週末 形而上・前衛・若手作家

表題にしたコトバは今日出かけた3つの展覧会によるものです。鑑賞のために東京に出かけましたが、週末の今日は制作をしないわけにいかず、朝7時から工房で1時間程度の彫り込み加飾をやりました。それから家内と自宅を出て、まず新橋にあるパナソニック汐留ミュージアムで開催している「ジョルジョ・デ・キリコ展」に行きました。形而上絵画の巨匠として知られるデ・キリコですが、まとまった作品を見るのは初めてでした。詳しい感想は機会を改めたいと思います。次に新橋からJR総武線に乗って千葉まで足を伸ばし、千葉市立美術館で開催中の「赤瀬川原平の芸術原論展」に行きました。先日惜しくも他界した前衛芸術家赤瀬川原平氏ですが、展覧会開催中にご本人が亡くなったので、結果的には遺作展になりましたが、元来は回顧展でした。創作活動の幅の大きさ、社会と表現との関わり等を多くの資料や作品を使って見せていただきました。これも詳しい感想は別の機会にします。3つ目の展覧会は相原工房に出入りしている若手画家が原宿のデザインフェスタギャラリーで2人展をやっているので見て来ました。彼女は絵画とイラストを展示していました。遊び心いっぱいの作品でしたが、まだまだ若いので全力をかけた作品が望まれるところです。デ・キリコや赤瀬川原平を見て来たところなので、つい厳しい眼を向けてしまいますが、安易な方向に流れないようにしたいものです。現在はひと昔前と違って発表する施設や機会がたくさんあります。それだけに気に留めておかなければならないこともあります。簡単に出来ることは簡単に止められるということで、そんな中で夢を持った多くの作家が自然淘汰されていくのではないでしょうか。表現の修得や思索には、個人差はあるにしても多くの労力と時間が必要だと思います。自己表現の核が出来なければ発表は控えるべきというのが自論です。3つの展覧会を回っていろいろな考えが頭を過ぎった一日でした。

「詩的思考のめざめ」に遊ぶ

昨日午後に橫浜駅周辺で2つの会議が組まれていました。職場を出て1つめの会議を終えたところで少し時間が出来ました。2つめの会議は管理職組合の集会だったので勤務時間が終わってからの開始時間になっていました。時間的に職場に戻ることは出来ず、どこかで時間を潰そうと橫浜駅を歩いていたら、美術展のポスターが目に留まりました。ムーミンで知られる「トーベ・ヤンソン展」で、ちょっと面白そうな展覧会だったので立ち寄ってみることにしました。これは意外に楽しく有意義な時間を過ごせました。詳しい感想は後日にします。その後、書店に立ち寄り、ムーミンを見て遊び心が擽られたところで、「詩的思考のめざめ」(阿部公彦著 東京大学出版会)を思わず購入してしまいました。同書をパラパラと捲ったら、詩のことがまるで遊びのように楽しく、また分かり易く書かれていて、北欧の寓話をムーミンという楽しいキャラクターに託したヤンソンに似て、難解な詩を気楽に語る著者の現代風な言い回しに思わず引き込まれてしまいました。大哲学書を読破した後なので、楽しい書籍でちょっと一息入れてみようと思います。この書籍は遊べると思っていますが、案外文学の深いところまで連れて行ってくれるのではないかとも思っています。楽しみながら味わっていくつもりです。

「存在と時間 」全編の読後感

「存在と時間 Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ 」(マルティン・ハイデガー著 原佑・渡邊二郎訳 中央公論新社)を読み終えました。夏から読み始めた大作でしたが、読書が通勤時間に限られていたこともあって、読破に数ヶ月もかかってしまいました。おまけに初めの頃は数行読んでまた戻り、また数行読むという繰り返しで、語彙の理解咀嚼に多くの時間を費やしました。読み終わっても簡単にまとめることは到底出来ず、存在と時間に関する哲学的な学術解釈を認識できた程度に留まっています。最終章に触れておくと「これまでの諸考察の課題は、現事実的現存在の根源的全体を本来的に実存すること、および非本来的に実存することの可能性に関して、根源的全体の根拠から、実存論的・存在論的に学的に解釈することであった。こうした根拠として、したがって気遣いの存在意味として、時間性があらわになった。」とあります。ただし、最後の一文は「根源的時間から存在の意味へと一つの方途が通じているであろうか。時間自身が存在の地平としてあらわになるのであろうか。」という次へのステップとも言うべき問いかけで終わっています。「存在と時間」は以前のNOTE(ブログ)で示した通り、未完の大作であって、全三巻で述べられた第一部に続く、次なるステージとして第二部が待たれるところでした。著者ハイデガーは既に他界し、この問いかけは宙に浮いたままの状態になっているのが、大作「存在と時間」の特徴とも言えます。たとえ未完であっても本書は20世紀を代表する哲学書であることに変わりありません。

