最後の儀礼的イベント

今月末で現職を退く私は、職場関係のことでは何でもかんでも「最後の~」という冠がつきます。同業者が私のNOTE(ブログ)を読んでいるので、儀礼的イベントが何を指しているのか分かっている方もいらっしゃいます。私の職種では年間2回の儀礼的イベントが計画されています。私の仕事は年度で変わるので、年度が始まる4月と年度が終わる3月にイベントがあるのです。この儀礼的イベントには毎回来賓の方々も招待していますが、新型コロナウイルス感染症の影響で、今年度は職場関係者のみでイベントを開催することが決まっていました。外に開けないイベントになって、慎ましく儀礼を執り行いましたが、私の職種は専門性の強い職員軍団にも関わらず、専門を超えたところで協力し合い、全職員がイベントの成功に貢献していました。私は彼らに支えられ、人生最後の儀礼的イベントを行うことが出来ました。私が再任用満了まで勤めてこられたのは、こうした職員集団がいてくれたおかげです。本来ならお互いの働きぶりを讃え、一献傾けたいところですが、昨今の事情で飲み会は出来ず、職員への感謝を胸に仕舞っておくに留めました。イベントの中で私が式辞を読む場面がありました。今日は3.11です。黙祷を捧げた後、命を失った多くの人の無念を思い、私たちは生きて、命を繋いでいこうと呼びかけました。コロナ渦が現在も続いていて、命の大切さを考える機会が身近になっている現状を考えれば、式辞で伝えたい言葉は自ずと出てきました。今日はこのような大きなイベントも難なく終わらせ、来年度人事にも拍車がかかる時期になったとも言え、これも私には「最後の~」がつく重要な仕事なのです。私たちの仕事は次世代に繋いでいくことも大切で、多少の変化はあっても根本のところは、伝統的に繋いできた精神的姿勢によるものかもしれません。そんなことを考えながら最後の儀礼的イベントを過ごしていました。

「超越論的現象学と志向的心理学」第96節~第97節について

「形式論理学と超越論的論理学」(エトムント・フッサール著 立松弘孝訳 みすず書房)の小節のまとめを行います。第二篇「形式論理学から超越論的論理学」の第6章「超越論的現象学と志向的心理学。超越論的心理学主義の問題」に入っていますが、題名が長いので表示を多少省略をさせていただきました。今回は第96節から第97節までを読み解いていきます。ここでは間主観性とかエゴ(単独者)という語彙が出てきます。「私の心が私の超越的エゴの自己客観化であることが私にとって確実であり、超越論的な解説によってすでに理解されているとすれば、他者の心も一つのエゴを、しかも私のとは別の超越論的エゴを指示している。しかし他者がそのエゴを把握するためには、彼自身の経験の中に予め与えられている世界から《現象学的還元》によって最終的に構成する生活へ立ち帰って問うことによってである。」次に超越論的独我論の仮象という小節の中でこんな論考に気を留めました。「ここで言う超越論的仮象とは、一貫した超越論的哲学に着手しようとするすべての試みを最初から惑わせ、多くの場合その試みを鈍らせてしまうような仮象のことであり、超越論的哲学は必然的に超越論的独我論に陥らざるをえないであろう、と思わせる仮象のことである。~略~この謎が解消されるのは〈私にとってつねに現存し、つねに私の経験から意味を獲得し、そしてその意味を検証している世界の意識事実の中に伏在している構成についての問題設定〉が解きほぐされ、そしてさらに体系的な順序に従って次々に明示される場合である。」次に哲学者にとっての論理学の諸研究について考察した箇所がありました。「哲学する人は、われわれが正当な理由があってたびたび強調してきた事柄を、最初から明確に自覚しなければならない。すなわちそれは、彼にとって存在し、しかもこれかあれかであり、これとして彼にとって存在と妥当性をもちうるはずの事物はすべて、彼にとってはその存在物独自の特殊性に対応する志向的な能作の形態で、独自の《意味付与》から生じた形態で彼に意識されているはずである。」今回はここまでにします。

20’RECORD1月~3月をHPアップ

2020年に制作したRECORDのうち1月から3月までのRECORDをホームページにアップしました。昨年10月に9月分までのRECORD撮影が終わっています。私の月毎に添えるコトバが進んでいないため、4月分から9月分のRECORDは、まだアップが出来ません。2020年は色彩をテーマにしてきました。10代の頃、私は大学で工業デザインを学びたくて受験勉強を始めましたが、受験科目にあった平面構成が苦手でした。私は色感が悪かったため、平面構成は他の学生に比べて貧弱に思えました。工業デザインを諦めて彫刻を学ぶようになった私は、彫刻専攻の仲間たちと出かけた東京国立近代美術館で「マリノ・マリーニ展」を見て、塑造作品だけでなく平面作品に眼を奪われました。平面作品の色彩の美しさを理解したように思えたからでした。その後、ヨーロッパに出かけた私は、街のショーウインドウを飾る色彩に惹かれました。自分の色彩に対するコンプレックスを何とかしたいと考えていた私は、RECORDによって克服しようと思いました。デザインの基礎を学んでいた当時は、モノクロや金銀は色彩と見なさず、有彩色を使うことに終始していましたが、有彩色も無彩色も全てを色彩と見なし、それらを自由に使うことで自分の世界を作ることに決めました。2020年はあらゆる色彩の中で月毎に一つ決めて、それをテーマにしました。1月は「白」、2月は「灰」、3月は「藍」です。それは楽しい1年間だったと振り返っています。今回アップしたRECORD3ヶ月分を見ていただけるのなら、左上にある本サイトをクリックしてください。ホームページの扉が出てきますので、その中のRECORDをクリックしていただけるとRECORD3ヶ月分に辿りつけるかと思います。ご高覧いただけると幸いです。

「超越論的現象学と志向的心理学」第94節~第95節について

「形式論理学と超越論的論理学」(エトムント・フッサール著 立松弘孝訳 みすず書房)の小節のまとめを行います。第二篇「形式論理学から超越論的論理学」の第6章「超越論的現象学と志向的心理学。超越論的心理学主義の問題」に今日から入ります。これも前章と同様題名が長いので表示を多少省略をさせていただきました。今回は第94節から第95節までを読み解いていきます。存在する事物は全て主観性の中で構成されるという小節の論考で、気になった箇所を引用いたします。「経験とは、経験する私にとっては経験された存在が《現に存在しており》、しかもそれが現存する何かとして、その内実全体とまさに経験自身が、その志向性の中で遂行する能作によって思念し付加する存在様態を具備している。経験された事柄が《超越的》存在という意味をもつとすれば、この意味を構成しているのは経験であり、この経験は単独にせよ、あるいは、その経験に属して、その志向性を形成している動機づけの関連全体においてにせよ、それ自体に存在する対象にたんに一面的に、離れた視点などでのみ現出させる経験が不完全であれば、そのつどの意識の仕方としての経験自身が、訊問に応えて私に次のように言うことになる。すなわち、ここでは何か自身が、しかし実際に把握されていることよりも、さらに多くの別のことも経験されている。」次に各自の主観性から始める必然性として、この箇所を引用いたします。「想定しうるあらゆる事柄に先だって最初に存在するのが自我である。この《我あり》こそが、正当に理解してかく言う私にとっては私の世界にとっての志向的な根本基盤である。この場合に見落としてはならないのは、《客観的》世界、《われわれ全員にとっての世界》も、この意味で私にとって妥当する《私の》世界だ、ということである。しかし志向的な根本基盤は《我あり》である。」我ありという言葉はデカルトの有名なフレーズにあり、フッサールの論理がデカルトから派生していることを改めて認識しました。デカルトは信仰ではなく理性を用いて真理を探求する近代哲学の出発点を提唱した大哲学者でした。またフッサールの助手を勤めたハイデガーの著作「存在と時間」にも、こうした論考が影響を与えていることも分かりました。今回はここまでにします。

