発表のために制作する日常

一昔前は作品を作り溜めておくことをしていました。展覧会やホームページで発表しなければ、旧作が気に入らなくなったら再び手を入れることが可能で、過去の作品は常に現在の表現に更新されていました。現在は毎年7月に東京銀座で個展をしている関係で、昔のような作り溜めはありません。貯蓄なしの自転車操業で、時に危ない綱渡りもやっています。これが10年も続いているので、既に習慣化していて、自分の生きる張り合いにもなっています。自己表現に迷いがあったり、自分が表現に成熟を感じていない状態であれば、こうした発表に追われる日常は危険です。自分が燃え尽きたり、潰れてしまうかもしれないという追い詰められた精神状態になることが考えられるからです。作品はいずれにしても発表するために作るモノです。鑑賞者に見てもらうことで、コミュニケーションを図り、それによって観る側も作る側も心を活性化させることが目的です。一日1点制作を課しているRECORDもホームページにアップすることでデジタル面での発表をしています。今ではもう自分が作る全てが発表対象となっていて、自分の密かなメモは存在していません。日記ですらNOTE(ブログ)にしてしまう自分がいます。二足の草鞋生活がある以上、当分はこんなオープンな状況を続けるしか方法がありません。現在の仕事を退職して時間が持てたら、この状況を変えていくかもしれません。若い頃の作り溜めをもう一度してみたいと思っているからです。

仕事の多忙化解消に向けて

この新聞記事を転載すると、自分の業種がわかってしまう可能性もありますが、今日は橫浜市公務員管理職の中で自分が取り組んでいる研究課題について書こうと思います。昨年、経済協力開発機構(OECD)が私たちの仕事に関する超過勤務時間のことについて新聞紙上で公表しました。各新聞社が取り挙げていた調査では、34カ国の中で日本が特筆して多いことを示していました。私たちの仕事に残業手当はありません。というより専門の研究を含めると、どこまでがONでどこからがOFFなのか線引きの難しいところがあるのです。人との関わりで仕事をしている私たちは、関係者との個別対応や関係機関との打ち合わせがある一方で、事務処理も多く、それら全てに亘って勤務時間内に仕事を終わらせることが出来ないのです。職員の生きがいや仕事の達成感は、この業種には充分あると言っても過言ではなく、それがあるが故に全てを効率化するわけにはいかないと私は考えています。それでもどこの職場でも休日出勤者が多く、職員によってはほとんど休んでいない人もいます。これを何とか解消をしたいと現在研究に取り組んでいるところです。

橫浜の復興橋保全の取り組み

先月末の神奈川新聞の記事に目が留まりました。「橫浜『復興橋』保全へ」という見出しで「凝った意匠の歴史遺産」と副題がつけられていました。記事によると、関東大震災で崩壊した橋のうち昭和初期には187橋を復興したそうで、時代を経て河川の埋め立てや道路建設などで、現在は41橋が当時の姿で残っているそうです。私は中区打越の切り通しを車で通るとき、打越橋のもつ鉄筋構造の美しさを見て、橋は建造物の中でもとりわけ美しい景観をしていることを改めて認識しています。新聞によると「橋の四隅にあり、頭部に灯具を設けた『橋柱』をアールデコ調にするなど凝った意匠が施され、それぞれの橋が昭和初期の趣をよく残しているのが分かる~以下略~」と書かれていて、灯具は金属が不足していた第二次大戦の頃に撤去されたものが多いそうで、今後は当時の意匠を忠実に再現していく方針が示されています。橫浜の財産保全の考え方は素晴らしいと思います。美観を保つための努力もあるようで、市民としてエールを送りたいと思います。私が橋を美しい造形だと認識したのは、広島県の錦帯橋を見てからです。非の打ちどころがない完璧な構造体、しかも木材によって作られた優美な姿に眼を見張りました。長崎県に行った時も市内を流れる河川にかかる石造橋の美しさに魅せられました。橋は人々が日常利用する建造物でありながら、アートとしての魅力があると私は見ています。地元横浜にも魅力ある橋が数多く残されていることを知って大変嬉しく思います。しかもアールデコ調の橋柱があったとは、何と言う素晴らしさだろうとワクワクしてしまいます。

涼風のたつ9月になって…

9月になりました。夏の気配はどこにいったのかと思えるほど涼風がたっています。先月から始まった陶彫の新作ですが、先月はあまりにも暑かったため、制作が今ひとつ進んでいませんでした。今月は巻き返したいと思っています。陶彫部品はとりあえず10個の成形・加飾を終わらせることを今月の目標にします。幸い今月は5連休があります。5連休中は今のところ休日出勤がないので制作に没頭できそうです。今月は美術館にも足を運びたいなぁと思います。秋には興味関心のある展覧会が予定されているので楽しみです。昨晩は従兄弟のライヴに行ってきました。従兄弟は弾き語りで歌を歌っていますが、今回はドラムとリードギターのメンバーを加えた元気なロックバンドになっていました。横浜でライヴをやる時は必ず聴きに行っています。今月も先月のように映画に行きたいと考えています。ライブもそうですが、夜の楽しみがあった方が一日が充実します。RECORDも時間をやり繰りして継続していきます。日によって集中したり緩慢になったりして、なかなか思い通りにならないのですが、今までのRECORDの蓄積を眺めていると継続への意欲が湧いてきます。まだまだRECORDもこれから展開可能だと思っています。読書はフロイトの「夢解釈」に引き続き挑みます。精神分析学は哲学より多少理解し易いように思えます。焦らず休まず続けていくこと、これが自分の生き方になっていて、地道ながら良好な結果を生むと私は考えています。今月もコツコツと頑張っていこうと思っています。

