週末 筋肉痛の制作

昨日の雪掻きで朝から筋肉痛でした。昨日は陶土の運搬業者が予想より早く朝8時に到着したため、工房前の雪掻きを焦ってやりました。それから午後は自家用車を出すために自宅裏の駐車場から道路まで雪掻きをやりました。トータルで3時間以上は雪掻きをやっていたことになります。思わぬ労働で足腰が疲れていたため、身体の調子を戻そうと昨夜は近隣のスポーツ施設で水泳をしてきました。それでも今日は筋肉痛が残りました。制作においてもパワーが必要で、中腰になったり、しゃがんだりして陶土と格闘するので、筋肉痛で辛いかなぁと思っていましたが、集中すると不思議に筋肉痛は感じなくなりました。成形を2点やって、さらに乾燥した別の成形部品4点に化粧掛けを施して窯に入れました。今週は焼成を2回行う予定です。今日の分の制作がほぼ終わったところで、再び筋肉痛が襲ってきました。時は待たず、新作は間に合うのかどうか相変わらず不安が過ぎります。今週は雪も消えて工房に夜行けると思っています。気力は十分なので、これからが頑張りどころです。

週末 ついに陶土がやってきた

2週間待たされましたが、ついに陶土600キロがやってきました。配達が遅れた理由は週末を2回襲った大雪です。実は今日も大雪の影響がありました。工房には入り口にしている扉の反対側にシャッターのついた搬出搬入口があります。工房のある畑からシャッター口まで雪が積もったままで、陶土の搬入業者の車が入ってこられない状態でした。きっと午後になって陶土は搬入されてくると勝手に思い込んでいましたが、念のため朝7時に工房に行って畑の入り口からシャッター口まで雪掻きをしていました。そこへ携帯電話が鳴り、これから業者が陶土を運ぶというものでした。雪掻きはまだ3分の1程度だったので、これは焦りました。汗が滴になって流れ落ちました。必死の思いで雪をどけて業者を向かえました。ついに栃木県益子町から遥々やってきた陶土には特別な有難味を感じました。よくぞやってきた陶土よ。彫刻家は素材がなければ何も出来ないことを思い知らされました。さて制作をしなければと心は高揚しましたが、先ほどの必死な雪掻きの疲れが出て、今日は思うような制作は出来ませんでした。因みに自宅の周辺の雪掻きもやって車が出せるようにしました。横浜駅近くの職場にはほとんど雪が残っていないのに、自宅も工房もまだまだ雪がかなり残っています。明日から制作を頑張ろうと思います。

仕事山積で停滞する制作

ウィークディの仕事と週末の創作活動はリンクしないと考えていましたが、相互で影響し合うこともあって、週末の制作が停滞気味です。このところ制作は調子よくやっていたのですが、工房の周囲は大雪がまだ残り、ウィークディの夜に工房に行くことが出来ず、おまけに貯蓄してある陶土も底をついている状態では、何とも仕方がないのです。気持ちは充実しているので、雪が融け、陶土が運び込まれてくれば、思いっきり制作に勤しめるだろうと思います。年度末を迎えた職場での仕事が山積し、夜帰宅した後はRECORDを作るのが精いっぱいで、昼間の疲労のせいか夕食を済ますと眠くて眠くてどうしようもありません。ここ数日は無理して起きていないで早めに就寝することにしています。毎年この時季はこんなだったっけ、と思いながら過ごしていますが、毎年制作の条件が異なるので、今年は厳しさ一入なのかもしれません。職場ではインフルエンザも流行の兆しですが、今体調を崩したら公務員の仕事も彫刻の制作も万事休すになってしまうので、身体の体調を考えながらやっていこうと思っています。ゆっくり休みたい気分を抑えながら、明日からの制作に備えます。

「ツァラトストラかく語りき」を読み始める

「ツァラトストラかく語りき」(ニーチェ著 竹山道雄訳 新潮社)上巻を読み始めました。「ツァラトストラかく語りき」はR・シュトラウスの交響詩が有名で、S・キューブリック監督の映画「2001年宇宙の旅」のプロローグに使われていたので、多くの方が聴かれているのではないかと察します。あの壮大な曲の源になっているのが本書です。ただシュトラウスは本書に触発されて作曲した程度のもので密接な関連は薄いようです。さて、ツァラトストラとは誰のことか、これは他の解説を参考にすれば、ゾロアスター教の開祖のことだそうで、ゾロアスター教は紀元前に遡る古い宗教です。ニーチェは独特な語法で本書を書いていて、日本語訳の言い回しもこれに倣っているのでしょうか、諺めいた格調のある言葉になっています。ツァラトストラは序説において山上の観念界から現実の人間界に降りていき、自らの説法を行うことから本書が始まります。対話形式で進められる本書は、ツァラトストラの他に老賢者や綱渡り人、道化役者などが登場しますが、これは象徴であって人間そのものではないと考えます。決して読み易いとは言えない書籍で、文体に慣れるのにも時間がかかりそうですが、いつものように通勤の友にしたいと思います。今回は哲学と詩が混合したようなもので、ニーチェの論理には矛盾がつきものですが、そんなことより独特の感性で推し進めていくような感じを冒頭から持っています。考えることと感じ取ること、その双方を働かせながらニーチェ流世界観に触れていきたいと思います。