週末 造形とコトバを考える

日曜日になって朝から工房に行きました。今日はいつも来ている美大受験生の他に文学系の高校生がやってきました。文学系の子は詩を書いたり、小説を書いてコンクールに応募しています。彼女も美大受験生同様、工房の方が筆が進むらしく時折、工房に顔を出しています。私は昨日準備した大きめなタタラを使って陶彫成形をやっていました。今日は寒い一日でストーブが欠かせませんでした。陶土は水を含むので寒い時は手が悴んできます。成形が少し進むとストーブで手を温めました。陶彫成形が一つ終わると、以前作っておいた作品に彫り込み加飾を施します。今日も午後は彫り込み加飾に精を出しました。今日も定番の制作に明け暮れた一日でしたが、文学系の子がいてくれたおかげで、私は造形とコトバを考える機会を持ちました。私が現代詩に興味関心を寄せたのは高校1年生の頃でした。国語の教科書に掲載されていた現代詩に心が惹きつけられ、書店に行って何冊か詩集を買ってきました。最初は難解な詩は理解できず、比較的平易なコトバを辿っていました。当時流行っていた和製フォークソングにそうした現代詩が歌詞の中に使われていたのが、私にとって画期的な出来事でした。歌詞とは違うニュアンスの現代詩を訥々と歌い上げ、決してメロディアスとは言えない歌の数々に私は忽ち魅了されました。それは通常の歌詞のようにメロディとともに流れてしまうものではなく、立ち止まってコトバを吟味していく手法に、私はコトバのもつ力を見取っていました。コトバは造形と同じトレーニングが必要と感じたのはずっと後になってからで、自分も曲りなりにコトバを紡いでみましたが、上手くいかずにやめてしまいました。目の前で高校生がコトバを紡いでいるのを見ると、こうした表現に立ち向かう意志とトレーニングがあれば、私はもう少しマシになっていたかもしれません。コトバに比べれば造形表現は、10代の頃から私をトレーニングに誘い、今まで欠かすことなく私を追い詰めてきました。それでも不自由さを感じている私は、長く生きなければ造形表現の極意は掴めないと思っています。コトバは圧倒的に時間が足りないのは承知していますが、それでも魅了される世界がそこにあるならば挑戦していこうと思っています。

週末 3月最初の週末として…

3月最初の週末を迎えました。何回かNOTE(ブログ)に書いてきていますが、今月末で公務員管理職を退職する私にとって、週末ごとに創作活動に励む今までの生活は、今月のみになりました。何か特別な感じがしますが、創作活動の内容は今までと変わりません。毎週土曜日はウィークディの仕事疲れが出て、身体がうまく動きません。それもこれも今月で最後だと思いながら、定番の大きめなタタラを掌で叩いて複数枚作りました。これは明日の陶彫成形の準備です。陶土はまだ十分にあったので、今日は土練りの必要がありませんでした。その分、彫り込み加飾に時間を費やしました。彫り込み加飾も前にNOTE(ブログ)に書いていますが、工芸的な作業なので作業台の上に成形が終わった陶彫部品を置いて、私は椅子に座って制作を始めます。身体は一部しか使わない作業で、タタラ作りや成形に比べれば肉体疲労は少なくて済みます。ただ疲労が残っている身体にはこんな作業でもちょいちょい休憩が必要で、身体全体に筋肉の緩みがあります。私は今までも身体を騙しながら作業を続けてきました。今日の昼間は暖かかったので、身体が本調子にならず、これにはウィークディの疲れ以外の要素もあるように思いました。春先は身体が浮ついて妙な調子になるのは私だけではないでしょう。おまけに花粉症まで加わって、私の気分は下降気味でした。それでも途中で放り投げずに今日の制作ノルマを達成しました。私は生真面目な性格だなぁとつくづく思います。明日は陶彫成形をやっていく予定です。あたかもウィークディの勤務のように週末でも時間を決めて制作をやっている私にとって、退職後も工房に勤務するようにやってきて、ノルマを達成するまでは帰らない生活が続くのでしょう。

「超越論的哲学の論理学の基礎づけ」第92節~第93節について

「形式論理学と超越論的論理学」(エトムント・フッサール著 立松弘孝訳 みすず書房)の小節のまとめを行います。第二篇「形式論理学から超越論的論理学」の第5章「超越論的哲学としての、論理学の主観的基礎づけ」に今日から入ります。これも前章と同様題名が長いので表示を多少省略をさせていただきました。今回は第92節から第93節までを読み解いていこうと思いますが、第5章はこの2節だけで終わりになります。まず従来の歴史的論理学はリアルな世界に関係しているという箇所を引用いたします。「真の存在一般、述定の真理と理論一般および〈予め一般に存在する事柄として前提されているこのことへ、経験と理論的認識とによって肉薄していく可能性〉は、伝統的な形式論理学においては、一度も検討されたことのない自明なことであった。この伝統的論理学こそが論理学だーすなわち予めの所与と考えられるリアルな世界にとっての形式的命題論と形式的存在論だーと言えるかもしれない。」次に論理学を実証科学の一つと見なす論考のこんな部分に気が留まりました。「可能な絶対的明証性が成立していることは、論理学者にとってはアプリオリに確かなことであり、しかもこれらの明証性は認識能力をもつすべての人にとって一様に成立すると考えられている。この点は万人に平等である。それ自身の絶対的真理の中で絶対に存在している事物は、実際ありのままに観取され洞察されているか、あるいはそうでないのかのどちらかである。」次にデカルト以降の不十分な経験批判に関する論考が続き、「デカルトは超越論的なテーマを論考するために、素朴なアプリオリな相続財である因果性のアプリオリを利用し、存在論的な各明証性と論理学的なそれらを素材に前提して操作している。そのため彼は彼が発見した自我の、すなわち認識の順序では世界の存在に先立つ自我の本来の超越論的意味を誤認している。」とありました。超越論的現象学の普遍的な問題として、こんなことが論じられていました。「私の純粋意識の主観としての私のエゴへのデカルト的還元によって新しい種類の認識の可能性がーすなわちもっぱら私の純粋意識のさまざまな可能性によって、それ自体に存在する事物が、そのような意味をもって私にとって存在する事物としての、それ自体に存在する事物の超越論的可能性がー問題になったということと、さらにこの問題を含む可能性が、人々がすでに認識によって所有している実在物から、まだ所有していない別の実在物について推論するという、まったく別の可能性と混同されることとに起因している。」今回はここまでにします。

