旧作からのヒント

現在は新作を始めて間もない時期ですが、今回の作品は旧作からヒントを得て、イメージを膨らませた作品になりそうです。10年前、2回目の個展に出品した「発掘~円墳~」と「発掘~地下遺構~」はテーブル状の彫刻作品でした。今思い返すと旧作2点はまだ整理が出来ていない部分があって、造形要素が多すぎる傾向が見られます。集合彫刻の陥りやすいところですが、さまざまな要素が盛り込まれているため、旧作を振り返り、その中から選んだひとつの要素を発展させていくことで新しい作品を生み出せるのではないかと思うところです。今回は要素のひとつから新作のイメージを掴みました。作品は作り続けていくと、思考が先鋭化していき、無駄なカタチが剥ぎ取られていくように思えます。贅肉を削り取ったカタチは美しいと感じています。そんな思いを抱きつつ新作の陶彫部品の制作に精を出しています。このところ職場の閉庁期間を利用して毎日工房に通っています。猛暑で作業をするだけでも汗が流れてきますが、ひとつイメージが決まれば、意欲に駆られて暫し暑さを忘れる瞬間があるのです。創作の呪縛が始まったと言っても過言ではありません。まだ具現化されていない新作を頭で思い描くことは何にも増して楽しいのです。その楽しさだけが自分を支えていると思っています。彫刻は日常で役に立たないモノですが、彫刻に限らず非日常なモノは自分の心を豊かにします。人が休暇を取り、さまざまな体験しようとするのも、非日常を求めてストレスを解消するためだと言えます。その究極が創作活動で、自らの中から非日常を創出することは至福の喜びです。周囲の人からすれば趣味とも遊びとも捉えられる行為ですが、自分にとって創作活動は精神のバランスをとる重要な行為なのです。

8月RECORDは「みわたす」

一日1点ずつポストカード大の平面作品を作っています。毎晩食卓で飼い猫のトラ吉に邪魔されながら制作しています。5日間を連作にして展開する絵柄にしていますが、具象から抽象まで表現方法はさまざまです。年間でテーマの表示方法を決めていて、今年はひらがな4文字でやっています。今月は「みわたす」にしました。今月の中旬にインドネシアに出かけます。仏教遺跡ボロブドゥールとその周辺遺跡を見に行くことが目的で、その遺跡に立ち、周囲を見渡して、空気を感じてみたいと思っているのです。テーマとして考えた「みわたす」は、まさに遺跡描写を試みるためのものです。インドネシアにまだ行っていない現在は、風景を象徴的に捉えたイメージを描いています。これは彫刻のイメージの蓄積とも考えていて、次に繋げるイメージ・トレーニングになっていると思っています。絵画的な描写を繰り返していると、そこに厚みや空間を感じとり、やがて実材が入り込んで立体になってしまう思考傾向が自分にはあります。RECORDにも立体として捉えている連作もあります。とりわけ古代建造物の参考資料を見ながらRECORDにしている場合は顕著です。今月は長期休暇がとれるため、通常は制作時間が圧迫されて睡眠時間を削りながら作っているRECORDを、じっくり時間をかけてやれる余裕があります。だからと言って完成度が高くならないのが創作活動の不思議なところです。因みに作品の完成度とは、力みすぎずに自然に完成に導かれる時に、突如良いものが出来たと実感することです。そんなことは滅多にないものですが、今月も奇跡を信じて頑張ってみます。

夏の閉庁期間始まる

晦日や正月がある越年の冬に休庁期間がありますが、今年度から私の職場では夏にも閉庁期間を設けることになりました。今日から来週の月曜日までが閉庁期間で、「山の日」と週末を除くと、閉庁日は5日間になります。お盆で帰郷する職員もいて、毎年この時期は全職員が揃いません。それならばいっそのこと全体で休もうと私が提案しました。メール便や新聞を止めて、電話も留守電対応にしました。有事には統括部署を通じて私の携帯電話にその旨が伝えられます。全職員を集めなければならない事態になることも想定して、私は職場から近い工房にいることにしました。今日から冬の休庁期間のように毎日制作が可能です。これは大変有難いことで、毎年個展に間に合わせようと綱渡り状態で作品を作っているので、この焦りが少しでも解消できれば幸いです。まず、閉庁期間の制作目標を立てることにしました。新作は、柱材と板材でテーブル状の構築物を6体作る予定ですが、使用する木材がまだ準備できていません。今のところ背の低い4体のテーブルを作ることが可能なので、これは閉庁期間で実行しようと思います。併せて陶彫部品も作っていきます。工房内の温度が高く、タタラはすぐ乾燥するため即時成形することが出来ます。それならば時間を空けずにどんどん作っていこうと決めました。5日間で成形加飾5点、ただし途中で土練機を回さねばならず、また暑さ対策もあるので、5点作るのはやや厳しいかなぁと思っています。これはあくまでも制作目標です。今日も朝9時から午後3時まで制作をしていました。高校生の若すぎるスタッフが来ていて、昼食はエアコンの効いたファミリーレストランに行きました。涼を求めて休憩を取った時間を除くと一日5時間くらいの作業がちょうどいいかなぁと思いました。汗でシャツが搾れるようでしたが、工房には小さな冷蔵庫があって、水を冷やしておけるのが唯一の救いです。水分をどんどん摂取した分、汗が噴出す、こんな状況を若い頃は何でもないと思っていましたが、今は夜になると身体が疲れて仕方がないのです。それでも閉庁期間はこのペースでやっていきます。

週末 暑さと向き合うために…

工房には空調はなく大型扇風機で暑さを凌いでいます。窓を開け放していても蒸し暑さは変わらず、どうしたらこの中で作業を進められるのか、その日の体調を考えながら、無理せずにやっていこうと思っています。温度に対する慣れも多少あるかもしれません。自分は汗っかきでバンダナやシャツがあっという間にびっしょりになりますが、それでも汗をかいた方が身体が動くような気がしています。本来自分は暑さが苦手です。ただ、管理職になる前は、まとまった時間が夏の時期しか取れなかったので、夏に創作活動を強行したのでした。真夏に汗を流しながら創作に勤しむことが自分の中で定着し、夏=創作活動というイメージになって、この季節が結構好きになりました。汗を滴らせながら土練りをしたり成形をしたりして数十年を過ごしてきたので、この習慣が楽しくなったとさえ思っていました。でも、この年齢になって作業後の疲労度が変わってきたように思っています。工房から自宅に帰ってくると、ソファに倒れたまま身体は動きません。管理職になってからの8年間は、夏と言えども週末しか休みが取れなかったので、週末の疲労はウィークディで回復しました。管理職と彫刻家では使う神経が異なるのです。今夏は全職員に対して自分が決定を下して閉庁期間を設けました。これは昔に逆行して、まとまった時間に創作活動を充てられることになったのです。嬉しいことですが、果たして毎日工房で暑さと向き合うことができるのか、何か手を打ちたいと思っているところです。明日から閉庁期間が始まります。創作上の目標を立てること、暑さ対策を考えること、ここで制作工程を少しでも先に進めるために、身体と相談しながら数日間を過ごしたいと思います。