「意志と表象としての世界」読後感

ついに「意志と表象としての世界」(A・ショーペンハウワー著 西尾幹二訳 中央公論社)を読み終えました。ショーペンハウワーは本書を再読をするように読者に呼びかけています。たしかに論理が込み入った難解極まりない箇所も随所に見られましたが、自分は冷却期間をおきたいと考えます。本書はショーペンハウワーが30歳の時に上梓し、その後亡くなるまで手を入れ続けた大著作ではありますが、全体を通して一つの思想を伝えたいのだと主張しています。最後に掲載されていた序文から抜粋します。「どの部分も全体によって保持されるのと同じくらいにどの部分も全体を保持していて、どの部分が最初だということもなければどの部分が最後だということもなく、いかなる部分を通じても思想の全体は一段と明瞭になるのであり、もっとも小さな部分ですら、あらかじめ全体がすでに理解されていなければ、完全には理解されえないといった、そういう有機的な連関でなければならないわけなのだ。」という「意志と表象としての世界」編集全体を構成する要素が述べられています。若い情熱と着想当初の気力で論じられた前半と、人生経験を積んだ着想の円熟と完全な彫琢で論じられた後半には、一貫性に欠ける要素が確かに見て取れますが、双方は互いに補足しあう関係だと著者は述べていて、読者にも理解を示して欲しいと言っています。さらに本書を理解しうるにはカントの教説を読むように促しています。真理に触れること、それに優るものはないと締め括っています。ここにきて亡き叔父の研究したカント哲学に漸く近づいたわけですが、自分はカントを暫し傍らに置くことにして、再びニーチェに戻ることにしたいと思います。カントは避けて通れないのかなぁ…と思いつつ。

「意志と表象としての世界」まとめの前に…(その2)

「美しいものに寄せる審美的な喜悦の大部分は、われわれが純粋観照の状態に入ったとき、その瞬間にはいっさいの意欲、すなわちいっさいの願望や心配を絶して、いわば自分自身から脱却し、われわれはもはやたえまない意欲のために認識する個体ー個体とは個々の事物と対応するものであるーではなしに、すなわち『眼前にある』いちいちの客観が動機となるような個体ではなしに、意志を離れた永遠の認識主観ーこれはイデアと対応するものであるーになっているということにいつにかかっているのである。われわれは知っている、われわれが残忍な意志の衝迫から解脱して、いわば重苦しい地上の空気から脱け出して浮かび上がっているこのような瞬間こそは、まことにわれわれの知りうるもっとも祝福された瞬間であることを。そうだとすれば、ここから推定して、美の享受におけるこの場合のように意志が瞬間的に鎮められるのではなくて、永久に鎮められているような人がいるとしたら、その人の生活がいかに至福に満ちあふれた生活であらざるを得ないかは言を俟たないであろう。」「意志と表象としての世界」(A・ショーペンハウワー著 西尾幹二訳 中央公論社)純粋観照の状態とは美的なものに圧倒された時に、我を忘れて感動が溢れだす瞬間を言います。考える余裕もなく、つまり本書で言う意志の認識する個体ではない精神状態に置かれた時のことです。それは自分にも訪れることがあります。美術や音楽、または風景や環境によって鳥肌が立つほど震える経験です。それは意志から解脱した状態であると本書は説いています。その解脱状態が永久に続くとしたら、それは意志の否定、完全なる諦念に基づく浄化や聖化があって、さらに揺ぎない寂静と浄福と崇高な境地に立てるのだと述べています。いよいよ本書も最終に入りました。

早朝出勤の安全策

出勤では午前6時過ぎに自宅を出てバスの停留所に向かいますが、雪に覆われた真冬はこの時間帯とルートが危険です。小高い丘の上にある自宅は坂道が凍結している可能性があるからです。雪掻きをしても細い坂道は両側の積んだ雪から雪解け水が流れ出して、それが凍結して危険な状態になります。これが原因で昨年は仰向けに転んで背中を打ちました。完全に治るのに何か月もかかったので、それが今でもトラウマになり、雪が降ったら自宅前の坂道は通らないようにしています。早朝出勤の安全策としては多少の回り道をしても凍結の少ない道を選んでいます。通勤バスも遅れがちです。職場での立場上、多くの仕事を抱えていますが、どうしても朝早く出勤しなければならないことはありません。普段と同じ午前6時に自宅を出たとしても、職場に到着するのが遅くなっても仕方がないと思っています。ともかく安全に通勤できれば良しとしています。

週末 大雪に覆われた工房

先週より積雪が多く、工房へ続く畑道は膝まで雪に埋もれ、工房まで歩くのに大変な思いをしました。自分が工房で制作に没頭している間、家内は自宅の前の坂道の雪掻きに精を出していました。雪掻きに関しては私よりも家内の方が根性があるらしく、長い坂道を一人でほとんど雪を掻いてしまいました。私は30分程度手伝ったにすぎず、家内のパワーに脱帽です。工房での制作は思うように進まず、今日のところは窯入れを断念しました。陶彫部品制作の進度は3分の2くらいでしょうか。そのうち3分の1くらい焼成が終わって床に並べています。陶彫部品は大きなものから作り始めていて、塔の床面に接着する大きな部品は半分焼成が終わり、半分成形が終わって後は焼成するだけになっています。つまり大きな部品はほぼ出来上がっているのです。だからといって余裕があるわけではなく、残りの3分の1くらいの部品は小さくても手間がかかります。今まで夢中で作り続けてきて、床に置いた部品を眺めていると、まだこんなものかぁとガッカリすることもあります。作っても作っても不足感があって、実りのない労働のようです。時間ばかりが過ぎていくのは毎年のことですが、今年は一層時間に追われているような気がしています。雪に覆われた工房で、なかなか部品に覆われることがない進度に焦りを感じます。