「諸原理の明証性批判から経験の明証性批判へ」第87節~第91節について

「形式論理学と超越論的論理学」(エトムント・フッサール著 立松弘孝訳 みすず書房)の小節のまとめを行います。第二篇「形式論理学から超越論的論理学」の第4章「論理学の諸原理の明証性批判から経験の明証性批判への回帰」ですが、題名が長いので表示を多少省略をさせていただきました。今回は第87節から第91節までを読み解いていこうと思います。ここまでで第4章「論理学の諸原理の明証性批判から経験の明証性批判への回帰」は終わりになります。「論理学者は彼自身の論理学の諸原理を根源的かつ明証的に獲得する際には、何らかの判断(範疇的形成物)を範例として念頭に置いている。彼はそれらの範例を自由に選択する意識の中で《何らかの諸判断》一般という意識を形成する。そして真理と誤謬についての各洞察は純粋に一般的に構想されていなければならず、それら洞察の典型的な本質類型は変更の中でも保持されるのである。」次に判断としての意味と判断内容としての意味を論じている節がありました。「《意味》には調和と不調和(背反)があり、しかもここで意味とか意味の全体とかが表現している事柄の場合に問題になるのは、実際適切に行われた判断、つまり整合性の意味での判断ではなくーやはり判断と真理の論理学である。互いに背反する諸判断が今はこうして一つの意味の統一性の中で調和しあっている。」また「すなわち判断指示という意味での判断の適切な遂行を可能にするために、統語法の素材ないしは核が果たす機能は、いったいどのように理解されるのであろう?この場合の解明は志向的な成立の中に含まれている。判断そのものはどれもそれぞれの志向的成立を、換言すれば、本質的な動議づけの諸基盤を有しているのであり、仮にもしそのような基盤がないとすれば判断は、何よりもまず確実性という根本様態で存在することができなくなるであろうし、さらに変様されて存在することもできなくなるであろう。」とありました。真理論理学の諸原理の適用として「明白にすべきは、〈論理学の諸原理が無条件に妥当するのは、意味的に共属関係にある核をもつすべての判断、すなわち統一的な有意味性の諸条件を充足している判断に対してだけだ〉ということである。」とありました。新たな諸問題に対して「論理学の諸前提とその《真理》の概念との批判を通して、おそらくわれわれは、経験とその諸対象ー《諸実在》ーへの還元ということには何の影響も与えずに、あの真理概念をこれまでとは違う、さらに広い意味で理解するようになるであろう。」今回はここまでにします。

3月RECORDは「蠢動の兆し」

今年のRECORDは年間を通した統一テーマを設けずに、月毎のテーマ設定をしています。1月は「心の棲家」、2月は「菌の触手」、今月は「蠢動の兆し」とさせていただきました。今月のテーマにだけ季節感を持ち込んでいます。3月は次第に春めいてくる時で、桜の開花予想があり、冬眠していた動植物が目覚める時季でもあります。私は最後の公務員管理職としての仕事があり、今月は多忙を極めますが、その中でも創作活動の灯を確実にともし続けていく所存です。週末ごとに作業をしている陶彫制作に比べ、RECORDは日々作り上げている小さな平面作品です。3月のRECORD制作は、昼間の仕事の多忙さが毎晩睡魔を呼ぶので、例年かなり厳しい状態になってしまうのですが、それでも頑張っていきたいと思っています。「蠢動の兆し」というテーマは春先に地中で動き出す虫をイメージしました。陶彫作品に甲殻類の虫を思わせる陶彫部品があり、そんなことも念頭に入れてRECORDを作っていきます。陶彫や木彫の立体作品に比べると、平面作品はイメージの自由さを感じます。しかし私は常に立体作品を意識しているため、RECORDにも敢えて不自由さを持ち込んでいる傾向があり、そこの転換ができていないのです。今月のテーマもある程度立体作品を意識してしまうだろうとは思いますが、いろいろ試せれば試していきたいと思っています。今月も頑張っていこうと思います。

一区切りの制作目標

二足の草鞋生活の最後を彩る今月の制作目標を考えました。2021年3月、この1ヵ月で私の制作スタイルは一区切りです。来月から週末を考えなくてもよくなるので、今月に関しては来月を見通して制作目標を立てる必要があります。来月は毎日でも制作可能となれば、木材加工や木彫のような作業は全て来月以降に回した方が良いと考えます。乾燥期間を取らなくてはならない陶彫制作は、週末ごとに制作をしていくことが良いと思っていて、そうしたことを考えると今月は陶彫制作を中心に据えた制作目標を立てるのがベストです。先月も陶彫制作しかやってきませんでした。今月も同じ制作目標でいきたいと思います。陶彫制作は私の創作活動の要です。私の世界観は陶彫があって生まれるもので、陶彫制作一辺倒は私が望むものでもあるのです。ウィークディの仕事から帰ってから自宅の食卓で制作しているRECORDも今月を最後に見直しを図る予定です。春眠暁を覚えずとはよく言ったもので、季節が暖かくなってくると睡魔に襲われることが頻繁にあり、3月はRECORD制作にとって辛い季節でもあります。RECORD制作で夜更かしをしていると朝の起床が大変で、定刻に仕事に行かなければならない自分に嫌気がさしたこともありました。それも今月で終わりです。鑑賞も仕事のない週末に限っていたので、それも混雑のない日に出かけることも可能になります。ところが今月はまだ週末に出かけざるを得ません。今月も展覧会に出かけたいと思っています。新型コロナウイルスの感染者が徐々に減ってはいますが、安心はできません。完全防備で展覧会に出かけるつもりです。

思いが錯綜する3月に…

思いが錯綜する3月になりました。錯綜と言うのは、今月いっぱいで私が退職を迎え、創作活動との二足の草鞋生活にピリオドを打つからです。私は昭和62年(1986)に横浜市の公務員になり、平成21年(2009)には管理職になって現在まで35年間勤めあげてきました。その間ずっと創作活動との二足の草鞋生活を送り、それが現在までの習慣になっています。東京銀座のギャラリーせいほうでの個展が始まったのが平成18年(2006)で、それから毎年陶彫による集合彫刻を発表し続けてきました。作業場として無くてはならない存在になっている相原工房は平成21年(2009)の夏に完成し、同年9月20日付のNOTE(ブログ)に「相原工房の出発」という文章を掲載しています。それまでは作業場を借りていて、道具を揃えるのも一苦労でした。最初から現在の形でやっているわけではないことを確認していくうちに、複雑な思いが込み上げてきて、タイトルにある通り思いが錯綜することになりました。泣いても笑っても残り1ヶ月。来月から新しい生活形態が始まります。今は最後の二足の草鞋生活を思いっきり楽しんで過ごそうと考えています。今月の制作目標は別稿を起こします。今月は公務員管理職としての職務整理をきっちりしていかなければなりません。35年前に海外から帰国したばかりの放浪癖のある若者を雇ってくれた横浜市に感謝を込めて、しっかりと次の方に引き継ぎをしていきます。二足の草鞋生活をしていくために、それが職務に影響してはいけないと、私は仕事を人一倍やってきたつもりです。負い目をバネに仕事に励んできましたが、その原動力を来月から根本的に見直さなければならない時期にやってきたと自覚しています。今月は錯綜する思いを整理して、次のステップに備えたいと思います。

週末 2月を振り返って…

今日で2月が終わります。週末で朝から工房に籠りましたが、今日の制作状況と併せて今月を振り返ってみたいと思います。今日は陶彫成形を1点、彫り込み加飾も行いました。晴天で梅の花が青空に映える一日でしたが、気温は寒くストーブで手を温めながら作業をしていました。いつものように美大受験生がデッサンをやりにきていました。この季節は三寒四温とは言うけれど、気温の幅が大きくて辛いときもあります。今月は4回の週末や建国記念の日や天皇誕生日を含めると10日間の休日がありました。全て創作活動に費やし、制作サイクルを回していきました。創作活動に関してはまずまず頑張ったと思っています。鑑賞では「日本のたてもの」展(東京国立博物館)、「河鍋暁斎の底力」展(東京ステーションギャラリー)に行って来ました。コロナ渦の中で展覧会に行くのも慎重にならざるを得ない状況でしたが、鬱々としていた気分が晴れて、美術展の威力に改めて驚きました。映画や演劇にはまだ行けないのですが、アートの力には精神を救済するパワーがあるのを実感しました。首都圏では緊急事態宣言がまだ継続していて、行動が自由にはなりませんが、来月も展覧会を選択して出かけたいと思っています。ただ少ない外的情報の中で、自分の思索が内面に向けられていたことも確かで、職場に持ち込んだ論理学の難解な書籍をじっくり読む機会が与えられていたのではないかと思っていました。一日1点制作のRECORDにしても、精神的疲労の多い日常の中で何とか挽回しながら追いついて制作に励んでいました。日常生活では外食が減り、家内が毎晩夕食に腕を振るっていました。料理をじっくり味わうことが出来たり、飼い猫と戯れることが出来たのは、コロナ渦が齎せたものかもしれません。私は元々仕事人間ではなく、管理職という立場であっても、日頃から創作活動に励み、読書を楽しみ、美術館や映画館に出かけていく趣味人でもあると自負しています。余暇がなければ生きていかれないとさえ思っているのです。そういう意味で私には精神的なダウンはありません。どんな状況になっても創作活動という支えは、私に生きがいを齎せてくれます。今月はそんなことを考えた1ヶ月でもありました。

