2019個展の批評より

(株)ビジョン企画出版社から発行されている「美じょん新報」は月々の展覧会情報が掲載されていますが、「評壇」欄では美術評論家瀧悌三氏による、端的で歯に衣着せぬ展覧会批評があって、私は常々参考にしています。瀧悌三氏は個展初日に来廊され、お会いすることが出来ました。「発掘~双景~」の前で、制作上の難しかった点などを、私の方から遠慮なく申し上げさせていただきました。私は古代出土品のような装いになる陶土を作り上げることに何年も費やし、それでも焼成によって壊れてしまうことも多々あると正直なことを言わせていただきました。その話を受けて簡潔に書いたいただいた評を掲載いたします。「遺石出土品に擬した陶彫オブジェ。大作は管状のもので繋いだ等身大の塔2体。中品は台状の物体、小品は帯文付けた方形立体。茶褐色の古色を出すのが難しい由。」簡単な文章ですが、きゅっとまとまった文章で表現していただいて感謝申し上げます。「旧盆長期休暇期間は催事閉散だが、前後、結構ある。~略~日本画、彫刻も活発。量は通常の一月分を優に越す。」と「評壇」欄の前置きにこのような文章がありましたが、私の個展も旧盆長期休暇期間の前に当たり、活発な状況を助けているのかもしれません。毎年この時期にギャラリーせいほうを会場に個展をしておりますが、来年のこの時期は東京オリンピック・パラリンピック開会式に当たります。その頃の銀座の街はどうなっているのでしょうか。搬入・搬出は滞りなく出来るのでしょうか。ちょっと心配をしておりますが、もう私自身は来年に向けて新作を作っている最中です。今日は2回の三連休に挟まれたウィークディですので、次の三連休に向けて気合を込めているところです。

モディリアーニとブランクーシ

「モディリアーニ 夢を守りつづけたボヘミアン」(ジューン・ローズ著 宮下規久朗・橋本啓子訳 西村書店)の第3章「パリでの苛立ち」の続きをまとめます。この章ではモディリアーニらしい絵画表現に辿り着く重要なポイントがあり、さらに彫刻家ブランクーシとの関係が述べられているので、敢えてNOTE(ブログ)に取り上げました。私は彫刻家としてブランクーシの形態の本質に迫る簡潔性を信奉しています。若い頃、私はルーマニアを旅して、農村に残る建築柱の木彫に注目したのも少なからずルーマニア出身のブランクーシのことが頭にあったのでした。モディリアーニの世界にも共通する要素を認めるのですが、ブランクーシは生活や精神の在り方が彼と異なっていて、そこにモディリアーニは魅力を感じていたようです。まず、モディリアーニが自己表現を探り当てた箇所を引用します。「伝説によると、モディリアーニは麻薬で皆が躁状態になっているパーティーで紙と鉛筆をひっつかむと熱に浮かされたように描き始め、『ついに正しい道を見つけたぞ』と叫んだ。描き終えると、彼は白鳥のように長い首をした女性の頭部のスケッチを見せびらかしたという。」次はモディリアーニが未練のあった彫刻制作のエピソードを拾ってみます。「パリの地下鉄は拡張工事をしており、~略~モディは開け放たれた倉庫にオーク材の枕木が保管されているのを発見した。~略~夜遅く地下鉄の駅の柵を乗り越えると数本の枕木を盗んだ。」というわけで、モディリアーニの彫刻に枕木と同じ寸法の木彫作品があるそうです。さらにブランクーシのことを記した文章を引用します。「気持ちのうえでは彼は彫刻家になる決意をいまだ捨てておらず、ポール・アレクサンドルに頼んでルーマニアの彫刻家コンスタンチン・ブランクーシを紹介してもらった。ブランクーシは完全性と洗練された簡潔性をその芸術と生き方において達成した芸術家であり、それはモディリアーニにとって大きな魅力であった。彼はさまざまな形態、ヌードや飛んでいる鳥や接吻している男女などをその本質まで還元した。彼の作品の評判を聞いたロダンは助手として彼を雇おうとしたが、ブランクーシは『大樹の下には何ものも育たない』といって断ったという。青い仕事着に木靴をはき、がっしりした髭面の彼は、自己完結した世界をアトリエに作っていた。家具も自分で作っており、客はくぼんだ丸太に座らされ、食事は自作の石のかまどで自分で作った。またサロン・ドートンヌにその作品が展示されたことがあっても、美術界の派閥や陰謀には頑として近づかなかった。哲学的で神秘的な気質と正直で暖かい人柄を持つブランクーシは、ちゃらちゃらして気取ったモンマントルの人間に比べて、思慮深く頼りがいのある人物であり、モディリアーニを強く引きつけた。モディリアーニは何ら正式な彫刻の教育を受けていないために、ブランクーシが彼に力を貸し、勇気づけたのは確かである。」モディリアーニに限らず、私もそんなブランクーシにずっと魅せられています。

三連休 前半の成果

今月、三連休が2回あります。今回の三連休は2回のうち前半に当たります。前半の成果は第2ステーションの陶彫部品を4個制作したことです。まだ彫り込み加飾が出来ていませんが、何とか4個の成形を立ち上げることが出来ました。第2ステーションは残り6個で、今月中の完成は無理があるかなぁと思っています。今日も昨日に続き、朝7時に工房に出向きました。早朝の制作は意外にも集中して行うことが出来ることを発見しました。私は朝が強いのかもしれません。ウィークディの公務員の仕事も午前中に仕事の大半を終える仕事ではないかと思っているところがあって、長い間に自分の体質が変わり、朝に強くなっていたのかもしれません。学生時代は朝が苦手で、眠い目を擦りながら学校に行っていました。社会人になって自分は変わったのだろうと思っています。その分、夜更かしは出来なくなりました。日照とともに起きて仕事をして、日没とともに床につくという始原的生活が自分には合っていると思うようになりました。私は度々NOTE(ブログ)に書いてきましたが、規則的な生活を好みます。ウィークディの仕事は勤務時間が決まっているので、私には向いているのではないかと思うのですが、週末の創作活動も自分で時間を決めてやっています。今読書中のエコール・ド・パリの画家モディリアーニのような生活をすることは、私には到底出来ません。気分が乗れば何時間でも制作をして、気分が乗らなければ何もしないという生活は、あるいは芸術家気質を物語っているのかもしれませんが、私は公務員の気質を持った芸術家だと自分で吹聴しています。これは彫刻家であっても芸術家ではないのかもしれませんが、気分をコントロールして創作活動に打ち込んでいるのです。今日は夕方になって若いスタッフと話し込んでしまいましたが、たまにはそういうこともあるかなぁと思って容認しました。また、次の後半の三連休で頑張りたいと思っています。

三連休 地道な頑張り

今日は朝7時から工房に行きました。朝の涼しいうちに少しでも陶彫制作を進めたいと思ったからですが、40キロの土練りを行い、明日の成形準備になるタタラを数枚用意しました。陶土を掌で叩いて座布団大のタタラを複数枚作っていると、涼しい朝にも関わらず汗が噴出してきました。昨日作業していた彫り込み加飾の続きを行なっているうちに、若いスタッフがやってきました。スタッフは現在高校生で、美大受験を視野に入れて基礎デッサンをやっているのです。一日7時間も工房でデッサンが出来るのは、彼女は美術の専門家になる資質はあるのだろうと思っています。私は昼ごろ工房を空けて、近隣のスポーツ施設に水泳をやりに行ってきました。年齢を気にしているわけではなく、定期的にスポーツをしなければならないなぁと常々感じていて、創作活動を末永く続けるために体力を保持したいと考えているのです。退職したら私はスポーツ三昧になる可能性もあるのですが、あくまでも創作活動のためにスポーツをやっているんだと自分に言い聞かせています。今日は夕方4時まで陶彫制作をやっていました。現在は第2ステーションの陶彫部品が2個出来たところです。第2ステーションは残り8個が必要です。今月これが終わるかどうか分かりませんが、明日は2個の成形を計画しています。秋風が立てばウィークディの夜に工房通いも出来ます。制作工程では、今は地道な作業で、螺旋階段を一段ずつ登っているようなものです。詩人黒田三郎の詩に、手にランプをぶら下げながら坦々と螺旋階段を登っていく詩があります。登った先に水平線が見えるはずだと綴ってありましたが、私の気持ちは今まさに螺旋階段を登っている心境です。デッサンをやりに工房に来ている彼女は、まだ螺旋階段の入り口にも到着していません。これから大変だよと昼食を頬張りながら彼女と話をしました。自分が好きな道ならば多少の苦労も厭わないとでもいうように瞳がキラキラしていました。

