豆好きのマメな性格

自分は母親譲りで、豆類が大好物です。朝の納豆は欠いたことがありません。パンでも豆パンが好き、というよりパンはドライフルーツがどっさり入った密度のある硬いパンが好きなのです。和食ではやはり豆料理。豆腐も木綿ごしがいいのです。口当たりのよい食物は、あまり好んで食べたりはしないので、ファーストフード店は余程の空腹でないと入りません。こんな嗜好が性格に表れることがあるのでしょうか。このブログも毎日欠かさず書いていますし、週末はきちんと創作活動をしています。豆好きでマメな性格という語呂合わせが、自分にはぴったりです。大豆、小豆、落花生、アーモンド、えんどう豆…すべての豆を愛する同好会を始めてみたいものです。

週末 作業場の変化

朝から夕方まで工房で作業をしていると、さまざまな思いが浮かんできます。単純な木彫作業をやっているせいもあるのでしょうが、10数年も前に当時借りていた作業場で、ギリシャやトルコに現存するローマ時代の円形劇場や遺跡を発想の下敷きにして陶彫を作っていたこと、傍らで一緒に制作をしていた人たちのこと等、過ぎた時間を手繰り寄せながら、一日中鑿を振るっていました。今でも発想の下敷きは変わりませんが、ただ自分の置かれている状況、つまり自分の工房で制作していることが不思議でならないのです。地に足がついていることを実感できるのは、浮き草だった当時にしてみれば信じられないことです。自分の工房であればこそ、2年後や3年後の制作予定の材料を置いておくことができます。自分の制作環境を自分の手で作り出すことができます。ただ制作時間だけは、当時より少なくなっていることは事実です。いつでも制作できる環境ならば、放っておいても大丈夫という考えがまずいと思うこの頃です。

週末 木彫に捧げる時間

新作の木彫を始めています。今日一日は木彫を精一杯やりました。まだ荒彫りですが、彫り跡の美しさを感じながら、木との対話を楽しんでいます。作品はまず構想があって、その具現化に取り組むのですが、部分を作っている時が何より楽しくて、いわば職人的な充足感があるのです。それは木彫に限らず陶彫も同じです。全体が見えてきた時も別の面白さが湧いてきますが、そこでは最初のイメージとの葛藤があるので厳しさがでてきます。今はただ木を彫る作業に没頭できるので、図面通りにすればよいという楽しさがあります。木材は良質のものではなく、節や裂け目が数多くあります。鑿を研ぎながら、大きな節をどう攻略しようか思案します。裂け目はどの程度なら許せるだろうか、作品の効果を考えながら、ありのままの姿をどう生かしていこうか、どこをきちんと彫って、どこを荒彫りで留めるか、そこが図面通りにはいかないところではあります。木工職人とは異質なところでもあります。木との対話はそんなところにあって、全部きちんと作りたいところを我慢して鑿を置くタイミングを考えながら、一日を過ごしました。

猫に纏わるエトセトラ

我が家に住みついてしまった野良猫「トラ吉」は、家内がよく面倒を見ています。家内はウサギが好きで、ウサギを飼った経験はありますが、猫は初めてで、子猫のアクティヴな行動に面食らっています。自分は子どもの頃、ほとんど野良と化した猫「タマ」を実家で飼っていました。「タマ」は家の軒下を住処にしていて、餌は残飯ばかりでした。「タマ」が普段どんな行動をしているのか皆目見当がつかず、食事の時だけ顔を出す放任状態でした。もう40年以上も前の話で、農家だった実家には家畜もいて、猫は現在のようなペットとしての扱いはしていなかったのです。今でも鮮明に覚えているのは、屍になって硬直した「タマ」を庭先で見つけ、裏山の竹林の中に手厚く葬ったことです。埋めてやらないとカラスの餌食になってしまうのがわかっていたからです。我が家にいる「トラ吉」もやがて死を迎えます。自分たちがあえて動物をペットショップで求めたことがないのは、こんな理由からです。でもウサギの「ウサ吉」といい、猫の「トラ吉」といい、何の因果かわかりませんが、今まで捨てられていた動物を引き取って飼っているのです。近くに「命」が存在する以上、全うさせてやりたいと思う心が働いてしまいます。

