。今日の夜は恒例になっている横浜の黄金町の「視聴室」にライブを聴きに行きました。家内の従兄弟が弾き語りをやっているのです。もう何回ここに足を運んだことでしょう。40分程度の弾き語りですが、歌も交えて楽しいひと時になりました。やはり生演奏はいいものだなぁと思いました。弾き語りで元気をもらって、明日も制作に没頭したいと思います。

終焉までの道のり

現在哲学書を読み耽っているので、こんなことをテーマにしたわけではありませんが、どんなに贖ってもどんなに嫌がっても人には必ず死が訪れます。死を終焉として意識するのは動物の中で唯一理性をもつ人間だけです。そのせいで人は儚い運命を受け入れ、かかる時間を人によっては芸術に費やしたり、宗教に救済を求めているのではないかと思うのです。最後の日はいつ訪れるのか誰にもわかりません。終焉が近づくと、きっと自分だけには予感があるのかもしれないと思うことがあります。芸術家が残した絶作を見ると、不思議なことに最後の雰囲気が漂っているからです。生命の一滴を作品に込めて旅立っていく情景が伝わります。ところで自分は彫刻を作りながら今は哲学書を漁っています。これは何がしか自分の人生との因果関係があるのかもしれないと思っています。決して意図してやっている訳ではありませんが、人が限りある生命を生きていくために、また刻一刻と終焉に向かって生きている現状を考えると、自分にとって必要不可欠なものが芸術であり哲学と思うからです。ですが、まだまだ自分は終焉を実感として意識できません。将来を描けているうちは、自分は生きていけるのだと思っています。彫刻はまだ答えが見つからず、哲学は学ぶことに懸命で、本質が自分の中に取り込まれていません。宗教を持たない自分は芸術が全てです。そこに生きる意義を見出し、生きた証を残そうとしています。こんな自分ですから、終焉までの道のりがこれから長くあってほしいと願うばかりです。

「K・ツィメルマン ピアノリサイタル」

胡弓奏者である家内は、時に秀逸で豊潤な音楽を聴きたくなるらしく、「クリスチャン・ツィメルマン ピアノリサイタル」のチケットを予約していたのでした。私は勤務が終わってから、家内と待ち合わせをして、会場である横浜みなとみらいホールに向かいました。演奏が始まると忽ち私はクリスチャン・ツィメルマンが天才肌のピアニストだと感じました。もちろんクオリティを高めるための絶え間ない努力はあると思いますが、音環境が至高に到達しているせいか、聴衆一人ひとりの内面世界に様々なイメージを抱かせているようにも思えます。漣のように、時に怒涛の如く緩急を織り交ぜた曲想がありました。音が連なる流れの中で、自分は眼を瞑っていると西欧の街並みが見えてきて、その構築の中に匂い立つ文化や宗教が立ち現れてくるのをイメージしました。ベートーヴェンの後期3大ピアノソナタという演目が、そうイメージさせたものかもしれません。ピアノソナタ30番、31番、休憩を挟んで32番のみ、アンコール曲はなし。当日配布されたものはパンフレットではなくA4版に演目の印字された白い紙のみ。余分なものは全て削ぎ落として、3曲だけに全てを費やし、それだけで聴衆を魅了し満足させる実力がクリスチャン・ツィメルマンにはあると感じました。音楽に生命を賭けているのでしょう。一人の芸術家が一つの表現に全てを注ぎ込んでいる生きざまを見て、今宵はとても快い気分になりました。

