「穴」の造形

365点の連作を始めて8ヶ月目。今月はずっと「穴」をテーマにした作品を続けています。ポストカード大の平面に一日一枚ずつ何かを表現しているわけですが、9月1日に穴を穿った矩形をペンで描いたのがきっかけで、以後今まで様々な穴のある作品を描いてきました。実際に彫刻で穴を扱った作家は多く、たとえば穴と言うより内部空間と言った方がふさわしいヘンリー・ムアや穴に意味を持たせた堀内正和、飯田善国。全員故人となってしまいましたが、「穴」には不思議な魅力があるので、今まで数多くの作家が扱ってきたテーマなのではないでしょうか。セクシュアルな意味もあり、覗く、引き込まれるといった生理的な感覚と結びつくものではないかと思います。自分にとって「穴」とは何か。空虚を感じさせる要素のひとつです。たくさん穴を穿つことで物質ががらんどうになっていくのに魅力を感じています。でも365点の連作はそろそろ「穴」から別の世界へ展開しなければなりません。                             Yutaka Aihara.com

「頑張らない」

頑張りたいけど、つらい時に「頑張らない」とつぶやくようにしています。自分を「頑張らない」と自己暗示にかけることで、リラックスして仕事に向うことが出来るのです。「頑張らない」と自分に言い聞かせるだけで脳が休むのかもしれません。作家と公務員の二束の草鞋を履くのは、やはり大変な場面があって、素早い頭の切り替えが必要な時があります。そんな時は「頑張らない」と思うと、頭の切り替えがスムーズにいきます。なんか今回は精神論みたいになっていますが、「頑張らない」自己暗示が今の自分に必要になっているのでしょう。「頑張らない」ように公務をこなし、「頑張らない」ように創作活動をして、悠々としていたいものです。        Yutaka Aihara.com

タウン誌のポートレート

以前タウン誌の取材を受けました。それが出来上がり1冊頂きました。作品というより自分のポートレートが大きく掲載されて、ちょっと照れます。ルポライターの文章を読んでいると、自分が言ったことで改めて自分の意思の確認が出来て、何故か変な気分になります。書き手は短いコメントの中で上手にまとめるものだなと感心してしまいます。自分の作品は集合体なので、組み立てなければ全体を見せることができません。倉庫には部品入りのダンボールがまるで引越し荷物のように積んであるだけです。そこへいくと数ページ前に掲載されている画家が羨ましい限りです。作品の前で撮影が出来て、しかもカラフルな画面なので写真がとてもキレイです。自分の彫刻の図録を撮影してくれるカメラマンはいつも照明に気を使い、立体の雰囲気作りを大切にしてくれますが、これは自分の作品が黒っぽい立体で、しかも演出という手間をかけなければよく見えない要素を持っているからなのでしょう。時間が限られた取材の中で撮影するとなれば、作品よりポートレートが中心になるのは仕方がないことかもしれません。            Yutaka Aihara.com

「構築〜解放〜」の柱

新作は「構築〜解放〜」と題しています。来年早々の完成を目指して今夏から柱を彫り始めました。昨年の「構築〜包囲〜」と同様のテーブル状の作品です。計画している柱は長い柱が19本、短い柱が15本の合計34本になります。長い柱は8月に荒彫りが終わり、あとは細かな彫りと表面処理が残っています。短い柱はようやく今日から荒彫りを始めました。間に合うかどうか。でもいつもこんな感じです。追い立てられると鑿が進んで作品に緊張感が出てきます。一気呵成に出来るものではありませんが、荒彫りが終わっていれば、あとは何とかなるものかなと思います。昨年、短い柱を勤務時間前の早朝に彫っていました。今年は役職が違うので、どんなふうにしてやろうかと考えています。週末だけでは時間は足りません。時間のやりくりをしながら作っていくより方法はありません。とりあえず夏季休暇中の一日ノルマを一週間ノルマに変えて頑張っていこうと思います。         Yutaka Aihara.com

