「存在と時間」第一篇の読後感
2014年 10月 10日 金曜日
「存在と時間 」(マルティン・ハイデガー著 原佑・渡邊二郎訳 中央公論新社)は、おそらく出版編集上の都合で「Ⅰ」「Ⅱ」「Ⅲ」という3冊になっていると察しますが、内容は序論と全体を通して第1部しかありません。第1部に続く第2部がないので、以前のNOTE(ブログ)に既述した通り、これは未完の大作なのではないかと推察する所以です。第1部は第一篇と第二篇に分かれていて、第一篇は「現存在の予備的な基礎的分析」になっています。今日この第一篇を読み終えました。簡単に言えば「存在と時間」の「存在」にあたる考察が第一篇に書かれていました。第一篇の最後に真理概念の存在論的分析があって、ここまでで漸く現存在に関わるあらゆる分析を一応終えたことになります。一応としたのは今後も既論に対し、さらに深い洞察を伴った肉付けがされる場合があるからです。注目した箇所を引用します。「公共性の居心地のよさのうちへと頽落しつつ逃避することは、居心地のわるさ、言いかえれば、不気味さに直面してそこから逃避すること~以下略~」というのは、私たちは周囲に気遣い、好奇心や噂話に左右されがちで、日常的に自己喪失していると言えます。それは現存在が不安に直面した世界内存在の赤裸々な存在からの逃避だと言うのです。「現存在の存在は、『世界内部的に出会われる存在者』のもとでの存在として、おのれに先んじて『世界』の内ですでに存在している、ということを意味する。」これは存在の了解的企投、被投的現事実性、非本来的頽落からなる現存在の存在は気遣いという構造にあり、現存在は等根源的に真理と非真理との内で存在している、というこんな意味です。この解説に本文中に頻出している語彙を、難解であることは百も承知で使わせていただきました。まとめにはなりませんが、「存在」を多方面から漏れなく論じ上げた粘り強い分析に驚嘆を隠せません。