週末 一週間の疲労は土曜日に…

週末になりました。このところ一週間の疲労は土曜日にやってきているように思えます。土曜日になると、工房に出かけても身体が動かず作業が進みません。今日は、先日作り上げた床置きの陶彫部品のための垂木を使った直方体に、寸法の間違いが見つかり、これを修整するため金物店走りました。直方体の上面が蝶番で開くようにして、上から陶彫部品を入れられるようにしたのです。購入した蝶番は梱包用のもので、こんなに梱包に手間暇かけたことは今までにありませんでした。どうも今回の作品は手がかかりすぎます。作品自体に手をかけるのなら、どんなことでも苦労は惜しみませんが、梱包は虚しい作業と思ってしまいます。しかもこの僅かばかりの作業に丸一日かけているのです。土曜日に疲労が残っているため、ひとつ作業が終わると、それ以上のことが出来ません。自宅でのんびり過ごしたいという気持ちがあって、土曜日は夕方早く自宅に戻ってしまいます。土曜日に若いスタッフが来ないことも影響があるように思います。若い子たちが工房を使って夢中で制作をしていると、自分も負けまいと鞭を打つのです。明日はスタッフがやってきます。明日は自分の疲労も取れて、終日頑張れるのではないかと期待しています。

「夢の問題に関する科学的文献」前半部分

表題は「夢解釈」(フロイト著 金関猛訳 中央公論新社)の第一章に付けられたタイトルです。冒頭でフロイトは「私は夢の解釈を可能にする心理学的な技法があることを立証するとともに、また、この手続きを応用すると、すべての夢は意味をもった心的形成物であることが判明し、そして、それは覚醒時の心的営為の、ここと特定しうる箇所に組み入れられることを立証する。」と書いています。そこで夢の源泉を4つに分類しています。一つ目として外部からの〈客観的な〉感覚の興奮、二つ目は内部からの〈主観的な〉感覚の興奮、三つ目は内部からの〈器官からの〉肉体的刺激、四つ目は純粋な心的刺激源となります。そのうち四つ目にあたる心的刺激に関する箇所にこんな一文があります。「多数の研究者は~略~心的な要素が夢の惹起にどう関与するかという問題に決着をつけがたいせいで、心的要素が関与する度合いをできる限り縮小しようとする傾向を示すようになった。」これに対し「心的なものが私たちの当面の認識にとって終着点を意味せざるをえないのならば、心的なるものだからという理由でそれを否認するには及ばない。」とフロイトは結んでいます。ここに述べられているのは、夢の分析をするにあたって、外部や内部からの感覚の興奮や肉体的刺激に対しては立証しうるが、純粋な心的刺激に対しての立証が困難とする趣意です。ならば純粋な心的刺激をどう立証していくのか、今後の論考を待ってみたいと思います。

7月RECORDは「捻」

7月のRECORDは「捻」(ねじり)にしました。モノをねじる、たとえば平たい板を捻って立体にする、棒を捻って渦巻き状にする等、面白いカタチが生まれそうです。先月の「楔」もそうでしたが、自分は実素材が頭に浮かぶ傾向があります。彫刻を表現手段としているせいかもしれません。逆に夢幻を想起させるようなテーマは、私は少々苦手です。RECORDは毎日作るモノなので、時間の無さをいい訳にして苦手意識を避ける傾向がありますが、テーマによっては本当に苦しかった過去があって、現状では得意とするテーマでいくしかないと思っています。それでも一日1点制作というノルマはなかなか厳しいなぁと思ってしまいます。自業自得ですが、頑張れるだけ頑張っていきたいと考えています。最近、RECORDに関するNOTE(ブログ)はネガティヴな文面が多くなっているのに気付きました。苦し紛れに制作している事実があるので、仕方ないことでもありますが、RECORDの旧作品群を見てみると、ある一定の水準を保っていると自負しています。手前味噌ですが、日々集中してやっているのがわかって、多少なりとも満足感を得ることもできて嬉しさを感じています。

7月に10回目の個展開催

7月になりました。月日が経つのは早いもので、毎年7月に開催している東京銀座ギャラリーせいほうでの個展も今回で10回目になります。特別な記念イベントは考えておりませんが、これまでの図録を見て感慨一入です。毎年作品が間に合うかどうかという瀬戸際で制作をしてきました。今回も例外ではなく、寧ろ例年に増して厳しい工程でした。自分が生きている実感を感じるのは、そうした伸るか反るかに苛まれる瞬間なのです。次作のイメージも苦し紛れの制作工程の中で天から降ってきています。さて、今月のマニュフェストとして新作への初めての取り組みがあります。例年に比べて遅い開始ですが、来年に向けて制作工程を組んで頑張っていこうと思っています。RECORDも継続です。表現が定番化しているRECORDですが、気持ちや時間的余裕が持てない中でやっているので、継続するだけで精一杯の状態です。展覧会や観劇にも積極的に出かけようと思っています。読書は現在挑んでいるフロイトの大著「夢解釈」にまだまだ時間がかかりそうです。夏が始まり、夏らしい休暇も取りたいところですが、今月は公務も制作も休むわけにはいかず、何とか緊張感をもって乗り切っていきたいと思います。

行動力と疲労の6月が終わる

今日で6月が終わります。今月は仕事がひとつ終わるたびに疲労で身体が動かず、全体の印象としてはぐったりした1ヶ月だったように思います。しかしながら、展覧会は「鳥獣戯画展」「マグリット展」「鴨居玲展」の他、留学生のグループ展や公募団体展や山梨県美術館のミレーを見に出かけ、かなり活発に行動したのではないかと振り返っています。映画も観に行きました。「バ-ドマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」は強く印象に残る映画で、時間を遣り繰りして観に行った甲斐がありました。公務での山梨県出張もありました。「発掘~群塔~」の完成と図録撮影もありました。読書はロマン派のドイツ人画家フリードリッヒの評論が契機になって、フロイト著「夢解釈」を読み始めました。RECORDは相変わらず苦し紛れに制作をしています。こうして綴っていくと今月は行動力を持って過ごした充実した1ヶ月だったと言えそうですが、過密スケジュールのせいか疲労に襲われた1ヶ月でもありました。いよいよ来月は個展があります。何とか今年も作品制作が個展に間に合いました。究極の綱渡りは今月の頑張りにかかっていたとも言えそうです。

