週末 意欲と疲労

今月の制作目標である陶彫部品の土台部分が10体完成しました。朝から夕方まで工房に篭り、午後4時近くになって何とか10体目を終えることが出来ました。長い制作工程からすれば初めの一歩ですが、この積み重ねが大切なのです。週末の制作は精根尽きるまでやってしまうので、日曜日の夜は筋肉疲労でヘトヘトです。土曜日の夜に、自分は10年以上も前から近隣のスポーツ施設で水泳をやる習慣があって、その疲れも重なっているのかもしれません。二束の草鞋生活が始まって以来、週末は彫刻家として仕事をしていて、精神を研ぎ澄ませ、内面を突き詰めていくことを信条としています。その振り戻しが自宅に帰ってから、心身共にきているのかもしれませんが、自分にはわかりません。筋肉疲労が溜まっていることくらい自覚できますが、心の負担はどうなっているのでしょうか。自分には通常のストレスはないと思っています。ストレスがあれば疲労で意欲が萎えてしまうところですが、今の自分は疲労があっても創作意欲が増すばかりで、来週末を楽しみにしています。きっと今日よりも来週末は上手くいくだろうと信じています。疲労を上手に解消しながらやっていくしかないと思っています。

週末 金木犀匂いたる工房にて

週末になると朝から工房で制作三昧になります。今日は涼風が立ち、創作活動にはちょうどいい気候になったと思いました。秋は湿度が低くなり、爽やかな空気に覆われます。このところ中国籍の若いアーティストが工房にやってきて、私と制作時間を共有しています。彼女が今日の工房は金木犀の匂いがすると言っていました。工房は造園業をやっていた亡父の残した植木畑の中にあります。工房のガレージ側に桃や木蓮があり、西側には梅の大木、東側に紅葉の老木があります。金木犀は南に面した窓から見えるところにあります。木々に囲まれた工房は常に緑に溢れていて、創作活動をする環境としては抜群ではないかと自負しています。金木犀は香しき匂いを風に乗せて工房に運んできていました。彼女は生まれ育った山東省の自宅の近くに大きな金木犀があったと言っていました。その匂いで故郷を思い出していたのかもしれません。中国では巨木が多いけど、日本は庭師がいて手入れをするから木々を大きくしないようにしていると感想を漏らしていました。工房内では、暑くもなく寒くもない今が一番作業が進む時期なので、集中力が途切れるまで頑張っていました。陶彫部品の10体がもうすぐ終わるので、これが済めば予定通りの制作工程になります。明日も頑張ります。

渋谷の「だまし絵 Ⅱ」展

先日、渋谷のミニシアターへ行った折、Bunkamuraザ・ミュージアムで開催されている「だまし絵 Ⅱ」展を見てきました。だまし絵と言えば思い出すのが、20代の頃の話ですが、滞欧中に見たG・アルチンボルドの果物や樹木を使った人の横顔で、その精巧な油彩画に驚いてウィーン美術史美術館に通った記憶です。今回の展覧会にもアルチンボルドの「司書」等が来ていて嬉しく思いました。芸術の虚構性はどの作品にもあるものですが、この展覧会は眼の錯覚を促す詐欺的な楽しさに溢れていました。イスラエルのD・ローズィンの「木の鏡」は、小さな板を基盤状に敷き詰め、観ている自分の陰影をカメラとモーターによって木片が動いて作り出すもので、ハイテク技術と木という素材が織り成す不思議な世界が出現されていました。高松次郎やL・ケイガンの影を使ったトリックも楽しいものでした。

「ホドロフスキーのDUNE」未完の大作

東京渋谷にあるミニシアターで「ホドロフスキーのDUNE」を観ました。「DUNE」は未完なので、これはインタヴュー等で綴られたメイキング映像でした。見終わった後、まず「DUNE」の発想の凄さが伝わってきました。興行的に成功するかどうかではなく、真の芸術性を求めて巨額を投じようとしたホドロフスキー監督の意図がよくわかりました。「DUNE」は斬新なSF映画で、宇宙を舞台にした壮大な叙事詩になるはずでした。キャストを見るとサルバドール・ダリやミック・ジャガー、オーソン・ウエルズ等錚々たる人たちがいて驚きました。スタッフでは音楽にピンク・フロイド、キャラクターデザインにメビウス、宇宙船デザインにクリス・フォス、建造物デザインにH.R.ギーガー、特殊効果にダン・オバノン等これも錚々たる人たちです。「DUNE」のコンセプトは「エイリアン」や「スターウォーズ」「マトリックス」等に繋がっていったようですが、SF映画の発展に附与した影響は計り知れないものがあると思いました。とりわけ自分はH.R.ギーガーのデザインに惹かれます。人体を象徴的に表した建造物やどこまでも続く奇怪な道などが不安を煽り、宇宙的な規模で展開するドラマを感じさせます。「エイリアン」の巨大動物の骨格を模した洞窟に、閉塞した面白さが宿り、西欧的な装飾性にぎっしり埋められた建造物は、まさに「DUNE」でも、その表現を遺憾なく発揮されたことでしょう。ハリウッド的スペクタクル映画とは異なる世界観を表出したであろう「DUNE」を完成したカタチで観たいと願うのは私だけではないでしょう。

