「第1章 生い立ち」について

「レオニー・ギルモア」(エドワード・マークス著 羽田美也子 田村七重 中地幸訳 彩流社)の「第1章 生い立ち」についてのまとめを行います。世界的彫刻家イサム・ノグチの母であるレオニー・ギルモアはどんな生涯を送ったのか、本書の頁を捲りながら彼女の人となりを考えていきたいと思います。まず「第1章 生い立ち」では生誕から大学を終えるまでの経過を追っています。「レオニー・ギルモアの出生証明書によると、彼女は1873年6月17日、ニューヨーク市マンハッタン地区で誕生している。誕生の地は、7丁目185番地の聖ブリジット広場である。母親の名前はアルビアナ、父親はアンドリュー・ギルモアであり、出生地は不明である。」続いて貧困家庭だった一家が娘にどのような教育を与えたのか、こんな箇所がありました。「1879年末には、協会(倫理文化協会。ドイツ系ユダヤ人フェリックス・アドラーによって設立。)は更に、授業料無料の労働者学校をつくることを発表した。勿論ギルモア家は、6歳半になるレオニーをこの小学校に通わせることに同意の署名をしている。この決断がレオニーのその後の運命を決定したといっても過言ではない。この時代、貧しいアイルランドからの移民で、父親はほとんど失業し、母親だけが働いているような家庭では、運がよくても退屈な公立学校に通うことができるのがせいぜいで、たいていは学校にも通えず、幼少時より針子となったり、工場に働きに出たり、女中奉公したりといったところだっただろう。だがこの労働者学校は、レオニーにそれまでは全く考えられなかったような人生の目標や目的を与えてくれた。~略~学校という場所は、『生徒に既成の知識を詰め込むところではなく、生徒が自ら努力して、本人の能力に見合う程度まで知識や真理に到達することができるよう手助けするところである。学校とは、言わば能力を解放させる体育館なのだ。』これこそが、レオニー・ギルモアの型にはまらない考え方を育てた労働者学校の教育観であり、そしてまた彼女がイサムに施した教育である。」さらに次の進学先についてこんな文章がありました。「レオニー・ギルモアは、何かと論議を呼ぶ公教育の制度から無縁で終わるように運命づけられていたようだ。彼女の前に新しい道が開かれたのは、新学年ももうすでに始まっていた時だった。ボルティモアに新しく設立されたブリンマー高校に空きがあったのである。この学校はエリートのための私立学校だが、奨学金を提供していた。」続くブリンマー大学に進学し、レオニー・ギルモアは当初、化学を専攻しましたが、政治学と歴史学に変更し、パリのソルボンヌ大学にも留学する機会を得たのでした。ブリンマー大学には留学生として津田梅子ら3人の日本人が学んでいたようです。レオニー・ギルモアは7学期を修了し、学位を取らずに大学を去っています。「大学側の記録には、『健康上の理由』で中退したことになっている。『健康上の理由』というのは便利な言葉で、レオニーの受けていた奨学金が前年で終了しているという財政上の理由から、卒業に必要な多くの試験に合格できなかったことまで含む便宜上の理由かと思われた。」今回はここまでにします。

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