7月 初夏のイメージ

7月になりました。初夏というと爽やかな風をイメージしますが、実際は梅雨空のムシムシする気候の中で今月を迎えることになりました。それでも初夏であることには変わりなく、晴れ渡る青空がそこまできているという期待があります。さて、昨年の7月は個展に加え、工房の完成という記念すべき1ヶ月でした。今年はどうでしょうか。中旬から始まる個展は、今回で5回目を向かえ恒例化しつつあるといっても差し支えありません。工房はあれから1年が経ち、自分にとって今では心のオアシスとなって、自分の気持ちを支えてくれる空間になっています。相原工房は室内・野外とも完成し、あとは作品制作の充実を図るだけです。今月は個展に向けた準備と工房内の整理、欲を言えば新作をやっていきたいと思っています。

「彫刻と写真」より抜粋

「彫刻のマッスを光源を動かしてみるというような動的な角度は、近代彫刻の表現と鑑賞から切りはなすことができないし、古典彫刻の場合には再発見となる。こうした微妙な光と角度の発見は、実に写真によってこそ定着されるのだといっても過言ではあるまい。写真の表現は、厳密にいって彫刻の表現ではない。小さな量塊を拡大すれば、量感はたしかに誇張されて実物の表現とはかなり異なったものになる。しかしそのことによって、肉眼ではほとんど気付かれなかったが、しかしその彫刻に存在していた表現が発見されることがある。また人工光線による強調なども、実際にわれわれが室内の自然光線では感じられないようなモドレや刀法が、写真でまざまざと示されることがある。質感の美しさなども逆説的に写真によって教えられることが少なくない。」(瀧口修造全集6 みすず書房)いささか長い引用になってしまいましたが、これを読んで自分の彫刻作品をカメラマンに撮影していただいた時の画像に対する感動が甦りました。まさに彫刻を撮影する醍醐味を伝える一文だと思います。自分の勝手な思い込みかもしれませんが、懇意にしているカメラマンが自分の作品を撮影している時には目が輝いていると感じます。正直に楽しいと言ってもらえることに自分は喜びを覚えます。今日はそんなことを思い起こさせる評論に出会うことができました。

画室か猫部屋か…

先日、自宅にある小さなアトリエ(画室)を片付けて、「トラ吉」の住処としました。畑に捨てられていた猫は、今や専用の部屋のある優雅な猫に生まれ変わってしまいました。画室として使用していた部屋は水場も完備され、以前はそこで水彩絵の具のパレットや粘土ベラを洗っていました。粘土で陶彫の雛型を作っていたのもこの部屋でした。イーゼルを立てて油画や水彩画を描いていたのもこの部屋でした。創作活動はここを起点として始まり、大きな作品を試す時には外で借りていた作業場を使っていたのでした。「トラ吉」は猫のモデルよろしくこの画室でさまざまな姿態を見せ、縦横無尽に走り回るようになりました。とても気に入ったようです。水場にあった亀の子タワシに向かって威嚇していたと家内から聞かされ、いつかはこんな愉快な「トラ吉」をスケッチしたいと思っています。画室から猫部屋に変わったばかりですが、猫のスケッチをすることで、もう一度ここを画室に戻してみようと思います。

ポモドーロの野外彫刻

アルナルド・ポモドーロはイタリア人彫刻家で、金属を使ったモニュメンタルな造形で知られています。箱根の彫刻の森美術館で、自分はポモドーロ作品と初めて対面し、金属と陶彫の違いこそあれ、自分の中に眠る造形への欲望が、ポモドーロのそれととても近いことを認識しました。まず幾何形体が基本にあり、部分が腐食され、内部構造が露出しているところが自分に親しみを感じさせてくれる要素です。とくに野外彫刻として存在するポモドーロの世界は圧巻です。東京丸の内にある歩道にもポモドーロの円柱の作品が2点設置され、ハッと驚きました。堂々と野太く静止した骨格に与えられた亀裂。静と動の狭間で存在を主張する作品。立体だけではなくレリーフや平面でも、ポモドーロらしく普遍の世界を表現していることは、自分の進むべき道を示唆しているように思えてなりません。陶彫で自分も自分らしい世界を広げたいと感じるこの頃です。

