「世界はわたしの表象である」とは何か?

「過去というも、未来というも[その内容が継続することは別として]、なにかある夢のようにまことにはかないものなのであるが、しかし現在というのは、この過去と未来の二つの間にあって、広がりも持続ももたない境界線であるにすぎない。時間とまったく同様に、われわれは根拠の原理のあらゆるその他の形態のなかにも同じ虚無性があることをあらためて認識し、すなわち時間と同じく空間もまた、空間と同じく、空間と時間の両方にまたがって存在するいっさいのものもまた、つまり、原因や動機から生まれ出てくるようないっさいのものが、しょせん相対的な存在をそなえているにすぎず、それらはある他のもの、自分と似たようなもの、現にちょうど同じような仕方で成り立っているものと、たがいに相依り、かつ相俟ってようやく存立しているにすぎないことを見抜くであろう。」現在通勤の友にしている「意志と表象としての世界」(A・ショーペンハウワー著 西尾幹二訳 中央公論社)で、まず最初に登場するのが「表象」というコトバで、読み進むうちに上記のような「表象としての現在」を思考する文面に辿りつきます。表象とは簡単に言えば、太陽を見るのも私の目を通して太陽を認識する、大地も手で触れることによって認識する、全て私の認識があって初めて存在を認め、そこを基盤に主観や客観、時間や空間や因果性といった根拠の原理が登場してくるというものです。長くなりますが、文中にはこんな表現もあります。「表象としての世界は~略~最初の眼が見ひらかれたときをもってようやくにして始まるのである。認識というこの最初の眼を媒介することなくして、世界は存在し得ないし、またそれ以前にも世界は存在しなかった。いや、この最初の眼がなければ、すなわち認識を離れたところでは、以前ということもなかったし、時間もなかったのだ。が、だからといって時間は始まりをもっているわけではない。すべての始まりは時間の中にある。時間とは認識することが可能になるためのもっとも普遍的な形式のことであり、いっさいの現象は因果性の絆を手段として時間という形式にあてはまるのであるから、最初の認識とともに時間もまたあり、同時に両側『過去と未来』に向かう時間はまったく無限となるであろう。」第一巻のテーマである「世界はわたしの表象である」とは何か、膨大な論証はまだまだ続きます。

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