週末 またもや陶土お預け

昨日降り積もった大雪で、またもや陶土が届かないことになりました。3週間前に栃木県益子町の明智鉱業に陶土600キロを注文し、それが近くまで来ているというのに、運送業者から電話があり、運搬はまた来週になりました。仕方がないとは言え、先週も雪、今日も雪で制作の根幹を成す素材がないというのは辛いものです。今日は残った陶土でタタラを作り、明日の成形の準備をしておきました。工房の周辺は積雪で大変な状況になっています。野外工房にある大きな樹木の枝が雪の重みで折れそうになっているので、長い棒で雪を払い落としました。工房は自分しか歩かない植木畑にあるので、そこまで辿り着くのが困難でした。ましてや車の出入りする工房シャッター前も大変な積雪になっていました。これでは陶土を運ぶ業者は入って来れないと思いましたが、午後から自分は職場に行かなければならず、今日は雪掻きはできませんでした。一週間経ったら雪は融けるでしょうか。自宅の玄関先は家内が雪掻きをしてくれていて、帰宅はちょっとホッとしました。明日は何が何でも成形をしなければなりません。制作のことを考えると大雪なんか眼中にありません。

再び積雪の日に…

雪国にあっては塵が舞う程度のことでしょうが、横浜では今年2度目の積雪になりました。職場は横浜駅近くにありますが、見る見る雪に覆われて銀世界になっています。仕事をしていると雪の情緒を味わう余裕はなく、交通機関の乱れを気にするばかりです。出勤時間帯の朝6時には少々の粉雪だったので革靴で来てしまったため帰宅は困難でした。滑りにくい雪靴の有難味を知りました。家内の胡弓のイベントは中止になりました。昨年はそのイベントが成人の日にあって、楽器二挺を抱えた家内を駅まで徒歩で迎えに行ったことを思い出しました。当時の制作で自分は木彫に課題を抱えていました。今は陶彫の量が課題になっています。積雪と厳しい制作状況が重なって雪に対するイメージがよくありません。冬場の時期は制作が佳境を迎えるので仕方がないのかもしれません。明日運搬業者が陶土600キロを持ってくることになっていますが、この積雪で果たして可能でしょうか。陶土が底をついているので是非運んでもらいたいと願っています。明日の午後は職場に行って仕事です。これも積雪のため通勤が困難になると思っています。

「意志と表象としての世界」まとめの前に…

何週にもわたってずっと読み続けてきた「意志と表象としての世界」(A・ショーペンハウワー著 西尾幹二訳 中央公論社)もそろそろ終盤に差し掛かり、ショーペンハウワーの思索が仏教思想に近づくような展開を見せています。「松岡正剛の千夜千冊」にある通り、西欧哲学にして初めて解脱に触れ、それが本書のまとめになっていくのではないかと思われます。それを示唆する文面があるので、引用いたします。「われわれは憎悪と悪心とはエゴイズムによってもたらされるものであること、そのエゴイズムは認識が『個体化の原理』にとらわれていることに基づいているものであることを見てきたが、さらにまたわれわれの正義の起源と本質は、この『個体化の原理』を突き破ってその奥を見とどけることであることを知ったのである。そしてこれに次いで、さらに進んでいけば、愛ならびに高潔心の起源と本質とは『個体化の原理』を看破するこのことの程度が最高度まで達した場合であることをも知った。ひとえに『個体化の原理』を看破できることのみが、自分を個体と他人の個体との間の区別をなくし、他人の個体に対する無視無欲な愛、高邁宏量な献身にまでいたる心の持ち方の完全な善を可能にするものであり、またこれらを説明するものである。~略~万物のうちに自分を認識し、万物のうちに自分の最内奥の真実の自我を認識しているそのような人であれば、生きとし生けるものみなすべての無限の苦悩をも自分の苦悩とみなし、こうして全世界の苦痛をわがものと化するに違いあるまい。~略~このようなときわれわれは断乎として徹底した諦念を通じてあらゆる欲情の刺をつみ取り、いっさいへの苦悩への入口を閉ざし、自らを浄化し聖化したいと念ずるようになるであろう。」

哲学から見た正義とは何か

「自発的な正義は『個体化の原理』をある程度まで突き破って見ているところにそのもっとも内的な根源があるが、しかるにこれに反し、不正な人間は『個体化の原理』にあくまでとらわれている。われわれの発見したことはこのことであった。『個体化の原理』を突き破って見ることは、それに必要な程度に行なわれるだけではなしに、さらに高度に行われて、積極的な好意や慈善へ、また人類愛へと人を駆り立てずにはおかない。個人に現われる意志がそのものとしていかに強力で、いかに精力的であろうとも、このような好意、慈善、愛は起こり得るのである。つねに認識がこういう強力な意志と釣合いを保っていて、不正への誘惑に抵抗することを認識が教えてくれるので、いかなる程度の善ですら、いな、いかなる程度の諦念ですら認識は生み出す力を持っているといえよう。したがって善人が悪人よりも根源的に弱い意志現象であるとみなすべきものではけっしてなく、善人にあっては、盲目的な意志の衝動を抑制してくれるのは、認識に他ならない。なるほど世の中には、自分のうちに現象している意志が弱いためにただ善良らしく見えるにすぎないような人々がいる。しかしこういう人々は、正しい善い行為を実行するに足るだけの十分な自己克服の能力をもっていないことでたちまち正体を暴露してしまうのである。」引用が長くなりましたが「意志と表象としての世界」(A・ショーペンハウワー著 西尾幹二訳 中央公論社)にあった正義に関する箇所です。文面の前後を読まないと理解が難しいところもありますが、好意や慈愛における認識について洞察しています。