理性と概念について

「意志と表象としての世界」(A・ショーペンハウワー著 西尾幹二訳 中央公論社)を読んでいると思わず惹きこまれる箇所があります。本書の大きな単元をまとめ上げることは私には到底無理で、気に留まった箇所を抜きだしてまとめていきたいと思います。「人間は現在と同時に未来にも、過去にも生きるのである。動物は瞬間の欲求を満足させている。しかし人間はきわめて技巧的な準備をととのえて、自分の未来を心配するし、それどころか自分の体験できない時代を心配することさえある。動物は瞬間の印象にとらえられ、直観的な動機の影響にすっかり身を奪われている。しかし人間を規定するのは抽象的な概念であって、これは目先のことに左右されない。人間はそれゆえに、よく練られた計画を実行したり、あるいはまた、環境や瞬間の偶然の印象にとらわれることなく、格率に従って行動したりする。だから、例えば従容として自身の死のために精巧な準備のできるのも人間であり、他人には探知できないほどに自分を擬装してみせたり、自分の秘密を墓場まで持っていったりできるのも人間なのである。」動物と人間の相違を述べた箇所ですが、そこに理性や概念が出てきます。「人間が動物にまさっているあの特殊な精神力、『理性』とよばれる精神力から派生したことは、どの時代でも、どの民族でも一致した見解といっていい。人間は誰でもこの能力の現われを認識するすべをもよく心得ている。また、理性が人間のこれとは別の能力や性格とぶつかりながら現われ出てくる場面では、何が理性的であり、何が理性的でないかを言うすべを心得ていよう。」次に概念についての箇所です。「概念は、これまでみてきた直観的な表象とはすっかり種類の違った、独特な一つの部門であって、人間の精神の中にだけ存在している。それゆえ概念の本質に関して、直観的な、厳密に明証的な認識を手に入れることはけっしてできるものではなく、せいぜい抽象的な、論証的な認識しか手に入らない。」以上が理性と概念について書かれたところで、この論考を基に「関係」やら「知」や「情」やらが登場してきます。このまとめは自分が整理するためにやっているようなもので、NOTE(ブログ)にアップするのは甚だ遺憾ではありますが、自分なりのメモとして利用させていただいております。

12月RECORDは「環」

2013年の最後を飾るRECORDのテーマを「環」にしました。「環」とは数学的な定義や天文学的な定義があって、コトバそのものを調べると分野外の人間にとっては難解極まるコトバです。RECORDとしては造形的に簡単に考えることにしました。物質の連鎖があって、それらが円を描いて起点に戻ることを「環」の基本テーマにしたいと思います。起点に戻るということが最後の1ヶ月に相応しいかなと思っています。成長があれば初めの起点ではなく、位置としては上のところに戻ってくる、つまり螺旋を描いて戻ってくるのが「環」としての最良のイメージです。同一平面から螺旋までバリエーションを考えながらRECORDを進めたいと思います。今年は漢字一文字による月ごとのテーマを掲げてきましたが、来年はどうしようかとボンヤリ考えています。年間を通して、どんな傾向の作品にするか、これからまず考え始めたいと思います。

「世界はわたしの表象である」とは何か?

「過去というも、未来というも[その内容が継続することは別として]、なにかある夢のようにまことにはかないものなのであるが、しかし現在というのは、この過去と未来の二つの間にあって、広がりも持続ももたない境界線であるにすぎない。時間とまったく同様に、われわれは根拠の原理のあらゆるその他の形態のなかにも同じ虚無性があることをあらためて認識し、すなわち時間と同じく空間もまた、空間と同じく、空間と時間の両方にまたがって存在するいっさいのものもまた、つまり、原因や動機から生まれ出てくるようないっさいのものが、しょせん相対的な存在をそなえているにすぎず、それらはある他のもの、自分と似たようなもの、現にちょうど同じような仕方で成り立っているものと、たがいに相依り、かつ相俟ってようやく存立しているにすぎないことを見抜くであろう。」現在通勤の友にしている「意志と表象としての世界」(A・ショーペンハウワー著 西尾幹二訳 中央公論社)で、まず最初に登場するのが「表象」というコトバで、読み進むうちに上記のような「表象としての現在」を思考する文面に辿りつきます。表象とは簡単に言えば、太陽を見るのも私の目を通して太陽を認識する、大地も手で触れることによって認識する、全て私の認識があって初めて存在を認め、そこを基盤に主観や客観、時間や空間や因果性といった根拠の原理が登場してくるというものです。長くなりますが、文中にはこんな表現もあります。「表象としての世界は~略~最初の眼が見ひらかれたときをもってようやくにして始まるのである。認識というこの最初の眼を媒介することなくして、世界は存在し得ないし、またそれ以前にも世界は存在しなかった。いや、この最初の眼がなければ、すなわち認識を離れたところでは、以前ということもなかったし、時間もなかったのだ。が、だからといって時間は始まりをもっているわけではない。すべての始まりは時間の中にある。時間とは認識することが可能になるためのもっとも普遍的な形式のことであり、いっさいの現象は因果性の絆を手段として時間という形式にあてはまるのであるから、最初の認識とともに時間もまたあり、同時に両側『過去と未来』に向かう時間はまったく無限となるであろう。」第一巻のテーマである「世界はわたしの表象である」とは何か、膨大な論証はまだまだ続きます。

