「発掘~座景~」土台修整

毎晩というわけではないのですが、最近はかなりの頻度で夜の工房に通っています。それだけ新作の完成ハードルが高いのです。夜の工房では電動工具で音を出すことを止めています。工房は亡父の残してくれた植木畑にあり、その周囲には閑静な住宅が広がり、夜は物音ひとつしない静寂に包まれています。夜の工房で出来ることは手作業による限られた仕事ですが、現在は「発掘~座景~」の4枚の厚板による土台の修整をやっています。この4枚の厚板の表面は砂マチエールを施してあって、残りの作業としてはここに油絵の具を染み込ませていくのです。これは作業としては創作に絡む部分です。その厚板の裏側は木材が捲れているところが随所にあって、そこの修整が必要になっています。これは創作の絡む部分ではありません。しかも展示したときは見えない裏側ですが、木工パテで修整をし、防腐剤を塗る作業があります。私の作品は長い時間の保存や保管を考えて、このような措置をしているのです。素材が石や金属の場合は、野外に剥き出しで設置する場合もありますが、木材の場合は防虫や防黴を考えて、しかも梱包したまま室内で保管するのです。先日から始めた裏側の修整ですが、木工パテが足りなくなって、昼間の仕事の出張途中で店に立ち寄り購入してきました。引き続き夜の工房に通うつもりです。

散歩から発想する造形

もう30年も前の話ですが、ウィーン国立美術アカデミーに通っていた私は、憧れの留学が叶ったにも関わらず、現地の学生となかなか馴染めず、ドイツ語を使うのも億劫だったため、語学は一向に身につきませんでした。私は外向的ではないことを実感し、アカデミーの工房で石膏直付けをやりながら、早めに学校を出るのが日課でした。イリーナという女子大生からよく声を掛けられていたのに、今一歩積極的になれなかったのは今思うと残念でした。当時の私の精神安定剤は旧市街の散歩で、路地という路地は隈なく歩きました。西欧の街はどこも散歩に適していて、石畳や石壁が織り成す風景に絶妙な情緒を感じました。上塗りした壁が崩れたところから古い壁画の一部が見えたりしました。西欧の街並みは風化した壁面が美しいのです。西洋絵画に見られる遠近法や陰影の捉えがこうした風景から発想されたのだろうことは明らかです。学問に見られる西洋流の構築的な論理も住環境が影響していると思っています。私の造形イメージは散歩によって培われたと言っても過言ではありません。構成する壁の角度、建造物の装飾や都市の計画性など風景の断片が、知らず知らずのうちに自分の中に取り込まれていたのだろうと思います。鬱積した不安を抱えながら、風景を取り込む意図などなかった当時の自分ですが、ウィーンの旧市街が土台になり、その後トルコ・ギリシャのエーゲ海沿岸で遭遇するヘレニズムの遺跡の数々が、現行の「発掘シリーズ」を導き出しました。石造を陶に替えて、単体ではなく集合体で場を創出する自作がこうして誕生したように思います。

3月RECORDは「こわす」

芸術家として破壊と創造を繰り返したのは、有名な人物として20世紀の巨匠パブロ・ピカソが上げられます。ピカソの創作の現場を追ったドキュメンタリー映画を観たことがあり、そこで画面に展開する破壊のエネルギーに感銘を受けた記憶があります。私は長い時間をかけて培った自己表現や技法をなかなか棄てられません。次なるステップにするための破壊は重要なものとわかっていながら、従来の表現に固執してしまう弱さが私にはあります。方向転換はいずれやってくると思いながら、日々制作を続けているのです。嘗ては人体塑造から抽象性の強い集合彫刻へ転換を図りましたが、次のステージはどんなものなのか、未だに見当すらつきません。一日1点を制作するRECORDの今月のテーマを「こわす」に決めました。破壊からイメージされることを日々具現化していこうと思って、現在取り組んでいる最中です。前述した内なる破壊もありますが、それとは別に貴重な人類遺産が戦闘により破壊されるのは、目を覆いたくなる事態です。それは創造を生むための破壊とは違います。人類の資料残存を無にするための破壊行為です。「こわす」という意味にはさまざまな人間の意図や状況があって、一概に言えないニュアンスを含んでいます。今月も中旬に差しかかりましたが、一日1点のRECORDを継続していきます。

週末 佳境を迎えた新作

朝から工房に行きました。今日もスタッフが来ていて、いつも通りの制作風景でした。今日は「発掘~宙景~B」のテーブルに吊り下がる陶彫部品のうち、2段目にあたる部品の成形をやっていました。「発掘~宙景~A」の陶彫部品は2段目まで出来ています。1段目6個、2段目6個のうち焼成が終わっているのは1段目6個と2段目の2個です。あとの4個は乾燥を待っていて、そのうち窯に入れていきます。「発掘~宙景~B」の方は、1段目の6個は焼成まで終わっていて、今日から2段目の成形を始めたのです。こうして書いていくと、順調のように思えますが、今後の制作工程を考えると、かなり厳しいものがあって、内心では焦っています。またウィークディの夜に工房に通わなければならないかぁと思っています。まさに佳境を迎えた新作ですが、ウィークディの仕事も来年度人事を考えなければならず、双方共にタイトな状況です。明日からの1週間は公務員としての仕事も佳境を迎えると言っても過言ではありません。こうした緊迫する時間を過ごすことは、実は自分は嫌いではありません。精神が次第に鋭くなっていくのですが、不思議なことに周囲のこともよく見えるようになるのです。自分が追い詰められた状態で、視野が広がることを発見できたことは幸いでした。疲労も忘れてしまうのですが、これは尋常なことではないと思っています。身体が休息を求めていることは確かだからです。今日も夕方4時まで作業をすることがシンドくなり、早めに工房を引き上げました。明日からの1週間を頑張れば、来週末は香川県高松市の「イサムノグチ庭園美術館」へ行く予定になっています。これが楽しみで、現在のタイトな状況を何とか乗り切ろうと思っています。