祭日の貴重な制作時間

今日は建国記念日です。祭日の貴重な制作時間を有意義に過ごそうと朝から工房に篭りました。土錬機を回して土を練り、備蓄してあった陶土が底をつきました。次の土曜日に運送業者が陶土600キロを運び込んでくる予定になっています。「発掘~層塔~」はかつてないほど陶土を使います。毎週別々の陶土を土錬機で混ぜ合わせ、40キロの陶彫用陶土を用意します。週末2日間でそれを全部使い果たし、次の週にまた40キロを用意するという具合です。そんな制作サイクルで、このところずっと取り組んでいます。混ぜ合わせた陶土は小分けにしてビニール袋に包んでおきます。それで座布団くらいのタタラを8枚作ります。菊練りした後、掌で叩いて伸ばし、板に乗せてビニールで覆い、翌日まで放置します。そうすることで厚手のタタラが多少硬くなり、立ち上げた時に芯の強さが出るのです。残りの陶土は紐作り用に取っておきます。タタラだけではどうしても弱くなるところを、陶土を紐状にして巻きつけ、立体を補強するのです。自分の陶彫成形はタタラと紐の併用で作っていきます。40キロの陶土のうちタタラに使用するのが3分の2、紐に使用するのが3分の1といったところでしょうか。明日はまた公務員の仕事が待っているので、今日は土練りのみでタタラは作れず、次回持ち越しになりました。次の週末はタタラから成形に挑みます。「発掘~層塔~」は佳境を迎えています。

個人と国家の関わりについて

「理性を利用することで、利己心を組織的な方法で処理し、その偏った立場を棄てさせ、これによって容易にあみ出された手段、そしてしだいに完成していった手段こそ、国家契約、もしくは法律である。法律の起源については、すでにプラトンが、わたしがここで述べているのと同じようなことを『国家』編のなかで語っている。~略~さて、道徳はひとえに正義ないし不正の行ないだけを問題にするものであった。不正を行なうまいと断乎として決意した人に、彼の行動の境界線を正確に示してやることができるのが道徳であった。これとは反対に国家論すなわち立法論は、人が不正をこうむることだけを問題にするのであって、もしも不正を行なうという方面のことをも気にかけることがあるとすれば、つねに不正をこうむることとそれが必然的な相関関係にあるからにほかならないであろう。人が不正をこうむることこそ、国家論や立法論が妨げようとしている敵であり、その眼目である。いやそればかりではあるまい。よしんば不正の行ないがもくろまれたにしても、別の面からみて、それで人がなんら不正をこうむることにならないのだとしたら、国家は筋の上からいってもこの不正行為を禁止することはまったくないであろう。」引用は現在読んでいる「意志と表象としての世界」(A・ショーペンハウワー著 西尾幹二訳 中央公論社)からのものです。個人と国家の関わりについて改めて認識し、自分にとって分かり易さもあったので掲載いたしました。

週末 ものもらいになった日

数日前から左目に違和感がありました。昨日から左目の瞼が膨れ始め、ものもらいになりました。ウィークディの仕事が最近厳しいので、その疲労かなぁと思っていますが、原因ははっきりしません。ウィークディと週末、それぞれやるべきことは異なっても神経を使う仕事であることに変わりありません。そんなことで体力が消耗していたのかもしれません。片目が思うように開けないのは何といっても不自由です。しかも人相が変わってしまっていて、ただでさえ悪人顔をしている自分は、もうそれこそ極悪人のような風貌になってしまいました。職業柄他人の目を避けることは出来ず、明日は職場の説明会会場で話さなければならないことがあって、ものもらいには眼帯は不要ですが、人の目を気にして眼帯をしていくべきか迷っています。職場のイメージダウンになるのは、どうしても避けたいのです。左目が不自由でも創作活動は待ったなしで、今日も朝から夕方までやっていましたが、昨日降り積もった雪が明日の通勤に影響することを考えて、工房を早めに切り上げて、自宅に接する道の雪かきをしました。左目の瞼が重いので、雪かきをしていても反対の右目が疲れます。困った事態になりましたが、仕方ありません。しばらくは極悪人顔の心優しき管理職を務めていこうと思います。

週末 大雪が舞う工房にて

今日は大雪警報が出た一日で、朝からずっと雪が降り続いていました。昨年の成人の日の大雪を髣髴とさせる一日でしたが、朝から工房に出かけ、制作に没頭しました。底冷えのする工房でしたが、休むわけにもいかず、土練りやタタラ作りに精を出しました。運送業者から電話があり、栃木県益子町から陶土600キロが届いているが、今日は運べないというものでした。来週でも良いと答えました。工房の周辺は大雪に覆われ、車で入ってくることは不可能だと思いました。工房内のストーブは工房全体を暖めることは出来ず、手が悴んできました。それでも土練りをしていると身体が温まり、寒さは一時的に感じなくなりました。積雪は明朝の凍結が心配です。昨年凍結した坂道で仰向けに倒れて、背中を打ったことを思い出し、凍結した道には恐怖を感じます。自宅や工房は小高い丘にあるため、月曜日の早朝の出勤も心配です。多少遠回りしても安全な道を選ぼうと決めています。積雪が楽しいと感じた子供の頃とは違い、今では積雪で仕事に影響が出ることが気になります。ともかく明日も工房に行って様子を見ようと思っています。

