イサム・ノグチ 彫刻家への道

「石を聴く」(ヘイデン・ヘレーラ著 北代美和子訳 みすず書房)は「イサム・ノグチの芸術と生涯」を扱った評伝で、今回は第8章「ぼくは彫刻家になった」のまとめを行います。今まで2章ずつまとめていましたが、第8章と第9章に関しては、ノグチの生涯のエポックとなった出来事を扱っているため、1章ごとのまとめを行います。「イサムは1923年1月に医学の勉強を始めた。~略~イサムはコロンビア大学医学予科コース在学中に野口英世博士と出会う。~略~イサムが野口博士に忠告を求めたとき、博士は父親と同じように芸術家になるほうがよいだろうし、より正直だろうと言った。」ノグチは支援者だったラムリーの勧めで医学の道へ進もうとしましたが、医学には馴染めず、母の勧めでレオナルド・ダ・ヴィンチ美術学校の扉を叩いたようです。校長のオノリオ・ルオトロの援助でいよいよ彫刻家への第一歩を踏み出したノグチ自身の言葉が掲載してありました。「ぼくは夜学に通いはじめた。でも、そのあと続けてはいかれない、仕事があるし大学にもいっているからと告げた。ルオトロは、私のために働いたらどうだ、レストランの仕事はやめなさい、同額を支払おうともちかけてきた。抵抗のしようがあろうか?自分の意志に反してではあったけれど、それでもぼくは彫刻家になった。」さらにノグチは名前にも拘りました。「アーティストという新たな役割を主張するために、イサムはふたたび父親の名を名乗った。より散文的な『ギルモア』より『ノグチ』のほうがアーティストには好ましい名前だと考えたのである。」入学後すぐにノグチは頭角を現しました。「イサムは学校で初の個展を開いた。石膏とテラコッタ22点が展示された。ルオトロは若き愛弟子の天才を広く宣伝したいと考え、イサムを『新たなるミケランジェロ』と呼んだ。~略~イサムはすぐに、ナショナル・アカデミー・オブ・デザインや建築家同盟のような権威ある団体の会員に選ばれる栄誉を得た。」ここで初期具象の代表作が登場してきます。「ナディアはバレリーナで、1926年にイサムのモデルになり、長時間無料でポーズをとってくれたので、イサムは作品の売値のパーセンテージを払うことになったほどである。初期のアカデミックな彫刻のなかでもっとも有名なこの作品は《ウンディーヌ(ナジャ)》と題され、その制作には八ヵ月かかった。」さて、イサムはいつ頃モダニズムの潮流を浴びたのか、こんな文章がありました。「イサムがモダニズム彫刻家に変身するきっかけとなった出来事は、1926年にダダ・アーティストのマルセル・デュシャンがブラマー画廊で企画したブランクーシ展を見たことだった。~略~日本的な簡潔さの重視と素材の尊重に親しんでいたこともまた引き金となって、ノグチはブランクーシの作品にたちまち魅了された。」その後、ノグチはグッゲンハイム奨学金を得てパリに旅立ちます。第9章ではブランクーシとの出会いが待っています。

3月RECORDは「藍」

今年のRECORDのテーマを色彩にしています。1月は「白」、2月は「灰」にしてきましたが、今月から有彩色にしていこうと思います。考え方としては基本となる色相環の色彩ではなく、RECORDとして絵画的またはデザイン的にもイメージし易い色彩を選ぶ方法をとっていこうと思っています。3月の色彩を「藍」に決めました。藍は藍染めとして広く使われる色彩で、濃淡や色味に幅があります。外国人化学者より「ジャパンブルー」と命名された通り、暖簾や手ぬぐい、風呂敷などに使われ、日本の伝統に根ざした色彩という意識があります。工房に通ってくるアーティストは、藍染めを多用した現代的な表現を追求していて、彼女の仕事を身近に見ている私は、日常的に藍がイメージし易いのです。藍はタデアイという自然染料を使うこともありますが、大量生産にはインド発祥のインディゴ染料が多く使われているようです。世界的には紀元前3000年頃のインダス文明の遺跡から藍染め染色槽跡が発見されたので、人類史から見れば古くから愛用されてきた染料だったと言えます。日本には飛鳥時代から奈良時代に入ってきて、近代に一時生産を中断したこともあったけれども、現在は日本を代表する色彩の一つになっていると言えるでしょう。諺に「藍より出でて藍より青し」という名言があります。教えを受けた者が教えた師よりも優れるという意味ですが、工房に行くと若いアーティストの作品が、まさに「藍より青し」だなぁと思わせるところがあり、私も背中を押される気分になります。今月は「藍」で頑張っていきたいと思っています。

3月の制作目標

新作は6枚の厚板を屏風に仕立て、そこに接合する陶彫部品と、屏風の前の床に置くステーションと名付けた陶彫部品を連結して集合体にしようと考えています。これらを集合彫刻として場を設定した空間演出の展示にする計画です。まず2つのステーションは焼成まで終わり、完全に出来上がっています。屏風にボルトナットで接合する陶彫部品も焼成まで終わっています。屏風になる厚板の格子模様の刳り貫きは全て出来上がり、次の制作工程である砂マチエールを行なう予定です。まだ手をつけていないのは2つのステーションと屏風に接合する陶彫部品を繋いでいく陶彫部品で、これはまったく出来ていないのです。あと何点くらい陶彫部品を作ればいいのか、計算しながら制作を続けようと思っています。まず、今月の制作目標は屏風の板材に砂マチエールを施し、油絵の具を染み込ませる作業を中心にしようと思います。つまり屏風の完成を目指しているのです。同時に前述した繋ぎの陶彫部品の今後の見通しと制作も加えたいと思っていますが、今月中にそこまで出来るかどうか分かりません。今月は春分の日を含む三連休がありますが、年度末を迎えた昼間の仕事が多忙化するため、身体的にも精神的にもかなり負担が生じると考えているからで、職場が新型コロナウイルスの影響で2週間休業しても、管理職の仕事が楽になるとは思えません。ただし、制作工程で言えば最後の段階が一番面白くて、逆に大変厳しく、この3月と4月をどう乗り切るか、これが新作が成功するか否かのポイントになるといっても過言ではありません。ここが気分が一番高揚するところでもあるのです。陶彫制作に限らず、RECORDも何とか挽回できないものか、特別な休業期間を使って、仕事の休憩時間に制作を試みるつもりです。新型コロナウイルス感染防止のために人と接することはせず、内側に篭ることなら創作活動は絶好の機会です。今月は頑張りたいと思います。

週末 年度末の3月を迎え…

年度末の3月を迎えました。私は現在の職場に異動してきて、漸く1年が過ぎようとしていますが、私自身は変わらぬ気構えで管理職をやっています。年度末は職員の異動があり、出会いと別れの季節です。私の職場も新しい年度に向けて心機一転していく必要を感じています。来年度人事の作成は私の仕事です。この1ヶ月が管理職が管理職たる自覚を持つ時期なのです。頑張り甲斐のあるところです。創作活動も7月個展に向けた図録作成を考える時期に差し掛かります。ここから3ヶ月弱で新作を完成しなくてはなりません。実に大変な1ヶ月だなぁと思っています。今日は昨日から続いている新作の屏風に取り組んでいました。6枚の厚板で構成する屏風ですが、厚板の板材は2枚重ねています。一層目には格子模様を全面に刳り貫き、二層目は部分的に刳り貫いています。今日の夕方になって全ての刳り貫き作業が完了しました。12枚の刳り貫き作業は結構手間暇がかかって大変でしたが、新作の見せ場になるので焦らず休まず丹念にやっていました。ここからどうするのか、今月の制作目標は機会を改めますが、制作工程は全体構成を視野に入れつつ、終盤の佳境を迎えることは確実です。今日は日曜日なので毎回やってくる高校生がいつのもように基礎デッサンをやっていました。学校が新型コロナウイルスの影響で臨時休業になり、彼女の学校でも長い春休みに入るようです。こんなことは今までにない特別なことなので、どんなふうに過ごすのか、予め計画を立てた方がいいように思えます。私も休みたいくらいですが、管理職としての仕事山積のため私は通常勤務です。自宅のリフォームは今月の後半から始まります。その時は何とか仕事をやり繰りして職場を休めないものかと思案しています。RECORDは下書きばかりが先行しているため、今月は解消に取り組む予定です。鑑賞のために美術館等へ足を運ぶのは躊躇するところですが、感染防止を徹底すれば大丈夫かなぁと思っていますが、臨時閉館するところもあって、展覧会は事前に調べて行くべきでしょう。読書は先月から継続です。