三連休 母の通院&陶彫加飾

三連休の初日です。今日は介護施設に入居している母の通院に家内と付き合いました。施設から病院まで車椅子を押していくのが私の役目で、検査は家内が付き添ってくれました。とくに母には異常がなかったので安心しましたが、90代の母は何があってもおかしくないと思っているのです。母は食欲はあるし、会話も問題なく出来るので、当分大丈夫かなぁと感じますが、部屋にいても車椅子に乗っている最中でも眠っていることが多く、この歳になれば人間はそうなるのかもしれないと思った次第です。私自身はこの歳まで生きていられるのか、生きていられれば創作意欲はどうなっているのか、葛飾北斎のようにさらに高みを目指すようでありたいと、私は願ってやみません。母の付き添いの後、工房に出かけ、成形が終わった陶彫部品に彫り込み加飾を施していましたが、この制作姿勢をいつまでも保ちたいと思いつつ、陶土に向かい合っていました。凌ぎ易い気温になったおかげで、集中力が増し、あっという間に夕方5時を回っていました。本来なら土曜日はウィークディの疲れが残り、なかなか作業が進まないところですが、母を見るにつけ、残された人生を感じ取り、夏の暑さも一段落したことも相俟って、陶彫制作に気持ちが入ってしまい、久しぶりに前後の見境なく集中した状態になりました。今夏は一心不乱に創作に打ち込んだ記憶がないため、6月個展用撮影前の状態に心が戻った気がしました。創作活動はこうでなくっちゃいけないと思いながら自宅に帰ってきました。三連休初日はいいスタートを切れたのではないかと思います。明日から若いスタッフもやってくるので、一日1回は集中状態が作れれば幸いと思っています。

「モディリアーニ」第3章のまとめ

「モディリアーニ 夢を守りつづけたボヘミアン」(ジューン・ローズ著 宮下規久朗・橋本啓子訳 西村書店)の第3章「パリでの苛立ち」のまとめを行います。冒頭の文章に「アメデオはパリに着いたとき、21歳とはいえ、まだ経済的にも精神的にも母に頼っている少年であった。」とありました。ここから親の保護下で裕福に過ごした時代と別離し、次第に荒廃した生活になっていくモディリアーニの状況を、パリの芸術運動と絡ませて述べている箇所を引用いたします。「彼がパリに着いた1906年初頭は、芸術は空前の興奮状態にあった。世界中からやってきた若い画家たち、ピカソ、マチス、ブラックといった俊英がこの街に集まり、印象派や後期印象派のめざましい成果に引かれ、あるいは反発した。~略~ピカソとその追随者に先導された前衛芸術は、モディリアーニが絶賛していたアール・ヌーヴォーや後期印象派を嘲笑した。」次にモディリアーニの生活について述べている箇所を拾っていきます。「モディリアーニは高級ホテルに長く滞在する余裕はなかった。ピカソの助言がなくとも、どのみち彼はつい最近までロートレックが通いつめていたモンマントルの歓楽街にたどり着き、その周辺のサーカス小屋をのぞいたであろう。~略~浮浪者、乞食、数人の芸術家はマキ地区に掘っ建て小屋やバラックを建てており、つい最近まで街を闊歩する上品な男であったモディリアーニは、ここで波打つトタン板を葺いた無人の木造小屋を見つけ、掃除し、修繕して、パリにおける彼の最初の住居として整備した。~略~一般の人の理解する日常生活や日課というものは、モディリアーニにとってはほとんど不可解であった。彼にはまったく仕事をしない日というものがあり、そんな日にはカフェからカフェへと流れ歩くか、友人たちを訪ねるのであった。~略~彼はしばらくの間『バトー・ラヴォワール(洗濯船)』に住んだ。これはラヴィニャン広場にある木造アパートで、風が吹くとセーヌ川の洗濯婦の船のようにきしむところからこの名で呼ばれた。ゴーギャンの時代以来、芸術家たちは小部屋が集まったアトリエを借りるようになった。建物は老朽化しており、暖房も水も電気もないので、彼らはランプや蝋燭の光で仕事をしなければならなかった。訪問客の大半は広い部屋に住んでいるピカソに会いにきた。」モディリアーニの生活ぶりが伺える箇所ですが、こんな底辺の生活の中から彼の表現の方向性が示されてきます。そこは別稿でまとめたいと思います。

応挙の絶筆「保津川図」について

東京芸術大学美術館で開催されている「円山応挙から近代京都画壇へ」展は、応挙の写実性に富んだ画風から展開した軽妙洒脱な呉春や、近代京都画壇を彩った様々な画家の代表作品が展示されていて、ひとつひとつに深みのある世界があって大変見応えのある内容になっていました。私にとって馴染みがあるのは長澤芦雪、川合玉堂、竹内栖鳳、上村松園くらいでしたが、まだまだ力のある画家が他にも控えていて、思わず足を止めてじっくり見入ってしまいました。全作品を回覧して印象的だったのはやはり円山応挙で、絶筆作品として知られる大作「保津川図」でした。ただし、応挙の故郷である亀岡から流れる川が保津川であるため、この作品は保津川を描いたものだろうと推定されるだけで確証はないようです。その対象がどうであれ、私は切り立った岩の間を飛沫を立てながら流れる川の動きに快さを感じていました。岩と水のコントラストを形成する墨色が美しく、岩肌に翻弄されながら渦を巻く川の流れに、隅々までコントロールされたリズムを感じ取っていました。迸る水に目がいきがちですが、ふと見ると鮎の姿が何気なく描かれていて、実は細かい部分まで計算されて丁寧に処理されているのが分かりました。何というデッサン力だろうと惚れ惚れしていましたが、解説によると「保津川図」は応挙が亡くなる1ヶ月前に描いたとのこと、それが本当だとすればこの力強さはどこからくるものか、私には到底理解できるものではありません。絶筆作品は芸術家として生涯を全うした人には必ず存在するもので、その人らしさを物語っていると私は常々感じています。彼方へ消えてしまいそうな作品もあれば、「保津川図」のような力の篭った大作もあります。その人の置かれた健康状態や精神状況にもよるものかもしれませんが、展覧会に絶筆作品が展示されていると、思わず足を止めて見てしまうのは私だけではないでしょう。「お疲れさまでした。」と私は作品を見て呟いてしまいますが、私自身はまだ絶筆作品のイメージが持てません。創作活動をやっていると10年、20年はあっという間に過ぎ去って、私もいつかこれが最後かもしれないと思える彫刻を作るのでしょうか。制作中にその意識があるものなのでしょうか。現在の私には見当がつきません。ただ眼の前にある「保津川図」が絶筆作品ならば、円山応挙という画家はとんでもない力量を持っていたと改めて認識するしかないと思いました。

上野の「円山応挙から近代京都画壇へ」展

先日、東京上野にある東京芸術大学美術館で開催されている「円山応挙から近代京都画壇へ」展に行ってきました。隣にある大学の大学祭(芸祭)があったせいか大変混雑していましたが、前から見たいと思っていた大乗寺にある有名な屏風はしっかり堪能することが出来ました。私は20代の頃は西洋彫刻しか視野に入らなかったので、日本美術を扱った展覧会にはほとんど足を運びませんでした。それでも応挙の世界は知っていて、応挙が描く動植物の写生は目を凝らして見た記憶があります。応挙の絵画は、狩野派や土佐派にある様式的な絵画ではなく、まさに西洋の科学的な形態を踏まえた描写に近かったので、興味関心が湧いたのではないかと述懐しています。本展では応挙と呉春、さらにその流れを汲む画家を網羅していて、円山・四条派と呼ばれる系譜を知ることが出来ました。図録には応挙と呉春の特徴を述べた箇所がありました。まず応挙。「応挙は絵画一筋の画家であったと筆者は考えている。作家には様々なタイプがある。普段は制作とは関係なく好奇心のままに過ごし、その経験を活かして着想を得る者もいれば、常に作品と向き合い、作品との対話の中から新たな展開を見出す者もいる。~略~応挙の場合は、写生したものを活かしていかに画面を作り上げるかということを、観る人の視点を考慮しながら綿密に考え尽くす必要があり、おそらく旅に出ている時間がなかったと想像される。」次に呉春。「呉春は蕪村に学んだことで、画技の基礎として俳画や文人画を培っており、応挙の写生の精神を学んだ後も画風が全く応挙風になるということはなく、叙情性のある独自の画風を生み出した。」(引用は全て平井啓修著)今回の企画展で私は応挙のリアルな世界ではなく、呉春の軽妙洒脱な世界を楽しむことも出来ました。呉春は四条派を形成していきますが、門弟たちが京都の四条に住んでいたことからこの名称になったようです。それぞれの絵画世界については別稿を起こしたいと思っています。

