「第4章 東京時代」について

「レオニー・ギルモア」(エドワード・マークス著 羽田美也子 田村七重 中地幸訳 彩流社)の「第4章 東京時代」についてのまとめを行います。世界的彫刻家イサム・ノグチの母であるレオニー・ギルモアはどんな生涯を送ったのか、本書の頁を捲りながら彼女の人となりを考えていきたいと思います。この章では母子が日本に到着し、父である野口米次郎が迎える場面から始まっています。「『おとうさんよ』とレオニーはイサムの顔を私に向かせようとした。しかしイサムは私を見ることなく、目をすぐに閉じた。まるで、父親というものが存在するとは考えたこともないようだった。実際、彼は私がアメリカを去ってしばらくしてから、妻が生んだ子供であった。~略~イサムは何でも動かなかったり音をたてないものは嫌いだった。何も遊ぶことがないと、障子を開けたり閉めたりし始めた。」マリー・ストープスの日本滞在日記が1909年に書かれ、こんな描写がありました。「私には、彼女(レオニー)の人生が灰色の影に覆われているように感じられました。でも彼女の小さな息子はその正反対で、まん丸い目にバラ色の頬をして、房のついた毛糸のとんがり帽をかぶり、まるでピクシーのようでした。まだ四歳だというのに、お母さんと女中の間の通訳をつとめていました。~略~なんとラフカディオ・ハーンの家に行き、奥さんやご家族の人たちにお会いしたのですよ!普段ハーンの家は聖域として外界から守られていますから、これはめったにない素晴らしい機会でした。私がお招きにあずかったのはN夫人(レオニー)の友情のおかげです。前にも言ったように、彼女はハーンの長男に英語を教えていて、心から慕われているからです。」来日した米人記者に日本の家について説明するレオニーの言葉がありました。「たいていの家は小さなサイズで、木や竹や瓦でとても軽く作られていますが、これは地震からの損害を少なくするためです。一般的に、最も経済的で実用的な家のサイズは、八部屋くらいある、二階建てのものですが、これが家に関する日本の共通規格でしょう。」最後にイサムの芸術に関しての文章を掲載しておきます。「最初からイサムの芸術的名声は、アメリカ人としての自己と日本人としての自己の狭間、つまりアイデンティティの相克の中から生まれた。~略~五歳のときのイサムの最初の彫刻の成功は、偶然ではなかった。レオニーは実際に何年もの間、最初の公の展覧会を準備していた。イサムがかろうじて14ヶ月の時、レオニーはヨネ(野口)に、イサムをアートスクールに送るという考えを書き送っている。この考えは徐々に彼女の頭のなかで固まっていき、時に並々ならぬものになった。~略~単に人と違っているのみでなく、文字通り差異の具現者であるイサムにとって、この『やり方』は二つの全く違う文化的なアイデンティティの間での生涯にわたる格闘を意味しようとしていた。」

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