週末 2月を振り返って…

今年は閏年に当たっているため、今月は29日までありました。今日がその29日で、今月最後の日になりました。相変わらず世間では新型コロナウイルスの感染が席巻し、予断を許さない状況になっています。私はいつものように朝から工房にいました。新作の屏風は一層目が完了し、現在は二層目に入っています。屏風は厚板6枚で構成し、一層目は全体的に格子模様を刳り貫いています。その下に接着する二層目はところどころ格子模様を刳り貫いています。二層目が終わると、すぐに一層目との接着作業に入ります。今日の作業で6枚あるうちの4枚まで完了しました。このペースでいけば、明日にも屏風の木材加工は終わる予定になります。順調と思いたいところですが、創作活動は何があるか分からないので、制作工程にも懐疑的になってしまうのです。今日が今月最終日ということで、今月を振り返ってみようと思います。週末は全て木材加工に充てていて、板材刳り貫き作業に明け暮れました。完了まであと僅かというところまで辿り着きました。陶彫部品では一度窯入れを行ないました。業者が来て窯の錆や皹に対してメンテナンスをしてくれました。陶彫における焼成というプロセスは人の手が及ばない工程で、博打的な面白さを感じたのと同時に、木材加工は逆に全て人の手で賄える着実な安心感があり、それぞれの素材の特徴を改めて思い知った1ヶ月でした。鑑賞は東京上野の博物館に出かけ、2つの大きな展覧会を見てきました。「人・神・自然」展(東京国立博物館東洋館)、「出雲と大和」展(東京国立博物館平成館)で、2つとも私好みの展示内容で創作活動に大いなる刺戟をもらいました。この展覧会鑑賞の後に新型コロナウイルスの影響があって、他の美術展や映画館に行くことを躊躇ってしまい、今月はこの2つの展覧会だけになりました。RECORDは下書きだけが先行する悪癖が出てしまい、毎晩苦戦していました。仕事から帰ってくると、疲労がとれず、RECORDの下書きを描いていると睡魔に襲われる日々でした。これは何とかしたいと思っているところです。読書は仏像仏画の楽しい評論と、イサム・ノグチの生涯を綴った書籍を交互に読んでいて、比較的平易な文章のため気楽に取り組むことが出来ています。2冊とも継続です。今月は自宅の大掛かりなリフォームについての契約も行ないました。来月後半からリフォームが始まりますが、私にとっては一大決心だったことを付け加えておきます。

新型コロナウイルスの影響

連日、マスコミで報道されている新型コロナウイルス。職場においても影響が少なくありません。各種研修会の延期や中止が相次ぎ、人が大勢いる私の職場でも何らかの対応を迫られている状況です。私たちの職種は自宅に持ち帰られる仕事が少なく、職員の出勤制限もかけられないのです。臨事休業となれば、職員がそれぞれ自分の仕事や周囲の整理をしてからでないと休みが取れない有様です。そういう中でも管理職は連日出勤かなぁと思うところですが、今後は主幹となっている職員と話し合いながら、職場の方針を決めていこうと思っています。感染防止を行う以上は外出もままならず、美術館等の鑑賞に出かけることは当分やらない予定です。植木畑に建つ工房は、人が密集している職場より安全だと私は思っています。私を含め1人ないしは2.3人のアーティストがそれぞれ離れた場所で制作をしていることで、たっぷり空間を確保しているからです。工房の有難みを感じながら、創作活動が出来る幸せを味わっています。ここ1ヶ月が感染拡大防止の曲がり角と政府は言っていますが、オリンピック・パラリンピックへの影響はどうなるのでしょうか。私の個展開催がオリ・パラ開催時期と重なるので、横浜の工房から東京銀座のギャラりーせいほうまでの搬入搬出経路を、私は心配しています。オリ・パラ開催中でも物流を止めることは出来ないので、道路を迂回しながら何とか作品を運べるのではないかと思っていますが、問題はギャラリーに人が来てくれるかどうかです。新型コロナウイルスが夏までに終息してくれることを祈るばかりです。

造園と彫刻との関係

私の父は造園業を営んでいて、父が存命の頃は複数の植木職人が実家に出入りしていました。先祖代々野菜を作っていた畑には、植木が植えられ、また庭石が置かれていました。実家にはトラックの駐車スペースがあり、前日に切り落とした枝葉で職人たちが焚火をやっている光景もありました。中学生の頃から造園業を手伝っていた私は、とりわけ園芸仕事が好きというわけではなく、草花も商品として見ていたし、雑草は私が刈らなければならないものという認識があって、緑を楽しむ発想はありませんでした。「石を聴く」(ヘイデン・ヘレーラ著 北代美和子訳 みすず書房)を読んでいると、世界的な彫刻家であるイサム・ノグチが、幼い頃に神奈川県茅ヶ崎でアメリカ人の母と共に小さな家に住み、山から採取してきた草花を庭に植えている様子が描かれています。当時のノグチは園芸家になろうとしていたことも書かれていました。それがやがて木工作業になり、彫刻に発展していく様子は、私だからこそ共感を覚えるのかもしれないと思うところですが、私が歩んだ道はイサム・ノグチとは逆でした。父の造園業を見直したのは、私が彫刻を学んだことが契機だったからです。造園から発展して彫刻に辿り着いたイサム・ノグチと、彫刻を知ったが故に造園を見直した私。世界的彫刻家と比べるのは些か気が引けますが、私がイサム・ノグチの世界観に特別な親近感を抱いているのはこんな事情です。書籍の中にあった「断定的主張の欠如」というイサム・ノグチの彫刻の特徴を示した語句に、私は敏感に反応してしまいました。まさに日本庭園がもつ自然をそのまま受け入れた造形に通じるものがあるからです。庭石の肌や見え方に従って石を置く位置を少しずつ変えて、石と石の関係性を大切にする、また植木の枝ぶりを見て向きを決定する、そんな父の指示によって、若い職人たちと半端職人の私は力を振り絞っていました。何のためにそんなことをするのか、これは風景の模倣であり、象徴化された自然を再現することにあるのです。己の造形的主張より自然との融合を優先する考え方は、まさに「断定的主張の欠如」なのだろうと思っています。イサム・ノグチはそんな日本庭園の考え方を自作に取り入れた最初の芸術家だったと私は認識しています。

イサム・ノグチ 米国へ渡る

「石を聴く」(ヘイデン・ヘレーラ著 北代美和子訳 みすず書房)は「イサム・ノグチの芸術と生涯」を扱った評伝で、今回は第6章と第7章のまとめを行います。第6章「インターラーケン」では、いよいよノグチの渡米した様子が語られています。「ぼくが最初に見たアメリカは、松がそびえる北西部の海岸線とヴィクトリアを経てシアトルに向かう水路だった。」ノグチを最初に保護したエドワード・アレン・ラムリーの創設したインターラーケンで、彼は充実した学園生活を送っていたところ、ラムリーが親独派と見なされ、ついに逮捕され、学校は閉鎖に追い込まれたのでした。「戦争のために日本との通信は困難だった。母が恋しかったにもかかわらず、この十年間あまりにも多くの時間をひとりで過ごしてきたので、イサムは愛する人びとを必要としないすべを学んでいた。」その後、ノグチはローリング・プレイリーに移りました。「インターラーケンの自由な雰囲気とは違って、ローリング・プレイリー公立学校の子どもたちはこの異邦人を疑いの目で見た。イサムは年のわりには小柄で、その顔立ちには日本的なところがあった。もう一度イサムは自分をはずれ者と感じた。」第7章「ラ・ポート」ではラムリーが保釈され、ノグチをラ・ポートの自宅に連れ帰り、チャールズ・S・マック医師の家族に彼を預けました。「イサムはマック一家のもとで不自由なく暮らし、暖炉の掃除、芝刈り、新聞配達などで生活費を稼ぎながら高校を修了した。新しい家庭で安心感を得たにもかかわらず、心の奥深くにある不安感は残ったままだった。『ぼくは日本にいる母をたえず心配し、父親に対する道徳的な嫌悪感を育んでいった。』」高校を卒業する時期にノグチの進路に関する記述がありました。「ラ・ポート高校ではアメリカ風に『サム・ギルモア』を名乗り、好成績をおさめた。1922年にクラスの首席で卒業。絵がうまいと評判だったので、クラスの卒業記念アルバムの挿絵描きに選ばれた。~略~イサムが高校を卒業したとき、ラムリーはイサムに自分の人生をどうしたいのかと尋ねた。『ぼくは即座に答えた。アーティストだ、と。アメリカにきて以来、アートとはまったく無関係になっていたことを考えれば、これは奇妙な選択だった。ぼくはこれといった才能を示していなかった。反対に、アートに対して健全な懐疑主義といえるもの、おそらく偏見さえをも身につけていた。父がアーティストーつまり詩人ーだったからだ。~略~それでもぼくの最初の本能的な決定はアーティストになることだった。』」

