6月RECORDは「橙」

今年のRECORDのテーマは色彩です。「白」、「灰」、「藍」、「紅」、「緑」に続いて今月は「橙」にしました。これは橙色と言う意味で、橙の果実を指すものではありません。果実を指すのであれば、橙が橙色に色づくのは冬なので、今の季節には橙は相応しくないのです。因みに果実の橙はミカン科の常緑木で、面白い特徴があることを知りました。橙は正月飾りに使われる縁起物ですが、その理由が分かりました。橙は実が何年も木についていて落ちることがないのです。冬に橙色になり、暖かくなると青くなります。それを繰り返すため、橙は「回青橙」と言われ、長寿に見立てて縁起物の扱いをされるようになったのです。そのまま食べても苦みや酸っぱみがあって美味しいとは言えませんが、色彩の微妙な感じは美しいと思っています。色彩をテーマにするようになって、私は日本の伝統色を調べるようになりました。その名称が面白くてイメージが膨らみます。工房に出入りしている若いスタッフの中に日本の伝統色に興味を持って、そこからコトバを紡いでいる子もいます。確かに季節感や情緒を感じさせる名称が、いかにも詩的な興趣をそそるのかもしれません。橙色もそうですが、微妙な色彩ニュアンスがあって、1ヶ月のテーマとしてはイメージが限定されて難しいかなぁとも思っています。ただ、単純な12色の色相環ではなく、日本の伝統色を意識しているのには絵画世界を創りやすい心情が働いているとも言えます。色彩には心理的なものを表現できる強みがあり、それをRECORDで獲得できないかぁと思っているのです。現在は仕上がっていないRECORDが山積していて、悩ましい状態が続いていますが、少しずつ挽回を図りたいと思っています。

イメージの更新

新作のイメージはどういう場面で湧いてくるのでしょうか。私の場合は現行の作品制作が佳境を迎えているか、また課題に突き当たって困難を極めている時に、ふと湧きおこることが多いと感じています。現行の制作に落ち込んでいる時に、天上から新たなイメージが降りてきた経験もあります。現実逃避なのかとその時は思いましたが、そう感じてしまうほど藁にも縋りたい気分だったのでしょう。新たなイメージが湧きおこった時に、紙に描き留めておく作家も多いと思いますが、私は敢えて記録に残しません。記録より記憶を大事にしていて、数多いイメージの中から取捨選択があるまで心に留めておくのです。イメージは繰り返し登場してきます。一度で忘れるイメージもあります。その中でほぼ決まってきたイメージはさらに更新をしていきます。創作活動においてイメージを心に描いている時が一番幸福な時かもしれず、また作品が完成した時に当初のイメージを確認する時にも幸福を感じます。作品完成の確認は先日の図録用写真撮影の一コマでした。それはじっくり見て考えるものではなく、瞬時に感じてしまうものなのです。現在は新たなイメージが更新されて、さらに具体的な形態が浮かび上がっています。最初のイメージは箱の中に収まる世界を陶彫による集合体で表現しようと思っていました。イメージが更新されるにつれて次第に箱という枠が外れてきましたが、それでも矩形を留めています。箱は床置きにしようと思っていて、地を這うイメージはそのまま継続されています。最新作は床に広がる世界です。まだコトバで説明できない朦朧としたところもありますが、とりあえず来週末に最新作になる陶彫部品を1点作ってみようと思っています。厳密な全体設計図はなく、手を動かしながら具現化を辿っていく方法を私はとっています。

「第5章 神奈川時代」について

「レオニー・ギルモア」(エドワード・マークス著 羽田美也子 田村七重 中地幸訳 彩流社)の「第5章 神奈川時代」についてのまとめを行います。世界的彫刻家イサム・ノグチの母であるレオニー・ギルモアはどんな生涯を送ったのか、本書の頁を捲りながら彼女の人となりを考えていきたいと思います。「レオニーとイサムは四年半東京に住んだ。大森には一年足らずしかいなかったが、1911年秋には、今度は更に南に下り、横浜も越えて、海辺の町茅ヶ崎へと引っ越した。~略~茅ヶ崎は、東京から南西へと伸びた神奈川県にあり、レオニーはここで残りの日本での生活を送った。」とある通り、茅ヶ崎では子爵の別邸を借りていましたが、そのうち自分たちの家を建てることになります。その間中、友人のキャサリン・バネルへ宛てた手紙で当時の生活を知ることが出来ました。イサムの妹アイレスが1912年1月27日に誕生していますが、相手が誰なのか定かになっていません。イサムがインタビューに答えた記事があります。抜粋して紹介します。「私は二重のバックグランドを持っているわけです。とりわけ六歳かそれ以前ー多分、五歳か、六歳ごろから10歳まで、茅ヶ崎の田舎に住んでいた間にね。~略~そこには外国人の子供は一人もいなくて、僕の友達はすべて日本人の子供でした。~略~沢山の友達を持ったことはありません。何の思い出もありませんよ。実際、それはこっち(アメリカ)に来てからも同様です。素晴らしい友情を育むことはありませんでした。僕は孤独な人間だったのです。~略~母はすごく物静かな人でした。ちょっと引っ込んだ感じの人でした。全然自分を前に出すところがなくて。だから彼女の人生はとても孤独でした。友達もあまりいませんでした。それが僕に影響しているんだと思います。~略~結局、どんな社会にも属せない人間は、社会と接触しない人生に価値を見出すことができるというわけです。例えば、芸術家になり孤独になるということです。芸術家の生活というのは本当に孤独なものです。孤独な時にのみ、本当に創り出すことができるのです。もし孤独でなかったら、社交的でいい感じの人でしょうが、決して駆り立てられないでしょう。結局、芸術というのは、絶望から駆り立てられるのです。人間は自然にしていれば怠惰なものです。駆り立てられない限り、何もしないのです。」イサムは母より一足早く日本を離れて渡米します。イサムはレオニーが考えていた学校には入れず、アメリカの公立学校に入れられたことを後になってレオニーが知ることになります。レオニーとアイレスもいよいよ渡米する日が近づいていました。今回はここまでにします。

横浜開港記念日について

今日は横浜開港記念日です。私たちの職種は例年開港を祝って休日となるところを、通常勤務が始まったばかりのこともあって、今日は勤務を要する日になりました。横浜市の公務員である私は、横浜開港記念日について知っていなければならないものであるにも関わらず、その由縁をきちんと把握していないために、私自身が恥ずかしい気もしています。今日は横浜開港記念日について調べたものを書いてみたいと思います。横浜市から出ている情報によると、開港記念日が制定するまでに紆余曲折があったようです。「最初に調印された日米修好通商条約では、1859年7月4日に開港することになっていましたが、結局アメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、フランスの5カ国すべてに対して 旧暦6月2日に開港されることになりました。もともと神奈川が開港の候補地とされていましたが、 東海道沿いで外国人とのトラブルが予想されたため、 当時、辺鄙(へんぴ)で取り締まりやすい横浜の地が選ばれました。 横浜は水深も十分あり、港として優れていたため、開港後は急速に発展しました。当年の開港当日は特に祝賀行事も行われませんでしたが、1周年にあたる万延元年の6月2日に、山車や手踊りで街中あげて開港を祝ったのが、開港記念日の始まりです。」これによると現在の神奈川区は東海道沿いで多国籍間で問題があったため、そこより田舎の現在西区・中区があるあたりが選ばれて開港になったようです。今年は開港161周年に当たります。それでは横浜開港祭はいつごろ始まったのでしょうか。「横浜開港祭は、1981年に『国際デープレ横浜どんたく』として開催されたのが始まりで、翌1982年に『’82国際デー第1回横浜どんたく』として正式に始まりました。1984年の第3回より『横浜どんたく』となり、1993年の第12回より『横浜どんたく開港祭』、1995年より『横浜開港祭』となり、2020年度第39回を迎えるに至りました。横浜開港祭は、例年、港に感謝し、市民と共に横浜の開港記念日である6月2日を祝い、賑わいのある様々な催しを実施し、まちづくりと観光の活性化を図るために開催される”市民祭”です。」毎年パレードがあって私は楽しみにしていましたが、今年は新型コロナウイルス感染症のために中止になっています。来年は盛大に行なわれることを期待しています。