週末 体調回復して制作三昧

昨日は体調不良で思うように制作ができなかったのですが、今日はすっかり体調が回復して朝から工房で制作三昧でした。とは言っても遅れた分の制作工程は挽回できず、これは今月末の休庁期間で取り戻そうと考えています。今日の夕方工房で窯入れをしてきました。上手くいけば「発掘~増殖~」の最終部品の窯なので、「発掘~増殖~」は水曜日の窯出しで一応完成となります。まだ修整箇所が多少ありますが、大きな割れも失敗もなく順調な仕上がりを見せています。問題は「発掘~層塔~」です。次の窯にはいよいよ「発掘~層塔~」の部品を入れます。成形が出来て乾燥が進んだ陶彫部品はいくつかありますが、これが円錐形に組み合わされると、どんな具合になるのか未だ見当がつきません。逆に焼成が進んでいる「発掘~増殖~」はある程度予想が出来ているので、ほぼイメージ通りに仕上がっていると言っても過言ではありません。手のうちにある「発掘~増殖~」と自分の内面に挑んでいる「発掘~層塔~」。本当に苦しいのはこれからだと覚悟しています。継続して制作したいところですが、明日から公務があって来週末まで制作はお預けです。仕切り直しが出来ていいのかもしれませんが、気持ちの上では煮詰まってきています。また来週末、頑張ります。

週末 体調不良のため午後散策

このところ数日間、体調が芳しくありません。職場では元気に働いていますが、夜になるとぐったりとして動けなくなるのです。夜の工房も今週は行っていません。RECORDも遅れがちです。今日は朝から工房に出かけ、制作サイクルのノルマを果たそうとしましたが、体調が悪いときは創作活動も厳しいのです。今日は制作を午前中で切り上げて、午後はゆっくり散策をして身体を休めました。と言っても自家用車で家内と横須賀に行き、予ねて行きたかったカスヤの森現代美術館で時間を過ごそうと思い立ったのでした。現在「海老塚耕一展」を開催中ですが、カスヤの森現代美術館で見たかったのはヨーゼフ・ボイスのまとまったコレクションです。ボイスの作品は、かつてヨーロッパや山梨県清里で出会ったときより、親近感が持てるようになりました。彼は何を求めていたのかが予め理解できていたおかげかもしれません。来年はボイスの展覧会を企画しているとの話を同美術館で聞きました。また訪れたいと思いました。「海老塚耕一展」は無垢の板材に手の痕跡があって、素材が作者によってコントロールされていると感じました。素材そのものを空間にどう生かすか、素材の存在感と自己造形の微妙なかけ引きが見事に計算されている作品群でした。「水辺に佇み、風に触れる」というタイトルがついていました。自然から受ける印象をドライに解釈した世界に快さを感じました。明日体調が戻れば、朝から夕方まで制作に没頭したいと思っています。