くつろぐ心と解放する心

仕事から自宅に帰って、一番くつろげる場所が自宅だなぁと感じます。家内が用意する夕食を待つまで食卓でRECORDを描き、飼い猫をからかっていると心が癒されます。自宅でくつろげる幸せを噛みしめていると、手足が怠くなり、一日の疲れが取れている感じがします。自分は仕事の持ち帰りは一切しません。職場の個人情報を扱っているので持ち帰れないこともありますが、気分的にも自宅で仕事が出来ないのです。RECORDはウィークディの仕事とは異なりますが、それでも辛い時があります。くつろぐとはこういうことだと思います。心の解放はくつろぐこととは意識が異なり、主に工房で創作活動に向かう時にその気分が現われます。くつろぐ時とは違い、全身に力が漲って心は愉快になります。その気分が基盤になって集中力が生まれるのです。ウィークディの仕事とは別のところが緊張して、疲労の度合いも増しますが、それでも心の解放された状態は大変快いものです。ウィークディの夜のくつろぎと週末の解放感。これに支えられて生きていると言っても過言ではありません。

トラ吉を見て我が身を思う

飼い猫のトラ吉は最近寝てばかりいます。元来猫はよく寝る動物ですが、寒い日は起きてきません。若干暖かくなると、元気に飛び回っているので、気候の変化を飼い主よりも敏感に察知しているんでしょう。人間は気候の変化をものともせず、労働に勤しんでいて、そのせいか体調が不良になったり、気分が優れなかったりしています。気候の変化は自分が認知している以上に、身体に負担をかけているのかもしれません。トラ吉を見ていると、気候の変化に逆らわずに生きていて、可能なら自分もそうしたいと思ってしまいます。ペットを見て癒されるのは、人間の勝手な視点であって、ペットの側から言えば、与えられた環境に順応して必死に生きていると言っていいでしょう。人間の勝手な思い込みがペットにとって都合がいいのかどうかはわかりません。偶然に拾ったトラ吉は家の中で飼われ、定期的にエサが与えられ、柔和な環境で育っています。野性の本能は不要になり、自然における外敵と戦うこともありません。人間はこれを猫の幸福と理解していますが、果たして猫にとってどうなのでしょうか。学習はするけれど理性のない猫には眼前の事象が全てであって、そこには過去の振り返りも未来への展望もありません。ただ環境が厳しければ寿命が短く、外的刺激が少なければ長く生きるというように、これも自然の摂理だろうと思います。人間もストレスが少なければ同じように長寿を全うできるのかもしれません。

2月RECORD「匂い立つ土俗の構え」

今月のRECORDのテーマを「匂い立つ土俗の構え」にしました。自分は土俗性、土着性の強い造形が大好きです。アフリカを初めとする世界各地の仮面の収集もやっていて、自分の制作動機をそこに求めることがあります。アフリカの造形は20世紀初頭に活躍した画家モディリアーニやピカソが影響を受け、始原的なパワーに溢れた民族芸術を制作動機に取り入れたことは余りにも有名です。歴史的事実と言うことではなく、自分もアフリカを初めとする民族芸術に影響を受けました。素朴な木彫と斬新なデザインや独特な色彩に目を見張り、とくに仮面は所有したい願望が芽生えました。そのうち工房に仮面展示場所を作ろうと思っています。眺めているだけで、仮面は創作意欲を刺激してくれます。そんな土俗的な芸術をRECORDにしようと考えました。また今月も地道に頑張っていきたいと思います。

ミットライトペシミズムについて

ミットライト(共苦・同苦)ペシミズム(厭世主義)は、現在読んでいる「意志と表象としての世界」(A・ショーペンハウワー著 西尾幹二訳 中央公論社)の根幹をなす思想です。簡単に言えば、世の中も人生も苦悩に満ちている、であるから幸福を求めるということは、欠乏を認識してそれを満たす方向へ行くことだとショーペンハウワーは言っているのです。一理あると思います。そこで本書を分かりやすく解説しているものがないかとネットで調べたら「松岡正剛の千夜千冊」を見つけました。松岡氏曰く「われわれは自分の苦しみというものを、自分だけの苦しみだと感じていることが多い。けれども、多くの苦しみ、たとえば失意・病気・貧困・過小評価・失敗・混迷・災害などは、その体験の相対的な差こそあれ、結局は自分以外の誰にとっても苦しみなのである。まして、自分の苦しみが相手の苦しみよりも強いとか深いということを、相手に押し付けることはできない。相手も同じことを言うに決まっている。このとき、われわれは『共苦』の中にいることになる。誰だって『苦しみがない』などとは言えないはずなのだ。~略~世界は『共苦』を前提にできていて、そこから意志があらわれてくるのではないか。その意思の行方には放っておけば必ず欲望が待っていて、富裕や長寿や支配に向かおうとする。~略~ブッダが『一切皆苦』を出発点にしたことと、とてもよく似ている。」解説の抜粋をしましたが、内容がよく分かりました。今までいきなり難解な書籍を読んできて、解説があった方がいいと感じることもありました。ミットライトペシミズムは本書を総括するテーマで、内容全体の概観を掴むために分かりやすい解説が必要でした。