「トラ吉」の引越し

亡父の植木畑に捨てられていた野良猫「トラ吉」は、いよいよ大きくなってリビングの棚に飛び乗り、私たちも見ていて危機感を感じるようになりました。収集している陶磁器や自作の陶彫を落としはしないかとヒヤヒヤしているのです。そこで自宅のアトリエを片付け、「トラ吉」のために一部屋あてがう事にしました。工房が自宅から離れたところに出来たので、今まで使っていた自宅の小さなアトリエは物置になっていました。今日は思い切ってアトリエを片付け始めました。いつかはやらなければならないと思っていたのです。夜になってようやく掃除が終わって、ゲージをアトリエに移しました。額装用のパネルや絵画道具は、すべて工房に運搬しました。それにしても今日は疲れました。猫の引越しのため創作活動を休んで朝から晩まで仕事をしました。個展作品の梱包をやらなければと思いつつ…。

週末 梱包方法について

久しぶりに工房に行って、来月に迫った個展の搬入について考えました。「構築~瓦礫~」陶彫部品を、どんな梱包にするか、今まではダンボールにエアキャップを入れて梱包をしていましたが、ダンボールの耐久性を考えると木箱を作ってしまった方がいいのではないかと思ったのです。旧作はダンボールで梱包したものが結構ありましたが、実家の車庫に入れておいて雨風にあたってダンボールが壊れてしまった経緯があります。今では少しずつ木箱に変えていて、工房の収納スペースに入れてあります。それならば最初から木箱を作ろうと考えました。今日は一日中作業が出来たので、制作の後で木箱用の板材を買いに行きました。明日は木箱を組み立てて、搬入に備えたいと思います。

管理職の歓送迎会

職場の歓送迎会と違い、横浜市のさまざまな部署で管理職に就いている人たちが集まって、横浜の中華街で歓送迎会を行いました。今日は管理職同士という気安さがあって、日頃の多忙さを憂い、お互い励まし合いながら、楽しいひと時を過ごすことができました。こういう時間が持てるだけでホッとするような按配です。それだけ私たちは普段から構えて仕事にあたっているということになりますが、この1年余り果たしてどんなことをやってきたか、振り返ってみてもこれといって思い当たることがないのが実感です。右往左往して時間が過ぎていく日常が浮かび上がってきます。それでも管理職という役割がないと組織が運営できないことも事実です。週末の創作活動は夢うつつではありますが、作品が確実に仕上がっていくリアルさがあります。週末の創作活動は自分にとって趣味として片付けられない生きがいがあり、それだからこそ、日頃職場での立場に耐えうるのかと思いつつ、同じ立場の人たちと心を通わせていました。

非日常の空間に遊ぶ

「工場萌え」というキャッチフレーズに心が動いて、工場ばかりを撮影した写真集に興味を持ちました。写真集を購入するため書店に行ったら、結構種類があるのに驚いて目移りしてしまいました。結局購入は出来ず、ページを捲ってはあれこれ想像して、その場での立ち読みを楽しんでしまいました。それでも造形的な興味は尽きないので、決定打が出たら購入しようと思っています。自分は自然の美しさを謳歌した山や海の写真には興味を覚えません。人間臭さが染み付いた空間が好きなのです。しかも非日常の世界がそこに出現していれば、文句なく魅了されてしまうのです。廃墟趣味もそこにあります。かつてそこで生活が営まれていた、人々が働き、群集のざわめきがあったというのに、今は空虚な場所になってしまった、そんな世界が自分のイメージと結びついて作品化を思い立つのです。それはゴーストタウンという大きな地域を言っているのではなく、ちょっとした日常に潜む非日常的な空間のことでも構いません。そんな空間に遊ぶことは、生活感漂う中で暮らしている自分にとっては、市民的な枷を取り除きたい一種の願望かもしれません。

同じタイトルを避けて…

2006年3月に始めたホームページのNOTE(ブログ)は、同年8月から毎日アップするようになりました。夜パソコンに向かってブログを書くのが日課になっています。一日のうち1回は創作に纏わることを考えたいと願って、拙い文章を綴っているのです。創作に纏わると言えばRECORDも同じです。ただ、文章の場合は自分にバリエーションがないのでアーカイブスを見ると、同じタイトルでアップしている文章があります。気づけば編集して即座にタイトルを変えます。昨日のタイトルもそんな理由で変えました。内容は似たり寄ったりのものがありますが、日々起こることを日記のように綴っている側面があるので、公開しているにもかかわらず、これは仕方がないと考えています。タイトルにはタグをつけたので同じものが探しやすくなりました。今後とも無知蒙昧を承知でブログをやっていきます。今日は言い訳がましい文面になりました。