山菜の天ぷら

職場の人から山菜をいただいたので、家内が天ぷらにしました。山菜は後味が良くて大好きです。余裕があれば、山菜を採りにどこかへ出かけたい気分です。20代後半に滞欧生活をしていて、銀行口座に貯金がなくなり、住宅の中庭(ホーフと言います)にあった食べられそうな草を採って、天ぷらにした思い出が甦ります。ウイーンの森に「行者にんにく」を採りにいった思い出もあります。ビニール袋いっぱいに採った山菜で、しばらくは生活をしていました。同じウイーンにいた邦人版画家の先輩は、住宅の室内に土を持ち込み、そこでシソを育てていました。天ぷらだけではなく、おにぎりに巻いたシソが美味しかったことが忘れられません。山菜の天ぷらで、20代の頃の記憶がタイムトリップして、当時と現在の自分を比較してしまいます。時間が豊富で生活が苦しかった時代と、生活の保障がされていても多忙を極める時代。どちらの時代でも環境に逆らわずに自分は生きていたと思いを馳せながら、天ぷらを味わったひと時でした。

自己表現の変遷

展覧会へ頻繁に足を運んでいたのは20代の頃で、自分が一体何をしたいのか、美術界ではどんな表現が罷り通り、それの礎になる示唆に自分はどこまで迫れるのか、そんなことをずっと考えていた時期でした。その頃、自分にとって一番解り易かったのは具象表現で、受験時代からやっていたデッサン等をそのまま続けるのが自然の流れでした。それは決して退屈ではなく、その中で充足している自分を認識していました。それでも難解と思われる表現にいつも注目していて、自分なりに現代美術の潮流紛いの試作もしましたが、現象ばかりを追いかけた上っ面の作品であったため、気に入るはずもなく、当時の作品が見つかるたびに羞恥に耐えかねて闇に葬っているのです。滞欧生活からしばらく経って、自己表現に変化が現れました。表現したい欲求が確かなものになって、また技能も追いついてきたと言えます。表現の変遷を経る中で、表現とは意図して起こるものではなく、そこに大きな意図が働いていたとしても、時間の経過の中で緩やかに進むものなのかもしれません。作家としての個人差はあるにしても、少なくても自分には自然な成り行きとして今の表現方法があるのだと思います。

鑑賞から生まれるコトバ

「瀧口修造全集Ⅴ」(みすず書房)には、作家の個展や出版等に寄せる滝口の文章が掲載されています。それは通常の美術評論として書かれたものや、作品鑑賞から生まれ出た詩的なコトバも数多くあります。そうしたコトバは、実際の展覧会を見ていない自分にとって、美術作品を動機付けとした別の世界感を形作っているように思えます。詩をよく味わいイメージするところを探ると、その動機となった美術作品との間にどんな関係が結ばれているのか興味が尽きないところですが、今となっては過去の展覧会を見ることは不可能です。よく知られた作家や作品の場合には、対象となるモノと瀧口修造の関わりが多少は理解できて、それだけでも面白いと感じます。様々な表現を、あらゆる媒体を使って作品化する世界にあって、それを考察をする上で、瀧口修造の試みは自分の鑑賞力を高め、翻って自己表現を考える上でも、一助になっていると確信しています。