週末 管理職研修から帰って…

昨日から箱根の湯本で横浜市公務員管理職による宿泊研修をやっていました。自分がまだ管理職ではなかった頃、この研修は凡そ公費による慰安旅行だろうと誤解していました。実際自分がこの立場になってみると、全て自己負担で140人以上の管理職が真剣に課題解決研修をやっていることがわかりました。もちろん管理職仲間の親睦を深める機会もあります。私たちはそれぞれの職場に戻れば、孤独な立場です。こんな研修も必要だろうと思います。宿泊研修から帰ってから、自分はすぐに創作活動に取り組みました。今日は新作に必要な木材の買出しに出かけました。長さ2メートル50センチの柱材を8本を購入してきました。材料の買出しはまだまだ続きますが、制作行程に応じて調達しようと思っています。新作には木材を多用します。イメージ通りの構築物が作れるかどうか、新作はまず木材による立体を作るところから始めます。陶彫は木材の組み立てと併行して進めます。工房内の蒸し暑さは凄いものがあって、長時間の作業は出来ません。明日は時間を上手に使って作業をやっていきたいと思います。

「ドナウで足を洗いたい!」

先日、東京葛西にある関口美術館に「堀内正和彫刻展」を見に行きましたが、当美術館は本館と東館があって「堀内正和彫刻展」は東館で開催していました。本館では「柳原義達常設展」をやっていたので、これも見てきました。彫刻家柳原義達は、戦後の具象彫刻を先導した一人で、鳩や鴉をモチーフに骨太の塑造美を追究した人でした。作品がまとまったカタチで展示されていたことに私は満足を覚えました。図録を拝見して、ちょっと驚きました。そこに石彫家中島修さんの文章が掲載されていたからです。以前、中島さんは柳原先生を師と仰ぎ、柳原先生宅に下宿していた旨を中島さん本人から聞いたことがあります。おまけに私は中島さんの文章を初めて見たので、そこに生前の中島さんの痕跡を感じて、ご本人のざっくりした言い方や緻密な彫刻を思い出し、何とも言えない気持になりました。その文章は「ドナウで足を洗いたい!」という題がつけられていました。一部を抜粋いたします。「先生をリンツの駅に迎えに行ったおり、先生は開口一番に『中島君、僕はドナウで足を洗いたい。』とおっしゃいました。~略~さっそく足を洗いにドナウに出かけました。先生は靴を脱ぎ、靴下を脱ぎ、ズボンをひざの上までまくしあげ(ついでに腕時計を河岸にはずされて)満足そうに両足をドナウに入れ…」という描写があり、どうやら柳原先生は腕時計を河岸に忘れてしまったそうで、そんなエピソードが綴られていました。柳原先生が他界された時に「私は急いで先生の骨粉を両手でかき集めて封筒に入れ、オーストリアに持ち帰りました。先生が生前、”ドナウで足を洗いたい”と言われたドナウにしずかに骨粉を流し入れました。」とあります。ドナウに散骨された日本人の巨匠は、天国でこの行為を見てくれていたのでしょうか。散骨した当人の中島さんも既にこの世におりません。さしづめ彫刻家柳原義達は、私が師と仰いだ人のさらに先の師と言えるのではないかと思ったのでした。

葛西の「堀内正和彫刻展」

日本の抽象彫刻の先駆者堀内正和に生前一度お会いしたことがあります。大学で彫刻を学んでいた頃、かれこれ30数年前になりますが、「彫刻の森美術館」と「池田20世紀美術館」を設計した井上武吉先生を講師にして2つの美術館を回るバス旅行に私は参加しました。その時、篠田守男先生とその師匠である堀内先生が同行されたのでした。町工場の社長さんのような佇まいの堀内先生でしたが、途中はお疲れのようで、美術館のソファに横になったりしていました。当時の写真が残っていて、井上先生も堀内先生も他界されたので貴重な記録と言っていいと思います。彫刻家堀内正和は、また文章の達人で軽妙洒脱で分かり易い説明に胸がすく思いがしました。展覧会評や現代彫刻のあり方について、ある時は自らの造形の変遷について、何の飾りのない素直な文章で述べられていて、私自身の頭と心の整理にも役立ちました。堀内彫刻も分かり易く簡潔すぎる形態を飽きることなく眺めていられる不思議な魅力があります。先日、東京葛西にある関口美術館東館で「堀内正和彫刻展」が開催されているので見てきました。部屋に数点置かれた幾何抽象の鉄の彫刻は、凛とした緊張感をもちつつ、親しみやすさもあり、胸襟を開いた立体という印象をもちました。作品にも文章同様胸がすく思いがするので、時折見たくなるのです。これは自分自身の雑念を洗い流すためでもあります。カタチの基本を成す丸・三角・四角という幾何形体、それが立ち上がって3次元空間になり、折られたり、曲げられたり、翻ったりして成り立つ彫刻。簡潔と言ってこれほど簡潔な世界はありません。また一方で、堀内彫刻にはカラクリのようなユーモアたっぷりの世界もあって、その遊び心が楽しいのです。久しぶりに触れた芯の通った堀内彫刻の基本的な世界観に、夏の暑さを暫し忘れさせてくれる清涼感がありました。

ティツィアーノの「受胎告知」

東京六本木にある国立新美術館で開催中の「ヴェネツィア・ルネサンスの巨匠たち」展には、ティツィアーノの祭壇画「受胎告知」が初来日しています。私が見に行った時も多くの鑑賞者が「受胎告知」の部屋で足を止めて、熱心に見ていました。ヴェネツィアのサン・サンヴァドール聖堂は、昔自分がヴェネツィアに行った際に訪れているかどうか定かではありません。ということはサン・サンヴァドール聖堂にある祭壇画「受胎告知」は自分は初めて見たのではないかと思っています。まず画面の大きさに圧倒されましたが、左側にいる大天使ガブリエルの存在感、右側のマリアの耳元のヴェールをつまんでお告げを聞く姿勢が、ちょうど劇でも観ているようなドラマ性を感じさせました。そこには「色彩の錬金術」と賞賛されたティツィアーノの面目躍如たる豊かな色彩世界が広がっていました。図録によると貴族や裕福な市民は寄進によって祭壇の保有権が獲得できたようで、「受胎告知」は大商人によって依頼されたものでした。さらに図録に面白い記事がありました。「芸術家列伝」(初版1550年)を著したヴァザーリが書いた一文で、初期のティツィアーノは細部も入念に描いていて賞賛に値するものだったが、晩年になるにつれ、筆致が粗くなり、ヴァザーリが戸惑う面が見られるのです。たとえば「老いによって不完全さに陥ることのなかった最盛期にあれほどの名声を得たのだから、いまさら出来栄えの劣る作品を描いて自らの名誉を損なわないために…」とあります。当時はティツィアーノの画風の変化をこのように捉えられていたようですが、現在からすれば「対象の自然主義的な再現を超えた、神秘的で霊的な絵画空間が経験されるのであり、80歳を過ぎた大画家が最終的に到達した深遠な精神的境地として畏怖の念をかきたてるのである。」(越川倫明著)というような評価がされています。私も実際に鑑賞して「受胎告知」に精神性を感じとることができました。