HPに個展の広報

ホームページに来月開催の個展のお知らせをアップしました。ギャラリーせいほうから案内状が届く方々や、自分が案内状を出す方々もいるのですが、このホームページをご覧になっている方々も多く、個展のインフォメーションを広く告知したいので、こんな方法も使っているのです。自分のホームページには毎日100から200程度のアクセスがあるので、アナログな制作・発表と併行して、デジタル画像によるWEBギャラリーは大変有効な媒体だと思っています。実際ホームページのギャラリーページには、既に「構築~包囲~」がアップしてあって、個展に先がけて見ることができるようになっています。「構築~瓦礫~」はこれからアップしていきますが、まずは個展をご覧いただければ、実際の素材感が掴めると思います。なお、ホームページには文章の最後にあるアドレスをクリックしていただければ入ることができます。ご高覧いただければ幸いです。Yutaka Aihara.com

灯籠の造形を考える

亡父がまだ造園業を営んでいた頃、実家の庭には造園に使う石材や竹材、木材がゴロゴロしていました。その中にどこかで仕入れてきた石灯籠がありました。その石灯籠は、寺院にある手の込んだ灯籠と異なり、自然の岩に見立てた素朴な石の上に笠を乗せた簡単な作りで、それこそ造園の施工にすぐ使えるように無造作に置かれていました。あるべきところにきちんと置けば、それなりに鑑賞に耐えるものになるのでしょうが、半分風化したような石灯籠に自分は妙な愛着を覚えていました。灯籠は仏教伝来とともに大陸からやってきたもので、日本では飛鳥時代に遡ります。それが時代とともに鑑賞性が高まり、今で言う照明器具の走りになったようです。自分には陶彫に照明を仕込んだ作品があります。実家に放置されていた商売用の灯籠とイメージが重なり、陶彫による現代版灯籠を作ってみたいと考えています。いわゆる外に置く照明器具ですが、足元を照らし、人を導き入れる演出にちょっと魅力を感じています。

週末 久しぶりの木彫

久しぶりに鑿を握りました。新作に使用する赤松の柱8本のうち7本まで荒彫りが終わっているので、今日は最後の1本を彫りました。鑿を研いで精神を安定させ、夢中で作業を行いました。週末だけの貴重な時間と認識しているせいか時間が経つのが早く感じられ、あっという間に一日が過ぎていきました。もしも明日も制作できたら、こうしたい、ああしたいと思う気持ちが出てきますが、明日からまた公務が始まって、制作に対する気持ちは来週末に持ち越しになります。制作の時間を惜しむのは、何も今日に始まったことではないにしても、複雑な心境になることもしばしばあります。二束の草鞋は可能な範疇と理解しているくせ、心がもたついてなかなか割り切れていかない時があります。明日になれば別の自分を型に嵌めて仕事に向かうのでしょうけれど、自由なはずの週末の方が雁字搦めになっている自分に気づきます。そんなことを思いながら過ごした一日でした。

「マネとモダン・パリ」展

久しぶりに休みがとれた今日は、印刷が出来上がった個展の案内状と図録を届けに、ギャラリーせいほうに行ってきました。帰りがけに家内の胡弓の張替の依頼をするため、駒込にある邦楽器店に立ち寄り、さらに表題の展覧会を見てきました。三菱一号館美術館の開館記念展というフレーズが気になって、新しくオープンした美術館を見たいのと、最近はほとんど縁が無くなった印象派の絵画展を、久しぶりに堪能しようと思っていました。表題の展覧会はマネの絵画に限らず、19世紀末パリの都市空間を伝える展示内容をも網羅して、近代都市化を図るパリの側面を建築の図面等で見せていました。そうした中で見るマネの絵画は、時代背景と相まってとても良かったと感じました。東京丸の内も街路が一新して、街路樹の中にお洒落なカフェが出来ていたり、野外彫刻が置かれていて、文化が漂う雰囲気になっていました。