週末 工房で黙祷

今日は昨日開催した大きなイベントの疲労が残る一日でした。スタッフが2人来て、工房でいつものように制作が始まりましたが、今日という日は防災を考える特別な日でした。ちょうど6年前に東日本大震災があり、毎年この日は黙祷を行っているのです。3月11日がウィークディの場合は、職場の放送機器を使って施設内外に黙祷の放送を流していました。今日のように週末にあたっている場合は、職場では職員玄関に弔旗を掲げています。工房でも震災が発生した14時46分に、スタッフ2人と私とで黙祷の時間を設けました。6年前は私は管理職になっていて、施設内にいる人を集めていました。行政本部からの指示を待って、深夜に歩いて帰宅をしました。帰宅困難者が道に溢れていました。有事があった場合、私たちはどうすればいいのか、途方にくれる場面もありました。防災に対する意識が高められたのは東日本大震災が契機になったと言えます。6年前、スタッフのうち一人は大学1年生で、長い春休みがあって自宅にいたようです。その彼女も今月で大学院を修了することになりました。もう一人の中国籍のスタッフは、故郷の山東省にいて、国際ニュースで日本の現状を知ったようです。放射能汚染によって多くの外国人が本国へ帰る中で、彼女は日本にやってきました。その年は留学生が減少したと彼女は言っていました。その留学生だった彼女も現在美大で助手を勤めています。あれから6年が経ち、防災備品を見直したり、有事の際に自分を守るためのシュミレーションをするようになりました。今日のところは制作は遅々として進まず、疲労回復を待って、明日に制作を繋ごうと思います。

年度末の祝祭的儀式

私の職場には、年間を通して幾つかの儀式や行事があります。橫浜市公務員として、こうした活動がある職場が、どのような職種かを思い浮かべるのは、想像に難くないところですが、情報の拡散を恐れて、敢えて具体的な職種は伏せさせていただきます。私は管理職として式辞を申し述べる任にあり、その内容をいろいろ吟味してきました。原稿に手を加えれば加えるほど内容は退屈なものになり、私の式辞など誰も記憶に留めないのかなぁと虚しい思いに駆られつつ、それでも伝えたい内容を絞り込んできました。今年のキーワードは、グローバルな社会で生きるために、ということにしました。韓国の留学生が日本で体験したことを新聞記事で見つけ、その些細な出来事を紹介しながら異文化交流の内容をまとめてみました。折しもアメリカの政権が変わり、自国保護に舵を切ったことや、難しいアジア情勢や、移民の問題も含まれていますが、政治色は私の職場に馴染まないので、人権的な他者理解に的を絞り込んだのでした。年度末の祝祭的儀式は大成功を収めました。私の式辞など吹き飛ぶような大きな全体のパワーがあって、この成果に満足しました。全職員との夜の親睦会もありました。私の仕事はいよいよ来年度人事を残すだけになりました。創作活動も公務員管理職としての仕事も山場を迎えて、息がつけない状況になりました。

西欧思想に於ける芸術の意味

現在読んでいる「芸術の摂理」(柴辻政彦・米澤有恒著 淡交社)には、「美学と倫理学」という章があって、西欧思想による芸術の成り立ちを解説した箇所があります。美学史的論稿という副題がつけられている米澤有恒氏による文章です。私は哲学の中で論じられる美学や芸術に関して興味関心を抱いているので、とつおいつ論稿を読ませていただきました。美学は18世紀に生きたドイツの思想家バウムガルテンによって創始されました。美学とは何か、「可知的なもの、すなわち上位能力によって認識されるものは論理学の対象であり、可感的なものは感性の学として美学の対象である。」という一文をネットで見つけました。つまり美学は知性ではなく感性を扱う学問だと言えます。それを哲学者カントは自著「判断力批判」の中で、しっかりとした基礎づけを行いました。カントによると美学は「自然美の哲学」であり、批判主義的な「神学的美学」でした。そこにヘーゲルの提唱した「芸術美の哲学」が登場したのでした。米澤氏による文章を引用いたします。「(ヘーゲルは)芸術が模倣に留まることを戒めている。受動的に模倣するだけでは、自然を不定の美のままに放っておくに等しいからである。~略~人間の精神は現状を打開してよりよいもの、よりふさわしいものへと向かう、つまり本質的に創造的、前進的だからである。芸術が人間精神に不可欠な活動である以上、芸術が創造的なのは決まっている。たしかにヘーゲルの考え方は革命的だった。~略~ヘーゲルの思想はこの思想を人間精神に即して換骨奪胎し、それを完成させたことになる。『完成』の意味はこう、超絶的存在だった神を人間の精神へと内在化し、よってもって、人間精神を新たな絶対者、神の如きものに仕立て上げる結果になったからである。その次第を、ニーチェは『ヘーゲルは神を殺した』と弾劾し、神の不在の咎をヘーゲルに負わせようとした。」とありました。西欧思想に於ける芸術の意味が、こうした哲学の中から定義づけられてきていることを改めて認識し直し、その後、芸術が辿った道を顧みる機会にしたいと思います。

芸術と猥褻の狭間で…

映画「エゴン・シーレ 死と乙女」では、シーレが描いたデッサンがポルノグラフィーとして烙印を押され、13歳の少女を誘惑したとして、シーレは逮捕され、裁判にかけられます。裁判所は訴えを却下しましたが、作品は焼却されてしまうのが映画の場面に出てきました。シーレの例に限らず、芸術か猥褻かの議論はその後も続いていたことは近現代美術史を見れば明らかです。私が現在読んでいる「芸術の摂理」(柴辻政彦・米澤有恒著 淡交社)の中で、柴辻氏と米澤氏の対談が掲載されていて、米澤氏の語る言葉に注目しました。芸術か猥褻かの議論として、まず芸術派にはこんな主張があります。「『芸術』という自由な精神活動を『猥褻』といった卑俗な尺度で量るのは本末転倒もはなはだしい、芸術には特権的で超法規的な価値を認めるべきではないか、芸術に対する理解の広さと深さこそ、社会の文化水準を示すバロメーターである。」それに対する猥褻派の主張では、こうなります。「『芸術』といえども人間社会の文化的相貌の一つに過ぎないから、芸術だけに特権が与えられるいわれはない。社会の『公序良俗』に反するものは自ら慎むべきで、その制御もきかないようなものが芸術であるはずはない。」これは美学の立場から双方の食い違う意見を米澤氏が簡単にまとめたものです。主旨が分かり易いので引用しましたが、さらに猥褻に関する意見が続きます。「西欧では性的な問題と猥褻とは必ずしもイコールではありません。精神的な意味での猥褻もありうるからです。」西欧ではプラトンの「饗宴」からキリスト教に至るエロスの意味が、神の愛と人間の愛を区別するものとして扱われていますが、日本の場合はどうなのか、米澤氏の意見はさらに続きます。「日本ではエロスといいますと、対比する神の愛がありませんので、性的紊乱を煽って公序良俗を乱すだけのもの、エロティック、即ち猥褻という等式になってしまいます。」芸術と猥褻に関する議論でも、西欧と日本ではニュアンスが異なることが分かりました。芸術と猥褻の狭間で、その動機となった芸術そのものの成立を掘りさげてみたい欲求に駆られます。西欧に於ける芸術と神の関係を次稿で取り上げようと思います。