「リアリティのダンス」現実と超現実の狭間

先日、勤務時間終了後にちょっと無理をして東京渋谷まで足を伸ばし、表題の映画を見てきました。監督は85歳のアレハンドロ・ホドロフスキー。世界中のアーティストを熱狂させる映画監督が23年ぶりに作った映画と聞いて、多少無理をしても観たかった映画なのでした。見終わった後の感想として、監督の自伝を通して主題では家族の再生や魂の癒やしを謳っていますが、寧ろ自分は現実と超現実の狭間にある映像の美しさや編集の巧みさに思わず吸い込まれてしまいました。それは決して審美ではなく監督が語る通り臨床的な映像になっていました。ロシア系ユダヤ人としてチリの港町で暮らしているアレハンドロ少年は、学校でいじめられ、父親からは虐待を伴う厳しい躾を受け、母親は母の父(アレハンドロからすれば祖父)に似た息子に祖父の幻影を抱いている一方、アレハンドロの理解者として描かれていて、さまざまな恐怖を母親によって癒やされています。父親は過激な共産主義者で、波瀾万丈の旅に出て、やがて改心して帰宅します。ホドロフスキー一家は、3人それぞれが主観的に過去を捉えて、やがて自分の輪郭を飛び越えて再生していくものだと映画が語っているように思えます。超現実映像が織り交ぜられているのに、現実感が印象に残るのは何故なのか、写実で描かれていても嘘臭い印象が残るのを考えると、現実と超現実の狭間にあって、訴えてくる主題がより強調されるのかもしれないと思う次第です。創作に関わる者として、自分に何かを投じてくれた映画でした。

墓参り&美術展巡り

秋分の日である今日は家内と午前中に菩提寺に出かけ、墓参りをしてきました。菩提寺では住職が変わり、近々に晋山式があるため懇請金も納めてきました。仕事の関係で11月の晋山式には家内が参列します。午後は東京の美術館を巡ってきました。今回は家内と一緒なので先日のような東西奔走というわけにはいかず、東京竹橋にある国立近代美術館と知り合いの画家が個展をしている銀座に行ってきました。国立近代美術館では今日から「菱田春草展」が開催されています。36歳で夭折した日本画家の才気溢れる作品に接してきました。詳細な感想は後日にします。それから銀座に行き、心象展に例年大きな抽象絵画を出品している知り合いの画家が、るたん画廊で個展をしているので見てきました。補色を使った鋭利な面でインパクトのある抽象絵画を描いている人ですが、全てフリーハンドでやっているため緊張感のある画面が生まれていること、また筆で精緻なグラデーションを出すのに時間と根気の鬩ぎ合いが作品の決め手になることを以前から聞いていました。公募展の大作とは違い、個展には小品が並んでいましたが、バリエーションのある世界が展開されていました。自分の制作に関して言えば、今日は墓参りの前に2時間くらい新たな陶彫成形を行いました。銀座から帰る時間帯に、若いアーティストからメールが入り、工房に来ているとのことで、自分もすぐ帰ることにしました。工房に戻ったのは午後5時でしたが、そこから2時間くらい制作をやって、夜7時過ぎに若い子を自宅まで車で送りました。今日は制作・鑑賞ともに充実した一日でした。

「アーレントとハイデガー」愛について

「アーレントとハイデガー」(エルジビェータ・エティンガー著 大島かおり訳 みすず書房)を読み始めて中盤を過ぎました。大著「存在と時間」で知られる哲学者マルティン・ハイデガーは、マールブルグ大学の気鋭の哲学教授になったばかりの35歳の頃に、当大学に入学してきた18歳のハンナ・アーレントと恋愛関係になり、情愛に溺れながら「存在と時間」を書き上げたようです。きっと女学生に献身的に慕われたことがパワーとなったのだろうと推測します。時が流れて、恋愛感情が消えても愛は継続し、アーレントは米国に去ってユダヤ文化再建委員会の仕事で思想家として渡独し、ハイデガーに再び会っています。ハイデガーは生粋のドイツ人、アーレントはユダヤ人、しかもハイデガーはフライブルク大学総長に任命され、ナチ党加入に加え、党のイデオロギーに共鳴する学長演説を行った事実があります。その後に猛省はあっても非難を免れることが難しい局面に立たされていたハイデガーを、アーレントは救いの手を差し伸べ、またハイデガーの罪を贖うような行動もしているようです。愛とは斯くも民族を超え、イデオロギーを超えても存在するものなのか、本書はこのような2人の関係を廻る賛否両論の反響があったと聞き及んでいます。まず、通勤の友として後半部分を読んでいきたいと思います。

週末に読む評壇

例年書いていただいているビジョン企画出版社の新報に、今年も個展の批評が掲載してありました。今年も昨年に続き、「発掘~層塔~」の写真付きでした。「陶彫。『発掘』シリーズ。遺跡の発掘品を思わせる土色の陶彫で、巨大オブジェを組み立てたり、地を這う生き物みたいな形を拵えたり。色々手が込んでいて、異様なアピール力を持つ。」という短文でしたが、異様なアピール力という一文に創作への活力をいただきました。存在感とか迫力とかアピール力というコトバを今まで批評家にいただいていますが、パワーが衰えないでいられるのは、自分が安定し、且つ外に発信できる創作イメージが持てることにあると自負しています。今日も朝から工房に行って制作三昧でした。工房には相変わらず若いアーティストが2人来ていました。彼らと集中する時間を共に過ごすことに幸せを感じています。今日の夕方になって漸く10体目の陶彫成形が出来ました。彫り込み加飾は10体のうち6体しか終わっていませんが、今月はもう一度週末がやってくるので、何とかなりそうだと思っています。10体のうち初めに作った1体目は乾燥が進んでいます。1体は簡易ビニール梱包を取り除きました。今のところ罅割れは見当たりません。この調子で来週末に残り4体の彫り込み加飾をやりたいと思います。