仕事再開の6月に…

新型コロナウイルス感染症の影響で、6月になって漸く仕事が通常勤務になりました。ただし、感染症対策は怠りなくやっていかなければならず、完全に仕事が回復した状態ではありません。それでも職場で全員が顔を合わせるのは、本当に久しぶりでした。今月はさまざまなところで再開があり、待ち望んでいた美術館・博物館や劇場・映画館の再開を嬉しく思います。創作活動は緊急事態宣言が出されている時も関係なく続けていたので、これは世情に左右されるものではありません。昨日は図録用の写真撮影を行い、新作は何とか完成した状態にもっていきましたが、修整箇所が大変多く、今月は修整しながら陶彫部品や厚板材の梱包に入りたいと考えています。それと同時に来年発表する予定の最新作に取り掛かろうと思っています。私はひとつの作品が完成すると、すぐに次作に取り掛かります。そのタイミングで休憩は取りません。休憩は制作途中で取るのが私の流儀です。作品の世界はずっと継続していくもので、作品の完成前に次なるイメージが湧いて出てきます。それをすぐに具現化したい欲求が私にはあるのです。来週末には最新作の陶彫部品第1号を作ります。陶彫制作が順調な分、RECORDが厳しい事態になっています。私はどんな場所でも小さな平面作品であるRECORDを作ることができると自分を買い被っていました。ところが自宅のリフォーム工事があってダイニングの食卓が使えなくなると、忽ちRECORDの彩色が出来なくなってしまうことに唖然としました。RECORD制作も環境を整えることが必要なのかと思った次第です。今月も読書は継続していきます。読書がやや現実逃避になる傾向が私にはあり、きっとそうだからこそ生活のバランスをとっていられるのかもしれません。今月は先月できなかったところを補えればいいなぁと思っています。

週末 2020年図録用撮影日

毎年、この時期に個展の図録用に彫刻作品の写真撮影を行っています。数えればもう15回目になりますが、この日が新作のゴールになるため、私は朝から気持ちが休まることはありません。集合彫刻である私の作品は、今日漸く完成して初めて組み立てるのです。つまり完成作品の全貌が見られる最初なので、私にとってファーストインパクトがどうなのか、そこで一瞬にして作品の良し悪しを私自身が決定づけてしまうことになるのです。陶彫部品を構築することに慣れているとはいえ、作品が最初のイメージ通りになっているのか、造形的主張はブレずに出ているのか、成功か否かの判断を下すことにもなります。大抵はほぼ成功し、そこそこ満足できる結果になりますが、課題もまた見えてきます。だからこそ次へ繋がることにもなると言えます。今回も例外はなく全体的に上手くいったと思っています。陶彫の動きが一層生物的になり、地中海の遺跡から発想した当初のイメージは、10年以上も経過して別の要素が加わり、地下に蔓延る生命体のようになってきたと感じました。地を這うモノが廃墟と化した架空都市を覆っていくイメージは、「発掘~聚景~」の根幹を成すものです。逆にテーブル彫刻「発掘~突景~」は三角形を基本とする中空に浮かんだ物体をイメージしました。今日は朝から男性アーティストが2人、女性アーティストが1人、美術に関係した高校生3人、家内と私、それにカメラマン2人の合計10人で作業を行いました。今までの撮影日の中では最も多い人数が集まりました。まずは駆けつけてくれたスタッフの皆さんに感謝申し上げます。皆さんの協力なしでは私の作品は組立てられないのです。調子の良いことを言えば、この人たちが個展の搬入と搬出に関わっていただければ、個展の準備もスムーズにいくと思っています。またこの人たちが私の工房を利用していることもあって、それぞれが異なる素材を使って創作活動を展開しています。こうした関係は大切で、お互い励まし合っていきたいと願っています。

週末 母の四十九日法要&撮影準備

母は4月7日に他界し、4月13日に葬儀を行いました。享年94歳。大正、昭和、平成、令和を生きた人でした。今日は我が家の菩提寺である浄性院で四十九日法要を行いました。葬儀の時よりやや多い人数で法要を行い、母の遺骨は墓石の下に収められました。それまではリフォームした1階自宅のダイニングの大きな窓の近くに母の遺骨を置いていました。母はどうやら大往生で成仏したらしく、自宅のダイニングに遺骨があっても不自然な雰囲気はありませんでした。魂入れをした位牌は新しく購入した小さめの仏壇に納めました。人には必ず終焉がやってくるのを改めて認識し、その時までをどう生きるのかを私は何度も考えていました。それは社会人としての自分よりも、創作者としての自分の方が生涯を振り返った時に、生命の輝きを感じさせてくれるのではないかと思っているのです。私は公務員なので必ず退職がやってきます。組織を動かしていた自分はそこで終了します。仕事で繋がっていた仲間もほとんどが職場だけで終わりになり、私を含めてそれぞれが次のステップに進むのです。退職後は家計を支えることから解放され、単純に生きがいを感じさせてくれるもの、私にとっては創作活動ですが、そこに居場所を見つけて人生を謳歌していくことになります。母の四十九日法要で、自分なりの今後の人生をイメージしたところですが、そのイメージが今日は隣り合わせになっていて、明日は作品の図録用の写真撮影を行ないます。そのための準備が必要で、実際には法要の前後に工房に行って、陶彫部品のナンバリングをしていました。朝6時から9時まで接合用ボルトナットの塗装をしました。法要から帰った午後12時半くらいから夕方6時までは和紙に押印したものに番号を書きいれ、陶彫部品の見えない箇所に貼りつけました。家内にテーブル彫刻の組み立てを手伝ってもらいました。柱に補強具が必要なことが分かりました。何とか明日の撮影には漕ぎ着けられそうですが、まだ修整ができていないところがあります。それは撮影には問題なさそうなので、とりあえず今日の準備はこれで終わりにしました。

外出自粛の5月を振り返る

今日は5月の最終日ではありませんが、今月のことを振り返ってみたいと思います。5月末は週末で、明日の土曜日は母の四十九日法要があり、明後日は図録用の作品撮影日になっていて、そのことについてNOTE(ブログ)に書こうと思っているため、今日は2日早いのですが、外出自粛の5月を振り返る機会にしました。今月はゴールデンウィークがあり、さらに週末に加えて在宅勤務の際にも工房に足を運びました。制作時間は例年より確保されていたように思いましたが、最終的にはかなり慌ただしくなってしまったのが不思議でなりません。それでも何とか個展に出品する作品を揃えるところまできました。通常なら日々の仕事に追われ、しかも鑑賞に美術館や映画館に行っているわけですが、今回は外出自粛のためそれも出来ず、創作活動一本に絞って取り組んだはずなのに、余裕はまるでありませんでした。亡き母の用事として仏壇や位牌を選んだり、母の年金の手続きもしてきました。また自宅のリフォーム工事の最終チェックもあって、私的にもけじめがついた1ヶ月だったと思っています。そんなことが相まって妙に疲れた1ヶ月でしたが、職場が新型コロナウイルス感染防止のためにさまざまな対応を迫られたのも、ずっと後まで記憶されるのだろうと思っています。RECORDは厳しい状態が続いています。下書きの山積みが大きくなっていますが、図録用の撮影が終わったら、気を取り直して頑張ろうと思っています。読書はイサム・ノグチ関連の書籍を持ち歩いていますが、読書時間が不定期なため、なかなか進みませんでした。来月こそ今月の足りなかった部分を挽回していこうと思っています。