8月最終日に思うこと

ここ数年残暑というものがなくなってしまったような印象を持ちます。9月に入っても蒸し暑いのは頂けませんが、急に冷え込んで朝夕寒さを感じるのは不思議な感じがします。若い頃過ごした欧州の気候のようですが、今日も肌寒い一日となりました。今日で8月が終わります。振り返れば今月はアユタヤ遺跡を見にタイへ旅行したこと、池田宗弘先生を訪ねて長野県の麻績村へ行ったこと、友人の個展やグループ展に足を運んだこと、ミニシアターで映画を3本も観たこと等が思い出されます。暑い日々が続き、工房での制作にも影響しました。汗が滴る中で新作を始めました。全体設計やら材料の購入をしました。新作に取り掛かる時、例年沸き起こるワクワク感が酷暑のため薄らいでいるのを感じながら、ともかく今月は3点の成形を進めました。読書は途中休憩を挟みながらフロイトの「夢解釈」に挑んでいます。RECORDは一日1点の原則が、日によって前後しながらも頑張っていました。健康面では左肩に出ていた五十肩が、右肩に移って整形医院にリハビリに通うようになりました。8月はそれなりに頑張ったと自己評価していますが、暑さのせいにして制作が緩かったように思えます。来月は挽回しないとならないかなぁと感じています。

週末 工房ロフトの見積もり

今日も昨日に引き続き、朝から工房で制作に明け暮れました。新作の陶彫部品成形は3点目になりましたが、乾燥具合で皹が入る可能性もあり、予断を許さない状況です。実際に新しいカタチはどうなるかわからないのです。カタチや制作方法が定番化している陶芸とは異なり、陶彫ではイメージ優先のためカタチに無理な箇所もあり、陶土の収縮がどこに影響するのか、長い間陶彫をやっているくせにまるで見当がつきません。新作は旧作でやっていた有機的なカタチではないので、今までの経験が生かされません。それでも成形3点をやって、どうなるのか様子を見ることにしました。今日も若手スタッフが来ていて、朝から自らの課題に取り組んでいました。いつものような週末の風景と言いたいところでしたが、今日は工房の追加工事をお願いしている業者が見積もりをもってやって来ました。工房の倉庫部分に天井板を嵌め込んで、その空間にも軽量な作品が置けるスペースを作りたいと考えています。言わばロフトです。鉄で階段も作り、かなり本格的なスペースにしたいと思っています。業者の見積もりと、自分が考えていた費用の折り合いがついたので、改めてこの業者に追加工事をお願いしました。契約成立です。現在倉庫に保管してある陶彫部品がパッケージされた木箱は、そのまま倉庫に置くとして、その他の木彫した柱や平面作品はロフトに置こうと思っています。そうなれば倉庫部分の空きスペースが多少確保されます。ついでに仮面コレクションを飾る壁を作ってもらうことにしました。今のところ工房は作業をするだけの無味乾燥な空間ですが、仮面を飾ることによって雰囲気が出てくるのではないかと思っています。少しばかりの装飾は必要かなぁと思っていて、工房でスタッフと過ごす時間を考えれば、創作意欲を高める演出があってもいいと思います。

週末 陶彫制作の継続

先週から陶彫による新作を作り始めています。今日は凌ぎ易い気温で、朝から工房に篭ることが出来ました。このところ急に涼しくなって、工房に来ていた若いスタッフたちも疲れが出ているように見えました。タタラと紐作りで2個目の陶彫部品を作ったところで、「新作の部品は今までと傾向が違いますね。」と若いスタッフから指摘されました。確かにその通りで、新作は構築性を全面に出したモノになっていて、全体としては建築的なイメージです。有機的な曲面を可能な限り使わないようにしています。今日も時間が経つのが早く感じられました。制作に集中している証拠かなぁとも思っています。新作は直径3メートルの円形劇場のようなカタチになりますが、一番外側の陶彫部品20個を早く作りたいと思っています。この20個を円形に配列すれば、全体の方向性が早くも見えてくると考えています。タタラがなくなって、また土錬機を回して混合陶土を作る必要があります。明日は土練りをやって、可能なら3個目の成形に取り組みたいと思っています。陶彫制作の土練り→タタラ→成形→彫り込み加飾→乾燥→仕上げ→化粧掛け→窯入れというサイクルが出来つつあります。明日も朝から制作継続です。

「夢の歪曲」まとめ

なかなか読み進められない「夢解釈」(フロイト著 金関猛訳 中央公論新社)ですが、第四章のまとめをします。第四章では、第三章で論じられた「夢は欲望充足である」という内容を基に、複数の患者とのカウンセリングの中で、欲望充足に対する異議申し立てがあったことに関して、フロイトが返答し、また異議の本質を突き止めれば欲望充足を裏付ける解釈になることが主題になっています。文章を所々引用して、この章論のまとめにしたいと思います。「苦痛な内容の夢も、それを解明すると、欲望充足であるのが明らかになることには~まだ異議はあるにしても~十分な信憑性があるように見えてきたと思う。~略~夢にこうした不快感が繰り返し現れるからといって、だからそこに欲望はないということにはならない。他人には伝えたくない欲望や、自分自身でも認めたくない欲望はどの人間にもある。他方、私たちは、これらすべての夢にそなわる不快な性格は夢の歪曲という事実と関連づけてしかるべきだと考える。~略~夢の歪曲とは検閲行為であるという事実が証明されるのである。不快な夢の分析によって明るみに出された事柄すべてを考慮に入れれば、夢の本質を表す定式は次のように改めるべきだろう。夢は『抑え込まれた、あるいは、抑圧によって追い出された』欲望の『偽装をほどこした』充足なのである。」