週末 今月の成形目標を目指して…

「発掘~群塔~」は陶彫と木彫を併用するので、陶彫部品を早めに作らなければなりません。展示に壁と床を使うため、その土台となる木彫部分の範囲は大きくなります。時間があれば雛型を作りたいところですが、分かっているのは木彫の手間が相当かかりそうで、そのためにも陶彫部品を急がなければならないことです。今はイメージが茫洋としていて、まだ全体を掴みにくいのですが、陶彫が進めば、全体像ははっきりしてくるだろうと思います。今月に課した陶彫制作ノルマは10個の陶彫部品にあります。それは「発掘~群塔~」の中で最も背の高い10体の塔になるのです。10体の塔は窯入れの関係で上下に分けて制作しています。そのうちの下部に当たる部分の10体を今月中に終わらせようとしています。タタラによる石膏型と紐作りの併用で成形を試みています。今日までに成形が終わっているのが9体、そのうち彫り込み加飾が終わっているのが5体です。今週末と来週末で10体全ての彫り込み加飾を終わらせる予定です。今日は中国籍の若いアーティストが朝から工房に来て、大きな平面作品に取り組んでいました。制作工程をどのように組み立てていくのかを彼女に伝授しながら、自分も制作に没頭していました。お互いが促進しあって制作に励むのがいいと思っています。中国にも日本の音楽シーンは伝わっているようで、時折FMヨコハマから流れてくる最新のJポップに彼女は歓声を上げていました。この人はまだ20代だっけと思いながら、最近の音楽についていけない自分の方が外国籍のような気分にさせられていました。自分の好きな和製フォークソングや演歌は、ほとんどラジオから流れてこないのです。明日も制作続行です。

人間臭いハイデガーの生涯

現在読んでいる「存在と時間」(マルティン・ハイデガー著 原佑・渡邊二郎訳 中央公論新社)は途方もない難解さがあって、語彙ひとつひとつに思いを込めるハイデガーにゲルマン民族特有の理路整然とした構築性を見てとれます。そんな哲学者ハイデガーですが、人間臭い一面を垣間見て、何とも妙な気持ちになっています。発端は「存在と時間」に関する平易な解説はないものかとネットを調べた時に、松岡正剛氏による「千夜千冊」を再び紐解きました。以前にもニーチェでお世話になったので、これは2度目になりますが、ハイデガーの頁では導入からして突飛な話題が掲載されていました。大学教授の地位にあったハイデガーは、入学したばかりの女子大生と情熱的な恋に落ちて情愛を深めたというのです。これは不倫です。そんな馬鹿なことがあるか、何しろ「存在と時間」には恋愛沙汰など寄せつけない堅牢な理論体系があって、それを著している人は大哲学者にして聖人に違いないと自分は信じていたからです。でも真相は奇なるかな、師匠と愛弟子の関係が人間臭い関係になるなんて、そんなことは…と思ってはみたものの、それも分からないではないと思い返しました。ハイデガーも人間なんだ、優秀で魅惑的なユダヤ人女性が突如現れてしまったんだ、年齢は関係ないんだ、それは築いてきた自身の家庭とは別の問題なんだ、と自分に言い聞かせながら「存在と時間」をちょっと横に置いて、真相を確かめるべく「アーレントとハイデガー」(エルジビェータ・エティンガー著 大島かおり訳 みすず書房)を読んでみることにしました。亡くなった量義治叔父もカント哲学者で、愛とは何かを説くことがありました。叔母を生涯愛した叔父でしたが、ハイデガーのような本質の分析を試みていたはずで、叔父の中で愛がどんな位置を占めていたのか、叔父は敬虔なキリスト教信者でしたので、あるいはハイデガーのそれとは違い、魂レベルでの愛の存在だったのかもしれません。故人になれば全て謎ですが、ハイデガーくらいの大哲学者になれば、浮き名を流したことで脚光を浴びるのも仕方なしと思ってしまいます。

「大いなる沈黙へ」鑑賞のねらい

ドイツ人監督フィリップ・グレーニングがたった一人で挑まざるを得なかった「大いなる沈黙へ」はその独自性、異色性で際立つ映画です。フランスの山奥に今も存在するグランド・シャルトルーズ修道院。まるで中世にタイムスリップしたかのような佇まいで、厳粛で神聖な空間に導かれ、現代社会の過多な情報を全て削ぎ落とし、神のために生涯を捧げた修道士たちの端正な生活を描いています。撮影許可が下りるまで16年待ち、さらに準備に2年かけて、漸く映画を撮る運びになったら、ナレーションなし、照明なし、劇伴音楽なしで、修道院に入れるのは監督一人だけという条件が提示されました。これで映画になるのかと監督は自問自答し、映画を修道院そのものにしてしまう以外にどんな方法があるのだろうと結論を出したようです。監督は修道士と同じ生活をして、スーパー8と35ミリ双方を使って隅々まで丁寧に撮影し、さらに編集に1年をかける入念さで「大いなる沈黙へ」は完成しました。自然光だけの映像、鐘の音、修道士たちの廊下を歩く足音や朗々たる聖歌、畑を耕す音、食器の音、秘めたる祈りの声、鳥のさえずり、日曜日だけ許されたハイキングでの仲間との会話と家族の面会、映画のラストに老修道士による死を迎える喜悦の語り等々が、映画全編に漲り、静かで確かな説得力を持って自分を魅了しました。2時間49分という長い静寂に満ちたこの映画に、自分は創作への思いを重ね合わせ、映画の中で瞑想し、心を研ぎ澄ませることを目的のひとつにしました。監督がインタビューに答えている記事に「こちらの世界でも芸術家が似たような暮らしをしているのを見たし、映画製作者としての私自身の生活もそうだ。私は、人が自分がしたいことのために多くのことを犠牲にし、それをどのようにしてかたくなに遠ざけるのか、ということに興味を持っている。こちらでも修道院でも、人は集中や感じ方や、行動の意味などの概念と向きあっているのだ。」という箇所があります。まさに自分の鑑賞のねらいはそこにありました。