マグリットの「ゴルコンダ」

「人は常に私の作品に象徴を見ようとします。そんなものはありません。その種の意味はないのです。この絵《ゴルコンダ》を例にとりましょう。群集がいます。それぞれ違った男たちです。しかし、群衆の中の個人については考えないので、男たちは、できるだけ単純な、同じ服装をし、それによって群集を表すのです。しかし、それが一体なんでしょう?どこでも男たちを見かけるということを意味しているのでしょうか?そんなことはありません。おそらく私は、あなたが男たちを見るとは思ってもいないところに、彼らを置きました。だがそれでは、人間は空にもいますよね?空にいる人間。地球は空を動いているし、人間も地球にのって空にいる…。いやいや、違います、人間が地球を支配しているという意味ではありません。それは倫理的な問題であって、私は倫理的な問題に関与しませんし、それに、結局のところ、その事実に確信が持てないのです。タイトルについてはーゴルコンダは魅惑の都市でした。富と豪奢の空想の都、だからタイトルは、なんらかの驚異を意味しています。そして私は、地上では、空を飛ぶことはひとつの驚異だと思います。お望みならば、空を飛ぶのは驚異だから、その絵画に中には喜びがあると言ってもいいのです。また、そこには楽観主義のようなものもあります。しかし、絵画自体には感情はありません。感情があるのは、見る者の方です。その一方、山高帽には何の驚きもありません。とくに独創的でもない被り物です。山高帽をかぶった男は、ただの匿名の、中流階級の男です。私もかぶります。風変わりな人になろうとは思いません。」些か長い引用になりましたが、『ライフ』誌による1966年のマグリットによるインタビュー記事です。シュルレアリスムの巨匠マグリットの制作動機を語ってる興味ある記事ですが、巨匠が人を欺いたように楽しんでいると思えるのは私だけでしょうか。今日まで東京国立新美術館で開催中の刺激的だった「マグリット展」に再度感想を寄せました。

週末 留学生の一時帰国

今日は朝から工房に行って、昨日準備した垂木で直方体の箱を13箱作りました。床置きの陶彫部品を梱包するための箱です。今日はいつものように2人の若いスタッフがやってきました。中国籍のアーティストはつい最近グループ展をやったばかりで、次は9月に在日留学生展があるため、出品予定の作品の制作に励んでいました。もう一人は今月初めにインドネシアに留学をしていた大学院生で、彼女は一時帰国していて、今日は久しぶりに工房にやって来たのでした。3週間に及ぶジョグジャカルタでの生活は大変刺激的で楽しかったらしく、1ヵ月後に再び渡航するインドネシアで何をするべきか、自らの目標が見えてきたように思えました。自分の経験から言うと、渡航早々に創作活動には手がつけられず、生活するための必要な情報と語学力に悩んだことがありました。彼女も例外ではなく語学の壁に悩みながら、それでも将来自分の糧になりそうな情報を集めてきました。イスラム圏のラマダンが始まったこの1ヶ月は何かと不自由するので、それを避けて帰国の途につき、また来月末には再びインドネシアの地を踏むことになるようです。次に帰国する来年には、きっと大きな成果を持ち帰ってくるでしょう。見聞や体験を咀嚼し、自己表現に繋がっていくのはもっと先になるかもしれません。常に前向きで創作意欲に溢れた彼女の今後の造形的な展開に期待します。それにしても最近工房にやってくるスタッフは、何故か国際派が増えてきました。昼食時間の話題が、中国やインドネシアに飛んでいくのが楽しいなぁと思うこの頃です。

週末 疲労と梱包準備

漸く週末になりました。朝いつものように工房に行きましたが、1週間の疲労が残っていて、なかなか作業が手につかず、今日は梱包材の追加購入をするために店に向かいました。梅雨でジメジメした日が続いています。ひとつ清清しい気分になったのは、工房周辺の草刈が全て終わって、工房周辺の植木畑が美しく整理されて見えたことです。近隣に住む親戚に例年依頼して草刈をしてもらっていますが、いつの間にか草刈が出来ていて驚きました。気分は良かったのに、疲労はそのままで何をやるのにも身体が動かず緩慢になり、仕事への意欲が出ない有様でした。個展搬入用の梱包は、あと少しで完成です。そのゴールがあるために緊張が解れているのかもしれません。ちょうど昼ごろ自宅に客人があって、暫し工房を離れました。母が管理している賃貸住宅に関する業者たちで、自分が母の代行を行っています。今日はそんなことでゆっくり過ごしました。追加の梱包材を買ってきたので、明日は最後の梱包を頑張りたいと思います。

シュルレアリスムに導かれる今月

東京国立新美術館で久しぶりに見たマグリットの世界、現在読んでいるフロイトの「夢解釈」、どうしても今月はシュルレアリスムに導かれている1ヶ月と言えそうです。このNOTE(ブログ)に幾度も登場したシュルレアリスムですが、繰り返し自分の中に存在を示す美術界の潮流に、自分は頭のどこかで今も囚われているのかもしれません。アンドレ・ブルトンの著作も数多く読みました。シュルレアリスムの定義なるものは、よく知っているにも関わらず、その代表作を見ていると不思議に心が高揚し、新鮮な気持ちになるのは何故でしょう。シュルレアリスムの潮流を纏った作品は、自分の中では古典です。その古めかしさが今となっては新鮮なのかもしれません。発表当時は物議を醸し出したマグリットやダリは、寧ろ自分に心の平安を与えてくれる作品です。まだ当時は平面や立体といった領域を抜け出ていなかった表現に安心を得るのかもしれません。