RECORDにある具象画

一日1点ずつ小さな平面作品を作っていくRECORDですが、いつか旅行をした時にその場でスケッチをして、その日の記録を絵で留めようと考えていました。今までも旅行をした印象をRECORDに描き留めてはいますが、その場でスケッチをしたことはなく、旅行中にスケッチできる余裕がなかったのでした。ツアーで参加した海外旅行での貴重な体験でさえ、写真に収めてもスケッチは出来ず、写真にした画像を基にRECORDを描いています。その中で実際にスケッチした僅かな作品と言えるのが2012年10月のRECORDです。先日アップした時に、当時のことを思い出しました。ホームページで御覧になっていただければわかると思いますが、これは写実ではありません。カタチを歪めて遊んでいます。「嗜好」というタイトルでビール缶やペットボトル、駄菓子やパンを描いています。パンは職場にある自動販売機にあったもので、1種類ずつ選んで昼食にして、その場でスケッチしました。3年前の懐かしい具象画です。

12‘RECORD 8・9・10月分アップ

久しぶりにホームページにRECORDをアップしました。RECORDには月毎のテーマがあって、それをタイトルにしてコトバをつけたいと考えたのは、自分の高校時代から続く現代詩への憧れがあるためです。詩の表現は自分にとって羞恥を伴い、コトバで内面を吐露することに今も抵抗があります。それでも書店に並んだ詩集を手に取ると、自分の感情の襞に触れるコトバに出会うことが多いのです。説明も分析もない語彙同士のぶつかり合いに、自分は不思議な世界を描くことが出来ます。詩を読むと無性に作品が作りたくなります。自分の得意分野である空間のイメージが湧くこともあります。漢字やひらがな、カタカナという日本語表記の豊富さに日本語文化で育った喜びを感じることが出来ます。これらは全て詩のおかげです。ただし、興味関心のあまり自分で詩作をしようとすると、忽ち壁に突き当たって己の語彙力の貧困さに苦しむことになります。今回アップした3ヶ月のテーマは「螺旋」「分離」「嗜好」でした。造形作品とコトバに直接な関連はありません。コトバが造形の説明にならないようにコトバはコトバとして新たに作ったものです。学生時代から訓練している造形思考と、憧れだけで何もしてこなかった詩作ではかかる時間が圧倒的に異なり、それ故にホームページのアップが遅れることがあるのです。それでもコトバによる表現が憧れであることに変わりなく、今後も時間がかかるのは承知の上で、コトバを捻り出していきたいと思っています。私のホームページには左上にあるアドレスをクリックしていただければ入れます。ご高覧下されば幸いです。

映画「さよなら、人類」

昨日の続きのNOTE(ブログ)になりますが、先日観た映画に関する感想を書いてみます。「さよなら、人類」は第71回ヴェネチア国際映画祭金獅子賞を受賞した映画で、スウェーデン人の監督による人間の本質を醒めた視点で捉えた摩訶不思議な作品になっていました。CGは使わず、巨大なスタジオにセットを組んで、1カットずつ構図や配置を綿密に計算して作り上げた、大変手の込んだアナログ映画だということが観ていて伝わりました。配色の統一、遠近法、演劇的な空間処理という演出の中で、坦々と語られるのは日常としての死を含めた生活です。人は生きていく上で滑稽な関わりや皮肉な場面や憐憫を生む状況があり、それでも登場人物たちが電話で言う「元気そうで何より」という挨拶が如何にも日常的で楽観的な台詞に聞こえます。映画では面白グッズを売る冴えないセールスマン2人を縦軸にして、欲望の虜になった舞踊教師や傷つきやすい国王等が登場してきますが、その全てに亘って人間の哀愁や苦楽や可笑しさみたいなものが流れていて、シーンの脈絡として繋がっているのはそうした人間の存在そのもののような気がしました。動きや台詞を極端に限定した画像作りを見て、私は荻上直子監督の「かもめ食堂」に代表される一連の作品を思い出しました。「さよなら、人類」ほど多くを語る映画ではありませんが、似た手法に日本人独特な間合いを感じた映画でした。「さよなら、人類」を見て、その脈絡に新しさを感じなかったのは、これが原因だと思っています。映画を見終わった後、微妙な感想を持ったのは、そうした心理描写が日本人には決して不思議なモノではないことがあって、世界で絶賛された描写のユニークさが自分には伝わらなかったと思えてなりません。

映画「ターナー、光に愛を求めて」

先日、橫浜のミニシアターに出かけて表題の映画を観てきました。イギリスの巨匠ターナーの光に溢れた絵画群を、以前に東京都美術館で見て感銘を受けたところなので、この映画全編に亘る映像美には驚きを隠せませんでした。戦艦テメレール号の解体される最後の雄姿を、舟に乗ったターナーが見ていた設定にして、ターナーの描いた世界そのままを映像に仕上げる技術に圧倒されました。まさに眼前で動いている絵画世界がありました。ターナーの主題とする光と潤いに満ちた丘や湖が現れる映像は、今もイギリスに残る風景でしょうか。ターナーの色調に迫る映像処理が行われていて、溜息が出るほどです。ターナーの人間性は監督の解釈によるところが大きいかもしれませんが、史実を基にターナーを中心とする周辺人物を色濃く描いています。その演出も事実と見紛うほどになっていて、ドラマとしての説得力を大いに楽しみました。ターナーには若い頃に描いた有名な自画像があって、それは己を美化して描いていますが、映画で主演をしていたT・スポールは中年の醜さの漂うターナーを演じています。どっちが本当のターナーに近いのか、想像してみるのも一興かもしれません。ロイヤル・アカデミーに展示してある数多くの作品に、その場で画家たちが自ら手を入れているシーンに自分は個人的な関心を持ちました。その場でターナーと同世代のライバルであるコンスタブルとの絵画表現上の鞘当てがあったり、嫌みたっぷりな批評があったりして、これがドラマとは言え、自分はこのやり取りに少々疲れました。ターナーの生涯、絵画から抜け出してきたような映像美、創作する者としては羨ましくもある映画だと思いました。