モホリ・ナギ 構成主義

「瀧口修造全集Ⅵ」(みすず書房)に収められている「モホリ・ナギ」に関する評論を読んで、自分には構成主義の画家としか認識のなかったモホリ・ナギが、写真や実験映画を作って、その世界でも現代に繋がる重要な仕事をしていることを知りました。モホリ・ナギは、近代デザイン・建築史の中で重大な役割を担ったドイツのバウハウスに教授として招かれて、バウハウスの創立者であり建築家であったグロピウスとともに、革新的な美術教育を行っています。その構成的な作品を自分も見た記憶があります。何より教育者としてのモホリ・ナギは、「バウハウス叢書」の編集をした業績があまりに有名です。デザイン教育の基礎課程で行う構成や実材に関する理論は、ここからスタートしていると言っても差し支えないと思います。瀧口流評論を契機に、これからはモホリ・ナギの写真に関しても留意していきたいと思っています。

書籍の魅力

一日の大半をパソコンに向かっている仕事のせいか情報機器への依存度は相当なものだろうと思っています。このブログもそうです。WEBギャラリーを持っていることも自分のPC依存を物語っていますが、実のところ自分はアナログな世界が大好きです。ずっと彫刻をやっているわけですから、木や土といった実材を扱い、手でモノごとを考え、手で答えを見つけている日常があります。それにもうひとつ、昔から書籍が大好きで、紙の頁をめくる感覚に魅力を感じます。自分は携帯小説は好みません。それは小説の内容ではなく、携帯電話の画面があまり好きになれないのです。簡単なメールならともかく、小説は紙に印字されたものを読みたいと思います。パソコンで画像を処理することには抵抗がありませんが、書籍をパソコンに替えて、小説や評論を読むのには少しばかり抵抗があるのです。今、書籍の魅力を語っている自分は、あと10年も経たらどうなっているのでしょう?変わらずにいられるか、それともパソコンが万能と思っているか、自分でもわかりませんが…。

自分の中の音楽環境

過去のブログを読むと、音楽について書いている時期があります。自分の生育歴は音楽環境に乏しく、それでも両親は私と妹をピアノ教室に通わせていました。私は忽ち頓挫してしまい、それきり楽器演奏をやる機会を失いました。妹はピアノをずっと続けて音大にも入って、現在はピアノ教師をしています。私が音楽環境を手に入れたのは、家内に巡り合ったこと、家内の叔父が二期会で活躍していたテノールの声楽家であったこと、ウィーンの美術学校に通ったことで、同地の国立歌劇場通いを始めたこと等があります。当時は国立歌劇場の立見席から数々のオペラを鑑賞し、一端のクラシック評論家よろしく指揮者や歌手の出来栄えを、あれこれ話していたことが思い出されます。あの頃は自分の何たるかを知らない若気の至りで、今思うと羞恥に耐えませんが、周囲に芸術環境が揃っていたことだけは、とても有難いことでした。今は音楽環境がまた乏しくなっています。時間に追われる暮らしで、仕方がないこともありますが、たまにはウィーンの芸術環境をもう一度味わいたいと願うこの頃です。

夢か現か夢遊の旅

夢か現かと思いながら目が覚めるときがあります。夢は明け方になって、一瞬の間に見るものかもしれません。夢は昔からあまり見る方ではありませんが、ふと夜明け前に目覚めて、二度寝をすると夢のような非日常のような世界が出現するのです。それで夢は明け方に見るものかと自分が思っている所以です。夢遊の旅は、ほんの一瞬にしてはあまりにも大きく長い旅です。それをどうして一瞬で見られるのか、人間の脳の構造はどうなっているのか不思議でなりません。自分にとって不本意で不条理な旅もありました。夢の中でも思い迷う自分がいました。夢の中でも気楽でいられないのは現実の投影か、それとも自分の性分なのか、ともあれ滅多に見ない夢遊の旅は、自分に幸福だけをもたらすものでもなさそうです。