東京駅の「鴨居玲展」

画家鴨居玲の画業を知ったのはいつの頃だろうと思いを巡らせています。自分の学生時代か、社会人になってからか、記憶は定かではないのですが、強烈な印象が残って、鴨居作品が展示される度に見に出かけています。同じ作品を何度も違う空間で見ていて、それでも飽きない不思議さがあります。鴨居の人物の描き方が、学生時代好きだったドイツの版画家K・コルヴィッツに似ていることが鴨居世界に自分を導いた要因だろうと述懐しています。図録の経歴によると安井賞を受賞したのが、1969年(昭和44年)で、その頃私は中学生だったので、鴨居玲の画業を知るすべもなく、大学に入って漸く画業を知ったのかもしれません。鴨居玲が急逝した1985年に、私は5年間の滞欧生活にピリオドを打って帰国の途についたばかりだったのでした。今回展示された油彩のうち、やはり心を留めたのは安井賞に輝いた「静止した刻」とその前後の作品に深い精神性を感じました。「Bar」や「蛾と老人」「サイコロ」等に豊かな詩情を感じさせ、またそこに展開するドラマを想起させているように思います。バタ臭く郷愁の滲んだ画風は、日本人の感性としては独特で希有な存在ではないかと思っています。東京駅ステーションギャラリーは古い煉瓦壁に囲まれた空間で、その中にあって鴨居ワールドがよく調和していて、異国の匂いが漂う非日常空間を作っていました。

図録の色校正打ち合わせ

今年の個展の図録は作品完成の遅れにより、大幅に例年の予定より遅くなり、今晩やっと色校正が出来上がってきました。これで10冊目の図録になります。自然光で撮影された画像の陰影が美しいと感じました。今年の作品は奥行きがあって、工房で撮影された作品の空間に厚みが出ています。自分の作品は都市をテーマにしたパノラマのような世界観があるので、撮影によっては大変面白いものが出来上がってきます。部分を撮影した画像は、作品の表面を舐めるような視点に風景を感じ取って、それが永遠に広がる錯覚を起こさせます。動きのあるカメラワークならではの効果ではないかと思っています。ユニークな視点はデジタルの強みです。アナログは全体を見てしまうので、構成要素に囚われてしまう嫌いがあります。色校正としてカメラマンに示された画像には、今回は自然光と、画像に多少なり加工を加えたものがあって、その差異が楽しいと感じました。紙にプリントアウトされたものでは、ややシャープさが失われてしまうので、実際の図録がどのくらいの程度で完成してくるのか、推し測りながら待っていようと思います。

夢における記憶について

今読んでいる「夢解釈」(フロイト著 金関猛訳 中央公論新社)は睡眠中に見る夢を学術的に研究するもので、夢の内容に何らかの要因が考えられるとするフロイトの見解を著した書籍です。夢には当然個人差があって、自分はあまり夢を見ません。あるいは夢を見ていても起床とともに忘れてしまっているのかもしれません。たまに夢の内容を覚えている時に、朝になって夢の情景を辿ると、荒唐無稽な筋書きであったり、登場人物の関係が曖昧だったり、人に説明するのもままならない破天荒なものだったりして、不思議な気分にさせられます。自分には強迫観念がどこかにあって、何かに追われている姿や、空中を浮揚している姿があったりします。既に他界した人が普通に登場して、自分と会話する場面もあります。夢は脳内に蓄積された記憶の断片が突如現れてくるのでしょうか。美術評論家だった故瀧口修造氏は寝床の近くにノートを置いて、見た夢の記述を試みたとどこかで書いていました。シュルレアリスムの作家たちは、夢を主題にして奇妙な世界を具現化しています。シュルレアリスムにとって理屈が通らない夢の世界は、まさに主題そのものだったに違いありません。「夢解釈」の冒頭部分に、夢における記憶を記した箇所があって、興味のあるところを引用します。「夢の記憶には、日中の体験のなかで、些末で、それゆえまた注目されなかったことを好むという奇妙な傾向がある。そのため、夢が日中の生活に依存していることがまったく見落とされたり、また少なくとも、個々の場合すべてにそうした依存があるという立証をするのは困難にならざるをえない。」その日の覚醒した意識の中で強い印象を受けたものより、寧ろ他愛のない些細なものの方が、夢に登場してくる場合が多いと本書は書いています。ここからまさに夢の解釈が始まるのです。

「夢解釈」導入へ向かう前書き

「夢解釈」(フロイト著 金関猛訳 中央公論新社)上巻を読み始めました。今まで読んできた哲学書と異なるところは、これは精神分析や脳科学といった医学に関する書籍であること、つまり著者には特定の患者がいて、それら実例を基にした類の大著であることです。私は文学臭の強い具象彫刻を専攻したことで、あまりにも自分とかけ離れた分野として理数医系を考えてきましたが、フロイトは科学者であり、その分析が人間の心に向けられたことで、まず思想家として興味を持ちました。その影響力は20世紀を束縛し、後世に多大な知的遺産を残しました。そこまで本書が大きく多義にわたるとすれば、医学と哲学との共通項もあると見ていいでしょう。そうした連帯性が自分をして「夢解釈」を読もうと決意させた所以です。「夢解釈」はその導入に向かう前書きが訳者によって書かれていました。フロイト自身のこと、患者や親戚を含めた周囲の人々のことが本書に登場するため、その解説を加えることで、この大著を多少なりとも平易にしているのではないかと察しています。「夢解釈」はどのようなものか、訳者の解説から拾ってみたいと思います。「自己分析に基づいて執筆された『夢解釈』はフロイトの自伝でもある。夢の分析は夢見た者の幼児期からの歴史を暴く。『夢解釈』は厳密な科学書であるとともに、また著者の私生活が書き綴られるというきわめて特異な性格をそなえる。フロイト自身、この著作において『内密にしていた多くの私事を公にするという犠牲を払わねばならなかった』と述べる。~略~読者には、フロイトの『私事』に付き合い、その生活における『細々とした些事』に関心を向けることが求められる。しかし、それがフロイトの方法論の基盤であり、夢を理解するための出発点となる。」