映画「クリムト」を観る

芸術家の生涯を描く映画には、芸術家がドラマチックなエピソードを持っている場合と、芸術家の作品を映像表現に置き換えて作る場合があると思います。たとえば「炎の人ゴッホ」は前者、今回観た「クリムト」は後者でしょうか。クリムト自身はドラマチックな人生を送っていた記録はなく、むしろ分離派で発表した作品に対して、賛否両論があったことをこの映画ではイメージを交えて取り上げていました。病院で死の床にあるクリムトを弟子のシーレが見舞うところから映画は始まります。そこからクリムトの作品に描かれた女性たちのセクシャルな世界が広がり、当時の批評が飛び交い、イメージ映像が次から次へ登場してきます。クリムトの臨終でこの映画は終わりますが、米・仏映画を見慣れている自分にはオーストリア映画の雰囲気に戸惑うこともありました。                        Yutaka Aihara.com

ウィーンの記憶再び

台風が過ぎても、相変わらず湿気のある日が続いています。早く空気が乾燥して澄みわたる日が来ないかなと心待ちにしています。昨年のブログをもう一度読み返すと、やはり20数年前に住んだウィーンに思いを馳せている自分がいます。ウィーンは9月には紅葉が始まり、黄色く色づいた並木が街に郷愁と憂いをもたらし、その雰囲気は(独身の頃はかなり応えましたが)芸術を勤しむのに絶好の機会と感じていました。秋になると必ずウィーンの情景が目に浮かぶのです。でもその頃の自分は迷ってばかりで、作品も納得がいかず、ヤル気が空回りしていました。今思えば充電期間。情報を集めつつ感覚を磨く時代。素敵な環境にありながら何も出来ない虚しい時間。そんな記憶まで甦ってきます。これは遠い記憶とは思えません。今ウィーンにいたらどうなのか。乾燥して澄みわたる空気の中で、何をやっているのだろうか。そんな思いに駆られながら、湿気の多い作業場でひたすら制作する自分がいます。 Yutaka Aihara.com

台風で作業中断の日

今年は台風が少ないと思っていましたが、強い台風9号が関東甲信越地方に接近しています。そこで今日は早めに作業を切り上げました。TVに映し出される状況は、なかなか凄いものがあって、野外彫刻が被害にあうことはないのだろうかと思ってしまいます。家が潰されたりする状況の中で、そんな彫刻のことなど考えていられないというのが実感でしょうか。風や雨が吹きつける音を家の中で聞いていると、自然の脅威を感じてしまいます。震災もまた然り。人の無力さを考えされられます。              Yutaka Aihara.com

落款の下書き

集合体で構成する立体作品のそれぞれの部品につける印。つまり落款の役目をするものと考えて、新作ごとに印も毎回新しく彫っています。今日は印の下書きをしました。一昨日のブログに「図案」系の印を作ると書きましたが、今回は基本に則ったものにしました。篆書体をそのまま使って「相原裕印」と彫ることにしました。基本に忠実が新鮮と感じた結果です。篆書体はなかなか美しく、とくに「裕」の「谷」が人の笑顔に見えて面白いと感じました。曲線と直線のバランスも大変気に入りました。薄紙に書いたものを裏返して石に貼り付けて、これから印刀を入れていきます。陽刻、つまり朱文にするつもりです。どんなものになるやら楽しみです。落款は作品ではなく、作品に添えるものですが、自分にとっては作品並みの宇宙を形成するものだという認識があります。                    Yutaka Aihara.com

秋の気配を感じながら

まだ昼間は残暑が厳しいのに、朝夕はめっきり涼しくなってきました。夜は自宅の玄関先で、寿命が尽きそうな蝉が飛び交い、ドアを開けるや飛び込んできたりしています。虫の合唱も聞こえるようになりました。こんな秋の気配を感じながら、机に向かって作品のことを思索するのもいいと思うのですが、夜は夏の疲れが出て眠くて眠くて仕方ありません。365点の連作もこのブログも日々自分に課している小さな作業ですが、これも眠さに勝てない時があります。読書も手につかず、今は睡眠を貪るばかり。秋が深まれば、きっと秋の夜長を有効に過ごせると思うのですが…。          Yutaka Aihara.com