週末 陶彫成形の準備

やっと週末になりました。職場ではいよいよ来年度に向けた取り組みが始まり、私は来年度人事に着手しました。管理職として全職員の適材適所を見極め、人事を決定することは、私にしてみれば年間を通じた一番大きな仕事です。これがあるからこそ私がここにいるのだと思っています。まだ実際に人事を動かすのは始まったばかりですが、この1週間はとても疲れました。天皇誕生日で一日休みがあっても、夜の時間帯に自宅でRECORD制作が辛くなるほど、昼間の仕事の負担が増しているのだろうと感じています。やっと週末になり、ウィークディの仕事から解放されましたが、今度は創作活動という世界が私に休息を与えてくれません。これが二足の草鞋生活の実態で、私が昔から慣れ親しんだ激務とも言えます。さて、創作活動ですが、新作の陶彫が制作サイクルに従って回っている最中です。今日は朝から工房に篭りました。土曜日の予定としては土練り、タタラを準備していくのが定番です。これを明日の陶彫成形に繋げていくのです。ウィークディの仕事の疲れがあっても、今日の制作ノルマを達成していくまでは工房を出ることが出来ませんでした。土練りにしても大きなタタラを準備するにしても、今日は肉体労働で神経を使うものではありません。ウィークディの疲れはそこで解消されていくのを実感しました。身体を動かすのは実材を扱う彫刻の良い面でもあると思います。素材に触れていることがストレス解消になっているのかもしれません。二束の草鞋生活になっている双方の世界が真逆にあることが私を救っているとも思っています。今日は夕方になって工房を出てから、自宅でRECORDを制作しました。1週間の遅れを取り戻そうとRECORDも懸命に取り組みました。

「諸原理の明証性批判から経験の明証性批判へ」第85節~第86節について

「形式論理学と超越論的論理学」(エトムント・フッサール著 立松弘孝訳 みすず書房)の小節のまとめを行います。第二篇「形式論理学から超越論的論理学」の第4章「論理学の諸原理の明証性批判から経験の明証性批判への回帰」に入っていますが、題名が長いので表示を多少省略をさせていただきました。今回は第85節から第86節までを読み解いていこうと思います。ここでまた判断論の掘り下げた論考が登場します。「判断の意味の成立を開示することは、もっと正確に言えば〈明示された意味の中に含まれており、しかも本質的にその意味に属している意味の諸契機を開明すること〉と同じである。《構成》または《成立》の既製の産物としての判断については、その構成ないし成立を問いうるし、問わねばならない。このような産物としての判断は、それ自身の意味内包として一種の歴史性を内蔵する意味だ、ということ、それら諸判断の内部では段階的に、意味は根源的な意味と、それに属するノエマ的な志向性とを回帰的に指示していること、したがってわれわれはどの意味形成物についても、その形成物にとって本質的な意味の歴史を問いうること、これらのことこそまさに、このような産物の本質特性である。」次に経験の明証性が登場します。「形式的な分析論はその分野と理論については、可能な諸判断と諸真理の諸形式だけを扱うのであるから、そこでは明証性と経験については何も表面に出ないとしても、やはり志向的な各能作の根本的な方法に向けられる主観的な《認識批判的》な諸研究においては、形式的分析論も、明証または確証の範疇的な各媒体を探究し、それらに基づいて根源的な諸判断の能作を解明しなければならない。われわれが見るとおり、それらの研究を通してあらゆる真理と、あらゆる判断の明証性が、経験という根元的な基盤へ回帰的に関係づけられるのである。」私自身の頭脳の巡りが悪いせいか、明証性に対して、また判断に対しても、小節ごとの相違が分からなくなっています。部分的に言わんとすることは分かっても、これはどこかで論じられてきた気がするし、微細なところまで論理が入ってしまうと、その襞に私の思考では食らいつくことができません。難解なのはこうした論考の用いられ方かなぁと思っています。

「諸原理の明証性批判から経験の明証性批判へ」第82節~第84節について

「形式論理学と超越論的論理学」(エトムント・フッサール著 立松弘孝訳 みすず書房)の小節のまとめを行います。第二篇「形式論理学から超越論的論理学」の第4章「論理学の諸原理の明証性批判から経験の明証性批判への回帰」に今日から入ります。これも第3章同様に題名が長いので、題名表示を多少省略をさせていただきました。今回は第82節から第84節までを読み解いていこうと思います。最初に還元という語彙が出てきます。まず冒頭に「われわれが最初になすべきことは判断から判断の基体への回帰、諸真理からそれらの関連対象への回帰でなければならない。」という問いかけがありました。「現実の判断も可能な判断もそれらはどれも、われわれがその統語の仕方を調べてみると、究極の核へ立ち帰ること、したがって〈どの判断も最後には、もはや何の統語の仕方も含まぬ複数の要素的な核からなる、一つの統語論的な構造であり、場合によっては非常に間接的な構造でもありうること〉を、アプリオリに洞察しなければならない。」また「還元とは、われわれが純粋に思念と追跡して、究極的な或るものの思念内容に到達すること、すなわち何よりもまず、思念された判断の対象について、思念された絶対的な論題の対象へ到達することであり、そしてさらに、さまざまな段階の判断が構築される基盤となる究極の諸判断の場合には、意味の範疇的な根本的諸変化へ、すなわち絶対的な或るものへ、意味としての絶対的な諸特性、諸関係などへ回帰することである。」とありました。次に諸真理の類似した還元についてです。「判断が究極的な意味をもつ究極的な判断へ還元されるのに対応して、真理も高次の段階の真理から最低段階の真理へ、すなわち諸事象とそれらの各領野に直接関係する真理へ還元される。換言すれば、そこでは各基体が指導的な役割を果たしているのであるから、それぞれの対象領野に含まれている個々の対象と関係する真理へ還元されるーちなみに個々の諸対象とは、それら自身の内に判断の統語を少しも含まず、しかもそれら自身の経験可能な現存在についてはあらゆる判断作用に先だって存在するものである。」次に明証性の階層についての論考です。「種々の判断とそれらの判断意味の階層には種々の明証性の階層が随伴しており、本来最初の各真理と明証性は、個物のそれらでなければならない。〈明証性の、しかも実際に最も根源的な明証性、すなわちその各基体と各事態を根源的にまったく直接把握する明証性という形式で、主観的に形成される各判断〉はアプリオリに個物判断でなければならない。」今回はここまでにします。