週末 陶彫の梱包作業

今日は朝から工房に篭って、陶彫部品の梱包作業に明け暮れました。用意した木箱は9個でしたが、やや足りず2個追加して、小品は全て木箱に納まりました。「発掘~群塔~」の屏風に接合する陶彫部品、「発掘~丘陵~」の陶彫部品全て、「陶紋」の陶彫全てが木箱に納まった内容です。「発掘~群塔~」の床置きの陶彫13点が大きすぎて木箱に納まらず、これをどうしようかと思案中です。垂木を使った直方体を作ろうかと考えています。垂木に四隅を縛って内部に固定する方法で、今までも大きな陶彫にはこれを使っています。今まではせいぜい2個程度の作成で済みましたが、13個は半端ない作業です。創作以外に手間暇をかけたくないと頭のどこかで思っているのですが、これは仕方がないかもしれません。ともかく順調に搬入準備が進んでいます。心配しているのは、工房の作品倉庫に余裕がなくなっていることです。工房の3分の1は作品保管の倉庫になっているのですが、個展も10回目ともなれば、作品の置き場所がなくなるのも無理ないかなぁと思います。考えているのは素材を全て工房の制作場所に移動することで、多少の作品置き場所が生まれるのではないかということです。平面作品や額やエッチングプレス機を制作空間のどこかに置こうと思っているのです。制作空間は若いアーティストたちも創作活動を展開する場所です。上手に空間を仕切って、自分も含めた全員が心地よく制作できるようにしたいと考えています。

週末 Gせいほう&美術館へ

今日は7月に個展を企画していただいている東京銀座のギャラリーせいほうに、個展の案内状1000枚を届けに行きました。画廊主の田中さんに長い間ご無沙汰していたことを詫びて、搬入に関する打ち合わせをしました。もう今回で10回目となる個展なので、立ち話程度で打ち合わせは終わりました。個展前日の日曜日に搬入があります。これをスタッフに知らせたいと思っています。今日はせっかく東京に来ているので、東京駅のステーションギャラリーで開催中の「鴨居玲展」にも足を運びました。スペインの街角に集う老人たちに題材をとった画家は、深い精神性を湛えた重厚な画面を作り上げ、酔っ払いや道化師の姿を写し取りました。堅牢な教会の構築性にも画材を求めた画家は、そこに孤高な詩情を醸し出す独特な雰囲気を作り出しました。ステーションギャラリーの古びたレンガ壁が絵画作品ととても調和していて、その空間にいるだけで満足感を覚えました。作品に関する詳しい感想は後日改めたいと思います。その後、丸の内線に乗って四谷三丁目に向かいました。相原工房に出入りしている中国籍のアーティストがグループ展をやっているので見てきました。場所はアートコンプレックスセンターという若手作家育成のために発表の場を提供する複合ギャラリーでした。彼女は留学生アートフェアプログラムに出品していました。波を象徴的に描いた大きな平面2点と小さな平面2点の4点がありました。大きな作品は、先日工房で私も手伝ったアクリル板で額装した作品でした。なかなか良い感じにまとまっていました。

過去の作品を考える機会

2日間の山梨県への出張は、思いのほか疲労が溜まっていて、今日は横浜に戻ってから工房に行くつもりでいたところ、夕方から寝てしまって結局作業は出来ませんでした。やっとRECORDに手を入れたところで、今日は終了です。ボンヤリと過ごす中で、創作活動への思いが頭を過ぎっています。疲労はただ休んでいても回復はしないものです。自分は造形イメージに取り巻かれていると、漸く疲労回復となるのです。ただし、新しいイメージはこういう時にはやってきません。苦し紛れで制作している時に新しいイメージが天から降ってくるのです。疲れて身体を横たえている時は、過去や現在の作品が頭の中でグルグル網羅されているですが、それでも表現力の不足を嘆く苦しさも一緒に思い起こされてくるのです。実際の作品を眼の前にすると、思っていたほどヒドいものではないなぁと感じたりするのですが、自分は作り上げた造形を否定的に考えている場合が多いのです。疲労で身体が動かない時は尚更で、今までやっていた作品を全て壊したくなる瞬間があります。時間を置くと作品に対して肯定的に考えられるようになり、疲労回復が図れるというわけです。若い頃のように突如発作を起こして、石膏像をハンマーで叩き割ることはなくなりましたが、過去の作品に対して厳しく考える癖は多少残っているのかもしれません。プラスに考えれば、まだ伸びシロが残っているということでしょうか。今日は過去の作品を考える機会が与えられたのだと思うようにしました。

