「超越論的現象学と志向的心理学」第98節~第99節について

「形式論理学と超越論的論理学」(エトムント・フッサール著 立松弘孝訳 みすず書房)の小節のまとめを行います。第二篇「形式論理学から超越論的論理学」の第6章「超越論的現象学と志向的心理学。超越論的心理学主義の問題」に入っていますが、題名が長いので表示を多少省略をさせていただきました。今回は第98節から第99節までを読み解いていきます。「私の意識生活全体は、その全体性においても、その意識の中で構成される多様な特殊な対象性のどれにも損なわれずに、その成果の統一も含めた能作する生活の普遍的な統一であるから、意識生活全体が普遍的に構成的で、すべての志向性を包摂するアプリオリによって支配されている。なおこのアプリオリ〔=超経験的な原理〕は、エゴの中で構成される間主観性の特性によって、間主観的な志向性と間主観的な諸統一と《諸世界》の成果との一つのアプリオリへ拡大する。このアプリオリ全体の究明はきわめて広大であるが、しかし完全に把握でき、段階的に究明しうる超越論的現象学の課題である。」またこんな考察もありました。「われわれがわれわれ自身の諸考察の中で構成について詳述したことはすべて、何よりもまず、与えられている諸対象の任意の各種類の任意の諸範例について判明にすること、すなわちわれわれがリアルまたはイデア的な対象性を簡単にすぐ《所有する》際の志向性を反省的に開明することである。」次に時間の概念が登場してきます。「もし実際に主観的な事柄はどれも、各自の内在的な時間的成立をもつとすれば〈その成立にもそれ自身のアプリオリがある〉と期待される。そうだとすれば、すでに《発展した》主観性と関係する諸対象の《静的》な構成には、当然それに先行する静的構成に基づくアプリオリな発生的構成が対応している。」著者が西欧人であることが分かるのは神が登場するこの文章でした。「世界への意識の関係、それは〈外部から偶然そのように設定する神によって課せられた事実〉でもなく、あるいは〈予め偶然存在する世界から、しかもその世界に属する因果法則によおって負わされた事実〉でもない。主観的アプリオリは、神と世界と思惟する私にとっての万物の存在に先行するものである。神でさえ私にとっては、私自身の意識の能作によって存在するのであるから、この点でも私は、神に対する冒涜だと誤解される不安を無視できず、この問題に注目せざるをえない。」心理学的主観性と超越論的主観性の違いについて書かれた箇所も気になりました。「心理学的な主観性と超越論的な主観性(この中で心理学的主観性が世界的な〔=世界についての〕すなわち超越論的な意味内実をも具備して構成される)との根本的な区別は心理学と超越論的哲学との根本的な区別、特に超越的な認識についての超越論的な理論との区別を意味している。」今回はここまでにします。

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