存在論としての運命

現在読んでいる「存在と時間 Ⅲ 」(マルティン・ハイデガー著 原佑・渡邊二郎訳 中央公論新社)に運命を存在論として捉える箇所があって興味を持ちました。2つの箇所を引用いたします。「決意性のうちにひそんでいて、先駆しつつ、瞬視の現へとおのれを伝承することを、われわれは運命と名づける。」「運命的な現存在は、世界内存在として、本質上他者たちと共なる共存在において実存するかぎり、そうした現存在の生起は、共生起であって、全共同運命として規定される。」さらに運命や歴史性を総括する箇所がありましたので、これも引用しておきます。「本質上おのれの存在において到来的であり、したがって、おのれの死に向かって自由でありつつ、死に突きあたって打ち砕けておのれの現事実的な現へと投げ返されうる存在者のみが、言いかえれば、到来的なものとして等根源的に既在しつつ存在している存在者のみが、相続された可能性をおのれ自身に伝承しつつ、おのれの固有な被投性を引き受けて、『おのれの時代』に向かって瞬視的に存在することができる。本来的であって、同時に有限的な時間性のみが、運命といったようなものを、すなわち本来的な歴史性を可能にするのである。」難解と感じた哲学書も終盤に差し掛かり、その難解さにも慣れてきました。時間を論じる上で登場してくる運命や歴史性を考察することの自分なりの意義を感じ取っているところです。

「善財童子立像」の印象

上野の東京国立博物館で開催中の「日本国宝展」では印象に残った作品が多く、まず何を取上げようか迷いましたが、最後の部屋に展示されていた快慶による仏像を取上げることにしました。善財童子立像と仏陀波利立像の彩色木彫の2点です。そのうち振り向きながら合掌する善財童子立像が、何とも愛らしくて好きになりました。平成25年に国宝に指定されたようで、彫刻分野では最も新しい国宝です。奈良県の安部文殊院が蔵している仏像ですが、特徴的なフォルムであるためポスターに採用されています。快慶と言えば鎌倉時代を代表する彫刻家で、その具象表現は西欧彫刻にも通じ、自分が仏像彫刻理解の第一歩として崇めた一人です。仏像の表情や筋肉のつき方が彫塑を学ぶ学生に分かり易かったし、鎌倉時代の仏像はバロックにも似た要素があって親しみを感じていました。日本人でありながら大学での彫刻実習は西欧の具象表現を学ぶことにあって、仏像は西欧彫刻の後にやってきた自主研究のようなモノなのです。だから善財童子立像や仏陀波利立像の内に西欧を見取って親しみを感じるというわけです。善財童子立像の愛らしさが印象に残ったのも、或いは自分の造形キャリアから由来すると言っても過言ではないと思います。

三連休最終日 集中した制作時間

三連休の最終日になりました。この三連休は制作時間がなかなか取れず、今日だけが朝からずっと制作できる日でした。そんなこともあって今日は制作に集中しなければないないと思っていました。結果7時間近く制作に集中し、疲れもピークに達してしまいました。7時間で成形4点を作り上げましたが、陶土しか見えない時間がずっと続き、夕方4時過ぎにふと我にかえりました。至福の時間は疲れを知らず、精神だけでモチベーションを保っているので、作業が終わると妙な疲れが全身を襲い、筋肉がワナワナと震えてしまうのです。疲れきった身体に比べると、心は満足していて快さに酔いしれます。そんな感覚が大好きで作品を作り続けているのです。制作目標だけでは作品の継続は難しいと思っています。制作途中で至福の瞬間が訪れるのが、継続を可能にするものではないかと思っています。陶酔とも快感とも取れる不思議な感覚です。それにしてもこの三連休は密度の濃い3日間でした。多忙なスケジュールを乗り切った初日、山梨県に親戚を訪ねた2日目、制作三昧の3日目と、振幅の大きい3日間でしたが、充実はしていました。欲張れば制作時間が足りなかったのが残念でしたが、それでも今日の制作で多少は制作工程に追いつけたのではないかと思います。時間が幾らあっても足りないと感じるのは、今までも同じで今回に限ったものではありません。残り1回の週末で、どこまで制作が進められるのか、来週も至福の時間がやってくるようにしたいと思っています。

三連休中日 旭洋酒有限会社へ

家内の従兄弟が山梨県でワインを生産している会社を営んでいます。旭洋酒有限会社という山梨市小原東にある会社ですが、後継者の居ない会社を買い取り、葡萄畑を借りて、葡萄の摘み取りからワインに至るまでの工程を、全て夫婦2人でやっているのです。家内の従兄弟はその奥さんですが、ご主人も元来ワインの生産者ではなく、大きなワイン会社に勤務していたときに知り合って、2人で独立した経緯があります。そのワイン(商標「SOLEIL」ソレイユ)の美味しさは、自分の個展のオープニングパーティーの時に、多くの人に味わってもらい賞賛を受けたこと、また東京や地元のレストランで扱っていて好評なこと等、数え上げたらキリがありません。常々会社を訪ねたいと思っていたので、今回は漸く実現した会社訪問でした。家内と自分の他に従兄弟2人も同行しました。朝5時に自家用車で自宅を出て、東京大田区と杉並区に住む従兄弟2人を拾い、中央高速道を一路山梨県に向かって走りました。勝沼インターで降り、一般道を走ること15分で旭洋酒有限会社に到着しました。丁寧な案内で工場を見せていただき、醸造の過程を知りました。葡萄畑にも案内していただきました。既に摘み取られた葡萄の蔓や紅葉した葉が青空に映えていました。畑のある山の中腹から見える富士山も美しく、爽やかな空気が頬を撫でていました。2人で作る珠玉なワインは研鑽の賜で、自分たちのワインを作り出したいというその強い意志に自分は驚きを隠せない一日でした。自分は新作ワインのラベルデザイン制作をこちらから申し出ました。そのワインは既に地下倉庫で眠っていました。気持ちを引き締めて取り組みたいと思います。昨日の洋菓子職人、今日のワイン醸造職人、どちらもその道を極めたい人たちで、こうした充実した生き方をしている人たちに自分は刺激をもらっています。今日は最高のひと時を過ごせました。