私の中のエゴン・シーレ

私がエゴン・シーレという画家の存在を知ったのは、「見えない彫刻」(飯田善国著 小沢書店)という書籍からでした。同書の初版が昭和52年なので、私は刊行後すぐ購入しました。同書にあった「予感的存在者としての…エゴン・シーレ」の章を幾度も読み返し、図版を眺めてみては、渡欧してオリジナルの絵画に会えるのを楽しみにしていました。1980年から5年間、私はウィーンに滞在してシーレ縁の国立美術アカデミーに入学しました。時代はウィーン幻想派の画家たちが教授職に就いていて、精神分析的な絵画が主流になっていました。ウィーンでは19世紀末のユーゲント・スティールと呼ばれる様式が、建築や美術を席巻し、その影響から発展した装飾的な作風が街中に残っていて、独特な美を形成していました。クリムトやシーレはオーストリア美術史の中で不動の地位を築いていました。さて、シーレはどんな人物だったのか、28歳の若すぎる急逝であっても、残された作品は数多く、その戦慄な絵画世界は私を一気に虜にしてしまいました。慣れない海外生活で精神不安定な日常を送っていた私が、シーレに惹かれたのは自然だったのかもしれません。シーレのことが知りたいと思ってもウィーンの書店で扱っている原書では読むのに時間がかかり、これは日本で改めて調べ直せねばならないと決めて帰国しました。「エゴン・シーレ 二重の自画像」(坂崎乙郎著)や「永遠なる子供 エゴン・シーレ」(黒井千次著)を読んで、自分の留学時の記憶と重ねて、シーレの実像に迫っていきました。心のバランスを崩すとシーレの世界がよくわかる、シーレの絵画には異常性が認められるのかもしれないと私は感じています。シーレが生きた時代は、芸術と猥褻の関係が漸く論じ始められていた時代であり、シーレの求めた世界は時期尚早だったのかもしれません。退廃芸術としてナチス政権によって廃棄させられた作品もあったでしょう。ともあれ私の5年間の滞欧生活は、クリムトとシーレによって刺激的で実り多いものになったと今でも思っています。

映画「エゴン・シーレ 死と乙女」雑感

先日、橫浜のミニシアターで「エゴン・シーレ 死と乙女」を観てきました。図録の中にあった「愛の不毛の中で、誰ひとり幸せにならなかった。ただ数々の傑作だけが残った。」(中野京子)というフレーズが目に留まり、感想としてまさにその通りだと思いました。エゴン・シーレその人を扱った映画は、フェーゼリー監督による1981年版があります。それが封切られた時に、私はシーレに関わりの深いウィーンの国立美術アカデミーの学生でした。シーレと独裁者ヒトラーは同時代人で、ヒトラーはアカデミーの入学試験に落ちていたのでした。シーレは教授陣に失望して中退したようですが、恥ずかしながら私は語学力不足による情けない中退でした。今回の映画ではシーレを取り巻くモデルを勤めた女性たちに主題がおかれているように思えます。クリムトから譲り受けたモデルのヴァリは、軽蔑される職業にありながら、愛の献身と覚悟があって見事な女性として演じられていました。図録の一文を引用します。「彼の恐るべきエゴイズムは、妻は妻として、愛人は愛人としていつまでもそばにいてくれるべきものだった。絵の中のシーレが、取り返しのつかぬことをしてしまったという眼なのはそれゆえだし、女を傷つけて女より傷ついているのもそれゆえだ。」(中野京子著)シーレの映画は愛欲の闇の部分を描く陰湿な物語になりがちですが、「エゴン・シーレ 死と乙女」ではシーレが踊り子モアと陽光の下で戯れたり、ヴァリと雪で遊ぶ場面があって青春を謳歌していました。心地よいバランスが全編にあって、それ故の死の恐怖が一層引き立っていたように思えます。次稿でシーレの絵画世界との出会いや思索を述べてみたいと思います。

週末 陶彫成形のやり直し

今日は朝から工房で制作に明け暮れました。スタッフは2人来ていて、それぞれの課題に向き合っていました。職場から絵を描きに来た職員も遅れて到着しました。今日の工房は賑やかでした。通常通りの制作風景でしたが、乾燥を待っている陶彫部品のひとつが罅割れをしていて、私はその作品を再度作りなおしていました。昨日タタラを作っておいたのですが、それを使っての陶彫成形のやり直しで、制作工程は足踏みをしてしまう結果になりました。陶彫に長く関わっていると、いろいろな場面があり、これも仕方がないと思うようになりました。罅割れた作品は焼成前なので、ハンマーで叩いて粉にして、水を打って陶土として再生しようと考えています。元通りにするには、かなりの時間を要しますが、陶土は無駄にしないように努めているのです。午前中は陶彫成形に時間を費やし、午後は土錬機を回して40kgの土練りを行いました。作業途中から作業着の下に来ているセーターを脱ぎました。気候は着実に春に向かって暖かくなってきているようです。喉も渇くようになりました。身体が動き易くなっているのも気候が緩んでいる証拠かもしれません。週末の創作活動はウィークディの仕事とは異なる神経を使います。ウィークディの仕事をしていると週末が恋しくなり、週末になってみると創作活動の厳しさにクタクタになってしまうのです。来週はまた夜に時間帯に工房に通わなければならず、RECORDやNOTE(ブログ)の時間が取れない日がありそうです。

週末 映画&工房での制作

3月に入って最初の週末を迎えました。今日は朝から横浜のミニシアターに出かけ「エゴン・シーレ 死と乙女」を観てきました。家内が1泊2日の小旅行に出かけたため、工房に出入りしているスタッフを連れて行きました。朝9時から映画を観るのは滅多にありませんが、明日で上映が終わってしまうので慌てて観てきたのでした。エゴン・シーレは19世紀末から20世紀初頭にかけて美術界を疾風の如く駆け抜けたオーストリアの画家です。しかも彼は28歳で夭折したのです。一般的に言えばまだ画学生と言ってもいい年齢です。私が嘗て在籍したウィーン国立美術アカデミーをシーレは早々に中退して、独自の道を歩み始めたのも束の間、スペイン風邪に倒れたのでした。シーレの映画は1980年製作の「エゴン・シーレ 愛欲と陶酔の日々」があります。ヘルベルト・フェーゼリー監督、マチュー・カリエール主演による映画で、私が30年も前に滞在していたウィーンで観ました。今回観た「エゴン・シーレ 死と乙女」はディーター・ベルナー監督、ノア・サーベトラ主演によるもので、セセッション館(分離派会館)そのものが登場しました。私がいた頃、同館は修復中で、帰国前に漸くクリムトの「ベートーベン・フリーズ」の修復が完成して、内部を見ることが出来ました。映画の詳しい感想やシーレについての雑感は後日改めて稿を起こします。映画を観た後、みなとみらい地区に移動し、大手販売店で木材等を購入してきました。午後は工房で陶彫制作のための準備を行いました。座布団大のタタラを掌で叩いて作っている時は、ウィークディの疲労を感じました。夕方になってスタッフを駅まで車で送って帰宅しました。明日は朝から陶彫制作に挑みます。