山梨県でミレーを堪能した日

今日は関東甲信越地区の管理職の会議が山梨県甲府市でありました。今日は全体会で明日が分科会になります。私は早めに横浜を出て、一路現地に向かいました。せっかく山梨県甲府市に行くのであれば、会議の前に山梨県立美術館に行って、バルビゾン派のミレーの絵が見たかったのでした。山梨県立美術館はジャン=フランソワ・ミレーのコレクションで有名な美術館です。ボストン美術館とここにしかない「種をまく人」。ミレーがバルビゾン村に移り住んで初めて手掛けた大作です。この「種をまく人」と共に「夕暮れに羊を連れ帰る羊飼い」がとりわけ知られた作品で、以前自分もここに来て見た記憶がありますが、もう一度ミレーの絵画群に会いたいと思っていました。農民画家として知られるようになったミレーは、バルビゾン村で農民として暮らしながら絵を描いていたわけではなく、あくまでも画家として生計を立てていたようです。若い頃のミレーは裸体画で成功したものの、周囲の評判が気になって、農民画家に転向したことが文献にあります。山梨県立美術館にはミレーの最初の妻となり、20代の若さで早世したポーリーヌ・V・オノの肖像画があります。私の好きな作品のひとつで、じっくり描き込んだ若い女性の表情に思わず魅了されてしまいます。仕事上の出張とは言え、横浜からわざわざ甲府まできてよかったと思いました。私にとっては山梨県はミレーに会える場所と言っても過言ではありません。

六本木の「マグリット展」

20世紀を代表するシュルレアリスムの巨匠ルネ・マグリットは、自分にとって馴染みのある芸術家です。十数年前の日本での大がかりな展覧会も見た記憶があります。今回は混雑を避けて金曜日の夜の時間帯に家内と六本木の国立新美術館に出かけました。ゆっくりと鑑賞できて良かったと思いました。マグリットはシュルレアリスムの古典とも言うべき画家で、見慣れた画風であるにも関わらず、やはり面白さが伝わってきました。その中でもニューヨーク近代美術館からやってきた「光の帝国Ⅱ」の面白さを今回改めて確認しました。マグリット自身が語っているコトバが図録に掲載されていました。「この夜と昼との喚起は、私たちを驚かせ、魅了するような力を帯びているように、私には思われます。私はこの力を、詩と呼びます。この喚起がこのような詩的な力を持っていると私が信じているのは、何と言っても、私が常に、夜と昼とに対して最大限の関心を抱いているからです。~以下略~」街灯が灯る夜の風景に、白い雲が浮かぶ青空が同じ画面に共存している風景画は、綿密に計算されて描かれているからこそ不思議な説得力があるように思います。正確な具象絵画ではあるけれど、どこか超自然な世界が、見る人を魅了するシュルレアリスムの王道が、そこにありました。

2015年はフロイトに挑む

ジークムント・フロイトはウィーンに関わりの深い20世紀最大の精神分析の権威です。私は1980年から5年間ウィーンに滞在していましたが、フロイトの業績に触れることなく過ごしていました。フロイトの存在は知っていました。あまりにも偉大な学者で、自分の辿々しい幼稚なドイツ語では太刀打ちできないと、初めから思っていたので、原書を開くこともなく、自分の得意とする芸術以外の専門分野には、敢えて近づかないことにしていました。今回読もうとしているのは、フロイトの有名な著作「Die Traumdeutung」です。自分が日本での学生時代にフロイトの概観を辿った時は「夢判断」と邦訳されていた著作ですが、deutungには「解釈」という意味もあり、中公クラシックスから刊行されている「夢解釈」(フロイト著 金関猛訳 中央公論新社)上・下巻を読むことにしました。本書の前書きで「判断」より「解釈」が適当とする一文がありました。読んでいるうちにその意味するところもわかるでしょう。読書にどのくらい時間がかかるものか、時として途中で浮気をして軽い書籍を差し挟むこともあろうかと思います。昨年のハイデガーに続く今年のフロイト。原書はドイツ語でありながら、まるで境遇の異なる世界で活躍した2大思想家。ただし学問の追究に民族の壁は存在しません。それは芸術文化も同じです。フロイトが唱えた学問は、精神分析学や臨床心理学となって、現在の職場にも応用され、身近な医療になっています。その源泉を辿る思索の旅に出るのは、現在の自分にとって充分意義のあることだと考えます。この書籍を通勤時間の友にするのには、あまりにも気難しい友と言わざるを得ませんが、じっくりと時間をかけて付き合っていこうと思っています。

「体内時計」に関する記事より

私は勤務時間の約1時間前に出勤して、職場が取っている4社の新聞に目を通します。自分の業界に関する記事は、時に複写してスクラップをしていますが、美術的な記事やその他の内容にも目を凝らします。今日は新聞休刊日なので、昨日の日曜版がテーブルに置かれていました。その中で朝日新聞の「シュルレアリスム」に関する記事と日本経済新聞の「文化欄 なぜ『6時半』か」に注目しました。日本経済新聞の「文化欄」はたわいのない記事でしたが、文面に心を落ち着かせる不思議な雰囲気がありました。寄稿した天沢退二郎氏は自宅の書棚に詩集があり,自分は詩人として知っていましたが、記事では日常の何気ない風景が目前に広がり、自分も共感する「体内時計」が脱力した文章で描かれていて仕事前の緩やかなスタートタイムに最適でした。「体内時計」は自分も意識しています。今は公務員として決まった時間に職場に出勤していますが、退職後はこの習慣が「体内時計」として残り、きっと自分は6時には起床してしまうだろうと思っています。週末もつい6時に起床してしまい、工房へ行くまでの時間をダラダラと過ごしているのです。工房では9時にスタッフがやってくるので、それまでは怠惰に過ごすのが休日を休日と感じる唯一の楽しめる時間帯と言えるのです。このような「体内時間」は誰にも存在しているのではないかと思っています。