工房というオアシス

昨日の夕方、久しぶりに工房に行きました。3週間ぶりでした。カーテンと窓を開けて、FMラジオをつけると、いつもの工房の雰囲気になりました。作業を始めると、忽ち心が落ち着いて、とてもいい気分になってきました。やはりここはいいなぁと思いました。心が蘇生して生きる力が湧いてくるようです。コンクリート床の無造作な空間なのに、自分にとってはどんな豪奢な建物より、豊かな心を育む場所なのです。まるで砂漠にあるオアシス。柱材を取り出し、木彫の準備を始めました。柱材に罫書きをしましたが、鑿を振るうのは来週末にする予定です。鑿を研ぐのは一日たっぷり木彫をする日と決めているので、夕方から木彫を始めるのは中途半端になると思ったから鑿研ぎは止めにしました。また来週末から作業を始めます。少ない貴重な時間を効率よく使って、また新作に挑みます。

図録印刷完成の日

今年7月に開催する個展の図録が出来上がり、昨日手許に届きました。今回は「木・陶による構築シリーズ」と題した図録で、同じ形式で毎年作り続けて5冊目になります。東京銀座のギャラリーせいほうでの個展も5回目になります。慣れたといえば慣れましたが、それでも毎回新鮮な驚きがあって、作品によって図録のデザインや色彩が大きく変わり、とても楽しめます。今回は白っぽい画面が多く、柱が支える板材に様々な穴が空いているのを白い背景で強調しているのです。「構築~包囲~」の骨っぽい透けた構成がメインになっているためか、今までのような塊としての要素は減っています。もっとも陶彫も中身は空洞なので、重厚な塊に見えるだけで、「構築~包囲~」と基本的な考え方は変わらないのです。毎回出品している「球体都市」は今回の7点で最後になります。この図録や案内状を近々ギャラリーせいほうに届ける予定です。

週末出勤は早々に…

週末なのに出勤をしなければならず、昨日からの体調の悪さもあって、早々に退勤してきました。しっかり休もうと決めて2日目、少しずつ体調が戻ってきました。回復のバロメーターとしては創作への意欲が湧いたこと。うとうと寝ていると、作品のイメージが浮かんできて、おまけにそれを具現化するために、どんな素材を使い、どんな制作工程が考えられるかを、ぼんやり頭の中で描いているのです。RECORDも描き始めました。昨日は途中で放棄してしまったのが残念で、たとえどんな状況であろうともRECORDをやろうと自分に課していたので、腸炎ごときで完成できなかったのが情けないと思いました。ブログはやっとの思いで書いているのに…。明日はまた週末出勤で仕事がありますが、夕方は工房に行きたいと思います。

病床に伏した一日

昨日のブログに、仕事からの帰途で疲労困憊したひとコマを書いています。案の定、今日は仕事を休むことになってしまいました。昨夜から下腹が痛み出して夜中眠れず、結局今朝は病院に行くことになりました。食あたりではなさそうで、果たしてストレスなのか原因は掴めないのですが、ともあれ薬を処方してもらって自宅に帰ってきました。それからというもの一日中寝ては起きての連続で、まさに病床に伏した一日になりました。こういう日はRECORDをやっていても根気が続かず、ろくな食事もとれず、波のように襲ってくる腹痛との闘いに明け暮れました。暇なく働いている方が性分にあっているので、つらい一日になりました。

疲労困憊の帰り道

いつもより早く職場から帰ることになり、余裕が出来たので帰りがけに皮膚科の病院に立ち寄ったところ、今日は臨時休業。足に出来た腫れ物を気にしながら、駅からバスに乗りました。具合がヘンだなと感じたのはこの時で、頭がボーとしていました。バス停を降りて歩き出したら、身体が妙に疲れていました。自宅は丘の上にあって急坂を登らねばならず、ゆっくり歩いて自宅に着きました。しばらく横になったら、うとうとと眠ってしまいました。このところ休日がなく、心をリセットするために夜は近隣のスポーツクラブに出かけ、よく泳いでいました。来週末も休日出勤で仕事が一向に切れません。疲労しているのかなと自覚しているのですが、朝7時前に職場に行くと、仕事に身も心も絡みとられてしまうのです。気づくと夜7時をまわっていて、12時間も勤務していることになります。それで夜8時から水泳に行っていては、確かに休まる時間はありません。水泳から帰って、自宅のリビングでRECORDを描き、パソコンの前でブログを書いて一日のプログラムは終わりとなります。どこかで休もうと思っていても、慢性化した多忙な日常の中では難しいのです。たまに今日みたいに疲労困憊する時があって、その時は全てを捨てて休んでいるこの頃です。