「理想化する諸前提と構成的批判」第78節~第81節について

「形式論理学と超越論的論理学」(エトムント・フッサール著 立松弘孝訳 みすず書房)の小節のまとめを行います。第二篇「形式論理学から超越論的論理学」の第3章「論理学が用いる理想化する諸前提と、それら諸前提についての構成的批判」は題名が長いので、題名表示を多少省略をさせていただきました。今回は第78節から第81節までを読み解いていこうと思います。初めに真理自体と誤謬自体の諸前提に関わることが出てきました。「実証性の立場に立つ論理学者と論理学にとっては、科学者各自を彼の専門分野で暗黙に導いている基本的な確信が、すなわち真理自体と誤謬自体の確信が、いつもすでに伏在している。われわれにとっては多くの判断がその正当性を決定されぬままの状態にあり、およそ可能な諸判断の大部分が実際には決して決定されえないままであるが、しかしそれら判断自体は可能である。」次に真理の前提の明証性についての記述がありました。「実践生活を可能にする認識可能な諸真理の諸領域のほかに、諸科学の無限な認識の諸分野をも所有しているのである。それら諸科学の可能性は〈それらの各分野が真に存在しており、しかもそれら諸分野にとって理論的な各真理自体が、探究されて徐々に現実化されるさまざまな認識の道によって現実化される真理として成立しているのだ〉という、この確実性に完全に依拠しているのである。」また「要するにわれわれがこれまでに行なった明証性批判の諸断片からすでに明白になったのは、明証性とは何よりもまず、素朴に行使される《隠れた方法》であり、したがって〔対象〕自身を所有する様態での意識としての明証性の中で、われわれはいったい何を実際にそのもの自身として所有しているのか、しかもどのような諸地平と一緒にそれを所有しているのか、ということを知るためには、明証性の能作が究明されねばならない。」という論考もありました。最後の節では今後の諸問題が掲げられて、第3章「論理学が用いる理想化する諸前提と、それら諸前提についての構成的批判」を終えていました。次回から第4章に入ります。

天皇誕生日は陶彫制作一辺倒

今日は第126代天皇徳仁の誕生日です。現在即位されている天皇は61歳になります。私のほうが少々年上ですが、世代としては自分と同じと思っていて、天皇のお人柄に親近感を覚えます。2月に勤務を要しない日が増えたことは、今月が激務になることを考えれば歓迎ですが、3月末をもって私は現職から解放されるため、関係はなくなります。それでも今はまだ現職でいるので、今日はホッとして休日を過ごしました。今日は天気の良い一日で、気温も創作活動にはちょうど良く、陶彫制作一辺倒で過ごしました。先週末に陶土を掌で叩いて、大きめなタタラを数枚用意していました。ビニールで包んで乾燥を防いでいましたが、硬さはちょうどいい状態になっていて、成形がやり易くなりました。タタラは2日間くらい置くのがいいのかと思いました。公務員との二足の草鞋生活をやっている間は、その時間差を作るのが難しいのですが、4月以降はいい状態で成形が出来るだろうと期待しています。成形は陶土を立体にしていくので一番彫刻的な作業です。楽しくてあっという間に数時間が過ぎていきました。今日やっかいだったのは私の花粉症が始まったことでした。朝起きるとくしゃみの連続で、工房に行ってもくしゃみが止まりませんでした。コロナ渦の影響で工房の窓を開け放しておくと、花粉が入ってきて眼や鼻を襲います。コロナ渦か花粉症か、究極の選択に一時は作業どころではなくなっていました。気温上昇と乾燥で喉も渇きました。真冬とは違う状況に身体が追いつかず、彫り込み加飾をもう少しやりたいところで、花粉症に耐え切れず工房を後にしました。工房は亡父が残した植木畑の真ん中にあるため、花粉がキツイのかもしれません。また次の週末で頑張りたいと思います。

19’RECORD10月~12月をHPアップ

2019年に制作した最後のRECORD3ヶ月分をホームページにアップしました。2019年は「~の風景」というタイトルでRECORDを制作していました。10月は「分離の風景」、11月は「拡散の風景」、12月は「円環の風景」でした。陶彫部品を集合させて表現している私の彫刻にも通じるタイトルで、彫刻でも私は「~の風景」の如く心象の風景を作ろうとしています。風景の創造は私の世界観全般に言えるテーマで、彫刻で作っている架空都市も、嘗て見た遺跡から多くのイメージをいただいているのです。RECORDはもっと気軽に作れる媒体なので、イメージの多様化をいろいろ試していて、バリエーションも数多くあります。それに添えるコトバは視覚表現よりも世界が狭くなってしまうのが私の特徴かもしれませんが、コトバはいつになっても慣れません。普段からコトバのトレーニングをしていないために、必要に迫られて急遽作った感じが否めないなぁと思っています。私の場合はイメージは画像として現れてきて、コトバは後追いになってしまうのです。これは10代後半から本格的に美術の専門の道を歩み始めたことで、美術に関してはトレーニングを頻繁に繰り返してきました。つまり造形とコトバとの間には経験の差があって、コトバに困難を感じてしまうのは、こんなところにあるのだろうと思っています。今回アップしたRECORD3ヶ月分を見ていただけるのなら、左上にある本サイトをクリックしてください。ホームページの扉が出てきますので、その中のRECORDをクリックしていただけるとRECORD3ヶ月分に辿りつけるかと思います。ご高覧いただけると幸いです。

週末 立体を作っている実感

今日は朝から工房に篭って陶彫成形を行いました。大きなタタラを立ち上げ、紐状にした陶土で補強しながら立体にしていきます。今年の新作は陶彫部品それぞれを直方体にしていくのが基本形態です。重さで歪まないように木片のブロックで抑えながら裏側を紐状の陶土で補っていきます。今日は立体を作っている実感がありました。彫刻家としての満足感がありましたが、陶彫は通常の塑造と異なり、裏側を空洞にするため、常に陶土の厚みを気にしています。焼成で割れないようにするための造作ですが、それでも罅割れが生じることもあります。陶芸のように轆轤を使えば皹割れを少なくすることもできるのでしょうが、陶彫で矩形を作る場合は基本としてタタラを用います。嘗て人体塑造を作っていた時は、土の厚みなど気にすることはありませんでした。陶彫独特の造形方法があることを知り、それ以来厚みに拘り続けているのです。陶彫制作を始めた頃は陶土を薄い板にしていましたが、彫り込み加飾が楽しくなってから陶土は厚めに設定しています。彫り込む部分を計算に入れているのです。今日は陶彫成形を1点作り上げ、途中まで彫り込み加飾を施していました。夕方になって大きなタタラを数枚用意しました。明後日が天皇誕生日で勤務を要しない日なので、ここでまた陶彫成形が出来ると思いました。明後日、さらに陶彫成形を1点加えます。彫り込み加飾はその時まとめて行おうと決めました。今日は気温が上昇し、上着を脱ぎたくなるような陽気になりました。いつものように美大受験生が鉛筆デッサンをやりにきていました。デッサンが上達し、描くことが楽しくなってきたようで、彼女は溌溂と作業をしていました。夕方、車で彼女を送ってから帰宅しました。明後日、また頑張ります。

週末 土練り&彫り込み加飾

やっと週末になりました。今週はウィークディの仕事の休憩時間を使って、論理学の書籍を読み続け、NOTE(ブログ)に読んだ箇所の引用文章を毎晩掲載していました。よく読み込むと難解と思われるところも意外に内容を把握できるかなぁと思いましたが、ドイツ語翻訳独特な言い回しや使われている語彙が難解で、かなり辟易していました。つまり論理学とはこういうものだということを様々な角度から論じているので、場合によっては短絡的であったり、誤解が生じる場面を細かく指摘してあって、それをひとつずつ注意を払って論じていることが分かりました。ともかくこの書籍は私が現職でいるうちに、職場にある私の部屋の閉ざされた空間で、気合を入れて読み込んでいかないと途中放棄もありうると思っています。来月末までに何とか読破したいと願っています。今日は朝から工房に篭って制作三昧を決めました。土曜日はウィークディの仕事疲れがあって、身体が緩慢になり、陶土に触れていてもちょくちょく休息を取ります。こういう日は単純な力仕事がいいのではないかと思っていて、土曜日は土練りやタタラの準備、午後は陶彫成形が出来上がっている作品に彫り込み加飾を施していました。陶彫制作で創作的傾向が強いのは成形です。それは日曜日に行うのが定番になっていて、今日はその準備を行っているのです。明日になれば、もう少し身体が動くようになるので、カタチを作り出す成形は明日が相応しいと決めています。彫り込み加飾は身体の負担はそれほどでもないのですが、工芸的な作業なので粘り強く取り組まなければならず、疲労を感じている身体には少々つらい作業でもあります。それでも立体を考えるものではないし、近視眼的な捉えが出来れば何とかなるので、今日は半日かけて彫り込み加飾をやりました。今日は暖かい一日で、午後からストーブを消しました。工房の窓から見える梅が満開を迎えています。梅の花は長く保っているので、嬉しさを感じます。春が確実にやってきていると実感しています。明日も頑張ります。