与えられた時間という考え方

新型コロナウイルス感染拡大を防ぐために緊急事態宣言が出され、横浜でも漸く解除に漕ぎつけたところです。職場も来週からほぼ通常通りになりますが、新たなクラスターが発生しないように万全な構えでいきたいと思っています。仕事が縮小され、在宅勤務が始まったところで、仕事に全てを費やしてきた人たちは、どうしていいのか分からない事態になったようです。私の職場でもそういう人はいるのではないかと思っています。私たちの職種は、家庭を顧みず仕事に打ち込む人が顕著に目立っているため、超過勤務時間がマスコミで話題になって、働き方改革を進めるように本部から通達があったのでした。そこで考えたことですが、果たしてこの外出自粛の期間は失われた時間なのでしょうか。家族との会話を取り戻し、自分にとって何が本当に必要なのか、自分が満足し、幸福を感じられるものは何なのか、改めて考えてみる時間が与えられたとすれば、緊急事態宣言の出された期間も不幸中の幸いと言っても差し支えないのではないでしょうか。私は社会人になった時から仕事一途な人間ではありませんでした。この職種にいると私みたいな人間は少ない方で、確かに仕事は面白いし、自分の頑張りが結果に繋がる職種であるため、仕事に埋没してしまう傾向があります。これは他の職種よりも幸せなことで、仕事のために全てを犠牲にした生活になってもおかしなことではありません。私は自己表現を自分の礎にして生きてきたので、仕事の組織とは別に自分の世界を持っていて、それが仕事一途な人間とは別の生き方を私に提供してくれていたのです。私にとって緊急事態宣言の出された期間は、天から与えられた時間と感じ、決して暇ではなく充実したものでした。私の生き方は間違ってはいないと今更になって再確認させてくれた自粛期間でした。

新しい図録のレイアウト考案

私は個展の度に新しい図録を用意しています。図録は大きさも頁数も決めてあって、毎年内容だけを変えているのです。今年で15冊目になります。カメラマンによって撮影され、全頁カラー版にしているのは理由があります。私の彫刻は集合彫刻で、陶彫部品を組み合わせて自分の世界観を表現しています。作品を組み立てるのには多くの人の手が必要で、そのためにスタッフに声をかけているのです。個展の搬入や搬出でも多くの人の手を借りて、組み立てや解体をやっています。そうしなければ作品の全貌が見られないのです。図録をきちんと作る理由として、画像でないと作品が人に見せられないために作っていると言っても過言ではありません。今回の図録には新作「発掘~聚景~」と「発掘~突景~」に加えて小品「陶紋」の4点を掲載します。「陶紋」は通し番号で作っているので、52番から55番の作品になります。毎年同じ形式ですが、作品が異なるために毎年レイアウトを考えています。野外工房での撮影、室内工房での撮影、作品全体と部分の撮影、作品目録と私のプロフィール、さらにこのNOTE(ブログ)からの抜粋を3日分選んで載せています。3日分はそれぞれ彫刻制作に纏わるものばかりを選んでいますが、その時読んでいる書籍やタイムリーな事柄も含まれます。母の死去や新型コロナウイルスについても若干触れている箇所もあります。これが契機になってこのNOTE(ブログ)を読んでくださっている人もいると聞いています。私の造形作品もNOTE(ブログ)も勝手気儘なものなのに有難い気持ちでいっぱいです。何とか来月の個展が開催できるといいなぁと思っている次第です。

早朝制作について

勤務が終わってから帰路の途中や帰宅した後で工房に出かけて、夜の時間帯を陶彫制作に充てたことは今までに何回もありました。数年前には真冬に凍てついた工房に連日連夜通ったことも記憶しています。今週は新しい取り組みとして早朝の時間帯に工房に行くことにしました。朝5時に起き、5時半から2時間程度工房に篭り、それから職場に出勤します。夜の時間帯より朝の時間帯の方が良いかもしれないと私は思い始めています。まぁ、夜にしても朝にしてもウィークディの制作は気候の良い時に限られてはいますが…。何故朝なのかと言うと、私のバイオリズムは朝の方が効率的で、気力に満ちていることが判明したからです。夜の時間帯は昼間の仕事の疲れもあって、制作が遅々として進まない日もありました。それに最近の私は夜になると睡魔に襲われて、RECORD制作やNOTE(ブログ)を書くのにも一苦労なのです。年齢のせいなのか、夜11時を回ると眠くなってきます。日によってはRECORDが進まず、制作場所である食卓にうつ伏してしまうこともあります。それに比べると朝は元気です。若い頃なら信じられないほどの身体状況の変化ですが、加齢とともに朝に強くなるのはどういう現象なのでしょうか。朝の散歩は年寄りばかりと誰かが言っていましたが、私もその年齢になってきたというわけでしょうか。ともかく今の私には早朝制作が向いています。ただし、早朝から電動工具を使って騒音を出すのは近所迷惑なので、木彫は止めています。陶彫は静かに制作できるので、専ら陶彫制作に勤しんでいるのです。今朝は窯内の温度を気にしながら、朝の時間帯に3時間近くを工房で過ごしました。明日、窯出しと窯入れを行なう予定です。明日窯に入れる陶彫部品が新作最後のものになります。そこで明日入れる陶彫部品の仕上げと化粧掛けを今朝行ないました。今日は外会議があり、職場ではなく別の場所に出かけるため、朝は少々遅く出ても大丈夫なのでした。まだまだやらなければならない細かな仕事があり、朝の起床状態にもよりますが、可能な限り早朝制作を続けたいと思っています。

新鮮さを呼び覚ます遊び心

昨晩、週末の制作疲れでぐったりしてテレビを見ていたら、ベテラン染色家の制作風景と作品が映し出されて、ハッと新鮮さを感じました。NHK日曜美術館で取上げられていたのは現在97歳の柚木沙弥郎氏。前に一度放映されていたものも含まれていて、その時も私は見ていましたが、私の気分的なものなのか、その時よりも昨晩の方が感覚に直に訴えてくるものがありました。松本市美術館での展覧会が、新型コロナウイルス感染症のため開催中止になったので、そのこともあってテレビで会場の映像を流していたのでしたが、相変わらず斬新な世界観に私はつい魅せられてしまいました。嘗て私は東京駒場にある日本民藝館で開催された「柚木沙弥郎展」を見に行ったこともあります。日本民藝館の和風の空間に柚木沙弥郎ワールドはとてもマッチしていて、民族的な造形と簡潔で抽象的な造形が織りなす布が、私に新たな感動を齎せてくれました。私はアフリカの仮面を初めとする民族的な造形が大好きです。泥染めされたアフリカの布は我が家にもあります。柚木沙弥郎ワールドはそんな土俗性とモダンデザインを合わせ持つのです。柚木沙弥郎氏の南米のおもちゃのコレクションや食事風景も楽しく拝見しました。野菜サラダと葡萄パンの食事。大胆な型紙のカット場面。とても老齢とは思えない造形感覚に、私も負けてはいられないと思った次第です。新鮮さを呼び覚ます遊び心は、アーティストは常に持っていなければならないと思っています。余裕がなくなっていた私の心に、ポッと明かりが灯ったようなひと時でした。

週末 木彫の完了&窯入れ

図録用の撮影日まであと1週間になりました。つまり来週の日曜日には作品は全て完成していなければならず、ずっとやってきた制作工程は5月31日をゴールにしているのです。そのために今日は何をやるべきか考えました。まず昨日から取り掛かった3本の柱の木彫をやることが最優先です。昨日は夕方買い物に出てしまったので、木彫は半分くらいしか出来ていません。そのために今朝は7時に工房に入りました。昨日大まかなカタチは彫り出していたので、今日は鑿を研ぎながら彫り跡を整えていきました。これは彫刻的な作業というよりは職人的な単純作業でしたが、思っていたより時間がかかりました。木彫が全て完了したのは午後4時を過ぎていました。今日はこれだけで終わらず、乾燥した陶彫部品3点の仕上げと化粧掛けを行い、窯入れまですることにしていました。陶彫部品の仕上げには昨日買ってきたブロックサンダーを使ってみました。やはり道具が良ければ作業も速やかに進み、6時前には窯入れをすることができました。今日は木彫から陶彫の焼成準備まで息つく暇もなく仕事に追われました。ふと我に返ったのは夕方6時に自宅に着いてからでした。朝7時から作業をしているので今日は10時間以上も制作に没頭していたことになります。それでもさらにもう1回窯入れをしないと新作が全て完成とは言えません。水曜日に窯出しと窯入れをしなければならず、そのために今も乾燥をさせている作品に対し、仕上げと化粧掛けを施すことになります。来週は職場が再開に向けて準備をする1週間にしてあるため、在宅勤務が果たして可能かどうか分からず、陶彫の作業をいつしようか思案しています。市レベルの外会議も複数組まれています。今日も我を忘れて作業に没頭していましたが、来週はまるまる1週間我を忘れることもあるかもしれません。自分の体力だけが頼りです。