彫刻の抽象化について

日本では西欧から彫刻の概念が輸入されたのは歴史的には浅く、ロダンやブールデルに学んだ日本人彫刻家が、内面から迸る動勢やリズムを塊として捉えた人物像を制作していました。西欧の新鮮な空気を纏った具象彫刻に、学生だった私も影響を受けました。現存の公募団体に出されている彫刻作品よりも、初期の時代の、彫刻の何たるかを模索をしていた先人の作品に溌剌とした雰囲気を感じたのは、私ひとりではなかったと思っています。ただし、学校で習っていた私の作品は相当お粗末なものでした。習作とはよく言ったもので、全部破壊したい衝動に駆られたこともありました。本来なら具象を極める中で象徴化や抽象化に発展していく過程がありますが、極めてもいない具象から忽然と抽象化していくのは、如何なものだろうと思いつつウィーンの美術学校に在籍していた私は、悶々とした中で抽象化へ傾いていきました。それは段階を踏まない抽象化でした。現在読んでいる「芸術の摂理」に登場する石彫家中島修さんも同じではないかと勝手に思い込んでいますが、自分と同じオーストリアで制作を続けていた中島さんも幾何学的な形体を追求していました。中島さんは具象彫刻の巨匠柳原義達の愛弟子だったので、どこかの時点で具象から抽象に作風が移行したはずですが、そこは本人から聞いていないので詳細はわかりません。私の場合は美術学校で女性モデルの横顔を小さなレリーフで作った後、何の前触れもなく抽象形体を石膏で作り始めました。そこに自分の思索はなく、いろいろ試してみようとしたのではないかと述懐しています。作品を抽象にした意味合いとモチーフは制作途中で湧き上がってきました。当時頻繁に散歩をしていたウィーンの旧市街が構築性を持って私にイメージを与えたのでした。人物ではない街の雑多なモチーフが私を取り巻いていて、裏街の路地が構成要素となり、微妙な角度をもつ抽象レリーフに発展しました。遺跡のような出土品を思わせる現行の自作は、そんなところから始まったと思っています。

「中島修論」② 彫刻の周辺について

「芸術の摂理」(柴辻政彦・米澤有恒著 淡交社)の中島修論に「石が勝手に自己言及していって生まれた位相彫刻」という副題がついています。これはどういうことでしょうか。本文を引用します。「彼の話を聞いていて思うのだが、どうも、いったん彫を入れ始めると、おのずから体験的な一種の法則性が働いて、幾何学的な位相面が秩序よく展開し始めるようだ。結晶が造られていく時の、周期的な秩序と似ているみたいだが違う。しかも、斜角の異なる面と面が精密に繋がっている。あたかも、石が勝手に自己言及していって生まれる造形のようにも見えるのである。」これが中島さんの制作の秘訣でしょうか。30年以上前の自分の記憶を辿りながら、中島さんの工房の風景を思い出していますが、体験的な法則性に従っているということは、かなり失敗もあったのではないかと考えます。私の記憶の中の工房には、果たして失敗だったのか、これから作っていくのか定かではない中途半端な石彫も数多くありました。失敗は技巧的なものに限らず、原石の内部に皹が発見された場合もあることを中島さんから聞いたこともありました。こんな一文もあります。「水を使用する研磨ブース、水のタンク、変圧器、パイプ、ゴムコード、グラインダー、砥石、ドリル。『長靴をはいてカッパ着て、水飛翔との戦だよ。』~略~『この庇の下の土地ね。下から2メーターくらいあるけど、これみんな石のハツリ屑なの。そう長さ15メーターはある。屑ばかりたくさんつくったものだよ』~略~どれだけの石を刻んだのであろう。我を忘れた無心の地盤である。呆れた量だ。」彫刻を作っていく上での労働の蓄積。中島さんだけが纏っていた造形感覚。現代美術の潮流情報が入らない空間でひとり闘っていた孤高の石彫家。これら全てが私に勇気を与えてくれるものばかりです。制作現場を思い出すと共感できるものが多いのです。最後に本書のタイトルに絡む箇所を引用します。「中島修の『あたかも石が勝手に自己言及していって生まれた位相彫刻』の形体は、西欧の論理性を土壌にして、日本人である中島修が『自然の摂理』から導き出した、本来、不可視の『かたち』である。」

微妙な気分で迎える3月

再任用管理職として年度末を迎えています。若い頃の計画では、定年退職したら晴れて彫刻家を名乗り、創作活動に邁進すると考えていました。当時は作業場もままならず、個展さえ憧れの対象であった頃の話です。その頃培った造形イメージはまだ生きていて、その都度展開しながら現在まで継続している現状です。願えば叶うという信念は間違っていないと今も思っていますが、自分の創作欲がこれほど強いというのが嬉しい誤算でした。そうであるならイメージが枯れるのが早いか、命が枯れるのが早いか、自分の中で競うのもよいと思っています。腰はとっくに据わっています。今月は「発掘~宙景~」の陶彫制作に没頭していきたいと考えています。RECORDも継続です。今月の鑑賞はちょっと特別で、「イサム・ノグチ庭園美術館」から予約の返答が来ました。18日の15時に同館に入場します。今月は首都圏美術館でも大きな企画展があって楽しみです。映画にも足を運びたいと思っています。気分が微妙なのは、もうひとつの仕事である再任用管理職がどうなるのか、職場での異動が囁かれる時期になります。来年度人事にも関わる重要な1ヶ月になるため、私を含めて職場の動向を決めていくシンドさが漂います。職場では大きな式典も控えています。気忙しい1ヶ月ですが、健康に留意して過ごしたいと思っています。

