「わが父、ジャコメッティ」雑感

先日、KAAT(神奈川芸術劇場)に表題の芝居を観に行ってきました。橫浜では三連休の間に5回公演し、その後京都やスイスに巡回するようです。職場にある新聞の記事で本公演を見つけ、自分の好きな彫刻家ジャコメッティがタイトルにあったこと、実際の親子が共演し、父が画家で息子が演出家という環境を最大限に生かした作品であることが観に行こうと決めた要因です。結果としては、発想段階からして面白く、かつて芝居小屋で観たアングラ演劇のような要素と、日常を切り取る演劇とは何かを提示する要素があって、思わぬ表現効果に心底楽しめました。舞台は画家である父のアトリエにあった道具をそのまま使っていると解説がありました。芝居が始まる前から舞台に父や家族が登場してお喋りをしていました。息子が登場して芝居を始めることを観客に伝えましたが、既にお喋りの中で導入がされていて、気難しい父の面倒を見る息子の図式が示されていました。息子は演劇とリアルな現実を交互に交え、役者と解説の両方を担っていました。父は役者としては素人なので、呆けた設定にして、ジャコメッティが乗り移ったかのようになり、息子が演じる矢内原伊作をモデルに油絵を描いていました。事実ジャコメッティ風な油絵を舞台上で描く行為があり、現実に画家である父のリアルな行為として自分には写りました。その時の親子の交流はスムーズで、逆に現実に戻るとギクシャクする情景が描かれました。演劇か現実か、寧ろ父がジャコメッティになりきってしまう仮象の方が親子とも心豊かに過ごせるのは何を意味しているのか、交差する心理の綾取りに引き込まれました。一緒に観た家内は現実生活の介護を芝居中に見取り、胸に込み上げるものがあったようです。リアルな現実をどこまで演劇に持ち込めるのか、突き詰めれば演劇とは何か、演劇に接することで現実生活を豊かにするものは何なのか、さまざまな思索がこの芝居によってもたらされたように思います。

関連する投稿

  • 再び、カンディンスキー 「再び、カンディンスキー」という表題をつけましたが、20世紀初頭に活躍したロシア人前衛画家カンディンスキーに関する文章は、「再び」どころではなく再三再四NOTE(ブログ)で取り上げてきました。書店に […]
  • 横浜山下町の「灯りの魔法」展 横浜山下町にある人形の家で「灯りの魔法 […]
  • 「Ⅲ 劇場とダンスについて」のまとめ 「イサム・ノグチ エッセイ」(イサム・ノグチ著 北代美和子訳 みすず書房)の「Ⅲ […]
  • 劇作家の逝去記事を巡って 先日、新聞に劇作家であり童話作家でもあった別役実逝去の記事が載っていました。今月の3日に亡くなったという記事でしたが、私は20代の頃に演劇を観に、東京のあちらこちらに通っていた懐かしい時代を思い出し […]
  • 横浜山手の「寺山修司展」 横浜で開催している展覧会は、職場外で行う会議等に出るときに、その通勤途中で立ち寄ることが可能です。今回訪れた神奈川近代文学館はそんな場所にあるので、現在開催中の「寺山修司展」を見ることができました。 […]

Comments are closed.