鑑賞者としての学び

私の職場で発行している広報誌に禅画に関する文章を寄稿しました。このところ鞄に携帯している書籍として「あそぶ神仏」(辻惟雄著 ちくま学芸文庫)に親しんでいて、禅画を扱った章に登場した白隠と仙厓の世界観に、私自身もいろいろ考えさせられることがありました。鑑賞者として作品を見るには、それなりの学びがないと作品を堪能できないと私は実感しています。白隠と仙厓の世界観を利用して、そんなことを広報誌に書きましたが、鑑賞する側の学習準備は、禅画に限らず抽象絵画にしろ、現代のアート全般にも言えることです。ルネサンス以降の写実絵画は、いわゆる写真に近く、対象を絵画理論に基づいた正確さで描いています。それは絵画の良し悪しを分かり易い判断で決められると私は考えます。うまいか、へたかという判断基準は、見方や感じ方について洞察をする必要もないからです。ただ、うまいか、へたかの価値づけはうわべだけをなぞるだけで、表面に現れたもので芸術の何たるかを考えることにはなりません。自分が不可解に思える芸術に接した時が、自らの見方や感じ方を問い直す契機になると私は考えています。作者の思いや社会背景や時代を先取る前衛的な思考などを考慮して、初めて作品の価値が分かるものです。白隠と仙厓の禅画は、若い頃私が感じたことと、現在私が感じていることの間に大きな隔たりがあります。展覧会を見に行くことは、非日常の世界に接することで己の心を開放し、それによって癒されると同時に、自分の固定観念に対する新しい感覚の開拓を求められることにも繋がっています。私にとって展覧会場は休息の場であり、学習の場でもあるのです。鑑賞者としての学びは、創作活動への応用でもあります。私が実技と鑑賞を両輪と考えている要因は、そんなところにあるのです。

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