週の始まりに…

正直言って月曜日はモチベーションが上がりません。慢性的な疲労があるのかもしれません。身体全体がだるくて、仕事はスローペースになってしまいます。それでも週末は、不思議と元気が回復して制作に励んでいるので、これは気持ちの問題だと思います。この時季は寒暖の差が大きく、体調を崩しがちになります。創作活動でも、7月の個展に出品する作品が一段落して、図録の構成を進めている最中ですから、緊張が緩む時でもあるのです。教育界で言う「早寝早起き朝ごはん」に基づく「基本的生活習慣」をしっかりやって、心身の健康を心がけたいと思います。自宅に帰って、ぼんやりソファに横たわっていると、もう何年も、いや10数年も公務や創作活動に追われてきたことを思い返し、この自転車操業がいつまで続くのか考えてしまいます。でもこれは決して苦しくなく、焦らず休まず、楽しみながらやってきているので、自分なりに二束の草鞋は充分可能な範疇なのです。定年まで週の始まりにちょっぴり首を垂れながら、このペースで生活をしていくのかなと思っています。

週末 制作三昧の時間

度々ブログに書いていますが、いつも週末になると実感することが、表題にある制作三昧です。日頃は横浜市公務員として働いている自分が、心を解放できる時間が制作をしている時間帯です。それは自分と向き合う時間であり、自分の創作意図を具現化する時間です。時々ボランティアで自分の制作の手伝いに来る学生がいます。手伝いと言っても彼らも自分の制作をしていることが多く、同じ工房の空間を共有して、お互い促進しあっている場面があります。それは幸せな瞬間でもあります。木を彫ること、土を練ること、そうした素材との対話も、自分の心を癒すものです。継続は力と言いますが、決してつらいものではありません。毎週末が楽しみでならないのです。

週末 精神が安定する木彫

朝から工房に行って、木彫に取り組みました。いろいろ用事があって、途中で中断も余儀なくされましたが、木を彫っている瞬間の楽しさを改めて認識しました。いつぞやのブログにも同じ内容を掲載しましたが、木を彫る行為は精神が安定します。鑿の先を見つめながら、木槌で彫っていく行為は、木と対話しながら木目に逆らわず、カタチを探り当てていく行為です。これが無我の境地になって、精神安定に繋がるのだと思います。ひとつのモノだけ見つめて単純な作業を繰り返すことは、日頃の公務にはないことで、それだけでも新鮮であり、コトバを介在することなく視覚または触覚だけが頼りの世界です。彫りながら思考していることがあるかもしれませんが、ほとんど意識はせず、彫る行為に集中しています。そんな瞬間が訪れることが至福を感じる時なのです。

居候「トラ吉」の生活

亡父の残してくれた植木畑に捨てられていた野良猫「トラ吉」が、我が家に居候して三週間が経ちました。日に日に成長して、今ではすっかり我が家の住民になっています。ケージから出すとリビングを走り回り、家内や私の膝に乗り移り、やんちゃぶりを発揮しています。表情が面白くて、よく見つめ合ってしまいます。なるほど漱石が著した「我輩は猫である」のイメージ通り、思慮深い表情をする時があって、本当はこちらの心理を読み取って行動しているのではないかと思うことがあります。ワザと可愛い仕草をしたり、鳴き声で人を挑発したりしているのではないかと思うことさえあります。忍び足になってみたり、じゃれついてみたり、妙に人間臭いところがあって愉快です。画家藤田嗣治がよく猫を描いていますが、ポーズをとった「トラ吉」を見ていると、藤田流に描いてみたくなります。師匠の彫刻家池田宗弘はガリガリにやせ細った猫を真鍮直付けで作っています。これも「トラ吉」を見ていると納得できます。猫の動作が彫刻的で、何かドラマを秘めているように思えます。

未完の美しさを思う

石彫や木彫は、まず素材の持つ美しさがあって、その美しさを引き出すために、彫刻家が腕を振るうものだという認識が私にはあります。それは西欧的な彫刻の考え方とは異なるものです。ヨーロッパの街には、いたるところに彫刻があり、それは建物の一部だったり、広場の記念碑だったりします。そうした彫刻は石は何かを表すための素材であり、石そのものの在るがままの姿を表してはいないのです。たとえばヘレニズムの時代から脈々と続く肉体賛歌は、西欧的な彫刻の礎であり、そうした人体彫刻にあっては、未完はこれから完成していくであろう工程を想像させる途中でしかないと思います。前述した私の考え方は、西欧的な考え方と異なり、たとえ未完であっても完成された姿なのです。石そのものでも配置によって完成とすることができるというものです。これは日本庭園にも繋がる空間解釈です。石彫や木彫で何かを表現するのであれば、未完の美しさに完成を見る彫刻でありたいと願っています。