六本木の「ヴェネツィア・ルネサンスの巨匠たち」展

先日、東京六本木にある国立新美術館に「ヴェネツィア・ルネサンスの巨匠たち」展を見に行ってきました。私は20代の頃、ウィーンにいました。隣国のイタリアの街ヴェネツィアには鉄道で行けることもあって、複数回ヴェネツィアを訪ねています。今になって思えば、もっと長く滞在しておけばよかったと後悔していますが、あの頃は懐も心許なく、ヴェネツィア中央駅の広場で野宿をしたこともありました。当時アカデミア美術館や謂れのある教会も訪ねたはずですが、観た作品をほとんど忘れていました。唯一ティツィアーノの女性裸体画が輝くばかりに美しかったと記憶しています。ヴェネツィアは美術館よりも街全体が楽しくて、入り組んだ運河や迷路のような小路が、胎内潜りのような感覚を自分に植えつけたのでした。輝く裸体画という私の印象は満更適当なものではなく、図録にこんな文章が掲載されていました。「イタリアの他都市のような小さな宮廷をもつ君主国と違って、政治・経済を支配する当事者の数がより多い寡頭政の国家であった。~略~ヴェネツィアは、とりわけ対抗宗教改革の時代においても、ヨーロッパの他の国に比べて性に関して自由な都市であった。~略~16世紀以来、売春を目的とする旅行がフランス人やイギリス人によって行われていたことがわかっている。いずれにしてもヴェネツィアでは、比較的検閲がゆるやかであったため、抑圧や弾圧に悩まされることはなく、生の悦楽に満ちた絵画表現が可能であった。~略~ヴェネツィアは国際都市であった。それゆえ画家の国籍や文化の違いにも非常に寛容だった。ヴェネツィアでは、ユダヤ人、トルコ人、ドイツ人、アルバニア人など多くの外国人コミュニティが、共和国政府と軋轢なく平穏に共存していた。」今回来日していたアカデミア美術館所蔵の傑作には、こんな社会背景があったのだなぁと思いつつ、サン・サンヴァドール聖堂に収まっていたティツィアーノの巨大宗教画「受胎告知」の前で足を止めていました。同絵画に関しては別稿を起こします。

8月 時間を有効に…

8月になりました。暑い日が続いています。今月の前半は出張があったり、宿泊研修があったりして、現在のところ職場では休み気分に浸れませんが、今年度は今月5日間の閉庁日を設けることにしました。8日(月)から15日(月)までで、新しく制定された「山の日」の前後でまとまった休みを計画しました。加えて私は夏季休暇5日間を続けて取得しようと思っているので、横浜市公務員になって週末を含めると最大14日間の休みを取ることになります。これは社会人になって初めてのことです。再任用になって漸く企画できた大型連休、しかも自ら決定を下した閉庁期間、これで大丈夫かという思いも頭の片隅にあります。そこで閉庁期間は職場の有事に備えて、私は横浜から出ず、工房で制作三昧をしようと決めました。後半の夏季休暇はアジアの世界遺産を巡る旅に出ようと思います。今年はインドネシアの仏教遺跡ボロブドゥールとその周辺の遺跡群を見てくる予定でいます。仏教遺跡は必ずや新作へのイメージに役立つと信じています。そのため今月は時間を有効に使いたいと考えていて、職場の危機管理を頭に入れながら、創作活動に本腰を入れたい意向があります。今月は新作2点の完成イメージを掴み取らなければならないと思っているのです。鑑賞も遺跡だけでなく美術館等に行きたいと思っています。RECORDも継続です。毎年8月のRECORDにはアジアの世界遺産が登場しているので、今月もボロブドゥール遺跡を全身で体感し、情景描写を試みたいと思います。読書は相変わらずカフカに拘っています。出来るなら幅広い分野の書籍に挑戦したいと思っていますが、こればかりは節操がなくなるので、まず眼の前のカフカをしっかり読むことだと自分に言い聞かせています。今月も身体を気遣いながら頑張りたいと思います。

週末 7月を振り返る

今日が7月の最終日になり、11回目の個展が今月無事終えられたことが感無量で、あとはどうでもいいような気がしていますが、今月は勢い余って新作を進めたり、鑑賞も充実していました。振り返って見れば結構頑張れた1ヶ月だったと思っています。個展搬入までは緊張する毎日が続きました。陶彫の焼成でブレーカートラブルに見舞われたり、梱包用木箱作りを焦ったりしていたので、ギャラリーせいほうで展示が済んだ時は、ふっと気が抜けました。スタッフたちがやってきてテキパキ動いている様子を見ていると、自分のモヤモヤした気持が飛びました。鑑賞は「メアリーカサット展」(横浜美術館)、「ヴェネツィア・ルネサンスの巨匠たち」展(国立新美術館)、「堀内正和彫刻展」(関口美術館)の他、同じ職場の職員による油絵のグループ展や管理職仲間による「毎日書道展」(国立新美術館)にも足を運びました。今月は梅雨が明けて猛暑になりました。今日は工房に朝から篭りましたが、午前2時間、午後2時間という作業時間にしました。空調のない工房では大型扇風機を回していても一向に涼しくならず、頭に巻いた手ぬぐいから汗が流れていました。新作の陶彫部品に彫り込み加飾をやっていると汗が滴り、土肌に滲みこんでいきました。今日はスタッフのうちで最も若い女子高生が夏休みの課題をやりに工房に来ていました。美大付属高校に通っているため、今夏は40号の油絵が課題に出たらしく画布の下塗りをやっていました。彼女には工房があるので問題ないのですが、他の生徒はどうしているのか気になりました。自宅で描くしか方法がないようで、家族にとって迷惑な課題だなぁと思います。油絵臭もあるだろうに、家族に理解がないと続けられない世界だと改めて思いました。明日から8月です。そろそろ夏季休暇が欲しいと思うこの頃です。