週末 新作の方向性

朝夕の暑さが少しずつ変わってきました。若干ですが、爽やかな空気の気配が感じられます。今日も朝から工房で新作の陶彫部品の成形に取り組んでいました。まだ初めの1個目を作っていますが、集合彫刻の場合は、最初の1個目が全体の方向性を決めていくことが多いのです。今日は建築的な構成要素を盛り込んだ最初の陶彫部品を作り上げ、このパターンを展開させていく方向性を打ち出しました。従来の作品よりもさらに建築に近い作品になるように思えます。野外に残る円形劇場の遺跡が発想の原点なので、今まで発展させてきた生物的な都市空間は影をひそめることになるかもしれません。今日は新作の方向性を決めた点が特筆できることです。まだ新作の制作が始まって間もないのですが、午後のひと時は集中力が高まり、周囲が見えなくなる至福の時が訪れました。あっという間に夕方4時になり、今日の作業を終えました。相変わらず汗が噴出してシャツを何枚か替えましたが、緊張感があった時間帯はシャツを替えるのも忘れ、眼の前の陶土との対話に没頭していました。かなり前からこの瞬間が訪れるのを期待して作業を進めていますが、集中力の高まった瞬間がやってくると何故か気持ちが安定して、不思議な満足感が得られます。次段階への発展が楽しみになっています。来週末も頑張りたいと思います。

週末 新作陶彫を作り始める

今日は朝から工房に篭りました。今日は私に関わりがある美術系の高校生が夏休みの宿題をやりに工房に来ていました。今日は先日練っておいた陶土をタタラにするところから作業を始めました。菊練りした陶土を適当な塊にして、掌で叩き続けて座布団大のタタラを作ります。通常陶芸で扱うタタラとは大きさが違い、1枚ずつ力を込めて厚さ1センチのタタラにしていきます。陶彫部品は大きいのでタタラだけでは保てず、陶土を紐状にして補強をしていきます。いわゆるタタラと紐作りの併用です。厚みがあるのは成形後に彫り込み加飾をやるので、その削り分を考慮しているのです。今日はたったひとつの陶彫部品も完成しませんでしたが、水を打ってビニールで包んで明日に持ち越すことにしました。初めの陶彫部品は慎重に造形していくのが自分の癖になっていて、これで次から次へ弾みをつけていくのです。午後は高校生を車で送りながら、同僚の女性管理職が横浜山手のエリスマン邸でテキスタイルによる個展を開催しているので見に行きました。紺や白の布を使い、こまめに縫い込まれた幾何模様が美しいと感じました。向かいの洋館ギャラリーでも、私と同じ研究会に属する管理職が陶芸の展覧会をやっているので見てきました。以前に見たことのある懐かしい作品も並んでいました。帰りがけに行きつけの店に立ち寄って木材を仕入れてきました。週末はあっという間に時間が過ぎていきます。明日も頑張ります。

五十肩を抱えて整形医院へ

今年初めに左肩が痛くて、左肩を回すことが出来なくなりました。以前NOTE(ブログ)に書いた記憶がありますが、左手で電車の吊革に捕まることも困難で、着替えにも不自由をしていましたが、右手が何の苦もなく動いたので、全て右手頼りでした。陶彫部品や木材を持ち上げたり、鑿を振るったりすることは、不思議なことに左右関係なく出来ていました。水泳もリハビリ程度の泳ぎができていました。ところが最近になって左肩が治ってきて、今度は右肩が痛くなりました。左肩はすっかり完治しているわけではないので、これはかなり厳しいものがあります。とくに朝の寝起きの時に激痛が走って最悪です。これは整形医院に行かなくてはならないと思って、今日出張先から整形医院に駆けつけました。レントゲンを見ながら、これは典型的な五十肩だと医師のコメントがありました。両肩の完治にはまだまだ時間がかかるというもので、いつでもリハビリに医院に来いと言われました。貼り薬や飲み薬を調合してもらって帰ってきました。何も手を施さなくても治るようですが、痛みを和らげるために当分リハビリに通うつもりです。

ちょこっとミニシアター

仕事が終わって帰宅した後、家内と自家用車で横浜中区の下町に出かけました。通いなれたミニシアターに映画を見に行ったのでした。シネマジャック&ベティは旧名画座をリニューアルした映画館で、私たちは50代の割引を使います。車を近くのコインパーキングに入れて、上映前にレストランで夕食を済ませるのが恒例になっています。映画を観た後も車で帰ってくるので、体力的な消耗もなく、とても楽しめる夜になります。今晩は映画を2本観ました。ひとつはイギリスの著名な画家ターナーの生涯を扱った「ターナー、光に愛を求めて」でした。新聞評で映像そのものがターナーの絵画のように美しいとあったので、これは絶対観たいと思っていたのでした。期待通りの肌理細やかな美しさに溢れた映画でした。詳しい感想は機会を改めます。次に観たのは「さよなら、人類」でした。第71回ヴェネチア国際映画祭金獅子賞受賞作品という栄えある映画で、アカデミー賞受賞の「バードマン  あるいは無知がもたらす予期せぬ奇跡」を抑えての快挙と、これも映画誌の評欄にあったので、きっと面白いに違いないと決めていました。私自身はこの映画を観終わった後に、実は微妙な感想を持ちました。既に観た方はいかがだったでしょうか?これも感想は機会を改めたいと思います。いずれにせよウィークディの夜に楽しいひと時を持ちました。今月は美術館に行っていないので、映画鑑賞を充実させたいと思っていました。ただし、レイトショー2本立てというのは些か疲れました。帰宅は11時を過ぎていました。