印のデザイン

今年取り組んでいる「構築〜解放〜」は例年やっている作品と同じ集合体で見せる彫刻です。その部品を組み合わせる時に番号が必要になります。そこで例年のように部品に番号をつける際、和紙に印を押し、そこに番号を記すようにしようと考えています。印はこれから彫る予定です。石は昨年と同じサイズの石を使うつもりです。印にすれば、かなり大きなものです。特大の印泥を使わないと朱がつきません。さて、デザインですが、これがなかなか上手く出来ません。昨年も気に入っていたわけではなく、作品と同じように課題が残る印になってしまいました。自分の印は「書」ではなく「図案」と言っても過言ではありません。自分は「書」に対して無知で、それでも楽しい印を彫りたいので、かなり気儘なデザインをしてしまいます。ただ「図案」と考えたとしても練れた「図案」になっていかないのです。今年もそろそろ印にチャレンジする時がやってきました。今年こそ納得がいく「図案」系の印にしたいと願っています。                   Yutaka Aihara.com

おわら風の盆の思い出

昨年のブログを見ると、昨年の9月2日は富山県八尾に行って、おわら風の盆を見ていました。家内は今年も八尾に行っています。家内は昨年から胡弓奏者として活動を始めているので、その仲間に誘われ、胡弓の原点でもあるおわらを聴きに行ったのです。私も家内から一緒に行かないかと言われましたが、昨年の大混乱ぶりが脳裏に焼きついて躊躇してしまいました。今年もあの小さな町に観光客があふれているのかと思うと、ただ見ているだけの私にとっては疲労しか残らないと思うのです。美しい祭りではあると思うのですが。今年は作業場に篭もり、365点の連作のための額作りに追われていました。                              Yutaka Aihara.com

9月の制作方針

昨年の9月1日のブログを見ると、勤めが始まり制作の勢いは無くなる分、きちんと考える時間があり、作品に思弁的な要素が出るといったことを書いていました。今年も同じ心境で9月を迎えます。振り向きもせずに作ったものを、もう一度見直してみようと思っています。ただ、昨年より制作の幅が広がった分、ゆっくりしているわけにはいかず、勤めをしながらでも週末はきっちり作品にしていかなくてはなりません。昨年より追い立てられる感覚です。勤めも昨年とは違って仕事量が増えました。今までの暑さ疲れが出ないようにしていきたいものです。何と言っても今夏作業場の暑さは厳しいものがありました。やっと涼風がたって身体は楽になりましたが、今日はなかなか継続する力が出なくて作業を早く終えました。夜は眠気が襲って、夜更かしができません。身体に負担をかけず、焦らず休まずやっていきたいと思っています。                            Yutaka Aihara.com

8月の制作成果

ブログは情報発信のみならず自分の記録として有効な手段だと思って毎日書いています。昨年の今頃は何をしていたのか、どんなことを考えていたのか、制作の進み具合はどうだったのかを確認することが出来るからです。さて、今年夏の制作の成果ですが、今月作ったものは「構築〜解放〜」の長い柱19本の荒彫り、もちろん完成ではありませんが基本的なカタチは出来たと思います。それから小さな陶彫4点。これもこれから窯に入れるので完成ではありません。それから日々やっている365点の連作の今月分とそれを展示するための額。これも完成ではありません。こんなふうに並べていくと完成しているものは何もありません。今月やろうと思った計画の80パーセント位がカタチになったといったところでしょうか。課題は残りますが、まずまず満足のいく8月だったと思います。明日から9月。制作時間の確保が難しくなりますが、これからが制作の佳境に入るところなので、頑張っていきたいと決意しました。                       Yutaka Aihara.com

365点の連作 額作り

今月12日のブログに書いた365点の連作のための額作りを始めました。12日に試作したものより大きめのアクリルと板材を購入し、板材をパネルにするために加工しました。何と言っても12ヶ月分あるので12枚作らねばならず、作品を額内に並べるために寸法を測り、またアクリル板を固定するボルト・ナットの位置を決めるなど実に手間のかかる作業になりました。作品制作以外で手間のかかることは面倒なことです。作業場に来ている教え子は大学の課題に追われ、こちらから手伝いもお願いできず、結局は一人でコツコツやっておりました。今月もあと一日で終わろうとしています。明日は制作の進み具合をチェックして、来月からの制作を考えていこうと思います。Yutaka Aihara.com

