週末 ロフトへの荷揚げ作業

昨年春に工房ロフトの拡張工事を行いました。私の作品は陶彫による集合彫刻で、それぞれ分割して木箱に入れて保存してあります。その梱包された量が半端なく、既に1階倉庫は木箱で溢れかえり、その一部が作業場に迫り出してきています。そこで昨年ロフトを拡張したのですが、工房には空調がないので、夏は蒸し風呂状態になり、とてもロフトに長くいられるものではありません。昨年夏に開催した個展の作品がまだ1階の作業場にあるため、今日の午後はそれら木箱をロフトに揚げる作業を行いました。今日は気持ちの良い春日和の天気になり、ロフトはやや気温が高かったものの作業には適した気候でした。今日集合してくれたのは、それぞれの場所で活躍している男性アーティストが2人、いつも工房に通ってきている染のアーティストと美大受験を考えている高校生2人、それに私を加えて、男性3人、女性3人の合計6人でした。荷揚げ作業には適度な人数と思いました。時間は午後2時から4時までの2時間くらいと見積もっていましたが、まさにその通りでした。狭かった工房の作業場が広くなって、快く制作が出来るようになりました。手伝ってくれた皆さんに感謝です。工房は一般的な貸し工房ではなく、私に関係した人たちが自由に使える空間として機能しています。最近は染めのアーティストが頻繁に使っていますが、彼女は清掃や片づけまでやってくれていて、工房管理者として役割を果たしてくれています。私もそうですが、大きな作品だったり、周囲を汚す素材を扱っていたりする場合は、自宅ではなく完全に独立した工房が大変便利で、その環境が創作活動を後押ししてくれます。私の作品も彼女の作品も工房があればこそ誕生した作品と言えるのです。明日は通常の制作に戻ります。今月の制作目標を考えながら進めていきたいと思います。

自宅キッチンの解体工事

自宅のリフォーム工事が始まって2週間目に入っていますが、和室を洋室に替えていく工事に完了の目途が立ちました。さらに隣接するダイニングの改修工事が今日から始まりました。ダイニングには30年前に入れたシステムキッチンがあり、これを最新式のものに替えていくのです。当然料理が出来ない日々が続くことになるので、食事はコンビニ弁当に頼らざるを得ません。数日前より私たちはダイニングにある食器棚の整理に追われていました。解体前夜であった昨日は家内が夜通し食器の断捨離を行っていました。私は深夜0時で翌日の仕事のことも考えて就寝しましたが、家内の徹夜の頑張りに感謝です。私がこの家を建てた頃、私は陶彫による作品を試作していて、陶芸家の友人を訪ねて栃木県益子や茨木県笠間によく出かけていました。陶土を吟味したり、陶肌をよく見てくる目的で、日本有数な陶芸の産地に出向いていたわけですが、友人の作品も含め、気に入った陶器を買い求めてきました。それは所謂作家ものと言われる1点ものの器ですが、長年にわたって収集してきたため、食器棚には私の思いの詰まった器が溢れているのです。それら器の数々は断捨離が出来ずに、自分の美的感覚を刺激するものとして、どうしても保存したいと思っています。古新聞紙にひとつずつ器を梱包し、段ボールに入れてダイニングの改修工事が終わるまで別の場所に置いておきます。今や自宅は引っ越しでもするような荷物で溢れていて日常生活にも影響を及ぼしています。リフォームが完成したら素晴らしくなることを信じて、今は耐えていこうと思います。

C・トムキンズとP・チャンによる導入

「アフタヌーン・インタヴューズ」(マルセル・デュシャン カルヴィン・トムキンズ聞き手 中野勉訳 河出書房新社)は、前衛芸術家マルセル・デュシャンにインタヴューを行なったカルヴィン・トムキンズの記事が中心になった書籍ですが、その導入としてピーター・チャンによる対話が掲載されていました。C・トムキンズがデュシャンに対して、どんな印象を持ったのか、気軽に語っている場面が想像できました。私は先入観でデュシャンは気難しい人ではなかったのかなぁとさえ思っていたところ、彼の自然な振る舞いに拍子抜けするところもありました。本当にデュシャンはどんな人物だったのでしょうか。C・トムキンズが語ったこんな台詞が印象的でした。「一番重要な要素の一つは、全面的に自由であること、というこの状態だと思います。伝統から自由であること、種類を問わず、ドグマというものから自由であることです。それから、絶対に何かを当然視しないという彼のあり方。自分はすべてを疑った、すべてを疑う中で、何か新しいことを思いついた、そういうことを話していました。~略~すべてを、アートの本性そのものまで含めて疑問視しなければというこの必要、この情熱ですね。レディメイドの本当の要点というのは、アートとはこういうものだと定義づけてしまう可能性を否定することだった。アートはどんなものでもありうるんだ。物体でもないし、イメージですらない、ひとつの精神活動なんだ、と。かつ、こういう考え方は彼の仕事に一貫してあるわけです。それまで誰もやったことのなかったいろんなことを彼がやったのは、自分自身のために、ひとつの自由を見つけることができたからだったんですね。」全てにおいて自由になれるというのは、西洋美術の基礎を学んだ者にとっては、易しいようで難しいものなのです。私は彫刻の概念に囚われていて、空間に対して自由な考え方が出来ているとは言えません。そんなことをマルセル・デュシャンから学んで、自分の意識改革ができればいいなぁと思っているところです。

5年目の再任用管理職

新年度になり、私は5年目の再任用管理職として現在の職場を率いることになりました。再任用管理職としては最後の1年間になります。新型コロナウイルスの感染拡大の影響で、新年度のスタートがしっかり機能できない部分もあるのですが、可能な範囲で頑張っていこうと思っています。今年度は初任者を2人、私の職場に迎えることになり、本来なら横浜の某所で辞令交付式があるはずが、感染症の影響で辞令を各職場で交付することになったのでした。私のワーキングパートナーである副管理職も新しい人に代わりました。新しい組織がきちんと機能するかどうか、それもこれも最終責任は私にあるので内心緊張していましたが、徐々に打ち解けていく職員を見て、少しばかり安堵しました。明日は新しい人も含めて全職員が揃います。昼食会に私はシチューを作って職員をもてなそうかなぁと考えています。新型コロナウイルス感染が一刻も早く収まってくれることを信じて、実りのある令和2年度になれば幸いです。私にとっては公務員として最後の奉仕です。創作活動に関しては4月の目標を立てていきたいと思っています。新作は屏風とその前にある床を使って陶彫部品が連結した集合彫刻になりますが、もう1点サイズとしてはやや小さめの陶彫作品を作っていこうと思っています。この作品はテーブル彫刻になる予定です。さらに小品を数点、これも今月中にやっていかなくてはなりません。それもウィークディの仕事の合間を見て頑張ろうと思います。5年目の再任用管理職、まだ横浜市が私を必要としているのであれば精一杯努力するのみです。

