カッパドキア奇岩群

カッパドキアを知ったのは学生時代に神田の古本屋街で立ち読みした古い美術雑誌に掲載されていた白黒写真からでした。地球上のものとは思えない不思議な世界に驚いて、思わずその古本を買ってしまったのでした。そのカッパドキアに1985年に行きました。まさか自分が写真で見た不思議な空間にいるとは信じられないくらいでした。トルコの中央アナトリアに位置していて、奇岩群にキリスト教徒が住み着いた場所があり、その人的に開けられた窓や扉がアートな空間を作っていました。ともかくカッパドキアという傑作な地名と独特な景観に身も心もすべて取り込まれ、現実とは思えない空間に酔ってしまいました。夢うつつな時間が流れ、近くに宿を取り、日暮れていく幻想空間にまた酔っているうちに、景観の精粋が心身にしみ込んで、ようやく次の場所に移動しようという気がおきてきました。ここで食べた奇岩のカタチをしたスイーツの強烈な甘さを舌に残しつつ、カッパドキアを後にしました。

ハマム体験記

トルコで一度は行ってみたいと思っていたのが、公衆浴場(ハマム)でした。カッパドキア観光のついでに寄ったユルギュップという小さな町で、このハマムを体験しました。公衆浴場と言っても日本の浴場とは異なり、腰巻をつけて、大きな平たい石の上に横になるというもので、石の下から熱が伝わって温かくなる仕組みになっていました。かなり身体が火照ってきたところに腰巻をつけた男が現れて別室に通され、身体中に石鹸をつけられてゴシゴシこすられました。この男は日本で言う三助で、自分の身体が揉みくちゃになるほど洗いました。もうこの体験はこれで充分と思いました。男女は時間で入れ替わるそうで、トルコの人にとってはリラックスタイムなのかもしれません。

2つの地下都市

トルコの地下都市を訪ねたのは20年以上も前のことなので、記憶が徐々に風化しています。訪ねた地下都市の名称はカイマクルとデリンクユでした。どちらがどうだったか忘れてしまいましたが、蟻の巣のように地下へ続く洞窟を地元の少年が案内してくれました。入り口には巨大な円形の石の扉がありました。この扉を転がせて入り口を塞いで、外敵から人々の暮らしを守るようになっていたのですが、扉がオブジェのように見えました。地下は8階まであって、ワインの製造所や教会などがあり、とくに印象的だったのは教会の床が十字架の形になっていたことです。通気口もありました。自分は狭い所が苦手で、人一倍圧迫感をもってしまうのですが、この地下都市では興味が先立って、閉所に対する強迫観念が吹き飛んでしまいました。それどころか自分の創作にこの地下都市の造形を取り入れられないものか、真面目に考えていました。そのくらいインパクトのあるひと時でした。

円形劇場の景観

自作に「発掘〜円形劇場〜」という陶彫レリーフがあります。HPのギャラリーにアップしています。ヘレニズム時代の遺跡をトルコやギリシャを訪ね歩くうち、円形劇場の見事な景観に心が奪われました。トルコのペルガモンは山の急傾斜にあり、眼下に広がる壮大な風景を舞台背景にして演じられるドラマはさぞ楽しかったであろうことが偲ばれます。エフェソスの円形劇場も巨大で、擂り鉢状の観客席から見える一本道が港に続いている景観に感動を覚えました。港から舟で来た人々がエフェソスに入ると円形劇場が真正面に見える演出に、当時の人々はこの都市の高度な文化を見たことでしょう。とにかく劇場は中心になる舞台に向かって円形の観客席が作られているので造形物としても極めてまとまりのある構造をもっています。張りつめた空気をそこに留めてしまう要素があって、遺跡としてもつい注目してしまうのです。それが発想の源になって、HPにあるような作品が生まれました。