野外工房の将来

連日思い立ったように、かつて訪れた香川県牟礼のイサムノグチ庭園美術館のことを取り上げています。何故かと言えば、先日完成した野外工房のことが念頭にあるからです。イサムノグチ庭園美術館の彫刻庭園に大変な刺激を受けたことは、昨日のブログに書きました。石材の点在する空間、そこにある未完の作品の美しさは自分の脳裏に焼きついて忘れらません。次第に自分もこんな場所があったらいいなと思うようになり、羨望と僅かな期待を胸に秘めていました。自分の野外工房が出来上がり、それを見た途端、羨望は願望に変わり、やがて確かな欲求となって、自分にも彫刻庭園と称する場所が作れるのではないかと思いました。自分の野外工房にも2本の樹木をそのままにして、根の部分を円形にコンクリートを刳り貫いた箇所があります。全てをコンクリートの床にしなかったのが、彫刻庭園を意識しての計画だと言っても過言ではありません。まず野外工房は作業場として活用していきますが、将来的には彫刻を点在させてみたいと考えています。

未完の素材が点在する場所

昨日書いたイサムノグチ庭園美術館について再び取り上げます。庭園美術館にある石材が林立する空間に、自分は刺激を受けただけではなく、自分のその後の人生設計を変えさせられたといっても過言ではありません。彫刻庭園にある石材は全て未完に終わっている彫刻作品です。イサムノグチは晩年の20年もの間、ここで制作をしました。石材を点在させておいて、作品の周囲を回りながら彫っていたと聞いています。未完の美しさを知りえた老彫刻家だけが許される世界です。自分はそんな彫刻庭園とその作者に羨望を抱きました。晩年はこうでありたいと願ってやみません。未完の美しさは余裕の成せる業で、未完作品の林立する空間は未完のままではないのです。作り過ぎない微妙なバランス。空間全体を見据えた大きな造形感覚。いつ作者が鏨をおいても鑑賞に値する作品群。そうしたセンスはどこから生まれるものなのでしょうか。彫刻の置かれる空間の奥深さに彷徨いながら、自分もやってみたい意欲に駆られています。これが人生の最後の到着点でありたいと思います。

憧れの彫刻庭園

前に香川県に行った折、イサムノグチ庭園美術館を訪れました。庭園美術館は予約が必要で、ちょうど四国行きの日に合わせて予約したのです。高松駅から琴平電鉄に揺られながら、海と小高い山が鬩ぎあう風景を車窓から眺めていました。八栗駅は小さな駅でほとんど降りる客はいませんでした。そこから歩いてイサムノグチ庭園美術館に辿り着きました。この日は数人でグループになり案内人に導かれながら中に入りました。写真では知っていた彫刻庭園。大きくもなく小さくもなく、自分の思っていたスケールで目の前に広がる彫刻庭園。未完の石彫が点在し、大きな樹木が庭園に影を落としていました。石と緑のコントラストに加えて、移築した酒蔵の白い壁。なんて雰囲気のよい空間なのでしょう。ずっと昔からこんな風景が見たかったと思わせる心地よさ。まさに自分にとってはこれを聖地と呼ぶのでしょうか。大げさではなく本当にそう思ったひと時でした。今でも眼を瞑れば、憧れの彫刻庭園が見えてきます。自分もこんな空間が作れないものか、本気でそう考えたひと時でもありました。