令和元年度末の最終日

今日で3月が終わります。年度で言えば令和元年度末の最終日になります。私たちの職種は年度で変わるので、今日は職場を支えてくれた人たちの何人かとお別れしなくてはならない日になりました。職場で難しい課題が生じた時に、その人たちが真摯に対応してくれたことが印象的でした。また私は職場の責任者として感謝もしています。私も書類等の片付けに入りました。明日から新年度になり、新しい人たちとの出会いがあります。相変わらず新型コロナウイルスの感染拡大の影響があって、新年度がきちんと始められないもどかしさもありますが、新たな気分でやっていきたいと思っています。今月を振り返ってみると、創作活動では新作の見せ場のひとつである屏風が出来ました。厚板を2層にして格子模様を彫り込み、そこに砂マチエールや油絵の具を滲みこませていきました。今月の制作目標は屏風の完成だったので、スタッフの手を借りながら何とか目標の達成は出来ました。今月は自宅のリフォームが本格的に始まり、日々不自由な生活を送っています。その影響があってRECORDの彩色や仕上げが出来ません。下書きは続けていますが、自宅での生活が落ち着かないと、RECORDに手がつけられなくなることが判明しました。下書きが山積みになることは今までもありましたが、今回は勝手が違っていて、その遅れをどう取り戻せばよいのか見当がつきません。リフォームが一段落したら、どこかの場面で頑張るしかないと思っています。鑑賞は新型コロナウイルスの影響で美術館や映画館に足を運べず、外からの刺激を得ることは出来ませんでした。美術館や映画館は閉館しているところも多くこれは仕方がない状況です。その分、今月は読書に時間を割きました。「奇想の系譜」の著者による神仏に関する楽しい書籍を読みました。それにしても普通の生活は何と幸福なことか、改めて平和で安定した生活に戻りたいと願うばかりです。

「アフタヌーン・インタヴューズ」を読み始める

フランス生まれの現代アーティストであるマルセル・デュシャンは芸術に対する見方や考え方を根底から変革した巨匠です。変革者としてはピカソに匹敵するかもしれず、現代社会の中にさまざまなカタチでアートが取り入れられている現状には、デュシャンの影響も少なからずあろうかと思います。工業化された既製品を美術品として扱い、展覧会においてそれに題名をつけて展示したことは、美術関係者なら誰もが知る有名な事件ですが、それだけではないデュシャンの世界観を私は常々知りたいと願っていました。以前に東京国立博物館でマルセル・デュシャンの大掛かりな展覧会があって、デュシャンの生涯を概観する機会を持てたことは幸運でした。その時にギャラリーショップで購入したのが本書「アフタヌーン・インタヴューズ」(マルセル・デュシャン カルヴィン・トムキンズ聞き手 中野勉訳 河出書房新社)で、デュシャンがリラックスしてインタヴューされている様子が伺えます。今までデュシャンの書いたものや発したコトバを聞いていると、意味が判読できないものや矛盾も散見されます。そうしたことを全て含めてマルセル・デュシャンの全貌かなぁと思います。デュシャン没後に評論家がさらに深く世界観を洞察したものが出版されていますが、本書の方が生の作家に触れることが出来るのではないかと私は考えていて、今から読むのが楽しみになっています。現代の美術家もデュシャンの見方や考え方を推し進めている人が結構いると考えています。現代彫刻の中にもそうした考え方が入って来ていると感じます。改めて眼から鱗になることも期待しています。

週末 陶彫制作に拍車

今月最後の日曜日です。新型コロナウイルスの感染拡大の影響を受けて、今日も首都圏では外出自粛という措置を取っています。ちょうど桜が満開を迎えていますが、桜は毎年咲くものなので今年は鑑賞を断念してもいいのではないかと私は思います。今は感染症にかからないために自ら行動を制御する方が大事かなぁと思っています。工房は自宅から僅かな距離にあるので、今日もそこで創作活動を行いました。今日の横浜は雪に見舞われ、午前中は周囲が白くなるほど雪が降っていました。そんな中にも関わらずいつもやってくる染めのアーティストが工房に顔を出しました。車で来るのは危険と判断し、公共交通機関を使ったとのこと。私もこの雪では車は出せないと彼女に言っていたのでしたが、作品の梱包作業のため雪も感染症も恐れずに頑張って工房にやってきたのでした。私は陶彫制作に拍車をかけていました。まだまだ陶彫部品が必要で、今日は3点の陶彫成形を終わらせました。午後になって雪はやみましたが、工房内は底冷えのする寒さになり、今日ばかりは時折ストーブに齧りつく作業になりました。彫り込み加飾は後日に回すことにしましたが、彫り込み加飾はかなり時間のかかる作業なので、ウィークディの夜にでも工房にやってこようかと思っています。今月は屏風を作り上げることにしか頭になかったので、屏風がカタチになってみると、次から次へとやらなくてはならないことが頭を過ぎり、焦る気持ちが湧き上がってきます。一難去ってまた一難というのが新作の制作工程ですが、ここまでくればやりきることしかないと思っています。ウィークディの勤務時間を何とかやり繰りできないかなぁと予定を見ながら検討しているところです。

週末 外出自粛における創作活動

新型コロナウイルスの感染拡大の影響を受けて、首都圏ではこの週末に対して外出自粛という措置を取りました。海外の都市では非常事態宣言が出されているところもあり、閑散とした街の状況がニュースになっています。そんなことを考慮して工房は、毎週やってくる美大受験生を呼ばないことにしました。高校は休校になっていて、彼女は暇を持て余していると思いますが、感染が落ち着くまでの辛抱です。いつも通ってくる染めのアーティストは工房に来ていました。期限までに台湾に郵送する作品の仕上げと梱包があるためで、これは不要の外出には当たらないと判断しました。台湾の染料会社のスペースを借りて展示するようですが、作家は搬入に行くことができず、向こうの方々にお任せするしかないようです。外出自粛といっても工房は自宅から近いので私は気兼ねなく工房に行って創作活動が出来ます。今月の制作目標として掲げた屏風6枚の砂マチエール施工とそこに油絵の具を滲みこませる塗装作業は今日の午前中に終わりました。ドリッピングも4層降りかけたことになり、画面の色調を見て、ここまでにしようと思ったのでした。今月最後の週末となった今日で制作目標が達成したことを嬉しく思いましたが、午後は土錬機を回し、次の陶彫部品を作る工程に入りました。陶彫部品がまだまだ足りないことが分かったので、若干焦りも感じました。明日は一日中陶彫制作に勤しむ所存です。首都圏が提唱した外出自粛で、それぞれの家で退屈している人も多いと聞きますが、染めのアーティストや私にとっては外出している暇がないため、それは関係ありません。創作活動で一日があっという間に過ぎていきます。明日も創作活動は継続です。

「あそぶ神仏」読後感

「あそぶ神仏」(辻惟雄著 ちくま学芸文庫)を読み終えました。著者の辻惟雄氏は「奇想の系譜」を著した人として、江戸時代に埋没してしまった稀有の画家を発掘し、私に近世美術の面白さを示してくれました。それからというものの辻氏に取り上げられた画家の展覧会に私は必ず出かけ、その表現力を堪能してきました。本書も本物を味わうため地方に出かけたくなる作品が多く取り上げられていて、本当に楽しく読むことが出来ました。本書のあとがきに意外なことが書かれていました。「正直にいうと、私は仏教美術が苦手である。仏像や仏画の魅力はむろん否定できないが、それを学問するとなると、儀軌や図像の複雑な迷路に分け入らねばならない。~略~だが、近世美術のなかで馬齢を重ねるにつれ、それが意外に宗教性の強いものであることに思い至るようになる。」また、別稿のあとがきのなかでこんなことも書かれていました。「僧の堕落と幕府の宗教統制によって、江戸時代の仏教・神道は低迷したといわれる。だが、円空・白隠など本書にあげた画僧や修験僧たちの活気と個性、それにユーモアあふれる仕事ぶりを見ると、低迷という言葉がむしろそらぞらしく、逆に意欲的であったというべきであろう。」本書の解説の中で矢島新氏が指摘している箇所にも気が留まりました。「昭和初期の柳宗悦による民芸の提唱や、戦後の岡本太郎による縄文土器の称揚も、『稿本(稿本日本帝国美術略史)』に代表される取り澄ました史観への反発ととらえることができる。木喰の発見者でもある柳は、はじめ西洋の心理学や宗教哲学を学び、文芸雑誌『白樺』の活動を通して西洋美術に親しんだという経歴を持つが、学生時代に日本の工芸史を学んだ経験はなかった。岡本は言うまでもなく前衛芸術家であり、パリ大学で民族学を学んだ経験はあったが、日本の美術史に関しては素人に近かった。かつて著者は柳や岡本の発見を『眼の革命』と呼んだことがあるが、専門分野ではなかった故に既成のフィルターを取り払って虚心にモノを見ることができ、そうしたある種の自由さが眼の革命につながったという面はあるだろう。辻の唱えた『奇想の系譜』も、眼の革命と呼ぶに値する革新的な主張である。柳や岡本の声が美術史学の外側からであったのに対し、近世絵画を専門とする研究者の立場からの、すなわちアカデミズムの内側からの異議申し立てだった点が意義深い。」本書を読んで感じたことは、まだ発掘されていない画家や彫刻家が地方にひっそりと隠れているのではないかということです。現代の造形価値観で見ると、こんな凄い人がいたんだという発見があると楽しくなるなぁと思っています。