週末 テーブルを支える柱を彫る

新作のテーブル彫刻「発掘~突景~」のテーブルを支える柱を彫る作業を今日行いました。柱は3本あり、三角形のテーブルを3点で支えることになります。柱はテーブルを突き刺して上部に伸びていくようにしました。新作の「発掘~突景~」は、旧作「発掘~角景~」や「発掘~曲景~」にあるテーブル下に吊り下がる陶彫部品はなく、テーブルの上に配置する3点の陶彫部品があるだけです。柱のデザインは三角形を取り入れて、極めて単純な抽象形態にしました。ちょうど現代彫刻の父ブランクーシの作った無限柱のような按配で、三角柱が重なっていくパターンにしました。柱は塗装などの特別な処理はせず、彫り跡を残したままにしようと思っています。木材は彫ったままの方が美しいと感じているので、そのままにします。その分、彫り跡をどう残すかが課題になり、鑿の切れを見せることになるのです。私は陶彫と木彫のコンビネーションをよくやっていますが、木彫を継続的にやっているわけではありません。鋸の歯や鑿の研ぎに慣れているとは言えず、今回も四苦八苦して久しぶりの木彫に取り組みました。それでも木材の彫り跡が好きで、いつもやっている陶彫とは違う魅力があるのです。今日は一日をほとんど木彫に費やし、工房の床には彫った木屑がかなり落ちていました。作業終了時に散らかった木屑を掃除しましたが、明日も木彫は継続です。陶彫の土練りと木彫では使う筋肉が異なるようで、久しぶりの木彫に筋肉がワナワナしています。私の年齢では筋肉痛が出るのは当分先になるようで、今はダルさが残っています。夕方、家内と東京にある雑貨店にブロックサンダーを買いに出かけました。その店で扱っているメーカーのものが一番使いやすいので、車でやや遠出をしました。ブロックサンダーは明日さっそく試してみます。

2つの道筋について

今日のタイトルは私の二足の草鞋生活に関するものです。ひとつはウィークディの仕事についてのことです。新型コロナウイルス感染症予防のための緊急事態宣言が今も神奈川県に出されていますが、そろそろ宣言が解除されて、仕事が通常勤務に戻りそうな気配があり、その道筋をどう作っていくか、職場で話し合いを持ちました。そこで来週1週間を通常勤務の準備期間に当てることにしました。来週月曜日に職員を全員集めて、私から今後の流れを伝えようと思います。もちろん人と人との距離を充分に確保して、久しぶりに全員で打合せを持ちます。私たちの職種は神経質になりがちな一面もありますが、ともかく業務を再開して通常に戻さなければならない使命もあるのです。今後の年間計画の練り直しもあります。さまざまなことを精選しないと立ち行かないこともあります。1週間という準備期間はどうしても必要で、部署ごとに打合せをしなければならないのです。これは職員全員の力を結集して臨みたいと思っています。もうひとつの道筋は創作活動についてです。これもいよいよ時間との勝負になってきました。陶彫部品の窯入れはあと2回必要ですが、乾燥がどこまで進むのか心配の種はつきません。乾燥にしても焼成にしても自分の力ではどうにもならないもので、陶彫制作の辛い部分でもあります。明日からの週末はテーブル彫刻の柱の木彫に当てます。木彫は自力で何とかなるものなので、陶彫に比べると神経の使い方がまったく違います。7月個展がどうなるか、まだ分かりませんが図録のための撮影日は今月31日(日)に予定しているので、何とか完成に漕ぎ着けたいと思っています。ゴールは見えているのに、焦りばかりで気が立っています。職場は組織を動かしながら成果を上げていくものですが、創作活動は私一人が動いていくものです。どちらの道筋も切迫した状況にあり、日々緊張感があります。これを楽しめる余裕がないのが残念ですが、今は目前のものに対して頑張っていくしかないのです。

小品を1点廃棄することに…

今年作っている陶彫の小品「陶紋」は5点ありましたが、窯出しをしたところ5点のうち1点に罅割れがあり、修整不可能と判断して廃棄することにしました。廃棄を決めた1点は、彫り込み加飾を一番細密にやっていたので残念に思いました。私の彫刻作品は石や木ではなく、主な素材を陶土にしています。陶土による造形は焼成が制作工程にあるため、最終段階で全てが水泡に帰することがあり、こればかりは仕方がないことです。まさに陶彫の宿命とも言うべきもので、自己表現の優劣に関係なく作品は淘汰されていってしまいます。原因をいろいろ考えたこともありましたが、はっきり分からないことも多く、今でも宿命を受け入れていくとしか言いようがありません。ともあれ今年の「陶紋」は4点になりました。前にも廃棄した陶彫は数多くあって、工房の裏にハンマーで叩いて割った作品の欠片が積んであります。この窯は一度深夜の停電で電気が切れたはずでしたが、他の陶彫作品には影響はありませんでした。それだけでも救われた気持ちです。嘗て大きな陶彫部品が割れたときは落ち込むこともありました。30代初めの陶彫を始めた頃は、割れることは日常茶飯で、それでも精一杯手間をかけて作っていました。失敗作品を捨てるに捨てられない思いに駆られたこともありました。窯出しの日に布団をかぶって一晩悩み、翌日に失敗作品をハンマーで割る作業をしたこともありました。最近はあまり割れることがなかったので、小品を1点廃棄することは珍しいことです。今でも多少の落ち込みはあります。こればかりは慣れるものではありません。気を改めて今晩も窯入れをしています。最終制作工程で自分の手の届かないところに作品を置くのは、1点廃棄があった後ではなかなか辛いものです。炎神の悪戯とも思えるし、逆に得体の知れないものに畏怖を持つこともあります。それでも陶彫は面白いと感じていて、この素材に長年関わっているのです。

慣れてきた在宅勤務

神奈川県は緊急事態宣言が今月末まで延長される見込みです。私の職場はテレワークは出来ず、職場で扱っている個人情報も持ち出せず、在宅勤務でやれる仕事は限られています。職場には毎日数人の職員しか出勤しておらず、しかも人と人との距離をとっているため、職場でも孤立して仕事をしているケースが目立ちます。私たち管理職も交互に在宅勤務をしています。そんな具合なので他の職場の同じ専門分野の職員と連絡が取り難く、横浜市全体に関わる専門分野の仕事はなかなか進まない状況です。その分、私は在宅勤務に慣れてきました。ただし、週末とは意識が違うので、工房に出かけても落ち着かないのです。陶彫制作に焦る気持ちはあっても、思い切り制作できるのはやはり週末に限られてしまいます。在宅勤務ができる時に何をやっておこうか、職場が通常化した時に何をやっておけばいいのか、そんなことも考えながら専門分野の資料を自宅に持ち帰ってきています。資料の読み込みくらいしか出来ませんが、その意見集約は職場にある私専用のパソコンでなければ、事務局に通じていないのです。来月になって緊急事態宣言が解除された時に、職場全体をどう動かしていくのか、そのシュミレーションもしています。今の現状は私が社会人になって初めてのことばかりで、先行きの不透明感に不安が煽られますが、これは日本全国が抱えている問題なので、同じような問題を抱えている職場が数多あることが心の救いです。これが契機になって区内の近隣にある他の職場の管理職とよく話すようになりました。普段でさえ職場の中でも一人職で、最終判断を求められる立場なので、こんな機会に仲間意識が一層強くなるのは歓迎すべきことでしょう。慣れてきた在宅勤務ではポジティヴ・シンキングになれるように心がけたいと思っています。