「発掘された日本列島2014」展

東京両国にある江戸東京博物館に到着した時は、正午を回っていて、朝早くから展覧会を見て歩いていた私は些か疲れもありましたが、表記の展覧会に何とか辿り着きました。江戸東京博物館は国技館の隣にある敷地面積の広い博物館です。江戸の街が雛型で再現されている楽しい展示で知られていますが、その日の私は他に目もくれず、古代出土品のあれこれを真剣な眼差しで見ていました。東日本大震災の復興事業に伴う発掘調査の成果や、埋蔵文化財の保護を図りながらの調査から見えてきた豊かな歴史に、そこに携わった調査団の努力が窺い知れました。自分が留意するのは深鉢や土偶で、とくに火焔土器の内面に炭化物が付着していたことで鍋として煮炊きに使われていた事実に興味津々でした。焼町土器と称された土器に見られる渦巻き文様は、まさに造形美に溢れた表現で、自分の陶彫制作の参考になっています。これは欧米諸国でもJOMONとして有名になり、世界に類を見ないユニークな文化だったことが分かります。謎の多い縄文土器だからこそ現代人が想像を働かせてみたり、学術的な考察が続いていることも注目に値します。土偶は安産・多産を願う女性の偶像という定説がありますが、土偶によっては着飾った女性を表現したものがあり、これは当時の社会が女性を尊重していた証かもしれません。女性を卑下した封建社会の前に、こんな豊かな社会が存在していたことが、日本人として誇りと思うのは私だけではないでしょう。

「種村李弘の眼 迷宮の美術家たち」展

先日、東京の西高島平にある板橋区立美術館に行き、表記の展覧会を見てきました。故人である種村季弘は、私が滞欧中に親しんだウィーン幻想絵画を取り挙げた文学者で、深層心理に働きかけをするドイツ・オーストリアの芸術家を日本に数多く紹介した評論家としても知られています。当時ウィーンの有名画廊のウインドウを飾っていたE・フックスやK・コーラップの版画を見て、その摩訶不思議な世界に惹かれた私は、帰国後に種村の評論に触れて、さらに多くの奇想作品を知りました。今回の展覧会は、種村の鑑識眼による作品の数々が若い頃の自分に取り憑いていたことや、今も脳裏を過ぎる作品世界に再度浸る機会を与えてくれました。図録にあった文章を引用します。「多くの著作が、文学・美術・映画等の批評、伝記文学の体裁をとりながら、その下層に自身の心情、ときには折々の世界の事象と人間の在り方に対しての考えを忍ばせている」(柿沼裕朋著)という種村の著述姿勢が評され、また種村自身による生い立ちが掲載されていました。戦後の焼け跡で口にした食糧で急性盲腸炎を起こして入院した独白の場面で「身動きのできない私はといえば、私は極度の不自由さのなかでかえってある種の透明な漂遊感にひたされていた。部屋全体が水底に沈み、曳光弾が閃めくたびに深海の光景が一瞬明るむ、そんな環境のなかを漂っているという感じである。~略~私はカフカの『変身』を読んで同じようなシテュエーションに遭遇した。『変身』の主人公は甲虫になって鍵のかかった部屋のなかでしだいに衰弱していく。部屋の外には彼が脱けたために混乱してドタバタ喜劇のようにドアにぶつかり怒号を発しながら解体していく外界。そのなかで怖ろしい甲虫に変身してのろのろと這い回るザムザは、あるくつろいだ安らぎにさえ達している。」とあって、その種村流と言うべきユニークな世界観が早くから形成されていたことが分かりました。

三連休 気持ちが昂るまで待つ

三連休の最終日です。今日は職場へ午後から出かけました。職場での用事を済ませた後、職場の人が油絵のグループ展をやっているので、東京銀座まで足を伸ばしました。そのグループ展は美術家連盟画廊でやっていて、当画廊は日本美術家連盟が持っている画廊でした。私は日本美術家連盟に所属しているので、馴染みのある画廊でした。職場の人は銀箔と日本画の顔料を使った抽象絵画をやっていて、銀箔による壁が何とも雄弁で、その変化の様子が楽しいと感じました。そんなことがあって、今日は朝早くから工房に行って制作を始めました。制作は朝が勝負と決め込んで7つ目の成形に打ち込みました。「発掘~群塔~」の陶彫部品を今月は10個作ると決めていて、計画した制作工程通りにやっていました。まだ精神が研ぎ澄まされることはありませんが、こうした地道な積み重ねが、そのうち制作に緊張を与えていくものと思っています。気持ちが昂るまで待つ、というのが現在の制作姿勢でしょうか。それにしても三連休は充実はしていた半面、妙な疲れが残りました。鑑賞と制作に明け暮れたせいかもしれません。夜になって近隣のスポーツ施設に行って水泳をしてきました。身体と気持ちのバランスがとれて、妙な疲れがなくなりました。明日から通常勤務の日常が待っています。また来週末に気持ちの昂りを期待したいと思います。

三連休 出勤の合間に制作

三連休の中日です。今日と明日は出勤しなければならない用事があります。勤務はせいぜい1時間程度ですが、その合間に制作をしました。朝7時に工房に行って、成形をしておいた「発掘~群塔~」の陶彫部品に彫り込み加飾を行いました。午前9時過ぎに職場へ行って、再び工房に戻ってきました。午後は土練機を回して40キロの土練りを行いました。朝は涼しかった工房が、午後は真夏並みの暑さになって、夕方には疲労が出て、休憩に1時間程度自宅に戻りました。昨日の過密スケジュールのせいかもしれませんが、なかなか精神が研ぎ澄まされることが出来ず、制作面では不満が残りました。昨日観て来た映画「大いなる沈黙へ」の影響で、坦々とした作業が脳裏に焼きついて離れなかったのです。自分は神に全てを捧げる信仰は持ちませんが、創作の場面であらゆるものが浄化されて、制作中の作品しか眼に入らなくなることがあります。それは自己表現であっても自己のためという観念が消え、何かのために衝き動かされている感覚を持つのです。イメージが降って湧いてきたり、作品を取り巻く空間に広がりが見え、至福の景色が現れる瞬間なのです。信仰とは異なるものだと分かっていますが、修道士が一心不乱に祈る姿に、イメージの景色が見えている自分の姿を重ねていました。今日はそこまで気持ちを持っていけなかったのが何とも残念でした。明日は頑張ってみようと思っています。