週末 梱包作業開始

今日は若いスタッフ2人と私と同じ職場で働いている女性スタッフが工房に来てくれました。私以外は全員女性でしたが、先日まで用意していたエアキャップのついたビニールシートで、「発掘~群塔~」の7点と「発掘~丘陵~」の4点を手際よく梱包してくれました。梱包作業は2時間程度で終了し、残りの時間はそれぞれが自分の創作活動に戻りました。私は陶彫部品を収める木箱作りを行いました。今日の午後だけで4箱出来ました。搬入日までに何とかなりそうだと思いました。若いスタッフの一人で中国籍のアーティストがいます。次の火曜日に展覧会があって、大学から出品するように要請されているらしく、水を描いた大きな作品2点を額装しました。パネルに透明アクリル板を張り付ける作業でしたが、自分がネジ留め等を手伝いました。なかなか見事な作品になり、展覧会が楽しみになりました。もう一人の若いスタッフはサブカルチャー的な要素の強い平面作品を描いています。現在連作に挑んでいて、通常の彼女の作品ならパソコンで仕上げるところを、今回は工房を使ってアナログに挑みます。もともと美大の油画科出身なので、油絵の具は学生時代に扱っていて、久しぶりの原点返りなのかもしれません。どんな雰囲気になるのか私も楽しみにしています。同じ職場の人は工房で油絵を学んでいます。彼女は美術の専門教育は受けていませんが、とても優れた絵画センスを持っていると私は思っています。私と同じように公務だけではなく、生涯学習として美術の道を歩もうとしているのです。工房に出入りしている事情は人それぞれですが、撮影や梱包を手伝ってくれるのが有り難いと感じるこの頃です。

週末 梱包材の準備

「発掘~群塔~」と「発掘~丘陵~」の搬入用梱包を始めています。「発掘~群塔~」は木彫の接合された厚板7点、「発掘~丘陵~」は厚板の積層による土台4点があり、それらは全てビニールシートにエアキャップを貼り付けた覆いを用意しました。1枚のシートの大きさは約4畳で、計11枚用意しました。明日から実際の梱包作業に取り掛かりたいと思っています。陶彫部品を納める木箱も用意したいと思っています。今日はその木箱にする板材を購入してきました。木箱は多めに見積もって15箱作ろうと思っています。梱包は作品を保管する上で大切な作業です。私の作品は集合彫刻なので、それぞれの部品を箱詰めして、搬入日にギャラリーで組み立てます。梱包は創作行為ではないため、大切なことはわかっていても今ひとつ仕事に意欲が湧きません。毎年この時期は新作と併行して梱包作業をやっていますが、今年は時間が押しているため、新作への取り組みは後回しにして、梱包のみを行おうとしているので、退屈しているのかもしれません。それも仕方ないことで、とにかく7月の搬入日までに梱包を終わらせないといけないので、頑張っていくしかありません。

「風景の無意識 C・Dフリードリッヒ論」読後感

「風景の無意識 C・Dフリードリッヒ論」(小林敏明著 作品社)を読み終えました。ドイツ・ロマン派の画家C・Dフリードリッヒの絵画を中心に据え、それを契機に哲学・文学・医学等のドイツ思想を横断的に論じた本書は、美術評論と言うよりドイツ精神そのものを論じていて、とくにドイツ哲学に傾倒しつつある自分にとっては感覚を擽られる魅力溢れる書籍でした。とりわけハイデガーとフロイトの共通した思索を探る箇所に、最も惹かれてしまい、今年はフロイトに親しむ宿命かなぁと思ったりしています。本書の主題となる一文を引用いたします。「ロマンティクはあくまで近代の現象であると言ってよい。それは近代以前の宗教や神秘主義の中にあった非合理主義とちがって、あくまで合理主義を多分に意識したカウンター運動ないし近代批判の運動だからである。ゲーテの色彩論やシェリングの自然哲学に見られたように、それらは当時の先端科学を無視したものではなく、むしろそれと積極的に対決するところから生まれてきたものであった。~略~思想史の観点からフロイトやハイデッガーが面白いのは、まさに彼らがそのような本来表現困難な反合理を精神分析とか存在論といったそれぞれ独自の言説体系にまで創り上げたからである。~略~それらはいずれも既成の『科学』や『哲学』というディシプリンに収まらない。しかし、それゆえにこそそれらのディシプリンに大きなインパクトを与えたのである。」加えて結びの一文を引用して本書の感想としたいと思います。「一方で反合理のカウンター運動としてのロマンティクの積極的な意義、とりわけそれに孕まれているオールターナティヴな知を生み出す可能性、~略~フリードリッヒの絵画表現のような、そこに生まれた特異な美的感性を、それはそれとして受け入れつつ、他方でそのカウンター運動の、いわば歴史的無意識のようなものが現実政治の場においてもたらす結果やそれに至る機制をわれわれ自身の反省のよすがにしてみることが大事であると著者は考える。」

ハイデガーとフロイト

「風景の無意識 C・Dフリードリッヒ論」(小林敏明著 作品社)を読み始めて随分時間が経っていますが、ようやく終盤に差し掛かりました。本書はドイツのロマンティク絵画を代表するC・Dフリードリッヒに関する評論ですが、ドイツ思想史からその背景を探ろうとするもので、ドイツが生んだ稀有の哲学者ハイデガーの「存在と時間」から抽出された分析から、本書は始まっています。そこに突如フロイトが登場してきます。フロイトは精神医学の権威で、思想史に名を残す人物です。この20世紀を代表する2人の思想家にあっては、互いに言及しあうような文献は存在しません。政治的に見れば、ハイデガーはナチスの党員で、フロイトはユダヤ人としてナチスの迫害を受けて亡命を余儀なくされました。その2人の溝は埋め難く、ましてや思想的な類似性を論じることなどあり得ないと思っていました。本書は序章と終章でハイデガーとフロイトの共通項を探っています。本書を書店で見つけた時に、頁を捲るとハイデガーとフロイトの並列された目次が出てきて、些か驚きました。これは読んでみたいと思って購入したわけです。私は昨年の夏からハイデガーの「存在と時間」読破に挑みました。その都度NOTE(ブログ)に内容をアップしているので、アーカイブを見ると読書の痕跡がわかります。フロイトは大学生の頃に心理学で「夢判断」の概要に触れただけで、今までまともな論文を読んでいません。本書が契機になって、今年の夏からフロイトに挑もうと思っているところです。本書を心底楽しむには2人の思想家の代表著作を読まないことには、著者が意図するところが伝わりにくいと思っています。ともかく本書を読み終えてから、改めてフロイトに触れ、本書で分析された内容を再考したいと考えています。