三連休初日 過密スケジュール

三連休になりましたが、今日はスケジュールが過密でした。NOTE(ブログ)は日記としての役割があるので、今日は自分の記録として書くことにします。まず朝7時に工房に行って1時間程度彫り込み加飾をやりました。午後もう一度作業をするつもりでいましたが、疲れてしまい結局今日の制作はこの1時間だけになりました。8時半に自家用車で自宅を出て職場に向かい、2時間程度の仕事をしてきました。自宅に昼前に戻って、公共交通手段で東京上野の美術館に出かけました。昨夜も国立博物館に行ったばかりですが、今日は都立美術館で開催中の「太陽美術展」に行きました。自分と同じ職種の人が同展に絵画を出品していて招待状を頂いていたのです。今回の彼の作品は例年に劣らぬ力作でした。西欧のカフェの風景をセピア調で丹念に描き込んだ具象絵画で、年を追うごとに腕を上げているように思います。次に国立西洋美術館で開催中の「ホドラー展」を見てきました。「チューリヒ美術館展」にもホドラーの大作が来ていますが、まとまった作品を見るのは自分としては初めてのことでした。人体表現のリズミカルな美しさに圧倒されました。詳しい感想は後日に改めます。再び自宅に戻ったのは午後3時を回っていて、自宅に出たり入ったりで些か疲れていましたが、それでも午後4時に自家用車で家内と川崎市に住む旧友に会いに行きました。彼は菓子職人で、川崎市多摩区中野島に「マリアツェル」という店を構えています。彼の作る洋菓子は絶品ですが、今回はシュトレンを買いに出かけたのでした。シュトレンはクリスマスの時期にドイツで食べられているドライフルーツの入ったパンで、先日試作品が彼から贈られてきて、その味があまりにも素晴らしかったので、大3つ小2つの取り置きをお願いしていました。彼とはウィーン時代からの知り合いで、彼は洋菓子の世界で、自分は美術界で、お互い切磋琢磨して過ごしていた時代があったのです。彼は趣味も仕事も大胆さがあって昔から驚かされていますが、そんな気質が洋菓子に結集しているためか、店は繁盛しているように見えました。そんなわけで今日は過密スケジュールを乗り切った一日でした。おまけに今日は洗車までやっていたのですが、どこの時間帯だったか忘れました。

勤務後の名作鑑賞

美術館や博物館が金曜日だけは夜8時まで開館していることを大変嬉しく思っています。仕事帰りに立ち寄って、古今東西の名作を味わえる喜びがあるからです。勤務地である橫浜の郊外から東京の中心地まで出向くのはちょっと辛いですが、それでも展覧会に行けば疲れを癒やされます。おまけに金曜日は週末前で気持ちが楽になるため鑑賞はワクワク感で一杯です。今日も橫浜から東京上野の国立博物館に「日本国宝展」を見に出かけました。国立博物館に到着したのは夜7時を回っていましたが、かなり混雑していて驚きました。週末の昼間はどのくらいの鑑賞者が訪れているのでしょうか。展覧会場では人を掻き分けて名作の数々を味わいました。どんなに混んでいても周囲が気にならなくなるような感覚が生まれ、自分が作品に同化するような錯覚がありました。これは制作の時も同じような気分になる瞬間があります。素材との対話と自分は言っていますが、鑑賞でも作品との対話があると思っています。土偶や仏像を見ていると、暫し時間を忘れ、空間を忘れ、心が空っぽになって不思議な境地になるのです。視覚情報は自分の五感を揺さぶり、自分に何かを刻み込んでしまいます。感動は静かにやってきて立ち去ることがないと自分は思っています。煌く感動は忽ち失せてしまうのですが、静寂を伴う感動は繰り返し蘇り、自分の中に蓄積されていくと感じています。そんな思いがしたひと時でした。作品ごとの詳しい感想は後日に改めます。

存在論としての歴史性

「存在と時間 Ⅲ 」(マルティン・ハイデガー著 原佑・渡邊二郎訳 中央公論新社)の後半部分に「歴史性」が登場してきます。「歴史性自身は、時間性から、しかも根源的には本来的な時間性から解明されるべきであるとすれば、この課題の本質のうちには、この課題の現象学的構成という方途をたどってのみ遂行されうるということ、このことがひそんでいる。歴史性の実存論的・存在論的機構は、現存在の歴史の隠蔽的な通俗的解釈に逆らって奪取されなければならない。」という一文が示すとおり、ここで述べられているのは、あくまでも存在論における歴史性なのであって、歴史学ではないということです。歴史学における捕捉認識や歴史的叙述の概念は、学問としての客観に定位しているので、歴史性の実存論的・存在論的機構にあっては、寧ろ「邪魔物を取り払う」(文中語彙引用)ことで考察を続けられると記されています。いよいよ「存在と時間」も終盤に差し掛かってきました。存在論としての視点が解るようになり、自分は「生誕と死との間の現存在の伸び拡がりの純正な存在論的分析」(文中語彙引用)というコトバがとても気に入っています。