イサム・ノグチの在日生活について

「石を聴く」(ヘイデン・ヘレーラ著 北代美和子訳 みすず書房)は「イサム・ノグチの芸術と生涯」を扱った評伝で、今回は第4章と第5章のまとめを行います。このところ「あそぶ神仏」(辻惟雄著 ちくま学芸文庫)と「石を聴く」を交互に読んでいる印象がありますが、「石を聴く」はかなり分厚い書籍で、鞄に携帯するのは辛いと思い、職場の私の部屋に置いて仕事の休憩時間に読んでいるのです。45分の決められた休憩時間にイサム・ノグチの生涯に触れることは、仕事も心機一転できて良い効果を生んでいます。第4章は「茅ヶ崎」で、ノグチが母と共に7年間暮らした海辺の村であった茅ヶ崎についての記録がありました。茅ヶ崎の小学校は地元の漁師の子が多く在籍していて、ノグチにとっては居心地の良いものではなかったのでした。「子どもたちはしばしばーとくに学校からの帰宅途中でーイサムをからかい、いじめた。罵声を浴びせかけ、石を投げたり、逃げ切れなかったときは田んぼに突き落とした。」そんなことがあって「その孤独な成長期とはみ出し者という感覚はたしかに、その機智や魅力、洗練にもかかわらずノグチがきわめて打ち解けにくい人間に成長するのに手を貸した。」という少年期の影響が、大人になっても性格を決定づけていたことが分かります。またこの章では妹アイリスの誕生にも触れていました。「ノグチは7歳。本人が回想するとおり、アイリスの誕生は『もちろん僕の全人生を、もうひとつの疑いと幻滅と混乱のなかに投げこんだ。なぜならば自分がずっと[母の]注目の唯一の中心だったのに、いま母の注目は逸らされ、ぼくの世界は同じではなかったからだ。』」第5章「セント・ジョセフ・カレッジ」では、横浜にある外国人学校に入学したノグチの生活を描いていました。ここでも学校に打ち解けることがなかったノグチでしたが、将来を考える上で重要な場面が多々ありました。「レオニーはヨネの『無抵抗という東洋的教養』を論じながら、無為をなすことの価値についてのヨネの考え方を鸚鵡のように繰り返した。この父の思想をのちのノグチも共有するようになる。~略~何年もあと、その息子の彫刻にみられる断定的主張の欠如(デイヴィッド・スミスのような同世代の他のアーティストの作品に感じられる筋肉的なダイナミズムと比較すれば)は、一部の鑑賞者の目にノグチの作品をアメリカ的というよりアジア的に見せた。~略~ノグチはまた自分が簡素を好み、純粋な構造にこだわる理由を日本で過ごした子ども時代に帰している。『日本の伝統は素材と、物がつくられる過程を大いに尊重する。それは物の触感により近い文化だ。ぼくにとって触感はとても重要だ。ぼくがそれを得たのは、物とはただ上に塗られているものだけではなく、構造もデザインの一部だと知るという子供時代の経験を通じてだ。』」日本で培われたものが彫刻表現に重要な要素を加えていることに私は注目しました。

三連休 板材二層目に突入

今日は天皇誕生日の振替休日で、三連休の最終日になります。今日も朝から工房に篭りました。新作の屏風になる板材は一層目が出来上がり、今日から二層目に突入します。一層目は全体に格子模様を刳り貫いていますが、二層目はどこを刳り貫こうか考えながら、作業をすることにしました。私がイメージしているのは、岩壁に空洞が不規則に開いた古代遺跡です。嘗て見たトルコのカッパドキアの奇岩群に、キリスト教徒が住みつき、ちょっとした集団住居になっていた風景がありました。既に記憶が消えかかっているので、頭の中でその住居を象徴化していくしかイメージは捉えられません。でも、滞在当時は暗い穴倉を訪ね歩いたことを微かに思い出すことが出来ます。新作では、壁沿いに荒廃した住居があって、そこに有機物となった陶彫が絡みついた状態を作ろうとしていて、通常ならおどろおどろしさを感じさせるところですが、古代出土品を思わせる素材の雰囲気と、造形芸術への志向が救いになって、彫刻作品としての佇まいを辛うじて留められるのではないかと思っているのです。とにかく二層目はデザインが決め手です。漸く面白味のある制作工程まで辿り着いた感じがしています。先のことを言えば、一層目と二層目を接着し、そこに砂マチエールを施します。さらに油絵の具を滲み込ませる工程がありますが、過去の作品はブラウン系の色彩を使いましたが、今回はグレートーンにしようかと思っています。下地の色彩はやや明るめのイメージを持っていて、陶彫部品が際立つようにしようと決めています。過去の作品は陶彫の素地と砂マチエールを馴染ませようとしてきましたが、今回はその逆をいきます。今日から板材二層目に突入して、徐々に先のイメージが明確化してきました。この三連休は木材加工ばかりに追われてしまいましたが、イメージの具体的な把握という大きな収穫もありました。三連休とも朝から夕方まで集中して作業に取り組んでいて、身体が悲鳴を上げる一歩手前までやってきていました。ウィークディの仕事も来年度人事に関わる仕事が始まっていて、なかなか厳しいなぁと思っています。私は花粉症で、今ひとつ体調がすぐれない日もありますが、今年は新型コロナウイルスが今後どうなっていくのか、社会情勢にも目を凝らさなければならないなぁと思っているところです。手洗いとうがいは欠かせなくなりました。

三連休 板材一層目の完了

三連休の中日で天皇誕生日です。朝から工房に行って、ずっと取り組んでいる板材の刳り貫き作業をやっていました。今日は美大の受験準備をしている高校生が来て、鉛筆デッサンをやっていました。彼女は週1回必ずやってきて、真面目に基礎トレーニングを積んでいます。受験生の頃は私もそうでしたが、デッサンにも紆余曲折があって、上達にストップがかかる時があります。今日の彼女の顔色を窺っていると、なかなか苦労している様子が見えました。夏からデッサンを始めて半年が過ぎ、ちょっとした曲がり角に差し掛かっているのかもしれません。逆に私の制作は好調でした。新作は厚板を2枚重ね合わせたものを6点用意し、それを屏風に仕立てます。一層目の板材は全体的に格子模様を刳り貫き、またその中に陶彫部品が接合されるので、その部分も刳り貫いているのです。二層目は一層目のように全体の格子模様を刳り貫くことはしません。ところどころ刳り貫いたデザインにしようとしています。陶彫部品は二層目の板材にボルトナットで接合していきます。そんな構造になりますが、今日は一層目の格子模様を全て刳り貫きました。6点全部が完了してホッとしました。すぐ二層目の板材に重ねて様子を見ました。イメージ通りになって嬉しいと感じたのと同時に、当初鑿で高低差をつけようとしていましたが、刳り貫いたままの状態がなかなか良いので、このままでいくことにしました。6点の板材刳り貫き作業で、木っ端や木屑が大量に出ました。小分けにしてゴミ袋に入れました。明朝木っ端や木屑を地域のゴミ収集場所に持っていきますが、私はこの時ばかりは迷惑な住民と思われるでしょう。夕方、受験生を車で送ってきました。明日から二層目に取り掛かります。

三連休 制作&母の税務処理

三連休になりました。天皇誕生日が日曜日にある関係で、月曜日が振替休日になり、この時期に三連休が設定されているのです。三連休初日は、このところずっと関わっている板材の刳り貫き作業を工房でやっていて、何とかこの三連休で1層目の刳り貫き作業から2層目の作業に入りたいと願っています。板材は6枚を使って屏風にする予定で、今日は最後の6枚目の刳り貫き作業をやりました。先週の日曜日に窯に入れて焼成した陶彫部品が無事に出来上がり、これで屏風に接合する陶彫部品はほぼ出揃いました。陶彫部品が出揃うということは、部品それぞれの正確な大きさが測れるため、刳り貫きは細かいところまでやれるのです。工房では朝から木屑にまみれて作業をやっていました。今日の作業は早めに切り上げることにしていました。夕方、自宅に税理士を呼んでいたためです。毎年恒例になった母の税務処理をしてもらっていて、お世話になっている税理士とはもう10年以上の付き合いになります。母は不動産を所有していて、それを利用して介護施設に入っています。税務署への申告は、私一人では出来ないため、税理士にお願いしているのです。私たち夫婦も母に送られてくる書類の何が必要なのか、長くやっている間に仕分けが出来るようになりました。少し前に比べれば、税理士との書類のやり取りも簡略化されてきたのではないかと思っています。とりわけ家内がそちらの道に長けてきました。税理士も随分助かると言っていました。税理士が帰った後、自宅リフォームの業者がやってきました。先日システム・キッチンをショールームに行って決めてきましたが、その書類上の確認が必要で、何度目かになる打合せを行ないました。打合せは夜遅くまで行なっていましたが、これは自宅を私たち夫婦の老後の快適な住まいにするための、どちらかというと前向きなものであって、言うなれば1年後に退職を控えた私の心の準備でもあるのです。公務員は退職がありますが、彫刻家にはそんなものはありません。創作活動は退職後が勝負と思っていて、何事にも捉われない時間の確保によって、さらに充実した作品に全てを結集していきたいと考えているのです。その時に日常生活も創作とコラボレーションしたものにしようと願っています。生活環境が創作へ与える影響が大きいと常日頃から感じているためで、自分の生涯をかけた目的でもあるのです。