週末 木彫と素材購入

昨日から新作の木彫を始めています。鑿の研ぎを始めると、気持ちが落ち着き、新作に向かう心構えができます。今回使用する木材は赤松です。建築資材として売られていたものですが、もとは間伐材であろうと思われます。繊細な彫刻には向いていません。節が多く木目も揃っていないので、彫るのには困難が付き纏います。マイナス面があってこそ木らしい木の自然のなすがままが出てきます。柱の荒彫りを1本彫ったところで、午後は別の仕事をしました。今やっているのが来年に向けての作業であるならば、午後は再来年のことを考えての素材購入に走りました。再来年はデビュー作である「発掘~鳥瞰~」の発展した作品を考えているのです。昨年の個展では、それまでの発掘シリーズから一歩出て「発掘から構築へ」というテーマを掲げました。今年と来年は「構築シリーズ」をやります。再来年は「発掘シリーズ」に戻そうと考えているのです。自分にとっては「発掘」と「構築」は螺旋のように交互に現れる表現なのです。作業はまだまだ先のことですが、イメージ先行で準備しておこうと考えています。

週末 野外工房の完成

今日から新作の木彫に取りかかる予定で、一週間ぶりに工房に行きました。すると野外工房がすっかり出来上がっていました。5月の日差しの中で、新しいコンクリートが眼にまぶしく感じました。ガレージ側には運搬用車両が出入りできるように舗装道路が出来ていました。工房周囲には犬走り、正面には広い面積をとって、野外で作業をするスペースがあって、これはいろいろ活用できそうです。その正面スペースには、もともと植木畑にあった大きめの樹木を2本だけ残してあります。これも施工を請け負った近隣の工務店の社長に、あらかじめ話しておいたのです。ともかく野外工房には、大きな木材や石を置いておきたいと考えています。所々に複数の素材を置いて交互に作業しながら、全体としては場の彫刻空間を作り上げたいと思っているのです。四国の高松にあるイサムノグチ庭園美術館のように、未完成であっても作品が野外に点在する環境を作りたいと思います。

木彫を始めるにあたって

明日から新作の木彫を始めます。単純な文様を彫り込んでいく作業です。陶彫は完全なるモデリングではないにしろ素材(陶土)を加えたり削ったりしていく作業工程があります。可塑性がある素材だけに許される方法です。木彫はカーヴィングと言われる素材(木材)を削るだけの作業工程です。狭義の意味でいえば彫刻の真骨頂とも言える技法です。学生の頃は、あまりカーヴィングが得意ではなかった自分ですが、彫る面白さに気づいてからは、常に造形の原点はカーヴィングにあると決めています。素材の中に潜むカタチを探っていく作業は何とも魅力的です。木彫と陶彫の組み合わせで作品を作る場合は、まず木彫から始めます。今回の作品も「構築~瓦礫~」同様、木彫と陶彫を組み合わせる予定でいるので、明日はまず木彫から始めようと思います。

言語と図像の関係

「言語と図像とは、位相を異にしながら、牽引し合う。余白に書かれたように見えながら、言語影像としての自発的な対位法をもつ。」(「瀧口修造全集5」みすず書房)自分がコトバを選ぶ時に感じることのひとつに、自分の彫刻作品の説明ではないコトバで、彫刻のイメージを共有しうるコトバとはどういうものかという自問自答があります。時に作品の自己解説を試みることがありますが、これはコトバが図像の従属的な関係を作ることになります。そうではないコトバとは何か、瀧口流に言う「牽引し合う」関係とは何か、「自発的な対位法」とは何か、コトバも図像と同じ座標にたって、図像の発想が始まる原点に立ち返って、コトバを紡ぎ出すという作業をやってみたいと思っているのです。イメージの共有化が図れれば、コトバが作品に寄り添う必要はないし、作品を意識する必要もないと思っています。ただし、「位相を異にする」という関係は、視る行為と読む行為、または直感的と知覚的と言い換えられる相対する行為があって、両領域から発せられるイメージで自分という世界の輪郭が辿れれば、伝達手段の多様性によって、さまざまな鑑賞者に自分を伝えられるのではないかと考えているのです。