相原工房の写真

7月にある個展の図録に、相原工房の内部写真を入れています。見開きで作品2点を配置したところを撮影しています。夕方の光が差し込む美しい写真に仕上がっています。工房は倉庫建築なので余分なものがなく、洒落た内装もありません。窯と鉄製の棚と作業台、それに作品があるだけの写真です。しかしながら、これは環境造形と言っても構わないくらいの構成になっていて、カメラマンの腕には頭が下がる思いです。その写真を見ていて、ふと思ったことは、工房内部に作品が無造作に置かれている現状を撮影しても、結構面白いのではないかということです。普段工房を客観視することがありません。木彫と陶彫をやるだけの効率的なスペースを確保してあるだけで、そこにギャラリーのような雰囲気を持たせることはしていません。そのぶっきらぼうな空間が、実は面白いかもしれないのです。建築自体も材質が丸出しになっていて、鉄骨が組まれている剥き出しの構造です。夏は暑く冬は寒い、ほとんど外と変わらない気温ですが、そのざっくりした環境を写真にすると異質な世界に変貌する可能性があると考えました。

僅かな読書時間

通勤時間が短いのは負担が少なくて楽です。そういう意味でも今の職場にいられるのは有難いと感じます。この僅かな時間を使って車内で読む本も格別です。このところずっと「瀧口修造全集」(みすず書房)を鞄に入れていますが、通勤時間の10分から15分で味わう美術評論が自分の一日の始まりです。瀧口流評論は比較的短い文が多く、短い通勤時間に程よくマッチしています。もう少し読んでいたい欲求に駆られるところで、電車を降りてしまいます。これもまたいいのではないかと思っています。一番貪るように読んでいたのは大学時代でしたが、その百分の一程度が今の読書時間です。頭の中の知識吸収力も昔とは違うのかなぁと思いつつ、今日も電車に揺られています。

代休が取れない事情

2泊3日の県外研修が週末にかかっていても、週休日の代休が取れない管理職の仕事を思いながら、今日も出勤してきました。雑用に追われた一日でしたが、疲れた身体を騙しつつ仕事をしていました。休める時には休もうと決めていたのに、いろいろな仕事がやってきて、結局休むことなく一週間が始まりました。たまに脳裏を過る造形的なイメージは現実逃避か、本当の意味での創作意欲なのかよくわかりません。職場では毎日が型どおりに進むわけではなく、職場のスタッフの臨機応変で課題を乗り越えることが多いのです。部署ごとに抱えている課題が異なるので、それらを統括する上でも休むことが出来ない状況です。創作活動は頭の中に封印して、今週も何とか乗り切っていきたいと思うこの頃です。

富士山を眺めながら…

今日は眼前に広がる雄大な富士山を眺めながら過ごしました。富士山は画家が好んで描くモチーフのひとつで、古今の画家が秀作をかなり残しています。若い頃の自分の鑑賞体験では、富士山といえば横山大観でした。非の打ちどころがない富士山の雄姿が描かれ、横山大観によって自分は富士山の美しさを認識したと言っても過言ではありません。ドイツ表現主義に影響されていた大学生の頃は、片岡球子の描く破天荒な富士山が面白くて仕方がなく、絵画は心象によって描くものだと決めていました。それによって非具象になっても構わないと思っていました。クレーやカンディンスキーが富士山を描いたらどうなるだろうと想像すると楽しくなりました。日本の象徴のような富士山。ところで、自分は富士山を描いたことがありません。富士山は眺めるものという自分の決めつけがあって、富士を表現するに至っていないのが正直な気持ちです。