「理想化する諸前提と構成的批判」第75節~第77節について

「形式論理学と超越論的論理学」(エトムント・フッサール著 立松弘孝訳 みすず書房)の小節のまとめを行います。第二篇「形式論理学から超越論的論理学」の第3章「論理学が用いる理想化する諸前提と、それら諸前提についての構成的批判」は題名が長いので、題名表示を多少省略をさせていただきました。今回は第75節から第77節までを読み解いていこうと思います。第75節に登場するのは分析的な矛盾律です。「純粋に客観的にみれば、単純な分析的矛盾律はイデア的な数学的《実在》と共実在についての、したがって複数の判断の判明な同時的可能性についての定理である。しかし主観的な側面には、明証性のアプリオリな構造と、その構造にさらに付随する主観的な諸能作のアプリオリな構造とがあり、そしてその構造が開明されることによって、それら能作の客観的な意味に対応する主観の側の本質的な実状が開明されるのである。」第76節に登場するのが真理論理学に関する考察です。冒頭に「われわれがこれまでに論述したのは《単純な》普遍学という、かなり狭義の分析論についてであったが、この分析論は、われわれがすでに知っているように、新しい諸教科を増やすのではなく、特殊な論理学的機能を獲得するだけであるが、しかしやがて真理の諸概念をテーマにして、それらの概念に関する諸定理を拡充すれば、無限に稔り豊かな学問である。」という一文がありました。「論理的な諸教科が、形式の本質的な諸概念を各範例からの本質一般化によって創るのと同じように、形式的真理論も真の存在と述定の真理の諸範例から創るのである。」さらに「われわれの研究が適切な出発点にしているのは真理の概念と、この概念を公理論的に解明する《論理学の諸原理》とである。われわれがここで想起するのは、〔判断される事象の〕真の存在と判断の正当性としての真理のこの両概念であり、しかも双方をさらに自己能与(すなわち広狭両義の経験)と合致とに遡って関係づける、これら両概念の起源についての分析である。」第77節では矛盾律と排中律が登場します。「矛盾律と排中律のこの二重の原理が端的に述べているのは〈どの判断も真か偽のどちらか一方だ〉ということである。真と偽が根源的にその意味と正当性を汲み取るのは明証性からではあるが、しかしどの判断も明証性というような主観的な語を含んでいない。同一の判断が時に応じて真であったり偽であったりすることもなく、その判断はいつも確実に真もしくは偽である。」今回はここまでにします。

「理想化する諸前提と構成的批判」第73節~第74節について

「形式論理学と超越論的論理学」(エトムント・フッサール著 立松弘孝訳 みすず書房)の小節のまとめを行います。第二篇「形式論理学から超越論的論理学」の第3章「論理学が用いる理想化する諸前提と、それら諸前提についての構成的批判」に今回から入りますが、題名が長いので、題名表示を多少省略をさせていただきました。今回は第73節から第74節を読み解いていこうと思います。最初にこんな問いかけがありました。「今回必要なことは、分析的論理学に対する批判であり、この批判を通してわれわれ自身が、一連の理想化する諸前提をはっきり意識〔問題視〕すべきである。その諸前提とは〈分析的論理学が、主題化された方法によってではなく、やはりまだ素朴に行使されていた方法によって、あたかも当然のことのように用いており、そしてわれわれがそのことに気づかずに継承してきた諸前提〉のことである。」第73節では数学的解析学が用いる理想化する諸前提が出てきます。「明らかに論理学はその形式的な一般性と法則性とによって、あらゆる種類と段階の諸判断すなわち範疇的形成物を前提しており、そしてそれら諸判断の自体存在は同一の状態で確定している。論理学は、どの思惟者どの思惟共同体に対しても自明な次のことを前提している。すなわち〈私が言ったことは私が言ったのであり、私の思惟の顕在性がいかに中断しようと、私は自分の判断の思念内容の、すなわち私の確信の同一性をつねに確信しうるのであり、しかもその同一性はいつでも自由に利用しうる持続的な所有物であることを、洞察し確信しうること〉を前提している。」また「〈形式的には一般に、あらゆる具体的に論理的な、すなわち学問的な思惟作用に含まれていて、広く一般的に理解されている方法、すなわち同一の意味を顕在化する方法〉は論理学の基本概念を形成する方法の主要部分である。」第74節では「等々」とは何かを考察する部分が出てきます。「ここでは、論理学者たちがこれまでまだ一度も取り上げなかった《等々》という基本形式を、すなわち《何度でも反復しうること》を主観的な相関項にもつ反復の《無限性》の基本形式だけでも思い起こしたい。」とあって、こうした私たちが何気なく使っている語彙のことも論理学の中で明確に論考していくのかと思いました。

「超越論的ー論理学的問題設定の諸疑問」第71節~72節について

「形式論理学と超越論的論理学」(エトムント・フッサール著 立松弘孝訳 みすず書房)の小節のまとめを行います。第二篇「形式論理学から超越論的論理学」の第2章「超越論的ー論理学的な問題設定の最後の諸疑問、基本概念の諸問題」は、題名が長いので、題名表示を多少省略をさせていただきました。今回は第71節から第72節を読み解いていきますが、これで第2章は終了になります。第71節では論理学の位置づけを確認している文章がありました。「(基本概念の創作は)あらゆる学問にとって、真実この語の最高の意味での基礎づけの遂行である。しかし何よりも論理学にとってそうである。論理学はあらゆる学問にとっての原理的な方法であり、そして方法一般の先験性(アプリオリ)の内部で、あらゆる学問の特殊な諸方法を包括し、しかも諸原理に基づく特殊な諸方法の形成を自覚して規制することを使命にしているのである。」第72節ではアプリオリを客観的、相関的に分けて考察していました。「主観的な諸構造は客観的なアプリオリと相関的なアプリオリを示している。~略~一つの事実判断を一つの判断形式一般へ変える形式化の一般化は、主観的な観点では必然的に本質の一般化であり、しかも事実判断の明証性を相関的な意味で形式的に一般化することである。」また著者はこのようにも述べています。「形式論のどの操作法則にもアプリオリに対応しているのが、構成する主観性についての主観的な法則性、すべての各判断者と、諸判断から新たな諸判断を形成する彼自身の主観的な種々の可能性とについての形式的な法則性である。」次の章では論理学が用いる理想化(イデア化)する諸前提についての考察が出てきます。今回はここまでにします。