熱い制作目標を掲げた今月

今日で2月が終わります。今月は寒い季節に熱い制作目標を掲げてスタートしました。今月は陶彫制作に加えて「発掘~座景~」のテーブル台座4点に砂マチエールを施す作業がありました。最終の週末に定めた作業日に何とか間に合わせるため、多少無理して制作をしなければならず、これが熱い制作目標になっていました。砂マチエールは計画通りに終わりました。これは工房スタッフのおかげですが、そこまで準備をしてきた自分も称えたいと思っています。その分「発掘~宙景~」の陶彫制作が遅れ気味になっています。来月の目標は当然「発掘~宙景~」の陶彫制作を猛然と進めていくことになります。まだまだ熱い制作目標になりますが、季節の変わり目なので体調のことも考えていきたいと思っています。何しろ来月は年度末で、再任用である私の処遇も決定します。微妙な気分を抱えたまま来月を迎えます。今月の美術鑑賞はありませんでした。映画は2本観ました。「沈黙ーサイレント-」と「アニメーションの神様 その美しき世界」でした。クオリティの高い映画を観ると本当に心が潤うと感じます。読書は「現な像」から「芸術の摂理」へ、また併行して「死者の書」も読んでいます。これもクオリティの高さを誇る書籍ではないかと思っています。RECORDはもちろん継続です。相変わらずRECORDは時間のやり繰りが大変です。夜の時間帯に工房に出かける日が多かったせいで、工房から帰ると睡魔に襲われてRECORD制作に支障が出るのです。集中力の限界という境地を幾度も体験しました。来月も頑張りたいと思います。

「中島修論」① 超多面体彫刻について

通勤の時に「芸術の摂理」(柴辻政彦・米澤有恒著 淡交社)を読んでいます。本書は2013年4月に76歳で亡くなった石彫家中島修さんの評論が収められているので購入したのです。中島さんはオーストリア国籍をもつ日本人彫刻家だったため、日本で作品を論じられることが少なく、作品をよく知る自分は、その凄さに圧倒されていて、もっと日本で評価されてもいいと思っています。本書の頁を初めから括ることはせず、まず中島さんの評論(柴辻政彦著)から読み始めました。著者の取材によって自分が知らなかった中島さんの経歴や生活事情もわかって、実はそれが自分の創作活動の励みになっています。まず、今回は中島さんの彫刻について本書から引用したいと思います。「位相幾何学の変換公理を見つけたかのごとき不思議な超多面体の、鉱物結晶のような作品を、次から次へ彫り出している。一般的にいう情緒性というものがほとんどないのである。~略~たったひとりでコツコツ探索した独自の造形思索、彫刻観、技法が秘められている。~略~現代彫刻家のイサム・ノグチや、流政之の作品でも、石の彫刻というものは、おおかた、何億年も地中で泥を被ったままの原石のもつ歴世の威厳に敬意をはらい、永遠との共鳴を表現するのが特徴的だと教わってきたが、この点で、中島修は違っている。」この引用文で中島ワールドを全て語り切れている訳ではありませんが、中島さんは超絶技巧によって超多面体作りを行っていたとしか言いようがありません。おまけに中島さんの石の超多面体が数多く置かれている工房に、自分の記憶では雛型はありませんでした。普通なら紙で面の角度などを割り出す数学的な作業があっていいはずなのに、それが見当たらないのです。いきなり原石に電動カッターを当てていったというのが中島流なのでしょうか。次の機会に中島さんの仕事に対する諸々なことを書いてみたいと思っています。

週末 再び陶彫制作

昨日、工房のスタッフたちが「発掘~座景~」のテーブル部分に砂マチエールを施してくれました。2週間に亘って木材加工をしてきた制作工程ですが、マチエールの硬化剤が乾くまで時間を要するので、今日から再び陶彫制作に入りました。今度は「発掘~宙景~」の方もどんどん進めていかなければなりません。「発掘~宙景~」の陶彫部品の成形や彫り込み加飾が終わった作品が、さらに乾燥も進んでいるので、今日はこれら陶彫部品の仕上げや化粧掛けを行いました。「発掘~座景~」はスタッフのおかげで随分進みましたが、「発掘~宙景~」は中断したままなので、これは制作工程として厳しいものがあるなぁと思っています。乾燥が進んだ陶彫部品の中には罅割れが絶望的なモノもあって作り直さなければならないと思っています。木材と違い、陶彫は乾燥や焼成で変化するので神経を使います。そこが面白いところであり、また状況によっては気分が落ちこむところでもあります。今日は2人の若いスタッフが自らの課題をやりに工房に来ていました。一人はインドネシア・バティックのワークショップの準備、もう一人は美大から頼まれた出前授業のパンフレットのデザインをやっていました。私は陶彫部品のヤスリがけで埃が立つため工房の奥の空間へ、彼女たちは窓際の作業台にパソコンを設置していました。今日も時間は瞬く間に過ぎていきました。彼女たちにとっても工房は使い勝手が良いらしく、今後も頻繁に現れるのではないかと思います。私も作品を手伝ってくれる子が傍にいてくれるので、大いに助かります。夕方、久しぶりに窯入れを行いました。今週は窯入れを2回予定していますが、2回目の仕上げ等準備が間に合うでしょうか。また夜に工房に通わなくてはならないかなぁと思っています。

週末 砂マチエール施行日

今日は「発掘~座景~」のテーブル4点に砂マチエールを施す作業をしました。テーブルにはそれぞれ変形した格子状の穴が刳り貫いてあって、それらに砂を貼っていくのは大変な作業なのです。工房によく出入りしている女性スタッフを3人呼んでいて、彼女たちの粘り強い仕事に期待していました。結果は期待通りの出来栄えで、3人のスタッフに心から感謝を申し上げました。砂も硬化剤も東京文房堂から取り寄せたもので、これを薄く厚板に貼っていくのです。ただし左官業者と異なるのは、砂を均一に貼るものではなく、微妙にニュアンスをつけていきます。3人のスタッフは全員アーティストで、日頃から工房で自らの作品を作っています。絵画的感覚が問われる表面処理ですが、彼女たちは難なくやってくれました。今日を砂マチエール施行日と決めて、今まで私はその準備に追われました。穴の刳り貫き作業は思ったより厳しく、今日までに4点出来るかどうか、内心ヒヤヒヤでした。制作工程には越えなければならない幾つかの壁があります。今日の作業はそのひとつでした。多少無理をして準備を進め、スタッフを集めているその日までに何とか間に合わせていくというのが、制作工程を効率よく進める秘訣です。明日を予備日にしてありましたが、今日全てが終わったので、明日スタッフにとっては自らの課題を行う制作日になります。工房を彼女たちが自由に使えるのは、私とのこうした関係があるためです。明日は私も久しぶりに陶彫制作をします。砂マチエールが完全に乾いて定着するまで約1週間かかります。テーブル4点はこのまま放置です。朝9時から夕方4時まで頑張ってくれたスタッフの皆さん、本当にお疲れさまでした。