「点・線・面」より訳者解説について

西田秀穂訳によるカンデインスキー著「点・線・面」を読んだ感想としては「バウハウス」時代のの教材研究のひとつとして書かれた内容が、今でも新鮮さを失っていないことに気づいたことです。ただ内容は内容として理解したものの、実の面白さは別のところにありました。訳者解説がとくに面白かったのです。それはカンデインスキーの生きざまが身近に感じられたことです。訳者の「覚書」の中で「ドアを挿んで9年間、壁を挿んで7年間」カンデインスキーとクレーが住んでいた様子が描かれ「家の前には、それぞれ、カンデインスキーとクレーとの、丹精をこめて造った小さな庭があった。とくに区別する柵のようなものはなかったが、少しずつ違った鍬の入れ方をした二つの地所の間には、眼に見えぬ柵でも立っているようだった。」というエピソードが綴られています。そうした何でもないところに両家の交流が感じられ、それらをいろいろ想像をして楽しい気分になりました。芸術家・教育者として一流のカンデインスキーやクレーですが、隣同士の住居もちょっと覗いて見たくなりました。                        Yutaka Aihara.com

「麻田浩展」で感じたこと

京都の話題が続きますが、京都国立近代美術館で開催されている「麻田浩展」を先日見てきました。この細密な幻想絵画をどこかで見た記憶があります。大きな展覧会だったかもしれません。没後10年と副題にあったのが驚きでした。そんなことつゆ知らず、絵画を見ているとまだ旺盛な活動を展開しているような気がします。絵画が現代、いや現在に繋がっていると錯覚しそうなくらい新しい雰囲気を漂わせているからです。自分もかつてウィーンに滞在し、幻想絵画に親しんできました。当時から日本人の中にも優れた画家がいて、日本人特有の幻想絵画を築いています。それは「水」であったり、「自然」であったりします。「麻田浩展」を見て感じたことは、日本人あるいは京都という風土が生んだ幻想空間が現れていたことです。そこに郷愁は感じませんが、風土を感じ取ることができました。

東福寺の「方丈庭園」

見たい庭園のひとつに東福寺の方丈庭園がありました。このブログでも何回か取り上げた重森三玲による庭園だからです。かつて見た記憶はあるのですが、改めて空間造形としての視点から眺めて見たいと思っていました。先日京都を訪れた際、この方丈庭園を見ることが出来ました。「南庭」は渦巻く砂紋の八海に浮かぶ四仙島に見立てた石があり、その縦横に配置された石の絶妙なバランス、空間の心地良さに時間を忘れました。「東庭」は小市松がリズミカルで楽しく、イサム・ノグチが「モンドリアン風の〜」と評した理由がわかりました。まさに庭の抽象化。さらに北斗七星と呼ばれる庭は、柱石の余石を利用した庭で、まさに現代の「場の彫刻」や「空間演出」の先駆けとなるものだと思いました。東福寺にあって現代に通じる空間的な刺激をもらいました。                           Yutaka Aihara.com

建仁寺の「双龍図」

日本画家小泉淳作氏による「双龍図」は、かつてテレビで放映された制作ドキュメントで知りました。北海道の学校の体育館を借りて、綿密に描かれた下図から、いよいよ巨大な天井画に移していく過程は気迫に満ちていました。本物が見てみたいという気持ちになり、先日京都を訪れた際に天井画のある建仁寺に立ち寄ることにしました。法堂の天井に描かれた2頭の龍。やはり現代の作家だけあって、モダンなデザイン性が感じられ、まだ生まれたばかりの龍という印象を受けました。でも迫力は他の天井画に劣らず、むしろ歴史が認めた他の天井画を凌駕するとさえ思いました。背景の墨の美しさ、デザイン化された火炎のほんのりした紅色、渦巻く雲の薄墨などの画面処理も大変美しく、見飽きない大作と感じました。