遺跡めぐり行脚

1985年晩夏、5年間住んだウィーンの住宅を引き払って、ヘレニズム時代の都市遺跡を見にトルコやギリシャに数ヶ月の旅に出ました。交通手段はもっぱらバスと徒歩でした。ヒッチハイクもしました。何といっても遺跡は町から離れた山や土漠にあり、日本のように観光化されてはいませんでした。トルコのペルガモンやサルデス、エフェソスを振り出しにクシャダス、プリエネ、ミレトス、デイデイマ、アンタルヤ周辺の遺跡などを体力の続く限り見て歩きました。もう20年以上前のことなので、地名は虚ろに覚えていますが、印象はゴチャゴチャになって、どこの遺跡がどうだったかはハッキリしません。ただ都市を形作った計画はどこも立派で、当時の景観を思い浮かべるだけでワクワクしていました。この時、しっかり刻み込んだ敷石だけの景観やわずかに残った柱が、自分の作品として生まれるのは10数年先のことです。当時そんなことを考える余裕がなく、全身で遺跡のある場所の空気を吸っていました。

鉛筆を削る

鉛筆は素敵な道具だと思っています。最近はものを書く時にシャープペンを使うことが多いのですが、こと美術に関してはやはり鉛筆が手にしっくりきます。美大受験の時から慣れ親しんだ習慣があります。まず、デッサンやエスキースを始める際は、カッターナイフで鉛筆の木の部分をぐるりと回しながら均一に削り、それから芯の先を適度な細さにしていきます。これは美術的な作業に入る前の儀式のようなもので、鉛筆を削りながら精神統一し、美術の世界へと自分を誘います。作業途中にあっても、鉛筆を削りなおすことで安息を得たりします。木彫の際の鑿研ぎ、陶芸の際の土練りに似て、創作へむけて自己を暗示にかける手段だと思います。電動鉛筆削りでは得られない感覚です。しだいに短くなって使いづらくなるまで愛着を感じます。手放す時には創造行為を一手に引き受けた様相になり、そうした鉛筆たちに感謝しています。

「20世紀美術探検」展

国立新美術館に行った際に「異邦人たちのパリ」展を観て、その後「20世紀美術探検」展も併せて観てきました。さすがに大きな企画展を続けざまに観ると疲れてヘトヘトになりました。「20世紀美術探検」展はモノとの関係を探る試みで、現代美術がまさにそこから始まったと言っても過言ではありません。既製品をアレンジしてアートにしてしまったマルセル・デュシャンやマン・レイをはじめ、モノ派と呼ばれる芸術家の作品や今を象徴するインスタレーションがありました。アールデコのデザインも並んでいました。とにかく膨大な作品がありました。全国の美術館からよくぞこれだけ集めたと思えるような作品群でした。一堂に会して眺めると物質が芸術に与え続けた影響を感じ取れずにいられません。刺激的な企画です。

「異邦人たちのパリ」展

六本木に国立新美術館がオープンしたので、東京に出るついでに立ち寄ってみました。美術館前面は総ガラス張りで曲面が大変美しく、館内もわかりやすい構造になっていました。土曜日ということもあって混雑はしていましたが、広い空間がとってあるのでゆっくり観ることができました。「異邦人たちのパリ」という企画展は、パリに集った外国人芸術家の作品を集めたもので秀作が揃い、なかなか見ごたえがありました。絵画ではピカソ、ミロ、モデイリアーニをはじめ、藤田、荻須といった邦人画家もありました。彫刻ではブランクーシ、ジャコメッテイ、ザッキンなど20世紀を代表する作家が並び、当時のパリの画壇は異邦人芸術家が支えていたのではないかと思えるくらい光彩を放つ人たちがいたように感じます。これはパリを芸術の聖地として巡礼した証ですが、現在はアメリカかドイツか、あるいはアジアか、むしろ芸術の聖地と言う神話を失っているのかもしれません。

変わり種の納豆

今日茨城県に住む陶芸家の佐藤さんから納豆の箱詰めが届きました。さすが茨城と言いたいほど、納豆の種類の多さに驚きました。自分は納豆好きなので、これは嬉しい贈り物です。納豆に大麦や蕎麦の実が入っているのがあります。北海道産黒豆、丹波黒豆、奥羽産の青仁青豆などを納豆にしているのも変わっています。明日から納豆三昧です。しばらくはトッピングをやめてシンプルな納豆を味わいたいと思います。納豆と味噌汁に米があれば、自分は満足です。今では贅沢な取り合わせかもしれません。味噌汁の味噌に凝った時期がありますが、料理次第で美味しくいただけることがわかって、これは家内の腕を信じることにしました。ジャガイモとタマネギの味噌汁に辛子の入った納豆が実によく合って、自分の好物のひとつです。納豆をかき混ぜながら味噌汁をすする時に、日本人でよかったと思える瞬間があります。