「超越論的ー論理学的問題設定の諸疑問」第69節~70節について

「形式論理学と超越論的論理学」(エトムント・フッサール著 立松弘孝訳 みすず書房)の小節のまとめを行います。第二篇「形式論理学から超越論的論理学」の第2章「超越論的ー論理学的な問題設定の最後の諸疑問、基本概念の諸問題」に今回から入りますが、題名が長いので、題名表示を多少省略をさせていただきました。今回は第69節から第70節を読み解いていこうと思います。第69節は明証性についての論考です。明証性は至る所に登場していて、論理学を学問的に扱う上で重要な語彙であることが分かります。「(明証性においては)最前は主題化されない素朴な態度で簡単に行なった形成作用を主題にした反省が必要である。その場合に大切なことは、その形成作用の中で最初に唯一《与えられていた》形成物と一般的な諸形式(一層高次の形成物)を《明確にすること》であり、そうすることによって、それらの形成物と諸形式の対象的意味を根本的な目標にして、その意味を実現する志向性を解明することによって、この意味自身を正しい仕方で把握し、その範囲を限定して、その同一性を確保して、素朴な態度では生じうるあらゆる変動と隠蔽を防ぐことである。」第70節では構成についての根源的研究が続き、「論理学自身の根本的なテーマが混乱した状況では、いったいどのようにして学問的な論理学が可能になるというのであろう?」という発問があり、今までの研究成果を振り返る機会がありました。「(主観的な諸研究においては)研究はどれも根源的な論理学的方法の開明と批判についての基本的な諸研究を特徴にしているので、これらすべての研究は分析論の《基本的諸概念》を根源的に創作する方法の探究と呼ぶこともできる。しかもこの創作は〈それら各基本概念にとって同一で、あらゆる変動から守られている本質を、われわれに保証してくれるような明証性〉の中で行なわれるのである。」論理学を学問として体系化していこうとする本書の論理的な考察の仕方に慣れてきましたが、おそらくドイツ語訳の独特な言い回しがあって、日本語にすると難しくなってしまう嫌いがあるのではないかと察しています。ところどころドイツ語表記があり、私にとって懐かしい語彙が出てくると、そうか、この言葉はこんなふうに訳しているのかと思うことがあります。と言っても言語で読めるほど私には語彙力がないので、翻訳に頼らざるをえない自分がいます。

「論理学の心理学主義と論理学の超越論的基礎づけ」第65節~第68節について

「形式論理学と超越論的論理学」(エトムント・フッサール著 立松弘孝訳 みすず書房)の小節のまとめを行います。第二篇「形式論理学から超越論的論理学」の第1章「論理学の心理学主義と論理学の超越論的基礎づけ」の中の第65節から第68節までのまとめを行います。この第68節で第1章「論理学の心理学主義と論理学の超越論的基礎づけ」が終了します。今回は第1章のまとめとしての展開があり、第2章へ続く流れが記されていました。まず心理学主義に関する引用です。「明証化されるべき各対象性の種類がーあるいはすべての種類までも、ヒューム哲学の場合のように心理学化される。なぜならそれらの種類は自明のとおり、意識によって構成されるのであり、したがって経験によるか、もしくは経験と絡み合った他の意識の仕方によって、それら自身の存在意味を主観性の中で、主観性のために構築されるからである。それらの種概念が《心理学化される》ということは、それら諸概念の対象的意味を、すなわち独自の本質をもつ諸対象の種概念としての意味を無視して、主観的な諸体験を、すなわち内在的で心理学的な時間性の中にある各与件を、優位に置くことである。」また純粋論理学から心理学主義の越境についても述べられていました。「批判と優勢な見解一般との意味に含まれているのは〈学問と理性批判とを区別して、学問には独自の権利をもつ独自の現存在を認め、そして理性批判はどの学問にも関係する一層高次の新たな種類の学問ではあるが、しかし他の諸学の正当な固有の存在を妨げはしない〉とする理解である。したがって何よりもまず分析的論理学について言えば、この論理学は元来〈すべての理性的認識が前提する絶対的な規範〉と認められている。」最後にこんな論考を引用して第1章を終了いたします。「学問の真実性が、論理学の諸原理によって意識された規範化に基づく真実性でありうる場合、したがってわれわれがすでに序論で主張しながら、その後あらためて実際に基礎づけねばならなかったように、論理学は他の諸学と並ぶ独自の一学科であるだけでなく同時に、あらゆる可能な学問一般としての方法の基礎でもある。」今回はここまでにします。

週末 陶彫制作&RECORD挽回②

昨日に続いて朝から工房に篭りました。今日は昨日より長く工房にいて、陶彫成形と彫り込み加飾を行いました。今月は陶彫に関する制作サイクルを回していこうと決めていて、次から次へと制作していく予定です。今朝は工房に入ったときに棚から何か落ちていないかを確認しました。というのは昨晩遅く大きな地震があり、とくに宮城県と福島県沖が震源であり、神奈川県を初めとする関東近県でも相当揺れたので、今朝は工房で破損事故が起きていないかを確認をしたのでした。昨晩は嘗ての東日本大震災を思い出すような揺れ方が気になっていました。人が命を落とすような被害がなかったのでホッとしましたが、怪我をされた方は大勢いたようです。昨晩はペースが遅れていたRECORDを挽回するため、作業を頑張っていたところでした。RECORD制作を中断し、地震に纏わるテレビやネットの情報を見ていました。工房は何でもなく平穏そのものだったので、すぐに制作に入りました。窯入れをしていなくて良かったとつくづく思いました。陶彫成形は大きめの作品を作り上げました。現在、乾燥を待っている陶彫部品が3点あります。窯に入れるにしては大きなものばかりなので、今後は小さいものも作っていこうと思います。気温は暖かく、午後からストーブを消しました。今日も美大受験生が来て鉛筆デッサンをやっていました。彼女は夢中になってデッサンをやっています。5時間通してデッサンをやっているので、さすがに疲れるらしく、帰りの車の中ではグッタリしていました。私は夜になって昨晩出来なかった分のRECORD制作をやりました。昼間は陶彫制作に精を出して、夜になってRECORD制作をやっているので、受験生ばかりではなく私もグッタリしてしまい、これは充実した一日と見なせるのではないかと思います。明日から1週間は公務員管理職の仕事が待っています。退職前の二足の草鞋生活は、極めて充実していると感じるこの頃です。

週末 陶彫制作&RECORD挽回①

週末になりました。今月の週末は陶彫制作一本に絞って作業をする予定です。朝から工房に篭り、明日の陶彫成形のためにタタラを数枚準備して、既に成形が終わった作品に彫り込み加飾を施していました。陶彫をやっていると自分の本領を発揮しているようで、気持ちが落ち着いていて迷いはありません。気温によって陶土の乾き方が多少違ってくるので、そうしたことで春を感じています。実際、今日の気温は高く4月並みの温度だろうと思いました。ストーブが午後から必要なくなりましたが、このまま暖かくなるとも思えず、午後は灯油の調達に近隣のガソリンスタンドに行きました。一応寒さ対策の準備は万端にしておくのが良いのです。今日は陶彫制作を早めに切り上げました。夕方はこのところ日々の制作に緩みが生じているRECORDの彩色をやろうと思っていたのでした。下書きが先行する私の悪癖が出て、10日分くらいが彩色もペン入れも出来ていなかったのです。2月早々に数点完成しただけで、これをなんとかしないとまずいなぁと思っていました。幸い下書きは日々やっているので、その都度のイメージは頭に留めています。このところ私は絵の具の垂らしこみに凝っていて、絵の具を画面上部からポタポタと落としています。陶彫制作でも私は仕上げに化粧掛けを施しますが、その際は化粧土を陶土の表面に勢いをつけてバシャバシャかけていますが、RECORDは勢いよくかけることはしません。上から雨垂れのように落とすのが良いのです。偶然出来上がった模様をどう効果的に生かしていくのか考えるのが楽しいのです。色彩の混ざり合いも微妙になって、濡れた絵の具同士が時にマーブリングになり、思わぬ美しさが出てきたりしています。それを壊さないようにペン入れをしていくのが、最近の私の流行です。何とか夜までRECORD制作に時間を割いて、ペースを挽回してきました。明日は朝から夕方まで工房で陶彫制作に関わります。頑張ろうと思います。

