「幻想耽美Ⅰ・Ⅱ」について
2016年 7月 19日 火曜日
「幻想耽美」(パイ・インターナショナル刊)ⅠとⅡは、アンダーグランドやサブカルチャーで括れない現代日本の耽美的で多面的な作風をもつ造形作家たちを集めた書籍です。その心を抉るような表現は読者に衝撃を与えると言っても過言ではありません。そもそも耽美とは何か、「幻想耽美Ⅱ」に書かれた文章から引用します。「極論かもしれないが、他者から見て醜悪であろうがなかろうが関係なく、作家本人が〈美〉だと認めたことに作家本人だけが耽溺できればいい、というのが〈耽美〉なのだ。」(沙月樹京氏執筆)また、こうした傾向が西欧を発端としながらも、日本独自に深まったことについて「幻想耽美Ⅰ」の序文から引用します。そこには客体性情憬というコトバが登場しています。客体性情憬とは何か、文中のコトバを拾うと「『自身が客体であること』への、主体による情憬として成立する、本来は不可能な想像であり幻想である。多くの場合、少年・少女をその憧れの対象とするが、それは西欧的な意味での鑑賞対象ではなく、主体客体相互浸透的な自己愛の象徴である。~略~多くの客体性情憬的なアートが欧・米で決められた性の歴史的規範に激しい抵抗を示すのは、遠い過去にアンチ・ヘテロセクシャルな理想の記憶を持つからだ。ただし、表現として結実するそれらは、現実の同性愛の記録ではなく、飽くまでも自己愛の形象化としてのプラトニックな『少年性礼賛』、そしてその変形としての『少女性礼賛』であり、そこで情憬される少年・少女はいわば架空の、精霊的なイデアである。従ってそれへ近づくことは死への接近である。」(高原英理氏執筆)白状すれば自分が若い頃は、耽美な表現が体質的に合わず、それは現代美術の衰退であると決めつけていた時期がありました。いつからか耽美主義に死の匂いを嗅ぎつけて、そこから発想される生命への渇望が見えたときに、私は一筋縄ではいかない表現の深淵に惹かれてしまっていました。このゾクっとする感覚は何なのか、これも現代アートの一面を担っていると考えるようになりました。