魂の誕生について
2016年 7月 12日 火曜日
魂とは何か、創作活動や芸術行為に頻繁に出てくるコトバで、事実私もよく使います。魂は目に見えるものではなく、精神世界に属し、生命の証しとして存在すると私は思っています。この私の解釈は正しいのでしょうか。フロイトの「宗教論」にこんな一文があります。「彼(モーセ)の神(一神教)は、名前の顔も持っていなかったが、これはひょっとすると、魔術の誤用に対する新たな防止策だったのであろう。しかし、この禁止を受け入れたばあい、これは徹底的な作用をおよぼさざるをえなかった。なぜなら、これは、抽象と呼ばれる観念に対して感覚的知覚が軽視されていることを意味した。すなわち、感性に対する精神性の勝利、厳密に言うならば、心理学的に必然的な結果をともなった衝動放棄を意味したのである。~略~《思考の全能》とは、言語の発達に対する人類の誇りを表現したものであったし、この発達は知的活動のきわめて異常な促進をともなった、とわれわれは考える。観念や記憶や推理過程などが権威をもつ精神の新帝国がここに、感覚器官の直接の知覚を内容とする程度の低い心理活動に対して、対立的なものとして創始された。たしかにこれは、人間形成の途上におけるもっとも重要な段階の一つであったのである。~略~全世界はたましいを吹き込まれ、ずっとおくれて登場した科学は、世界の一部からふたたびたましいを追いだすために、たっぷり仕事をしなければならなかったが、まだ今日になってもこの課題は片づいてはいないのである。」つまりモーゼが興したユダヤ教は、それまでの偶像崇拝の多神教にはない抽象的で精神的な世界観を持つに至り、思考が全能を支配することになったとフロイトは述べています。それは感覚的(視覚・触覚)世界から知的精神性(形而上)の世界への移行発展であり、魂という概念が誕生したことを意味するものだったと言えます。知性や精神性は、偶像を持たない一神教から始まったとフロイトは結論づけています。