知られざる画家カイユボット

先日、東京駅近隣にあるブリヂストン美術館で、印象派の画家カイユボットの展覧会を開催していたので見てきました。カイユボットは自分にとって未知の画家でした。テレビ等の情報で知りましたが、バランスの取れた構成と巧みな表現があって絵画らしい雰囲気を漂わせていました。カイユボットは父から莫大な遺産を引き継ぎ、当時の印象派画家を経済的に支えた人だったようです。自ら絵も描き、都会的な生活を主なテーマにした画家でした。画家自身が経済的に豊かだったためか画風にも優雅が漂っているように感じました。代表作の「ヨーロッパ橋」はがっしりした鉄骨による橋の構成が印象的で、広角レンズで捉えたような広さを感じさせています。歩く人、佇む人、散歩する犬が絶妙なバランスで配置されています。パリが新しい街へ生まれ変わる息吹きを感じることができます。自分はカイユボットを未知の画家と捉えていましたが、今回の展覧会には出品されていなかった絵画で「床削り」という作品を図版で見た記憶があります。上半身裸になった男たちが床を削っている情景を描いたもので、なぜか自分の脳裏に刻まれました。「床削り」の極端な遠近法の構成は「ヨーロッパ橋」にも通じる同じ構成要素を感じました。知られざる画家だったカイユボット。当時の印象派画家の中で仲間に経済的な支援をする特異な存在だったカイユボット。まだまだ未知なる実力派の画家が今後発見される可能性があるのではないかと思わせる今回の展覧会でした。

「意志と表象としての世界」を読み始める

「デカンショ デカンショで半年暮らす あとの半年ゃ寝て暮らす」という旧制高校の流行り歌があります。これはデ=デカルト、カン=カント、ショ=ショーペンハウワーのことだそうで、いよいよ自分も本格的な哲学書に着手することにしました。契機になったのはニーチェです。自分はニーチェをさらに深く理解したいために、まず「意志と表象としての世界」(A・ショーペンハウワー著 西尾幹二訳 中央公論社)を読もうと思いました。かの有名なミットライト・ペシミズム(共に苦を分かち合う厭世思想)とはどんなものか、実際に読み解いていこうと思います。「意志と表象としての世界」は文庫本にして3冊あり、内容は4巻から成り立つ大作です。20歳代であれば途中で放り出していたであろう書籍ではないかと思います。この歳で読む意味を探りながら大作に挑みます。「意志と表象としての世界」は72歳まで生きたショーペンハウワーが、30歳の時にまず初めに脱稿したもので、そのあと各所に変更を加えて現在のものになっています。というか死ぬまで改稿を繰り返して完成させたのが本書です。印象的な書き出しである「世界はわたしの表象である。」に続く展開を楽しみながら、時に理解に苦しみつつ、長い時間をかけて通勤の友にしていきます。まさに朝夕の通勤車内は読解と思索の場になって、知的好奇心を満足されてくれるものと信じています。

新しいGallery&RecordをHPにアップ

自分のホームページは24時間中、自作を発信する場です。所謂ウェヴギャラリーで、デジタル化した作品をアップしています。内容はElements(作品を形成する要素)、Gallery(画廊の意味でここでは作品個々の紹介)、Record(記録の意味でここでは日々制作している小品)、Landscape(風景の意味でここでは野外に置かれた作品)、Other(どの分類にも入らない作品)、Exhibition(今までの個展会場の様子)、Profile(履歴)、Note(ブログ)、Contact(連絡方法)の8つです。ホームページのアップに辿りつくまで、作品の撮影日を決めて、まとめてカメラマンによって撮影され、さらに画像処理をする関係があるため、Note以外はリアルタイムでアップすることはできません。時間はかかりますが、アナログな作品とは一味違う面白さがあって、ホームページにアップされた作品はまるで別の新しい作品として自分は認識しています。これはカメラマンとのコラボレーションによって創出される世界です。今回「発掘~場~」をGalleryに、2011年5月分をRecordにアップしました。ご高覧いただければ幸いです。なお、ホームページに入るのは左上にある本サイトのアドレスをクリックすれば入れます。よろしくお願いいたします。