我輩は「トラ吉」である

「我輩はトラ吉である。なんでも暗い畑でにゃあにゃあ鳴いていたことだけは記憶している。我輩の主人は癇癪もちではないが、雑用に追い立てられて、いささか疲れ気味である。気まぐれに我輩を茶化すので困る。主人の癒しは猫にとっては拷問であることを主人は理解すべきである。…以下略…」先日、植木畑で拾った子猫は、家内によって「トラ吉」と名付けられて、いまだに同居しています。尻尾が短くて、茶毛の長い猫です。動物病院で借りたケージを返し、代わりに大きな2階建ケージを買ってきました。里親会に出すはずが、トラ吉はすっかり我が家に居座ってしまいました。師匠の彫刻家池田宗弘先生も陶芸家の佐藤夫妻も美大の後輩も、すべて猫を飼っていることを知り、改めて周囲は猫三昧であることがわかりました。それならば池田先生のように猫の彫刻でも作ろうかと思案しています。

もう一度「瀧口修造全集」へ

瀧口修造全集(みすず書房)の1巻から4巻まで読んだところで、一呼吸入れて別の本を読んでいました。「バルラッハの旅」(上野弘道著 風間書房)や「岩崎弥太郎と三菱四代」(河合敦著 幻冬舎)などを読んで、ここにきてもう一度「瀧口修造」に戻ってきました。瀧口ワールドは読んでいくうち頁を捲るペースはしだいに落ちてきますが、コトバひとつひとつを堪能しながら読み解いていく楽しさがあります。瀧口ワールドは、散文のような詩のような美術評論で、コトバとアートが対峙しているような印象です。ずっと読み続けていると、瀧口流の独特なイメージに翻弄されるので、自分はまた一呼吸入れたくなると思います。そんな希薄な読書癖がついているのは私だけかもしれませんが…。美術作品の中には論評や概説では賄いきれないものがあって、それが詩を生み出すのではないかとさえ思えます。現に美術評論家の中には詩人としても活躍している人がいます。瀧口修造はその最たる人物で、珠玉のようなコトバを噛み締めながら全集読破に向けて瀧口ワールドを満喫したいと思います。

代休 木材の購入

土曜出勤の代休として、今日は職場に行く必要がない一日でしたが、職場関係の銀行へ寄り、そのまま職場で簡単な用事を済ませました。それから病院での検診もあって、半日は創作ができずに終わりました。午後はどうしても創作がらみのことをやらなくてはと思い立ち、新作のために木材を買いに行きました。新作で使用する柱は赤松材で、「構築~瓦礫~」よりやや細くて長いものを8本購入しました。イメージ通りのものを見つけるのが難しいのですが、自分は木彫ではあまり使わない杉や赤松などを使用します。これは間伐材ではないかと思われます。他の木材より安価ですが、彫りにくく細かい細工には向かない素材です。木目が粗く節もあり裂け目もあります。木らしいマイナス面も合わせもっているのが間伐材を選ぶ理由です。ともかく木材を工房に運び込んで、来週末からの制作準備をしておきました。

週末 工房の雑務

このところ好天が続いています。気温も上昇して、気持ちの良い気候になりました。一週間ぶりに工房に行くと、野外作業場の下地が出来上がっていました。親の代から懇意にしている近隣の工務店に野外作業場の土木をお願いしたところ、確実に作業場が出来つつあって嬉しく思いました。植木の移動がしてあって、工房の前にはちょっとした空間ができていました。野外での作業ができるようになれば、表現方法が広がります。さて、工房内では先週の続きになる雑務に追われました。そろそろ新作にとりかかる予定ですが、梱包用の木箱を作ったり、カメラマンとの簡単な追加打ち合わせがあったりして、何となく一日が過ぎていきました。それでも工房にいられる時間は貴重で、実際の作品作りは始まっていなくても心は充実しています。さまざまなアイディアが脳裏を過るのがいいのです。工房内にそうしたエネルギーが宿っているのではないかとさえ思っています。