鑑賞者としての学び

私の職場で発行している広報誌に禅画に関する文章を寄稿しました。このところ鞄に携帯している書籍として「あそぶ神仏」(辻惟雄著 ちくま学芸文庫)に親しんでいて、禅画を扱った章に登場した白隠と仙厓の世界観に、私自身もいろいろ考えさせられることがありました。鑑賞者として作品を見るには、それなりの学びがないと作品を堪能できないと私は実感しています。白隠と仙厓の世界観を利用して、そんなことを広報誌に書きましたが、鑑賞する側の学習準備は、禅画に限らず抽象絵画にしろ、現代のアート全般にも言えることです。ルネサンス以降の写実絵画は、いわゆる写真に近く、対象を絵画理論に基づいた正確さで描いています。それは絵画の良し悪しを分かり易い判断で決められると私は考えます。うまいか、へたかという判断基準は、見方や感じ方について洞察をする必要もないからです。ただ、うまいか、へたかの価値づけはうわべだけをなぞるだけで、表面に現れたもので芸術の何たるかを考えることにはなりません。自分が不可解に思える芸術に接した時が、自らの見方や感じ方を問い直す契機になると私は考えています。作者の思いや社会背景や時代を先取る前衛的な思考などを考慮して、初めて作品の価値が分かるものです。白隠と仙厓の禅画は、若い頃私が感じたことと、現在私が感じていることの間に大きな隔たりがあります。展覧会を見に行くことは、非日常の世界に接することで己の心を開放し、それによって癒されると同時に、自分の固定観念に対する新しい感覚の開拓を求められることにも繋がっています。私にとって展覧会場は休息の場であり、学習の場でもあるのです。鑑賞者としての学びは、創作活動への応用でもあります。私が実技と鑑賞を両輪と考えている要因は、そんなところにあるのです。

「浮世絵春画と性器崇拝」について

「あそぶ神仏」(辻惟雄著 ちくま学芸文庫)のⅢ「浮世絵春画と性器崇拝」についてのまとめを行います。私が浮世絵春画に出会ったのは20代の頃、ヨーロッパに住んでいた時代でした。ウィーンの芸術書を扱う書店に、ドイツ語版の浮世絵春画の画集がありました。そんな書籍を日本で見たことがなく、芸術書としての扱いに驚くと同時に妙に納得してしまった自分がいました。さっそく購入して下宿先で見ていましたが、それを見たからといって刺激を与えられることもなく、性器の誇張がパロディのようでいて、いかにも日本人らしいなぁと感じました。性器崇拝に関して文中から拾います。「道祖神は元来、境にあって異界から共同体を護る僻邪神であり、豊穣多産の神であって、男根、女陰をかたどるものであった。それが現在の双体道祖神のほとんどのように、手を取り合う男女といった微温的なものに変わったのは、性行為の露出が人倫にもとるとする近世の儒学者の非難をかわすための方便と見られる。しかしその底にある性器崇拝の思想は根強く伝えられ、決して根絶やしにはなってない。」縄文時代から日本人は大らかで、性に対しても開放的だったのではないかと思う節があります。春画にしても陰気な感じがせず、私はそこに様式美を感じ取ってしまいました。「春画における性器誇張の由来は、まず『古今著聞集』にあるような『絵そらごと』としての視覚効果の追求に求められる。だが民俗学的観点に立つならば、そこには同時に、縄文以来のphallicism(男根崇拝)の伝統を引く呪術性ー僻邪、多産、和合の神としての性器崇拝の観念が多分に重なり合っているように思われる。江戸時代後期になると、都市の春画と地方農村の道祖神との間に興味深い影響関係があらわれる。春画の図様が道祖神に取り入れられ、春信の『口すい』が接吻道祖神といわれるものに転用される。一方、春画の性器誇張が一段と高じるのが18世紀後半になってからである。」

仙厓の生涯と絵画について

「あそぶ神仏」(辻惟雄著 ちくま学芸文庫)のⅡ「近世禅僧の絵画」のうち、白隠に次いで仙厓のまとめを行います。私にとって白隠に比べると仙厓は未知の禅僧で、どこかの展覧会で童心をそそる「指月布袋図」を見たことがあるくらいです。仙厓の生涯を紐解くと、白隠と同じように長寿を全うしていて、しかも晩年になるにしたがって、画風は円熟期を迎えています。仙厓は、寛延3年(1750)今日の岐阜県武儀郡武芸川町高野に生まれていて、貧農出身であったことが分かっています。文中には「11歳に当たる宝暦10年、近くの清泰寺の住職空印円虚に望まれて徒弟となり清泰寺で得度したと伝える。」とありました。天明7年、仙厓に大きな転機が訪れ、博多の聖福寺に赴くことになったのでした。「75歳の盤谷(住職の盤谷紹適)は仙厓の人物と学識に引かれて自らの後継者と決め、翌寛政元年(1789)仙厓は40歳で清福寺第123世住職を襲った。以後88歳で亡くなるまでの約半世紀が『博多の仙厓』の時代である。~略~藩の武士や地元の文人、儒者、商人から近所の長屋の酒吞み、児童にいたるあらゆる階層の人たちの求めに応じて気軽に書き与えた彼の軽妙飄逸な書画が、その明るい気質と機知に富んだ言動と相まって『博多の仙厓さん』の名声はうなぎ上りに高まり、殺到する書画の注文が彼を悩ますようになった。」仙厓の絵画を見てみると、白隠に比べて温和な画風で、文中にこんな箇所もありました。「彼は、箱崎浜、袖の湊、大宰府、玄海島など、博多近郊の風景をこよなく愛し、これらの真景図を多く残している。~略~総じて彼の絵画は、同時代の人に文人画と呼ばれている例があるように、白隠画に比べ南画的要素がはるかに強い。」これが仙厓の仙厓たる特徴だろうと思うところですが、玄人まがいの技巧を身につけた書画は、その後一転していきます。彼の代表作「寒山拾得・豊干図屏風」にはこんな文章がありました。「仙厓の全作品の中にあってむしろ異例なほどその描写が稚拙で粗っぽいことに意外な感じを受けるだろう。これまであげたような彼の5、60歳代の諸作品は、彼の筆技がその器用さにも助けられて熟達の度を増し、専門画家の域に達しつつあることすらうかがわせるのだが、この屏風の画風はそうした方向にむしろ逆行する。」これはどういうことでしょうか。「たしかなことは書画とも相まって彼が目指す境地ー技巧の衣装をすて彼の人格が直接滲み出るような『無法の法』に近づいていったということである。」成程、そういう境地に達したことだったのか、これを知って私は改めて仙厓の魅力を感じ取った次第です。