週末 美術館を巡った一日

今日は久しぶりの美術館巡りの一日を過ごしました。何度もNOTE(ブログ)に書いてきましたが、制作と鑑賞は表裏一体で、自分の思索を深めるのに展覧会に行くのもそのひとつなのです。自分にとって作品に出会うワクワク感があって、朝から気も漫ろになります。今日は朝9時に自宅を出て、まず東京葛西にある関口美術館に行きました。関口美術館は初めてお邪魔した美術館でした。横浜にある自宅からは割りと遠い美術館で、本館と東館がありました。本館はマンションの1階部分にあって、彫刻家柳原義達の常設展示がありました。東館は抽象彫刻の草分け的存在である堀内正和の企画展をやっていました。ギャラリーせいほうにパンフレットがあって、それで情報を仕入れて出かけてみたのでした。2会場の展覧会の感想は後日にしたいと思います。次に葛西から六本木に移動し、国立新美術館に行ってきました。理由は「第68回毎日書道展」を見るためで、横浜の管理職仲間が書道をやっていて招待状を贈ってくれたのでした。彼の書は秀作賞を取っていて、なかなか見事な作品でした。それにしても出品者の数の多さに圧倒されました。昔の仕事仲間にも美術館の前で会いました。懐かしさが込み上げましたが、昔の友人も招待状をもらって見に来たようで、2階の奥に目指す作品があったと教えてくれました。漸く辿りついて彼の書を写真に収めました。書はまさに抽象絵画に近づいていて、退屈することもなく、寧ろ余白と墨の鬩ぎ合いが美しいと感じました。同じ美術館で開催されている企画点をもうひとつ見ていこうと思っていて、ルノアールにしようか、ヴェネツィア・ルネサンスにしようか迷いましたが、気分は印象派より中世に向いていたので「ヴェネツィア・ルネサンスの巨匠たち」展にしました。この感想も後日改めたいと思います。現代彫刻、書道、中世絵画とまるで異なる世界観をもった展覧会をぐるりと巡ったせいで、些か疲れました。関東地方は梅雨明けで夏空が広がり、気温も上昇していたため、駅から美術館まで歩いただけでも汗が噴出していました。明日は工房に行きます。この茹だるような暑さの中で、どのくらい新作が進められるのか心配ですが、熱中症を回避しながら頑張ってみたいと思います。

ドラゴン伝説について

今月のRECORDは「はばたく」というテーマで制作しています。羽ばたくイメージとして翼を描くことが多く、そのうち西洋のドラゴンにも翼があるとふと思いつき、ドラゴンについて調べてみました。ドラゴンは中国の龍とは起源が異なりますが、洋の東西で似た架空の動物が存在することが不思議で、これを比較して調べてみるのも一興かもしれません。ここでは西洋のドラゴンを扱います。ギリシャ・ローマの古代世界ではドラゴンと蛇は厳密に区別されていなかったようで、ネットによると象を絞め殺すほど圧倒的な力をもった大蛇がドラゴン発祥の源になっています。黄金色の鱗をもち、有翼のドラゴンが登場するのは中世からのようです。聖書には大天使ミカエルと闘った赤いドラゴンが登場し、それが悪魔と呼ばれるようになったそうで、ゴシック時代の図像では有翼のドラゴンが口から火を吐いています。さらに王がドラゴン退治をする「黄金伝説」(13世紀)がヨーロッパ全土に広がり、民衆劇の題材にもなって、現在のドラゴンに近い形態になっていきました。ネットには詳しい説明がありましたが、概説をすればこんな具合です。翼で飛ぶには、図像にある翼では小さすぎるというリアルな指摘もありました。架空の動物なので、そこはファンタジーを優先させていきたいと感じました。映画やアニメやゲームにも登場するドラゴン。凶暴なだけではなく知恵をもっていたり、人間を援助するドラゴンは、愛される怪物といったところでしょうか。

NOTEの考え方

知り合いの文筆家から、ホームページのNOTE(ブログ)の文章を簡潔化できないかと言われました。読み手のことをもう少し考えろと言うわけで、この不明瞭なNOTE(ブログ)を読んでいただいている方がいらっしゃることで、少なからず自分は感銘を受けました。いい訳になってしまいますが、NOTE(ブログ)は自分の感情の吐露であり、思索の途中経過であり、自分が制作工程を振り返るための記録です。悶々とした部分があって、読み手のことを考える余裕がないというのが正直なところです。それでもホームページにアップしている以上は、どこかに読者がきっといるはずなので、出来るだけ簡潔化に努めたいと思います。確かにアクセスは毎日あるので、自分の拙い感想なり理論なりに粘り強く付き合ってくださっている方がいることは間違いありません。自分にとってのNOTE(ブログ)の考え方は、造形的な創作活動と何ら変わることがありません。ネットは情報媒体による自己表現であり、NOTE(ブログ)における思索も感情吐露もネットという世界の中でのことと考えています。拡散も考えて、私の文章が誤解を生まないように、また個人情報をどこまで出すか考慮しながら毎晩書いている次第です。面倒くさい言い回しが得意だなんて言われたことがありますが、これは素顔の自分と言うより、やや武装した厚化粧の自分なのかもしれません。ネットを介さなければ自分は案外付き合いやすい人間ではないかと自画自賛しているところです。

カサット絵画におけるジャポニズム

19世紀から20世紀にかけてパリで印象派が活気を呈していた時代に、日本の浮世絵等がヨーロッパで紹介され、その画面の構成や色彩の象徴化に感銘を受けた芸術家が多かったのは美術史が示すところです。横浜美術館で開催中の「メアリーカサット展」でも同時代を生きたカサットが、喜多川歌麿や鳥居清長の浮世絵に影響されて、10点組の多色刷り銅版画を制作していました。本展では10点全てが展示されていて、カサット流の単純化が本当に美しいと感じました。日本絵画は線の文化で、西洋絵画は面の文化であると自分は思っています。日本は線で囲んだ面を平塗りしていて、西洋は面に陰影を作って立体感を描きだそうとしています。そうした文化の相違をカサットは上手に取り入れて、美しい線を獲得していました。当時の潮流で、マネの「エミール・ゾラの肖像」やゴッホの「タンギー爺さん」は背景に浮世絵を配置し、浮世絵の模写を試みていましたが、カサットは一歩踏み込んで、日本の絵画要素をアレンジして自己表現まで高めているように思えます。居並ぶ高水準のカサットによる印象派絵画の中で、この銅版画連作にふと親近感を感じたのは日本人として当然の感覚かもしれません。自分はとりわけ「手紙」と題された版画が好きです。ほとんど浮世絵といってもいいくらいの構図と内容で味わい深い作品のひとつでしょう。女流画家らしい肌理の細かさを感じます。