「芸術の摂理」読み始める

「芸術の摂理」(柴辻政彦・米澤有恒著 淡交社)を読み始めました。副題に「不可視の『形』に迫る作家たち」とあります。この副題については読み進めていくうちにその意図するところがわかるのではないかと思います。書籍としては随分前に購入したもので、自宅の書棚で折口信夫著「死者の書」を探している時に発見したのでした。先日ネットから印刷した「死者の書」は紙を束ねた状態なので、持ち歩くことはせず、職場だけで読もうと決めました。携帯するのは本書にして、通勤の友にしたいと思っています。本書を購入した契機は、既に亡くなっていられる石彫家中島修さんの評論が収めてあったからです。中島さんには私が20代の頃滞在したオーストリアでお世話になりました。彼は私の師匠である池田宗弘先生の同期生で、既にヨーロッパでは有名な彫刻家になっていて、池田先生から紹介もしていただいていました。オーバーエスタライヒ州の片田舎の農家を改築した中島邸や工房が懐かしく思い出されます。大雪に見舞われた日に中島さんを訪ねていって、寒々とした工房で見た結晶のような幾何抽象の石彫。その手が切れるような鋭利な形態に、人間業とは思えない神がかった世界を見たのは私だけでしょうか。コンピューター万能の時代にアナログな手彫りで、複雑な面を捉えた超多面体を追い求めていく中島さんは、日本でもっと評価されてもいい彫刻家だと私は思っています。中島さんは気さくな人柄で、帰国中に私の個展のオープニングにふらりとギャラリーせいほうに現れました。同じギャラリーで中島さんも個展をされました。池田宗弘、中島修という双頭の先輩の大きすぎる背中を見て、私は必死に喘いでいるのです。そんな中島ワールドの貴重な評論をじっくり味わいたいと思います。

いまさら退職祝い…

昨年3月末をもって横浜市公務員を退職した私は、再任用として退職前と変わらぬ立場や職場で仕事に精を出しています。ほとんど退職した実感がない私ですが、永年勤続退職者旅行引換券があって、引換期間が迫っていると家内が言ってきました。これを使って退職祝いをしようと言うのです。どこか温泉でも行って美味しいものを食べて…と家内は新聞に入ってくる折込チラシを見ていました。私は職場では解決しなければならない課題を抱え、創作活動では今年の夏に企画していただいている個展に向けて身を削る思いをしているので、自分の退職祝いなどまるで頭になく、温泉に行くなら工房で制作に没頭していたいと考えていました。でも、創作活動に活を入れるためなら一泊くらいの旅行をしてもいいんじゃないかと思いなおし、再訪するならどこの美術館がいいか考えました。結果は自分でも分かっていて、それは香川県高松市牟礼にある「イサム・ノグチ庭園美術館」なのです。自分の美術館ランキングでは断然1位です。もちろん世界にはルーヴル美術館やバチカン美術館等、所蔵作品の凄さでは比類のない美術館が数多くあります。当然それら綺羅星の如く輝く美術館群と比較出来ませんが、自分の創造世界を広げ、精神性を植えつけてくれた巡礼の地が「イサム・ノグチ庭園美術館」でした。温泉ではなくビジネスホテルで結構、ともかく牟礼に行きたいと家内に言ったら、仕方ないという顔をして来月後半の週末の飛行機を予約してきました。俄かにざわめきだす自分の心に、随分前に「イサム・ノグチ庭園美術館」を訪ねた記憶を頼りに、今では多少キャリアが出来た自分の彫刻家人生をそこで振り返ってみようと思っています。

猫の恋謳う句

今日の朝日新聞の天声人語に猫に関する話題が掲載されていました。猫をテーマにした記事をつい読んでしまうのは、我が家で数年前から猫を飼っているせいです。猫のトラ吉はオスですが、小さかった頃に去勢手術をしています。春になると交尾を求めて奇声を発することは、よくわかっていたので早めの措置をしたのでした。それでもトラ吉は暖かくなるとアクティヴになります。1階から2階の出窓まで一気に突進して駆け上がってきます。自由気儘な姿はこういうことをいうのだと私たちに示しているようで、生産性のない刹那な生活を蔑むと同時に羨ましくもあります。天声人語の一文に「発情のスイッチが入るとネコは本能の命じるまま。人間なら理性で抑える一線を越えて行ってしまう」とあります。猫は恋も自由気儘です。「ネコの恋には古来、ヒトの詩情を湧きたたせる何か特別な魅力があるようだ」と続き、最後に掲載されていた句が気になりました。「恋猫や世界を敵にまはしても」(大木あまり作)これはどういう句でしょうか。解説がないので、敢えて自分の思うままに書けば、猫の奔放さと無責任さが目立つ愉快な一句だろうと思いました。猫を飼っていると、自分が置かれている管理社会が嫌になることがあります。猫のように生きたいと思っても虚しくなることがわかっています。恋はそれら常識の枠を取っ払い、理性を狂わせる魔性があります。今日は猫の日だそうで、猫に託けて魔性的な恋慕を思うこともいいかなぁと思いました。

「死者の書」について

国文学者とも民俗学者とも言える立場で存在を示した折口信夫は、私が大学生だった頃に、何かの契機で名を知り、文庫本「死者の書」を購入したのでした。古代文の暗号のような文体に解釈が覚束ず、殺された皇子が山の頂きにある墓所から蘇る物語かなぁと荒筋を辿りつつ、面白そうだけど読めないジレンマに陥った書籍でした。ただし、本書は全体に亘って品位があり、また深遠なる思いが交差しているのだけは当時から直感していました。先日まで読んでいた「現な像」(杉本博司著 新潮社)に「死者の書」が登場したので、再読したい思いに駆られました。自宅を探しても見つからないので、再購入を考えていた矢先、ネットに全文が掲載されているのを知りました。早速印刷をして読み始めましたが、何十年経とうが難易度は変わらず、物語の冒頭部分で皇子が死者となって、生前の思いを次第に取り戻し、姉の面影を追う場面がありました。さて、これからどんな展開になっていくのか、印刷した61頁に及ぶ紙はクリップ留めして、仕事の合間に読んでいこうと思います。ついでに解説も印刷しました。私がよく利用させていただくのは「松岡正剛の千夜千冊」です。そこにあった一文に「この『死者の書』の叙述の仕方だが、古代の魂を知る唯一の縁(よすが)ではないか」という箇所がありました。著者が古代人と同化して紡いだ物語というわけです。今度こそ途中で放り出さないで、頑張って読んでみたいと思っています。