「シュタイナーの思想と生涯」読後感

「シュタイナーの思想と生涯」(A.Pシェパード著 中村正明訳 青土社)を読み終えました。霊学や人智学は自分にとって未知の学問なので、オカルト系の胡散臭さを感じてしまっては、学問そのものに対して誤解を招く恐れがあると感じます。読み進めていくうちに正直言えば、こんなことってあるんだろうかと思いつつ、解説している著者の真摯な論考に助けられることもありました。シュタイナー自身の著作、ましてや講義録等を直接自分が読んだら益々懐疑を抱くだろうと予想出来ます。今のところ本書だけでシュタイナーに関する文献は充分と判断して一息入れることにします。シュタイナー自身の講演のコトバから引用します。「私がこれまで語ってきたことにしろこれから語ることにしろ、無批判に受け容れることのないようにして下さい。透視力をもたない人でも、透視によって得られた事柄を確かめることはできるのです。権威に頼る習慣をやめるようお願いします。この習慣は人間に害悪をもたらします。…霊学から得られたものを信じるのではなく証明してほしいと思います。それも、単に表面的にではなく、本気で証明してほしいのです。細心の方法をもつ最も新しい科学がもたらすものすべて受け容れてください。霊学を確かめれば確かめるほど、霊学の正しさが立証されるのです。権威ある人が言っているからと言って鵜呑みにしてはいけません。」さらに戦後から現代の政治的対立や人種問題、科学の途方もない破壊力等の状況を鑑みて、ベルジャーエフの著作にシュタイナーと酷似しているところがあります。「世界は、新しい霊性と新しい神秘主義に向かって、今暗闇の中を進んでいる。新しい神秘主義は物同様のこの世界を最終的な現実とは見ないだろう。…新しい神秘主義においては真の霊的知恵が開示されるだろう。…そして、人類にとって責め苦となっているすべての矛盾と分裂が新しい神秘主義によって解決されるだろう。新しい神秘主義は宗教よりも深遠であり、当然解決策を提示できるからである。それは一般社会で行われている偽りの神秘主義にたいする霊の領域の勝利であろう。…霊の領域が最終的な勝利を収めるには、人間の意識構造に変化が生じなければならない。新しい時代をもたらすのはほかでもない、終末論である。」シュタイナーの多義に亘る活動は現在でも見直しが進んでいると聞き及んでいます。またシュタイナーに触れる機会があれば再度考察してみたいと思います。

鎌倉の「加納光於展」

画家加納光於は80歳になる現役で、最近制作した作品が個展会場である神奈川県立近代美術館鎌倉館に展示されていました。自分が加納光於という画家を知ったのは学生時代の頃で、その頃大きな版画コンクールで加納光於は賞を重ねていました。不思議なマチエールはどのようにして作られるのだろうと思いつつ、縦横無尽に走る色彩の奔放さに憧れさえ抱いていました。この展覧会で自分にとっては初めてとなる加納光於の初期の版画に触れました。鬱積した心理が不思議な生命体として存在しているモノクロの銅版画に心が揺さぶられました。初期の作品は、多くの芸術家がそうであるように加納光於も迷いを抱きながら、それでも自己内面の深い部分に触れた表現が出ていました。その後に続く色彩に溢れた展開はまさに加納光於らしい世界の創出と言えるもので、図録のコトバを借りれば「多くの傑出した同時代詩人たちの言葉が加納光於の作品を囲繞し豊穣に生い茂った」多作の時期を迎えます。詩と造形のコラボレーション。まさに自分が憧れている世界を歩んできた芸術家の生涯で、加納光於の作品にコトバを寄せた詩人は綺羅星の如くいて羨ましさを覚えます。その中で詩人大岡信との共同制作による箱型オブジェ「アララットの船あるいは空の蜜」のオリジナルを初めて見ました。こんなにも大きな作品だったのかと改めて思いました。

週末 師走を迎えて

今日から12月です。師走というコトバ通り多忙を極める1ヶ月になるでしょう。毎年12月は矢の如く過ぎていく印象があります。今月は何をすべきか、よく考えていきたいと思います。差し詰め「発掘~増殖~」の焼成をやり遂げて、これを完成させます。「発掘~層塔~」も成形が終わっている部品から仕上げに入り、焼成を進めます。塔になる部分は10数個の板材のパーツで構成されています。板材1点に付き5個の陶彫部品が接着しますが、板材に陶彫部品が付いたパーツがひとつでも出来上がれば、完成の目安がついてきます。今月はまずそこをやろうと思っています。「発掘~層塔~」がどんな姿形になるのか、イメージ通りになってくれるのか、今のところ不安に駆られるところはそこだけです。RECORDは1年を締めくくるに相応しいテーマを設定したいと思います。RECORDはもうひとつ高いレベルに到達できないものかと思案しています。読書は最近専らドイツ人による哲学書が通勤の友になっています。今年は最後まで西欧の論理と向き合っていく所存です。自分の創作活動に間接的であれ何か糧になるものがあるように思えるからです。慣れ親しんだ評論や随想や詩歌とも違う思想の根本となるものが潜んでいて、読み始めると大変刺激的です。2年前に亡くなった叔父はカント哲学者でしたが、その世界に疎かった自分が漸く哲学の門扉を開くことができたと思っています。今月も多忙感の中でしっかり足元を見ながら過ごしていこうと思います。