三連休 情報を求めて…

三連休初日である今日は、3つの美術館へでかけた後、東京新宿にあるミニシアターで映画を観てきました。過密なスケジュールでしたが、充実した一日が過ごせました。たまたま家内に演奏の予定が入っていたため、今日は単独行動になり、まるで学生時代のような東西奔走をやってみました。まず朝7時半に自宅を出て、東京の西高島平にある板橋区立美術館に行きました。横浜の旭区から2時間の道のりで、これは遠いなぁと思いましたが、「種村季弘の眼」展はどうしても見たかった企画展だったので満足でした。ドイツ語圏のファンタスティックリアリスムやマニエリスムの芸術家を論じた評論家として種村季弘は自分の中で重要な著述家でした。選抜された芸術家のオリジナル作品が見たいと思っていたので、長い移動時間は苦になりませんでした。次に向かったのは両国にある江戸東京博物館で「発掘された日本列島2014」展を見てきました。自分の作品は「発掘シリーズ」として現代の出土品と評されることもあって、これは全国の発掘現状を知り、古代出土品の実物を見てこなくてはならないと思ったのでした。出品されていた大きめの縄文土器に改めて感動を覚えました。以上前述した2つの展覧会の詳細な感想は日を改めて書きたいと思います。3つ目は六本木にある東京国立新美術館で開催中の「二科展」に行きました。これは彫刻部門に自分の後輩が出品しているのを見るためで、彼は自分と同じ二束の草鞋生活を送りながら頑張っている作家なのです。今年彼は賞を頂いていました。学習机の天板を並べ、そこに波紋や水が撥ねたような状態を木彫していました。机という日常から新象風景へ導く意外性があり、木材を水に置き換える素材の変容が見事でした。今まで彼の作風は、絡み合う凝縮した生命の根源を求めるものが多かったように記憶しています。今回は広がりを狙った世界であり、彼の作風が確実にステージを上げて、大きな空間を獲得しているように思えました。凝縮と拡散双方の世界観が、今後どう折り合いをつけていくのか、とても楽しみな作家です。そして最後に新宿に辿り着きました。午後3時を回っていましたが、昼食をとるのを忘れていました。新宿の雑踏の中でカウンターの食堂を見つけ、腹ごしらえをしました。新宿では新宿シネマカリテで上映中の「大いなる沈黙へ」を観ました。この映画に臨む自分の姿勢は、溢れる情報や物質の中に曝される自我をリセットし、自分が真に必要とするものは何か、自分にとって創作とは何かを問い直すことがありました。厳格な修道院での寡黙な修道士の生活を捉えた3時間近くに及ぶ映像は、自分に何を齎すのでしょうか。ナレーションなし、照明なし、劇伴音楽なし、修道院に入れるのは監督一人だけという条件で撮影された余りにも独特な映像作品。上映後、静かな感動を覚え、帰路は呆然としてしまいました。詳細な感想は後日にします。

9月RECORD「宙吊りの魂が棲まうところ」

今月のRECORDは表題のような不安定なテーマを掲げて作品を作っています。魂というのは詩情として置き換えた現存在(私自身)のことで、現在読んでいる哲学書の存在論に触発されて、こんなテーマを思い立ちました。著者ハイデガーの語彙は大凡ポエトリーなものではなく、ニーチェのそれとは大きな違いがあります。まだ大著「存在と時間」を読破していないのですが、解説によると存在が宙吊りのままでいる状態を示唆する箇所があって興味が湧きます。今までのRECORDに見られる自分の傾向として、抽象的、象徴的な傾向が強く、具象的なそれを大きく上回っています。現存在(魂)を象徴するテーマは、過去の傾向から言っても決して新奇なものではなく、カタチを変えて追求してきたものだと考えています。今月も日々頑張っていこうと思います。

「存在と時間 Ⅱ」を読み始める

「存在と時間 Ⅰ」に続き「存在と時間 Ⅱ」(マルティン・ハイデガー著 原佑・渡邊二郎訳 中央公論新社)を読み始めました。またハイデガーの抜本的で詳細な理論に親しみます。既成概念を覆すように根気強く展開される存在論は、読む側にも根気を強いてきます。目次を見ると、第Ⅰ巻から続く第一編が途中から第二編に変わるのが第Ⅱ巻のようで、第二編は現存在と時間性が取り挙げられています。第一編と第二編を併せて第一部としていて、「存在と時間 Ⅲ」には第二部が出てきません。つまり第一部だけで終わってしまう「存在と時間」なのです。これは未完の哲学書ということが分かります。結論の出ない存在論ですが、起因動機や展開に見られる微細で大胆な論考としては20世紀を代表する大著であることに変わりはありません。「存在と時間 Ⅱ」に最初に出てくるテーマで自分が留意したものは情状性です。「恐れの対象、つまり『恐ろしいもの』は、そのときどきに、道具的存在者か、それとも共現存在かの存在様式をもった世界内部的に出会われるものである。」その恐ろしいものとは時に驚愕になり、戦慄になり、仰天にもなります。また恐れの変種として、尻込み、おじけ、気がかり、びっくりが挙げられています。それら了解を論じた後のまとめとして「情状性と了解とは、実存範疇として、世界内存在の根源的な開示性を性格づける。気分的規定性という在り方において現存在は、おのれがそれらのほうから存在している諸可能性を『見てとる』。」というわけです。続きを読んでいきたいと思います。