土曜出勤の一日

今日は土曜日で、いつもなら週末の制作を行っているはずですが、職場の都合で出勤日になりました。月曜日が代休になります。土曜日は電話もメールも少なくて、日頃から山積している仕事が捗りました。通勤電車の混雑もなく、たまには土曜日出勤もいいかなと思いました。このところ初夏を思わせる陽気が続いています。背広の上着を脱いで、パソコンに向かっています。まだクールビズには早いので、ノータイというわけにはいきませんが、気温が上がってくると、ネクタイから解放されたくなるのは自分だけでしょうか。ともあれ明日は、また工房に籠もって制作三昧です。

「美しき挑発 レンピッカ展」

今月5日に美術館巡りをした折り、表題の展覧会に足を運びました。東京渋谷にあるBunkamuraミュージアムは斬新な企画で人を集めるので、自分はよく見に行っています。タマラ・ド・レンピッカも特異な女流画家だと思います。もともとポーランドのワルシャワ生まれのレンピッカは、パリやニューヨークを舞台に活躍しました。アールデコを代表する芸術家のひとりと称されますが、ルネサンスの絵画から様々な手法を学び、それをレンピッカ風にアレンジして独特の世界を作り上げました。レンピッカ風というのは、人物を描いても静物を描いても自然な光を感じず、むしろ舞台に照明を当てているようなキラリとした技巧的な光を感じるのです。レンピッカ自身も、モデルのように美しく女優のようなムードが漂う芸術家です。レンピッカが生み出す絵画全てがレンピッカの自画像のように思えてきます。アールヌーボーやアールデコが見直されている現代にあって、レンピッカは懐古と斬新の入り混じったユニークな地位を与えられている画家だと思います。

「細川家の至宝」展

由緒ある家系に伝わる文化財を守っていくことは、後世の人にとって大切な役目であると思います。散在して失われた価値ある家宝は残念の極みです。旧熊本藩主である細川家は、永青文庫を設立して文化財を後世に伝えてきました。東京上野にある国立博物館平成館で、永青文庫が保有する価値ある文化財に、自分を含め多くの人が接することができるのは、細川家の人たちが代々守ってきた努力のおかげと思っています。美術的な価値で言えば、巧みな技が生かされた工芸品の数々が挙げられます。自分は刀の鍔の繊細な造形に惹かれました。織物の刺繍の美しさにも眼を見張りました。美術館の外は初夏の陽気になっているにもかかわらず、美術館の内部はひっそりとした暗がりになり、手の込んだ貴重な美術品ひとつひとつにライトが当てられ、じっくり鑑賞できる環境が演出されていました。休日だったので、人で混んではいましたが、骨董価値のある品々を時間をかけて堪能出来ました。

連休最後の美術館巡り

ゴールデンウィーク最後となる今日は、美術館を巡ることにしました。知り合いにチケットをいただいていること、もちろんそれだけではなく、多忙な公務や週末の創作活動に終始する日常にあって、何とかスケジュールをやりくりしても美術館に足を運ぶことが自分にとって大切なことだと考えているのです。自分は美術館の空間が好きなので、これは創作に匹敵する楽しみのひとつになっています。午前中に東京上野の国立博物館平成館で開催している「細川家の至宝」展に行ってきました。展示品は骨董価値のあるものが多く、鑑賞者は年配の方が多いように思えました。次に向かったのは渋谷Bunkamuraミュージアムで開催中の「美しき挑発 レンピッカ展」。以前このブログにも書いたことのあるアール・デコを代表する女流画家の展覧会で、鑑賞者は女性が圧倒的に多く、頽廃ムードの漂う絵画を堪能しました。詳しい感想等はまた別の機会に書くとして、今日はこの2館だけで帰ってきました。夜に図録撮影をしていただいたカメラマンとの打ち合わせがあったので、美術館巡りは余裕をみて早めに帰宅したのです。ともあれ連休は充実していました。ゆっくり休むというわけにはいかなかったのですが、これも自分の性分なのかもしれません。