橫浜の「メアリー・カサット展」

先日、横浜美術館で開催している「メアリー・カサット展」に行ってきました。メアリー・カサットはアメリカ人の女流画家で、19世紀から20世紀にかけて印象派の潮流の中で活躍した人でした。来日していた多くの絵画は典型的な印象派の手法で描かれていましたが、どれも色彩豊かで溌剌としていて、モチーフに多く取上げていた母子像では温かみと強い絆をを感じさせてくれました。この時代に女性アーティストとしての地位を獲得するには偏見や障害があったと察しますが、図録によると「男性が支配的な分野での女性アーティスト、ヨーロッパの美術の中心地そして伝統の中で仕事をするアメリカ人、古い家柄や職業的つながりによって形づくられた世界での新参者として(カサットはひとつのモデルを提供した)。このような障害を乗り越える彼女の方法は、障害それ自体と同様に複雑で矛盾したものだし、時が経つにつれてその方法も変化した。」(N・M・モシューズ著)とあるように、性差を超えて認められることは、現在からすれば大変なことだったでしょう。パリに住み、彼の地の先進的な批評家たちによって支えられ、自らの才能を高いレベルに引き上げられた当時の芸術環境は、カサットにとってこの上なく大きかったのではないかと推察できます。「人生の最後まで、カサットは熱心に自らの時代の芸術とさまざまな問題について探求を続けた。それは歴史を記録するというより、自身の芸術を通して、人生の質、とりわけ女性、そして未来の世代の生(life)の質を高めようとするものだった。」(N・M・モシューズ著)

呪縛からの解放

毎年大きめの新作彫刻を2点ずつ作り続けていますが、制作に取りかかると作品のイメージの虜になってしまいます。イメージの具現化を目指し、どんなパーツがどのくらい必要か、完成にはどのくらい日数がかかるのか、ひとつずつの陶彫部品はどのくらい自由に作ることが可能か、それらを統合した場合にどんな効果が生まれるか、考え始めたらキリがありません。職場に制作イメージを持ち込むことは極力避けていますが、ふとした弾みに頭を過ぎることは結構あります。そうした行為は呪縛とも言えるもので、完成するまで解かれることはありません。創作活動には魔力的な何かが潜んでいると私は思っています。職場で自分はトップにいますが、組織的な対応をすることはあっても、自らの心の琴線に触れることは滅多にありません。職業人として職場の課題解決を図ったり、働く人たちの意欲を高める声かけをしているのは、組織を全面に出して自らを裏方に置き、自分は常に冷静に眺めて全体構成をする人たちのバランスをとらねばならないと自分自身に言い聞かせているためです。そこがたった一人でやっている創作活動と大きく異なるところで、職場では魔術に手足を絡みとられ、孤独な呪縛に悩むことはないのです。個展開催の足音が響いてくると、呪縛は一層厳しくなっていきます。嫌なら止めればいいと自分に問いかけますが、魔力に憑かれているためか、創作活動を止める発想はありません。終焉のひと呼吸が尽きるまで創作活動は止められないと思っているのです。もうひとつの職業は働く人たちの気持ちが掴めなくなったら辞めようと思っています。私がいると全体が上手くいかなくなり、別の管理職にお任せした方がいいと判断した時が辞職の潮時でしょう。現在創作の方は漸く呪縛から解放されて、次の呪縛が始まる予感がしています。解放を味わう僅かな時間を楽しみたいと思います。

週末 制作開始&鑑賞

個展閉幕から一夜明けて、今日から新作の制作を開始しました。自分は個展の余韻に浸ることを敢えてやりません。振り返らず進んでいこうとする姿勢を自分の信条としているためで、間髪を要れず矢継ぎ早に作り続け、休息は制作が乗ってきた時にとります。昨日搬出を手伝ったスタッフも今日から工房で自らの課題に向き合っていました。新作のイメージは既にあります。まず陶彫部品をひとつ作って、それから大雑把な制作工程を考えてみる方法をとっています。最初に手を動かしてみないと始まらないのです。そのうちにどのくらいの規模で全体を作っていくかが見えてきます。頭にあるのはギャラリーせいほうの空間です。毎年個展を企画していただいているので、ギャラリーせいほうの空間がスケールの基準になっているのです。今日のところは陶彫部品の成形をやりました。午後はスタッフ2人を連れて、横浜関内にある画廊に行きました。私の職場では自分と同じ二束の草鞋生活を送る職員がいます。「モダンアート展」にも出している彼は、横浜の仲間とグループ展をやっていて、その新作油絵を見てきたのでした。銀箔と青い色彩を使った抽象画ですが、最近は余白が増えて、平面空間がさらに簡潔化しているように思えます。今後の精進に期待したいところです。その後、桜木町に移動し、横浜美術館で開催中の「メアリー・カサット展」を見ました。女流画家として印象派の時代に活躍したアメリカ人画家の色彩で溢れた世界を堪能しました。同伴したスタッフ2人も女性だったので、何か共鳴するところがあったかもしれません。この感想は後日改めます。

16’個展最終&搬出の日

11回目の個展の最終日を迎えました。個展は自分にとって誇らしい面がありますが、自己内面世界を多くの人に見せるというのは恥ずかしい一面もあって、最終日を迎えることで実はホッとしています。今日は朝から懇意にしているカメラマン2人が個展会場の撮影に来てくれました。「発掘~環景~」は画像として面白く加工できると感想を洩らしていました。図録撮影の時と違い、ホームページにアップする時はカメラマンの趣味趣向を入れてもらうので、きっと楽しいデジタル画像が完成するのではないかと思います。午後は友人や職場の方が多くお見えになりました。ウィーンで付き合いのあった友人が30年ぶりに現れた時は、当時の節約を余儀なくされた留学生時代に引き戻されました。今回の個展は自分の過去と向き合う機会が多く、自分の生きた時代が走馬灯のように甦りました。山梨県でワイン会社を営んでいる従兄弟夫妻も来てくれました。親戚にはこのワイン醸造業者の他に考古学者や弾き語りの歌手がいて多彩な面々がいますが、文筆家や紀行作家の知人を含めると、今回の個展も例年に劣らず、さまざまな分野の人たちに来廊していただきました。芳名帳を開いてみると、10年以上も個展を続けていて良かったと思っています。皆様にはわざわざ東京銀座まで足を運んでいただいたことに心より感謝申し上げます。本当に有難うございました。最後に懇意にしている運搬業者2人と搬入搬出に関わってくれたスタッフの皆さんにお礼申し上げます。こういう人たちがいなければ彫刻の個展は出来ません。搬出はチームワークでスムーズに出来ました。木箱を山積みしたトラックを、私の運転する乗用車にスタッフを乗せて追走していると、業者とスタッフたちの尽力に有難さと温もりを感じます。来夏12回目の個展開催をギャラリーせいほうの田中さんと約束しました。このメンバーで今後も続けたいという思いでいっぱいです。