深夜に窯を見に行く

今朝と言っても午前1時過ぎですが、停電が発生しました。我が家は小高い丘の上にあって、対面にはたくさんの戸建て住宅が見渡せますが、そこは停電をしていないようで、ところどころに明かりが灯っていました。停電は広範囲なものではなく、この一角だけかも知れず、ネットで見てもそんな情報はどこにもありませんでした。大方送電線に何かがあって、一時電気が止まったのかもしれません。私はもう就寝していましたが、家内に起こされてしまいました。家内と私で冷蔵庫はどうなっているか、パソコンはどうなっているかと言いあっているうちに、工房で窯入れしていることに私は気づき、これが一番気になりました。1時間以上停電が続いたため、私は雨が降る中、午前2時に工房へ向かいました。家を出る直前に停電は復活しましたが、念のため窯の温度を確認に行きました。私の作品は釉掛けをしておらず、焼成途中に何かあっても大きな影響はないはずだと思っていました。確認した窯は再稼働を始めていてホッとしましたが、釉掛けでもしていようものならば、全てアウトになってしまうこともあります。そこは焼き締めの強みであり、一旦窯が切れてもまた徐々に温度を上げていく過程で、何もなかったかのように陶彫は仕上がっているものです。過去にも幾度となくそんなことがありました。ただし、制作工程が切羽詰まっている時に、こういう災難は勘弁してほしいと思いました。窯入れをする度に無事焼成が終わってくれることを祈っているのはこうしたことがあるためです。震災の時もそうでした。東日本大震災の時はたまたま窯入れをしておらず、工房の棚に並べてあった小品が落ちていないか心配しましたが、それらは全て大丈夫だったことを思い返しました。今朝は自宅に戻って二度寝をしてしまいました。安心したことでよく眠れたのではないかと思っています。

「聚景」印のデザイン

私の立体作品は、陶彫による部品を組み合わせて構成する集合彫刻で、ギャラリー等で展示する際に別々に箱詰めした陶彫部品を取り出して、番号を確かめながら組み合わせていきます。工房では全体像を考えながら部品を別々に作っているのです。今まで数多くの集合彫刻を作ってきましたが、同じような部品が夥しい数になり、どの部品がどの作品を構成するのか混乱してしまうことになりかねません。そこでそんな混乱を防ぐために、陶彫部品ひとつずつにそれぞれ違う印を押し、番号をつけています。印は石材を用いていますが、彫刻作品の素材が陶なので印は和紙に捺印し、そこに番号をつけ、作品の見えない部分に貼っています。つまり新作には新しく彫る印を押しているのです。新作の「発掘~聚景~」の完成が近づき、いよいよ今年も新しい印を彫ることになりました。印も今まで相当な数を彫っていますが、私は伝統的な篆刻に拘らずに、小さな抽象絵画と思って、氏名の文字を大胆にアレンジしています。便宜上やっている作業ですが、これも隠れた創作活動で、印のもつ小宇宙を楽しみながら作っているのです。いずれ日陰の存在である印が表に出ることがあるのでしょうか。書家に言わせればルール違反のヘンな印ですが、私の楽しみのひとつと言えそうです。陶彫制作と併行して長年の間、印を作っていると自分のデザイン傾向が分かってきます。新しい空間獲得のために印も紆余曲折していますが、それでも文字のバランスだったり、彫る部分と残す部分の関わりだったり、絵画的な思考が読み取れます。毎年もっと大胆にやってみようと思っていて、文字として読めそうもないところまで構成がいってしまうこともあります。もうひとつの陶彫作品「発掘~突景~」も印を作る予定です。

週末 陶彫制作の正念場

今日は朝から工房に篭りました。大作「発掘~聚景~」では屏風と床を繋ぐ陶彫部品が残り数点になり、それらの成形をやっていました。いずれも大きな陶彫部品ではありませんが、数多く作らねばならず、切迫した焦りを感じました。途中で混合している陶土が足りなくなり、土錬機を回す手間があり、焦りがさらに増長してきました。5月31日(日)を図録用の写真撮影日に決めてあり、そこから割り出して、次の週末までに何をすべきかを考えました。その際に窯入れは何回くらい必要かを考えました。今日の夕方に小品「陶紋」5点を含めた7点の窯入れが出来ました。水曜日か木曜日にもう1回窯入れを行ないます。その窯入れは「発掘~突景~」の陶彫部品3点で、窯の温度が安定し下降し始めたら、柱の木彫をやらなければならず、まさに陶彫制作は正念場を迎えています。午後は菩提寺に家内と母の遺骨を取りに行きました。今月末は母の四十九日もあって多忙を極めた1ヶ月になっています。ついでに雑貨店に蝶番を購入しに行きました。これは「発掘~聚景~」の屏風を繋ぐ金具になるのです。窯を焚いている日は工房が使えないので、その日を職場勤務にしようと思っていますが、外会議が少しずつ増えてきて、なかなかうまく調整がつきません。頭を過ぎるのは7月に個展があるのかどうかで、結論は来月になってギャラリーせいほうから連絡が来ます。どちらにせよ撮影はやっておこうと思っています。焦りからくるものなのか胃腸の具合の悪い日があります。それでもリフォームが完了した自宅にいると、すっきりした空間が目前にあって気持ちが救われます。創作活動は精神的なものに占められていて、ひとつクリアすると心が楽になっていくのが分かります。この精神的なものは常に前向きなもので、決してネガティヴなものではありません。非日常に生きているわけですから、生活がかかっているわけではなく、自分を快い状態に保つアイテムなのだと自分に言い聞かせているのです。

週末 自宅リフォーム完成&陶彫制作

今日の午前中に自宅リフォームを担当してくれた業者がやってきて、最終チェックを行なった後、リフォームが完全に終わったことを伝えてくれました。自宅は30年前、亡父が残してくれた植木畑に建てました。因みに農道を挟んだ別の植木畑に工房があります。自宅は築30年の間、一度もリフォームをすることなく過ごしてきましたが、昨年の大型台風によって屋根や外壁に雨漏れが生じ、雨樋も壊れてしまったために、外装の大がかりな修復工事を行なったのでした。NOTE(ブログ)のアーカイブによると昨年の11月23日(土)に外壁工事が始まったという記載があります。12月27日(金)に外装工事が完了し、次の段階として内装のリフォームを計画しています。設計が始まり、システム・キッチンを選びにショールームを訪れたのが今年の2月8日(土)だったようです。実際の工事が始まったのは3月23日(月)で、それから1ヶ月半は不自由な生活を強いられました。リフォームは完成してみると、実に素晴らしい空間を創出してくれる結果になりました。箱詰めした荷物がそのままの状態になっていて、断捨離をしながら片づけをするのにまだまだ時間がかかりそうですが、私にとって生涯最期の住空間になるであろう自宅はかなり満足を与えてくれています。新型コロナウイルス感染防止のために外出自粛になっていることも、今後の荷物整理に役立つと考えるようにしました。そうでなければ、家内は演奏活動が忙しくて、ずっと自宅に篭ることが出来なかったからです。私も家内も漸くリフォームが終わったという気持ちになったところで些か疲労が出てきました。午後私は工房に行きました。疲労があっても制作工程は待ってくれず、屏風を並べ、床に陶彫部品を置いて、あとどのくらい部品が必要なのか見積もりました。さっそく繋ぎ用の陶彫部品作りに着手しました。幸い気温が高くなってきたので、陶彫部品の乾燥が早く進んで窯入れも早々に出来そうです。今月末までに新作が全て完成するかどうかヒヤヒヤしています。毎年こんな危うい綱渡りをしていますが、今までも気持ちに余裕が生まれることはなかったように思います。明日も制作は継続です。