「夢は欲望充足である」まとめ

一度中断した大著を再度読み始めるのには結構労力がいるものだと思いました。栞が挟んであるにも関わらず、どこまで読んだのか見当がつかなくなって、その前後を眼で追い始めて、漸く中断していた精神世界が見えてくる按配なのです。今読んでいるのは精神分析の道を開かんとする医学関係の大論で、唯心論的な哲学書と異なり、論拠に具体性を伴うので、内容の捉えが比較的楽に出来ることがまだ救いと言えます。「夢解釈」(フロイト著 金関猛訳 中央公論新社)は、既に第三章を読み終えていて、現在第四章に入っていますが、ここで読み終えた章論のまとめをしておきます。第三章で取り挙げているテーマは「夢は欲望充足である」というもので、対象とした患者に見られた夢やフロイト自身の夢にも欲望充足の一面が見られた記述がされています。フロイトの家族、とくに幼い娘や息子の憧れを補う夢にも触れて、微笑ましいエピソードとして論考を寄せています。最後に諺を取り挙げた文章を引用いたします。「言語の宿る知恵は、確かにときおりは夢について軽蔑的に語るー言語の知恵は『夢はうたかた』と言い切るのだから、言語は科学が正しいと認めているではないか、と言う人もいるだろう。しかし、慣用的な言い回しにおいては、ほとんどの場合、夢がやさしく欲望を充足するものとされている。自分の期待以上のことが実現したとき、人は大喜びで『まったくもってこんなことは夢にも思わなかった』と叫ぶのである。」

バンコクで爆破テロ

先日旅行してきたばかりのタイのバンコクで爆破テロがありました。テレビには爆破された繁華街の様子が映し出されていましたが、自分たちが行ったばかりの場所なので、驚きをもって映像を見ていました。タイは比較的安全と思って、ツアーに参加しましたが、安全はどこにもないということを実感しました。私の印象ではバンコクに物々しい雰囲気は無く、どこにでもある街の雑踏がありました。バンコクは外国からの観光客が多く、欧米やアジアから文化遺産見物や買い物に多くの人々が訪れていました。楽しかったバンコクの印象が一転してしまう事件は、バンコクに限らず、どこでもあってはならないものだと思います。今後の観光業に影響することは必須で、タイ旅行を躊躇する人もいるだろうと察します。バンコクは仏教を中心とする東洋的な建造物が魅力的な街並みを作っていて、人々は優しさに溢れていると感じました。そんな街でもテロがあることを知り、翻って東京や横浜は大丈夫かという心配が頭を過ぎります。東京オリンピック・パラリンピックを控えている日本で、テロ対策は万全なのか、今や自分にとって身近になったバンコクが、決して対岸の火事とは思えなくなっているのです。

コミュニケーション・ツールとしてのアート

私が所属している研究会で、アート作品が都市計画の中に進出していく状況を、自分の挨拶の中で述べることにしました。私が幼い頃は、大人に美術館に連れて行ってもらって、抽象作品に触れていました。それだけでも子どもの私には、作品の前で首を傾げるほど不思議な体験になっていました。落書きのような作品、画面を汚しただけのような作品が、何故美術館にあるのかという奇妙さが印象に残りました。私の周囲では抽象作品の解説なぞ望めるはずもなく、そんな気持ちを抱えたまま高校生になり、美術を専攻する道を選んだことで、漸く抽象作品の抽象たる所以がわかってきました。私が大学で彫刻を学んでいた頃に、私の師匠を初めとする多くの彫刻家が、立体作品を美術館ではなく、都市計画の一部として街角に据えることをしていました。欧州の街には広場があって、そこに抽象彫刻が数多く置かれています。そんな街作りが日本でも始まってきたと言うべきでしょうか。大衆の前に突如現れた作品は、ステンレスや硬化プラスティックの単純化されたシャープな形態が多く、それらオブジェが街の景観を映し出し、野外を取り込んだカフェや洒落た店舗と相俟って素敵な都市生活を演出しています。最近では街の風紀を変えるため、アートを取り入れた街作りが進んでいます。地方の活性化にもアートが一役買っています。コミュニケーション・ツールとしてのアートが定着しつつある現状を踏まえつつ、私たちは次なる造形的かつ空間的提案をしていくべきかなぁと思うこの頃です。

週末 新作のパーツ作り

今日は朝から工房に篭りました。まだまだ工房内は蒸し暑く、汗が滴り落ちました。若いスタッフたちもそれぞれの制作で頑張っていました。私は新作の陶彫部品を木材による構造体で支えるパーツを作っていました。新作は直径3メートルの円形を作ります。ちょうど円形劇場のような擂り鉢型になります。その外側は20体の構造体で構成しますが、その20体にはそれぞれ2つの陶彫部品が接合され、木材を陶彫部品で覆います。新作は木材が外に見えない構造になっています。まず、今日のうちはひとつのパーツを作るところから始めました。モデルをひとつ作ってみることによって、全体の見通しが立つのです。自宅から持ってきた小さな冷蔵庫にペットボトルを入れて、水分を補いながら作業を進めました。若いスタッフたちも小さな冷蔵庫に喜びの声を上げながら、ひたすら作業に没頭していました。昼には最近恒例となった近隣のファミリーレストランに涼を取りに出かけました。午後3時過ぎにも若いスタッフとレストランに休みに行きました。暑すぎて工房に長く篭っていられないのです。冷蔵庫で冷やした水分があっても、精魂傾けた制作には2時間おきに休みが必要だと判断しました。今日は久しぶりに朝9時から夕方6時近くまで長い作業を行いました。私はシャツを4枚換えていましたが、若いスタッフは替え着を持っていず、しかも女性たちなので、帰りは家の近くまで車で送りました。今日は思いの他作業が進みましたが、早く凌ぎ易い季節に移り変わってほしいものだと痛感しました。