京都 旧交を温める

今月9日に「益子・笠間 旧交を温める」というブログがあります。笠間に住んで陶芸をやっている友人との関わりを書いたものです。今回は京都編。京都には20数年来の友人である渡辺聖仁・広子ご夫妻が住んでいます。聖仁さんは木版画をやっていて、滞欧中に知り合って意気投合した作家です。人柄の良さばかりではなく、彼の真摯な制作姿勢は見習うところがありました。聖仁さんの木版画は、全体的には詩情溢れる画風ですが、情緒に流されることなく画面全体を堅牢な構成が貫き、引き締まった印象を与えます。とくにヨーロッパの街並みを純粋な色面構成に至るまで抽象化した作品は、木版画のしっとりした風合いに対照的なモチーフをぶつけて、ドライでモダンな世界を表現しています。長いウィーン生活で培ったものが深く押さえこんだ色彩として、またメリハリの効いた構成要素として表れ、それが彼のユニークな世界を作っているのだと感じます。23日は渡辺ご夫妻に会えたことで自分も元気をもらった貴重なひとときでした。聖仁さんの木版画は「ギャラリーあおい(名古屋)」のHPで見ることができます。        Yutaka Aihara.com

修学院離宮から東山界隈

久しぶりに叡山電車に乗りました。京都のはずれにある修学院離宮は宮内庁に許可を願うところで、桂離宮ともども初めて拝見することになりました。離宮の中に田畑があって、眼下に広がる京都市街を眺められる場所は、まさに絶景の離宮でした。宿泊した東山の霊山観音近くの宿舎からも京都タワーが見え、ここも絶景と呼ぶにふさわしい場所にありました。折りしも前が霞んでしまうような夕立があって、それから翌朝に雲が棚引く風景に一転した時は、まるで屏風に描かれた京都市街を見ているようでした。二年坂を散策し、祇園へ抜けていく道は、京都ならではの情緒がありました。     Yutaka Aihara.com

桂離宮の印象

昨日京都に到着して、まず桂離宮に向かいました。ドイツの建築家ブルーノ・タウトが「泣きたくなるほど美しい印象だ。」と絶賛し、それで自分も知ることになった桂離宮。また「桂離宮では眼は思惟する。桂離宮では、眼は思考と芸術との、或いは、哲学と現実との媒介者である。」との名言を残しています。宮内庁に許可を願い、入園時間も指定された桂離宮でしたが、やはり見てよかったという印象です。庭や書院、茶屋も全てを見渡せず、回遊しながら少しずつ絵画のように見せる方法に思わず唸り、庭と建物の絶妙なバランスに気持ちが高ぶってしまいました。どこに眼をやっても考え抜かれた構成に究極な美意識を見るようでした。茶屋の小さな細工に遊び心がいっぱいあって、絢爛豪華が決して贅を尽くしたものではない、むしろ選び抜かれた簡素さが心に沁みる究極の贅であると示しているようでした。   Yutaka Aihara.com

1年ぶりに京都へ…

今日から1泊2日で京都に出かけてきます。目的は「桂離宮」と「修学院離宮」を見てくること。宮内庁に手紙を出して拝観手続きを取らないと見られないので、今まで何回も京都に出かけているのに、「桂離宮」「修学院離宮」は初めて拝観します。さらに重森三鈴の東福寺の庭園や近代美術館で開催されている「麻田浩展」等を見てこようと思っています。残暑厳しい中で、さらに暑い京都に出かけていくのは少々大変ですが、それでも京都には魅力があって、創作意欲を刺激するところだと思います。宿は清水寺界隈の情緒豊かな旅館が取れました。どうやら京都の観光シーズンは秋だそうで、この時期は案外空いているのかもしれません。「五山送り火」も終わったばかりですが、変わらぬ古都の空気を満喫してこようと思います。     Yutaka Aihara.com