青木ヶ原樹海を歩く

富士山の麓に広がる青木ヶ原樹海。鳴沢村にある宿泊施設からインストラクターの誘導で樹海に入り、環境保全の研修を積みました。溶岩台地に広がるヒノキやモミ、ナラ等の木々の間を歩き回りました。鬱蒼とした緑に囲まれていると、美的なイメージに繋がるものがあらゆるところに潜んでいて、楽しい気分になりました。溶岩流に見舞われていない太古の森では、巨木に宿る不思議な生命を感じ取り、大地から湧き上がった樹木にポッカリ空いた穴や空洞が、彫刻的な造形を感じさせてくれました。しかしながら人が作るモノは何と頼りなく貧しいものか、自然の中にいるとそんなころまで思い描いてしまいます。そこかしこにある洞窟もまた然りです。大地の内側にスッポリ入り、光の無い世界に触れると、視界とは一体何なのか、脳が感じとる存在の意味を考える機会を与えられたように思いました。視界に関する自分なりの考察は次の機会にするとして、今日は歩いて立ち止まり、そして感じて思い描く貴重な一日になりました。

県外宿泊研修へ…

昨年は新潟県の魚沼方面に出かけました。宿泊施設で出された美味しい米飯に舌鼓を打ち、またロビーに展示してあった縄文土器の数々に驚かされました。それが契機になって、昨年夏は縄文土器を見に新潟県や群馬県に行ったのでした。今年の研修場所は山梨県になりました。毎年この時期に宿泊を伴う研修があるのです。横浜を離れて、自然の中に身を置く研修はなかなかいいものです。ましてや好天に恵まれ、富士山の裾野で雄大な富士山を眺めながらの研修は、環境を考える上で大変役立つものになりました。

6月RECORDは「曲がる」

紆余曲折というコトバがあります。自分の人生は紆余曲折ばかりと思い込んでいましたが、人は皆大なり小なり紆余曲折の人生を歩んでいるものでしょう。壁に当たらない人生なんてあるものかと思ったりしています。今月のRECORDは「曲がる」というテーマで、そんな人生の変化球や遠まわりを象徴した作品を作っていこうと考えています。RECORDというのは、今まで何度もブログに書いていますが、一日1点をノルマとして毎日葉書大の作品を描いていくことの総称を言います。それこそ紆余曲折しながら毎回仕上げているのです。「曲がる」ことで空間の広がりを表現することができると思います。人生に幅が出るのと同じかもしれません。今月はそんなことを思いつつ毎日作品をやっていきます。

開港記念日によせて

横浜に生まれて横浜で育った自分は、小学校の頃より開港記念日が定着していて、式典ではどこでも市歌を歌うものだと思っていました。他県の友人に聞くと式典の度に市歌を歌うのは珍しいらしく、これは横浜の特色ある教育の一環だったのかもしれません。今年は開港151年です。150年以上も前、自分が住んでいる一帯はどのような土地であったのでしょうか。自分の先祖はここにもう住んでいて、農家の小作人をやっていたようです。昼夜を分かたず働いて、少々の土地を譲ってもらったのが始まりだと亡くなった祖母から聞いたことがあります。二代目は大工で大酒のみで逸話の多い人物だったようです。三代目も大工、四代目は造園業、そして五代目の自分は彫刻家。150年以上も前は田畑の広がる農村で、牛馬が行き交う大山街道があって、このあたりは本宿(現在は本宿町と南本宿町)と呼ばれていたそうです。少し歩くと二俣川村があったそうなので、このあたりの地名はかなり古くからあったと言えます。開港記念日に、こんなことに思いを馳せてみました。

6月の制作計画

6月になりました。梅雨の時季を迎えますが、じめじめして湿気の多い毎日は好きになれません。でもこの季節が陶芸には最適で、土がゆっくり乾燥するので、ひび割れが少ないのです。今月は来年に向けて新作を進める予定です。今年7月にギャラリーせいほうで発表する「構築~瓦礫~」の相対する作品を今考えていて、今月中にその新作が多少でもカタチになってくれればと思っています。「構築~瓦礫~」と同じように木彫した柱を陶彫部品で支える作品になりますが、柱を放射状にするところが「構築~瓦礫~」とは違います。相対する作品というのはそういう理由です。柱は今月中に荒彫りが終わる予定です。陶彫部品も数点作れればいいと考えていますが、あまり欲張っても計画通りにはいかないものです。今月は休日出勤が多く、作業時間があまり確保されないことがわかっています。本当は工房や自宅アトリエの整理整頓もしたいところですが、絵空事になること間違いありません。今月も時間に追われる羽目になりそうですが、身体を気遣いながらやっていこうと思います。