人生は苦悩に満ちている

「苦痛は避けがたく、一つの苦痛を追い払えば次のが現われ、前の苦痛が退けば新しいのが引き寄せられてくるというようなことを考え合わせれば、われわれは次のような仮説へ、すなわちそれぞれの個人において彼の本質をなす苦痛の量は彼の本性を通じて初めからちゃんと確定的に定まっているのであり、たとえ苦悩の形式がいろいろに変わっても、苦悩の量そのものはなんの過不足もなく一定しているのではなかろうかという、逆説的であるがしかし辻褄がまったく合っていないとも言い切れない仮説へと導かれるであろう。もしそうだとすれば人間の苦悩と幸福とは断じて外から規定されるものではなく、ほかでもない、今述べたばかりの量によってのみ、すなわちかの素質によってのみ規定されるものなのであり、いうまでもなく身体の調子いかんによって違った時期ごとにその量に若干の増減があり得るかもしれないが、しかし全体としてはその量は不変のままにとどまることになるであろう。」以上の引用は「意志と表象としての世界」(A・ショーペンハウワー著 西尾幹二訳 中央公論社)第四巻で、いよいよショーペンハウワーの厭世主義との言うべき世界に入り込んできました。ショーペンハウワーの哲学的考察の如何はともあれ、こうした考え方をまず自分は受容しようと思います。受け入れてみて初めて厭世主義の何たるかが解ると思うからです。そこから導き出される幸福とは何かは、案外現実味を帯びていて、手放しで人類の幸福や平和を謳っているものに比べれば、自分の性に合っているかもしれないと思っているところです。

週末 無我夢中の制作

2月は休日出勤があり、週末全部を制作に当てられません。昨日と今日は丸々制作が可能だったので、無我夢中で制作に取り組みました。毎年のことですが、この時期の陶彫制作で手がガサガサになります。ハンドクリームは必需品ですが、工房から自宅に戻ると手が皺だらけで、薬品だけでは賄いきれません。それでも制作サイクルに乗ってやっていると、気持ちは満足感でいっぱいです。この欲求を満たすことで幸福を感じます。欲求は次から次へとやってきますが、ハードルを乗り越えていく度に小さな達成感が得られるのです。陶彫部品をひたすら作ることに精を出す、ともかく作り続けていくことが今は肝心です。備蓄している陶土が残り少なくなりました。来週、栃木県益子の明智鉱業に連絡をして、陶土の注文をしなければなりません。土錬機を動かすのが週1回、窯入れと窯出しは週2回というのは、今まで二束の草鞋生活の中で頻度としては初めてで、さらに陶土の減り具合の多さも初めてです。来週末もこの調子で頑張ってやっていきます。

2月をどう過ごす

2月になりました。寒さが少しずつ和らいできたように思います。梅の花が咲きだす頃になれば風情も増しますが、今のところはまだ冷え込む日が続いています。工房のストーブは欠かせません。さて、制作状況ですが、「発掘~層塔~」の陶彫部品作りに焦りを感じています。全体の3分の1が出来てきたところでしょうか。焼成は頻繁に行っていて、窯の中が空くことはありません。このまま作り続けないと間に合わなくなります。2月もペースダウンすることなく、ひたすら作っていきます。まだ「発掘~層塔~」全体を把握するところまで至らず、全体を眺められるのはいつになることやら、気持ちばかりが空回りしています。こんな時ほど着実にやっていきたいところです。RECORDは難しい年間テーマを掲げてしまったので、悩むことが多いと感じます。コトバを捻り出すのが至難の業ですが、RECORDにコトバを添えて、一つの世界を作りたいので、ここが頑張りどころです。読書は引き続きショーペンハウワーの大著に挑んでいきます。ショーペンハウワー曰く「誰でも自分の心中に涸れることなき苦悩の泉をかかえて生きている」。まさにその通りで、困惑した状況を満たそうとするのが幸福への道のりであるなら、たとえ完全に満たされることがないにしても、先へ進んでいくことだとショーペンハウワーの大著では謳っています。今月も先へ進もうと思います。

「知識を増すものは苦痛をも増す」

苦痛、苦悩、苦悶は、可能な限り避けたい現象です。それを回避するため何かに縋ったり、逃亡したり、自己弁護をしたり、痛みを和らげる特効薬を使ったり、自分を含めて人生のうちにさまざまな苦しみがやってきます。苦しまない人生はありません。まず、人生には避けられない苦しみありきと考えた方がいいのかもしれません。哲学者は苦しみをどう考えるのか、「意志と表象としての世界」(A・ショーペンハウワー著 西尾幹二訳 中央公論社)に中に盛り込まれている文面を引用すると「意志の現象が完全になるにつれ、苦悩もますますあらわになるものだからである。たとえば植物にあってはまだ感受性がないから、したがって苦痛もない。~略~こうして認識が明晰で、知能が高い人であればあるほど、いよいよ苦悶は増大していくのである。天才をうちにいだいている人は苦悩ももっともはなはだしい。わたしはここで、『知識を増すものは苦痛をも増す』という『伝道の書』の言葉をとりあげ、これまで述べてきた意味で、つまりここでいう知識を、単なる抽象的な知識ということではなく、認識一般の程度ということに関連づけて理解することとしたい。」というもので、苦しみは知識に比例して増していくと述べています。本書を読み進んでいくと、苦しみに纏わる論考はさらに深まるようです。苦しみを人生の偶発的なものではなく、予定されていた現象として捉える箇所があって、その理論展開に興味を覚えます。