「天龍道人源道の仏画」について

「あそぶ神仏」(辻惟雄著 ちくま学芸文庫)のⅣ「天龍道人源道の仏画」についてのまとめを行います。天龍道人源道という名前を私は初めて聞きます。どんな人なのか紹介文を拾ってみます。「東方に南アルプスを望む美しい環境の山腹に、清林山浄玄寺という浄土宗の寺がある。この寺の本堂、経蔵、書院など、いたるところの壁や襖、天井は、特異な絵で埋め尽くされている。18世住持であった徳誉源道和尚(天龍道人、1852-1925)の描き残したものである。」天龍道人源道は江戸から明治にかけて生きた人だったことが分かりました。どんな生涯だったのか、そこに触れた文章を引用いたします。「伝記・逸話を通じて、われわれに与えられる源道のイメージは、農民の暮らしに密着し、彼らの心のよりどころとなって敬愛を一身に集めた、生涯独身、高徳の清僧である。~略~だが、かれの残した絵は~略~そうした清僧のイメージとはかなり異質なものである。」ここで浄玄寺障壁画を2点紹介しています。まず「釈迦成道図」。文章を引用すると「釈迦のイメージを、その生地であるインドに見出すという源道の思想傾向がそこに反映していると思われるのである。インドの仏画を思わせるような濃厚な装飾的色調のエキゾティズムもこのことに関連しよう。だがそれにしても、日本の仏画の伝統からかけはなれた自前のイメージであり、土着性に満ちたプリミティヴな表現である。」とありました。次に「浄土七宝蓮池図」。これは「観無量寿経」のうちの第5番「宝池観」によったものと推定されていて「柔らかな七宝でできた八つの池水に60億の宝石の蓮花がある。池水は如意珠王(あらゆる願いを叶える最高の珠宝)から生じ、分かれて14の支流となる。-珠宝からは、美しい黄金色の光が流れ出し、その光は化して百宝色の彩りを持つ鳥となる。相和して鳴く声は甘美優雅であって、常に仏を念じ、法を念じ、僧を念ずることを讃える」というものです。著者は天龍道人源道を、日本が近代化を進める世相の中で、どう見て評価していたのか、次の箇所でまとめとします。「明治の日本は、国をあげて欧米の文明を志向し、それまでの日本人が日常生活のなかで育ててきた伝統的イメージの価値を否定し捨て去ろうとした。源道の作画は、そうした状況のもとで地方の民衆がなお保ち続けた土着的な想像力と信仰のイメージを、力強く代弁できたおそらく最後の例として、改めて注目されるべきだと思う。民衆の生活に密着し、アマチュア画家天龍道人として終始した源道の絵には、絹地や金銀の箔を用いたものが滅多にない。絵具もたいてい泥絵具系の安価なもので、緑青、群青、朱などの高価な絵具は使わない。だがそうしたハンディが、表現の直截な力強さ、イメージの独自性と不可分につながっている。近代化の波のなかに埋もれた土の匂いのする珠玉である。奇は巧まずしてそこにあらわれた。」

年度末の大鍋コミュニケーション

職場として今日が年度末のけじめとなりました。実際には今月31日まで残務整理に追われるのですが、恒例として全職員で1年間の振り返りを行いました。感染症拡散を防止するため、いろいろな工夫をしてきた私たちの職種ですが、人と人とが密集しないような配慮をして、昼食会を開かせていただきました。食事のお供になる汁物提供は私が管理職になった時からやっています。昨晩家内とスーパーマーケットに材料の買い出しに出かけ、今日は豚汁を作ることにしました。朝から職場で担当していただける職員と私が寸胴鍋で調理をしていました。もう何回大鍋コミュニケーションをやっただろうと思い返していますが、これは職員同士が仲良くなれる職場経営に欠かせない重要なアイテムなのです。自宅ではほとんど調理をしない私ですが、本来は調理が好きなんだろうと思っています。フランスでは料理は芸術分野に属しています。日本でも懐石料理における美的感覚は素晴らしいものがあると思っていて、日本人に生まれて郷土料理に誇りが持てる優越感に浸っています。私にはそこまで高級な趣味趣向はないのですが、気軽に手に入る食材を使って、出来るだけ美味しいものを作ろうとする気合だけはあります。来年度も機会があれば大鍋コミュニケーションをやっていきたいと思っています。

HPに19’RECORD1月~3月をアップ

私のホームページに2019年のRECORDの1月分から3月分までの3ヶ月をアップしました。一日1点ずつ作り続けているRECORDは、文字通り毎日の記録です。私は公務員との二足の草鞋生活をしているため、RECORD制作との時間のやり繰りが大変で、そのための効率を考えて5日間で同じ絵柄が展開していくように設定しています。RECORDをホームページに載せるためにはデジタル画像にする必要があり、カメラマンに1年間分をまとめて撮影していただいています。その撮影日を毎年9月末から10月初めくらいに設定してあって、今回アップした画像は昨年の9月末に撮影したものです。2019年の年間テーマを「風景」に決めていました。毎月「~の風景」としてRECORDを作っていましたが、今までのRECORDも風景を想定したものが数多くあって、何も「風景」をテーマにしたからといって大きな変化はありません。ただし、陶彫も含めて私の創作する世界観が風景を基盤にしているものが多いため、敢えて「風景」というテーマを設定したのでした。1月は「浮遊の風景」、2月は「梱包の風景」、3月は「萌芽の風景」で、それぞれのテーマに対してコトバも添えています。今回アップした2019年の1月分から3月分までのRECORDをご覧になっていただけるのなら、私のホームページの左上にある本サイトをクリックしてください。ホームページの扉にRECORDの表示が出てきますので、そこをクリックすれば今回アップした画像を見ることが出来ます。ご高覧いただけると幸いです。