「存在と時間 Ⅰ」読後感

やっと「存在と時間Ⅰ」(マルティン・ハイデガー著 原佑・渡邊二郎訳 中央公論新社)を読み終えました。新しい哲学書に挑むときは、まず頻出する独自解釈を課している語彙に慣れなければなりません。語彙に慣れてくると次第に論拠とするところが理解できるようになります。著者によって本質へのアプローチが千差万別と言っていいほど異なるからで、第Ⅰ巻で苦労するところはそんなところにありました。1976年まで生きた哲学者ハイデガーは最近の人で、「存在と時間」は比較的新しい著作と言えます。確かに文中にある具体例に古さはありません。頻出する語彙で言えば、現存在や世界内存在、道具的存在者、環境世界性、配慮的気遣い等々読み進んでいくうちに当の語彙が何を意味するのかが解ってきます。ただ、さらりと読めるモノではなく、全体として拘りの強い文章で構成されているため、行きつ戻りつして少しずつ噛み締めるように読みました。第Ⅰ巻のまとめにはなりませんが、頻出する語彙の例えとして以下の文章を引用します。「現存在は世界の内で本質上そのつどすでに存在しているのだが、そうした世界のこのように構成されている世界性が環境世界的な道具的存在者を出会わせるのであり、それも、配視的に配慮的に気遣われたものとしてのそうした道具的存在者といっしょに、他者たちの共現存在が出会われるというふうに、出会わせるのである。」この一文は現存在が他者との関わりを示す論考部分で、第Ⅰ巻の最終章になっています。

HPのGalleryに「地殻」アップ

ホームページのGalleryに昨年発表した「発掘~地殻~」をアップしました。Galleryという頁は、個々の作品を意図的にデジタル化したもので、彫刻である媒体を超えています。作品が立体である説明はなく、あくまでも視覚的な表現に徹しています。画像を極限まで加工し、自分が作ったモノとは違う世界観を表出させています。狙いとするところは斬新な視点により作品を再度捉え直し、立体としてではなく絵画的要素を際立たせること、光と影が織り成す偶然を意図的に取り込んだ世界を表そうとしているのです。これはカメラマンの力量に負うところが多く、自分の作り出す世界観ではありません。自分が自ら撮影すれば、制作対象と撮影対象の一体化が図れるでしょうが、それは自分の意図するものではありません。むしろ別の才能が荷担することで、自分だけの世界観が壊れ、より広い世界観が獲得できることを願っているのです。自分の望んでいるのは協働作業が生む多様な世界で、彫刻を通して発展する広がりに希望を抱いているのです。なお、ホームページにはこのNOTEの左上にある本サイトをクリックしていただければ入れます。ご高覧いただければ幸いです。

HPのNOTE3000件

私は自分のホームページを立ち上げて8年が経ちました。ホームページの中にNOTEという頁があり、昨日までのアップ件数が3000件になりました。NOTEは日々書いているブログで、所謂日記として機能していますが、NOTEはその日にあった時系列だけではありません。内容は彫刻制作に関わるものが中心です。その他に美術館鑑賞や読書、気になる芸術家に関する持論、職場でのイベントや生活の諸々など、自分の周囲で興味関心のあることを全て網羅しています。今のところ気楽さの№1は飼い猫トラ吉のことで、難解さの№1は現在読んでいるハイデガー著「存在と時間」の論理解釈です。NOTEは毎日書くことで自分の生活や思考に輪郭を与えて、自分を見つめ直す機会にもなります。自分にとってアーカイブも大切で、過去の記事を鑑みて、現在の状況に生かすことをしています。とりわけ制作に関することで、どの時期にどんなことをやっていたか、作品の進み具合はどうだったのかを知る手掛かりになります。NOTEはRECORDとともに自分が生きている間はずっとやっていたいと願っています。次は4000件を目指します。

週末 「群塔」成形は順調

今日も朝から工房に篭って制作三昧でした。「発掘~群塔~」の成形は順調にいっています。今日で成形は6つ目になりました。制作工程の中で、今が一番健康的かもしれません。まだ時間があるという意識が多少ゆとりを感じさせてくれます。毎年5月の図録撮影日が作品完成のゴールになっていて、その前になれば必ず焦っている自分がいるわけですが、今から頑張っておけば焦らないで済むというようなことではないのです。焦りはどのような状況であれ必ずやってきます。初めからどんなに頑張っていても余裕を持って終わることが今まで一度もありませんでした。作品が具現化するに従って、何かが見えてきて、制作工程がどんどん塗り替えられていくのです。基本となるものは変わらないとしても、深化が見え始めるのかもしれません。計画通りのゴールは消えて、一歩先に設定され、駆け込むとまた一歩先にゴールが設定される、そんな繰り返しの中で、集中力でゴールに突っ込んでいく感覚を持っています。制作工程に緩急をつけるとすれば、制作が始まったばかりの今が最も緩い時期だと思います。でもこの時期に休むことはできません。焦らず休まず継続していく姿勢を貫きます。

週末 若い世代の支援

相原工房には毎週末になると、アーティスト志願の若者がやってきます。10代の高校生から30代前半の社会人までの若い世代です。彼らは何らか自分に関わりのある人たちなので、使用料を頂くことはありません。工房ではそれぞれが自分の課題に向き合っています。彼らは私の個展の搬入搬出の手伝いや彫刻の制作にも力を貸してくれますが、主に工房の空間を使って個々の制作に没頭できることが魅力なのでしょう。大きな作品を作るときに自宅では無理な場合があるし、美術系の学校を卒業して、生涯創作をやっていこうと決めたところで、仕事場がないばかりに夢を諦める若者は少なくないと思います。偶然私と関わりが出来て、相原工房で制作している若者は幸運かもしれません。今日は中国人アーティストがやってきて大きなパネルを作っていました。彼女は日本の美術界にデビューするための作品制作にこれから挑みます。私も若者から刺激をもらっています。彼らに負けるわけにはいかないと言い聞かせながら、私も陶彫の成形に明け暮れました。持ちつ持たれつつ刺激しあうというのが、若い世代の人たちとの切磋琢磨で、お互い干渉はしない緩い関係がずっと続いています。そこが美術大学の研究室との違いかなとも思います。明日も無我夢中な若い人たちの制作を横目で見つつ、自分も制作に没頭しようと思います。