時間性と空間性の関係

現在読んでいる「存在と時間 Ⅲ 」(マルティン・ハイデガー著 原佑・渡邊二郎訳 中央公論新社)に時間性と空間性に関する記述があります。「たとえ『時間性』という表現が、『空間と時間』と言うときに時間として了解されているものを意味するのでないとしても、しかし空間性もまた、時間性と同様に、それ相応の現存在の根本規定性をなしているように思われる。~略~われわれが現存在と名づけるこの存在者は、並列的に、『時間的』であると『ともにまた』空間的であるとみなされざるをえないように思われる。~略~本質上頽落しつつ時間性は、現成化することのうちへと自己喪失しており、配慮的に気遣われた道具的存在者にもとづいて配視的に、おのれを了解するばかりではない。それどころか、そうした時間性は、現成化することがそうした道具的存在者のもとで現存しつつあるものとして不断に突きあたる当のものから、つまり、空間的な諸関係から、了解において一般に了解されまた解釈されうるものを分節するための諸手引きを引き出すことまでも行うのである。」長い引用になりましたが、時間性と空間性の関係を論じている箇所を選びました。現存在にとっては時間性と空間性は対峙するものではなく根本規定としては並列する要素だと述べられています。抽出した論理だけではなかなかニュアンスは伝わりませんが、両者は分け隔てることではないという考察がありました。

肌寒い夜の工房へ

仕事から帰って自宅で休みたい気持ちを抑えて、夜の工房に出かけていくのはちょっと辛いものがありますが、工房に入ってしまうと不思議な空気感に取り囲まれて、制作に没頭できることがあります。2時間程度の制作ですが、結構満足感が得られます。毎晩工房に出かけるのは体力的に無理ですが、多少でも余裕のある晩は制作に励んでいます。昨晩と今晩は工房に行きました。蛍光灯の下で陶土に触れていると気持ちが引き締まってきます。秋の肌寒さが孤独を演出して、ここで作業をしなければ情緒が不安定になるところですが、ビニールで覆ってある陶土を取り出し、制作に向かうと気分は一新して、憂いを含んだ気分は吹き飛んでしまいます。彫刻は絵画と違い、甘美なノスタルジックな世界を描くより、寧ろ寒々とした空間の中に凛と立つ作品の存在が清々しく感じられます。しかも全身の筋肉を使う作業になると、これはスポーツのようでいて、精神性を高めていく過程があったりして、なかなか手応えのある表現媒体だなぁと感じます。時々夜の工房に出かけて、張り詰めた空間で作業をするのもいいなぁと思っています。

創作に向かう意欲

週末は若い大学院生に助けられていることもあるのでしょうが、創作に向かう意欲が湧き出てきています。新作の全体構想が把握できるこの時期は、例年意欲的になっています。こんな気分になれる喜びに感謝です。毎年夏に東京銀座のギャラリーせいほうで個展を企画していただいているので、そこに向かって弛まぬ努力をしていて、休まず焦らずコツコツと制作を続けることが習慣になっています。この習慣の中で緩急があったり、休憩を取ったりしていることが、全体的に見れば生きる充実に繋がっていると思っています。健康面では、この年齢になれば抱えている病気もありますが、一病息災で作業に影響を及ぼすことも現在はなく、意欲を持続できる状態にあります。今回の新作も陶彫部品の数が多く、今年以上の作品になることがわかってきました。毎年ハードルを上げているので、こればかりは仕方のないことです。まだ追い立てられても大丈夫だろうという無意識な判断があるのでしょう。二足の草鞋生活が終わるまで残すところ2年を切りました。この創作へ向かう現時点での意欲は、定年後の次のステージに上がるための準備とも言えるのではないかと思うところです。

週末 集中の6時間

朝から工房に篭って制作三昧でした。今日は大学院生2人も来て、それぞれ制作に没頭しました。私を含めて3人が、6時間中ずっと集中力を途切れさせず制作ができたことが今日の収穫だったと思っています。朝9時過ぎから午後4時まで、昼食に少々休憩を取りましたが、それ以外は黙々と作業を続けました。一人の子は大きなパネルに細密な文様を描き、もう一人の子は布に染めを施し、私は土練りと彫り込み加飾をやっていました。最近はこのメンバーが工房の常連になっています。しかも集中力が半端ではありません。社会的促進が図られて、良好な関係が続いています。私も彼女たちに助けられて、自身に鞭を打ち、粘り強く制作に取り組めています。制作に没頭すると周囲が見えなくなり、素材との対話が始まります。まさに今日はそんな至福な時間がやってきました。6時間はあっという間に過ぎていきました。気分転換をすれば、もう少し制作は出来るかもしれないと思いましたが、今日はここで終了しました。出来るならウィークディの夜に制作したいのですが、最近夜が冷え込んできているので、無理はしないようにしたいと思います。