自宅リフォームの開始

30年前に自宅を新築した時は、横浜市公務員としてはまだ駆け出しの頃で、勤務時間など関係なく無我夢中で仕事をしていました。当時は働き方改革という発想はなく、それでも仕事が面白くなっていたため、創作活動も途切れがちでした。20代を海外で好き勝手に暮らしていた自分は、帰国して社会人になるのが同年代の人たちより遅く、彼らに引け目を感じていて、その分一所懸命になって自分の力の無さを補っていました。給料も公務員として決められていたのでしたが、身分不相応な家を建てようとしていたので、その年齢からすれば大きな借金を抱えていました。私は公務員を定年まで絶対に辞めないと誓いを立てていました。そうすれば何とか定年までに借金が返せるという計算がありました。実際にその通りになりましたが、定年前に亡父が残してくれた植木畑に工房を建てることになるとは、当時は思いもよらなかったことで、再任用管理職である今も新たな借金を抱えています。築30年になった自宅のリフォーム工事は、退職金を切り崩して費用を工面することにしましたが、自宅関連の施工ではこれが生涯最後になるのではないかと思っています。それもこれも全て20歳の頃に夢見た彫刻家になるという希望に収斂していくようで、自分が生きた証を作っていこうとしているのです。さて、人生最後の施工である自宅リフォーム工事が今日から始まりました。業者が4人来て和室の解体工事が始まったようですが、私は朝から職場に出勤していて、その様子が分かりませんでした。家内は隣にあるダイニングの片づけまで一気にやらなければならなくなったようで、私が帰ったときはダイニングも多少きれいになっていました。業者の出す騒音が凄かったらしく、家内は2階に避難していました。これが1ヶ月以上も続くので、家内はストレスが溜まってしまうかもしれません。暫くの辛抱で快い空間が手に入ると考えて、私は家内をサポートしていこうと思います。

三連休 自宅リフォーム前日準備

三連休の最終日です。今日も朝から工房に行っていました。このところずっと染めのアーティストが工房に通ってきています。彼女と一緒に制作していると張り合いがあって作業が進みます。暗黙のうちにお互いを刺激しあっているのかもしれません。今日の私の制作は専ら陶彫の彫り込み加飾だけを集中してやっていました。床に所狭しと置いてある屏風は、砂マチエールや油絵の具が乾くまで暫く放置です。工房での制作のことより今日は明日から始まる自宅のリフォーム工事のことが頭から離れず、制作は早々に切り上げて自宅に戻りました。家内は新型コロナウイルスの影響で演奏会が全て中止になり、ずっと家にいるためリフォームの片づけをよくやっています。明日から始まるリフォームは最初に和室を洋室に改修していくので、和室にある荷物を持ち出すことから始めました。和室の中はほとんど家内のものばかりで、胡弓や三味線といった邦楽器や演奏に使う着物などをとりあえず2階のリビングに運びました。30年前に新築した自宅は長い間に荷物が増え、幾つものダンボールに衣類や小物を詰めました。足の踏み場もなかった和室はしだいに荷物がなくなり、夜には何もない状態になりました。その分他の部屋にはダンボールが積まれています。断捨離をしたため、ゴミが大量に出ました。決められたゴミの日に随時出していかないと玄関はゴミ袋に埋もれてしまいます。和室だけでもこれだけのゴミが出るのかと改めて知って、次から次へとリフォームをしていく中で、どのくらいのゴミが出るのか末恐ろしくなります。明日は月曜日なので勤務がありますが、自宅のことが気になって仕事が手につかないのではないかと思うところです。

三連休 制作&墓参り

三連休2日目です。今日も朝から工房に篭りました。染めのアーティストが今日も来ていて、昨日と同様それぞれの場所で制作をやっていました。私は昨日まで取り組んでいた板材の油絵の具塗装の作業は休んで、今日は陶彫制作に戻りました。新作の陶彫部品もまだ足りない状況で、陶彫には成形と彫り込み加飾の後、乾燥をさせる時間が必要です。不足している陶彫部品を急いで作らなければ乾燥時間の確保が難しくなるので、まず陶彫制作を優先しようと思ったのでした。朝から座布団大のタタラを数枚準備し、今日はビニールで包まず、そのまま放置しました。用事を済ませてからそのタタラを使うので、多少硬めにしておく必要がありました。用事というのは相原の菩提寺に墓参りに行こうと家内と決めていて、昼前に仏花を持って出かけました。家内も私も彼岸を忘れていて、姪に言われて気づいた次第です。罰当たりな子孫で申し訳ないと思っています。墓参りを済ませて昼過ぎに工房に戻ってきました。さっそく陶彫成形を始めました。床に置いた屏風の板材に絵の具を振りかける作業より、陶土を立体に立ち上げる作業の方が、自分としては気軽に取り組めてホッとしています。つくづく塑造が好きなんだなぁと改めて思います。夕方になって早めに自宅に戻りました。昨日から私は自宅の片付けに入っていて、今日も3時間ばかり片づけをやっていました。断捨離をしながら片づけをしていますが、過去のものが沢山出てきて、いろいろな思いに囚われてしまうので、この作業は創作活動とは異なる疲れを感じます。公務員管理職としては来年度人事を控え、彫刻家としては7月の個展に向けて制作が佳境を迎え、自宅ではリフォーム工事が目前に迫っていて、私は今や混乱の最中にいるといってもいいでしょう。夜7時に工房にいる染めのアーティストから連絡があり、私は彼女を家の近くまで車で送りました。感染症のこともあって公共交通機関を使わせないようにしているのです。明日も継続です。

三連休 制作&自宅断捨離の開始

三連休になりました。朝から工房に行きました。染めのアーティストも来ていて、彼女は近く台湾で発表する大作に挑んでいました。私の新作である屏風6枚と彼女の布が工房に広がっていて、いつもより工房が手狭に感じました。新作の屏風6枚は工房の床に置いてあって、砂マチエールを施工したばかりですが、そこに油絵の具を滲みこませていて、完全に固まるまではもう少し時間がかかりそうでした。それでも今日はそこに油絵の具を上から滴らせる作業をしました。ベースとなる色彩は既に滲みこませてありましたが、別の色彩を散りばめました。言わば巨大なドリッピングです。今日のところは3色を上に重ねていきました。例年なら赤錆た陶彫の色に合わせて、暗い色調にするところを、今回は明るいパステルカラーにしてみました。今日はここまでにして砂や油絵の具を固まらせるために放置することにしました。工房の床を広く使ってしまっているので、通行の邪魔になりますが、暫くは仕方がありません。ドリッピングはまだまだ続きます。昼からは陶彫部品に彫り込み加飾を施す作業に切り替えました。絵の具を使った作業の後で陶土に触れている自分は、平面と立体を同時に進めていて、何だか不思議な感覚を持ちました。夕方は早めに自宅に帰り、まるで家を引越すような荷物整理に追われていました。家内は昨日からずっとやっていて、自宅の床はダンボールが所狭しと置かれています。次の月曜からいよいよリフォーム工事が始まるのです。まず1階の和室を壊して洋室に変えていく工事になります。和室にあるのは家内のものばかりですが、そのダンボールをどこに置いたらいいのか、それは2階のリビングにしようと決めたので、リビングの片付けも必要になったわけです。1階は家内が片づけをしていて、2階は私がやっていました。片付けながら断捨離もやっていて、不要なものはゴミ袋に詰めました。断捨離を伴う片付けは明日も継続です。ゴチャゴチャになった自宅で今晩は過ごしています。