手許に戻ったルーマニア鳥瞰図

東京銀座のギャラリーせいほうでの個展に、紀行作家のみやこうせいさんが来てくれました。みやさんとは30年以上の付き合いで、最初に会ったのは1980年代のウィーン時代に遡ります。当時の私はウィーン国立美術アカデミーの学生でした。私の鄙びた下宿にみやさんはやってきて一宿一飯の恩義を彼に与えることになりました。それが契機になり、その後はあれよあれよと厚かましくも彼は我が家で多宿多飯となりました。その恩を感じてか、みやさんは私をルーマニアに誘い、一緒に本を出版しようと持ちかけられ、日本に何の伝手がなかった私は、彼の提案を呑むことにしました。それから、みやさんとルーマニアに行くこと数回、いやもっとあったかもしれませんが、当時社会主義国家だったルーマニアは、私たちの足取りを秘密警察が追ってくるような事態が頻繁にありました。みやさんは古来から残存する東欧の田舎の風習にカメラを向け、私は敬愛する彫刻家ブランクーシの足跡を訪ねる旅が始まりました。出版の話は1990年にやってきました。NHKブックス「ルーマニアの小さな村から」(みやこうせい著)でイラストは私が担当しました。溜め込んでいたスケッチや写真資料を使って、「マラムレシュ絵図」と「羊の季節」を水彩多色で、「マラムレシュ民家」をペン画で描き上げました。3点の見開きイラストを掲載した書籍が書店に出回ったのを今でも覚えています。その鳥瞰図3点が今日手許に戻ってきました。30年以上も前にスケッチをしたルーマニアの木造の民家や衣装や風俗、それをまとめ上げたイラストは私にとって懐かしく、またあの頃の生活を思い出させるような郷愁を誘うものでした。私は普段から旧作をあまり好ましく思っていないのですが、この鳥瞰図は独特の位置にあって疎かに出来ない迫力がありました。新作の並ぶ個展会場で、暫し過去と向き合った一日でした。

アジアの遺跡に思いを馳せて…

毎年私は夏季休暇の5日間を使ってアジア諸国を巡っています。今年で3年目になりますが、今年はインドネシアのボロブドゥール遺跡とその周辺を訪ねようと思っています。一昨年はカンボジアのアンコール遺跡群、昨年はタイのアユタヤ遺跡を見てきました。アジアの世界遺産を巡る旅行も3度目ですが、テロ等の世界情勢の急変があって、気楽な旅行というより無事に観光できたら幸いという思いが優先しています。私の作品のイメージの源泉は、20代の頃旅したトルコ・ギリシャのエーゲ海沿岸に広がる円形劇場や列柱が並んだ遺跡に由来しています。最近ではアジアの遺跡も脳裏を掠めていくので、イメージの上書きをしている傾向があります。古代の人々が構築したものを、そこの場で味わう喜びは格別です。自分のイメージに空気を呼び込み、その空間を歩いて捉えながら、摩滅した石壁に触れる楽しさは、創作意欲を刺激して止みません。そこは遥か遠い昔に人々の生活する場であったり、祈りの場であったりしたのでしょう。広場は大勢の人々が往来していたはずです。諍いに男たちが駆り出され、また農耕に勤しみ、子どもたちが戯れる場面もあったでしょう。現在では森林に閉ざされた遺跡群ですが、古代に思いを馳せて、心の中で時空を超えてみるのも一興かなぁと思っています。そんなイメージの膨らみや上書きを求めて、再び古代遺跡を味わってみたいと思っている今夏です。

ビーフシチュー&鳥鍋のサービス

このNOTE(ブログ)では職場について触れる機会が少ないのですが、職場で人間関係がうまくいくように私自身が仕掛けていることについて今日は書きたいと思います。職員はそれぞれ5日間の夏季休暇を来月末までに取ります。今年度からこの時期に私の職場では休庁期間を設定しました。ちょうど8月11日の「山の日」前後を休庁にしていますが、その前に暑気払いを行います。私も職場のコミュニケーションを大切にしたいので、夜の懇親会にも参加しますが、私自身が職員のために大鍋を使った汁物サービスを提供しています。これは管理職だからというわけではなく、私の得意分野だからやっているようなものです。料理は創作活動です。昨日は若手職員のためのノウハウ研修会を持ちました。10人程度の若手職員のためにコクのあるビーフシチューを作りました。窯出しパンも買ってきました。パンは手作りできないのが残念なところですが、工房には陶芸用の窯があるので、パン作りに挑戦しようと思えば出来るかもしれません。今日は全職員に鳥肉ベースのすまし汁を作りました。若手職員はよく食べてくれます。私が出来ることと言えばこんなことかなぁと思っています。私たちは専門家集団ですが、専門を超えて連携協力をする場面が多くコミュニケーションは必須です。職員全員が仕事のやり残しがなく、笑顔で夏季休暇を迎えることが出来ればそれに越したことはないと思っています。

「幻想耽美Ⅰ・Ⅱ」について

「幻想耽美」(パイ・インターナショナル刊)ⅠとⅡは、アンダーグランドやサブカルチャーで括れない現代日本の耽美的で多面的な作風をもつ造形作家たちを集めた書籍です。その心を抉るような表現は読者に衝撃を与えると言っても過言ではありません。そもそも耽美とは何か、「幻想耽美Ⅱ」に書かれた文章から引用します。「極論かもしれないが、他者から見て醜悪であろうがなかろうが関係なく、作家本人が〈美〉だと認めたことに作家本人だけが耽溺できればいい、というのが〈耽美〉なのだ。」(沙月樹京氏執筆)また、こうした傾向が西欧を発端としながらも、日本独自に深まったことについて「幻想耽美Ⅰ」の序文から引用します。そこには客体性情憬というコトバが登場しています。客体性情憬とは何か、文中のコトバを拾うと「『自身が客体であること』への、主体による情憬として成立する、本来は不可能な想像であり幻想である。多くの場合、少年・少女をその憧れの対象とするが、それは西欧的な意味での鑑賞対象ではなく、主体客体相互浸透的な自己愛の象徴である。~略~多くの客体性情憬的なアートが欧・米で決められた性の歴史的規範に激しい抵抗を示すのは、遠い過去にアンチ・ヘテロセクシャルな理想の記憶を持つからだ。ただし、表現として結実するそれらは、現実の同性愛の記録ではなく、飽くまでも自己愛の形象化としてのプラトニックな『少年性礼賛』、そしてその変形としての『少女性礼賛』であり、そこで情憬される少年・少女はいわば架空の、精霊的なイデアである。従ってそれへ近づくことは死への接近である。」(高原英理氏執筆)白状すれば自分が若い頃は、耽美な表現が体質的に合わず、それは現代美術の衰退であると決めつけていた時期がありました。いつからか耽美主義に死の匂いを嗅ぎつけて、そこから発想される生命への渇望が見えたときに、私は一筋縄ではいかない表現の深淵に惹かれてしまっていました。このゾクっとする感覚は何なのか、これも現代アートの一面を担っていると考えるようになりました。