週末 11月の最終日

今週末は制作三昧です。制作&焼成サイクルの中で自分で決めたノルマを達成しようと必死なのです。焼成は「発掘~増殖~」の部品がだいぶ出来上がってきて、いい感じになっています。ウィークディに2回の窯入れと窯出しをやっています。焼成サイクルはこの調子でやっていきたいと思っています。今日は11月の最終日なので今月の総括をしたいと思います。制作&焼成サイクルは漸く回ってきたように感じています。今月は週末を利用して美術展に行った日が多く、制作&焼成サイクルは遅れ気味ですが、それでも着実に前に進んでいると自負しています。「発掘~増殖~」は何とかなると思えるようになりました。未だ焼成をしていない「発掘~層塔」に不安を感じますが、これは来月から集中して取り組んでいきます。ともかく「発掘~層塔」の完成が見えない状態を何とかしたいのです。システマチックに進んでいる制作&焼成サイクルがもう少し進んでくれば、先行きが計れるのでしょうが、今は無理です。頑張り度で言えば今月はかなり頑張ったのではないかと感じています。来月は師走で休庁期間もあるので、まとまった休みが取れそうです。そこで遅れたサイクルを挽回したいと目論んでいます。

横浜の「横山大観展」雑感

「西の栖鳳 東の大観」と称された日本画2大巨匠のうちの一人、横山大観の展覧会の終了期限が迫っていたので大急ぎで横浜美術館に行ってきました。このNOTE(ブログ)を書いている今日は美術館では次の「下村観山展」の準備に入っていることと思います。前に竹内栖鳳の大がかりな展覧会が東京竹橋の美術館であって、大変な混雑の中を見てきましたが、「横山大観展」も大いに賑わっていました。大観は折に触れてよく目にしていて、自分の中ではポピュラーな画家です。今回の展覧会は大観を中心とした周辺の人たちの作品も出品されていました。展示物には大観の師匠である岡倉天心の書を初めとする資料があり、また画家仲間の作品は、大観と共に競い合い、大いに鼓舞した様子がわかって楽しい企画になっていました。横山大観は東京美術学校時代から秀でた力量を発揮し、長きに亘って日本画壇を牽引してきた巨匠です。作品によってはざっくりした骨太の構成があり、繊細な描写表現があって変化に富んでいます。いわゆる朦朧体という没線彩色の作品が有名ですが、西洋画の陰影を取り入れた新たな日本画の方向を探り、流麗で大きなスケールを獲得しているように思います。

素材を感じさせない表現へ向けて

胡弓奏者である家内が、演奏していく上で楽器の音を感じさせるようでは駄目だとよく言っています。楽譜を辿っているようでは、まだ演奏の域ではないということです。演奏家の曲想があって、さらにその音環境から情景や物語が創出されていくのが理想なのだと家内は言いたいのです。優れた音楽会で感じる何とも言えない情感は、そうした音楽家の研鑽と感性から生まれるものでしょう。美術の場合はどうかと言えば、素材を感じさせない表現になるのではないかと思います。自分はイメージを具現化するために陶彫という素材を用いています。作品が陶彫を感じさせないくらい確固たるイメージの表出があれば、つまり頭の中で作品を思い返した時に素材ではなく作者が作ろうとした何かを表現したモノになっていたら、その作品は成功しているのではないかと思うのです。素材は素材に過ぎません。その素材に振り回されていてはならないと思いつつ、週末には陶彫の技巧的な難しさと闘っている自分がいます。素材を感じさせない表現に向けて努力あるのみです。