ア・プリオリな空間存在

ア・プリオリとは先験的・先天的な経験に先立って与えられている認識や概念のことを言います。語源はラテン語で反語はア・ポステリオリです。「存在と時間Ⅰ」(マルティン・ハイデガー著 原佑・渡邊二郎訳 中央公論新社)の中に空間を存在論の中で捉えようとする箇所があり、注目しました。「空間は主観の内で存在しているのでもなければ、世界が空間の内で存在しているのでもない。むしろ空間は、現存在にとって構成的な世界内存在が空間を開示したかぎりにおいて、世界の『内』で存在している。空間が主観の内で見いだされるのでもなければ、また、主観が世界を、『あたかも』世界が一つの空間の内で存在している『かのように』考察するのではなく、むしろ、存在論的に十分によく了解された『主観』、つまり現存在が、空間的なのである。空間はおのれを、ア・プリオリなものとして示すのである。~略~ア・プリオリ性とはここでは、道具的存在者がそのときどき環境世界的に出会われることのうちで、空間『法域としての』が出会われることの先行性のことなのである。」家を建てたり、土地を測量したりすれば、そこの空間は現存在(私)の眼差しに入ってきます。ただし、純粋計量的空間学にいたる考察は、ここで主題にするのではなく、純粋空間の主題的暴露等置かれている現象的地盤が主題であるとハイデガーは断定しています。いずれにせよ空間の存在論的解釈をじっくり読み込んでいこうと思います。

若かりし頃の貧乏旅行

「保田龍門・保田春彦 往復書簡1958ー1965」(武蔵野美術大学出版局)を読んでいると保田先生が若かりし頃にフランスのパリから各地を経てスペインに赴く旅日記がありました。手持ちの金銭が少なく、食事や宿泊費用を切り詰めての貧乏旅行で、その状況や雰囲気がよく伝わってきます。自分にも同じような経験があるので、なおさら伝わりやすいのだと思います。自分は1980年から85年までの5年間をオーストリアで過ごしました。その間、西欧ではドイツ、イタリア、フランス、スペイン、ポルトガル、オランダ、ベルギー(スイスとルクセンブルグは通過しただけ)を旅しました。東欧ではハンガリー、チェコスロバキア(当時)、ユーゴスラビア(当時)、ルーマニア(ブルガリアは通過しただけ)を旅しました。オーストリアを引き揚げる際に、トルコ、ギリシャに2ヶ月に亘って周遊し、彼の地で見た地中海沿岸の遺跡の数々が、現行の陶彫作品に繋がっていると言っても過言ではありません。自分も持ち金が乏しく、書簡にある「オート・ストップ」をかなりやりました。所謂ヒッチハイクのことで、行き先を大きな紙に書いて、アウトバーン(高速道路)の入り口で翳しているとよく車が止まってくれるのです。街では地図を片手に徒歩で美術館に行って、全身眼になって作品を嘗めるように見回し、マーケットで食料を買って公園のベンチでパンやソーセージに齧り付くという旅でした。鉄道の駅で野宿もしました。あの頃は不思議と病気はしないもので、たいした疲労も感じず、ただ意欲だけで生きていました。そんな旅を思い出させてくれる「保田龍門・春彦 往復書簡」です。

「存在と時間」におけるデカルト&カント批判

「デカルトは実体性に対する存在論な問いを総じて回避しているばかりではなく、彼が表立って強調しているのは、実体そのもの、言いかえれば、実体の実体性は、それ自身に即してそれ自身だけでは、あらかじめ近づくことのできないものだということである。~その後デカルト著「哲学の原理」より引用文が続くが、略する~『存在』自身はわれわれを『触発する』ことがない、このゆえに存在は認知されえないというわけである。カントの言うところによれば『存在は、レアルな、つまり事実内容を示すような述語ではない』のだが、これはデカルトの命題を言いかえたにすぎないのである。かくして存在の純粋な問題性というものの可能性が原則的に断念され、一つの逃げ道が求められ、さらに、そうした逃げ道をたどって諸実体の前述の諸規定が獲得されることになるのである。」文中にあるレアルとは事象内容に属しているもののことです。諸実体の前述の諸規定とあるのは引用文の前段階で論述されたデカルトの存在論のことです。「存在と時間Ⅰ」(マルティン・ハイデガー著 原佑・渡邊二郎訳 中央公論新社)は、存在そのものを綿密に解き明かすもので、デカルトやカントの存在論に触れる箇所が度々あります。「存在と時間Ⅰ」は存在全てに亘る論考の中で、存在究明におけるデカルトやカント哲学に対する批判が述べられています。ハイデガーは過去の哲学によって規定されていた概念を覆し、存在そのものの問い直しを図るため、基盤から再構築する膨大な理論展開を試みています。

屏風と床置きによる「群塔」

壁と床の両方を設置場所にする新作に「発掘~群塔~」という題名をつけました。壁面は屏風にしてそこから突き出る陶彫を複数配置します。床にも陶彫の塔を複数配置して、屏風と床面が一体化した空間を創り上げようとしています。次なるイメージはその時作っていた作品が発展したものとして湧き上がってくるようです。7月に発表した「発掘~層塔~」はひとつの巨塔を90体以上の陶彫部品を組んで作りました。この制作が佳境を迎えている時に、突如「発掘~群塔~」のイメージが湧いてきたのです。現行の大きな塔さえ苦心しているのに、さらに塔が群立している新作イメージで、自分の心が折れそうになりました。ともかく「発掘~群塔~」の制作に取り組み始めました。今回は陶彫の他に木彫を併用します。これは私の常套手段ですが、木彫した面を大地に見立て、そこに陶彫した塔を群として点在させていきます。ハイデガー著による「存在と時間」のなかに「歴史をもつものは、なんらかの生成と関連づけられ、『発展』は、ときには興隆であり、ときには衰退である。歴史をもつものは、同時に歴史を作ることができる。画期的な時代を作りつつ、そのように歴史をもつものは、現在的でありながらなんらか未来を規定する。」という存在に於ける歴史性の学的解釈があります。まさに自分がイメージする都市残像が存在論として述べられています。そんな哲学としての核を抱きつつ制作に邁進したいと思います。