死生観について

昨日書いたNOTE(ブログ)に関連することで、死生観における哲学的な考察が、現在読んでいる「意志と表象としての世界」(A・ショーペンハウワー著 西尾幹二訳 中央公論社)第四巻にありました。「考えることをしない動物におけると同様に、人間においてもまた、自分は自然そのものなのだ、世界そのものなのだ、というかの最内奥の意識から生まれてくる安心感が平生は持続的な状態としては優位を占めているのである。死は確実で間近だという思想が、かくべつ人間をおびやかさないのはそのためなのであって、誰もがまるで自分は永遠に生きているに違いないとでもいうように、その日その日をやり過ごしている。」確実にやってくる死を意識しないで生きている私たちに対する考察が述べられています。また死の怯えは理性が防いでいるという箇所もありました。「理性的存在である人間の生が死の想念によって毒されたりしないよう、防いでくれるのである。このような意識こそ生活に対する勇気の基盤でもあるからである。この勇気のあるおかげで、あらゆる生物は一本立ちして、まるで死など存在しないかのように、自分の生にひたと目を据え、生に向かっていくかぎり快活に生きつづけることができるようになるのである。が、だからといってこのような勇気は、死がひとつひとつの場面で、実際に、いやよしんば想像においてにせよ、ともあれ個体に近寄ってきて、個体がいまや死をしかと直視しなければならないときに至り、個体が死の不安に襲われまいとなんとかしてこれを逃れようとする事態をなんらさまたげるものではない。」

終焉を受け入れる感覚

人生に必ず死が訪れる運命を、人はどんなところで受け入れるのでしょうか。自分の若い頃は、墓参りや葬儀の参列が嫌でたまりませんでした。線香が立ち込める寺院の雰囲気に馴染めなかったのでした。不思議なことに父が亡くなってから、父が葬られている菩提寺に行くと心が安らぐようになりました。自分の周囲の人たちの葬儀にも退屈を感じなくなり、むしろ心が落ち着き、リラックスしている自分に気づきます。加齢のせいでしょうか。それとも何か説明のつかないものが存在しているのでしょうか。死ぬことを受け入れるために芸術や哲学があると自分は信じ始めていますが、死生観という確固たる理論ではなく、それは根拠のない感覚のようなもので、終焉を受け入れるということをイメージしているのかもしれません。80代後半に差し掛かる母は、脚が悪いにもかかわらず、墓参りには行きたいと言っています。そこに行けば気持ちが落ち着くのでしょうか。自分はまだそこまでいきませんが、母に誘われて墓参りをするのは苦ではありません。自分に僅かながら終焉を受け入れる感覚が育っているように思えるのです。

自由な天使像を気儘に表現する

以前のNOTE(ブログ)に、RECORDで今月のテーマにした天使について調査し考察したい旨を書きました。結局時間がなくて、天使を自分なりに解釈してRECORDに自由気儘に描いているのです。過去に西欧の芸術家が扱った天使の図像を模写したり、まったく囚われずに抽象化してみたりして、天使がモチーフになっていても、結果として出来上がったRECORDは、まるで宗教を感じさせないものになっています。近現代の抽象芸術家が扱う天使にも自由な表現があって、天使像の表現の幅の広さに驚かされます。以前のNOTE(ブログ)に天使と悪魔との関係について書きました。これは面白いと感じました。一人の人間の心に善悪が同居して、心理としてその双方が現れるのは、日常生活の中でいくらでもあります。まさにファウスト的魂で、勧善懲悪として片づけられない微妙な状況の中で、人間関係の拗れで、天使と悪魔が交互に囁き、心に傷を負わない人はほとんどいないと言っていいと思います。身近な例をとれば画題は見つけやすくなります。広範囲な捉えで天使を描いてみようと思います。

「意志と表象としての世界」第四巻を読み始める

「意志と表象としての世界」(A・ショーペンハウワー著 西尾幹二訳 中央公論社)第四巻を読み始めました。昨年暮れからずっと本書に関わっていて、いよいよ最終巻になりました。自分は朝の通勤時間帯が一番頭に入るようで、電車に揺られながら構築された内容を目で追っています。帰りの時間帯は一日の疲れがあって本書の内容が頭に入らず、同じ箇所を繰り返し読むこともあります。通勤時間帯しか読書ができないので時間がかかるのは百も承知ですが、大著作にあっては内容が細切れになってしまって、前回の復習から始めないと先へ進むことができません。そんなことを思っていたら、第四巻の冒頭に前巻までの復習がありました。「意志はたんに自由であるばかりではなく、全能ですらある。行為が意志から出てくるのみならず、世界もまた意志から出てくるのであって、意志がいかに存在しているかに応じて、行為も現象するし、世界も現象するのである。」さらに哲学とは何かを解く文面がありました。「『哲学とは』世界が『どこから』来て『どこへ』行き、また『なぜ』であるかを問うようなことはなにひとつせず、常時に随所で世界とはそもそも『何であるか』だけをひたすら問題にする考察法である。~略~あらゆる相対関係のなかに現象こそすれ、自身では相対関係に従属せず、つねに自己同一を保っている世界の本質、すなわち世界のイデアを、考察の対象とするものなのである。芸術と同じく、哲学もまたかような認識を起点としている。」最後にショーペンハウワーの死生観が述べられている箇所を引用します。「われわれがなににもまして明瞭に認識しなければならないのは、意志の現象の形式、すなわち生命の形式ないし実在の形式というものが、もともとはただ現在なのであって、未来でも過去でもないということである。未来や過去などは単に概念のなかに存在しているものでしかない。つまり未来や過去は根拠の原理に従っているような認識の連関のなかにのみ存在しているのである。過去を生きた人はいないわけだし、未来を生きてみるというような人もけっしていないであろう。現在だけが生きることの形式なのであり、また現在だけが人間からけっして奪い取ることのできない彼の確実な財産でなのである。現在はそれのはらんでいる内容もろともにいつもそこに在る。現在といい、その内容といい、ともに動揺することなしに確乎として存在しているが、そのさまはあたかも滝にかかる虹のようなものだ。」