自分だけの知的財産

自分は学生時代からの書籍が捨てられずに書棚に残しています。古いものは黄ばんで埃を被っています。部屋の周囲を取り囲んでいる書棚は、もう書籍で埋め尽くされている状態で、床にも積んであり、足の踏み場がなくなってきました。各展覧会の図録は工房に持っていって工房の道具用スティール棚に並べてありますが、それすら一杯になっています。今は電子書籍の時代になりつつあって、こんな古臭い書籍に埋もれていると、そのうち地震でもあって自分は書籍の下敷きになって動けなくなるのではないかと危惧しています。それでも自分は頁を捲ることの出来る書籍が好きです。装丁も好きで、とりわけ紙質と印字された趣きに魅力を感じているのです。古書としての価値はよくわかりませんが、自分にしてみれば知識を授けてくれた大切な財産だと思っています。自分だけの知的財産。再読したものもあり、鉛筆で線を引いたものもあります。ほとんど読んでしまっているものばかりで、改めて眺めてみると趣向の偏りがあるなぁと思っています。そろそろ書棚を増設しようかと考えています。以前から書棚は自分が木材を買ってきて手作りしているのです。分類は滅茶苦茶ですが、その整理のためにも時間が欲しいなぁとつくづく思います。

アカシャ記録とは何か

「シュタイナーの思想と生涯」(A.Pシェパード著 中村正明訳 青土社)を読んでいて、自分の無知のせいで、何とも信じ難い論理に困惑を覚えます。霊界が存在する、物質界とは別の世界がある、こんな荒唐無稽な記述に初めは面喰いましたが、丁寧で分かりやすい解説のおかげで、これも学問として漸く認識するに至りました。アカシャ記録というこれも聞き慣れないコトバが気に留まりました。その記述がある10章から引用します。「シュタイナーの霊学のとびぬけて重要な要素は、人間の起源と運命についての記述である。」「歴史的現象はいわゆる『アカシャ記録』、すなわち『消滅することのない記録』に保存されているという。」さらに解説者はシュタイナーが書いたコトバを掲載しています。シュタイナー曰く「太古の時代に関する事実はオカルト研究によってとらえられないものではない。人間は肉体の存在として生まれた以上、肉体の死とともに物質的な部分は消滅する。しかし、自らの深みから肉体に存在の基盤を与えている霊的な力は、それとはちがって『消えてしまう』ことはない。霊的な力は自分の足跡ないしは自分のありのままのイメージをあとに残すのであり、それは世界の霊的な基礎に刻みこまれる。目に見えない世界をも知覚する能力を身につけた人はだれでもついには、世界の歴史のあらゆるできごとが記録されている広大な霊的パノラマを見る段階にまで達する。非物質的なすべてのもののこうした消滅することのない足跡は、霊学においては『アカシャ記録』と呼ばれている。」まさに死後の世界観における魂の存在を示したものでしょうか。自分には測り知れない学問ですが、これはシュタイナーの科学的論考があって示されているもので、しかも事例を鵜呑みにしてはいけないとシュタイナー自ら謙虚に言っているところが、客観的洞察を可能にしていて、不思議な立地条件にある学問を、学問として万全な体制を図っているところがさらに限りなく不思議に思えてきます。

ターナーの豊潤な空気感

先日、東京都美術館で開催されている「ターナー展」に行ってきました。家内は学生時代からターナーのファンで、帆船を描いた絵画を大学に提出する課題に応用していたようです。家内は大学で空間演出デザインを学んでいて、舞台美術を考える際、ターナーの求めた光陰が常に頭にあったと言っていました。私はリード著「芸術の意味」によってターナーを知りました。私の場合は初めに知識ありきで、オリジナルを見たのはずっと後でした。今回ターナーの世界に触れ、筆致が豊潤な空気感を表して余りある表現に圧倒されました。色彩実験と称する作品にも表現しようとする何かの意図が読み取れました。絵画の絵画たる所以は、平面に深遠なる奥行きを感じさせ、また漂う空気は写真や影像とは異なる印象を鑑賞者に齎すものと理解しました。私は忽ちターナーの世界に入り込み、そこで新鮮な酸素を胸いっぱいに吸い込んで、光に包まれる息吹きを感じ取っていました。家内は涙が出そうなほど感動していて、ターナーが醸し出す表現を、自分の演奏活動に当て嵌めて、その情感表出の丁寧さを感じ取っていました。有名な巨匠のまとまった展覧会とあって、多少の混雑は覚悟して来ましたが、それでも優れたものとの出会いは何事にも代えがたいと感じました。