上野の「奈良大和四寺のみほとけ」展

先日、東京上野にある東京国立博物館本館で開催している「奈良大和四寺のみほとけ」展に行ってきました。奈良県にある岡寺、室生寺、長谷寺、安倍文珠院の4つの寺は、古刹の寺として一度は訪れてみたい場所です。その寺から仏像や文書が出品されていると知って、東京国立博物館にやってきたのでした。その日は六本木や銀座を歩き回って疲れていましたが、仏像の静かな佇まいに触れると不思議な安らぎに満たされて、暫し疲れを忘れました。図録からの文章を引用いたします。「このヤマトとその南の飛鳥が、八世紀初頭の平城京遷都まで、古代政治の舞台となった。ここに、安倍文珠院、岡寺、長谷寺と、その少し東に室生寺が所在する。いずれも創建は、七世紀から八世紀にさかのぼり、仏教が伝来して以降、受容発展した日本仏教の足跡を今に伝える古刹がある。」この4つの寺のうち成立が最も古いのは安倍文珠院で、本展には文珠菩薩像内納入品という文書が出品されていました。岡寺から出品されていた義淵僧正坐像を、私は肖像彫刻として写実性に注目しつつ、僧正の風貌が大変面白いと感じていました。図録には「行基はじめ多くの弟子を育てた高僧義淵が、天智天皇から寺地を賜って龍蓋寺とした。」とあって、これが岡寺の発祥と思われます。長谷寺からは小さめの十一面観音菩薩立像が出品されていました。深さを湛えた良い菩薩立像だなぁと思いました。長谷寺には十一面観音菩薩立像の巨大な本尊があり、このエピソードが図録にありました。「この聖なる像は、ある霊木から造られた伝承をもつ。すなわちその昔、近江国から流出した巨木が、漂着した各地で災いを起こしながら、やがて当地にたどり着いたという。この祟りをなす霊木を御衣木として造られたのが本像だった。」最後に室生寺の釈迦如来坐像の佇まいに触れます。一木彫像の真骨頂と図録にありましたが、着衣に見られる襞の美しさに、私は一木の彫り跡の巧みさを見取りました。室生寺は山林修行の場でもあったらしく、図録にはこんな文章がありました。「当時、政治との癒着がすすんだ奈良時代の仏教の在り方を反省し、その反動として戒律を保ち、山林修行を通して聖なる力を得た浄行僧が尊ばれた。こうした新しい風潮のなか、都から遠く離れた、独特な地形をもつ室生の地が修行の場として見出されたのだろう。」(引用は全て皿井舞著)こうした仏像は寺を巡って訪ね歩くのがいいと思いますが、博物館の計算された照明の中で鑑賞するのもまた格別で、宗教を離れた芸術作品としての価値が際立つと私は考えています。

最大級の台風が夜半に通過

今日の明け方は自宅全体を揺らす暴風と横殴りの雨によって目が覚めました。と言うより夜半過ぎから風と雨の音がうるさくて眠りが浅くなり、頭の中でぼんやりと我が家は大丈夫かと思いを巡らせていました。私の自宅は横浜市の郊外にあり、近隣は雑木林が残る地帯で、横浜の都会的なイメージとかけ離れたところにあります。小高い丘に建っている一戸建てですが、周囲の風景は展望が開けて美しいと思う反面、風の力を真正面に受ける嫌いがあって、暴風の時は窓のシャッターを閉めていないと危険と思えるほど大変な環境なのです。自宅から農道を5分程度歩くと工房があり、そこも風が強く当たるところにあります。工房は窓を開けておくと爽やかな風が入ってくる良さがあって、季節によっては居心地の良い場所です。明け方、関東地方を襲った台風15号は最大級の規模だったようで、鉄道の運休が相次いで発表され、私は自家用車で職場に向いましたが、あちらこちらで渋滞していました。私の職場では通常の仕事は停止し、会議を前倒しして行ないました。台風一過で今日は気温が上昇し、蒸し暑くなりました。日本に住んでいる以上、災害に備えていかなくてはならず、明け方の台風はもとより地震も身近な自然現象です。防災をどうするか、ことあるごとに考えてしまいます。災害は過ぎ去った後も現場復旧に時間がかかります。私の自宅の近隣に住む人々も道に落ちた枝や葉をせっせと掃除していました。日本人は勤勉だなぁと思うところです。

週末 第2ステーション制作

新作の陶彫作品は、屏風と床の双方を使って表現するもので、そこに陶彫部品が数多く設置される集合彫刻です。先月から床置きになる陶彫部品を作っていて、蒲鉾型の部品を連結させて網のように床を這っていくイメージを私は持っています。その這っていく根茎のような部品の中に、中心となる集合体が2箇所あります。それを私はステーションと呼ぶことにしました。一つ目の第1ステーションは4個の陶彫部品で構成しています。既に4個とも成形と彫り込み加飾を終えて、乾燥を待っている最中です。先日から第2ステーションを作り始めていますが、第2ステーションは10個の陶彫部品で構成する予定です。第1ステーションよりやや低めに設定しており、部品のサイズも小さめです。今日は朝から工房に篭り、第2ステーションの2個目の陶彫部品の成形を行いました。成形は陶土を立体にしていくので、私にとって最高に楽しい作業で無我夢中になって取り組んでしまう工程ですが、迫り来る台風の影響なのか今日は湿度が高く、いつもより汗が噴出してきました。シャツと頭に巻いた手ぬぐいを2回替え、それでも滴る汗を止めることが出来ませんでした。今日は朝から若いスタッフが2人来ていて、それぞれの課題に取り組んでいましたが、各人の体調を考えて昼ごろには近隣にあるファミリーレストランに涼を取りに行きました。9月に入ってもこの暑さには辟易しています。陶土の乾燥が早いため表面があっという間に硬くなり、彫り込み加飾がやり難くなります。加飾が終わらなければ、濡らした布を作品にかけて、さらにビニールで包まないと、次の週末までいい具合に陶土を保つことが出来ません。他の素材に比べると陶彫制作は陶土の管理が大変です。制作工程の最後に焼成があるため、陶土の乾燥具合を常にコントロールしなければならないのです。木彫や石彫を扱う作家は多いのに陶彫を扱う作家が少ないのは、こうした陶土の管理に問題があるのではないかと思うところです。ただし、最後に窯に入れて上手く焼きあがった時の喜びは格別で、陶彫は鎧を身につけた戦士のようになって私の手許に戻ってくるのです。それが味わいたくて、面倒な工程を粛々とやっているようなものです。今日は夕方4時に工房を後にして、スタッフを車で送りました。秋の涼しさが待ち遠しいこの頃です。

週末 六本木・銀座・上野を渡り歩く

今日は東京の博物館、美術館、画廊を回ろうと決めていました。後輩の彫刻家が二科展出品、同僚の画家がグループ展参加、その他見たい展覧会があって、二科展とグループ展の日程が合うのが今日しかなかったのでした。とは言え陶彫制作をしないわけにもいかず、朝8時に工房に出かけました。明日の成形準備のために大き目のタタラを4枚、陶土を掌で叩いて作りました。9時過ぎに自宅に戻り、汗になったシャツを着替えて、東京に出かけました。まず向ったのは六本木の国立新美術館。ここで二科展が開催されていて、私は後輩の彫刻家から招待状を頂いていました。彼の作品は合板を重ねた積層を利用した立体作品で、今年の新作は2m以上もある直方体を基本としていましたが、寧ろ曲面で構成された多面体と言える流動感のある柱でした。極めて彫刻的な造形で、シンプルにして豊かな空間を創出していました。昨年までの彼は工芸的な要素が目立つ作品を作っていましたが、今年は吹っ切れたような立体になっていて、彫刻として訴えてくるものがありました。今後の彼の活躍に期待したいと思っています。次に向ったのは銀座です。日本美術家連盟画廊で開催されていたグループ展に、私と同じ二足の草鞋生活を送る同僚が絵画を出品していました。青と白を使った抽象絵画ですが、描写行為のない平面作品は、絵画と言うより平面を媒体にした空間作品と、私は思っていました。とりわけ新作は絵の具を垂らしたり、滴らせたりしていて、彼は何か別の方向を探っているようでした。昨年まで次第に簡潔になっていく画面を見ていて、この先はどうなってしまうのだろうと思っていましたが、模索を繰り返すうちに、彼は新しい世界を開拓したのかなぁと感じました。次に向ったのは上野でした。全て地下鉄銀座線の途中下車の旅で、最後の上野に到着した時はクタクタに疲れていました。まず東京国立博物館本館へ。先日は平成館の「三国志」展を見たばかりでしたが、再びトーハクに戻って来ました。今日見たのは「奈良大和四寺のみほとけ」展。日本の仏像に接するのは久しぶりで、7月に見た魂漲る石川雲蝶の木彫群とも異なる世界は、奈良時代や鎌倉時代に奉納安置された仏像ゆえに、静かな佇まいが空間を支配していました。「奈良大和四寺のみほとけ」展に関しては後日改めて詳しい感想を書きたいと思います。最後に訪れた東京芸術大学美術館の「円山応挙から近代京都画壇へ」展は、かなり混雑していました。というのは芸大が大学祭(芸祭)をやっている最中で、模擬店やら出し物を見にくる人の往来が激しく、その影響もあったのかもしれません。日本画家円山応挙は写実に長けた人で、その流れを汲む画家も、それぞれが確かな描写力があって、西洋技法が日本画に巧みに取り入れられているところが面白いと感じました。「円山応挙から近代京都画壇へ」展も詳しい感想は後日に改めます。今日のNOTE(ブログ)のタイトルを普通に東京の展覧会巡りにしようと思っていたのですが、展覧会の場所がアートが集まる三大地域ということもあって、敢えてこのタイトルにしました。