「点・線・面」より基礎平面について

カンデインスキー著「点・線・面」も残すところ「面」だけになりました。著作の中では「基礎平面」として取り上げています。「基礎平面とは、作品の内容を受け入れるべき、物質的平面のことである」と初めに理があって、平面のもつ視覚的効果、たとえば縦線と横線の関係による心理的な影響や平面上に描かれた図像が与える緊張などにも触れています。「基礎平面の内面的緊張が、基礎平面の形態が複雑なものについてもそのまま存続し妥当するように、平面固有のこの緊張は、平面が非物質化されるとともに、定義しがたい空間に感染してゆく。法則は、その効力を失うことはない。」と結ばれています。このブログに時折書いてきた「点・線・面」がこれで終わっていますが、原書をほぼ完全な状態で訳しているようで、今ではあまり使われない表現があって、読み解くのにかなり労力を使いました。むしろ「あとがき」に楽しい文章があったので、それはまた後日紹介したいと思います。

陶彫の加飾

久しぶりに陶彫を試みています。2点成形が出来上がり、今日は粘土の乾燥具合がちょうどよかったので加飾をしました。といっても四角い建物状に出来たオブジェに窓のような穴を開けてみたのです。その穴を通して明かりが外に漏れるようにしたいと考えて、矩形の穴を開けました。栃木県益子や茨城県笠間に行くと、いろいろ工夫されたランプシェードを売っていて、大小様々な穴が星屑のように開けてあったり、穴のカタチがユニークなものであったりして、そうしたオブジェをかなり見慣れてしまっています。そこで自分は工夫なき工夫を考え、朴訥な造形にしてみました。穴から漏れる光は単純極まりないもので、でも見過ごせない詩情を湛えたものにしたいと願って作りましたが、詩情があるかどうかは自分でわかるはずもありません。窓の大きさや位置を計算しつくして単純化したと言った方が相応しい造形です。Yutaka Aihara.com

四十九日の法要

このところ毎年のように身近な人が亡くなって、法事が立て込んでいます。年齢のせいでしょうか。今日は義母の四十九日の法要がありました。横浜のほぼ中心にある久保山墓地に来て、その後は親類縁者と連れ立って中華街に行って食事をしました。自分はこうした法事は生きている私たちのためにあると思っています。こんなことがなければ親類が集まることがないからです。今日は中華料理で贅沢を決め込み、楽しいおしゃべりに興じました。これが供養と思っています。現在制作中の365点の連作の今日の分は、混乱した風景の上に球体が浮かぶイメージになりました。このところ金色の球体が連作に登場しています。何故なのか説明はつかないのですが。     Yutaka Aihara.com

木屑を掃除しながら…

毎日木を彫っていると夥しい木屑が床に散乱します。3年前はヒノキを使っていたので、その香りがとても良く、木屑を処分するのがもったいないと思っていました。今の木材からもいい香りがしています。何と言っても木の良さは立ち込める匂いにあると思います。朝早く作業場に行くと、この木の匂いが迎えてくれます。それは森の中のようで、暑さを忘れさせてくれます。鑿で彫る感覚も良いと思います。木目を読みながら、また節目をうまく処理しながら彫りすすめていくのは楽しくて、時間があっという間に過ぎていきます。木と対話する感じです。昨年のブログにも書いた記憶がありますが、木は彫り跡もなかなか良いのです。コツコツ彫った行為がそのまま木に残るのでカタチの方向性を彫り跡から読み取ることができます。それらを組み合わせ、ひとつの作品にまとめていくのはまだ先です。毎日木屑を掃除しながら、焦らず休まず続けています。                   Yutaka Aihara.com

「点・線・面」より線について

今月4日にカンデインスキー著「点・線・面」の中の「点」について読んだ感想を書きました。今日は「線」を取り上げます。「線は、運動から生まれるーしかも、点そのものが内蔵している完全な静止を破壊することによって。そこには、静的なものから動的なものへの飛躍がある。」と初めに点と線の相違を述べ、水平線・垂直線から始まり、線と線が衝突によって生じる折線や直線と曲線の緊張の相違、その中で「直線と曲線とは、根源的に対照的な一組の線」と結論づけています。点に比べると、線はバリエーションが広く論考も音楽や演劇に及んで述べています。「点はー静止、線はー運動から生まれたもので、内面的な動きを表す緊張。この二つの要素ーその交錯と並置、それらは言葉では表現しえぬ独自の言語をつくる。」と最後に結んでいました。こうした基本的な要素は、造形の根本をつくる要素であると改めて考えた次第です。