3月 あれから1年

3月になりました。このHPをアップしてから1年です。早いものです。先日、このHPのデザインや管理をしていただいている方々と打ち合わせを持ちました。今年はHPを充実させていこうという話になりました。実材で作品を作っている自分が、まさかネット上に自分の世界を広げることになるとは思っても見ませんでした。でもやってみると面白くて、いろいろ遊べそうで、ワクワクしてしまいます。アナログな作業をデジタルで処理をして別の作品に生まれ変わる過程を見てきて、今は作業と処理の両方を考えるようになりました。イメージはどんどん溢れてきていますが、まず手で作業をすることから始めるのは今までと同じです。大きな立体作品ばかりでなく、小さな作品や平面作品、コトバに至るまで世界を展開していきたいと思っています。

パムッカレで失くした結婚指輪

TBS「世界遺産」を見ていたらトルコのパムッカレが映し出されたので、思わず声を上げてしまいました。20数年前にあそこにいた、と家内に言ったら、私はあの古代都市ヒエロポリスで結婚指輪を失くしたのよ、と答えて、共有する思い出に浸りました。当時はバスを乗り継いだり、ヒッチハイクをしてトルコ全土を周っていたので、お互い痩せていました。指輪が指をスルリと滑っても不思議ではない状態でした。そういう私もどこかで指輪を失くしていました。パムッカレにいたのは夏の終わりでしたが、日照りが強く、皮膚の皮が剥けました。テレビを見ると観光客の行動がかなり制限されているようでした。私たちはあの石灰の棚に降りて流れる温泉をバシャバシャさせて、どこでも入っていけました。保存状態が悪化している解説を聞いて、この20数年の歳月を考えてしまいました。

ボスフォラス海峡のフイッシュバーガー

イスタンブールで病みつきになった料理はフイッシュバーガーでした。それも獲れたての魚をその場で揚げて、パンに挟んだ野趣あふれるものです。それはヨーロッパとアジアを繋ぐボスフォラス海峡のガラタ橋近くに舟を横付けして売っていました。長いウィーン生活で魚に飢えていたせいか、その美味しさは筆舌に尽くしがたいものがありました。日本から直接行ったのでは、あの感動はなかったと思います。フイッシュバーガーは朝夕食べていました。港の広場では魚売りの他に水売りがいたり、演歌のように聞こえるトルコ歌謡を売っていたり、面白さに溢れていました。ガラタ橋を何度も行き来して、ヨーロッパとアジアを堪能しました。アジア側にウシュクダラという地名があって、日本の歌謡曲になっていたのを思い出し、行ってみたのですが、なんでもない普通の住宅街でした。

キリムの魅力

イスタンブールに着いた初日に手に入れたキリムはかなり大きくて、これを巻いてリュックの上に括りつけて行動することになりました。数ヶ月の旅を考えると重荷でした。もともとキリムは遊牧民のものなので、野宿もできると思いつつ、色彩と文様が織り成す土産に心が躍りました。買ったキリムは自然染料と化学染料が両方使われているようで、自然染料の部分が古く、そこに化学染料で修復したものです。アンテイックなものはかなり鑑定が難しくて数多く接しないと判断できません。それより自分の美意識に頼り、色彩や文様が好きになったものを買うのがいいと思います。自分が買ったキリムは紅色と黄緑の補色があって、パウル・クレーの抽象絵画のような印象です。文様も幾何的なカタチがモザイクのように続くのですが、修復のせいか途中で色彩が変わり、不思議なグラデーションがあります。完璧なものというより、継接ぎだらけの面白さに溢れています。骨董価値のある工芸品として見るより、アートとして見た方が楽しいし、生活雑貨として使ってこそ心が豊かになると思います。