「モディリアーニ」第2章のまとめ

「モディリアーニ 夢を守りつづけたボヘミアン」(ジューン・ローズ著 宮下規久朗・橋本啓子訳 西村書店)の第2章「旅からの霊感」のまとめを行ないます。第1章でモディリアーニは、スペイン系ユダヤ人としてイタリアの裕福な家庭に生まれたこと、病弱で生死の境を彷徨い、その都度母親のエウジェニアの献身的な看病を受けたこと、その折に読書や夢想に耽って芸術家としての下地が作られたこと等、モディリアーニの幼少期から少年期に到る生育歴が綴られていました。第2章ではイタリア各地を旅するモディリアーニが描かれていますが、まだ母親の保護下にあって、着実に画家への道を歩み始めていたのはよく分かりました。私が注目したところはモディリアーニが画家になる前に彫刻家を志していたことがあって、その箇所も引用したいと思います。まずは前章の確認のような文章を引用します。「エウジェニアは彼を甘やかし、不安定きわまりない将来に生きる望みを抱かせようとした。彼女は彼が健康になってくれさえすればよかったのである。~略~エウジェニアが驚いたのは、彼は普段移り気で落ち着きがない子だったのに、ギリシャやローマの美しい彫像に感嘆しながら何時間でもじっと立ち尽くすことであった。」モディリアーニはオーストリアに登山に行く予定もあったようですが、結局都市から離れることはありませんでした。「生涯を通じて彼に最良の作品を生む霊感を与えたのは都市の喧騒であった。彼は健康と自信を回復するにつれ、芸術家として感性と、療養による制約やエウジェニアの息苦しいほどの献身的態度との相剋が明瞭になってきた。」ここで彫刻制作についての文章がありました。「彼は暑い夏にリヴォルノに帰り、彫刻家になるという野望を大胆にも実行に移そうと努力をした。~略~彼は有名な大理石の石切り場カラーラから5マイル下がったところにある小さな美しい街ピエトラサンタに宿をとり、三点の素朴な彫刻、二点は頭部で一点は胴体、を制作した。~略~石のほこりは彼の喉を害して咳をさせ、また制作はきつくて退屈であったが、こうした人生の早い時期にのみと槌を使って制作したために、モディリアーニは素材を尊重し、石を用いる芸術家だけでなく職人にも敬意を抱くようになったのである。」モディリアーニの数少ない彫刻は私に感動を齎せてくれました。アフリカの民族彫刻に見られるようなプリミティヴな力が宿っていると感じたからです。パリに旅立つ前のモディリアーニの外見を描いた一文がありました。第3章に入る前にこれを引用いたします。「(画家兼文筆家)ソッフィーナはモディリアーニの『優美な容貌と優雅な外見』に感銘を受け、少ししか食べず、ワインを水で割り、『偉大なる平静心』を持つ優しく行儀のよい少年としてこの画家を記憶している。後半生のモディリアーニは、苦悩に満ち、取り乱した男として登場するが、これは初期の彼は穏やかで落ち着いた若者というイメージと興味深い対照をなしている。」

「モディリアーニ」第1章のまとめ

先月の終わりから「モディリアーニ 夢を守りつづけたボヘミアン」(ジューン・ローズ著 宮下規久朗・橋本啓子訳 西村書店)を読み始めています。第1章は「家族の絆」というタイトルがつけられていて、モディリアーニの生誕から美術への道に進むようになった契機や青年時代の印象が書かれていました。文中からモディリアーニの成育環境を調べていきます。「彼の両親は二人とも、古い家系のスペイン系ユダヤ人であった。彼がパリで会うことになるマルク・シャガールやシャイム・スーティンはともにユダヤ人で東欧の窮迫化した寒村の出身だが、彼らと違ってモディリアーニはゲットーの生活と無縁であった。彼が生まれたのは特権的な家であり、彼はイタリアでは反ユダヤ主義に接したことはなかった。」さらに両親の結婚について触れた部分を書き出します。「1872年1月エウジェニア・ガルシンとフラミーニオ・モディリアーニはリヴォルノの中心にある壮麗なバロック様式の教会で結婚し、エウジェニアは後にすべての子供たちが生まれることになるローマ通りにある広いヴィラ(別荘)の一部に移り住んだ。~略~アメデオ・クレメンテ・モディリアーニは1884年7月12日に生まれた。アメデオという名前は『神に愛された者』という意味だが、この赤子は最悪の時期にかろうじて生まれてきたのであった。~略~エウジェニアは金策に奔走していた。それというのも、いつしかモディリアーニ家の商売は経営が傾き、1884年には国中が不況となり、モディリアーニ家は破産した。」モディリアーニは学齢期を迎え、病弱な体質ゆえに母エウジェニアの手を煩わすことが頻繁にありました。「彼はほとんどこの世離れした美しい容貌とぱりっと整えられた優美な衣裳によってほかの生徒から抜きん出ていた。~略~1895年、11歳になった夏に彼は肋膜炎を悪化させた。~略~その間にアメデオは読書と夢想に耽り、それはエウジェニアを戸惑わせ、興味を引くほどになった。『この子の人格はまだ固まっていないので、私はなんと考えればよいのかわからない。甘えん坊のように振る舞っているが、知性を欠いてはいない。この蛹の中に何が潜んでいるのか、待っていて見ることにしよう。ことによると芸術家だろうか』」母エウジェニアの予言が次第に現実味を帯びてきます。「14歳になったばかりのアメデオは絵の勉強を喜んだが、この家族は不運につきまとわれていた。美術学校が始まるとすぐ彼は重い腸チフスにかかった。これは当時は不治の病とされていた。数週間で重態となり、1か月すると意識朦朧となった。伝説によると、このときアメデオは画家になりたいという熱意を表明したということである。」母エウジェニアの献身的な看病によって一命を取り留めたアメデオは、美術への道を歩んでいくことになるのです。第2章ではイタリア各地を旅して、モディリアーニはいよいよ画家としてスタートしていくことになります。

9月RECORDは「連繋の風景」

「れんけい」という漢字表記は「連携」を一般的に用いますが、敢えて「連繋」にしたのは繋がりをRECORDで表現したい意図があるからです。専門家集団で構成されている私の職場でも、常に連繋を意識して組織的な動きをしています。お互いが補い合えるというメリットがあるため、日々連繋する場面が多くあります。今月に入って仕事が本格化した今、私の頭にあるのは職場の連繋ばかりで、他の言葉を思いつかなかったというのが本音です。職場で行われている連繋の場面を、私は造形的に形や色彩を用いて象徴的にRECORDにしていこうと思っています。RECORDになった作品は抽象化していたり、別のモチーフを利用していたりしますが、テーマとして掲げているのは、自分の身の回りにあることが多く、動機としては日常生活から発生しているのです。そうでなければ、日々RECORDを作ることは出来ません。RECORDは一日1点ずつ作っていて、もう10年以上続く長期的規模の作品ですが、アーカイブを見ていると、その時どんな思いで作った作品なのかが思い出されてきます。身近なテーマを象徴的に表現している証拠かなぁと思います。週末ごとにやっている陶彫制作は完全なるイメージ世界の産物ですが、RECORDは抽象化や象徴化された日常風景だと言えます。現在は下書きが先行するRECORDですが、過去の下書きに仕上げを施す際は、その時の気持ちまでも振り返りながら作業をしているのです。そうならないように一刻も早く山積みされた下書きを仕上げて、通常のRECORD制作に戻したいと願っています。

9月の制作目標を考えていたら…

9月の制作目標を立ててみました。屏風と床置きの双方で見せる新作を現在作っています。先月の制作目標に屏風になる厚板のことについて触れていますが、今月は厚板を加工するところまでいけるでしょうか。床置きになる陶彫部品が4個で構成される第1のステーションに続く、10個で構成される第2のステーションを現在作っていますが、これだけでも今月いっぱいかかりそうです。あるいは第2ステーションは今月だけでは終わらないかもしれません。でも頭の片隅では屏風の下書きをやってみたいと思っていて、幸い三連休が2回あるので、陶彫制作の傍らで下書きくらいは出来るかなぁと思っているのですが、どうでしょうか。今月は見たい展覧会もあるので、制作時間を削って東京に出かけようと思っています。鑑賞を含めてあれもこれも欲張り過ぎですが、芸術の秋になるとアートで心が高揚します。涼しくなればウィークディの夜も工房に通って陶彫部品の彫り込み加飾は出来るかなぁと思うところです。ただし、下書きの山積みが解消されないRECORDをどうするか、思い切って週末の一日をRECORDの山積み解消に使ってみるか、これも気になるところです。何かに絞ってやっていかないと、結局何も解消できずに1ヶ月が過ぎていくことになってしまいます。優先順位をつければ、まず第2ステーションの完成、次に屏風の下書き、次にRECORDの山積み解消。ついでに鑑賞と読書。毎月変わり映えがしませんが、これでいこうと思っています。実はこんな制作目標を仕事からの帰り道に考えていました。今晩は雷鳴が轟き、夜空に稲妻が光っていました。横浜市で停電している地域があると情報が流れていましたが、自宅に帰ってみると我が家は停電真っ最中で、家内は蝋燭を灯して待っていました。え?停電なの?東日本大震災の時も計画停電に当たると思っていた我が家は、停電もせず、何も問題なく過ごせていましたが、今日に限って停電なのかと少々焦りました。電気がないと何も出来ない現代人の悲しさで、夕食は車で近くのファミリーレストランに行きました。同じ横浜市旭区内でも停電していない地域があったのでした。9時半ごろに電気が復旧しました。このNOTE(ブログ)が書けるのも電気のおかげです。文明の有難さを感じつつ、頭の中は即刻、今月の制作目標に戻ってしまいました。