週末 冷蔵庫が来た日

NOTE(ブログ)のアーカイブを見ると先月15日(水)に「洗濯機が来た日」という記事を載せています。家電が壊れるときは一気にくるようで、今回は冷蔵庫が駄目になりました。冷蔵庫も長く使っている家電で、実は実家から譲ってもらったものなのです。つまり自分にとって冷蔵庫を購入するのは人生初の出来事です。ただ洗濯機の場合は壊れそうな状況であったので、早めに手を打ったのでしたが、今回の冷蔵庫は壊れてしまうまで気付かない状況でした。この暑い夏に冷蔵庫に入っているモノが全て食べられなくなるという悲劇は大変なものです。そこで手持ち出来る小さな冷蔵庫を家電量販店で買いました。そこに壊れた冷蔵庫のモノでまだ使えそうなモノを移し替え、大型冷蔵庫が届く日を待っていたのでした。小さな冷蔵庫は、今回の役目を終えれば工房に持って行こうと決めています。工房の暑さも半端ないので、冷たい飲み物が多少でもあれば熱中症も防げるかもしれないと考えたのです。果たして冷蔵庫はやってきました。最新の冷蔵庫の機能に驚くばかりです。我が家の家電は、これでパソコン、テレビ、洗濯機、冷蔵庫と次々に新品に変えてきました。まだ何かあるのだろうか、通帳を見ながらヒヤヒヤしている今日この頃です。

兵士が彷徨うリアルを描く「野火」

久しぶりにミニシアターに足を運びました。横浜の下町にあるシネマジャック&ベティは、自分にとって行きつけの映画館と言っても差し支えないところです。今回は家内とレイトショーで塚本晋也監督・主演による「野火」を見てきました。聞きしに勝る表現力に感銘しました。これは商業映画ではありません。採算が取れるかどうかわからない内容だからです。しかしながら監督の真摯な思いが詰まった迫力と凄みが伝わる映画だと思いました。舞台はフィリピンのレイテ島、時代は第2次世界大戦末期、状況は敗戦の色濃くなった日本軍兵士が密林を彷徨い歩くうちに精神を冒されていく過程を、主人公である一等兵の眼を通して描いていくものです。主人公は結核を患い、部隊を追い出され、野戦病院にも入れてもらえず、密林を彷徨います。他部隊と合流したり、敵の砲弾を浴びているうちに、飢えと疲労に苛まれ、屍と化した多くの兵士に心が動かなくなっていく様子が、極めてリアルに描かれています。レイテ島の美しい自然と血生臭い人間の無意味な行為が対比されて、明快な映像的構図に観ている私は何度もハッとさせられました。大岡昇平著「野火」の原作の中で、塚本監督が描きたかった真実とは何か、執拗に繰り返される人間の彷徨いにどんな意図があるのか、過激な描写も全体的構図の中では突飛なものと感じさせないのは何か、戦争という行為はこういうことだと主張する説得力が、この映画全編に亘って存在し、私たちに写実性を持ってヒタヒタと迫ってくるのです。明日は終戦記念日です。総理の70年談話も発表され、安保法案に揺れる今だからこそ、この映画を観てみたかったと自分は思っていました。タイミングを合わせて今晩見れて良かったと感じています。

「聖トマス西と十五殉教者」

表題は彫刻家池田宗弘先生が長崎の教会に設置したモニュメントのタイトルです。教会から発行された冊子に以下のような文章が掲載されています。「カトリック長崎大司教区は、日本の信徒発見150周年記念事業として聖トマス西と十五殉教者顕彰庭園をカトリック中町教会境内に整備し、2015年3月16日に祝福式をとり行いました。世界の宗教史の奇跡と言われる信徒発見の出来事の背景には、250年以上におよぶ禁教下にあって、潜伏キリシタンたちを励まし続けた殉教者のあかしがあったのです。」今や日本のキリスト教彫刻の第一人者である池田先生に、16体の信徒像の制作と、頂上にイエスの磔刑像のあるロマネスク風のモニュメントの依頼がきたのは4年前だそうです。池田先生は16体全てを木彫し、それを分解して砂型にとり、ブロンズで鋳造する独特の制作工程を選んでいました。殉教者にかける思いの強かった先生は、昼夜を問わず真摯に取り組んでいました。毎年夏に先生宅を訪ねている私は、その制作途中をよく知っています。いろいろ司祭側とトラブルがあったことも知っていて、漸く完成に辿り着いたことを私は自分のことのように嬉しく思っています。どんな思いを抱えて殉教者ひとり一人を造形したか、「鑑賞の手引き」で先生自らが解説をしています。長崎県を訪れる機会があれば、是非訪ねてみたい教会だなぁと思っています。

長野県東筑摩郡麻績村へ

今日は年休をいただいて、師匠宅へ行って来ました。長野県東筑摩郡麻績村へ横浜の自宅から出かけるのに、東名高速の海老名から圏央道に、さらに中央高速の諏訪から長野道を車で直走り、途中お盆休みの渋滞に捕まりながら、午前10時には師匠宅「エルミタ」に到着しました。早朝5時に自宅を出ているので5時間くらいかかったことになります。毎年夏になると池田宗弘先生に会いに行きますが、自分も家内も父が他界しているので、池田先生が父親代わりみたいなものかなぁと最近は思っています。「彫刻界の親父に会いに里帰りする。」という意識が自分のどこかにあります。親父は昔は厳しく険しかったのに、今ではすっかり丸くなった、と言いたいところですが、制作の話になると態度は一変し、最近設置したキリスト教関係のモニュメントのことで不満が爆発していました。70代半ばに差し掛かった親父は、作品に込める主張の激しさに、年齢を感じさせない凄みがあって、ここは見習いたいものだと痛感しました。親父は私の社会的立場や健康のことなどを随分心配してくれていて、きっと本当の父でもそうなんだろうなぁと思いを馳せています。橫浜市公務員を退職したら、自分も親父と同じ彫刻家一本になって対峙する時がくるのだろうと思います。親を乗り越えたい、これが私の目標になる日がきっとくると信じています。