バザールのキリム商談記

1985年夏にウィーンからイスタンブールへバスで深夜に乗りつけて、閉まったホテルの玄関前に野宿した後、バザールに見物に行きました。イスタンブールは混沌とした賑やかな街でした。絨毯商は皆そろって日本語が上手なので、日本人がよく高価な絨毯を買っていくのは明白でした。例外なく私たち夫婦のところにも絨毯商が現れて、店に連れて行かれました。自分はキリムの美しさにウィーンにいた頃から魅かれていたので、これ幸いに商談に応じました。値切って買ったキリムでしたが、その時のノリで買ったようなもので、よくよく見ると気に入らない代物でした。美術をやっている者としては、どうしても許せなく後悔していると、家内が返してこようと提案しました。店に行くとチャイを飲みながら絨毯商たちが売り上げに談笑している様子でした。そこへ私たち、もう一度仕切りなおしをして欲しいと言ったものだから大騒ぎになりました。金を返せ、いや駄目だ、だったら別のものを見せろ、と散々こちらも捲くし立て、結局ランクの上のキリムを手に入れました。その後、もう一度店に行ったら、もうお前には売らないから出て行ってくれと言われました。これは一度買ったものにいちゃもんをつけたのですから、こちらのルール違反。でも混沌とした街にあって頭も心も吹っ飛んでいたので、こんなエピソードとともに満足も買うことができたのではないかと思っています。

ウィーンからイスタンブールへバスの旅

20歳代の終わりにウィーン生活を切り上げて帰国することになり、美術アカデミー修了を待って、数ヶ月の旅にでることにしました。1985年の夏から冬にかけてのことです。当地で生活費を賄っていたので、そんなに金銭的なゆとりがなく、それで思い立ったのが外人労働者が帰省するバスを利用して他国を周ることでした。ウィーンからトルコのイスタンブールまで行くバスがあることを調べて、これに乗ることにしました。当時ソビエト連邦を中心とする東欧諸国があって、それぞれの国に入るためビザが必要でした。旧ユーゴスラビアやブルガリアを通過するので、大使館に行って面倒な手続きをしてきました。バスは満員で、しかも一日では辿り着けず、休憩のたびに2人の運転手が客全員の手に香水を振りかけ(サービス?)、車中は中東の独特な音楽が流れ、昼も夜も走り続け、真夜中にイスタンブールに到着したのでした。観光バスではないので、ホテルの営業時間などに配慮もなく、夜中の街をさまようことが旅の第一歩になりました。

彫刻と写真のコラボレーション

カメラマンとの共同作業である図録の打ち合わせを持ちました。前にブログに書いた記憶がありますが、これは自分の作品をカメラマンが自分の言う通りにただ撮影したというものではありません。撮影者にも個性や主張があり、そうした意図が撮影に反映して、自分の作品であって自分の作品ではない世界が現れてくるのです。これは作者である自分には新鮮な驚きです。こういう視点から撮影したというものが、自分のさらなる意欲や次の創作に向かうヒントを与えてくれるからです。人の解釈によって、これほど刺激を与えられることはありません。まさにコラボレーションをしていると言っていいくらいです。そんな人に助けられながら制作をしているのだということを改めて考えた一日でした。

地下遺構のイメージ

4月の個展に発表する「発掘」シリーズはテーブルを大地と見立て、テーブルの下に埋没している世界を表現しています。いわゆる地下遺構です。このイメージはずい分昔からあって、20歳代終わりに旅したトルコの地下都市に想を発しているように思います。当時、蟻の巣のように掘られた地下へ続く洞窟にかなり驚いてしまいました。自分は少年期から閉所が苦手で、長く閉じ込められていると、その窮屈さで強迫観念に襲われることがあるのです。そうしたトラウマを一気に克服できたのはトルコにある地下都市だったと思います。しだいに記憶がなくなりかけているので、近いうちにトルコで見た景色や風物をこのブログに書き留めておこうと思っています。あの当時数ヶ月にわたって旅したトルコやギリシャは自分にとって今に至る作品の源になっていると思うからです。