白隠の生涯と絵画について

「あそぶ神仏」(辻惟雄著 ちくま学芸文庫)のⅡ「近世禅僧の絵画」のうち、白隠についてのまとめを行います。私が白隠を知ったのはいつごろだったのか、そんなに昔のことではないように思っています。白隠の達磨像を見て、今風の漫画のように描かれていて、しかも伸び伸びとした自由闊達な運筆に、不思議な迫力とともにかなり奇異な感じを持ったことで印象に残っているのです。文中に「彼の画や書の力作には、隣に並んだ一流の画家や書家の技巧を吹きとばしてしまうような恐るべき破壊力が秘められている。『白隠の絵には私とても美を感じません。エタイの知れぬ力丈を感じます』とは、白隠の蒐集家として有名な故山本発次郎氏の言葉である。」とありました。まさにその通りで、白隠の作品は一見して記憶に刻まれてしまう特異な作風があると思っています。白隠の生涯を紐解くと、貞享2年(1685)12月25日に駿河国原(沼津市原)に生まれています。「11歳のとき、母に伴われ日蓮宗の僧が地獄の苦しみをつぶさに語る説法を聞いて大きな衝撃を受け、母と風呂に入ったとき薪の火を見て焦熱地獄を思い出し泣き叫んだという、異常に感受性の鋭敏な子であったらしい。以来、地獄に対し恐怖心抜けやらず、それから逃れるには出家以外にないと思いつめ、両親に願い出て15歳のとき出家し、時の松蔭寺の住職単嶺のもとで禅を学び慧鶴と名づけられた。」その後、正受老人の薫陶を受けて「白隠が得た教訓は、一度や二度の悟りの体験で自己満足せず徹底を求め不断の修行をつみ、禅定力、いいかえれば信念の精神力を不動のものにすることの必要性であった。」白隠は84歳で生涯を閉じていますが、弟子によって年譜が2つに分けられています。「白隠のくわしい年譜をつくったその後継者の東嶺はこれまでの白隠の42年間を『因行格』すなわち彼が自己の向上を求めて修行を重ねた時期とし、以後の42年を『果行格』すなわち彼が利他行ーそれまでの修行の結果として得たものを人に伝えひろめることーのために全力を投入した時期としている。」とありました。「隻手の声」は一般人が悟りを開く公案として有名になりました。白隠の絵画として有名なものは達磨を描いた祖師像ですが、戯画も多くあって、なかなか愉快な世界を形成しています。「白隠の禅画の中で数の上では最も大きな割合を占め、かつ親しまれているのが、市井の風俗や擬人化された動物などを画題とした戯画である。ただの戯画でなく、画にかこつけて禅の思想を民衆に対しておもしろおかしく説いた寓意戯画であり、布袋のような禅機図上の人物もこれに加わって画題を賑わす。」とあり、老いてますます盛んになるエネルギッシュな画風は最晩年まで続きます。「龍沢寺の自画像は恐らく白隠の絶筆に近い作品であろう。最晩年の特徴であるプロポーションのくずれがここにも目立ち、手は異常に大きい。指には爪が長くのびていて、維摩像のそれを思わせる。もはやこの世の人とは思えない風体なのだが、ひきつけられるのはその前方に注がれた『雲一点もない青空のような空虚の瞳』(草森紳一)である。」

イサム・ノグチの幼少期について

「石を聴く」(ヘイデン・ヘレーラ著 北代美和子訳 みすず書房)は「イサム・ノグチの芸術と生涯」を扱った評伝で、第2章と第3章のまとめを行います。第2章「ディア・ベイビー」はイサム誕生のことが書かれていました。「イサム・ノグチは1904年11月17日、ロサンジェルス群立病院で生まれた。これは慈善病院で、レオニーにはそれ以上の余裕がなかった。~略~『ロサンジェルス・ヘラルド』紙が『ヨネ・ノグチの赤ちゃん、病院の誇り、作家の白人妻、夫に息子を贈る』の見出しで記事を掲載した。~略~ノグチは自分の誕生についてこう考えをめぐらせている。『ぼくは偶発的な事故であり、不慮の出来事であり、迷惑だったのではないかと疑っている』」。両親の事情を知るにつけ、イサムの誕生は喜ばれてはいないことを本人も知っていたのでした。次にレオニーが日本行きを決めた理由が当時の社会動向にあったことが書かれていました。「レオニーが日本行きを決意したきっかけは、日本人移民に対するカルフォルニアの考え方が変わったことだろう。日露戦争中、アメリカ人は親日的だった。しかし戦後、日本が中国大陸でとった拡張主義はアメリカ側から非難を浴びており、とくにカルフォルニアにおいてはそれが顕著だった。~略~息子に荒々しい誇りを抱き、人種差別の棘から守ろうとする母親にとって、こういった変化はたしかに落胆を誘った。」第3章「東京」にイサムが2歳の時に母子は船で日本に渡ったことが書かれていました。出迎えた野口米次郎がイサムという名を付けたようですが、日本での母子の立場も微妙で、とりわけ文化の違いに戸惑っている様子が伺えました。こんな文章が目に留まりました。「レオニーとヨネ(米次郎)はイサムの文化的混乱を悪化させたかもしれない。『あなたは日本のベイビー?』とレオニーが尋ねると、イサムは父親のほうを向き、イエスと言った。ヨネがアメリカ人のままでいたいかと尋ねると、母親のほうを向き、イエスと言った。」イサムの創作への契機はどんなところにあったのか、イサムは自伝にこんなことを書いています。「『最初のうれしい思い出は、新設の実験的な幼稚園にいくことだった。園には動物園があり、園児たちは手を使ってものをつくることを教えられた。ぼくの最初の彫刻はそこでつくられた。粘土を波の形にし、青い釉薬を使った。』イサムの波の彫刻は『幼稚園でかなり話題になり、母はそのことを決して忘れず、ぼくがいつの日かアーティストになることを期待しつづけた。』」この幼稚園は今も現存する森村学園です。世界的彫刻家の初めの一歩はこんなところにあったのかと思いました。

週末 久しぶりの窯入れ

昨日、窯のメンテナンスを終えて、今日は窯入れの準備を行いました。今月の週末はずっと工房で板材刳り抜き作業を行っていたので、久しぶりの窯入れは新鮮でした。新作の屏風にはそれぞれ陶彫部品が接合される予定になっています。その陶彫部品は全て焼成が終わっているわけではありません。屏風は厚板6枚で構成しますが、5枚目と6枚目に接合する陶彫部品がこれから焼成をしていくのです。陶彫部品は乾燥すると、やや縮んできて、最後に焼成するとさらに縮んでいきます。今月は板材刳り抜きを始めている最中ですが、5枚目と6枚目に接合する陶彫部品の正確な大きさが焼成前は掴めないため、今日は板材刳り抜き作業を中断せざるを得なかったのでした。そこで乾燥した陶彫部品6点を今日窯入れすることになったわけです。窯入れの準備として、私は陶土表面の指跡を消すためにヤスリをかけていきます。その後に化粧土をかけて窯に入れます。窯内を3段に区切って、それぞれの段に2点ずつ陶彫部品を置きました。陶芸による器と違い、不規則なカタチをした陶彫部品はどうしても隙間が出来てしまいます。それでも組み合わせを工夫して、何とか6点の陶彫部品を窯内に収めました。6点の仕上げと化粧掛けとなると、ほとんど一日がかりで、今日はついに板材に取り組むことが出来ませんでした。今日は朝から若いアーティストが工房にやってきていて、染めの作品に挑んでいました。彼女は茨城県の展覧会に間に合わせるため、このところずっと工房に通ってきているのです。私は一人で制作しているよりも、勢いのあるアーティストが近くで制作してくれている方が張り合いがあって仕事が進みます。休憩時間に楽しい話も出来ました。私はテキスタイルは平面ではなく空間造形だと思っている節があります。布は空間を漂う素材です。そこに意図する何かが染められて、しかも染めが重層になっているのならば尚更空間的なものがそこにあるはずだと思っているのです。彼女も私の主張に納得しているようでした。寧ろ彼女の作品が極めて空間的なのかもしれません。私の作る彫刻は、実際の凹凸があって唯物的ですが、重層的な染めには、形而上的な距離感を感じるのは私だけでしょうか。染めには記憶もあると彼女は言っていました。そうなれば空間だけでなく時間もそこにあるはずです。話は尽きなくなるので、そこで打ち切りましたが、そんな会話が楽しめるのはとてもいいなぁと感じているところです。来週末も制作を頑張りたいと思っています。

週末 窯のメンテナンス&自宅リフォーム職人下見

週末になりました。今月の週末は朝から工房で木材加工に取り組んでばかりいて、単調な作業が続いています。今日も例外ではなく新作の屏風になる厚板材に格子模様を刳り貫く作業を行っていました。朝10時になると窯の世話をしていただいている業者がやってきました。工房にある窯は定期的にメンテナンスをしていただいていて、先週業者が見に来られた時に、窯の周囲の鉄板に錆が出ているのが気になると言っていました。今日はその錆を削りとって耐熱用の塗料を施すメンテナンスをやっていただきました。私は陶彫作家としては焼成の数が多く、それだけ窯を使用しているので窯の管理は欠かせません。ただし、私は焼成に釉薬を使わないので、釉薬が流れたり、飛び散ることがなく、窯の内部はいい状態に保てているのではないかと思っています。1時間くらいの修理で窯が生まれ変わったようになりました。日常では有り得ないほどの高温になる窯は、常に危険な要素を孕んでいます。自分の安心のためにもメンテナンスをやっていただいているのです。業者が窯の修理をしている間も、私は板材の刳り抜きをやっていました。漸く昼過ぎに5枚目の刳り抜き作業が終わりました。午後は自宅に戻って、このところ何回も続いている自宅のリフォームのための打合せを行ないました。2時ごろに建築業者が職人を連れて自宅にやって来ました。大幅に変更する和室の状態と入れ替えをするシステム・キッチンの具合を職人さんは念入りに下見をしていきました。今まで机上の打合せだったのですが、漸く工事が始まるのかなぁという意識になりました。実際の工事は3月中旬になりますが、この下見にも1時間半くらいの時間がかかりました。夕方、再び工房に戻って、板材の刳り抜き作業の続きをやっていました。板材の1層目は残り1枚で終わりますが、来週末から2層目に取り組めそうです。明日は久しぶりに窯入れを考えています。ちょうどメンテナンスを終えて良好な状態になった窯で焼成できることが楽しみになっています。