凌ぎやすい9月になって…

暑かった夏が過ぎて、凌ぎやすい季節になりました。朝晩は肌寒く感じます。今月は制作に弾みをつけていきたいと思います。休日出勤以外の週末は基本的には朝から夕方まで作業をやります。新作は塔が群となって都市を形成するイメージがあります。大きな塔は10体と考えていて、それらを上部と下部に分けて成形します。窯に入れる関係でこの10体だけは上下部連結のカタチになりますが、他の塔は単体で作ります。塔は今のところ全体で60体程度を考えています。そこに木彫が加わるので、新作は今夏発表した「発掘~層塔~」並みに大変な作業になるのではないかと思っています。そこで今月の目標としては大きな塔の下部の成形と加飾を10体全て終わらせていきたいと思っています。RECORDは毎日1点ずつ作る平面による小品ですが、その日のコンディションによって一番犠牲になりやすい作品です。仕事から帰宅後の眠さに打ち克って、今月もRECORDを何とか継続していきたいと考えています。美術館へは今月も足を運び、充実した鑑賞をしたい意向です。読書は携帯している哲学書や職場に置いてある往復書簡を続けていくため、今月は新たな書籍を紐解くことはないと考えます。凌ぎやすい9月になって、陶彫やRECORDに一層力を入れたいと思っています。

週末 8月の終わりに…

ちょうど日曜日が8月の最終日になりました。今月を振り返ると、大きかったのはアンコール遺跡を訪ねてカンボジアに行ったことでした。遺跡を見に外国へ行く楽しさを満喫しました。元気なうちにまたどこかの遺跡を見に行きたいと思いました。新作は今月になって漸くカタチになってきました。新作は5月から準備をしていたのですが、カタチになってやっと具体的な世界が掴めるようになった感じがします。「発掘~層塔~」は陶彫部品が多くて大変でしたが、手間のかかることでは新作の方が大変かなぁと思っています。毎年ハードルを少しずつ上げているので、致し方なしと思っていますが…。今日も制作サイクルに則って陶彫部品の成形や彫り込み加飾をやっていました。今日は7時間の集中で、陶彫部品は4つ目が出来ました。涼しくなったとはいえ、制作は神経を使うため身体の芯から汗が噴出してきます。シャツを何枚も替え、水分補給を欠かせませんでした。今月のRECORDはいつものように順序良くいかず、アンコール遺跡をテーマにしたものは、後日まとめて作りました。RECORD用紙を持参しても、当地で描くことが出来ず、帰国後の制作が大変でした。今月は読書も捗らず、「存在と時間」はまだ一巻も読み終わっていません。職場で仕事の合間に読んでいる保田先生の「往復書簡」もまだまだです。今月はアンコール遺跡鑑賞という楽しみがあっただけで、創作活動は低迷していたように思います。来月から今一歩頑張らなければならないと自分に言い聞かせています。

週末 新作の制作サイクル

今夏、個展で発表した「発掘~層塔~」の陶彫部品を作るときに、制作サイクルを考えました。週末ごとに土練り、タタラ、成形、彫り込み加飾、化粧仕上げ、焼成の流れを時間的に上手く組み込んでいくのが制作サイクルです。現段階では化粧仕上げと焼成は後回しにして、タタラから彫り込み加飾までを制作サイクルに組み込んでいこうと思っています。陶彫部品を順序良く作っていく方法としてシステマチックな制作工程は有効です。まだ全体を見る必要はないと考えて、部分に関わって制作サイクルを遂行していきたいと思います。今日は朝から工房にいて、タタラ、成形、彫り込み加飾を順番立ててやっていきました。土練りはまだ小分け保存してある陶土が十分あるので、まずタタラを作るところから入りました。今日は3個目の陶彫部品の成形が出来ました。第1号は彫り込み加飾まで終わらせました。新作は5月頃に石膏型作りから始まりましたが、実際に陶彫部品がカタチになっているのは先週くらいからで、これから制作サイクルに則って、順次作っていきたいと思います。工房内は漸く涼しくなってきました。季節は確実な足取りで移り変わり、凌ぎ易い気温になりました。週末だけではなくウィークディの夜も制作が出来そうです。ただ、夏の疲れが出て身体が動けなくなることも想定しておかなければなりません。心身ともに疲れ果てるのは、制作者がロボットではなく生身の人間である証拠です。無理をしないようにしたいものです。

留学したばかりの頃…

「小さい自己中心的の主観で軽々と批判し去ることは十分謹んで、兎に角すばらしいものがワンサとあるのだから、それにかぶりついて行く事が一番大事だと思ふ。」(保田龍門・保田春彦 往復書簡1958ー1965 武蔵野美術大学出版局)は保田龍門氏からご子息の春彦氏に宛てた手紙の一文です。本書を読んでいて、実父からの助言を羨ましく思いましたが、自分も同じような助言を手紙にしていただいたことがあります。自分の留学の手続きをしていただいた海外駐在員の方からの指摘でした。彼は商社マンでありながら音楽や美術に造詣が深く、私の若く拙い言動を丁寧に正してくれました。私が留学したばかりの頃、南独で見た古城の豪奢過ぎる装飾を批判した手紙を日本に送ったところ、まだ欧州の何たるかが分からないうちに軽々とした意見を言うものではないと諭してくれました。それが有り難かったと気付いたのは何年も経った後で、自分の感覚が徐々にリセットされて、異なる文化を受け入れる態勢が出来た頃でした。「往復書簡」を読んで、そんなことを思い出しました。