映画に見るアート

昨日のブログに書いたギーガーのデザインによる「エイリアン」は、ドラマもさることながら、画面に現れる密閉された空間に不思議な美しさを感じさせます。老朽化した宇宙船は錆びた色合いの機械が並び、さらにエイリアンによって生物化した鉄のような素材が、古代生物の背骨を思わせて目を引きました。自分は「バットマン」のゴッサムシテイも大好きで、アールデコ様式の都市にバロック様式の彫像を混在させ、暗い色調で統一した画面は妖しい魅力に溢れています。ヨーロッパで生み出された様々な建築やデザインの様式をドラマの味として使ってしまうハリウッド映画は、理屈抜きで楽しめるエンターテーメントです。こんな情景を作ってみたいと思ったアーテイストが自由に作った世界で、CGも含め、現代美術が獲得した美意識が多様に表れていると思います。

バイオメカノイド・アート

H.R.ギーガーという強烈な個性をもつ画家を知ったのは、「エイリアン」の映画を通してでした。彼はキャラクターを初めとする宇宙船内部全体のデザインを手がけていました。そのメカニックで生々しい表現は、性的であり暴力的であって他の追従を許さないほどの圧倒的な迫力がありました。20数年前にウィーン幻想派の洗礼を受けた自分には、E.フックスの世界に近いものを感じましたが、悪魔的で荒廃した機械文明を正面切って見せた人はギーガーをおいて他にはないと思いました。ただグロテスクなだけでなく、デザインの部分には大変美しいカタチのリズムやコントラストがあって、それが芸術性を高めているのではないかと感じています。画集の解説ではこれをバイオメカノイド・アートと称していました。リアルというより奇妙な作りモノの世界ですが、楽しめる要素がいっぱいありそうなので、一度スイスにあるギーガーの美術館に行ってみたいと思います。

夢で見た資産と投資

夢はほとんど見ないし、見ても朝起きると忘れてしまうので、それに心が囚われることはありません。でも最近見た夢でかなりハッキリ覚えている情景があります。20数年前暮らしたウィーンの旧市街を日本人の女友達と歩いていて、シュタットバーン(市街電車)の走る高架下の店で、彼女が宝くじのようなものを買い、見事に当選した夢でした。その女友達はウィーンにも来たことのある大学の後輩で、この大金をどうしようかと考えあぐねた結果、私は1階にギャラリースペースのあるビルを彼女に買わせ、不動産業で生計を立てながら画廊経営をやったらどうかと提案したのでした。ビルの上階を賃貸住宅にしておけば、画廊では売れない現代美術を扱うことだってできるし、この大金はそのための投資なんだと彼女を説得したのでした。妙に現実的な夢で、彼女に羨望を抱く自分がいました。夢だとわかっても今も忘れられないインパクトをもっています。

制作の休養日

制作活動で休養を取ったのは正月以来です。叔父の四十九日の法要があったおかげで、ゆっくり休むことが出来ました。実際昨日の撮影のための作品の組み立て作業で、身体中が筋肉痛でした。朝起きるのもシンドい日で、気持ちもイライラしていたので、これは休まなければいけないと思いました。2月1日から始まっている365点の小作品も今日は休み、コンセプトに反して明日は2枚描くつもりです。毎週末は作品の構想を練ったり、作業をしたりして過ごしているので、ウイークデーの公務員の仕事よりキツいことがあります。公務員としての自分は左脳を使い、彫刻家としての自分は右脳を使っているので、ストレスはないと自分に言い聞かせてやってきたのですが、ちょっと驕りすぎでした。明日からまた頑張ろうかな。

図録撮影の長い一日

昨年は2月5日でした。今年は今日が個展のための図録撮影の日になりました。昨年と違い、組み立てに時間のかかる作品なので、今日は長く、それでいてあっという間に終わった一日でした。「発掘〜円墳〜」が午前中、小さい作品が昼ごろ、午後から「発掘〜地下遺構〜」。カメラマンとのコラボレーションと言っていいくらい濃密な時間を過ごしました。梱包から出して、作品を組み立て、また梱包するというのは疲れる仕事です。教え子が2人、気持ちよく手伝ってくれました。こういうスタッフがいて、また丁々発止のカメラマンがいて、自分は何とか彫刻をやっていけるんだと今日も改めて自覚しました。撮影した画像はこのHPにもアップする予定です。疲れた一日でしたが満足も得られた貴重な日でした。