映画「風をつかまえた少年」雑感

映画「風をつかまえた少年」を昨日観てきました。本作の舞台になったアフリカのマラウイという国を私は知りませんでした。21世紀になった今日まで開発途上にあったこの国の、映画で描き出されたリアルな状況を知って、唖然としたのは私だけではないでしょう。撮影はマラウイの農村を使ったそうで、乾燥した土壌が強風に舞い上がる場面も、まさにマラウイの気候風土そのもので、洪水と干ばつを繰り返す状況に言葉を失いました。図録にあった国の説明を引用いたします。「マラウイの都市部では電気を使う家庭も多いが、農村部の電化率は現在も4%に留まる。調理には木を伐採して薪を利用するのが一般的で、夜には灯油ランプやろうそくなどを使用することもあるが、基本的には暗くなったら就寝する家庭が多い。乾電池を使用するラジオ以外の家電製品は農村部ではなかなかお目にかかる機会もない。このような食糧・教育・電化事情がある中で、学校を中退せざるを得なかった少年が、風力発電に取り組み、食糧増産を目指すということが、どれだけ切実な課題だったのか、そしてどれだけ画期的なことであったかがお分かりになるかと思う。」(草苅康子著)父親役のベテラン俳優が監督や脚本も手掛け、息子役の主人公は一般公募から選ばれた少年で、その自然な家族の演技に心酔しました。主人公になったウィリアム・カムクワンバ氏の原作が本作の基になっていますが、氏のインタビューで「完成した映画を観てとても感激した。でも心境は複雑で、というのも僕と家族がくぐりぬけなければならなかった辛い体験を再度思い起こすことになったから。」とありました。それだけ映画はリアルな現状を伝えていると私は判断しました。最後に解説を担当している池上彰氏の言語についての一文を引用いたします。「現実のマラウイではチェワ語と英語が、まるでちゃんぽんのように話されています。映画でも、その点は忠実に再現され、登場人物たちは、英語とチェワ語で会話しています。観客にわかるように英語を使っているのではないのです。」現地出身の俳優ならともかく、そうでない人は言語を覚えるのは大変だったろうなぁと思いました。

9月最初の週末に…

9月最初の週末になって、今日は新作の床置きになる10個の陶彫部品で構成するステーションの1個目の成形を行いました。昼前に家内と映画を観に出かけ、映画館から帰ってきてから、再度工房に行って制作の続きを行いました。映画鑑賞は通常ならレイトショーに行くところですが、観たい映画が11時過ぎに始まることを知って、陶彫制作の合間に横浜のミニシアターに出かけたのでした。観た映画は「風をつかまえた少年」というイギリス・マラウイ合作による映画で、実話を元に作られていました。主人公ウィリアム・カムクワンバ氏は、現在も農業や教育に携わっている人で、2013年のタイム誌「世界を変える30人」にも選出されています。アフリカ南東部に位置するマラウイ共和国は、旱魃による被害でトウモロコシの収穫が出来ず、貧困に喘いでいたところをカムクワンバ少年の知恵で風力発電を起こし、農産物に水を与える快挙を起こしました。それも2001年のことですから、本当に最近のことだったようです。これは無学な父親を説得して、息子を学校に通わせた母親の隠れた存在が描かれていて、その故に学校で知識を得た少年の行動によって、村々が救われたと解釈できます。教育の大切さを考える機会になった映画という評価を私は持ちました。学校教育に携わる者は一度は観た方がいいかもしれません。詳しい感想は後日改めます。今日は「映画の日」でもあり、また人気のある映画だったようで、上映間近にはチケットが完売していました。私たちは早めに出かけたので、チケットが買えてラッキーでした。午後2時に工房に戻ってきて、陶彫制作を再開しました。取り組み始めた2つ目のステーションは背丈のやや低めの作品で構成されますが、背丈の高低に関わらず、手間暇は同じようにかかっていて、これを10個も作るのは先が長いなぁと思いました。9月いっぱいはこれにかかりっきりになってしまいそうです。9月の制作目標は改めて考えていこうと思います。

週末 8月を振り返って…

週末になり、朝から工房に出かけ、陶彫制作に没頭していましたが、今日が8月の最終日なので、制作や鑑賞が充実していた今月を振り返ってみたいと思います。今月はお盆休みがあったので、職場の仕事を少なくしていて、その分創作活動をしたり、どこかへ鑑賞に出かけるのは絶好の機会になっていました。私は夏季休暇を利用して兵庫県や徳島県に出かけました。その前にまず、今月の陶彫制作のことについて書きます。新作は屏風と床で空間構成する作品ですが、床置きの陶彫部品4点が一塊になる作品を作りました。成形と彫り込み加飾を終えて、現在は4個とも乾燥を待っている状態です。この一塊を私はステーションと呼んでいます。今日は次のステーションについて計画を立てました。次のステーションは10個の陶彫部品で一塊になる予定ですが、背丈を低く設定することにしました。床に広がる大きな蓮の葉のようになるイメージです。ステーションからステーションへ根を這わす予定ですが、これは茎と言った方がいいかもしれません。RECORDは頑張ったつもりですが、下書きの山積み解消は出来ていません。これが今月の反省材料ですが、陶彫制作に関しては及第点かなぁと思っています。鑑賞は充実していました。まず、兵庫県の姫路城、そして徳島県の大塚国際美術館は特筆に価するほど強烈な印象を持ちました。その都度NOTE(ブログ)に感想をまとめているので、参照戴ければ幸いです。その他美術展では「三国志展」(東京国立博物館)、「ギュスターヴ・モロー展」(あべのハルカス美術館)、「北斎展」(そごう美術館)に行きました。映画では「田園の守り人たち」(岩波ホール)、「天気の子」(TOHOシネマズららぽーと横浜)、「ヒューマン・フロー」(シネマジャック&ベティ)に行きました。展覧会3つ、映画3本は1ヶ月としたら多い方で、内容も良かったと振り返っています。読書はヨーロッパ文化を扱った書籍を読み終えて、現在は画家モディリアーニの伝記を読んでいます。来月は職場の仕事に本腰を入れなければなりませんが、創作活動や鑑賞は今月並みに続けられたらいいなぁと願っていますが、果たしてどうでしょうか。

「モディリアーニ」を読み始める

「モディリアーニ 夢を守りつづけたボヘミアン」(ジューン・ローズ著 宮下規久朗・橋本啓子訳 西村書店)を読み始めています。ユダヤ系イタリア人の画家アメデオ・モディリアーニは、首が極端に長く、目には瞳を描いていない独特な女性像をテーマに、象徴的な絵画を描いてきた画家で、20世紀初頭のパリで興ったエコール・ド・パリの代表的な人物です。多量に飲酒し、薬物への依存、不摂生で荒廃した生活を続け、享年35歳でパリに散ったことでも有名です。没後、日本でも展覧会が開催され、数多くの絵画が日本の美術館に収納されています。私も幾度となくモディリアーニの絵画を見てきました。最初は彫刻家志望だったモディリアーニは元々病弱で、力仕事や粉塵に耐えられず、彫刻家は諦めたようですが、画家としては夭折したにも関わらず、現在は近代美術史に名を連ねる人物になっています。ただし、私はモディリアーニ本人の成育歴や画歴を知らず、エコール・ド・パリというグループの活躍でしか認識がありません。前にキスリングの展覧会を見に行った折、モディリアーニについても調べてみたくなったのでした。以前どこかの企画展で、私はモディリアーニの彫刻を見ています。その時は単純化された頭部が美しいと感じました。彫刻家ブランクーシとも交流があったようで、抽象化したカーヴィングにはアフリカ民族美術に見られるような生命感溢れるプリミティヴな魅力がありました。この時代の簡潔化した彫刻は、今でも私に刺激を与えてくれています。モディリアーニの絵画は、この時作っていた彫刻より発想した形態にあるのではないかと思っています。ピカソもモディリアーニも愛したアフリカの民族美術。実は私も大好きで、アフリカの木彫の仮面を集めています。そんなモディリアーニの画歴も知りたくなって、本書を読むことにしました。通勤の友には格好の書籍です。楽しみながらモディリアーニの破天荒な生涯を紐解いていきたいと思います。

