イサム・ノグチ 彫刻家への道

「石を聴く」(ヘイデン・ヘレーラ著 北代美和子訳 みすず書房)は「イサム・ノグチの芸術と生涯」を扱った評伝で、今回は第8章「ぼくは彫刻家になった」のまとめを行います。今まで2章ずつまとめていましたが、第8章と第9章に関しては、ノグチの生涯のエポックとなった出来事を扱っているため、1章ごとのまとめを行います。「イサムは1923年1月に医学の勉強を始めた。~略~イサムはコロンビア大学医学予科コース在学中に野口英世博士と出会う。~略~イサムが野口博士に忠告を求めたとき、博士は父親と同じように芸術家になるほうがよいだろうし、より正直だろうと言った。」ノグチは支援者だったラムリーの勧めで医学の道へ進もうとしましたが、医学には馴染めず、母の勧めでレオナルド・ダ・ヴィンチ美術学校の扉を叩いたようです。校長のオノリオ・ルオトロの援助でいよいよ彫刻家への第一歩を踏み出したノグチ自身の言葉が掲載してありました。「ぼくは夜学に通いはじめた。でも、そのあと続けてはいかれない、仕事があるし大学にもいっているからと告げた。ルオトロは、私のために働いたらどうだ、レストランの仕事はやめなさい、同額を支払おうともちかけてきた。抵抗のしようがあろうか?自分の意志に反してではあったけれど、それでもぼくは彫刻家になった。」さらにノグチは名前にも拘りました。「アーティストという新たな役割を主張するために、イサムはふたたび父親の名を名乗った。より散文的な『ギルモア』より『ノグチ』のほうがアーティストには好ましい名前だと考えたのである。」入学後すぐにノグチは頭角を現しました。「イサムは学校で初の個展を開いた。石膏とテラコッタ22点が展示された。ルオトロは若き愛弟子の天才を広く宣伝したいと考え、イサムを『新たなるミケランジェロ』と呼んだ。~略~イサムはすぐに、ナショナル・アカデミー・オブ・デザインや建築家同盟のような権威ある団体の会員に選ばれる栄誉を得た。」ここで初期具象の代表作が登場してきます。「ナディアはバレリーナで、1926年にイサムのモデルになり、長時間無料でポーズをとってくれたので、イサムは作品の売値のパーセンテージを払うことになったほどである。初期のアカデミックな彫刻のなかでもっとも有名なこの作品は《ウンディーヌ(ナジャ)》と題され、その制作には八ヵ月かかった。」さて、イサムはいつ頃モダニズムの潮流を浴びたのか、こんな文章がありました。「イサムがモダニズム彫刻家に変身するきっかけとなった出来事は、1926年にダダ・アーティストのマルセル・デュシャンがブラマー画廊で企画したブランクーシ展を見たことだった。~略~日本的な簡潔さの重視と素材の尊重に親しんでいたこともまた引き金となって、ノグチはブランクーシの作品にたちまち魅了された。」その後、ノグチはグッゲンハイム奨学金を得てパリに旅立ちます。第9章ではブランクーシとの出会いが待っています。

関連する投稿

Comments are closed.