「北斎晩年の<ふしぎな世界>」について

「あそぶ神仏」(辻惟雄著 ちくま学芸文庫)のⅢ「北斎晩年の<ふしぎな世界>」についてのまとめを行います。今や国際的な名声のある日本人画家といえば葛飾北斎の右に出る者はいません。西欧人にフアンが多いのは19世紀から20世紀初頭にかけて印象派の画家たちが挙って北斎の浮世絵からインスピレーションを受けたことによります。北斎を写実主義者というにはちょっと抵抗があり、晩年になるほど写実的な描写から離れ、独特で説得力のある象徴的な表現へと移っていきます。私は北斎のそうした晩年の作品に魅力を感じる一人です。北斎イズムと言われる不思議な世界について文中から拾ってみます。「一方には、自然や人間の形態、表情を鋭く観察し、それをユーモラスに再現することのできるリアリストとしての北斎があり、そして他方には、自然のかたちを奇妙な北斎イズムの世界に翻訳することに熱中するマニエリスト北斎がある。」具体的な例としていくつかの滝を描いた絵画を引き合いに出し、その表現に卓抜とした構成力が発揮されているのを私は確認しました。「この神秘感に満ちたイメージは、かれが滝の伝説をもとに、想像力を駆使してつくりあげた大いなる幻影といえるだろう。」滝の絵画に限らず、北斎には植物や動物の描写でも奇想的なイメージが付き纏っています。「こうした北斎の奇想は、70代になってあらわれたものではなく、若いころからすでに潜伏していた。化物を描くとき、その奇想は、他方のリアリストとしての資質と結び付いて衝撃的なイメージをつくりだしている。~略~かれは妖怪の実在を信じていたに違いない。それでなければどうしてこのような迫真的なお化けのイメージがつくれるだろうか。」北斎の眼と心に着目した一文もありました。「北斎が描く鳥や動物や魚は、草花以上に直接にかれの心を伝えてくる。その心とは人間である自分も動物と同じ霊魂を持ったとみるアニミスティックな心であり、その心を直接伝えるのは眼である。」北斎は画業一筋に長寿を全うした世界にも類を見ない画家でした。私も北斎の「ふしぎな世界」を日本人として誇りに思います。私が感銘を受けた北斎の作品はここに取上げられていませんが、有名な「神奈川沖浪裏」をさらに発展させた「男浪」と「女浪」です。本作品は、長野県小布施にあり、祭り屋台の天井図として描かれたものですが、荒れ狂う波だけで表現された世界に私は惹き込まれてしまいました。90歳で生涯を閉じた北斎でしたが、最後にこんな文章を引用いたします。「辞世の句は『ひとだまで、ゆく気散じや、夏の原』であった。自分の魂が体から離れて、夏の原を自由に飛んでいくーそれを北斎は『気散じ』ということばであらわしている。死を間近に控えてのこの余裕は、かれの戯作者としてのユーモアの精神をあらわすものだろうが、それ以上に、死後の霊魂の存在を確信する精神のしたたかさを感じさせる。」

劇作家の逝去記事を巡って

先日、新聞に劇作家であり童話作家でもあった別役実逝去の記事が載っていました。今月の3日に亡くなったという記事でしたが、私は20代の頃に演劇を観に、東京のあちらこちらに通っていた懐かしい時代を思い出しました。当時はアンダーグランド演劇がピークを過ぎた頃で、赤テント(状況劇場)の唐十郎、黒テントの佐藤信、天井桟敷の寺山修司に並んで鈴木忠志が率いていた早稲田小劇場にも足を運んでいました。早稲田小劇場では女優の白石加代子の鬼気迫る演技にも惚れ惚れしていました。そんな早稲田小劇場で観た演目が劇作家別役実のものだったと振り返っていますが、その日常に潜む不思議な感覚を齎す世界が今でも印象に残っています。空虚で乾いた世界というべきか、何か根底に怖ろしいものがあって、それを誇張するわけでもなく何気なくサラリと演じる役者に妙なリアルも感じていました。それは不条理演劇という分野に入るものらしく、理屈に合わない世界に無意味であっても無意味とは言い切れない新しさも感じていました。20代の私が日常とは何だろうと考える契機にもなっていました。別役実著の童話集「淋しいおさかな」も購入して読みましたが、その書籍は40年前に友人に貸したまま戻ってきていません。別役実には宮沢賢治の影響があったようで、中・高時代に宮沢賢治の詩や童話を愛読していた私は、宮沢賢治に似た世界観を別役実に見取って身近に感じていたのかもしれません。フォーク歌手の小室等が歌う「雨が空から降れば」も別役実の詞で、「雨の日はしようがない」というフレーズが不条理をそのまま受け入れて達観しているような気がしています。私にとっては青春の一幕ですが、アンダーグランド演劇の昂ぶりがなくなってしまっている今も、実験的な演劇活動が活況を呈して欲しいと願ってやみません。最近は映画には頻繁に行くけれど、演劇には足が遠のいている自分ですが、時間が出来れば昔のように演劇に心身ともに埋没したいと思っているのです。

「北斎の信仰と絵」について

「あそぶ神仏」(辻惟雄著 ちくま学芸文庫)のⅢ「北斎の信仰と絵」についてのまとめを行います。葛飾北斎は国際的な名声を得た日本の画家として有名ですが、自らの画業を完成させるため、長く生きることに執着したことでも知られています。私が羨望の眼差しで葛飾北斎を見ているのは、独特な世界感や卓抜した表現力もそうですが、長い生涯を画業で全う出来たことによります。そんな北斎は仏教的解脱から遠い存在のように思われていて、生涯を紐解くと絵画に賭ける生々しさが伝わってきます。本当のところは果たしてどうなのか、本章はそこを探っていきます。「彼の友人の滝沢馬琴が、北斎の母の年忌に際し、彼の困窮を見かねて香典を包んだ。その日の夕方、北斎は馬琴のところへ来て談笑するうち、懐から紙を出し鼻をかんで投げ出した。馬琴がそれを見ると朝与えた香典の包みである。馬琴は大いにおこって、中の金は仏事に使わず他のことに使ってしまったにちがいない、親不孝な奴め、とののしると、北斎答えて曰く、たしかに、いただいた金は自分の口中にしてしまった。精進物を供え、僧を雇って読経させるようなことは世俗の虚礼である。父母の遺体はすなわち自分の一身なのだから、自分の体を養い、100歳までの寿命を保つのが親孝行ということにならないだろうか…」(飯島虚心『葛飾北斎伝』)これでは北斎は不信心だったと思われても不思議はないのですが、こんな一文もありました。北斎は「妙見(妙見菩薩・北辰菩薩)を信仰した。妙見菩薩は北極星・北斗七星を神格化したもので、延命、除災、とくに眼の病を救う守護神として平安時代から信仰されていた。~略~彼の号戴斗は、妙見信仰からきたものである。~略~このような北斎の信仰は、呪術に頼って除魔・除災といった現世利益を得ようとする江戸時代庶民の宗教感情を如実に反映したもの」ということで、北斎の信仰はなかなか独創的でもあったようです。北斎の肉筆画「西瓜図」には包丁が描かれていて、包丁についた白い点々がゴミではなく北斗七星であることも北斎の信仰を物語るものとして知られているようです。「西瓜図」は何とリアルで美味しそうに見えることか、改めて彼の画力に驚いてしまいます。

コトバによる現実逃避

昼間は公務員管理職として来年度人事に取り組んでいます。この時期が一番骨の折れる時期です。全職員の配置を考えながら、さらに組織の活性化を目指し、仕事がやり易くコミュニケーションがスムーズにいく職場環境を作ろうと私は朝から夕方まで悩んでいるのです。これが私の仕事と言えばそれまでですが、理想的な体制がなかなか組めず、ちょっとした休憩時間には、気分転換のために現実離れしたコトバで遊んでいます。まさにコトバによる現実逃避です。詩らしきものが生まれる時は、こんな時もあるのかなぁと思っていますが、どうでしょうか。造形による創作活動も、全て満たされたバランスの良い生活では緊張感のある作品は生まれないのではないかと思っています。気持ちのどこかに欠如したものがあって、それを補おうと必死に何かを作り上げる行為が、素晴らしい作品を生むと私は考えています。コトバも同じかなぁと思っていて、自分の魂が自分の身体を抜けて上空から私を眺めている場面を想像してコトバを紡ぎました。ついさっきまで頑張っていた私は抜殻になり、その頑張っていた気配だけがあって、上空にいる私はそれを優しく評価しているのです。また梱包された書類の束を見て、これは意味を失った抽象に過ぎないと私は思っていて、私がやろうとしている仕事は、梱包されたことによってアートになってしまったと、怠け者の私は頷いてみせたり、ふと窓の外の春めく風景を眺めて、萌え立つ新緑に自然の蘇生力を見取ったりしていました。おぉ、自然の蘇生力とは何と素直で朴訥なコトバだなぁと思いましたが、春の暖かさとぽっかり浮かんだ雲を見て、そこに捻りを加えることなど出来ないと感じていました。つまり現実逃避は創作活動の第一歩であると言い訳をして、そろそろ休憩時間を終えて真面目な仕事に戻らなければとならないと自分に言い聞かせました。