読書癖で保つ外出自粛

職場勤務と自宅勤務を正副管理職で交互にやっている生活が続いています。先行きが見えない不安を抱える中で、こんな事態は社会人になって初めてのことですが、海外での留学を含め長い学生生活を送ってきた私は、暇人として生きた時間が多かったために現在も暇を持てあますことなく日常が送れているのではないかと思います。身分が公務員なので民間の大変さから比べれば呑気なことを言っていると受け取られるかもしれませんが、責任職としてさまざまな事態を想定していることも確かです。私の若い頃からの日常には読書が欠かせない存在です。私は決して速読ではありませんが、鞄に年中書籍を携帯し、常に栞を挟んでいて読書途中であることが日常化しているのです。私はどこでも時間があれば頁を捲っています。創作活動にはそれなりの構えが必要ですが、読書は難なくその世界に入っていける気楽さがあります。前にどこかで書きましたが、一冊の書籍の中には広いイメージ世界があって、頭が冴えている時には、活字から紡ぎ出されるイメージは鮮明で豊かです。映像等のビジュアル表現とは異なり、活字を手掛かりに自分の蓄積された記憶を総動員して、自分勝手な世界を作り上げるのが読書の醍醐味と言えるのです。日常を忘れさせてくれるひと時は、私にとって至福な時です。ただし、難解な書籍は自分の語彙に対する力量の有無や全体の意味把握、つまり理解力に対する己への挑戦があり、時には諦めの気持ちも湧いてきます。若い頃は堪え性も忍耐もなく途中で放棄してしまった書籍が多々ありました。今は若い頃に比べれば体力がなくなっているにも関わらず、知力はそこそこ身についているようで、数行読んでは立ち止まる専門書にも何とか食らいついています。そんなことで遊べる自分は、新型コロナウイルス感染症の影響で外出自粛が呼びかけられていても、読書癖で保つことができるのです。現在のNOTE(ブログ)に頻繁に読書感想が出ているのは、そんなことに関係しています。

「第4章 東京時代」について

「レオニー・ギルモア」(エドワード・マークス著 羽田美也子 田村七重 中地幸訳 彩流社)の「第4章 東京時代」についてのまとめを行います。世界的彫刻家イサム・ノグチの母であるレオニー・ギルモアはどんな生涯を送ったのか、本書の頁を捲りながら彼女の人となりを考えていきたいと思います。この章では母子が日本に到着し、父である野口米次郎が迎える場面から始まっています。「『おとうさんよ』とレオニーはイサムの顔を私に向かせようとした。しかしイサムは私を見ることなく、目をすぐに閉じた。まるで、父親というものが存在するとは考えたこともないようだった。実際、彼は私がアメリカを去ってしばらくしてから、妻が生んだ子供であった。~略~イサムは何でも動かなかったり音をたてないものは嫌いだった。何も遊ぶことがないと、障子を開けたり閉めたりし始めた。」マリー・ストープスの日本滞在日記が1909年に書かれ、こんな描写がありました。「私には、彼女(レオニー)の人生が灰色の影に覆われているように感じられました。でも彼女の小さな息子はその正反対で、まん丸い目にバラ色の頬をして、房のついた毛糸のとんがり帽をかぶり、まるでピクシーのようでした。まだ四歳だというのに、お母さんと女中の間の通訳をつとめていました。~略~なんとラフカディオ・ハーンの家に行き、奥さんやご家族の人たちにお会いしたのですよ!普段ハーンの家は聖域として外界から守られていますから、これはめったにない素晴らしい機会でした。私がお招きにあずかったのはN夫人(レオニー)の友情のおかげです。前にも言ったように、彼女はハーンの長男に英語を教えていて、心から慕われているからです。」来日した米人記者に日本の家について説明するレオニーの言葉がありました。「たいていの家は小さなサイズで、木や竹や瓦でとても軽く作られていますが、これは地震からの損害を少なくするためです。一般的に、最も経済的で実用的な家のサイズは、八部屋くらいある、二階建てのものですが、これが家に関する日本の共通規格でしょう。」最後にイサムの芸術に関しての文章を掲載しておきます。「最初からイサムの芸術的名声は、アメリカ人としての自己と日本人としての自己の狭間、つまりアイデンティティの相克の中から生まれた。~略~五歳のときのイサムの最初の彫刻の成功は、偶然ではなかった。レオニーは実際に何年もの間、最初の公の展覧会を準備していた。イサムがかろうじて14ヶ月の時、レオニーはヨネ(野口)に、イサムをアートスクールに送るという考えを書き送っている。この考えは徐々に彼女の頭のなかで固まっていき、時に並々ならぬものになった。~略~単に人と違っているのみでなく、文字通り差異の具現者であるイサムにとって、この『やり方』は二つの全く違う文化的なアイデンティティの間での生涯にわたる格闘を意味しようとしていた。」

日系彫刻家の出発点

現在、世界的な彫刻家であるイサム・ノグチに纏わる2冊の書籍を読んでいます。イサム・ノグチは氏名の由来通り日系アメリカ人です。特異な環境の中で誕生し、人種差別があった時代に育ち、やがてグローバルな世界にアーティストとしての地位を獲得する人ですが、日米を往来する中で、2つの文化を複眼で見つめる視点を有し、それが前衛としても新しい価値観を持つことになった稀有な作家とも言えます。彼の成育歴や考え方やその独創的な感覚を理解しようと、私は実際の作品を見たり、書籍に親しんできました。今読んでいる一冊は「石を聴く」(ヘイデン・ヘレーラ著 北代美和子訳 みすず書房)で、これはイサム・ノグチ本人の伝記を著したものです。もう一冊は「レオニー・ギルモア」(エドワード・マークス著 羽田美也子 田村七重 中地幸訳 彩流社)で、イサム・ノグチの母の生涯を扱った書籍です。今のところ「石を聴く」より「レオニー・ギルモア」を優先して読んでいます。それはイサム・ノグチの出発点をより深く具体的に知りたいと私が考えたからです。アーティスト本人の目覚ましい活躍よりも、独自なアートを形成するに至った最初の契機、その過程に興味関心があるためで、それには母の生涯を扱った「レオニー・ギルモア」の内容をまず押さえるべきかなぁと思いました。イサム・ノグチが母と共に幼少時に住んだ日本の風物がどんな形であれ、アーティストに与えている影響は計り知れないものがあると私は察しています。書籍の内容から幼子イサムは大変利発な感じを受けるし、母が息子をアーティストにしたいという強い思いがあることが見受けられます。アーティストは勝手に育ってくれるものではなく、誰かが意図的に、または周囲の人からの影響で育っていくものだろうと思っています。特異な環境の中で誕生した者は、その独自性を保ちながら特異なアーティストになっていくものだと書籍を捲っているうちに感じ取れるようになりました。私が注目したのは辛い環境からの好転で、自分の宿命をプラスに変える力です。イサム・ノグチほど特異でないにしても、アートとして優れたものを作り出す力は、自分の中に何かを探り出して身につけていくものではないかと思っています。

「第3章 ロサンジェルス時代」について

「レオニー・ギルモア」(エドワード・マークス著 羽田美也子 田村七重 中地幸訳 彩流社)の「第3章 ロサンジェルス時代」についてのまとめを行います。世界的彫刻家イサム・ノグチの母であるレオニー・ギルモアはどんな生涯を送ったのか、本書の頁を捲りながら彼女の人となりを考えていきたいと思います。「将来の彫刻家イサム・ノグチが、新聞のニュースに予期せぬ初登場をしたのは、誕生後ようやく1週間になろうかという時だった。ロサンジェルスの『ヘラルド』紙のレポーターが誕生を聞きつけて、ロサンジェルス郡病院の病室で、難産の後の身体を休めているレオニーのもとへやってきた。~略~ヨネ・ノグチのベイビー、病院の誇り 作家の白人妻、夫に息子を贈る(『ロサンジェルス・ヘラルド』1904年11月27日)」一方、野口は既に日本に帰国していました。「ノグチはニューヨークの通信社の従軍記者として八月に日本へ向かった。彼の妻は彼が日本へ発ったのと同じ頃にロサンジェルスにやって来て、それ以降当地に滞在している。~略~レオニーは、ヨネには彼らしく生きてほしいと、彼が望んだ返事をよこした。しかし子供のためには、いったん結婚と子供の存在を認めてほしいこと、そしてその上で法的に離婚してほしい、そうすれば彼はどんな女性とも自由に結婚できる、と書いてきた。」その後、レオニーはカリフォルニアでテントによる我が家を建てています。レオニーはそのことについて雑誌に詳細な記事を書いていて、当時の生活ぶりがよく分かります。旧知の修道女に書いた文章を引用します。「あれから色々ありましたが、一番にお伝えしたいのは私に男の子が生まれたことです。もうすぐ1歳になります。彼は日本人の血を引く元気な赤ん坊で、父親とよく似た穏やかな黒い目をしています。この1年ほどは、この赤ん坊に手を取られていますが、夫の文学上の細々とした仕事も手伝っています。夫ノグチはまだ東京にいて、大学でアメリカ文学についての講義を持たされているようで、この冬には辞めたいと考えていたのに、そうもできない状況のようです。だから、おそらく私の方が、来春にも赤ん坊を連れて日本へ行くことになると思います。」野口からの誘いの手紙もありました。「レオニー、これは重要な手紙なんだ。じっくり考えて、答えてほしい。以前僕は君に日本に来るように言った。僕はまたそのことを考えている。君と僕たちの赤ん坊にとって、そのほうがいいと僕は思っている。なぜかって?僕は赤ん坊を育てるのを助けることができるし、彼は父なし子にならないですむ。これはとても重要だと思う。また、君にとっても日本で生計をたてるほうが簡単なはずだ。君は学校教師として働けるし、仲間としても仕事ができる。」レオニー母子を日本に駆り立てたのは、実は野口からの切望ではなく、国際結婚が齎す弊害にあったようです。「ロサンジェルスはこれまでと変わりなく明るい気候であったが、日本人移民が歓迎されなくなりつつあるという怪しい雲行きを、レオニーは感じとっていたに違いない。ロシアの熊を相手に勇敢な戦いを挑んだ『小さな黄色い男たち』への熱狂は、太平洋におけるアメリカの利権や西海岸の安全を脅かす新たな黄禍論として、日本人への漠然とした恐れに取って変わられつつあった。」1907年の「国籍離脱法」がレオニーに日本行きを促す結果になりました。その法は「国際結婚をした女性の市民権は、その夫によるものとしている。」というわけで、「新しい法案はレオニーを大変困った立場に陥らせた。ヨネ・ノグチの妻とされている彼女はもはやアメリカ市民ではないのである。」