陶板による「快楽の園」雑感

20代の頃、ウィーンに暮らしていた私は、鉄道を乗り換えてスペインの首都マドリードまで出かけていき、プラド美術館に立ち寄ったことがありました。その時にヒエロニムス・ボスの代表作「快楽の園」を見たはずですが、覚えていないのです。ボスの絵画は、私が当時在籍していたウィーン美術アカデミーの併設美術館にもあって、学校の工房を抜け出して頻繁に見ていたので、プラド美術館の有名な作品を見逃すはずはないと思っているのですが、どうしたものか記憶にありません。もう一度ヨーロッパに行ける機会があれば、ぜひ見たい作品のひとつですが、先日出かけた大塚国際美術館で、陶板による「快楽の園」がありました。これにはちょっと感動しました。「快楽の園」は、中央画面と表裏に描かれた両翼からなり、閉じたときは「天地創造」、開くと左が「エデンの園」、右が「地獄」、そして中央が「快楽の園」になっています。大塚国際美術館ではこの三連祭壇画が自動開閉していて、暫し眺めながら佇んでしまいました。内容としては左から右へ画面を移行すると、人間が堕落に向かっていく過程があって、快楽を貪った結果として地獄に堕ちていく様子が描かれていると、私は解釈しています。資料には「ありえない異種配合と転倒の戯画」や「倒錯した性の含めて、あらゆる種類の官能の快楽が戯画的に描かれている」と解説にありました。そこに私は面白みを感じているのです。「快楽の園」は、当時のネーデルランドに流行した神秘主義の世界観ではないかと推察する説もあり、この時代にしてはあまりに幻想的で空想的な捉えに、現代の眼から見ると新鮮な驚きがあるのです。描かれている摩訶不思議な生物は、西欧的なモンスターの始源かもしれず、現代ではゲームに登場するキャラクターに近いと感じます。いずれにしてもプラド美術館を再訪して、どうしても見たいと思っていた「快楽の園」が、複製品とは言え、思わぬところで見られたことがラッキーでした。

陶板による複製絵画の意義について

夏季休暇を利用して徳島県にある大塚国際美術館に出かけ、大塚グループによる大掛かりな陶板による複製品に接してきました。西洋絵画を環境展示、系統展示、テーマ展示と分けて美術史に残る作品を全て網羅している美術館の全容は、特筆に値すると思いました。数時間で古代から現代まで高水準を誇る美術品を見て回るのは結構辛いと感じましたが、それでも緻密な複製品を前にして、オリジナルと相違が分からないほど技巧的には完成していて、寧ろ絵画的内容に関する感動さえ齎せてくれました。これなら時間の推移や環境風土によって失われていくオリジナルを、陶板に転写することで保存可能となります。そんな同館の取り組みは、世界に類のない素晴らしさではないかと私は感じました。そもそも私たちが美術品を鑑賞できるようになるまでに、人間の歴史にはどんな変遷があったのか、同館で購入してきた資料に興味深い記述がありました。同館で監修に当たった学者の文章です。少々長いのですが、引用いたします。「信仰にかかわる奉納品はタブロー画のようなもち運び可能なものではあっても、その目的と機能を維持するためには納められたところから動かすことのできないものだったのである。このような状況はローマ時代になっても、またキリスト教の時代になっても神殿や教会堂に納められた彫刻・絵画に関する限り変わることはなかった。~略~ヘレニズム時代に入るとギリシャ世界は大きく拡大し、東方との交易などによって活発な経済活動が行われるようになる。人々の生活水準は以前と比べるなら格段に向上し、王侯貴族だけでなく富裕な一般市民も自分たちの住宅を美術品で装飾することが流行した。~略~このような一般市民の需要に応えるために美術工房では複製品が大量に製作されるようになったのであり、そのような現象のなかで複製技術も向上していった。~略~美術品の動産化は、美術品が置かれていた環境のコンテクストから脱却させることであり、美術品の有する造形価値が美術品評価のおもな基準として浮上するようになる。このような状況は18世紀末に勃発するフランス市民革命と無縁ではない。自由、平等、友愛の実現を目指した市民革命は、社会と市民の基本的権利を明確にしており、それは地域や民族がもつ歴史コンテクストの上位にあるものと認識された。それゆえに近代世界においてひろく認知され普及したのである。美術品がその造形価値によってもっぱら評価されるようになった文化状況と、基本的人権が認められるようになった社会状況との関連性を如実に示しているのがルーヴル美術館の一般公開である。」(青柳正規著)複製絵画の意義を歴史を絡めた大きな視点から述べています。同館の環境展示は動産化不可能な壁画に関しても、陶板により複製品を作っていて、心底驚くと同時に貴重な記録であることは疑う余地もなく、ただただこれを複製した人々の努力に敬意を表する次第です。

姫路城に見る城郭石垣について

今月出かけた兵庫県の姫路城で、その美しさもさることながら、私が注目したのは城郭の石垣でした。これは昔行った九州の熊本城で、石垣の反りの美しさに溜息が出たことを思い出しましたが、姫路城の石垣も多様な相貌を見せてくれていて、美しさの余り暫し疲労を忘れました。若い頃から建築や土木に興味があった私は、父が造園業という生育環境にもその要因があったのかもしれません。姫路城の思い出に城郭石垣についての資料を、彼の地で購入してきました。そこには城郭石垣は接着材料を使用しない空積みで、法(ノリ)という傾斜と反(ソリ)というカーブが特徴と書かれていました。石垣の構成としては表面から順に築石(ツキイシ)、裏込(ウラゴメ)、盛土で構成され、姫路城は小丘陵を削って石垣を築いているため、盛土だけでなく岩盤を利用している箇所もあるそうです。石垣の隅角部分も気になりました。これは長方形の石材を長短交互に組み合わせて強度を高めており、これを算木(サンキ)積みと呼ぶそうです。石垣の分類としては、石材の加工度から自然石を使う野面(ノヅラ)積み、粗加工を施した割り石の打込みハギ、鑿などで整形加工した切込みハギの3種類がありますが、姫路城はそのいずれも見ることが出来て、まさに石積みの博覧会のようです。資料には石垣の歴史に触れた部分がありました。弥生時代の墳丘墓や古墳の石室など、石積み技術の歴史は古いのですが、城郭に用いられるのは7世紀以後で、姫路城に見られる近世城郭の石垣は、織田信長から豊臣秀吉へ続く「織豊系(ショクホウケイ)城郭」の石垣技術が全国へ広まったものだそうで、ここにも石垣技術の博覧会があって鑑賞者を楽しませてくれました。関が原合戦後には、石材が自然石から加工石材へと変化し、高くなる石垣に合わせて傾斜も急になり、反りの発生と算木積みの発達が進んだのでした。城郭石垣を鑑賞の切り口にして眺める各地の城も面白いのではないかと、私はこの時思いました。石垣に使用する石材、城の建築に使用する木材、屋根の瓦や漆喰に使用する土、どれも日本の風土が齎せてくれる素材ばかりです。そこに最高の職人技があって完成する城は、私たちの文化の誇りとするものではないかと考えます。その城の中でも白鷺に喩えられる姫路城を、今夏鑑賞できて良かったと思いました。

映画「ヒューマン・フロー」雑感

現代社会の問題をいきなり突き付けられたような刺激的なドキュメンタリー映画を観ました。タイトルは「ヒューマン・フロー 大地漂流」。現代美術家であり社会評論にも通じた中国人アイ・ウェイウェイの監督したもので、地球規模で難民を扱っている壮大なものでした。貧困・戦争・宗教・環境などで増え続ける難民たち。昨年は6850万人に上り、増々深刻化していますが、難民の受け入れを拒む国も増えているのです。本作の導入では難民たちが辿り着いたギリシャの海岸から始まり、流離うシリア難民、ガザに封鎖されるパレスチナ人、ロヒンギャの流入が止まらないバングラデシュ、ドイツの空港跡を使った難民施設や、広大な土地に広がる難民テントの群れ、アメリカとメキシコの国境地帯など、ドローンによる空撮やスマホによるリアルな映像が本作のほとんどを占めていて、それだけでも人々が生きていく切羽詰った日常が切り取られていました。図録にこんな文章がありました。「アンデルセン(編集者)は、人間として最も基本的といえる、生きることについて、そして家族への愛情に焦点を当てたと話す。『こういった映画は、とても簡単に感傷的なものになってしまう。映画のなかで、難民たちを被害者としてカメラに収めることだけは避けたかった。私とアイ(監督)は、そのような安っぽい同情を越えて、同じ人間として彼らを認識してもらいたかったのです。人々が作りだす大きな流れを、歴史の一部、そして世界の一部として映し出すのと同時に、《どんな世界を求めるのか》と問いかけてきます。これはとても感動的なことです。』」監督をしたアイ・ウェイウェイの言葉から拾ってみます。「私は生まれて間もない頃に、父が反共産党として国を追放されました。家族全員で人里離れた場所へ強制的に送られ、すべてを諦めねばなりませんでした。私は人間に対する最悪の仕打ちである、差別、虐待を見て育ったのです。~略~難民たちが私たちとなんら変わらない人々であるということを知ってもらうために、努力しなければいけないと感じています。難民はテロリストではなく、そういう考えがテロリスト的なのです。彼らは普通の人間に過ぎず、痛み、喜び、安心感や正義感は私たちのものと全く変わりません。」国を追われたアイ・ウェイウェイだからこそ難民に着目し、撮影できた作品とも言えると私は思いました。私たち日本人も外国籍の人々と接する機会が増えてきました。観光客と違い、生活者である彼らとは、風習や文化の違いによる衝突も多少ありますが、お互いが心地よい関係になれるように努力することは必要だと感じています。漂流した先で漸く辿り着いた日本に愛着を持ってくれたら、地域住民としてこれほど嬉しいことはありません。