週末 屏風の塗装作業

昨日は6人で砂マチエールの貼り付け作業を行いました。今日は引き続き新作屏風の油絵の具塗装作業を行うことにしました。今日のスタッフは一人だけでしたが、彼女は染めをやっているアーティストで、作業に対する手際が良く、私の作品に昔から関わりを持ってくれています。砂マチエールは完全に乾いていない状態でしたが、油絵の具にも硬化剤が入っているため、全体に滲みこませる作業に入りました。今日のところは一層目の下地を塗る作業だけにして一旦終えることにしました。新作の屏風の下地はグレートーンの淡い色彩にしました。砂マチエールを貼るため6枚の厚板は作業台に乗せていましたが、下地を塗装した後で厚板全てをビニールシートを敷いた床に移しました。二層目の塗装からは刷毛によるものではなく、油絵の具を上部から垂らす行為に変えるのです。油絵の具塗装作業での描写行為は行ないません。偶然に飛び散った色彩を次から次へと上乗せしていく方法を取ります。点描のような状況が微妙な雰囲気を醸し出して、そこに自らのイメージと合致させようとしています。今月中に何層も油絵の具を撒き散らして、当初のイメージに近づけていきたいと考えています。今月はウィークディの仕事も厳しい局面を迎えていますが、創作活動も佳境を迎え、いろいろな意味で精魂を傾けているなぁと感じます。夕方3時半ごろ疲労を感じ、自宅に戻りましたが、手伝ってくれたスタッフは自らの作品を作っていて、もう少し作業を続けたいと言っていました。彼女から連絡があったのは5時半頃でした。新型コロナウイルスのこともあって、彼女を車で家の近くまで送りました。公共交通機関を使ってスタッフが工房にやってくると、帰路は私が車で送る手段を取っています。それはウィークディも同じです。私が仕事から帰っても工房に明かりが灯っていると、私は工房に顔を出し、スタッフを車で送ることをしています。床に置いた厚板は暫く乾かすことにしました。

週末 砂マチエール貼り付け作業

今日は若いスタッフ4人、家内と私の合計6人を工房に集めました。スタッフは10代から20代の女性たちで、美術に関係した人ばかりです。今月の制作目標として一番に掲げているのが、砂マチエールの貼り付け作業で、新作ではここが見せ場になるところなのです。新作は屏風とその前の床を使って、陶彫部品を複数組み合わせ、自らの世界観を創出させます。言うなれば集合彫刻ですが、これは私のデビュー以来ずっと続けてきた表現方法で、その年によってテーブル彫刻であったり、塔であったり、また今回のような屏風であったりしています。今回の屏風は荒廃し風化した架空都市をイメージしていますが、抽象化を進めているため、観る人によってさまざまな解釈があってもいいと思っています。屏風は6枚の厚板を蝶番で繋げる計画で、その1枚1枚には格子模様を刳り貫いてあります。その単なる木材の状態をイメージ通りにするには画面全てに砂マチエールを貼り付けて、そこに油絵の具を滲みこませていかなければならないなぁと考えていて、砂マチエールと硬化剤を大量に画材店から購入していたのです。作業として大変なのは砂マチエールの貼り付け作業で、私一人ではどうにもならず、普段から工房に関わりのある人たちに声をかけていました。6人がかりで作業を進めたので、今日一日で砂マチエール貼り付け作業は無事終わりました。朝10時から夕方4時まで、昼食を除いて継続で作業をやっていました。作業をしてくれた人たちに感謝申し上げます。全員がボランティアですが、工房を使用している関係者ばかりなので、私としては気兼ねなく仕事をお願いできたわけです。一日乾かして、明日は油絵の具の塗装作業に入ります。手伝いスタッフは1人だけになりますが、ほとんど私だけでできる作業なので、明日以降も頑張っていこうと思っています。

砂マチエール大量搬入

今日、東京神田の文房堂から砂マチエール200mlを18本、硬化剤200mlを30本、合計48本が職場に届きました。自宅は不在にしていることが多いので職場に搬入してもらいました。今日は家内が自宅にいたようですが、職場の方が分かり易いこともあって、外商部の女性社員に伝えてあったのでした。文房堂の砂マチエールは私が陶彫作品でデビューして以来、ずっと愛用しています。砂マチエールも各社のものを使用しましたが、私の作品に合うのは文房堂の砂マチエール(マリーン)かなぁと思っています。東京神田の文房堂は、明治時代からある老舗の画材店で、大学生の頃より利用していました。初めは銅版画をやっている先輩に連れて行ってもらった記憶があります。版画用具の充実さでは他に類を見ないので、版画に興味のある私は今後も文房堂を利用するでしょう。砂マチエールは陶彫作品との相性が良く、砂に油絵の具を浸みこませると陶肌に近くなり、殺伐とした雰囲気を表現するのに最適です。砂マチエールを貼り付け、油絵の具で塗装した画面は、私は平面でありながら立体として意識しています。画面を作っている際に色彩を考えることがあり、そんな意味では絵画性にも拘っていますが、筆による描写はせず、油絵の具を画面に垂らしたり、無作為に散らしたりしています。アメリカ人芸術家J・ポロックのアクションペインティングのような按配ですが、荒廃し風化した世界を具現化するためにやっているのです。毎年のように砂マチエールを使って作品をつくっているので、工房の棚には砂マチエール専用の籠があって、在庫が少なくなると文房堂に注文をしているのです。予定では明日は砂マチエールを貼る作業をやります。明日は頑張ろうと思います。

疲労が溜まる日常

毎年この時期になると、私は夜中に目が覚めて職場のことをあれこれ考え込む癖があります。来年度の職場体制をどう動かしていくのか、人事をどう組んでいくのか、一人で考えるには限界もあり、副管理職や主幹の職員にも相談していきます。最終決定は私がするにしても職員一人ひとりの細かな情報が欲しいのです。人事面接はそろそろ終わりに近づいています。私たち管理職は人事を行なうためにいると極論を言った人がいましたが、まさにその通りだと実感する日々です。副管理職時代を含めると、私は11年間もこんな仕事をしています。これは毎年やっているけれども、決して慣れるものではありません。新しい年度を迎えるにあたって、職場が生まれ変わる節目となり、組織という生命の産みの苦しさを伴うものではないかと私は感じています。なかなか理想どおりにはいかないと思いつつ、職員全員が気持ちよく仕事をしてもらうために最善を尽くすのが私の使命なのですが、それでも全員の満足を得ることは不可能で、誰かにシワ寄せがいってしまいます。そこを説得して了解してもらって任務をやっていただくことが多々あり、私としては結構辛いなぁと感じていることも確かです。なかなか苦く感じる1ヶ月ですが、日常的に疲労が溜まる時期でもあります。週末の創作活動は、そんな職場での苦しい日常にどのくらいリフレッシュを与えてくれているのか、確かに気持ちが変わり、ある意味で心身ともに楽になることはあります。でも創作活動には創作活動なりの苦しさもあって、職場の苦しさと創作活動の苦しさがバランスをとっている按配です。苦しさの質が違うので、これで何とかやっていけるのですが、粘り強く課題と向き合うことが私の得意とするところなので、余力は充分あります。多くの人に支えられていることもあり、頑張っていこうと思っています。今日のNOTE(ブログ)は気持ちの吐露に終わってしまいました。乱文御容赦ください。