再びコトバとカタチについて

このHPを始めた時に、ギャラリーのページに造形作品とともにコトバを添えることにした経緯を、前のブログに書いたような気がします。添えるというつもりだったのが、詩作となり、作っているカタチと同等な存在になってしまいました。現代詩は高校時代から親しんでいて、「ユリイカ」などを読んでいましたが、いざ詩を書くとなると構えてしまったり、技巧に走ったりで恥ずかしいばかりでした。詩を作る行為は10代で諦め、彫刻を作る行為は20代から始まったと言えます。今は不思議なめぐり合わせで、コトバとカタチが両輪となっています。でもコトバは頭を捻ったり振ったりしながら書いていて、それでも気に入らず、10代で放棄したままになっているのかと思うほどです。どうしたら詩人は最初の1行が出てくるのか、行をかえると、ハッとするコトバに生まれかわるのか、何とも不思議な文才です。空間の中で彫刻の表現がさらにシンプルに深く練られていくのと同じで、詩も練られていくものなのかなと思います。

花粉症とのつきあい

30代で花粉症になって、もうずい分長いつきあいになりました。初めの頃は鼻づまりとクシャミ、喉の異変、目の痒さで生きていくのが嫌になったほどでした。年によって多い少ないの差はありますが、加齢とともに花粉症は少しずつ楽になってきました。今年は朝起きるとクシャミが始まるのですが、その時間帯を過ぎれば普通の日常生活になんら影響を及ぼすものではありません。ただし、梅や桜が咲き出すと目が痒くなるという記憶のすり込みがあって、相変わらず花見を楽しめない自分がいます。今、横浜は梅が満開ですが、鼻をすすりながら、花を横目でみながら出勤しています。

「発掘〜地下遺構〜」について

「発掘〜地下遺構〜」は、「発掘〜円墳〜」と同じ4月の個展に出品します。「発掘〜地下遺構〜」は4畳大のテーブル彫刻です。テーブルの上の部分には陶彫で作った階段を大小のブロックに分けて配置します。階段は地下へ誘う方法として考えました。建築模型ではないので、きちんと地下につながるものではありませんが、地下を暗示するモノとして階段の造形を利用しました。トルコを旅した時に見た地下都市にも階段があって印象に残りました。人が住むところに階段はつきものです。ギリシャの島々に点在する街にも階段があって、街がひとつの造形物のように感じます。そんな階段のもつ面白い構成に魅かれ続けています。「発掘〜地下遺構〜」はテーブルの下の造形に比べると、テーブルの上にある階段部分が整理されていないと思っています。4月に改めて銀座のギャラリーで見て、課題として今後も考えていくつもりです。階段の造形はまだ継続し発展させていきます。

「発掘〜円墳〜」について

「発掘〜円墳〜」は、4月の個展に出品する作品のひとつです。作品をテーブルにするアイデアは新しいものではありませんが、テーブルの下に陶彫ブロックを接着する作品は初めてだろうと思います。テーブルの下にあるものは地下に埋もれている造形と考えて、こうした構成を思いついたのです。地下となれば墓地のイメージになるのは、ウィーンで見たカタコンベの影響かもしれません。ドーナツ状のテーブルが最初のイメージにあったので「発掘〜円墳〜」という題名にしました。テーブルの上に出ている部分はわずかで、むしろ下の部分に塊としての造形があります。テーブルの上を爪先立って見たり、下に屈んだりして見る彫刻です。約40個の陶彫ブロックで構成されているので、組み立てに手間がかかります。そんなわけで集合彫刻は展示するのに時間がかかるので、きちんと写真に撮っておきたいのです。今週末に組み立てて、カメラマンに撮影をお願いする予定です。