禅画について学ぶ

「あそぶ神仏」(辻惟雄著 ちくま学芸文庫)のⅡ「近世禅僧の絵画ー白隠・仙厓」の中で、禅画とは何かを取り上げた箇所についてまとめを行います。「禅という、彼ら(欧米人)にとってはなはだ異質で難解な、それゆえ興味をそそる思想の図解として、禅僧の遺墨が期待されているむきがある。」という文章に示されているように、日本に興味関心が高い欧米人は、禅を知ろうとしてさまざまなアプローチをしている人がいます。私自身も禅のことをよく分かっていないのに、20代の頃ヨーロッパで暮らしていた時に、禅のことを彼らに問われて苦慮したことが思い出されます。私は禅について無知なことばかりで焦りを感じたと言った方がよいかもしれません。最近になって禅画の代表とされる白隠や仙厓のことを知り、禅画について、またそれが生まれる契機となった禅体験についても多少学ぶ機会を持ちました。「白隠の書画は、彼の禅体験と個性の結びつきから生まれた。他に類のないものであるし、仙厓の戯画もまた、南画や俳画と重なる要素を持つとはいえ、それらと一線を画すその独特な性格は、疑いなく彼の禅体験をくぐって生まれたと見られるからである。」ここで禅画の母胎となった道釈人物画についての説明がありました。「道釈人物画とは、仏教絵画に道教的な主題を合わせた呼称で、釈迦や観音、普賢、文珠、不動、羅漢、維摩といった仏像、達磨にはじまる禅宗祖師像、老子、蝦蟇鉄拐など、そして『禅機図』がこれに含まれる。」これはいわば絵のモチィーフです。さらに先を読んでいくと、私でも知っている禅僧が登場してきました。まずは雪舟の「慧可断臂図」で「禅と絵画との接点を彼なりに真摯に追求した気魄のこもる作品である。」とありました。次に一休で「一休の書は知られるようにきわめて個性的であるが、その画もまた稚拙なままに奔放な彼の個性をよく反映している。」そして沢庵。「春屋門下の傑僧沢庵宗彭もまた味わいある禅機図や山水画を手がけていた。」さらに先日NOTE(ブログ)で紹介した風外慧薫。「関東にあって文字どおり野の乞食僧としての生活に終始した曹洞宗の風外慧薫の画が注目される。~略~彼の画風もまた中世禅道の余技画の継承の、最後の余映として位置づけられるのだが、そこにはまた、同時代の上方の禅僧画の持たない素朴な野性や純真なユーモアが含まれていることも見逃してはなるまい。」禅画に関しては白隠や仙厓にまだ触れておらず、さらに知識をつけていきたいと思っています。

イサム・ノグチの両親について

先日から「石を聴く」(ヘイデン・ヘレーラ著 北代美和子訳 みすず書房)を読み始めています。本書は「イサム・ノグチの芸術と生涯」を扱った評伝で、最初の章は両親について書かれていました。日米混血として誕生したイサム・ノグチ。その両親の事情は微妙な関係だったようです。結果論になりますが、イサム・ノグチが世界的な芸術家になったおかげで、両親も脚光を浴びたと言えます。父である野口米次郎は、アメリカでそこそこの活躍はあったようですが、日本では知られた詩人ではありませんでした。母のレオニー・ギルモアはノグチを育て上げた功績だけで、自身の文学は認められませんでした。文中からまず母についての文章を拾います。「レオニー・ギルモアは、並はずれて因襲にとらわれない独立独歩の女性だった。~略~写真では眼鏡をかけ、繊細で女教師風、いかにもアイルランド人らしいが、それが好もしい魅力になっている。」米次郎がアメリカで詩集を出すため翻訳を引き受けたのが、2人の馴れ初めでした。「米次郎のぎこちない英語にもかかわらず、詩の愛好家レオニーは詩の創造に関わるのがうれしかった。米次郎の詩はラプソディ風で陳腐になりがちだったが、レオニーがそのロマンティシズムに惹かれていたのは明らかだ。」次に米次郎についての文章を拾います。「長期にわたって外の世界から孤立していた日本は西欧に追いつくことを希求し、米次郎が慶應義塾に入学したとき、カリキュラムは西欧文化に重きをおいていた。米次郎は英語を学び、当時の多くの学生同様、渡米を夢見た。」アメリカにわたった米次郎は現地の小学校に通い、掃除、皿洗い、給仕などをやっていたようです。また文学者とも付き合い、その中で同性愛者だった詩人ストッダードとの愛情関係も取り上げられていました。米次郎はレオニーとはビジネスライクより一歩進んで親しい関係になったものの、彼にはエセル・アームズという恋人がいたようです。レオニーは米次郎の子を妊娠しましたが、エセルとの関係解消とはならず、レオニーは相当苦しんだことが伺えます。こうした事情を踏まえると、イサム・ノグチは焦がれて生まれた子ではなかったことが分かりました。帰国後の米次郎について、こんなことが書かれていました。「(米次郎は)日本語で書き、出版するのは不可能だと思い知る。日本人は、ヨネ・ノグチはその作品においてもあまりに西欧化されたとみなした。『どうみても異人らしく、眼玉の色の青い所など、なかなか日本人とは思われない』と有名な詩人の荻原朔太郎は書いた。何年もあと、米次郎はひとつの詩のなかで認めた。『僕は日本語にも英語にも自信が無い/云はば僕は二重国籍者だ』。同じようにイサム・ノグチは言うだろう。自分はどこにも所属しない、自分は世界の市民なのだ、と。」

銅鐸について

先日、東京上野にある東京国立博物館平成館で開催中の「出雲と大和」展に行ってきました。前にNOTE(ブログ)に書いた記事では、出雲と大和の相違を図録を利用して述べただけで、展示品については触れていなかったので、今回は銅鐸について述べていきます。さまざまな展示品の中で、私は形状から言って銅鐸に一番惹かれます。その鐸身に施された市松文様や重弧文や絵画的な線描にとりわけ興味が湧きます。私は銅鐸を純粋に美術作品として見て、自作に繋がる要素を見取っていると言えます。銅鐸がアートとして美しいと感じるのは私だけではないはずです。銅鐸は、弥生時代に中国大陸から伝来した鐘(鈴)で、鐸には青銅製の楽器という意味があるそうです。鐸身の内側に舌(ぜつ)を垂らして、それを揺らして音を鳴らしていたようで、梵鐘のように外から叩いた形跡はないのが分かっています。しかも時代と共に大型化して、楽器から祭器に変化したと推察されています。つまり聞くモノから見せるモノに変わったということでしょうか。銅鐸は西日本で多く出土しているため、日本の古代文化は西南が盛んだったことが判ります。図録に「近畿地方や北部九州と複雑に絡み合い、独特な青銅器祭祀を展開した出雲。この地域では弥生時代中期末から後期初頭において、他地域に先駆けていち早く銅鐸が埋納され、それ以降完全な形をした銅鐸は姿を消す。これは銅鐸が単なる農耕祭祀のシンボルではないことを示唆している。」(井上洋一著)とありました。まだまだ謎の多い銅鐸ですが、もちろん芸術的価値観など存在しない時代の産物で、古代の人々がどんな場面で使用したものなのか、またまとめて埋納したのは何故か、さまざまな学者の論考があるのも、私にとっては古代に対する魅力のひとつになっています。

「建国記念の日」は創作活動邁進

今日は「建国記念の日」で、職場としては勤務を要しない日でした。今日は国民の祝日ではあるのですが、昔から私は「建国記念の日」がしっくりせず、毎年この日を迎えています。建国記念日はどこの国にもあり、独立記念日だったり、国家が創建された日だったりしますが、わが国は建国した日が定かではありません。言うなれば日本書記が伝えるところの初代天皇である神武天皇の即位日になっていますが、神武天皇が果たして実在していたのかどうか、はっきりした証拠がありません。それでも明治5年(1872)に日本書記の記述を信じて「紀元節」が制定されましたが、第二次大戦後に天皇を崇拝する国家神道を、当時の米軍が排除する動きがあったため、結局紆余曲折を経て昭和41年(1966)に「建国記念の日」として制定し直しました。これは建国がはっきりしないため、建国されたという事実そのものを記念する意味があるようです。「建国記念日」ではなく「建国記念の日」としたのはそんな事情があってのことだとネットで知りました。私はそんな謎めいた歴史を有する日本という国が大好きです。先日、東京上野で見た東京国立博物館平成館の「出雲と大和」展は、そんな日本の謎に挑んだ企画展でした。私は古代が好きで、自らの創作活動も「発掘シリーズ」を突き詰めています。そこで「建国記念の日」である今日は創作活動に邁進することにしたのです。作業内容は相変わらずの板材刳り貫き作業でしたが、屏風6枚のうち4枚目が完了しました。まだ1層目なので、2層目のことを考えるとまだ半分くらいの工程かなぁと思いますが、刳り貫き作業は漸く慣れてきて、手際がよくなりました。5枚目に取り掛かったところで、5枚目と6枚目はそこに接合する陶彫部品の焼成が終わっていないために、正確な大きさが割り出せず、陶彫部品の面積を刳り貫くことは出来ませんでした。次の日曜日に窯入れをしようと計画しています。今日は充実した「建国記念の日」を過ごすことが出来ました。

