「形式論理学と超越論的論理学・付論3」第1節~第4節について

「形式論理学と超越論的論理学」(エトムント・フッサール著 立松弘孝訳 みすず書房)には本論の後に付論1.2.3がついていて、今回は付論3に入ります。付論3の第1節から第4節までを読み解いていこうと思いますが、これをもって付論3は終了です。「判断一般は《整合性》のシステムを形成しているーこの意味でー各判断が判断者によって《正確に考察》される場合、結合された一つの判断の統一性への合致する場合には、その統一の内部では、どの判断も他の判断と矛盾しない。」また「私見によれば、本論で述べた学説の根本的な要点はまさに次の点にある。すなわちここで疑問になる各意味の協調性、矛盾、整合性は、それらが形成的分析論全体の中で機能している場合の状態で、純粋な意味で精密にされうるし、しかも諸判断の真偽すなわち〈そのつど分析的な諸関連については主題的な判断と思われる諸判断の真偽〉にはまったく関与しない純粋な意味で精密にされうるし、そうされねばならない。」とありました。純粋な分析論についての論考では「純粋な分析論とは、実際の完全な能動性によって判断される諸判断の基本的な諸形式を体系的に発見して、それら自身の可能な統語論的な各種の変動の《基本的な操作》を、つまり(連係的、連言的な)結合の基本的な諸様式を見つけ出す学問である。」とありました。これで「形式論理学と超越論的論理学」を読み終えたことになりますが、難解な語彙に四苦八苦しながら、何とか終盤に辿り着いた感覚をもっています。そのつど頭に残る論考はあっても、全体は茫洋として明確な把握は出来ませんでした。論理学とは何ぞや、本書は今までの伝統的な形式論理学に一石を投じた学術論文であるのは間違いないのでしょうが、ドイツ語特有の言い回しとその翻訳に困難を覚えたことも確かでした。フッサールが現象学に踏み出したことがよく分かる箇所も散見されました。こうした西洋哲学の根幹をなす書籍を読んでいると、私たち日本人との論理構築の違いを見せつけられて、私自身は辟易する場面もありましたが、なかなか侮れない西洋文化の一端を垣間見た感じがします。その構築性や密度に凄さを感じるのは私だけではないでしょう。

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