縮小してしまった重要なイベント

新型コロナウイルスはいつになったら収束するのでしょうか。先が見えない中で、戦々恐々とした毎日を送っていますが、1年間で1回の大きなイベントも縮小して実施することになりました。私のNOTE(ブログ)を同業者が見ているので、職種を隠さなくてもいいのではないかと言われたことがありますが、退職するまでは職種を知らせない方針でいこうと思っています。今日行われた重要なイベントは儀礼的なものでした。本来なら職場がある地域にもイベントを開放し、また来賓として来ていただく地域の方々がいるのですが、そういうゲストは一切入れない身内だけのものになりました。私の祝辞は例年なら広く公開されるところを、今回に限っては身内だけのものになり、定期的な朝礼に近いカタチになりましたが、今日のイベントはそんな条件であっても1年のけじめとして執り行うことになったのでした。祝辞の中で私は9年前の東日本大震災に触れて、命を繋いでいこうと呼びかけました。さまざまなところでイベントが中止になっている現在の世情を考えると、このイベントがたとえ縮小であっても、決行出来たことに感謝申し上げたい気分です。イベント縮小に伴い、職員同士の慰労会もなくなりました。また4月に入って儀礼的なイベントが続きますが、新型コロナウイルスの感染が広がっている中で、新年度はどうなっていくのか心配の種は尽きません。私にとっての救いは、今のところ職場関係者に感染した者がいないこと、工房に出入りしている若いスタッフは相変わらず元気でいてくれること、これに尽きると言えます。私自身も手洗いやうがいは欠かさず行うようになりました。マスクは人の集まるところに出かけるときは着用しています。私は花粉症のくせにマスクが苦手です。でもそうは言っていられない状況なので、煩わしくてもマスクをするようにしています。生活までも変えてしまう感染症。今は一刻も早く収束することを願うばかりです。

写真集「BRANCUSI」

写真集「BRANCUSI」(Radu Varia著)はかなり重量のある大型の書籍です。どこで購入したものか記憶が定かではありませんが、地方の美術館のギャラリーショップだったのではないかと思っています。本書は英語で書かれていて、写真が多く掲載されているので、それを眺めているだけでも十分楽しいと感じています。ここ数日NOTE(ブログ)にルーマニア人彫刻家ブランクーシについて立て続けに書いていて、そういえば自宅の書棚に本書が眠っているのを思い出したのでした。この書籍について嘗てNOTE(ブログ)に書いたかもしれませんが、アーカイブを調べてみてもその痕跡はありませんでした。本書の英文を読む気力がないので、私は写真集として見ているだけですが、ブランクーシのアトリエの雰囲気が伝わってきて、石や木、石膏などの作品に囲まれている髭面の作者が、何とも魅力的だなぁと思っています。ブランクーシは自然に存在する形態の簡潔化を図り、部分を削ぎ落とした結果が抽象になっていった過程が本書でよく分かります。図面化された幾何抽象とは異なり、常に自然に根ざしていた形態なので微妙な歪みが見られます。また作品の台座も作品の一部として認識できて、台座に作品と同等の価値を見出しているのは私だけでしょうか。同じ形態を幾つも繰り返し作っていたことも分かり、形態への拘りが強い作家なのだろうと察しています。「接吻の門」と訳せる野外の造形は、私が20代の頃にルーマニアで見た民俗的な家屋にあった門に似ています。魔除けのために狼の牙を象徴した造形を彫り込んだものだと農民は言っていましたが、まさに「接吻の門」は魔除けとは逆の、人と人との出会いを象徴化したものと言えそうです。

彫刻家の仕事場

「石を聴く」(ヘイデン・ヘレーラ著 北代美和子訳 みすず書房)を読んでいたら、コンスタンティン・ブランクーシのアトリエの室内描写が出てきました。そこに端を発し、このNOTE(ブログ)では私が見てきた彫刻家の仕事場について書いてみたいと思います。まず海外編ですが、ブランクーシのアトリエを再現した空間は、パリのポンピドーセンターの広場にありました。アトリエに入った途端に心が解放される不思議な気分になりました。ウィーン滞在中に訪れた中島修さんの仕事場は、オーバーエスタライヒの農家の所有地の一部を石仕切り場に改修していました。農家を母屋にしていて一家はそこで生活し、その先の小川を渡ったところに工房を構えていました。鋭い幾何抽象の石彫が凛と立つ空間に、背筋がピンとなったことを思い出します。中島さんと一緒に伺ったカール・プランテルの家も農家を改修していて、そのモダンな佇まいに私は感動しました。まさにプランテル彫刻の世界観が至るところに現れていて、憧れに似た気持ちになりました。こんな家を持ちたいと思って建てたのが横浜の自宅ですが、費用の面もあってプランテル宅のようにはなりませんでした。国内編では師匠の池田宗弘宅で、嘗ては東京の秋津にありましたが、現在は長野県の麻績にスペインの修道院を彷彿とさせる工房「エルミタ」を構えています。木立の中に真鍮直付けによる彫刻が数点置かれ、自宅の内部は教会のような宗教画が描かれています。まさに表現と生活が一体になった環境を見せられて、私は刺激を受けないはずはありませんでした。以前、自分の夢にキリストの磔刑像が出てきたのは、池田先生の影響によるものかもしれません。最後に香川県にあるイサム・ノグチ庭園美術館ですが、ここは私にとって聖地です。仕事場として残されているストーンサークルを真似して、私も小さな野外工房を作りました。どうして彫刻家の仕事場はこんなにも魅力的なのでしょう。画家のアトリエにもお邪魔したことがありますが、彫刻家の仕事場では空間そのものに憧れてしまう傾向が私にあるようです。相原工房はそこまでオアシス化が出来ませんが、陶彫作品をよりよく見せる方法を今後考えたいと思っています。

週末 陶彫部品を繋ぐ

朝から工房に籠って制作三昧でした。2人の若いスタッフも朝から工房にやって来ていました。基礎デッサンを学んでいる高校生は、新型コロナウイルスの対応で学校が休みになり、長い春休みを過ごしていると言っていました。彼女は毎週きちんとデッサンをやりに来るので、デッサン力が着実に身についているようです。コツコツとした地道な蓄積が成果を生んでいる証拠です。もう一人の若いスタッフは染めのアーティストで、先日茨木県で展示を終えたばかりですが、今日も次なる新作の制作を行っていました。この人も地道な活動をやっていて、外から見ても頑張っている姿勢が見て取れます。彼女たちに背中を押されながら、私も頑張っていました。昨日タタラにした陶土を使って陶彫成形を2点行いました。新作は屏風と屏風の前に広がる世界を作っていて、複数の陶彫部品によって屏風と床を一体化しようとしています。空間演出による集合彫刻ですが、毎回こんな展示方法でやっていて、それが私の作品の個性になっています。現在は屏風と床を繋ぐ陶彫部品を作っていて、全体を眺めてみるとこの陶彫部品同士を繋ぐ部品が結構必要なことが分かってきました。ちょっと焦りを感じています。来週末は屏風の砂マチエールを貼る作業で陶彫制作は出来ません。繋ぐための陶彫部品はかなりの数が必要なので、これをいつ頃やっていこうか、きちんと制作時間を設定していかなければ、間に合わなくなることも考えられます。今月の制作目標は砂マチエールのことばかり考えていましたが、砂マチエールは助っ人がいるため、実は繋ぐための陶彫部品を作っていく方が大変ということに気づきました。ウィークディの夜は工房に来られるでしょうか。いよいよ制作は佳境に入ってきました。