週末 陶彫加飾&お礼状宛名印刷

今日は朝から工房に篭りました。昨日の午後作業するはずだった成形の最終的な詰めを朝のうちにやりました。陶彫成形の内側から紐状にした陶土を貼りつけて補強をした後、表側から板で叩いて形を整えます。形は立体として納得できるようにあらゆる方向から叩いて自分のイメージに近づけていきます。彫刻的な工程としてはこれが一番楽しい作業なのです。私はイメージをデッサンせず、いきなり彫塑として捉えていく方法を取っています。平面デッサンをすると描写に夢中になってしまい、立体的な捉えが私には今ひとつピンとこないのです。形が納得できたら、表面に彫り込み加飾を施していきます。これは陶土を掻き出しベラで彫っていく工程で、言わばレリーフですが、立体的な捉えというよりは平面性が強いと感じています。全体の形を作っている時のように周囲を回りながら作ることはせず、作品の面から面へ移動しながら彫り込んでいきます。これは我慢を強いる作業で、粘り強く取り組んでいきます。昼ごろになって工房の気温が上昇したので、休憩を兼ねて近隣のスポーツ施設に出かけて水泳をしてきました。1時間程度で工房に帰ってきて、作業を再開しました。夕方4時になると頭がクラクラしてきたので、今日の作業は終了にしました。酷暑の中で7時間、現在の気候を考えるとこれが限界かなぁと思っています。この季節は乾燥が早いので、陶彫部品に水を打ってビニールをかけて陶土の乾燥が緩やかになるように配慮しています。夜は7月個展のお礼状に宛名印刷をしました。芳名帳を見ていると、ギャラリーせいほうが案内状を送った人たちは住所や氏名が判断できず、申し訳ないことですが、私の知り合いだけにお礼状を送ることにしました。このNOTE(ブログ)を読んでいらっしゃる方で、お礼状が届かなかった方がいましたら、御容赦いただけると幸いです。早いものでギャラリーせいほうの個展から1ヶ月以上が過ぎました。今日も精を出して新作に取り込んでいましたが、創作活動が未来永劫続けられるとしたら、こんなに幸せなことはないなぁと思っています。また、来年もよろしくお願いいたします。

週末 陶彫成形の後、映画館へ…

週末になりました。今月は夏季休暇を取ったので鑑賞が充実していますが、今日も陶彫制作の後で横浜のミニシアターに出かけました。朝8時に工房に出かけ、予め準備しておいたタタラを使って、4個目の陶彫成形を行ないました。昼頃、自宅に戻ったら母親がいる介護施設から電話があって、母が転倒して顔が腫れているとのことで、家内も私も急遽午後の予定を空けて介護施設に向いました。近くの病院が見てくれる手筈になっていると施設の職員が言うので、母を車椅子に乗せて病院に向いました。CTスキャン等やっていただいて骨には異常なしと医者に判断されて、ホッと胸を撫でおろしました。90代の母は何があっても不思議ではないと思っていたので、これは想定内ではあったのですが、心穏やかでなくなったのは確かでした。午後は工房に行って明日の作業の準備をして、今日は陶彫制作を終えることにしました。本来なら夕方まで作業をしようと思っていたのですが、出鼻を挫かれた感じになってしまいました。家内も午後の演奏活動を休みました。家内は明日も演奏活動があるので、自宅でゆっくり休んでいたいと言っていました。そこで私一人で常連のミニシアターに出かけることにしました。観たかった映画は「ヒューマン・フロー 大地漂流」で、現代美術家であり社会運動家としても知られる中国人アイ・ウェイウェイが監督をしています。テーマは世界中の難民が置かれている現状を浮き彫りにする刺激的なドキュメンタリーでした。私たち日本人は難民の困難な状況に直面することなく、普通のことを普通に出来る平和な日常を過ごしています。これがどんなに貴重なことか、戦火を避けて母国を捨てざるを得ない多くの難民の映像を見ていて、改めて感じた次第です。多くの庶民は、どの民族であっても家族と共に平和に暮らしたいのです。宗教や文化の違いはあっても平和に対する願いは一緒です。「これは”難民の危機”ではなく、”人類の危機”なのだ。この映画が人間性、社会の真意を理解するのに役立つことを願う。」ウェイウェイ監督の言葉が全編を通して重く圧し掛かりました。ウェイウェイ監督自身も反共産党として中国を追われている立場です。ドキュメンタリーはありのままの現実を描き出しますが、あくまでも映像なので、耐え難いような体験も映像を通してしか語ることは出来ません。それでも世界各地で起こっている事実に眼を向けることは出来るはずだと私は感じました。そんなことを思いながら2時間20分の映像を目を凝らして観ていました。詳しい感想は後日改めます。

「螺旋の文化史」&読後感

「ヨーロッパの形 螺旋の文化史」(篠田知和基著 八坂書房)の第五部「螺旋の文化史」についてのまとめを行います。この第五部が本書の最後の部分になり、全体のまとめにもなっているので、読後感も合わせて書いていきます。最後は宗教と愛の表現でヨーロッパの形を締め括っています。まず、聖性の形として教会の塔を扱っているところに留意しました。「ヨーロッパでも教会の鐘塔などはまっすぐな造形が多く、ただ、屋根を急勾配にしてさらに尖塔をつけている。そのまっすぐな塔を昇ってゆくのに螺旋階段がある。樹木や柱に蛇や蔦が絡まるのが本来の自然の形である。そして柱は下が太く、上へゆくと細くなる。日本では法隆寺の五重塔でも下の階がそれほど違わない。そして中に階段はない。ヨーロッパではまっすぐな塔をつくって、その中に螺旋を隠した。内部で螺旋が回っていく円筒である。そとからは内部の回転運動は見えない。」そこから迷宮や渦巻き模様に発展し、次のような文章が続きます。「鉄の手すりや、格子、門扉などに渦巻きが配されているのは、ヨーロッパではごく普通だが、日本ではそれほど普通ではない。ヨーロッパの模様なのである。渦巻きの唐草模様は十二世紀フランスのロマネスク教会でも鉄格子などにおおいに使われた。クストゥージュの教会やリスボン大聖堂の鉄格子に見られる。もしかしたらアラビアの唐草模様の影響かもしれない。」確かにヨーロッパではあらゆる場所で凝った渦巻き装飾を多く見かけます。彫刻を学んだ私にしてみれば、立体的に捉えた装飾に瀟洒な空間を感じるのです。勿論彫刻の概念はヨーロッパ発祥ですが…。最後に愛について書かれた部分を取上げます。「ヨーロッパの墓地にゆくと、亡き妻をしのぶのか、夫への愛情を断ち切れないのか、墓石に上に置かれた抱擁像で、かたく接吻をかわしているカップルが描かれているのを目にすることがある。口づけがもっとも確かな愛情の印なのだ。~略~男女の愛情や、人間同士のスキンシップを大事にする文化のせいかもしれない。」20代の頃、ヨーロッパで5年間暮らしていた私がついに馴染めなかった習慣が、こうした友人同士で交わすスキンシップでした。日本人なら誤解をしてしまいそうな身体の擦り合せ方が、人との距離感を失わせてしまうのでした。だからと言って若かった私は、通っていた美術学校でとても解放的になれず、寧ろ内なる世界に閉じ篭りそうになっていました。そんな異文化でのギクシャクした生活体験を、本書を読み進んでいくうちに思い出してしまいました。帰国してから漸く私はヨーロッパを受け入れたように感じています。その結果として私なりの彫刻作品が生まれました。私に創作の扉を開いてくれたのが、他ならぬヨーロッパの形だったと今でも思っています。