5月RECORDは「緑」

今年のRECORDのテーマを数ある色彩から一色選んで採用しています。5月は季節感のある「緑」にしました。相原工房から眺める木々の美しさにいつも心が安らぎ、陶彫制作の休憩には青葉若葉を楽しんでいます。これは亡父の残してくれた植木畑のおかげで、植木そのものは無造作になっているので亡父が造園業を営んでいた当時に比べれば商品になりませんが、木々の緑が齎してくれる憩いに、私は時折精神的に助けられているのではないかと感じています。緑にはさまざまな色彩の幅があり、それらが混在している山々の美しさを芳醇な空気の中で感じ取れる幸福は、何事にも代えがたいと思っています。そんな緑色を今月のRECORDのテーマにしています。しかしながら先月から続いていた自宅のリフォーム工事が漸く終了したにも関わらず、RECORD制作場所であるダイニングに雑貨を散らかしているため、なかなか下書きのRECORDに彩色できず、時間ばかりが過ぎてしまっています。今までもRECORDの下書きが先行し、ダイニングテーブルに山積みされていることもありましたが、今回ばかりは大変な状況になっていて、果たしてRECORDの進行が追いつくのかどうか不安に駆られています。一日1点の制作は、辛うじて下書きだけは守っているのですが、色彩をテーマにしている今年は未だ彩色をしていないRECORDが1ヶ月以上もあって、当初の色彩に対するイメージが薄れつつあるのも事実です。リフォーム工事で家内と一緒に今まで蓄積してしまった衣類や雑貨を断捨離していましたが、その影響はRECORD制作に及び、過去の残務整理と未来への創作が気分的には相入れないものだということが分かってきました。それでも何とかRECORDを先に進めていこうと思っています。10年以上も継続しているRECORDなので、ここが頑張りどころなのかもしれません。  

週末 L字型陶彫部品の制作

今日は朝から工房に篭ってL字型陶彫部品の制作に励みました。L字型陶彫部品というのは、昨日から始めた屏風と床置きの陶彫を繋ぐ陶彫部品のことです。屏風は床から垂直に立ち上げているため床に接する陶彫部品は、屏風面(垂直)と床面(水平)を合わせ持つL字型の陶彫部品になるわけで、今回の「発掘~聚景~」では、6枚の屏風のうち3枚が床に繋がっているので、L字型陶彫部品を3点作ることになりました。昨日準備したタタラを使って、3点の成形をやってみました。過去にもL字型陶彫部品を作っていて、今回が初めてではないのですが、作品によって形態が異なり、過去の作品の応用は出来ないと思いました。その都度、形態を考えていくしかないなぁと思い、とりあえず3点の繋ぎのための陶彫部品を試みました。あれこれやっているうちにほとんど一日がかりになってしまい、これら3点の彫り込み加飾は次回にします。これは創作性の薄い部品ですが、屏風と床を繋ぐ重要なものになります。集合彫刻を作っていると、目立つ部品と目立たない部品があって、それが上手く機能をすると全体構成として成功するのだろうと私は思っています。あたかも人間の社会のようで、ウィークディは職場を管理する立場にいる自分は、これはちょっと面白いなぁと感じます。目立つ人ばかりでは組織は成り立たず、目立たないけれど重要な役どころで力を発揮する人もいて、また人と人とを上手に繋ぐ人もいます。組織の歯車がきちんと回っている時は、それぞれの持ち味を持った人が要所を締めていて、私は安心安全の上に立っていられるのです。今日作ったL字型陶彫部品は全体構成上は目立つものではありません。屏風に接合された陶彫部品を目立たせ、また床置きの陶彫部品を目立たせるための地味な繋ぎに過ぎませんが、これがなければ屏風と床の一体感は生まれないのです。 L字型陶彫部品の他に繋ぎに使う陶彫部品はまだまだ必要です。地味で重要な部品制作はまだ続きます。

週末 「聚景」屏風と床を繋ぐ陶彫制作開始

週末になりました。ゴールデンウィーク5日間でやり残した陶彫制作を今日から始めました。それは「発掘~聚景~」の屏風と床置きの陶彫を繋ぐ陶彫部品の制作で、まずは屏風から床へ接する第一の陶彫部品から始めることにしました。屏風に設置する陶彫部品は全てボルトナットで屏風に付けていきますが、屏風から床へ接する陶彫部品は基本的には床置きになります。ボルトナットで付けた作品からの繋ぎ方をどうするか、組み立てを考えながら成形をしていくのです。今日の午前中は屏風に全ての陶彫部品を設置してみて、そこから床までの長さを測り、垂直に立ち上がる陶彫部品の大きさを割り出しました。6枚の屏風のうち床に繋がる屏風は3枚あります。繋ぎの陶彫部品は3点必要です。そのために座布団大のタタラを数枚準備しました。一晩放置した後、実際の成形は明日から行います。ゴールデンウィーク5日間が終わっても、まだ陶彫制作を優先させている理由は、陶彫には乾燥に時間がかかるからで、完全に乾燥しないと窯入れができないのです。その点、テーブルの油絵の具の滴り作業やテーブルの柱にする木彫は、時間を気にしないため後回しにしてしまうのです。まず、陶彫制作で思うところは窯入れ、つまり最終工程である焼成の難しさにあると言っても過言ではありません。陶土の厚みをほぼ均一にしておくのも焼成があればこそで、陶芸の技巧的な世界からこの世界に踏み込んだわけではない私は、基本的なことで足を掬われることも結構あります。それが面白いと言えばそれまでですが、立体を空洞にする工夫が常に求められているのです。今日から始まった屏風から床へ接する陶彫部品も、人体彫塑のように無垢な粘土で作るのであれば、それほど難しい作業ではありません。垂直から水平へL字型になる陶彫部品をどう作るのか、それを空洞にするためにどんな工夫をするべきか、明日の成形はそんなことも考えながら慎重にやっていきたいと思っています。