上野の「日本のたてもの」展

東京上野にある東京国立博物館表慶館で「日本のたてもの」展が開催されていて、「自然素材を活かす伝統の技と知恵」という副題がついていました。本展は日本の文化財建造物を、精密な建築模型にするとこんな感じになるのかという感慨を齎せてくれます。建築模型と言えどもその構造やら素材感が私にも伝わってきました。実際に見たことがある伝統的な建造物が、ほぼ10分の1の模型になっていることによってあらゆる角度から構造が見られました。また私自身が創作活動として架空都市を作っているため、建築模型には人一倍興味関心があるのです。図録から引用します。「我が国では古くから建築模型が製作されてきた。文化財建造物の修理事業においても、修理着手前や構造補強が必要な場合などで、実際の模型を製作して修理方法を検討することが少なくなかった。また、解体修理に伴う調査によって現状と異なるかつての姿が明らかになっても、管理や活用上復原が困難な場合に、調査で得られた知見について模型を製作することで記録保存することは有効な手段である。」(豊城浩行著)多くの建築模型の中で、私が想像で小人になってその内部に入り、暫し楽しめたのが茶屋でした。大きさも5分の1で、眼で遊ぶにはちょうど良く、喫茶の様子を思い描くことができました。「喫茶の作法は中国から禅宗とともに入ってきた。茶には覚醒作用がある。小室のなかで亭主が点前をおこない客人が茶を喫する、という作法が流行したのは中世後期の堺の町衆のなかであった。和歌ほど高級な趣味がなくとも寄合ができる、という意味で喫茶は町衆に重宝されたのであろう。織田信長が茶に傾倒したことから武士にとっては非常に重要な作法となった。茶室は、田舎家をまねた鄙びた小室を作った。茶人は競って個性的な意匠の茶室を工夫し、またそれの写しを作った。茶室は茶道の大衆化とともに現在も人気が高い。」(藤井恵介著)と図録にあり、模型とともに建築構造の面白さに惹かれました。

「建国記念の日」は陶彫制作

昨年の2月11日付のNOTE(ブログ)に建国記念の日について詳しい記述があります。建国が定かではない日本という国は、古代に妄想が広がり、私に興味関心を抱かせてくれます。ネットによると「2月11日は、日本神話の登場人物であり、古事記や日本書紀で初代天皇とされる神武天皇の即位日が、日本書紀に紀元前660年1月1日 (旧暦)とあり、その即位月日を明治に入り、グレゴリオ暦に換算した日付である。」とありました。神話の時代を信じている日本人の祖先を私は愛しく思い、私自身も明確ではない国の起源に多大な魅力を感じています。私の創作活動にしても古代の不可思議な要素から引っ張ってきていることがあり、想像を逞しくすることが即ち私自身の創作の源になっているのです。そんなこともあって今日は朝から工房に篭りました。彫り込み加飾を2点行いました。もう少し制作工程を先にもっていけると思っていましたが、彫り込み加飾は意外にも時間がかかり、朝から夕方まで陶土の表面を削り取る作業を続けていました。彫り込み加飾は工芸的な作業ですが、私の集合彫刻には欠かせない要素です。古代の文様のような彫り込み加飾は、作品の雰囲気を決定していきます。彫り込み加飾は立体を際立たせる役目もあります。今月は陶彫制作一辺倒でいこうと目標を決めていますが、陶彫は手間暇がかかるのを改めて知り、気持ちの焦りも出てきました。私は3月末で公務員を退職するので、それから時間が自由になるため、今回の新作は大丈夫だろうと思いつつ、それでも今までの習慣で週末を計算してしまうのです。何十年も二足の草鞋生活を続けたことからなかなか転換ができない自分の習性なのかもしれません。今日は美大受験生が来ていました。相変わらず鉛筆デッサンを頑張っていて、私は彼女に背中を押されながら、彫り込み加飾に精を出していました。

暁斎流の「鳥獣戯画」について

先日、閉幕してしまった「河鍋暁斎の底力」展で、私が気になった数多くの下絵の中から、展覧会のポスターにもなっている作品を取り上げます。ポスターは「鳥獣戯画 猫又と狸 下絵」で、私はこれを見て忽ち河鍋暁斎の魅力に憑りつかれてしまったのでした。「鳥獣戯画」と言えば京都の高山寺に伝わる4巻からなる絵巻物で、とりわけ動物戯画が躍動感があって楽しいと私は感じています。これは鳥羽僧正覚猷の筆と伝えられていますが、確証はなく作者未詳になっています。一方、暁斎による「鳥獣戯画」は動物の風貌や動きが現代的で、含みがあるかのような表情が何かを語っているようです。最近発見された「猫又と狸」の下絵断片を修復して展示された作品は、浮かれた猫の微妙な表情が楽しいなぁと思いました。「鳥獣戯画 梟と狸の祭礼行列 下絵」も烏帽子をつけた梟の表情に、私は何かを感じてしまいます。吹き出しに台詞をつけて漫画にするか、今風アニメーションにしたいと私は勝手に想像してしまいました。一点の絵画からドラマを紡ぎ出し、それを自分の脳内で楽しむことも絵画鑑賞の醍醐味の一つかもしれません。暁斎はそうしたことに面白可笑しく対応してくれる稀な画家だと改めて認識しました。修復家より本作の修復に関する文章が図録に掲載されていました。「下絵が間違いなかったかを見比べるまでは非常に緊張するが、修復の正しさを確認するうれしい出会いの時でもある。下絵は日本ではあまり評価されていないが、1993年~94年に大英博物館で開催された暁斎展の折に『このような下絵の存在は、暁斎を理解するのに本画同様、大きな意味がある』と勇気付けられたことを、今でも忘れられない。」(大柳久栄著)ところで暁斎は発表する予定になかったさまざまな下絵が、展覧会の中心に据えられていることを果たしてどう思っているのでしょうか。あの世から止めてくれと叫んでいるかもしれません。

東京駅の「河鍋暁斎の底力」展

既に終了している展覧会の感想を述べるのは、広報という意味がなくなったために甚だ恐縮とは思いますが、私にとって大変面白い展覧会だったので、敢えて感想を言わせていただきます。東京駅にあるステーションギャラリーで開催されていた「河鍋暁斎の底力」展は、本画や版画が一切なく、素描、下絵、画稿、席画、絵手本などの弟子の手が入らない全て暁斎自身によるものばかりが展示されていて、それだけに描写や表現の力量が見られる凄い企画展でした。創作活動をやっている私にとっては画家の裏側が覗ける絶好の機会で、この人の筆力の凄さに舌を巻きました。図録を読むと暁斎曾孫の河鍋楠美氏によるこんな一文に、日本の芸術に関する認識の薄さが見られました。「(暁斎記念館が)財団法人の認可を得ようとしたところ、県の役人曰く、『下絵類が三千点あろうが、下絵類は紙屑だ。軸物が五、六本なければ認可しない』だった。」海外では下絵を譲って欲しいという古美術商が多いのに比べると、何と残念な回答でしょうか。「今夏、東京ステーションギャラリーの田中晴子氏から、『下絵、画稿類、席画、弟子のために描いた絵手本こそが、生の暁斎の力を表して』おり、『とりすました暁斎ではなく生の暁斎のすごさをわかりやすく伝える内容を目指し、着色された本画ではなく、暁斎の下絵や画稿だけでの展覧会』の企画をいただいた時、諸手を挙げて賛成した。」(河鍋楠美著)この提案によって本展が開催され、私たち鑑賞者を十分に楽しませてくれたのでした。「私は暁斎の下絵類のどういうところに惹かれたのか、原点を振り返ってみた。まずは暁斎の描写力を直に感じられる点だ。下絵は鑑賞を目的として描かれたわけではないが、筆を使い慣れた暁斎の墨線は、下絵であっても太さや勢いを巧みに使い分けていて、表現力がある。次に、描かれたモチーフが動き出しそうな生き生きとした表現が随所に見られる。人体も着衣の動きも、時にとてもドラマチックである。さらには、キャラクターとしての表情の豊かさもあるので、アニメーション的だし、実際にその動画を見たくなるほどだ。」(田中晴子著)私には個々の作品で取り上げたいものがありますが、機会を改めて代表を選んで別稿を起こしたいと思います。