「技術の中の形」について

「ヨーロッパの形 螺旋の文化史」(篠田知和基著 八坂書房)の第四部「技術の中の形」についてのまとめを行います。まず、冒頭の文章を引用いたします。「技術の基本は車であり、ヨーロッパはすでに述べたとおり、基本的に車両文化である。しかしその車輪も単に定位置で回転するだけではなく、プロペラであれば空へ舞い上がり、工作機械であれば複雑な8の字を描きながらネジや歯車をつくっていく。」何かモノを作るなら回転させることに注目したヨーロッパ人の発明は、他の文明より先んじて発達した要因になりました。「(ネジとしての螺旋は)より少ない力で圧迫力を加えて、ものを接着しているのである。叩き込むかわりにねじ込んでいるが、これは逆に回せばはずれるので、叩き込んだ場合ははずすには壊す以外にないのに比べればずっとましである。」ヨーロッパではネジの他にバネの発明もありました。「バネの機能はショックの緩衡か、ドアの自動開閉、物体の発射などだろう。」こうした道具類を駆使して運搬のために車や船や飛行機を発明した人々は、やがて時刻や長さを測ることにも拘り、時間や空間の概念を見つけていきました。それは哲学であり、数学であり、古代から近代に到るまで人類史を牽引する文化や伝統を作ることになりました。「ローマ人にとって『時間』とは円い文字盤の上でくるくると回転する針の動きだった。以来、二千年のあいだ、ヨーロッパ人はそのような円環型の時間認識を持っていた。~略~はかることは、デジタルでは数値化することであり、アナログでは円盤状の針の角度であらわすことである。長さのようにはじめから数値化されて認識されるものはともかく、速さ、あるいは圧力、さらに強さであっても、そのままでは数値であらわされえないものもヨーロッパでは度量衡に準じて計測し、数値であらわしたのである。」この進歩こそが現代の私たちの生活を作っている基盤だと言えるでしょう。現代社会ではヨーロッパはEU諸国として、世界のひとつの地域になっていますが、人類史を紐解けば、文明発達において多大な貢献をしたことになります。私がやっている造形美術でも、つい最近まで先輩たちが挙ってヨーロッパに出かけ、その文化を摂取してきていたのでした。日本美術の概念はヨーロッパなしには語れないほどです。本書を読むと改めてヨーロッパの存在の大きさに気づかされます。

横浜の「北斎展」

横浜のそごう美術館で「北斎展」が開催されています。私は外会議で関内に行った昨日の夕方、「北斎展」を見てきました。関内ホールの帰り道になる横浜駅に美術館があるというのは大変都合が良く、ちょっと得をした気分になります。そごう美術館はデパート併設の美術館で、「北斎展」は児童生徒の夏休みを当て込んで企画されたものだろうと思いました。子ども目線で捉えた展示方法で、国際的に認められた浮世絵師葛飾北斎の代表作が並べられていました。絵の内容では、どこに注目したらいいのか、またどのように浮世絵は作られたものなのか、極めて分かりやすい子ども向けの解説は、疲れた大人の頭にも清涼な風を吹き込ませてくれました。私は有名な「富嶽三十六景」もさることながら、モノクロの「富嶽百景」に注目しました。画想や構図の面白さに暫し時間を忘れました。「鳥越の不二」に出てくる幾何学的な球体は何でしょうか。幕府の天文観測所浅草司天台という解説がありましたが、屋敷の屋上に巨大な渾天儀が設けられていたことが他の資料で判明しています。「富嶽百景」の解説書によると「『富嶽百景』は、この『霊峰不二』という画題一点を軸として、自然の風物とその周辺で生きとし生ける人々の営みを巧みに交え、ありとあらゆる富士山の諸相を北斎の全精力を傾注して描いています。単なる風景としての『不二』を表現するばかりでなく、北斎自身が捉えた独特のアングルでその魅力を描き切っています。芸術的に描かれた富士山の図像百科事典と言ってもよいでしょう。」(版元 芸艸堂しるす)と書かれていました。仕事の帰り道に何気なく立ち寄った「北斎展」でしたが、とても良質な作品に触れた感触が残り、いい気分になりました。

モローを取り囲む2人の女性

フランスの象徴派画家ギュスターヴ・モローは、19世紀末に72歳で没しましたが、70歳前後にパリにある自宅を個人美術館にする準備を始めていました。モローは65歳で国立美術学校の教授職に就いたようですが、私の先入観ではモローは室内に一人佇んで絵画制作に没頭した孤高の画家としてイメージしていました。生い立ちを追ううちに、モローはイタリアに旅行したり、また2人の女性が重要なポジションにいたことが分かりました。一人は母親で、モローは献身的な愛情を注がれていたようです。もう一人は内縁の妻とでも言っていいのでしょうか、モローに27年間寄り添った女性がいたようです。デッサンを教えたことでその女性と知り合い、彼女はやがてモローの最大の理解者になったようです。図録から2人の女性たちのことを綴った箇所を引用いたします。「モローは母へ親愛の表現をしきりに繰り返し、異国にいる自分にとって母との文通が言いようのない幸福の源であると、また、愛され過ぎて、芸術への情熱にとらわれた自分が十分応えられず苦しいと述べている。~略~返信で母は排他的なまでのわが子への愛情を再度強調した。また、息子について『彼の健康、幸せ、満足以外に何の興味もありません』とも書いた。このやりとりは、娘の死による女親の悲しみを慰める重責を負った一子と、母の激情的な愛の苦しみを浮き彫りにしている。」モローの妹はモロー1歳の時に亡くなっているので、まさに母の愛情はモローだけに注がれ、母から精神的にも経済的にも援助を受けていたようです。親子はモローが幼い頃から思春期に至るまで母子一体となっていて、モロー自身は母親の元を決して離れようとしなかったと図録にありました。12歳で入学した寄宿制中学校では同年代の子たちとの交流に苦しんだとも書いてありました。とは言えモローはさまざまな恋愛もして、ついに33歳で生涯を共にする女性アレクサンドリーヌ・デュルーと知り合ったのでした。モローは彼女の可愛いカリカチュア(漫画)を描いているので、彼女のことを相当愛しく想っていたことは間違いないでしょう。「母没後2年の1886年1月10日、自分が重病または瀕死に陥った場合の指示として、モローはアレクサンドリーヌ宛てに二つのメモをしたためた。27年間連れ添った伴侶である彼女の看病以外受けないこと、また、母の死後、苦悩の日々に彼女が限りない献身を尽くしたことを述べている。」(引用は全てマリー=セシル・フォレスト著)彼女に看取られるはずが、モロー64歳の時にアレクサンドリーヌは54歳で亡くなってしまいました。母親と伴侶、この2人に先立たれたにも関わらず、献身的に支えられてもいた画家の人生。私は幸福な人生だったのではないかと思っていますが、どうでしょうか。

大阪天王寺の「ギュスターヴ・モロー展」

先日の夏季休暇で訪れた大阪の天王寺。東京で見落としてしまった「ギュスターヴ・モロー展」が天王寺のあべのハルカス美術館で開催されていることを知り、早速行ってきました。フランスの象徴派画家ギュスターヴ・モローは神話や宗教をテーマに独特な個性を持って活躍した人で、それは旧態依然とした古典主義とは異なった世界観ではないかと私は解釈しています。モローの油彩表現では線描が際立つものが少なからずあります。一般的には線描は下塗りの上に細部を描き込んだもので、そこに彩色していくのが前提ですが、モローは線描をそのまま残し、しかも下塗りと線描との間にイメージの乖離があるのです。そこには建築装飾としてロマネスク美術の文様が主に描き込まれています。これは敢えて視覚的効果を狙ったものであろうと思います。モローの代表作にサロメの連作があり、その中でも本展に出品されていた「出現」に興味が湧きました。「《出現》の特異性は、何よりもサロメが裸体であること、そしてヨハネの首の幻視を見ていることにある。」と図録にありました。またサロメの裸体に不思議な文様が線描されていて、神秘性が増していました。「聖遺物の匣は聖遺物の隠喩として、そしてサロメのコスチュームはサロメの隠喩として機能するのである。~略~サロメを取り巻く建築空間もまた、衣装と同じくサロメの容器として、サロメの『神秘的』性格の比喩になっている可能性である。」この絵画に線描されたものは、とりわけ私に宗教性を感じさせましたが、図録によればそれは聖遺物の匣で、モローが聖遺物の匣を選んだ動機は何だったのか、これは風土の異なるところに生まれ育った私には皆目分からなかったのです。匣の中に収められた聖遺物は当然見ることは出来ないことは私にも分かりますが、豪華に装飾された外部によって暗示される秘めたるモノが、サロメが登場する絵画の舞台装置に必要と思ったからでしょうか。「モローが残した重層化した画面は、技法的には1880年頃の水彩画における線と色彩の乖離効果に基づいていると考えられるが、そこにコスチュームを通して人物の性格を表わそうとする意味論的方法と、様々なイメージ・ソースを線描で断片化し自由に組み合わせてヴェールのような装飾の線描を作り上げる制作方法とが組み合わさった結果でもあると考えられる。」(引用は全て喜多崎親著)うーん、自由でコラージュ的な扱いもあったのか、と思えばモローの世界はもう少し気軽に解釈できるのかなぁと思った次第です。私にはモローの人間性にも関心があって、パリのど真ん中で引き篭もっていた孤高の画家という先入観があります。そこに2人の女性が関わっていたという下世話な噂を、今回きちんと解明したいと思っています。別稿を起こします。