人間臭いハイデガーの生涯

現在読んでいる「存在と時間」(マルティン・ハイデガー著 原佑・渡邊二郎訳 中央公論新社)は途方もない難解さがあって、語彙ひとつひとつに思いを込めるハイデガーにゲルマン民族特有の理路整然とした構築性を見てとれます。そんな哲学者ハイデガーですが、人間臭い一面を垣間見て、何とも妙な気持ちになっています。発端は「存在と時間」に関する平易な解説はないものかとネットを調べた時に、松岡正剛氏による「千夜千冊」を再び紐解きました。以前にもニーチェでお世話になったので、これは2度目になりますが、ハイデガーの頁では導入からして突飛な話題が掲載されていました。大学教授の地位にあったハイデガーは、入学したばかりの女子大生と情熱的な恋に落ちて情愛を深めたというのです。これは不倫です。そんな馬鹿なことがあるか、何しろ「存在と時間」には恋愛沙汰など寄せつけない堅牢な理論体系があって、それを著している人は大哲学者にして聖人に違いないと自分は信じていたからです。でも真相は奇なるかな、師匠と愛弟子の関係が人間臭い関係になるなんて、そんなことは…と思ってはみたものの、それも分からないではないと思い返しました。ハイデガーも人間なんだ、優秀で魅惑的なユダヤ人女性が突如現れてしまったんだ、年齢は関係ないんだ、それは築いてきた自身の家庭とは別の問題なんだ、と自分に言い聞かせながら「存在と時間」をちょっと横に置いて、真相を確かめるべく「アーレントとハイデガー」(エルジビェータ・エティンガー著 大島かおり訳 みすず書房)を読んでみることにしました。亡くなった量義治叔父もカント哲学者で、愛とは何かを説くことがありました。叔母を生涯愛した叔父でしたが、ハイデガーのような本質の分析を試みていたはずで、叔父の中で愛がどんな位置を占めていたのか、叔父は敬虔なキリスト教信者でしたので、あるいはハイデガーのそれとは違い、魂レベルでの愛の存在だったのかもしれません。故人になれば全て謎ですが、ハイデガーくらいの大哲学者になれば、浮き名を流したことで脚光を浴びるのも仕方なしと思ってしまいます。

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