週末 1ヶ月ぶりの陶彫制作

今日は朝から工房に篭りました。先週末で1ヶ月以上に及んだ板材刳り貫き作業が完了しました。次の制作工程は砂に硬化剤を混ぜて板材に貼っていく作業ですが、工房に出入りしているスタッフを集めて、数人がかりで一気にやってしまいたいと思っています。そのための時間調整が必要になり、来週末はどうだろうと何人かに声をかけています。同時に砂マチエールと硬化剤が充分あるのかどうかも確認しなくてはなりません。東京神田にある老舗の画材店から砂マチエールと硬化剤を例年取り寄せていて、在庫があるのか連絡もしたいと思っています。今日は1ヶ月ぶりになる陶彫制作を進めていくことにしました。陶土を混ぜ合わせるための土錬機を久しぶりに動かしました。好調に土錬機が動いてくれたので、内心ホッとしました。座布団大のタタラも数枚掌で叩いて準備しました。明日は陶彫の成形を行ないます。陶彫部品は屏風に接合する陶彫部品と床に置く陶彫部品は出来ていますが、それらを繋ぐものをまだ作っていないのです。砂マチエールの工程が始まるまでは、陶彫制作に没頭するつもりです。仕事が木から陶へ変わり、技法に対する意識も変えていきました。陶土は可塑性があって柔らかく、板状にしても重力に耐えられないことがあります。少々乾燥させて陶板を立ち上げていきますが、土錬機から陶土を出した状態では何もすることができません。タタラにして一晩放置する必要があるのです。木材はそんな待ちの時間など必要ないのですが、削りを間違えると取り返しがつかなくなります。木と陶は一長一短で作業の段取りがまるで異なり、私にしてみればそれもまた楽しいと感じます。今日は染めをやっている若いアーティストが午後になって顔を出しました。午前中は展覧会の搬出で茨城県に行っていたとのこと、こちらに帰ってきて間髪入れずに新作に取り組んでいました。なかなかのバイタリティで、可憐な女性に見える彼女のどこにそんな力が潜んでいるのかちょっとびっくりしました。陶彫制作は明日も継続です。

ブランクーシの制作環境

ルーマニアの彫刻家コンスタンティン・ブランクーシとアメリカの日系彫刻家イサム・ノグチ。師弟関係であった2人に私は強い興味関心を抱いていて、それぞれのアトリエを訪ねています。20代の頃、ヨーロッパにいた私はパリにあるブランクーシのアトリエを見てきました。もう40年も前のことなので、微かな記憶しかありませんが、憧れの彫刻家が制作した場所は、その張り詰めた空間だけが印象に残っています。同時期にルーマニアにも足をのばし、民俗的な建造物に装飾された文様にブランクーシの原点を探ったこともありました。イサム・ノグチは、四国の高松にあるイサム・ノグチ庭園美術館を訪ねていて、そこにあったスト-ンサークルに感激し、それらしい空間を自分の工房にも作ろうと思い、規模的には小さいけれど、工房に隣接する野外工房を私は持ちました。私を駆り立てているのは、まさにこの2人の巨匠です。「石を聴く」(ヘイデン・ヘレーラ著 北代美和子訳 みすず書房)の中に、ブランクーシの制作環境を描いた箇所があって、そこの部分を取り出します。「ノグチのようにブランクーシもまた少年時代、カルパチアの山中で羊飼いをしていたときに木彫を学んでいた。その後使用人として働きながら一丁のヴァイオリンを彫り、才能を認められて土地の美術工芸学校に入れられた。ブカレストとミュンヘンでいくらかアカデミックな修業をしたあと、1904年にパリまで徒歩でいき、エコール・デ・ボザールのクラスに出席した。しかしルーマニア民俗芸術の記憶ゆえに、結局はアカデミックなアートに背を向け、写実主義的な肖像表現を『ビフテキ』と呼んで揶揄するようになった。ロダンを称賛はしていたが、『大樹の陰ではなにも育たない』と言って弟子にならないことを選んだ。~略~ノグチはブランクーシのアトリエを『基本的な形態を抽出するための実験室』と呼んだ。アトリエの空間とその備品の荒削りの簡素さは、ブランクーシという人間の純粋性と活力の反映に思われた。~略~ブランクーシは一種のオアシスをつくりあげ、そこではその彫刻と生活とが一体化していた。ノグチのつくりだす空間もまた、そこを訪れる者が時の外へと運ばれていく安息所となるだろう。~略~このルーマニア人彫刻家はおそろしく規律正しい人だった。アトリエ内では『すべてがつねに清潔だった』とノグチは回想する。『そこらじゅう石だらけだったにもかかわらず』ブランクーシはいつも『たいへんこざっぱりした人物』だった。やがてノグチもまたアトリエ内の道具の置き場所にはほとんど強迫観念的にこだわり、またブランクーシ同様に自分の彫刻作品の展示法を大いに気にかけるようになる。」

イサム・ノグチ 師との出会い

「石を聴く」(ヘイデン・ヘレーラ著 北代美和子訳 みすず書房)は「イサム・ノグチの芸術と生涯」を扱った評伝で、今回は第9章「ぼくは不滅の人びとと並び立つでしょう」のまとめを行います。ノグチはフランスのパリに旅立ち、そこで現代彫刻の父と称されるルーマニア人彫刻家コンスタンティン・ブランクーシと出会い、助手を務めることになります。「ノグチが1927年3月31日のパリ到着からおよそ1ヶ月後にブランクーシの助手になったことは否定出来ない。」という一文があり、パリ滞在の様々な憶測の中で、意外にも早くブランクーシの下で働けたことは事実のようです。渡仏後もラムリーはノグチを支援し続け、交友関係や読書にも意見を述べていました。ノグチからの手紙の中でこんな箇所がありました。「時間!ぼくに時間を、だが中断されることなき時間をください。そうすればぼくは不滅の人びとと並び立つでしょう。」パリでノグチと付き合い始めた女流画家ルランはこんなことを言っています。「イサムはブランクーシと同じルーマニア製の木靴を履いていたほどブランクーシに傾倒していましたわ。ブランクーシの仕事一途の生活を、繰り返し話していました」また敬愛していた師匠のブランクーシにノグチはこんなことも感じていたようです。「ブランクーシを絶賛はしていたものの、ノグチはブランクーシはもはや新しい分野を切り開いているのではないかと感じた。」つまり実質的には既に新しいことをブランクーシはやり尽くしていて、完璧にするため磨きをかけるくらいしかないのではないかと思っていたことも確かだったようです。それでもブランクーシに学んだことはとても多く、その後のノグチの彫刻家の生きざまを決定づけたとも言えます。「ブランクーシと過ごした数ヶ月のあいだノグチがやっていたのは、ブランクーシの方法と思想とを吸収することによって自分自身にモダニズムへの準備をさせることだった。~略~ブランクーシはノグチに教えた。『捨て去るべき習作としてものをつくっては絶対にいけない。いまある自分よりも先に進みつつあると考えては絶対にいけないーなぜならばこの一瞬に全力を尽くすことで、きみは将来なりうるのと同じほどに優れたものとなれるからだ。きみがいましていること、それがすべてなのだ』。~略~ノグチとブランクーシの両方にとって彫刻は起源への回帰、原始のフォルムの追求を意味した。ノグチは、ブランクーシが『ほんとうの彫刻の起源、それがどのようにして思いつかれ、つくられたのか、その起源にもどることを望んでいた』と語っている。」この章にはブランクーシの制作環境に触れた部分がありました。それは別稿を改めたいと思います。