米アカデミー賞の「バードマン」雑感

先日、久しぶりに家内と橫浜のミニシアターに出かけました。今年のアカデミー賞4部門に輝いた「バ-ドマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」を観てきました。特撮映画で一躍有名になった俳優が、起死回生を願って演劇に賭ける物語で、実際にバッドマンで名を成したマイケル・キートンが主役を演じていました。途轍もなく長いロング・ショットで劇場の内外を通じて隅々まで役者を追いかける撮影は、臨場感があって人の目線で事物を捉える手法になっていました。これはフィクションでありながら不思議なリアル感と即物感があって、この類い希なる説得力がアカデミー賞受賞に結びついたのかなぁと思いました。映画の中で2つの劇中作品が登場します。ひとつは架空の特撮映画バードマンで、主人公の心の声として、あるいは栄光を貪っていた頃の主人公の幻視として現れるのです。もう一つは主人公が復活を賭けた「愛について語るときに我々の語ること」(レイモンド・カーヴァー著)の芝居の一部です。これはプレビュー公演から波瀾万丈になり、有名批評家からは毒舌を浴びせられ、一時はどうなるものかと思いきや、芝居を超えた主人公の鬼気迫る演技が奇跡を生むことになるのです。薬物依存症の娘も主人公の付き人として働いていて、その壊れた親子関係も徐々に回復していく状況も描かれています。音響はドラムだけで雄弁に語り、楽屋の狭い通路をカメラが追いかけるシーンで効果的に使われていました。現在アメリカの病んだ部分や再起に賭けていくプラス思考の人生を、この映画は余すところなく語っていると思いました。

6月RECORDは「楔」

「楔(くさび)」は鋭角三角形をした道具で、ものを割ったり、隙間に打ち込んだりする用途があります。また物事と物事をかたく繋ぎ合わせるものという意味もあって、人間関係にも使われる場合もあります。6月のRECORDはこの「楔」をテーマにしてやっています。自分が彫刻をやっているせいか、テーマを選ぶ際にどうしても即物的なモノが頭に浮かびます。イメージし易いモノとして考えてしまうからです。今年のテーマを見ていくと今までのテーマに季節感はありません。風情や興趣を愛でる心の余裕がないのかもしれません。本来芸術作品は多忙感の中で生まれるモノではなく、ゆとりの遊び心から生まれるモノです。二足の草鞋生活で多忙であっても、心だけは多忙感を持たないようにしたいと願っています。一日1点制作のRECORDですが、焦らず休まずやっていこうと思います。

作品の完成に安堵した日

まさか燃え尽き症候群ではないと思いますが、「発掘~群塔~」は自分にとって心底険しい制作工程だったようで、完成した作品を前にして、少しずつ力が抜けていくのを感じました。昨日の図録用の撮影の時に、工房に設置した「発掘~群塔~」をみて、安堵感が広がりました。カメラマンが三脚を組んで工房の天井まで昇って撮影している時、自分は椅子に座ったまま動けなくなって、全身が筋肉疲労に襲われ、何も考えることが出来ず、ただ成り行きをじっと見守っていました。撮影が終わり、スタッフに片付けの指示を出したところで我に返りました。工房の戸締まりを家内に任せ、スタッフを駅まで車で送りました。自宅に戻ってソファに横になったら、また筋肉疲労に襲われて身動きが出来なくなりました。創作活動は気分がどうであれ、意思の力に導かれ、作品の完成に向かって、我を忘れてひたすら邁進していきます。疲労を感じない溌剌とした時間がそこにあります。作品の完成とともにその呪縛から解き放たれ、振り子が戻っていくように疲労と緩慢が襲ってくるのかもしれません。気分の揺り戻しは翌日まで影響します。幸い今日は出張がなく書類の滞りもないので、職場で比較的ゆっくりとした時間が過ごせていました。明日は元気が戻ってくるでしょう。

週末 「群塔」撮影日

今日は今夏個展で発表する「発掘~群塔~」の撮影日でした。この撮影日が作品の完成日となります。陶彫部品を組み合わせて集合彫刻としてまとめ上げる私の作品は、スタッフの協力がなければ組み立てられない作品なのです。初めて作品が組み立てられるのが撮影日と言うわけで、私自身も自分の作品の完成した姿を今日初めて見ることが出来たのです。作品は当初のイメージ通りになっているか、表現としての主張がきちんと伝わるようになっているか、全体のまとまりはどうか、表層的ではない完成度はどうか、さまざまな感情や思索が頭を過ぎっていきます。今日は朝9時に若い女性スタッフ2人、後輩の男性彫刻家、家内と私の5人で、工房内の作業机の移動を行いました。午前10時にカメラマン2人が登場し、手始めに木彫だけの野外撮影になりました。好天気に恵まれ、太陽光線がくっきり影を落とすなかで、順調に撮影が進みました。室内撮影に移行して、漸く「発掘~群塔~」の木彫屏風に陶彫部品が取り付けられました。この時、初めて自作の完成を胸中で祝いました。イメージ通りになっていたので、気持ちが弾み、少しずつ心の緊張が解けてきました。先日撮影した「発掘~丘陵~」も室内に設置しました。これが昨年夏から今年夏までの1年間の創作活動の全てだと思うと感無量でした。手伝ってくれたスタッフに感謝です。夕方3時には撮影が終わっていましたが、自分は日頃の疲れが出てヘトヘトでした。これから搬入日に向けた梱包作業に入ります。昨年より1ヶ月遅い梱包期間です。ギャラリーせいほうでの個展はまだ始まっていません。梱包も大変な作業です。次にやってくる搬入日を目指して頑張りたいと思います。