週末 屏風の全体構成考案

「発掘~群塔~」の屏風部分の全体構成を考える時がやってきました。今まで3点の屏風作品を作っていますが、いずれも六曲一隻です。つまり6点の板材を折り曲げて組み合わせているのですが、今回の作品は定型にはならず、7点で屏風を構成していきます。先日板材を購入してきました。成形と加飾が終わっている十数点の陶彫部品を配置した構成を考えつつ、全体としての構成を練っていきたいと思います。今回の作品は屏風だけではなく床にもステージを作ります。とりあえず屏風に接着する陶彫部品がどのくらい必要かを算出しなければなりません。予定しているのは接着する小さな塔は30体と考えていますが、それらを屏風全体に配置するとなれば、どんな感じになるのか、小さな塔の集合と拡散を考慮しつつ、全体を網羅していきたいと思います。今まで成形が終わっているものは全て床置きになるので、屏風はこれから作ることになります。屏風と床を繋ぐ陶彫部品も必要です。そんなことを考えているうち時間があっという間に過ぎてしまい、今日のところは陶彫部品が進みませんでした。陶彫部品制作は明日に持ち越しです。工房周辺は紅葉が美しくなり、創作活動にはとてもいい季節を迎えています。

12’RECORD2月分アップ

2年前に制作したRECORDの2月分をホームページにアップしました。RECORD(記録)は毎日1点ずつ作っているポストカード大の平面作品です。公務員として働いている自分が創作活動に打ち込めるのは週末のみで、そこは全て陶彫制作に費やされてしまいます。RECORDをやっているメリットは毎日創作活動に関われる喜びがあるためで、陶彫制作に向かうイメージトレーニングとしても有効と思っています。反面、RECORDは平面作品であるため、陶彫の下図ではなく完全に平面世界として扱う場合があります。寧ろその方が多いのですが、絵画的要素を取り込んだ小作品は、時に自分に楽しさを与えてくれるのです。ホームページには2007年から2012年まで62ヶ月分のRECORDをアップしています。左上にある本サイトをクリックしていただければ私のホームページに入れます。ご高覧いただければ幸いです。

ジャコメッティの陽炎

先日行った国立新美術館で開催中の「チューリヒ美術館展」は、最後の一室にA・ジャコメッティを割り当てていました。スイス生まれでパリで活躍した彫刻家は、その細長くなった不思議な人体表現で、一躍有名になりました。日本人哲学者の矢内原伊作をモデルにしたことで、日本でも知られる彫刻家の一人です。自分は作品と著作の両面からジャコメッティの世界観を捉えています。一口で言えば形態を徹底して追求した人、これがジャコメッティです。「チューリヒ美術館展」ではまとまった作品が来日していて、作家が塑造と格闘した作品群が異様な空気感を放っていました。ジャコメッティの部屋に入ると、私には彫刻が陽炎のように見えました。存在はあっても存在感のない揺れる蜃気楼、人体が数体飄々と立っている作品は、まさに夏の日の陽炎に似て不思議な情緒を醸し出していました。永遠に完成されない塑造、視ることへの追求を止めない姿勢、その途中段階で産み落とされる名作の数々、ジャコメッティの陽炎にも見える作品には秘めたる熱情があると感じています。

ココシュカを巡って…

国立新美術館で開催中の「チューリヒ美術館展」でオスカー・ココシュカの油彩画を見て、自分は若かりし頃に過ごしたウィーン時代を思い出しました。当時ココシュカは自分にとって馴染みの薄い画家であるばかりか、クリムトやシーレのように訴えかける要素が少ない画家と思っていました。それが突如として激しく自分の心情に迫ってきて、忽ちココシュカの世界に巻き込まれてしまったのでした。ウィーンの国立ギャラリーを訪ねた時の出来事で、それは知識でも思索でもなく突然やってきた嵐のような感覚でした。荒いタッチが幾重にも重なった表現、そこから何か得体の知れないモノを追求するような、また何かを抉り出すような動勢を自分は感じ取りました。その場で立ち尽くし、どのくらい時が経ったのか記憶にないくらいです。自分にとって新しい芸術表現の理解とは、こんなところから始まるのかなぁと思っています。それは時代の先端を行く表現ではなく、あくまでも自分にとって新しい価値を持つ表現のことです。時代的には過去の表現であっても、自分にとって漸く理解できた表現がココシュカだったわけです。「チューリヒ美術館展」でココシュカに出会った時は懐かしさを覚えました。ココシュカという日本では知られていない巨匠を巡って昔の自分の心が甦ってきたのです。

楽しみにしているTV番組

毎週楽しみにしているTV番組があります。TOKYO MXで日曜の夜に放映している「小室等の新音楽夜話」とBS TBSで月曜の夜に放映している「吉田類の酒場放浪記」です。自分の学生時代は和製フォークソングが流行りました。それはTVではなく主にラジオの深夜放送で流れていました。反戦や社会情勢を盛り込んだ唄があり、なかには放送禁止になった唄もありました。ギターを爪弾きながら囁いたり叫んだり、決して上手い唄ではなかったのも、あの頃の自分のお気に入りでした。ドーナツ盤のレコードを求め、嗄れた声で聞こえてくる唄に毎晩酔いしれていました。当時聴いていた唄を今も歌っている歌手が登場するのが「音楽夜話」です。懐かしいというより、ホッと安心できる番組なのです。「酒場放浪記」も場末の酒場で酒を酌み交わしながら会話するだけの番組ですが、何故か快くなってきます。忘れられつつある人情が感じられるのかもしれません。もちろん芸術分野の知識を深める番組も必ず見ていますが、肩肘張らない脱力感のある番組は、一日の終わりに見る番組としてはいいもんだなぁと思っています。