枕木のアートリサイクル

4月の個展にはテーブル彫刻2点を出品する予定です。昨日から作業場に運び込んできた部品を確認しながら梱包を始めています。テーブル彫刻のテーブルを支えるのは枕木です。ガーデニング用品として売られていたものを、これはアートになると感じて購入しました。枕木は線路の下に使われていたので、楔を打った跡が残り、さらに風雨に晒されて朽ち果てた箇所があったりしてとても魅力的な素材です。これをそのまま使うことはせず、ガスバーナーで炙って煤をすり込んで黒くしました。今回梱包から出してみると煤がかなり散らばっていました。今日は黒い塗料を染込ませて、さらに深みを出しました。年輪や節の穴が何とも美しく、陶彫と併せると生きてくるような気がします。本来の目的を果たしたモノが別の世界で生まれ変わるのは素晴らしいことだと思っています。アートになるモノはもっと他にもあるはずです。ピカソが試みたようにアートリサイクルをさらに進めていきたいと思います。

個展準備 集合彫刻

今日は昨日運び込んだダンボールから陶彫の部品をすべて取り出しました。作品は数十個の陶彫をボルトでつないで集合体として見せるもので、1つの作品には様々な部品があって、それらをすべて確認する必要があります。テーブル形体になるので、まず柱になる古木。これは枕木をガスバーナーで炙って煤をすり込んだものを使っています。いわばリサイクル。次にテーブルの天板になる厚板。これは最近作った「構築〜包囲〜」と同じで、砂でマチエールをつけたものに油絵の具を塗りこんだもの。そこにテーブル上下にボルトで接着する陶彫ブロックが数十個。ダンボールやら梱包材やらで作業場はたちまちあふれかえり、古くなったダンボールは畳んで重ね、梱包材は丸めてゴミ処理場へ。今日も昨日に続き、制作とは関係ないところで疲労をしています。明日も継続かと思うと気が重い連休です。

図録準備のための作品運搬

軽トラックをレンタルし、作品置き場と撮影場所との間を何度も行き来しました。ギャラリーせいほうでの個展に向けて、新しい図録を準備するためです。撮影日は今月17日(土)。そのために1週間早く作品を運び込み、作品の保存状態を確認したいと思っています。修整があればこの1週間で行うつもりです。図録は昨年作ったデザインをそのまま踏襲して見ようと思います。ただ作品の大きさや構造が違うので、組み立てやら梱包が昨年より手間取るのではないかと心配です。作品置き場から出してきた作品は、ダンボールの箱にいくつも分けて入れてあって、そのダンボールはボロボロになっているものもありました。もう一度梱包しなおしです。それにしても自作とはいえ、何年か前に箱詰めした量の多さに疲労を覚えました。もう一度やりなおすと思うと気が重くなります。明日からぼちぼち始めることにします。

365点 落書きのように

365点の連作は昨日のブログに書いた通りですが、始めて9点目にして苦しくなってきました。まだ習慣化していないこともありますが、毎日新しいことを発想しようとしても、結局昨日描いた作品の亜流になっています。前の作品に囚われすぎるのかもしれません。この苦闘が有効なのはわかっていますが、並べてみると全て同じ作品に見えます。日々繰り返している労働で発想が乏しくなっているのでしょう。この365点の連作に振り回されてはいけないと思いつつ、何とか楽しめる状態にならないかと次は頭を振り回しています。気楽にやろうと思っても、なかなか出来ないのは、今まで大きな彫刻をやっているという構えがあったからだと気がつきました。ミロやピカソのように、または幼児のようにリキむことなく描ける素晴らしさ。落書きと自分に言い聞かせて、また明日から始めます。

365点の連作について 

昨年のブログに「365個で構成する作品」(2006.8.10)というアイデアを書きました。これは立体、とくに陶彫が頭にあったのですが、2月から始めている作品は葉書よりやや小さめの平面作品です。これなら毎日気楽に作れるかなと思ったのです。陶彫や木彫で日々どちらかといえばモニュメンタルな作品を作っているのですが、これはそうした立体作品の対極にあるポケットサイズの作品で日記のようにやっていくつもりです。事象の捉え、思弁的なもの、技法の実験など普段やりたかったことを全てやってみようと思います。テーマの一貫性はありません。発表するかどうかも微妙です。とにかく1日1点。好調不調に関わらず1日1点。多忙でも暇でも1日1点。楽しくても悲しくても1日1点。来年の1月31日がゴールです。さて、どうなるものやら定かではありませんが、何はともあれ1日1点です。