週末 撮影に備える

いよいよ明日が「発掘~群塔~」の撮影日となりました。今日は撮影のための準備に追われる一日でした。陶彫部品の修整が出来ているか、接合に使うボルトナットの塗装はどうか、木彫付き厚板の油絵の具は隅々まで効果的に塗られているか、床置きの大きな陶彫部品に不具合がないか等々、朝から夕方まで気を回しながら細々と動いていました。これは結構疲れる仕事でした。屏風の蝶番だけは自分ひとりではどうにもならないので、明日スタッフが来てから対応しようと思います。図録のレイアウトも大胆なアイデアが思いつかず、完成した立体作品を前に途方にくれています。毎年のことながら新作の状況が異なるせいか、撮影前日に余裕を感じることは今だかつて一度もありません。これは個展の搬入にも言えます。撮影や個展の展示が「一番おいしい仕事」と家内は言いますが、この仕上げに至っても不安を拭えない自分がいます。微細なことが自信喪失に繋がりそうで、また冷静になれば心配は不要と思ったりしますが、この揺れ動く心は一体何でしょうか。造形作品は自分の全てです。命懸けと言っても過言ではありません。この作品の実質のゴールは図録の撮影日なのです。明日がどうなることやら、半分は楽しみで半分は不安に駆られています。この歳で何年経ってもそんな初心な経験をさせてもらえるのは、創作行為ならではのことではないかと思っています。

宣教師ザビエルについて

中学校の歴史の教科書に登場するフランシスコ・ザビエルは、一度は図版で容貌を見たことがある日本では有名な宣教師の一人です。初めて渡来した九州や伝導をした山口県には所縁のものが残されています。自分がザビエルに関する文庫本を手に取ったのは、随分前に行った長崎県の日本26聖人記念館でのことでした。彫刻の師匠である池田宗弘先生がキリスト教彫刻を作っていることがあって、自分の興味関心も遠い欧州から遙々やってきた宣教師に向けられていました。日本でキリスト教を根付かせるために、どんな困難な道のりがあったのか、当時の日本人の宗教観はどんなものだったのか、キリスト教伝来の史実を知りたくて「ザビエル」(結城了悟著 聖母の騎士社)を読みました。現在読んでいるドイツロマン派に関する書籍は重いので、時として軽量な文庫本を携えることがあります。「ザビエル」はそんな一冊でした。著者の結城氏はスペイン人で日本に帰化した司祭だったようです。本書にはザビエルがスペインのハビエル城で生を受け、パリ大学で学び、やがて信仰生活に入り、イエズス会の創立に尽力し、東洋各地へ布教を行い、日本を経て中国に至るところで絶命する、言わばキリストに捧げた真摯な人生が描かれています。ザビエルが清貧で人徳のあった人物であったことは疑う余地もなく、彼をここまで崇高にした宗教とは何かを考えさせる一冊になっていると思いました。文中で自分が興味をもった一節があります。日本人の謙虚で生真面目な姿勢が読み取れる箇所です。「すぐに信者にならないで、まず第一に教えを聞き、正しいと思うと説教者の私生活を見る。教えと生活が一致するなら、そのとき教えを受けるであろう。」と書かれた日本人の総体的な特徴は、現在忘れられつつある日本人の特性をもう一度考え直す契機になるのではないかと思うのです。

上野の「鳥獣戯画展」

先日、上野の東京国立博物館に「鳥獣戯画 京都高山寺の至宝展」を見に行ってきました。今までにない大変な混雑ぶりで、鳥獣戯画の人気が伺えました。今回は鳥獣戯画の「平成の修理」が終わり、その過程で得られた知見によって、鳥獣戯画の成立と伝来の謎が少しでも解明できればという期待が込められた展覧会でもあったと考えられます。鳥獣戯画が描かれた背景に、京都の古刹である高山寺を再興した明恵上人がいます。有力帰依者の寄付によって多くの文化財が高山寺に集まり、その中に鳥獣戯画があったようです。これはどこで描かれたものか、誰が描いたものかを決定できる有力な説はありません。動物を擬人化した滑稽な物語も、その意図するところもわかっていません。漫画のルーツと言われる定説も、漫画が明治以降に西洋から入ってきたメディアであることを考えれば、すんなりとルーツと言えるかどうか疑問です。鳥獣戯画は甲乙丙丁の4巻から成る墨絵で、その中でも有名な甲巻を見た感想は、その筆の卓抜さ、手ワザの抑揚、動作の瞬間的把握に改めて驚きました。実物は意外に大きい画面なんだと思いました。ここで図録に掲載された文章から自分の興味を引いた部分を書き出してみます。「絵仏師あるいは、宮廷絵所の絵師という高い階層に属したものが、高い地位にある人物の注文を受けて『鳥獣戯画』を描いたのであって、絵師のただの筆遊びではなく、何らかの目的をもって制作されたと考えられるからである。~略~描かれた動物たちは神と交流するものとされ、神聖視されたものであったという解釈から、神を慰撫し、鎮魂する意図を見出す意見がある。~略~『鳥獣戯画』が描かれた当時は、戦乱によって非業の死を遂げた高貴な人物が多々いたであろう。絵巻を制作させた高貴な人物が、その怨霊化を鎮めるために呪術的な目的で制作したとも想像できるかもしれない。」(松嶋雅人著)まだまだ研究の余地がある鳥獣戯画。今後も新たな発見があるのではないでしょうか。魅力のある画業を後世に残していきたいものだと思いました。