六本木の「チューリヒ美術館展」

東京六本木の国立新美術館で「チューリヒ美術館展」が開催されています。展示内容に自分は興味関心を寄せていて、多少無理をしても行きたいと考えていました。最近の美術館は金曜日は遅くまで開館していて、仕事帰りに立ち寄ることが可能なので大変嬉しく思っています。「チューリヒ美術館展」には先週金曜日の夜に行ってきました。夜7時を過ぎても鑑賞者が多く、人気の高さを窺い知ることができました。それもそのはず来日していた作品は名作ばかりで、印象派はもとより表現主義、シュルレアリスム、抽象主義等の充実したコレクションを堪能しました。スイス出身の芸術家にはそれぞれ1室が用意されていました。ホドラー、クレー、ジャコメッティは大好きな芸術家ばかりなので、自分の興奮が頂点に達してしまいました。それ以外にもモネの「睡蓮の池 夕暮れ」の大作や日本であまり知られていないココシュカの油彩画が多数ありました。個人的にはこれも日本で知られていないバルラハの木彫作品に会えて幸せでした。個々の作品の感想は後日にしたいと思います。

週末 工房ストーブ試焚き

いよいよ寒くなってきました。工房には朝から若い子たちがいて制作に励んでいましたが、今日はストーブを出して試焚きをしました。例年もう少し先延ばしをして暖房を入れていたように思います。今年は寒くなるのが早いのでしょうか。今日は陶彫部品の成形に明け暮れました。先月まで床置きの尖塔10体を作ってきましたが、いよいよ屏風に接着する陶彫制作を始めました。昨日は時間が取れなかったので、昨日の成形は1点のみ、今日は4点作って、合計5点で小さな塔の連なりを作りました。この5点に彫り込み加飾を次回行います。成形と違って彫り込み加飾には時間がかかります。ウィークディの夜に作業が出来ればいいのですが、最近は昼間の仕事が立て込んでいて、しかも夜遅くなる日もあって今週は無理かなぁと思っています。制作サイクルを確立して順序良く進めたいところです。屏風になる板材の調達も急がれます。今月は全体構成の下図と小さな塔を15本程度作れればいいのではないかと思っています。少しずつ焦りが出てきて、少しずつ無理をするようになってきました。例年の通りと言えばそれまでですが、寒さと一緒になって焦りも早く到来しているような気がしています。

週末 休日出張の日

やっと週末ですが、今日は午後から出張がありました。半日で終わる会議は、近距離の会場なので負担はそれほどありませんが、制作が出来ないのが辛いところです。管理職向けの研修はそれなりに役に立ちそうですが、やはり週末は工房にいたいと思うのが本音です。というわけで今日は朝早い時間から工房に出かけて「発掘~群塔~」の次のステージになる成形をやっていました。次のステージは屏風に接合する陶彫部品を作ることです。小さな塔が集まるエリアを作り、エリアからエリアを管状の道で繋ぐのです。これは全体構成を考えながら作る必要があります。今日と明日は屏風になる板材がまだ準備できていないので、とりあえず小さな塔を数多く作り、塔と塔を繋ぐ連結部分を考えようと思います。ここにきて漸く「発掘~群塔~」を始めるに至ったイメージが頭を擡げてきました。ちょっと楽しくなりそうな気分で、初めの陶彫部品のひとつを作ってみることにしました。数多くの塔が霧に霞む西欧の都市風景が眼に浮かんできて、その情緒を思い出しながら成形を進めました。成形は明日に継続です。もう少しやりたいなぁと思いつつ、午後の仕事に出かけました。夜はいつものように近隣の施設で水泳をやって体調を整え、明日の制作に備えることにしました。

友人から贈られたSTOLLEN

STOLLEN(シュトレン)とはクリスマス限定の菓子パンでドイツのドレスデンが発祥と言われています。ドライフルーツがどっさり入って周りを砂糖で覆ったもので、保存の効く高カロリーのパンです。実は私の大好物で、毎年シュトレンを購入して楽しんでいます。シュトレンが誕生した中世の頃はキリスト教断食期間にバターや牛乳摂取が禁じられていたので、初めの頃のシュトレンは素朴な味だったようですが、時代を経てバターや牛乳を入れ、さらにドライフルーツが加わって現在のようなシュトレンになりました。STOLLENは独語で坑道や地下道を意味し、またカタチが幼子イエスを包んだ布にも見立てられる説もあります。川崎で「マリアツェル」という菓子店を営んでいる友人から、自作のシュトレンが郵送されてきました。友人は洋菓子部門の川崎マイスターになっていて、確かに彼の作る洋菓子は絶品なのです。その友人から贈られたシュトレンの美味しさは、今まで味わったことのない素晴らしいものです。本国ドイツを凌駕するマリアツェル流シュトレンは、日本人向けにアレンジしたものかもしれませんが、嘗て自分と一緒の時期にウィーンに学んでいた友人は、決して伝統を逸脱したものを作っているわけではなく、研鑽とチャレンジによるものだと理解しています。「マリアツェル」は川崎の中野島にあります。ネットで検索してみてください。ただし、シュトレンはまだ販売していないようで、私が食べているのは試作品かもしれませんが…。