「現な像」読後感

「現な像」(杉本博司著 新潮社)を読み終えました。著者杉本博司氏は、私が以前から注目している現代美術作家ですが、文筆家としても優れていると思いました。本書は「新潮」に連載した随筆をまとめたもので、杉本氏は古美術商を営み、写真家としても現代の側面を切り取る鋭い表現力があって、展覧会があれば必ず見に行く作家の一人です。「現な像」は著者本人の生い立ちや歴史的な興味関心事にも筆が冴え、私が苦手とする第二次大戦後の日米両国に纏わることにも触れていました。現代を見極めるために、古代から近現代史に至るさまざまな事象に論点を与えることは、美術という表現を突き詰めていく上で必要なことだろうと思います。もはや現代社会は美術だけが至上主義的に突出しているものではなく、縦横断分野の関連の中で発言・発表しうるものだからです。その中で私は「射干玉の闇」の章にあった一文に目が留まりました。「折口信夫が語りかける死者の声。大津皇子が蘇る、はざかいの、絶え絶えの息。その息が発するいにしえ人の言霊。私は折口信夫が今という世に生きながらにして、その全身全霊が古代人に生まれ変わっていることを、この小説を読む度に戦きをもって実感する。~略~私は現代美術の作家として、自我の発露として作品を作りえるのではない。私の自我は、長い民族の歴史の果てにたどり着いたこの地で、見失ってしまった遠い祖先の地を垣間みるための、盲人の白い杖にすぎない。」この一文で思い出したことがありました。折口信夫著「死者の書」の文庫本が自宅のどこかにあったはずなのですが、見つかりません。学生時代に読もうと思って途中放棄した書籍でしたが、この機会に再読しようと思ったのでした。一冊の書籍から次の書籍へ、私の読書癖はこうして繋がってきたように思います。

週末 刳り貫き切断の一日

「発掘~座景~」は4点のテーブルを繋げて上に陶彫部品を置く計画です。陶彫部品が置かれる場所以外は変形した格子状の穴をあける予定で、この下書きは既に終わっています。変形した格子の刳り貫き切断の作業は2週目に入り、今日は3点目が終了しました。来週末はそこに砂マチエールを硬化剤で貼り付けていく作業を予定しています。最後の4点目はウィークディの夜間に刳り貫くしかないかなぁと思っています。陶彫制作は暫し休んでいて、工房は木屑だらけになっています。このところ陶彫とはアプローチが異なる木材の加工に明け暮れているため、多素材を併用する大変さを実感しています。ただし、木材は陶彫のように乾燥や焼成によって変形したり、変容したりすることがないため、作ったまま放置できます。罅割れを心配することもありません。丸一日作業すれば作業したなりの結果です。テーブルになる木材が陶彫との関わりによってどんな効果を生み出すのか、そこは自分のイメージ通りになるのか否かが問われるところですが、長く制作をやっているキャリアから考えれば、ほとんど想像通りになるのではないかと思っています。木材との付き合いは今後「発掘~座景~」のテーブルに接合する柱になります。先端を細くするため木彫を行います。それから柱の四方から陶板を貼り付けて柱陶にしていくのです。まだまだ先が読めない状況ですが、頑張ってひとつずつハードルを越えていくしかありません。今が頑張り時だろうと思います。

週末 研修終えて工房へ

昼ごろ、管理職研修から帰ってきました。東京の築地市場を散策し、家内に頼まれていたおでんだねを仕入れて来ました。久しぶりに訪れた築地市場は相変わらず混雑していて、場内にある食堂はどこも人が並んでいて入ることが出来ず、結局場外の開店したばかりの食堂に入りました。朝から「特上生うに定食」を食べてしまって、一日を通して胃に応えました。昼から工房に行って「発掘~座景~」のテーブル台座の刳り貫き切断をやっていました。4点のうち2点が終わりました。残り半分です。電動工具を使っているうちは夢中で作業をしていますが、朝早くから築地市場を歩き回っていたせいか、今日はとても疲れました。そうでなくても土曜日は疲労が溜まっているのです。来週末は若いスタッフを数人呼んで砂マチエールの作業をやる予定なので、それまでに4点全ての刳り貫き切断を終わらせていなければならず、今が一番苦しい時期なのです。足腰が痛んで屈むことが苦しいと感じました。夕方になって自宅に顔馴染みの税理士が来ました。母が所有している不動産の税金申告を作るため、私が母からその仕事を任されているのです。家内が書類一式を保管してくれているおかげで、毎年速やかに作業が終わります。私たちもこうしたことに慣れてきたなぁと思います。私の彫刻が売れて税理士にお願いできるようになればいいなぁと毎年思います。テーブル台座の刳り貫き切断は明日も続行です。

管理職の宿泊研修

勤務時間終了後に東京の築地に向かいました。今日から明日まで横浜市ではなく区単位による管理職の宿泊研修を計画していました。同じ職種の管理職が集まって打ち解けあう機会は、とても大切と私は考えています。私たちはそれぞれの職場では孤独です。最終判断をしたり、その責任を感じたりするのは、この立場になってみないとわからないと思っています。時には同じ管理職同士が夜を徹して話し合うこともいいのではないか、日頃の悩みを共有することで元気がもらえるのです。築地を選んだのは、美味しい海鮮料理が食べたかったからです。築地市場は夜が早いので、市場散策は明朝にしようと決めていました。ところで築地市場は今後どうなるのでしょうか。豊洲に移転できるのでしょうか。横浜からなかなか築地市場まで来ることができないので、今日が見納めかもしれないと思っていたのでしたが、東京都の判断はまだ先行き不透明といったところでしょうか。宿泊したホテルはアパホテルでした。部屋に置いてある書籍が問題となって近隣の国から拒否反応があったホテルです。きっと宿泊研修を決めた一週間前でも空室が見つかったのはこんな理由があったのかもしれません。深夜、ホテルの部屋でその書籍を捲ってみました。成程、ここがその箇所かと思いつつ、歴史の捉えと事実はどうだったのかを思い描いてみました。日本に住む日本人として、私は内容に納得していますが、国が違うと見方はまるで異なるのは、若い頃西欧に数年滞在した経験から十分理解しています。まして戦争犯罪に関わることなら尚更でしょう。それも研修の一環と思いながら、築地の夜を楽しみました。