「石を聴く」を読み始める

「石を聴く」(ヘイデン・ヘレーラ著 北代美和子訳 みすず書房)を読み始めました。副題が「イサム・ノグチの芸術と生涯」とあって、本書は度々このNOTE(ブログ)に登場する日系アメリカ人彫刻家イサム・ノグチの評伝です。イサム・ノグチの評伝と言えば、何冊か自宅の書棚にも置いてあります。既読のものは「イサム・ノグチ」(ドウス昌代著 講談社)、「評伝イサム・ノグチ」(ドーレ・アシュトン著 笹谷純雄訳 白水社)、「夢みる少年ーイサム・ノグチー」(柴橋伴夫著 共同文化社)、「素顔のイサム・ノグチ 日米54人の証明」(四国新聞社)があって、その他にも庭園に関する評論集や作者自身が著したエッセイもあります。作品写真集やイサムの母に関する評伝もあり、和訳されたものはほとんど私は手に入れているのかもしれません。作家別の関連著作で言ったら、ジャコメッティよりイサム・ノグチの方が多く書棚に有していると思います。生い立ちは既読の書籍で十分知っているにも関わらず、また別のものを読み始めることはどういう意味をもつのか、これは著者の捉え方によってイサム・ノグチの世界観に別の視点が加わることを、私は期待しているのです。私の中でイサム・ノグチほど魅力を発信した芸術家はいないと思っているからで、その足跡を辿り、私自身の彫刻を考える上で己の指標になると信じているのです。香川県高松にあるイサム・ノグチ庭園美術館に私は2回訪れていて、普段の生活と創作活動が密接な繋がりがあることを確認してきました。自分の生き方や考え方、生活の周辺に至るまで全てが創作活動に集約されていく人生を自分も送りたいと考えていて、その理想的な人生の在り方がまだ出来ていないことに苛立ちを覚えることもあります。前に知人が言っていた65歳から75歳までの10年が理想的な環境の下で創作活動に邁進できるようになるでしょうか。いずれにしても自分次第ですが、「石を聴く」を読みながら自分の伸びしろを信じ、創作活動をもう一度見直し、自分にとって最良の道を選びたいと考えているところです。

週末 若い人たちに背中を押されて…

昨日と違い、今日は身体が動き易く工房での制作は進みました。珍しく今日は2人の若いスタッフが来ていました。一人は大学及び大学院でテキスタイルを専攻し、染めの技法を駆使して自己表現に挑んでいる若いアーティストです。彼女は茨城県で個展を開催するらしく大きな布にロウケツ染めをやっていました。染めは描写とは異なり、染め粉を流したり、色彩を留めたりして自分のイメージに合わせてコントロールをするものです。彼女の方法は、ロウケツ染めと言っても通常の文様がしっかり浮かび上がるものではなく、微妙な色彩の綾が織り成す効果を求めて、手探りで重層的な表現を極めているように思えました。何点か作っておいて、ギャラリーの空間を見ながら作品を選んで展示方法を考えた方が良いのではないかと私はアドバイスをしましたが、最終的には彼女のセンスで決定するのです。どんな空間が創出できるのか楽しみでもあります。もう一人は高校生で、美大を目指して鉛筆による静物写生を描いています。この子はこれから長い道のりがあるなぁと思いつつ、地道な努力を続ける子なので、今後どんな飛躍があるのか楽しみでもあります。創作活動は決して華々しいものではありません。コツコツとした制作姿勢から何かきっかけを掴んで自己表現を確立するものです。また自己表現が確立しても、そこに安住できるものではなく、常に流動していくものではないかと思うのです。大きく言えば破壊と創造の繰り返しです。そんな若い人たちに背中を押されて、私も相変わらずの板材刳り貫き作業を頑張っていました。今月の週末は刳り貫き作業一辺倒で、創作行為というよりは職人的な作業ばかりです。彫刻は目の前に実材があるので、一気呵成には作れず、簡単に方向転換も出来ないのですが、自分にとって新しい表現を常に意識していきたいと思っています。

週末 自宅リフォームに向けて

やっと週末がやってきました。創作活動で工房に朝から籠っていて、新作の板材刳り貫き作業をやっていました。刳り貫き作業は3枚目に入りましたが、いつものように土曜日はウィークディの疲れがあって遅々として進まない作業状況でした。窯の面倒を見てくれている業者が訪ねてきたり、自宅リフォームの業者もやってきました。身体が若干辛かったので、打合せにはちょうどよい時間でした。自宅のリフォームは貯蓄した財をかなり投げ出すほど、私にとって一世一代の決心で、今までも打合せは何回も行なっています。昨日は勤務終了後に大手電機メーカーのショールームを訪ねて、そこで打合せを持ちました。システム・キッチンの実物見本を見て、オプションを盛り込んだり、図面を確認したりして、ほぼ2時間を費やしました。家内は大学で空間演出デザインを学んでいるくらいのインテリア好きで、ショールームの担当者と綿密な打合せを行なっていました。30年前に自宅を新築した頃は、最新のシステム・キッチンを入れたはずが、時代と共に新商品が登場していて、さらに利便性を追及したものになっているのを感じました。私たち夫婦の大学同期生にも、こうしたインテリア系のショールームで働いている人がいます。自宅のリフォームは美術の分野と関連していて、創作活動に似た気持ちになるようです。私たちが求める室内の色調は単純明快で、白壁にダークブラウンの家具や扉があるというだけのものです。他の色調はそこに入ってきません。システム・キッチンの色調も全て同じです。部屋ごとに壁の色合いを変えることはしていません。無味乾燥とも言える雰囲気が実は心理的にもしっくりくるのです。3月から施工が始まりますが、断捨離をしながら荷物の移動や整理をしなければならず、その時期は大変な状況になるだろうなぁと思っています。何はさておき、週末は今月の制作目標に向けて、厚板に切り込みを入れていく作業を頑張るのみです。明日も刳り貫き作業をやっていきます。

2月RECORDは「灰」

今年のRECORDは色彩を月毎のテーマにしています。今月は「灰」にしました。先月は「白」でやりましたが、今もずっと無彩色が続いています。灰色というイメージは、私にとって決して明るいものではありません。20代の頃、ヨーロッパの古都ウィーンで暮らしていて、大学に在籍している身分でありながら、私は一日のほとんどを散歩に費やしていました。旧市街は灰色の壁が幾重にも重なっていて、その崩れ落ちて煉瓦が覗いていた壁がよく目に映っていました。そこに情緒を感じ取れたのはずっと後になってからで、当時は不安定な心情に苛まれていました。灰色は微妙な心理を反映する複雑な色彩と私は勝手ながら思っています。そのバリエーションは限りなくあって、他の色彩を引き立てる役割もあるかもしれないと思うところです。灰色の古壁に民族風な絨毯が掛かっていて、その色彩のコントラストにハッとしたことも思い出されます。今月のRECORDは灰色だけで表現するというよりは、他の色彩を利用して灰色を際立たせていきたいと思っています。色彩を中心に据えたテーマは、私には新しい試みで、先月もそもそも「白」とは何かを考えながらRECORDを作っていました。色彩の持つ心理的作用や思考をさらに深めたいと思うようになりました。嘗て工業デザインを学びたいと思っていた高校生の頃に、バウハウスの教壇に立っていたヨハネス・イッテンの色彩論を購入しました。今も自宅の書棚に眠っていますが、色彩の三要素や色相、明度、彩度などという基礎的なことは今も知識にあります。今後はさらに一歩進んだ色彩論に触れていきたいと考えるようになりました。

