「客観的論理学と理性の現象学」第101節~第103節について

「形式論理学と超越論的論理学」(エトムント・フッサール著 立松弘孝訳 みすず書房)の小節のまとめを行います。第二篇「形式論理学から超越論的論理学」の第7章「客観的論理学と理性の現象学」に今日から入ります。本書はこの第7章をもって本論が終わります。今回は第101節から第103節までを読み解いていきます。最初に理性の超越論的現象学としての論理学の主観的基礎づけという単元の中で、論理学的理性についての問いかけがありました。「われわれは果てしない疑問ゲームに陥るのではなかろうか?例えば論理学的理性についての理論はどのようにして可能か?というような次の疑問が否応なくすぐに出て来るのではなかろうか。このことについてのわれわれの最新の研究は〈その理論はその根本的な可能性を超越論的現象学全体の枠組みの中の、この理性の現象学として保持している〉と回答している。」さらに「究極の論理学は理論としての客観的論理学のすべての原理を、それら自身の根源的で合法的な超越論的ー現象学的な意味へ引き戻して、その論理学に真の学問性を付与するだけではない。究極の論理学はこの目標に向かって段階的に努力することなどによって当然、拡充されることになる。」とありました。また超越論的主観性についての普遍学の中での可能性について「超越論的主観性の中では、想定されるすべての学問が実際にも可能性としても本質的に予示されている超越論的な諸形態であり、自由な作動が予め指定されて実現される超越論的主観性についての普遍的な学問は、絶対的な無前提性と先入見のない状態での認識の基礎づけの理想にも、合法的な意味と唯一想定される意味を与えている。」とありました。今回はここまでにしますが、本論は私の教養程度では到底まとめられるものではなく、読んでいくうちに自分なりに気に留まった箇所にラインを引いて、それをピックアップすることでNOTE(ブログ)にしています。NOTE(ブログ)を読んでいる人は前後の意味が掴めないままで、引用した文章が難解になっていることは承知しています。もう少し端的なコトバで書くのがいいのでしょうが、文章を読み解くのが今の私の限界と思っています。

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