平面と立体 共通するイメージ

365点の連作の8月分は、立体のエスキースみたいな作品になっています。365点の連作はポストカード大の平面作品で、これは何かのエスキースとして考えず、あくまでも小さな平面作品として作っているつもりです。ただ今取り組んでいる陶彫作品が、365点の連作と同じイメージでやっているので、並べてみるとどちらかが主になり従になる関係と捉えられてしまうかもしれません。平面作品の自由さはイメージの具現化に大変都合よく、いろいろなバリエーションが出てきます。立体作品は素材の制約を受けるので、自由にやることは出来ませんが、そこに具体的な空間を感じ取ることが出来ます。同じイメージでも表現の異なる作品として作っていくと、お互いを補い合う関係が生まれてきて、双方で楽しむことが出来ます。連日暑い作業場に篭もって、頭を左右に振りつつ、汗を滴らせながら、そんなことを試みた一日でした。                          Yutaka Aihara.com

陶彫の成形

先日から粘土を練って準備していた陶彫作りを始めました。このところ木彫ばかりやっていたので、陶芸は久しぶりです。ずっとやってきた粘土の触り心地を確かめながら、小さなオブジェを作ってみました。香炉にしようか、ランプを入れようか考えながらやっていくうち、やはりオブジェとしか使いようのないカタチになってしまいました。作業場は相変わらず暑くて、ただいるだけで汗が流れてきますが、今日は粘土の魅力に取りつかれて、しばし暑さを忘れました。それでもシャツはたちまち汗だくになりました。木彫の鑿を振るう時に吹き出る汗と違い、じっとりとした汗をかきました。明日も粘土と戯れようかと思っています。粘土はどんどん乾燥していくので、一度始めたら休めない性質のものだということを改めて思い出しました。   Yutaka Aihara.com

猛暑の作業場

今年も暑い日が続いています。作業場は身体を動かしていないといられない暑さです。このくらいの気温だと頭を使ってのエスキースは出来ません。ボ〜として頭の中が白くなってしまいます。むしろ単純に木を彫ったり、粘土を練ったりしている方が暑さが紛れて楽です。いったい一日にどのくらいの汗をかくのだろうかと思います。汗をかきやすい体質になっているのかもしれません。ただ汗をかいた方が身体が動きやすくなるのも事実です。木を彫って6時間。粘土を「たたら」にして1時間。そんな具合の一日です。気が急いてもこれ以上作業すると長続きしません。余力を残して終わるというのがいいのです。自分はこんな制作活動に幸せを感じています。ストレスは皆無、一日仕事をした後の充足感は何にも変えられません。創作欲しかない日常はいつまで続くのか、でも完成に近づくにつれ緊張が高まり、言いようのない不安に襲われることもしばしばあります。創作である以上これは仕方のないことですが。                          Yutaka Aihara.com

粘土の荒練り

久しぶりに粘土を練りました。この夏に陶彫のランプシェードや香炉を作ろうと決めていたので、粘土の荒練りをしました。このところ木彫ばかりやっていたので、粘土とは新鮮に向き合うことができました。菊練りまでやったところで今日は終了。成形は次回。作業場は荒彫りした木の柱と荒練りした粘土があって、制作がいよいよこれから佳境に入るという感じです。しかし空調の無い作業場の暑さは容赦なく、あれもこれもやるには身体がついていきません。粘土の荒練りもやっている途中から汗が噴きだし、Tシャツを何枚も替える始末です。こんな湿気のある蒸し暑い中での作業ですが、陶芸の粘土にとっては好条件で、ゆっくり乾燥するため失敗が少ないのです。最近の都会生活では考えられない厳しい環境は、まさに日本の夏そのもので、そうした風土に育まれた木彫や陶芸をやっている自分は、自然に逆らわずに制作しているのではないかと妙に納得しています。