胡弓演奏と彫刻制作

日曜日は家内が胡弓の練習に行く日です。私は工房に篭って朝から夕方まで彫刻の制作に明け暮れています。工房での制作が終わる夕方6時頃に、家内から連絡があり、駅まで家内を車で迎えに行くのが日曜日の日課になっています。最近、家内の演奏関係の知り合いが亡くなって、家内は落ち込んでいました。夕方になって駅まで迎えに行くと、亡くなった人への想いを胡弓の調べに乗せて演奏してきたと家内は言っていました。自分には楽器があって良かった、表現の幅が広がったとも言っていました。とりわけ邦楽器は即興的な演奏をするため、情感が伝わりやすいのだろうと思います。音楽は時間芸術で、その時の高揚、感傷、情念などがそのまま表れます。ニーチェの哲学で言うディオニソス的魂で、そこに音楽が多くの人の共感を呼ぶ強みがあると言えます。自分がやっている彫刻は空間芸術で、その時の気分は作品に反映しません。粛々と積み上げる労働があるだけで、制作中の気分のコントロールは平常心を保つことに注がれます。これはアポロン的魂ですが、モニュメンタルな造形であればこその特徴とも言えます。情感に富む制作動機があっても結果を出すまでに時間がかかり、また素材を介在していくため物理的な認知も必要になります。同じ芸術表現であっても、まるで異なる精神の放出の仕方を改めて感じました。

群塔と波紋によるイメージ

週末になって久しぶりに工房に戻って来た感覚を持つのは、ウィークディの仕事が多いせいかもしれません。今週は次から次へと仕事に追われ、また課題を抱えながら勤務してきました。やっと週末に制作が出来ることを喜びたいと思います。「発掘~層塔~」の陶彫部品の多さに焦りを感じつつ、週末ごとの制作工程を一歩ずつ進めていこうと思っています。そんな矢先に次なるイメージが湧いてきました。イメージとして漠然と見えているのは、現在制作中の塔が数多く群がっている情景です。「発掘~層塔~」より細長い塔が、まるで集落を形成するかのように群がって、そこかしこに点在しています。それは床ばかりではありません。壁からも塔らしきモノが生え出ているのです。塔が立ち現われている生え際に波紋が広がっています。水面に突如現われた尖った蟻塚のような奇妙な都市とでも形容できるでしょうか。何とも説明がつかないイメージですが、自分の記憶から現れたモノであるのは間違いありません。しかも現在制作中の作品に囚われている最中に頭を掠めていったイメージで、メモを取らなくても忘れることのできないモノになっています。次作にするとなれば、曖昧なイメージに輪郭を与え、その情景を育てつつ具現化に動かなければなりません。今日は現在制作中の「発掘~層塔~」に埋没しながら、群塔と波紋のイメージに取り憑かれて暫しボンヤリする時もあった不思議な一日でした。

「意志と表象としての世界」第三巻の読後感

「意志と表象としての世界」(A・ショーペンハウワー著 西尾幹二訳 中央公論社)第三巻を読み終えました。自分が第三巻で注目し、共感したのは具体的な芸術に関わる部分です。第一巻は「表象」、第二巻は「意志」に関する論理を扱い、第三巻はそれを踏まえた「芸術の各分野」についての考察が述べられていました。建築、絵画、彫刻、詩文芸、最後は音楽でまとめ上げられた壮大な論考に、自分が印象付けられた箇所はかなりありましたが、締め括りに相応しい一文を探しました。「表象としての世界の全体が、もしも意志の可視性にすぎないのだとしたら、芸術はその可視性をいっそう鮮明にする仕事なのである。芸術は人生のとりどりの対象をいっそう純粋に示し、よりよく達観させ、よりよく要約させるところの暗箱だといってよいのである。~略~いっさいの美しいものの享受、芸術のさずける慰め、そして芸術家が人生の労苦を忘れてしまうほどの熱中ぶり、天才が他の人々より勝れているというこの一点こそ、芸術上の天才に、次のような報いを与えずにはおかない。すなわち天才の意識は明晰になるにつれてそれと同じ程度に苦悩が高まるということ、そして異質な人種に立ち交わって荒涼たる孤独感を味わわされるというあの報いを。」暗箱とはカメラの原型になったもので、16世紀以降多くの画家が用いたものです。時代は移って21世紀になった現在も、芸術家の役割や苦悩は大筋のところで変わることがありません。ここにきて「意志と表象としての世界」が漸く意図してきた全貌が見え隠れしています。「ミットライト・ペシミズム」とは何かが最終巻で述べられようとしているのです。やっと辿り着いたショーペンハウワーの現代まで継承された哲学的評価、その意味をこれから探っていこうと思います。