「存在と時間 Ⅱ」読後感

「存在と時間Ⅱ 」(マルティン・ハイデガー著 原佑・渡邊二郎訳 中央公論新社)を読み終えました。第二篇はまだ「Ⅲ」に続きますが、ここでひとまずまとめておきたいと思います。「Ⅱ」の最後は良心に関する存在論としての分析になりました。これは気遣いの呼び声としての良心というもので、呼び声という語彙解釈をまず文中から選び出しました。「呼び声は、じつのところ、われわれ自身によって計画されたり、準備されたり、自発的に遂行されたりするものでは、全然ないのである。『それ』が呼ぶのである、期待に反して、それどころか意志に反してすら呼ぶのである。他方、呼び声は、疑いもなく、私とともに世界の内で存在しているなんらかの他者からやってくるのでもない。呼び声は、私のなかからやってくるのだが、しかもそれでいて私のうえへと襲ってくるのである。」良心はまず呼び声によってもたらされるということです。次に良心に関して気を留めた箇所を3つ選びました。「『公共的良心』これこそは世人の声でなくて何であろうか。『世界良心』という怪しげなものを現存在が捏造しうるにいたるのも、ただ、良心が、その根拠と本質において、そのつど私のものであるがゆえになのである。」「良心は、世界内存在の不気味さのうちから発する気遣いの呼び声であって、この呼び声は、現存在を最も固有な責めあるものでありうることへと呼びさます。呼びかけに応ずる了解として結果したのは、良心をもとうと意志することであった。」「『厳密に事実に依拠する』と自称する分別くさい良心解釈は、良心が沈黙しつつ語るということを利用して、良心は総じて確認できないし事物的に存在してもいないのだと、言いふらす。ひとは、ただ騒々しい空談しか聞かずまた了解しないからこそ、呼び声を『確認する』ことができないのだが、このことが良心のせいにされて、良心は『物言わぬ』から、明らかに事物的に存在してはいないのだという言い抜けがなされるのである。」これをもってまとめとするには余りにも短絡過ぎますが、一応これで「Ⅱ」を閉じたいと思います。

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