造園と彫刻との関係

私の父は造園業を営んでいて、父が存命の頃は複数の植木職人が実家に出入りしていました。先祖代々野菜を作っていた畑には、植木が植えられ、また庭石が置かれていました。実家にはトラックの駐車スペースがあり、前日に切り落とした枝葉で職人たちが焚火をやっている光景もありました。中学生の頃から造園業を手伝っていた私は、とりわけ園芸仕事が好きというわけではなく、草花も商品として見ていたし、雑草は私が刈らなければならないものという認識があって、緑を楽しむ発想はありませんでした。「石を聴く」(ヘイデン・ヘレーラ著 北代美和子訳 みすず書房)を読んでいると、世界的な彫刻家であるイサム・ノグチが、幼い頃に神奈川県茅ヶ崎でアメリカ人の母と共に小さな家に住み、山から採取してきた草花を庭に植えている様子が描かれています。当時のノグチは園芸家になろうとしていたことも書かれていました。それがやがて木工作業になり、彫刻に発展していく様子は、私だからこそ共感を覚えるのかもしれないと思うところですが、私が歩んだ道はイサム・ノグチとは逆でした。父の造園業を見直したのは、私が彫刻を学んだことが契機だったからです。造園から発展して彫刻に辿り着いたイサム・ノグチと、彫刻を知ったが故に造園を見直した私。世界的彫刻家と比べるのは些か気が引けますが、私がイサム・ノグチの世界観に特別な親近感を抱いているのはこんな事情です。書籍の中にあった「断定的主張の欠如」というイサム・ノグチの彫刻の特徴を示した語句に、私は敏感に反応してしまいました。まさに日本庭園がもつ自然をそのまま受け入れた造形に通じるものがあるからです。庭石の肌や見え方に従って石を置く位置を少しずつ変えて、石と石の関係性を大切にする、また植木の枝ぶりを見て向きを決定する、そんな父の指示によって、若い職人たちと半端職人の私は力を振り絞っていました。何のためにそんなことをするのか、これは風景の模倣であり、象徴化された自然を再現することにあるのです。己の造形的主張より自然との融合を優先する考え方は、まさに「断定的主張の欠如」なのだろうと思っています。イサム・ノグチはそんな日本庭園の考え方を自作に取り入れた最初の芸術家だったと私は認識しています。

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