屏風と舞台

屏風表現は平面作品を折り曲げ、そこに空間としての距離を作り、単調な画面を立体的に演出するものです。この面白さは折り曲がった平面にあって、鑑賞者は絵画の奥行きを楽しむのです。狭い空間の中で広い遠近を確保するために考えられた素晴らしい表現だと私は思っています。私は屏風をそれぞれ薄箱にして半立体を接合させ、立体とも平面ともつかない表現をしています。屏風なので視点は正面に限定されていて、屏風裏は完全なる裏になっています。そういう意味で言えば平面的視点の作品とも言えます。こうした屏風表現にした半立体作品を今まで3点制作しています。現在4点目の作品を制作中ですが、今回の作品は屏風の前に舞台を設えます。舞台は床を切り取った特殊な空間で、ここに置かれる作品は完全なる立体です。そもそも舞台は演劇や広告のためにあるので、見る方の意識も非日常として捉えます。舞台表現は立体の奥行きを楽しむものです。屏風の平面性と舞台の立体性、その双方をひとつの世界にまとめてみたいというのが現在制作している作品の技巧的意図なのです。

死とは何かを考える

最近のニュースで29歳の米国人女性が、末期がんで余命半年とされ、医師が処方した薬を飲んで安楽死をしたことを知りました。彼女はネットで予告をして今月1日に命を絶ったようです。不治の病で苦しむとどんな精神状態になるのか、それは当人でなければわかりません。自分の全てが失われるとはどういうことか自分にも実感はありません。死の淵から甦った人の体験はあっても死の国からの帰還者はいないので、こればかりは誰もわからない世界です。ただ人には必ず死が訪れるので、死と向き合う機会はやってきます。自分の死をどう迎えるかは哲学書に様々な考察があります。人間だけが死に対し精神・物質両面からの準備を行うので、不慮の事故以外に突如死が訪れることはありません。人以外の動植物の死は全て突然死です。人は過去を記録し、未来を展望する知性や理性があり、死へ向かう準備としての哲学や宗教を持つために自らの死に方を考えることが出来る種族です。だからこそあらゆる思想に縋り、学問や芸術の深化があるのかもしれません。最近になって自分のやっている芸術も死生観とともに在ると考えるようになりました。終焉があるからこそ良く生きようとする意志が頭のどこかに刻ざまれているのではないかと思うことが暫しあります。刻一刻と死へ向かいつつあることを普段は忘れている自分がいるのですから…。

11月RECORD「覗き穴から凝視する宇宙」

11月のRECORDのテーマは「覗き穴から凝視する宇宙」にしました。つまり「穴」です。小さな穴から深淵を覗き込むイメージが頭を過ぎり、深淵には何かが蠢いていて、その好奇的趣味を描いていこうと思っています。今年のRECORDのテーマもあと12月を残すだけになりましたが、不気味さや不安が漂うテーマが多いように感じています。幾何抽象を用いることは、今年に限っては無いのではないかと思います。自分の心情が情状的になっているのかもしれません。何か得たいの知れない生命体を描きたいし、またそうしたグロテスクな血塊を吐き出したい欲求があるのです。ただ自分の自然に沸きあがる感情を、極端に操作しようとは思っていません。感情以上にデフォルメしたものを描いてしまうと、嘘偽りになってくるし、寧ろ戯画化したことで技巧ばかりが目立つ結果になりかねません。超幻想世界を可視化することは、自分にとって難しいことと常日頃から感じていて、あまり具象絵画に近づかないようにしているのです。描いたものが説明的になることも怖れています。そんなことを考えながら今月のテーマに取り組んでいきます。

大学の芸祭に行く

三連休の最終日は美術大学の芸術祭(芸祭)に行きました。最近工房によく来ている中国籍の大学院生がいます。彼女の案内で芸祭訪問をしました。毎年恒例になっているものですが、今回は自分の母校ではありません。母校でなくても若い世代の生々しい制作が見たくて出かけるのです。自分の創作活動の出発点は大学にあります。その気分は学校は違えど同じなのです。彫刻科では素材をコントロールして、自己イメージに近づけようとする学生の姿が、その作品から見て取れました。自分はそこで振り返りをして、自己奮起を促すのです。今日は彫刻科の他に日本画科と版画科に優れた作品がありました。いずれも具象傾向の作品で、対象に真摯に向かい合っている学生の心情が画面から迸っていました。案内してくれた彼女が所属するグラフィックデザイン科も優れていました。すぐに広告界で使えそうな作品があって感心しました。大学は校舎ごとに高低差があるため坂道が多く些か疲れました。高い丘に点在するモダンな校舎は、外見は美しく見えますが、通ってくる学生は大変だなぁと思いました。模擬店で働く学生や展覧会場で番をする学生も、いずれも穏やかな表情をしていて、それだけ学生生活が充実している状況が見て取れました。各人が納得の出来る進路選択を願わずにはいられませんでした。