猛暑で暫し休憩中

このところ暑さは日々30度を超えて、各地で熱中症のため病院に搬送される人が後を絶ちません。外を歩いているとジリジリした暑さに見舞われます。今週から職場に復帰していますが、空調の効いた室内から出られません。パソコンで作らなければならない書類があるにも関わらず、どうも仕事は進みません。盆休みのため職員が少なくて、職場全体に活気がないのも影響しているかもしれません。熱帯の国ではシェンタ(昼寝)の習慣がありますが、よくわかるような気がします。仕事から帰っても工房に行く気が起こらず、夜自宅で制作しているRECORDも滞りがちです。飼い猫のトラ吉だけは元気です。こういう時季は適時休憩を入れるべきと思います。今日も職場でぼんやりしていたら、床にワックスをかけていた職員が、ソーメンを茹でて、出勤していた僅かな職員たちに振舞ってくれました。私がたまに作る大鍋料理に影響されて、自分も試みたというので、いい意味で職場に食文化が根付いてきたなぁと思って嬉しくなりました。勤務後に家内と買い物に出ました。明日年休をもらって、長野県に住む師匠宅に出かけるので、横浜中華街で土産を買ったのでした。

8月RECORDは「遺」

今月のRECORDのテーマを「遺」にしました。いつもならテーマは初日に決めるのですが、今回はバンコク旅行があったので、帰国してからテーマを決めました。きっとアユタヤ遺跡の印象が強く残るだろうと思っていたので、テーマはアユタヤ遺跡を見てから決めようと思っていました。やはり思った通りで、遺跡に纏わるテーマ以外は考えられなくなっています。バンコク旅行にRECORD用紙を携帯していかなかったので、その場でのスケッチは出来ず、カメラで撮ってきた画像と旅行後の印象で今月のRECORDをやっていきます。写実的なものから象徴的、抽象的なものまで心に浮かんだイメージを記録(RECORD)していこうと思っています。立体作品としてアユタヤ遺跡が直接イメージされることはないかもしれません。その場で体験したことが長い時間をかけて結晶化し、まったく別の景観として現れることは大いにあることで、それがいつになるか自分でも見当がつきません。そんな理由で、アユタヤ遺跡の記憶はRECORDに表して残していきたいと思っています。

週末 第一歩は土練りから

今日も工房は朝から酷暑になり、汗が流れ落ちてシャツに染みていました。工房には若いスタッフが3人来ていて、3人とも平面の作業をやっていました。今日も午前中2時間弱作業をしたところで、近隣のファミリーレストランに昼食を兼ねて涼をとりに行きました。スタッフは全員女性なので、昼食にちょっと工房を離れて、お喋りすることが楽しいと自分も感じます。午後も2時間弱作業を続けました。今日はこれが作業の限界でした。結局、新作に向けて土練りをしただけでしたが、この暑さの中でこれでも頑張ったと思っています。気候がよければ、午前中に土練りをやり、午後は木材による構造体をひとつ作れるはずですが、今のうちは仕方ありません。旧作の余った陶土の再生やら、陶土の混合準備などで多少時間が取られることは覚悟しなければなりません。陶彫の成形が波に乗るのは、まだ先かもしれません。ただ、今月中にモデルになる構造体をひとつ作り、そこに成形した陶彫部品を合わせてみるつもりです。それがないと先の見通しが立ちません。早く制作リズムを作りたいものです。明日から職場に出かけ、仕事に復帰する予定です。お盆のうちは勤務する職員も少ないし、仕事量も多くないだろうと思います。暇を見つけては制作工程を練り、RECORDを進めたいと考えます。ともかく新作第一歩の土練りはやりました。また来週末、頑張りたいと思います。

週末 土錬機の解体掃除

久しぶりに工房に朝から行きました。タイのバンコクも暑かったけれど、工房の室内温度もなかなかで、作業をすると全身から汗が噴出してきました。今日は若いスタッフが2人来ていて、それぞれの課題に挑んでいましたが、昼に近隣のファミリーレストランに涼みに行きました。私も含めて3人とも熱中症と隣り合わせの状態で、気温の上昇で頭がボーとすることもありました。私の今日の作業は土錬機の解体掃除でした。前作に使った陶土がやや固まって土錬機に詰まっていたので、このまま動かすと機械そのものが壊れることもあると判断しました。解体する際にネジが錆付いていて回すのに手間がかかりましたが、鉄製の外殻をはずし、内蔵しているプロペラにこびりついた陶土を除去しました。土錬機に汗が滴り落ちて、作業中に時折息苦しくなり、そのつど水分を補給し、何とか解体掃除を完了させました。土錬機の外殻を元に戻し、試運転を行いました。明日は土練りを開始します。夕方、スタッフを送りながら、新作の構造体になる板材を仕入れてきました。いよいよ新作に取り掛かります。構造体になる木材はまだ不充分ですが、それは追々揃えていきます。今日久しぶりに工房に行って、多少なり作業が出来たことで、心に平穏が戻りました。作業がどんなに厳しくても、新作が始まると思うと不思議な安心感が生まれます。作品を制作しているという安心感、制作工程に縛られ、時に焦りがあっても、自分の情緒は常に安定しているのです。何故、自分を追い詰めながら辛い制作を続けるのか、何故、そうまでして創作意欲を保てるのか、これは自分の精神状態に関係していると言い切れます。明日から新作へ一歩踏み出します。長い長い工程が待っています。