16’個展オープニング

11回目の個展の初日を迎えました。今年も個展が出来たことで内心ホッとしています。こればかりは自分の健康状態や新作の完成ばかりではなく、ギャラリー側の事情もあるので、今年も企画を入れていただけたことに感謝です。運搬や搬入搬出に関わる人たちの力も大きいと自分は感じていて、そうした協力がなければ彫刻の展覧会は成り立たないのです。10年一区切りとは言うけれど、11年目に突入できたことへの意義は充分あったと思っています。懐かしい方々も銀座に足を運んでくれて、楽しいひとときを過ごすことができました。個展初日には毎年評論家の瀧悌三氏がお見えになり、批評を書いていただいています。瀧さんから数年前に縄文遺跡の直弧紋について研究するように示唆をいただきました。直弧紋の左右対称を崩した斬新さを知り、自作に生かしていると申し上げました。美術年鑑社の油井一人社長もお見えになりました。油井さんも毎年来ていただいています。最近は綺麗にまとまった彫刻が多く、私のような大きく厳つい作品は珍しいと仰っていました。ギャラリーの田中さんもそんなことを言っていました。置く場所を考えず、購入する側のことも考えていない作品は、現代彫刻界では相原だけと言われて、それは褒められているのか、批判されているのかわからないのですが、ギャラリーせいほうで企画していただいていることは、即ち認められているのだろうと勝手に解釈することにしました。23日(土)まで開催していますので、ご高覧いただければ幸いです。

16’個展搬入の日

いよいよ個展搬入の日を迎えました。11回目の個展とはいえ毎回作品が異なるので、作品がイメージ通りになっているかどうか緊張と不安が頭を過ぎります。朝9時過ぎに運搬業者2人がトラックで工房にやってきました。こちらは後輩の彫刻家と同じ職場の職員、大学院生、家内と私の5人で搬入や展示を行うことになりました。陶彫部品の入った木箱30個、シートで梱包した土台2体や折り畳み式の台座20体をトラックに積み込んで、10時前に横浜の工房を出て、首都高を走ること1時間、11時には東京銀座のギャラリーせいほうに到着しました。木箱やシートの梱包を解き、運搬業者には空っぽの木箱等を持ち帰ってもらいました。5人で銀座ライオンで昼食をとり、展示を始めました。毎年同じ流れで搬入や展示をやっています。昼食もいつも銀座ライオンを使っています。昼食を頬張っていると、また個展の季節がやってきたなぁという実感が込み上げてきました。展示作業は、毎年やっているのですっかり慣れていてスムースにいきました。展示してみると工房で見ていた作品と、ギャラリーで見る作品の雰囲気が変わっています。ギャラリーせいほうの白い壁と照明が作品を際立たせてくれるのです。照明計画はいつも後輩の彫刻家が受け持ってくれます。彼のセンスにお任せなのです。これはカメラマンと同じで、他者の感覚を入れた方が一層作品が引き立つと私が思っているからです。職場の経営も同じで、他者の能力を全面的に信頼した方が良い結果を生み出せるのです。今年の作品には本当に手を焼きました。よくぞここまで漕ぎつけたものです。展示が終わった時は感慨一入でした。明日は個展のオープニングです。懐かしい人たちに会えることが楽しみです。

週末 搬入前の最終点検

図録撮影時には現行の作品の一部の部品が不足していたり、それらの補填を急いだためブレーカートラブルに見舞われて窯内の温度が上がっていなかったり、とにかく今回の新作には苦労をさせられました。完成までの綱渡りというコトバを私は毎年使っていますが、今回ほど実態に伴った綱渡りがあった年はなかったように思います。それが証拠に今も窯内にまだ冷めやらぬ陶彫部品があるのです。それでも何とか明日の搬入に間に合いそうで、内心はホッとしています。今回は11回目の個展で、過去10年の間にはさまざまなアクシデントがありました。陶彫部品を接合するボルトナットを忘れて搬入に行ってしまい、慌てて銀座のギャラリーから橫浜の工房に戻って、忘れ物を持ってもう一度気を取り直して銀座に向かった時もありました。小さな部品が見つからず、搬入した日の夜に木箱を預かってくれていた業者の倉庫に行って、箱の中から小さな部品を見つけた時もありました。今回は慌てることのないように準備をしておこうと思います。先日、ふと気づいて芳名帳を購入してきました。図録も300冊ほど搬入時に持ち込もうと思っています。ガムテープ、ドライバー、筆記具等準備や最終日の搬出に必要なグッズも持ち込みます。1年1回のイベントは自分にとって命を削るような思いをすると言っても決して過言ではなく、ハラハラドキドキして初日を迎えるのです。今日の点検は時間をかけて、個展会場をイメージしながらじっくり準備をやりました。いよいよ明日は搬入です。

カフカ「城」の再読を始める

「城」(カフカ著 前田敬作訳 新潮社)の再読を始めました。先月の関西出張の時に新幹線の中で読んでいたもので、途中で放棄していたのでした。本著は読んでいくと何となく居心地の悪さを感じさせるような場面が多く、主人公の立ち位置がはっきりしない状況が見て取れます。以前読んだ「変身」にも同じような雰囲気があったので、これはカフカ文学の特徴なのかもしれないと思っています。カフカは旧オーストリア帝国に属していた現チェコのプラハに生まれたユダヤ人でした。41歳でその生涯を閉じていますが、生涯を通じて自己存在を問い、いかなる世界にも所属していない賤民感覚があったらしく、それをして彼の独特な文学が形成されたと言っても過言ではありません。西方ユダヤ人として生を受けたカフカは、正統ユダヤ教徒ではなく、かといってキリスト教世界にも属していませんでした。ドイツ語を使用していましたが、チェコ人ではなく、ボヘミア・ドイツ人でもなく、旧オーストリア帝国にも所属感のない存在でした。就労でも保険局吏員として市民階級や官僚にも属せず、家庭内では父親との関係で、作家としての自覚も薄い存在でした。そんなカフカが一見平穏を装いながら、所属意識を問いかける存在喪失を描いたとしても不思議ではありません。カフカはそんな宿命を負ったことで、新しい文学への扉を開いた偉業を成し遂げた作家ですが、生前の本人にはそんな意識はなかったかもしれません。今日から「城」の読破に挑みます。ニュアンスは若干異なりますが、哲学者ハイデガーの言った「世界内存在」を文学によって解釈し、また課題化した作品と私は考えています。