週末 制作に奮闘 遅れ取り戻せず

昨日は気分転換を図って美術館に出かけたため、制作サイクルが一日遅れました。今日は朝から制作に奮闘しましたが、遅れを取り戻すことは出来ませんでした。焼成サイクルは確実に先に進める方法を取りました。今日の夕方に窯入れし、水曜日には窯出しをして、さらに週末に向けて新たな窯入れをします。焼成は今のところ順調です。これだけが救いです。成形や彫り込み加飾は案外時間がかかるもので、どこまでやるか、どこで良しとするかは自分次第です。諦めずに集中することが当たり前になっているので、時間ばかりがどんどん過ぎていきます。期限までに間に合えば、諦めずに作り込むことは後悔をせずにすみますが、逼迫した状態ではどうなるのか見当がつきません。ともかく週末は頑張って作っていくことしかありません。「発掘~増殖~」は焼成段階にあり、焼成が終わった作品が3点あります。「発掘~層塔~」は陶彫部品の成形が全体の1割程度終わったばかりで、焼成はしていないため未だ先行きが見えない状態です。「陶紋」は成形が4点終わりました。こうして記録していくと今後が苦しいなぁと思います。窯入れしているためウィークディの夜に工房に通うことはできません。週末は大切な時間なので、体調を崩さずにやっていこうと思います。

週末 気分転換を図る日

昼間の公務と週末の制作・焼成サイクル、夜毎のRECORD制作とNOTE(ブログ)のアップ、これらの活動を完全に止めることはできませんが、このところ気分転換がしたいと思っていました。思い切ったことは出来ませんが、美術展鑑賞を目的に散策をしてきました。毎回やっている気分転換の方法で変わり映えはしません。でも今はこれで充分満足です。飼い猫のトラ吉も気分転換に役立っていますが、猫にも意志表示があり、こちらの思う通りにはなりません。今日は朝から東京上野の都美術館で開催中の「ターナー展」と「太陽美術展」をまず見てきました。英国が誇る画家ターナーの表現力の凄さに圧倒されました。水を湛えた風景の空気感に感動を覚えました。詳しい感想は後日に改めます。「太陽美術展」は前の職場で一緒だった人が自分と同じ二足の草鞋生活をしていて、毎回具象絵画を出品していて招待状を頂いたのです。ターナーを観た後だったので、正直な批評をすれば画面全体が平板に見えたことが挙げられます。具象絵画には奥行き、空間、さらに空気感が求められると自分は思います。出品している彼に限らず、その公募団体全体がそう見えました。自分のことを棚上げして些か辛口に言いますが、日本人特有の生真面目さはあるものの絵画らしさを感じさせてくれる作品が決して多くないと思ってしまいました。次に東京駅近隣にあるブリヂストン美術館で開催中の「カイユボット展」を見ました。カイユボットの世界も都会的な空気を感じさせてくれる絵画でした。これも詳しい感想は後日にします。ついでに大きな書店に立ち寄って書籍を見て回りました。自宅の書棚に並ぶものはどれも読んだものばかりになったので、そろそろ新しい知識を入手したいと思っていたのです。これも気分転換の一つです。それから地元横浜に戻って、横浜美術館で開催中の「横山大観展」を見ました。洋の東西を問わず絵画には同じ要素が必要だと改めて思いました。これも感想は改めます。今日はターナーといい、カイユボットといい、横山大観といい、画家の知人といい、ともかく絵画表現に接してきました。描かれた対象こそ異なり、また時代も違えど、絵画を鑑賞して満足を得ることは、大変気持ちが良いものだと実感しました。明日は制作に励みたいと思います。制作・焼成サイクルが一日遅れてしまいました。