「野に生きた僧」について

「あそぶ神仏」(辻惟雄著 ちくま学芸文庫)のⅡ「野に生きた僧」についてのまとめを行います。本章で取り上げられている風外慧薫について、私は恥ずかしながら全く無知だったため、本書の図版で初めて作品を知った次第です。風外慧薫の紹介では「地方にはほこりにまみれ垢じみた僧衣をまとう遊行僧の姿があった。かれらは師を求め道を求めて各地を放浪し、時には洞窟に雨露を凌いで修行を続けるかたわら、民衆と親しく交わって人生の教師となり、仏の道を説いて敬愛を集めた。風外慧薫はそうした近世における『野の聖』の草分けの一人に当たる異色の存在である。」とありました。活動した年代からすると風外慧薫は室町時代の人だったと思われますが、そうした遊行僧の姿は脈々と近代まで続いていたのではないかと思われます。私の実家にも流れ着いた僧が書き残した書があって、素人の目にも見事なものではないかと思うからです。明治だったか大正だったか、農家を営んでいた若い頃の祖母の元に乞食のような僧がやってきたそうで、粟や稗ではなく貴重な米の食事を与えたところ、部屋を所望されて暫し閉じ籠り、書を数点書き上げたそうです。そのうち1点が自宅にあり、もう1点は実家にあります。他は行方不明になっていますが、公式な鑑定はせずに私のお気に入りとして自宅に飾ってあるのです。風外慧薫に話を戻します。「風外慧薫は戦国時代の終わり頃に当たる永禄11年(1568)、上野国(群馬県)の山中、碓氷峠の近くに生まれた。幼くして母を失い、その乳房を恋い慕って吸うのを人が見て、仏縁が深いと、近くの曹洞宗の長源寺という寺に預けられ、成人後はこの上野・下野一帯の曹洞宗の寺を転々と放浪して修行を積んだ。」というのが現在分かっている出生です。「風外はその生涯に数多くの書画を残した。真鶴の滝門寺に伝わる『大字十二行書十二幅』のような大作もあるが、托鉢の折の布施の返礼として書かれたものが大多数である。~略~白隠、仙厓のいわゆる禅画と、室町水墨画の禅機図とをつなぐものとして、風外慧薫の作品を位置づけることができる。」また布袋図を評してこんな文章がありました。「いかめしい達磨にくらべ、袋をかついでちょこまかと画中を歩き、あるいは、天空の月に指さしまじめくさった顔で悟りの境地を示す布袋の姿には、愛嬌とともに哀愁がこもっている。」とあり、風外慧薫はどんな人だったのか興味が湧くところです。「風外慧薫は、忘れられた存在である。深い宗教体験と学識を持ちながら、白隠のようにそれを多く語らず、名利をかたくなに断って野の乞食として生涯を終えた。」

2月制作目標は木材加工

今月はもう既に1回分の週末が過ぎてしまいましたが、改めて今月の制作目標を考えてみました。2月は建国記念日や天皇誕生日の振替休日があって、11回の休日があります。そのうち2回は過ぎたので、残り9回を創作活動に充てていきたいと思っています。やるべきことは新作屏風を構成する厚板に格子模様の窓を刳り貫く木材加工です。厚板は2枚を張り合わせる2層構造になり、1層目は陶彫部品が接合される部分とその周囲全体に広がっている格子模様を全て刳り貫くのです。2層目は1層目を張り合わせた時に、部分的に格子模様を刳り貫いて、貫通した部分と貫通しない部分を作っていこうと考えています。そこが今回の一番の見せ場ともいうべきところで、廃墟化した都市を鳥瞰した世界を作ろうとしているのです。陶彫部品も格子模様を施してあって、架空都市の中に異様な生物が横たわっているように見えるかもしれません。当初は格子窓に絡めるような陶彫部品を考えましたが、格子を小さく設定したために、途中からイメージを変えました。今月の制作目標としては木材加工を1層目も2層目も完了させることですが、果たして出来るかどうか、ちょっと厳しいところです。というのは乾燥をしている陶彫部品もあって、1回は窯入れをしたいと思っているのですが、どこの週末を使おうか思案中です。厚板に接合する陶彫部品は焼成が終わっていないと、大きさが割り出せず、陶彫部品が接合される部分の刳り貫きが滞ってしまうのです。そんなことも念頭に置きながら、今月は只管木材加工をやっていくしかないと思っています。

東京上野の「出雲と大和」展

先日、東京上野にある東京国立博物館平成館で開催中の「出雲と大和」展に行ってきました。本展は日本書紀成立1300年という節目で、日本の古代を出雲大社に鎮座する神である「幽」と、ヤマト政権において天皇を頂く「顕」を対比して展示された、かなり大掛かりな展覧会で、島根県と奈良県、どちらも私は足を運んだことがあり、旧知の展示品ながら、こうして並列して眺めてみると新鮮な感覚が芽生えたのが不思議でした。何しろ展示品から日本の古代文化を探ることは、自分のルーツを確かめられるような気がして、こんなに楽しい企画はないと思ったほどでした。日本書紀や古事記とは何か、図録の最初の文章を執筆した佐藤信氏の文章より拾ってみます。「『日本書紀』は、律令国家が自らの歴史的なアイデンティティーを主張した史書であった。」とありました。続いて「和銅5年(712)に、大和に本拠をもつ豪族出身の太安万侶が撰録した史書が『古事記』である。~略~『日本書紀』は、養老4年に舎人親王を編纂代表として撰進された国史である。」とありました。古代の出雲についてもこんなふうに書かれていました。「古代出雲は、多くの古代文献や遺跡に恵まれている。『古事記』『日本書紀』が出雲神話を多く取り込んでいるほか、和銅6年(713)に編纂を命ずる詔が出された風土記として今日に伝わる五風土記のなかで、ほぼ完存する風土記として貴重な『出雲国風土記』があることは、大きな特徴となっている。『出雲国風土記』には、風土、物産、古老の伝承や地名起源説話など、地域の社会像も豊かに描かれており、地域の古代史像を具体的に物語ってくれる史料として注目される。」ここで「国譲り神話」に関する興味深い文章を見つけました。「『古事記』『日本書紀』にみられる出雲の立場は、『国譲り神話』に象徴的に示される。出雲の大国主神は、皇祖神の天つ神に葦原中国の支配権を譲るかわりに、自らを出雲の高い神殿に祭ってもらうことになった。」これは出雲大社に存在したと言われる特異な高さを誇る神殿のことを言っているのではないかと思います。本展にその遺構である心御柱と宇豆柱が来ていて、そこから割り出された高さ48メートルにも及ぶ神殿の模型もありました。私は2年前の夏に島根県立古代出雲歴史博物館でこの模型を見ていて、度肝を抜かれたのを思い出しました。この「出雲と大和」展は興味関心が尽きません。このNOTE(ブログ)ではまだ展示品に触れていませんので、稿を改めようと思います。

東京上野の「人・神・自然」展

先日、東京上野にある東京国立博物館東洋館で開催中の「人・神・自然」展に行ってきました。副題が「ザ・アール・サーニ・コレクションの名品が語る古代世界」とあってカタール国の王族のコレクションより厳選された工芸品が展示されていました。何より私が惹かれたのは人や動物がもつ表情の数々で、仮面が大好きな私としては必見の展覧会でした。コレクションが世界各地にわたっているため、その地域性と言うより、古代文化を概観できて、そこに共通するものを見出すことも出来ました。図録の冒頭の文章を拾います。「分立した小さな共同体から成る古代世界。そこで暮らす人々は、生命を育むと共に、脅威をもたらす存在でもあった広大な自然界に取り囲まれ、同時に創造主との好ましい関係をもとうと試みながら、自らの本質とアイデンティティを見極めようとしました。」これが人と神と自然の関係を考える上での最初の導入部分です。また、神に関しては地域性が現れてきます。「古代世界では、一神教と多神教の双方の信条が存在していました。最も有名な唯一神の例はユダヤの神ヤハウェであり、信者たちに『あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない』と述べたことがよく知られています。~略~古代エジプトや西アジアの伝統では、人間と、動物や鳥類を取り合わせた姿で神々を表すことで、その存在が信じられていた超自然の力と属性を表現しました。~略~古代ギリシャとローマの人々は、さらに一歩進んで神々を人間の姿で描写しました。~略~突然の飢餓や不安定な衛生状態、また、絶え間ない戦争と常に向き合わざるを得なかった古代においては、神の恩寵を勝ち取ることが不可欠と考えられました。」(ジャスパー・ガウント著)古代生活にあっては超自然なるものに畏怖を覚え、その原動力が美的産物を残したのであろうと察します。展示された作品群はどれも極めて美しく、現代では忘れがちな生命力に溢れたものがそこにありました。最後にアインシュタインの言葉の引用がありました。全文を書き出します。「私たちが経験できる最も美しく、深遠な感情は、不可思議なことを感じ取る感性である。それは真の科学を生む源になるものである。こうした感性を知らない人、もはや驚嘆することも、深い畏敬の念を抱くこともできない人は、死んでいるも同然である。私たちにとって不可解なことであっても、それは実際に存在するものであり、最高の叡智と眩いばかりの美となって現れるものであり、私たちの愚鈍な能力ではそれらの最も原初的な形でしか理解できないことを認識することーこの自覚、この感性こそが真の敬虔さの中心となるものである。」