アインシュタインとの往復書簡

20世紀最大の物理学者であったアルベルト・アインシュタインと、同じく最大の心理学者であったジームント・フロイトの往復書簡が、フロイト選集「宗教論」(日本教文社)の巻末に収められています。これは1931年に国際連盟の勧告によるもので「精神生活の代表的人物のあいだに書簡の往復を活潑ならしめること。ちなみにこれはつねに、とくにヨーロッパ史の偉大な時期にこの形式において行なわれたあの思想交換にあやかるものである。つぎにまた、その書簡のためには、国際連盟ならびに精神生活の共通の利益に寄与するのにもっとも適したテーマを選ぶこと。さらにこの往復書簡を定期的に公表すること。」という内容でした。アインシュタインは「いま述べた少数者(このばあいには支配者)が、戦争によって苦しみかつ失うよりほかにすべのない国民大衆を自らの欲望に屈服させることができるなどというのは、どうして可能なのでありましょうか。」「多数者が上述の手段(すなわち時の支配者たる少数者は、とりわけ学校や新聞、およびたいていは宗教団体をも手中に収めているのです)によって、狂乱や献身の状態にまで熱狂させられることが、どうして可能なのでありましょうか。」「人間の精神的発達を、憎悪や殺戮という精神病に対して抵抗力をもつに至るまで、推し進める可能性があるものでしょうか。」という3つの疑問をフロイトに投げかけています。それに対してフロイトは得意とする精神分析を用いて現実の戦争防止論を述べていますが、人間の心にある破壊衝動を取り上げているため、些か戦争防止に絶望しているようにも感じます。それでもアインシュタインとともに平和主義者を標榜するフロイトは「戦争に対しては、体質的不寛容であり、いわばこのうえなく増大した異常嫌悪なのであります。」と言っています。これはドイツの独裁に対する不安や懸念が最高点に達していた当時のヨーロッパ情勢を物語るものだと感じました。

「人間モーセと一神教」読後感

「人間モーセと一神教」(フロイト著 吉田正己訳 日本教文社)は単元別に何度もまとめを行っているので、敢えて全体を通したまとめは行いません。読後感としては、フロイト自身が抱え込んだ血の濃さ故なのか、これはユダヤ民族に対し全身全霊を注ぎ込んだ力作でないかという感想を持ちました。本書で語られている内容が真実かどうかは別として、フロイトが専門とした精神分析を人類史に当て嵌めて論じたところに興味深さがあります。つまり、歴史学者とは違った視点があるわけで、本書は人類としての大きな捉えで精神の暗闇に切り込んでいく論文と言えるでしょう。最後のあたりでキリスト教についての論考がありました。「自らローマ市民パウロと名のるタルスス生れのサウロというユダヤ人がいたからこそ、彼の精神のなかにはじめてつぎの認識が発現したのである。すなわち、われわれは父なる神を殺害したがゆえに、かくも不幸なのだ、と。しかも、彼がこの真理の一片を、福音という妄想じみた表現による以外にはとらえられなかったというのは、きわめて理解できることである。その福音とは、われわれのなかの一人が、われわれの罪を浄めるために自らの生命を犠牲にして以来、われわれはあらゆる罪から救済されている、というものである。~略~この新しい信仰は、歴史的真実の源泉から流れこんだ力によって、あらゆる障害をうちたおしたのである。そして幸福をもたらす選民思想のかわりに、解放を与える救済思想があらわれたのである。」ユダヤ宗教から現れた新しい信仰であるキリスト教。キリスト教の救済思想は民族を超えて広く頒布され、国際化された宗教のひとつになりました。ところで、ユダヤ人の選民意識は今も脈々と続いているのでしょうか。ユダヤ人の中にはキリスト教に改宗する人も多いのではないかと思います。フロイトも厳粛なユダヤ教徒というわけではなさそうです。これをもって「人間モーセと一神教」を終わりたいと思います。

魂の誕生について

魂とは何か、創作活動や芸術行為に頻繁に出てくるコトバで、事実私もよく使います。魂は目に見えるものではなく、精神世界に属し、生命の証しとして存在すると私は思っています。この私の解釈は正しいのでしょうか。フロイトの「宗教論」にこんな一文があります。「彼(モーセ)の神(一神教)は、名前の顔も持っていなかったが、これはひょっとすると、魔術の誤用に対する新たな防止策だったのであろう。しかし、この禁止を受け入れたばあい、これは徹底的な作用をおよぼさざるをえなかった。なぜなら、これは、抽象と呼ばれる観念に対して感覚的知覚が軽視されていることを意味した。すなわち、感性に対する精神性の勝利、厳密に言うならば、心理学的に必然的な結果をともなった衝動放棄を意味したのである。~略~《思考の全能》とは、言語の発達に対する人類の誇りを表現したものであったし、この発達は知的活動のきわめて異常な促進をともなった、とわれわれは考える。観念や記憶や推理過程などが権威をもつ精神の新帝国がここに、感覚器官の直接の知覚を内容とする程度の低い心理活動に対して、対立的なものとして創始された。たしかにこれは、人間形成の途上におけるもっとも重要な段階の一つであったのである。~略~全世界はたましいを吹き込まれ、ずっとおくれて登場した科学は、世界の一部からふたたびたましいを追いだすために、たっぷり仕事をしなければならなかったが、まだ今日になってもこの課題は片づいてはいないのである。」つまりモーゼが興したユダヤ教は、それまでの偶像崇拝の多神教にはない抽象的で精神的な世界観を持つに至り、思考が全能を支配することになったとフロイトは述べています。それは感覚的(視覚・触覚)世界から知的精神性(形而上)の世界への移行発展であり、魂という概念が誕生したことを意味するものだったと言えます。知性や精神性は、偶像を持たない一神教から始まったとフロイトは結論づけています。

「人間モーセと一神教」総括と反復について

「人間モーセと一神教」(フロイト著 吉田正己訳 日本教文社)終結部には、さらに「総括と反復」という最終部分がつけ加えられています。言わばこれは継ぎ接ぎだらけの論文で、時期的に発表を控えてみたり、条件が整って発表してみたりして、フロイトの遺言にしてはきちんと収まらなかった論文であったと言えそうです。それもそのはず、モーセをエジプト人と断定し、モーセがユダヤ教ばかりではなくユダヤ民族をも作ったとしているから、周囲の反発は想像に難くありません。つまり、もともとユダヤ民族なんていなかった、一人の人間が創作した抱き合わせの民族がユダヤ人だとフロイトは言ってしまったのです。そのためユダヤと決めた人々に優越感をもたせるため選民意識を植えつける必要があり、一部エジプトで行われていた割礼の儀式を持ち込んだわけで、簡単に言ってしまえばモーセは遺伝子操作をしたことになります。これは妄想が過ぎるという批判は当然あったでしょう。さらにフロイト流精神分析学の中で重要な位置を占めるエディプス・コンプレックスを当てはめると、息子(民族)による原父殺し(モーセ)があったと結論付けをしています。モーセが自民族によって殺されたという記録はどこにもありませんが、フロイトの理論ではそういうことにしておかないと論理が通らないことになってしまうのです。これは眉唾モノか、論理の飛躍か、物議を醸すことになることは承知の上で、フロイトは自論を発表していたようです。私は日本人なので当事者意識がなく、この唐突にやってきた理論に「へぇ?」と反応するしかありません。折しもナチスドイツによるホロコーストがあった時代です。ユダヤ人は何故徹底的な嫌悪対象になったのか、そこにフロイトにこの論文を書かせた本当の理由があったのかもしれません。