アユタヤ遺跡雑感

1350年にアユタヤ王朝が開かれ、1767年にビルマ軍に占領されて、王朝は幕を閉じました。その間、417年に亘って繁栄した残り香が、今も王朝の歴史を遺跡に託して伝えています。かつて文化の極みがここにあったという紛れもない存在感が、自分を遺跡に惹きつけてやまない理由です。そこに立って周囲を見渡し、空気を感じる瞬間が私は大好きです。次なる造形イメージよ、降ってこい!と自分に言い聞かせている瞬間でもあるからです。アユタヤ王朝は仏教寺院(ワット)が数多く点在していました。崩壊が進み、仏塔が傾いでいたり、ビルマ軍の侵攻で瓦礫になってしまっていて、その未来永劫原型を留められない姿形に、私は自分の造形主題を見て取ります。完全なる建造物では建築様式が気になってしまって、そこに自分の創造力の入る余地がありません。自分は遺跡の欠落した部分に創造を働かせ、自己表現を展開させるのです。観光名所になっているワット・プラ・マハタートにある樹木に覆われた仏頭や、ワット・ロカヤ・スターの野外に寝そべる釈迦像、ワット・ヤイ・チャイ・モンコンのずらりと並んだ黄色い布を纏った仏像群等にも独特な面白さを感じながら、カメラを片手に遺跡内を歩き続けました。これが即座に造形化されることはありませんが、そこに出かけ、肌で感じ、その大きさや敷石等が占める空間を体験することが、自分の中で何かを生む源泉になるのです。

バンコクから帰って…

月曜日から出かけたタイ旅行も、今朝成田空港に到着し、無事に帰国しました。念願だったアユタヤ遺跡の印象が一番強く、続いて王宮周辺の建造物の美しさが思い出されます。バンコクの夜を彩ったニューハーフショーも楽しいものでした。私はタイ料理が苦手だったことを除けば、今回の海外旅行で気分転換を図ることが充分にできたと思っています。疲労が残っているので今日は自宅でゆっくり過ごします。飼い猫のトラ吉を近隣の動物病院に預けていたので、引き取りに出かけました。トラ吉は自宅に連れ帰ると、元気に飛び回って私にじゃれついてきました。この家が普段生活していた家だということがトラ吉の記憶にあるのでしょうか、猫の能力がわからないので何とも言えませんが、ペットホテル併設の動物病院で結構可愛がられていたのではないかと思えるほどトラ吉の性格は良くなっていました。土産品を妹宅に届けて、通常の生活に戻るべくRECORDに着手しました。今回の旅行ではRECORD用紙は持っていきませんでした。スケジュールがきつくて、ホテルでのRECORD制作は出来ないと判断したからです。RECORDの遅れを取り戻そうと明日以降も頑張ろうと思います。雑貨店が立ち並ぶアジアティークで大き目の手作り木彫面を購入してきました。値切って半額近くにしましたが、実はそんなに値切るつもりはなく、途中で本当に購入を諦めていたのでした。結果は半額にすることが出来ましたが、トランクに収まるかどうか心配しました。仮面のモティーフはドラゴンで、かなり手間暇かけたものですが、アンティークではありません。寧ろモダンアートと思っているくらいです。タイには、抽象の中に伝統モティーフを取り込んだアートが点在していると感じました。空港やホテルの装飾やオブジェにその雰囲気を感じ取ること出来ました。元来手の込んだ工芸品が数多くある国ですが、金銀細工や装飾木彫だけでなく、現代の素材を駆使してアートとしての価値を高めているものもあるのではないかと考えています。時間がなかったので、ギャラリー巡りは出来ませんでしたが、たまたまタクシーから見た街のギャラリーにそんな雰囲気を感じ取りました。

バンコク旅行 3日目

タイのバンコクに来て3日目になりました。今日は自力で市内観光をすることにしました。昨日アユタヤ観光からの帰り道にガイドから情報を得て、ホテル近くの船着場から乗船し、チャオプラヤー川を渡って王宮まで行くことが良いと考えました。ホテルから出て15分程度歩けば船着場と教えられたにも関わらず、小さな商店が軒を並べているアジア独特の街並みのどこに船着場があるのか見当がつかず、結局ホテル前からタクシーに乗りました。どうやらこれは正しい選択だったようで、寺院の脇道の路地を入ったあたりに小さな船着場がありました。これは自分では見つけられないと家内が言っていました。切符もなしに乗船し、どうしたものかと思っていたら、乗船中に支払いをすることや、どこで降りるのかわからない時に、同乗していた多くの欧米人の後に続いて降りたことで王宮まで行けたこと等、こうした右往左往することが旅行を楽しくさせているのかもしれません。最初に訪れたワット・ポー(涅槃寺)は文字通り巨大な黄金の釈迦像が悠然と横たわっている寺院で、その独特な景観に驚きました。外に置かれている仙人や西洋人を模した石像にも独特な美意識を見て取りました。王の遺骨を納めた仏塔はタイルで彩られて、何とも不思議な存在感を放っていました。涅槃寺を出て、そこから歩いて王宮の入口に向かいました。王宮の入口は大変混雑していました。とくに肌を露出した欧米人女性の多くが止められていて、肌を布で覆うように注意を受けていました。ワット・プラケオと王宮は見応えとしては最高級のもので、その本堂や仏塔等の外観の見事さは筆舌に尽くしがたく、モザイクで覆われた精緻な美しさに時間が経つのを忘れました。回廊の壁画にも注目しました。インドの叙事詩「ラーマーヤナ」をアレンジした「ラーマキエン」が描かれているそうで、欧州の教会壁画にも劣らない卓抜した絵画表現がありました。いたるところに置かれた奇妙な像にも注目しました。魔除けなのか伝説なのか、最近のアニメやゲームに登場するキャラのようで、幻想的で楽しい神々だなぁと思いました。今日は王宮周辺を見て回るだけで、相当疲れました。タクシーでサイアムという繁華街に日本への土産物を買いに出かけ、夕方にはスワンナプーム国際空港に向かいました。今晩のフライトで東京に発ちます。到着は明日になりますが、なかなか密度の濃いバンコク観光だったと思いました。