最小の立体で最大の空間を…

最小の立体で最大の空間を感じさせる彫刻作品とはどんなものでしょうか。ジャコメッティの針金のように細くなった人物塑造か、池田宗弘の量感を削り取った風景彫刻か、それともブランクーシの簡潔に磨き上げられた抽象的な立体か、イサムノグチの自然石を点在させた庭園風の空間造形か、私の頭にはさまざまな空間の在り方が浮かんできます。学生時代に鉛筆でデッサンをやっていて、私は対象の量感を黒々と描いていたところ、気に入らなくなって練りゴムで消し始めました。そこに消すという行為が逆に豊かな空間を作っていく状況を見取って、消去は単なる消し去るものではなく、大きな空間を感じさせる方法のひとつだとその時に理解しました。消す、削る、欠ける…そうしたことが寧ろ想像を刺激し、頭の中で欠損した物体を補うことがあります。ルーブル美術館にあるミロのビーナスは欠損しているからこそ美しいと解釈できます。夢をあまり見ない私が、以前見た夢で完璧に塑造した人物群像を少しずつ削り取り、どこまで削れば人物としての存在を失うのか、何度も試みている場面がありました。それも欠損したものに大きな空間を見取っている自分を投影して、私自身が普段からモノの存在の意義を頭の隅でぼんやりと考えている証だろうと思っています。存在とは何か、現象とは何かを自ら問いかけている自分は、ハイデガーやフッサールの哲学書を四苦八苦しながら読んだ経緯もあり、その答えを求めて彷徨っている傾向があります。つまるところ私が求める彫刻的なゴールは、最小の立体で最大の空間を作ることにあります。そのために夢を見て、書籍を抱え、彫刻的素材に向き合っているのだろうと思っています。私の「発掘シリーズ」は地中に埋もれた都市が現れ出た景観を作っていますが、それも地中に埋もれた部分を隠された部分とすれば、それを鑑賞者に補って欲しいという私のエゴが働いているのです。隠された部分、消去された部分、欠損された部分…その謎めいた部分が、闇の空間として私を駆り立てているのかもしれません。

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