「人間モーセと一神教」読後感
2016年 7月 13日 水曜日
「人間モーセと一神教」(フロイト著 吉田正己訳 日本教文社)は単元別に何度もまとめを行っているので、敢えて全体を通したまとめは行いません。読後感としては、フロイト自身が抱え込んだ血の濃さ故なのか、これはユダヤ民族に対し全身全霊を注ぎ込んだ力作でないかという感想を持ちました。本書で語られている内容が真実かどうかは別として、フロイトが専門とした精神分析を人類史に当て嵌めて論じたところに興味深さがあります。つまり、歴史学者とは違った視点があるわけで、本書は人類としての大きな捉えで精神の暗闇に切り込んでいく論文と言えるでしょう。最後のあたりでキリスト教についての論考がありました。「自らローマ市民パウロと名のるタルスス生れのサウロというユダヤ人がいたからこそ、彼の精神のなかにはじめてつぎの認識が発現したのである。すなわち、われわれは父なる神を殺害したがゆえに、かくも不幸なのだ、と。しかも、彼がこの真理の一片を、福音という妄想じみた表現による以外にはとらえられなかったというのは、きわめて理解できることである。その福音とは、われわれのなかの一人が、われわれの罪を浄めるために自らの生命を犠牲にして以来、われわれはあらゆる罪から救済されている、というものである。~略~この新しい信仰は、歴史的真実の源泉から流れこんだ力によって、あらゆる障害をうちたおしたのである。そして幸福をもたらす選民思想のかわりに、解放を与える救済思想があらわれたのである。」ユダヤ宗教から現れた新しい信仰であるキリスト教。キリスト教の救済思想は民族を超えて広く頒布され、国際化された宗教のひとつになりました。ところで、ユダヤ人の選民意識は今も脈々と続いているのでしょうか。ユダヤ人の中にはキリスト教に改宗する人も多いのではないかと思います。フロイトも厳粛なユダヤ教徒というわけではなさそうです。これをもって「人間モーセと一神教」を終わりたいと思います。