叔父の追悼会

三連休の中日は、3年前に他界した叔父の追悼会があるので、制作は早朝から2時間程度になりました。この三連休は制作時間が限られていて、だからこそ制作に集中して取り組まなければならず、出来る範囲の中で制作工程を先に進めるしかありません。亡き叔父はカント哲学者でキリスト教徒、そのため仏教で言う三回忌が今回の追悼会になったわけです。久しぶりに集まった親類縁者でしたが、終始打ち解けた雰囲気の中で、お互いの状況をじっくり話し合う良い機会になりました。実は哲学者の叔父が今も健在だったなら自分は話をしたくて仕方がないのです。叔父が亡くなった後になって、漸く自分は哲学に興味が持てて、様々な哲学者が提唱する芸術について、また死生観について考えが及ぶようになりました。これについて叔父の思索を聞いてみたいし、また学問に身を捧げるようになった叔父自身の動機をも知りたいと思うようになりました。自分の初の個展に現れた叔父は、この方向でやりなさいと創作活動の向かう先を示してくれましたが、今だったら叔父の短い投げかけに食下がり、もっと叔父からコトバを引き出すことができるだろうと考えています。やっと辿り着いた哲学のスタートライン、自分にとっては残りの生涯や創作活動に核を与えてくれる学問です。二束の草鞋生活に負けまいと走り続けて、ろくに考えもせず欲求のままに作り続けた作品に対し、漸く作りながら思考する、思考しながら作り出すことがわかってきたところです。今なら叔父は私の作品に何を感じ取ってくれるでしょうか。今日の追悼会であまりにも身近だった哲学者の存在を感じずにはいられませんでした。

11月初めの三連休

11月になりました。昨夜から今朝にかけて職員旅行で箱根湯本に行っていました。1年に1回は職場でバスを仕立てて一泊旅行に出かけます。昨年とは立場が違うので、少しばかり気疲れもしましたが、普段職員がどんな思いをもって仕事をしているのか、昨晩は皆が多少酔っていても、きちんと話を聞くことが出来て良かったと思いました。この職場を束ねているのは自分なんだと改めて考えつつ、感情の機微が交差する場面もあり、ともあれ全員が気持ちよく仕事ができるように今後も頑張っていきたいと思います。さて、11月になって三連休の初日です。職員旅行では自分だけ早めに旅館を出て電車で帰宅しました。理由は菩提寺が行う晋山式の招待状が舞い込んでいて、午前中の式に出席をしようと決めていたのです。2年前親しくさせていただいた住職が急逝し、現在まで若い住職が代理をしていましたが、今日その住職が三十三世心譽隆文上人となりました。加えて400年慶讃法要も行いました。稚児行列もありました。滅多にない菩提寺の行事なので、自分としては参加して良かったと思いました。午後は少しでも陶彫制作をしようと思っていましたが、疲れが出て工房には行けず、自宅で休んでいました。夜は近隣のスポーツ施設に行って水泳をしてきました。ようやく身体が回復したように思えます。明日の制作は朝のうちになりますが、頑張っていきたいと思います。

10月の制作状況を振り返る

今日で10月が終わります。時が経つのは早いもので、例年ではそろそろ窯入れを始めている時期になります。今月の制作状況ですが、まず鑑賞ではエネルギッシュだった9月を上回ることが出来ませんでした。今月は展覧会は3つ、演劇は1つという状況でしたが、内容としては面白かったと思っています。前衛芸術家ヨーゼフ・ボイスの展覧会や彫刻家ジャコメッティを題材にした革新的な演劇を見ることができたことが強く印象に残っています。肝心な制作は10体の尖塔の彫り込み加飾までの完成がありましたが、塔の大変な下部は9月に作っていて、今月は仕事量的には楽な上部だったので、やはり9月を超える制作には至らず、万事が緩んでいたのかなぁと思います。ただ今月のペースが通常なのかもしれず、週末やウィークディの夜に結構制作をしていることがあったので、一概に緩慢だったとは言い切れません。とりわけ今月は2人の大学院生の活気溢れる制作が週末の工房であり、自分は追い打ちをかけられているように感じました。怠け心を彼女たちに無言で叱咤されているような気配があったことで、自分の中では決して緩慢と思えない制作状況だったのではないかと振り返っています。ともあれ来月も頑張っていこうと思います。

「おいしいアート」の楽しさ満喫

横須賀美術館で開催している「おいしいアート展」を見てきました。カスヤの森現代美術館に行った折、同伴した若いアーティストがスマートフォンで検索し、近くの美術館で不思議なタイトルの美術展をやっていると教えてくれたので、急遽横須賀美術館に向かったのでした。「おいしいアート展」は文字通り食事や食材を扱った古今東西の名作を集めたもので、学芸員による企画が決め手の展覧会だと理解しました。「食べる」ことは私たちにとって欠くことの出来ない行為であり、それを表現した作品は数多くあるということは、誰もが知っています。現代のコーナーではオブジェやスーパーリアリスムや図解的な作品が展示されていましたが、個人的趣向として駒井哲郎の瀟洒な銅版画や藤田嗣治の動物が登場する宴会シーンを描いた作品が面白いと感じました。「食べる」というテーマはまだまだ展開の余地はあるでしょうし、楽しさも倍増しそうです。今後のユニークなテーマに期待したいと思います。