来年に向けた新作の構想

まだ7月の個展が控えているのに、来年度に向けた新作を考え始めました。今年は「木・陶による構築シリーズ」の1回目の個展を企画しています。「構築~包囲~」「構築~瓦礫~」を発表する予定です。来年は「木・陶による構築シリーズ」の2回目となり、「構築~解放~」と陶彫を使った新作をこれから作ります。今年の「包囲」と「瓦礫」は、複数の柱の向きがピラミッドの形状になっていて、作品の上方のどこかで頂点をを結ぶように配置します。来年の「解放」はその逆で複数の柱が放射線上に広がっていくのです。当然今構想中の新作も、柱を放射線状に広げ、陶彫部品でその柱を固定するつもりです。「瓦礫」のパーツはお椀型を基本とする形態の陶彫です。新作はどうするのか、これが思案のしどころです。イメージはあるのですが、そのイメージを具現化するための効果的な形態は何なのか、放射線に広がる数本の柱に視点を誘導するための演出として、どんな形態をどのくらい配置すればよいのか、今月はそんなことを考えつつ試作を行っていきます。

恒例の陶器市・陶炎祭

毎年5月3日に、栃木県益子で行われている陶器市と茨城県笠間で行われている陶炎祭に出かけます。今年もこの時期がやってきて、早朝から横浜を発ち、陶芸の祭りを見てきました。益子や笠間には、かれこれ20年近くも通っていることになります。益子では若手陶芸家のホソカワカオリさんの作品に注目しています。洗練された皿や小鉢は、デザインとしてみれば地味に見えますが、日用品として使っていくうちに、使い勝手の良さに気づき、作品たちは生活必需品の中にすっかり馴染んでしまいます。毎年少しずつ楽しみながら買い求めています。笠間では親友佐藤健太、和美さん夫妻に会ってきます。佐藤陶房は土の風味を生かした美しい日用品を作り出しています。焼き締めのざっくりしたマチエール、加えて繊細に行き届いた造形に特徴があります。日用品として使っても、オブジェとして眺めてもクオリティの高い作品です。今回は健太さんの直方体を基本にした一輪挿しとオブジェを買ってきました。若手陶芸家として活躍を始めた冨川秋子さんの作品は、ブルーの釉薬が清楚な造形を際立たせています。今後、注目していきたい作家です。陶炎祭の夜、野外ステージで開催されていたジャズ演奏や会場の一角にある野焼き窯の燃え盛る炎を見ながら、今年の祭りを満喫しました。

5月RECORDは「集まる」

一日1枚のペースで葉書大の平面作品を描き上げていくRECORD。今月は「集まる」というテーマで、やってみようと思います。「集合」と「拡散」は構成上よく使われるテーマです。自分の作る彫刻は集合彫刻で、ひとつずつのパーツを組み合わせて彫刻にしています。パノラマ的な空間演出ができて、それを自分の作品の特徴にしています。ですから彫刻作品はすべて「集まる」形態をとっているのです。RECORDを利用して、彫刻のエスキースが出来るかもしれません。また平面という重力を気にしない自由な世界だからこそ出来る表現もあると思います。今月も5日間を展開する期間として定めて、「集まる」イメージを搾り出していきたいと思います。旧作のRECORDはホームページにアップしていますので、こちらもご覧いただけたら幸いです。

5月 図録の撮影日

5月になりました。ゴールデンウィークが始まりました。今日は快晴で、工房のある植木畑は新緑にあふれています。予定の図録撮影日になっているので、ボランティアの子の助けを借りて、工房に2点の作品を組み立て、午前中から撮影の準備をしていました。ずっと一緒に仕事をしているカメラマン2人がやってきて、早速撮影に取り掛かりました。今回は今までの図録と違い、工房内の撮影も行いました。工房をオープンにして、制作現場を図録に盛り込みたいと思ったからです。撮影日は作品の梱包を解いたり、また包みなおしたりするのに手間がかかります。これは恒例になってしまっていて、家内やボランティアの手を煩わせますが、でも個展前に一度は出品する作品を並べてみて確認する必要があります。撮影日は撮影だけでなく、そうした個展の出品作品の雰囲気を掴むのにも最適なのです。