アール・ブリュットについて

アール・ブリュット(生の芸術)は、障害を持つ人が取り組んだ造形美術のことを言います。英訳では「アウトサイダー・アート」と称し、美術の専門教育を受けていない独習者だったり、民族芸術も網羅しています。今日職場に届いた読売新聞の文化欄にスイス人芸術家アドルフ・ヴェルフリについての記事が掲載されていたので注目しました。記事によるとヴェルフリは精神科病院の狭い部屋で制作することで命を繋いでいたという一文があり、障害を持ったが故に精神性が研ぎ澄まされていたとも思えます。障害を持つ人は全体を把握したり、視野を広くもつことが難しい傾向があります。その分、自己を掘り下げるパワーは常軌を逸していて、その力を芸術活動に注いだならば、凄い世界を創出して見せます。私は常々精神バランスを欠いた時に生みだされる緊張した世界に、高い芸術性を見ることができると思っています。私自身もデビュー作である「発掘~鳥瞰~」を作っている時は、食欲を失い、体重も落ち、何かに突き動かされる感覚を持ちました。幸いその時は管理職ではなく、公務員として末端の仕事に携わっていました。昼間の仕事も何とかやれていたのではないかと振り返っています。場面によっては自閉傾向も自分にはあるのではないかと疑いつつ、芸術家と障害者は紙一重ではないかと思うことも暫しあります。アール・ブリュット(生の芸術)は不思議なほど私の心に染み込んでくるのです。

記憶の無意識操作

記憶の曖昧さを認識することは誰にもあることだと思います。芸術に興味関心のある自分は、嘗て観た美術作品や既読した書籍の印象が、時間経過と共に甚だしく違ってしまったり、自分の中で誇張された部分があって、記憶を疑う場面もありました。記憶のメカニズムがどうなっているのか調べてみたい欲求にも駆られます。初めて接した事象に対して表面的な印象しかなかった場合には、二度目の接見でさらに深い洞察が出来て、記憶の印象を深化更新するならばそこは納得できます。まるで異なる印象を記憶している場合は、こんなはずではなかったと自分が俄に信じられない事態に陥ります。記憶は自分が願うように意図して操作する場合と、無意識な操作があって、私が憤りを感じるのは当然後者です。また芸術作品の記憶には複雑な心情も絡みます。若い頃に出会った現代美術の作品に放射するパワーを感じていたことが、年齢を重ねた現在では何も感じずに、寧ろ表現の限界を見取ってしまうことが多々あります。自分の創作活動上の成長なのか、芸術思考の価値観が変わったのか、そこは定かではありませんが、記憶が自分の歩みを確認づける材料になっていることは確かです。記憶を自己都合で加工してしまった場合は、事実関係を歪ませることになりかねません。これは嘘偽りではないが、こういう解釈でいこうと決めて、幾度も繰り返すうちに記憶更新が行われてしまうのです。自分一人で罪のない記憶更新をしているなら問題はありませんが、国家でやっているとなると大きな国際問題に発展していきます。現在世間を賑わしている隣国との問題もそこにあるように思えます。

日常と創作のバランス

現代美術はひと頃前と比べると社会生活に立脚している表現が増えてきました。震災以降、美術は何をすべきなのか、作家が自問自答している場面もありますが、美術作品が村おこしや単なるイベントに使われてしまう可能性も否めません。芸術的価値を再確認する必要もあると考えるのは私だけでしょうか。私は画室に籠もって芸術至上主義を貫くことを言っているのではなく、何でもありの表現活動を見ていると、芸術の判断基準が広域になりすぎて揺らいでしまうのではないかと内心恐れているのです。私は週末とウィークディの夜に陶彫制作をやっていますが、浮世離れした創作活動であることに間違いはなく、自作は社会貢献度が少ない方に入るだろうと思っています。昼間の仕事はその逆で、私のウィークディの勤務は社会との関わりで成り立っているようなものなのです。芸術に社会性を多く求めない私の作品は、二足の草鞋生活の精神的バランスをとるものとして個人的な趣向で生みだされてきたと認識しています。職場で直面する課題の数々を作品化し、発表することも出来ないわけではありませんが、自分自身を取り戻せる時間には、自由な発想で作品を作りたいと思っているのです。もちろん現代を生きる私は、職場でも少子高齢化の影響を受け、それでも緑地が切り崩され都市化する周囲を眺めていて、人口減少の危惧を抱かないことはありません。そうした危機感が作品作りの発想の根幹にあるのではないかと思うところですが、作品の説明要素として表面化していないとも感じています。現状は日常と創作のバランスを保ちながら、双方がお互いを補うカタチになっているというのが実感です。

創作意欲について

江戸時代の絵師葛飾北斎や長谷川等伯が晩年になっても創作意欲が衰えず、創作活動に励んでいたことを羨ましく思っています。私も60歳になっても創作活動の衰えはありません。寧ろ現在の方が充実しているように思えるのです。若い頃は幾度となく創作活動を諦めかけた時がありました。日本の学校で学んでいた人体塑造に意義を見出さなくなった時がそれでした。ただし、創作活動を止めようとは思いませんでした。自分が創作したい世界を探していた時期だったと思います。自分を異文化の中に押し込んで、情報がないところで自分の思いが熟成するまで待っていたんだなぁと今では振り返っていますが、当時は居心地の悪い外国で落ち込むこともありました。次に海外で創作のヒントを得て、意気揚々と帰国した時に、創作活動そのものが危ぶまれる事態になりました。30歳で公務員になり、両親を安心させたのも束の間、残業続きの仕事で創作活動に気が回らなくなったというのが本音です。創作活動が出来る出来ないというのは私だけの問題で、他者にとってはどうでもいいことでした。社会的ニーズがないのを敢えてやっていくのは自分との闘いで、そこから内なる世界がスタートしています。人はどう生きるべきか、実家は宗教が希薄だったため、私は哲学に頼りました。可能なことから始めようと思い立ち、作品制作の場所を探しました。陶彫の環境が整わないため、まず絵画制作から一歩を踏み出しました。哲学的思索と造形制作との両輪で自分を保ち、公務員と芸術家の二足の草鞋生活を軌道に乗せました。あれから30年以上経ち、自分の工房を持ち、毎年企画展を銀座のギャラリーでやらせていただいています。あと何年私は創作活動が出来るでしょうか。意欲は続くのでしょうか。これは私自身の問題です。私の創作開始は同期の仲間からすれば遅かったと思っています。その分長く長くやっていきたいと思っています。自分は諦めが悪く、拘りが強いので、そこだけは江戸時代の先人たちに負けないのではないかと思っているところです。