「第2章 ニューヨークとニュージャージー時代」について

「レオニー・ギルモア」(エドワード・マークス著 羽田美也子 田村七重 中地幸訳 彩流社)の「第2章 ニューヨークとニュージャージー時代」についてのまとめを行います。世界的彫刻家イサム・ノグチの母であるレオニー・ギルモアはどんな生涯を送ったのか、本書の頁を捲りながら彼女の人となりを考えていきたいと思います。まず「第2章 ニューヨークとニュージャージー時代」では、彼女が学校を終えて日本人である野口米次郎と結婚の誓約書を交わすまでの経過を追っています。レオニーは大学時代からの親友であったキャサリン・バネルとの共同生活を始めます。教壇に立つこともあれば編集や翻訳の仕事をやっていた彼女たちは決して楽ではない生活だったようですが、キャサリンの手紙によって衣食住の詳細が分かります。その頃レオニーは詩の翻訳の新聞広告を見つけ、依頼人ヨネ・ノグチ(野口米次郎)の手伝いをすることになり、仕事上のパートナーになっていきました。野口はレオニーの翻訳を相当気に入っていたようで、縋るような気持ちでいたことが野口の手紙によって分かります。ただ、野口は別の女性に恋愛感情を持っていて、レオニーとの仲は複雑なものになっていました。「この当時のヨネの写真を見ると、なかなか彫りの深い、立派な身なりをしたハンサムな青年で、頬がこけていて、少々女性っぽい口元をしており、渡米前のどこかぼんやりとした表情はなくなって、代わりに意志の強さが顔に表れている。レオニーのほうは女学生のような雰囲気をまだ残しているのだが、6月で30歳の誕生日を迎えようとしていた。どう考えても彼女は野口の理想の女性のタイプではなかったが、まさにこの彼女の資質が彼にとっては便利なものだった。野口が8月末にニューヨークを発ったときはすでに何かが起こっていた後だったのだろう、両者は明らかに悩んでいた。」本文の中にこんな一文がありました。「ヨネ・ノグチの宣誓書(1903年11月18日)私はレオニー・ギルモアが法律上の妻であることを、ここに宣誓する。」続く本文にこんなこともありました。「ところで、そもそもこの結婚の宣誓書は法的に有効なのであろうか。端的に答えるならば、否だ。かなり昔ならば、有効だったかもしれない。ニューヨーク州は、他の州に先駆けて1849年に『慣習法による結婚』を認めた。~略~恐らくレオニーの両親も、慣習法による結婚生活を送っていたのではないだろうか。結婚の契約を証明する何らかの証拠の他に、慣習法による結婚かどうかを判断する基準は、同棲しているかどうか、周囲に結婚していると思われているかどうかという点である。」また別の女性に関する記述もありました。「エセルが再び野口の前に現れたことが、野口とレオニーの破局につながったかどうかは別として、野口のなかでこの二人の女性に対する思いは全く別のものだということは、疑いようもない。レオニーの存在は、これまで野口にこのようなロマンティックだが無意味な詩を書かせるようなインスピレーションを起させたことはなかったが、エセルにはそれができた。」結局エセルとは結ばれることがなかった野口でしたが、最後に私はこんな箇所に注目しました。「レオニーは非常に誇り高く、自立したボヘミアンであったので、5月に妊娠がはっきりしてすでに妊娠二期に入ってからも、頑固に野口に知らせようとはしなかった。一方野口のほうはというと、『人は夫や妻をまるで靴下や下着を取り替えるように取り替える』とまでは思っていなかったが、とにかく忙しくてこの問題に正面から向き合う時間がなかった。」

「第1章 生い立ち」について

「レオニー・ギルモア」(エドワード・マークス著 羽田美也子 田村七重 中地幸訳 彩流社)の「第1章 生い立ち」についてのまとめを行います。世界的彫刻家イサム・ノグチの母であるレオニー・ギルモアはどんな生涯を送ったのか、本書の頁を捲りながら彼女の人となりを考えていきたいと思います。まず「第1章 生い立ち」では生誕から大学を終えるまでの経過を追っています。「レオニー・ギルモアの出生証明書によると、彼女は1873年6月17日、ニューヨーク市マンハッタン地区で誕生している。誕生の地は、7丁目185番地の聖ブリジット広場である。母親の名前はアルビアナ、父親はアンドリュー・ギルモアであり、出生地は不明である。」続いて貧困家庭だった一家が娘にどのような教育を与えたのか、こんな箇所がありました。「1879年末には、協会(倫理文化協会。ドイツ系ユダヤ人フェリックス・アドラーによって設立。)は更に、授業料無料の労働者学校をつくることを発表した。勿論ギルモア家は、6歳半になるレオニーをこの小学校に通わせることに同意の署名をしている。この決断がレオニーのその後の運命を決定したといっても過言ではない。この時代、貧しいアイルランドからの移民で、父親はほとんど失業し、母親だけが働いているような家庭では、運がよくても退屈な公立学校に通うことができるのがせいぜいで、たいていは学校にも通えず、幼少時より針子となったり、工場に働きに出たり、女中奉公したりといったところだっただろう。だがこの労働者学校は、レオニーにそれまでは全く考えられなかったような人生の目標や目的を与えてくれた。~略~学校という場所は、『生徒に既成の知識を詰め込むところではなく、生徒が自ら努力して、本人の能力に見合う程度まで知識や真理に到達することができるよう手助けするところである。学校とは、言わば能力を解放させる体育館なのだ。』これこそが、レオニー・ギルモアの型にはまらない考え方を育てた労働者学校の教育観であり、そしてまた彼女がイサムに施した教育である。」さらに次の進学先についてこんな文章がありました。「レオニー・ギルモアは、何かと論議を呼ぶ公教育の制度から無縁で終わるように運命づけられていたようだ。彼女の前に新しい道が開かれたのは、新学年ももうすでに始まっていた時だった。ボルティモアに新しく設立されたブリンマー高校に空きがあったのである。この学校はエリートのための私立学校だが、奨学金を提供していた。」続くブリンマー大学に進学し、レオニー・ギルモアは当初、化学を専攻しましたが、政治学と歴史学に変更し、パリのソルボンヌ大学にも留学する機会を得たのでした。ブリンマー大学には留学生として津田梅子ら3人の日本人が学んでいたようです。レオニー・ギルモアは7学期を修了し、学位を取らずに大学を去っています。「大学側の記録には、『健康上の理由』で中退したことになっている。『健康上の理由』というのは便利な言葉で、レオニーの受けていた奨学金が前年で終了しているという財政上の理由から、卒業に必要な多くの試験に合格できなかったことまで含む便宜上の理由かと思われた。」今回はここまでにします。

GW⑤ 連休の制作を振り返る

ゴールデンウィーク5日目になり、今日で連休が終わります。連休中は自宅と工房の行き来だけで、ほとんどどこにも出かけず、陶彫制作一辺倒でした。敢えて言えば仏壇を購入しに家内と仏具店に出かけたくらいです。仏壇は家内の実家にあったものを既に自宅に持ってきていて、さらに私の実家にも大きな仏壇があります。私たちはそれぞれ両親が他界しているので、この際小さめの仏壇をふたつ購入して並べて置くことにしたのでした。リフォームした自宅にはふたつの仏壇を収納する場所を確保してあります。先祖に対する考え方は人それぞれですが、私たちは最低限の儀礼でやっているのかもしれないと思いつつ、今回のリフォームを契機にこうしたことも考えたのでした。さて、5日間の連休でしたが、改めて陶彫制作を振り返ってみたいと思います。初日に立てた制作目標のうち、テーブル彫刻「発掘~突景~」に設置する3点の陶彫部品の成形と彫り込み加飾は全て完了しました。後は乾燥を待って窯に入れようと思っています。小品「陶紋」5点の成形は終わりましたが、彫り込み加飾は今ひとつで、完了までは至りませんでした。屏風と床置きの大作「発掘~聚景~」は手がつけられず、屏風と床を繋ぐ陶彫部品の制作は出来ませんでした。テーブルの油絵の具の滴り作業も同じで、ついに時間が取れませんでした。長いと思っていた5日間でしたが、制作目標の6割程度しか出来なかったことは反省です。5日間を通して時間の使い方が緩かったように思います。それを踏まえて今後の制作工程を見直していこうと思っています。明日は職場に出かけ、今後の見通しを立ててくる予定です。新型コロナウイルス感染拡大の影響は、さまざまなところに出てきていて、在宅勤務になり時間が出来ても創作活動に邁進することがままならない状態です。人の心理はそんな簡単なものではないのが実感としてあります。それでも気持ちが落ち込まないのは創作活動があるが故とも思っております。